外伝〜壁際のシンデレラ〜

 外は肌寒い秋の曇天だが、館のホールには集められた招待客の人熱ひといきれが充満していた。

 古風なトランプ遊びホイストに興じる男女、占いに夢中になっている娘達、噛みタバコをやりつつ政治や金融の話を囁いている中高年の男達の姿があちこちにある。

 誰もが裕福な、首都ウィーンの上流階層のである事は疑いない。ドレスや燕尾服で着飾り、腰を絞り、少しでも背丈が高く見えるよう反り返ってホールを闊歩している。

 私は壁際に設けられた自分の席から曖昧模糊あいまいもことした表情を作り、只管ひたすらその光景を眺めていた。

(時間潰しなんて簡単。女流作家になったものと思えば…)

 頭の内で文章を組み立てる。主人公は、目にも鮮やかな純白の絹に銀糸で薔薇を刺繍したドレスをまとうシャム猫人の少女。黒の巻毛を古式に結いあげた多少幼げのある容貌ようぼう。理屈っぽい眉の下の豪奢ごうしゃ睫毛まつげは、大きな青い目に内気そうなかげを落としている。

 素直で臆病な性格を両親が期待を込めてね上げ、世間の常識という型でくり抜いた存在。十六歳になったばかりの頼りない娘。

 それが私。ルート=ネメット。

 安直な想像は母の声で破られた。

「動物園に連れて来られた子供ではないのよ、ルート。そんなにお客様を凝視しないで。物欲しげに思われたら如何どうするの?」

 普段から何くれとなく家族の世話を焼き、些細な不幸も恐れて心配する母だ。私と同じシャム猫人だが、人好きのするふくよかな顔には眉間に深々と皺が刻まれてある。私は少しでも安心させたくて、なるたけおっとりとこたえた。

「はい母様。できるだけうつむいておりますね。を続けるのは得意ですわ」

莫迦ばかね、つらいならそうおっしゃい。幾ら大事な行事でも、貴女にいやな想い出を作るくらいなら早々に切り上げますからね。大体私は反対していたんですよ、それを父様が当世のならいだと無理に…」

 いけない、逆効果だ。私はしとやかにかぶりを振る。

「心配なさらないで。むしろどなたも話しかけて来ない方が楽ちんです。薄目を開けて瞑想でもしていれば良いのですわ」

 これも失敗。不安を取り除くどころか母の皺が一層きつくなってしまった。

「普段の行状おこないは何も間違っていないのだもの。かみさまはきっとお前を助けて下さるわ。今に素敵な殿方から舞踏ダンスのお誘いがきます。ええ屹度きっと…」

 それまで席を外す事、これ相成あいならぬ…の覚悟らしい。

(この硬い椅子にかれこれ三時間は腰掛けてるのよ?母様、お尻が痛くなっちゃわないかしら)

 母の心境をおもんばかるといたたまれない。本音では羞恥のあまり手にした扇子を折ってしまいたいだろうに。それをひとえに私の為に耐えている。

(各方面に伝手つてを頼ってセッティングした成人披露デビュタントも、こうなるとただ食宴ホームパーティーね。しかもいびつときたものだわ)

 ネメット家は代々続く織物商。最近では宝飾品アクセサリーも取扱って、経済界に頭角を表している。

 その一人娘である私の社交界への御披露目。婚礼適齢期ですよ、気品も学もそれなりにありますよ、奥方にぴったり。持ってけドロボー!…の晴れ舞台だのに。

 観察したところ、客の男達に主役である私を舞踏に誘おうという気配はさらさらない。あまつさえ遠巻きになり、視線を交わさぬよう注意しているときたものだ。

帝都ウィーン指折ゆびおりの資産家である点をもってしても──血統の宿命には逆らえないわけね)

 私は微笑を崩さず、我が一家のかたを示す六枝七火皿の燭台メノーラーを据えたテーブルに片肘を載せる。

 暫くこうしていよう。頬杖をつきたいけれど、流石に叱られるかしら。

 この日のために新調したドレスの裾を整え目を伏せ、スカートのひだの折目の数を数える。

 雑誌や噂で得た知識だと、普通はこの場デビュタントで独身男性から舞踏に誘われ、乙女は頬を染めてそれに応じるものらしい。こんな風に並み居る参加者が寄りつかないというのは異常事態といえる。

(仕方ないか。だって我が家は…)

「なんと可愛らしいお嬢さんフロイラインだ!僭越せんえつだが、この私に舞踏に誘う許しを頂けないか?」

 地獄の底まで響きそうな低音バスが唐突に降ってきた。テーブルに置いてあるグラスがビリビリ震えて滑る。

 パッと顔を上げれば、いつの間にか巨大なビヤ樽がそびえていた。

 いな。見間違えたがそれはよく肥えた偉丈夫だった。立派な太鼓腹に生えた逞しい右手を私に向かい恭しく差し出している。

「フェルダーと申します。今宵はお招き頂き僥倖ぎょうこうの至り。つきましては一曲、お相手願っても?」

 赤茶けた毛並み。アライグマ人の巨漢だ。歳は四十がらみだが、声の張りはとても精力的エネルギッシュだ。

 古代の将軍の如く立派な面相。薄く無骨な眉、睨まれたら悪魔もひるみそうな三白眼。しかし瞳の色は、照明のあわいに濃淡が繊細に変化する孔雀石マラカイトみどり

 ニッと笑むと八重歯が溢れ、低めの鼻も相まって子供っぽい雰囲気になる。

 私は唖然としている母の袖を引いた。

「あ、え──ええ!勿論ですわ」

 そらご覧。しっかりおやんなさい!…という目配せを受け、私は彼の手を取りしずしずと立ち上がった。

 フェルダーと名乗る中年の紳士は、私を片隅で鍵盤を叩いている鼠人のピアニストの許へといざなう。

 私達の姿を認めた鼠人が気を利かせてワルツを奏で始めたが、彼はまなじりも厳しく手で制する。

「淑女貴顕を転寝うたたねさせるたくらみか?それとも怠けているのか?もっと気合きあいのあるものけ。そう、例えば…タンゴなんか如何どうだ」

「勘弁してくださいよ旦那、あたしゃぁしがない流しのピアニストだ。あんなもん演奏やった日にゃあ、三日は指が使えなくなりまさぁ」

 彼は鼠人の首根っこをひったくると顔を寄せ、悪鬼デーモンが如き表情でドスを効かせた。

「隠しているが貴様、アルゼンチンのだろう。いつぞや繁華街の居酒屋ホイリゲで得意げに披露していたじゃないか。できんとは言わさんぞ」

 金品を巻き上げる破落戸ごろつきまがいの彼の勢い。哀れな鼠人は縮み上がり、すぐさま激しいリズムの異国の旋律を奏で始める。

 唐突に湧き上がった大音量。近くで成行なりゆきに好奇の眼差しを向けていた客も、遠くで談笑していた客も一斉にこちらに集中する。

「あの、私、こんな曲を踊った事はありません」

「案ぜられるな、可愛いお嬢さん。頭の中を空虚からっぽにして私にいてきなさい。なぁに心配御無用!この足は──」

 彼は思いもよらぬ高さへヒョイと膝を掲げ、黒光りする高級そうな靴の甲を叩く。

「──貴女程度の華奢きゃしゃヒールでは踏み抜けやしません」

 威容に似合わぬおどけた仕草に驚いている間に抱き寄せられた。太い胴体に私をぴたりとくっつけて支え、あれよあれよという間にステップを踏み、彼の導引リードによって情熱的な舞踏に巻き取られていく。

 はじめはおおきな手を取ってつまずかぬようタイミングを合わせるので精一杯。「そこで仰け反って」とか「右足で天井を蹴り付けて」とか、要所で囁かれる指示アドヴァイスの通りにしていると、段々と体が曲に乗ってきて…

 次第に私は、自分でもこんな動きが出来たのかと信じ難い素早さで、伸びやかに手脚を動かして未知の舞踏を舞っていた。

 そして気付く──この男、とんでもないダンス巧者ごうしゃだ!

 タンゴという異郷の舞踏にほぼ初心者の私をなんなくリードし、ホール上をいとも容易たやすげに踊り渡っていく。曲も振付ふりつけもともすれば下卑たものと取られかねない激しさだが、彼には優雅さと女側パートナーを優先する気遣いが随所に溢れていて…

(なんて軽やかなの?まるで魔法だわ!)

 爽快な気分。私の事を壁掛け飾りタペストリーよろしく無視を決め込んでいた男達。それがどうだろう、間抜けに開口して見入っている──いないる。

 胸を反らし、スカートが際どくなるくらい片足をげ、スタッカートと共に顔の向きを変え、キメる。

「スピードを上げよう。いてこられるかな?」

 三白眼が茶目っ気たっぷりに挑んでくる。私は頷きを返す。

「目にもの見せて差しあげますわ」

 彼が私を、ルート=ネメットを宣伝アピールする。自信満々の顔で、息一つ乱さずに。まるで無言の内に声高に叫んでいるようだ。

…このた腰。

たおやかな肩の曲線。

…女らしく慎ましく、尚且つ魅力的な胸の膨らみ。これを見て諸君は何も感じないのか?

 最初は胡散臭さしか感じていなかった彼の強引なやり方に、私はすっかりいた。

 ふと視線をずらすと母が遠くで手を揉みしだいている。いかにも優柔で小心なひと。ハラハラ顔が可笑しくて、内心こっそり吹き出した。

 曲が終わり、彼のエスコートで席に戻った。額に汗の粒が浮く程踊って久々に気分が晴れた。

 その後、年若い青年達が引きも切らず私と踊りたいと申し出てきた。

 宴がはね、私のテーブルには貰った招待状が小山を作っていた。生憎あいにく招待状を持ち合わせなかった客からもスケジュールの問合せが来たらしく、母は革表紙の手帳を埋めた氏名と日時の書付を眺めてほくほくしていた。

「大金星よルート、これだけ多くの殿方の眼に留まって!宴を催した甲斐があったわね。そらご覧、大商人からお医者…こちらは陸軍の少佐様からよ」

「それより一番最初に踊ったかたは?フェルダーさん…からのお誘いは?無いのですか?」

 彼はいつの間にか会場から姿を消していた。報われない乙女シンデレラをお姫様に変えた御伽話の魔法使いのように。

 あのひとに礼を言いたい。

 沢山の客と踊った。中には貴公子然とした輝かしい青年も居た。けれど私の胸の中に刻み込まれたのはあの、くせのある中年の紳士だけ…

「あんな年嵩としかさの殿方⁉︎お前も物好きねえ。礼などする必要はありません。向こうだって若い娘と踊ってみたかっただけの酔狂でしょうよ」

(違うわ母様。あのかたは困り果てていた私達を救ったのよ。それも、恩の押し付けにならないやり方で!)

 …などと言えるわけもない。俯いてしおれる私に、一寸ちょっと困った様子で母は付け加えた。

「他の殿方から声をかけられるきっかけを下さったのは確かね。お前がほだされるのもわかるわ。でもあの方は…私達とはなのよ」

 母が告げた彼のフルネームで、私はその意味を悟った。

 それは確かにこの帝国にあって厳然たる不文律、とくに私達のような家族にとっては生きていく上で忘れられぬ摂理そのものだった…

 一月ひとつき後、私宛わたしあてに一通の封書が届いた。差出人の名前は誰あろうフェルダーで、中には一枚のチケットが同封されてあった。

 私は既に何回か他家の宴に参じ、お見合いめいたものを経験していた。しかしどんなに素敵な縁談でも心はまるで踊らなかった。

 違う。のだ。

 あの夜別れてからというもの、日を置くごとに胸の奥が苦しくなる。彼の赤茶の毛皮と迫力ある表情。陽気で、ときに凄みのある物腰。

 自信と雄々しさの詰まった冒険心に輝く孔雀石の双眸そうぼうが、ベッドでやすむ時も、食卓についてスープを飲む時も、教会堂で房付きのスカーフを被り祈る時も頭から離れない。原稿用紙に文字を書き付ける代わりに木炭でデッサンを描いてしまったように、私の心は彼でいっぱいになっていた。彼を想えば他の男性など路傍ろぼうの石ころにしか感じない程だ。

 あの数分間で恋に落ちたなんて、自分でもどうかしていると思うけれど…

(ダメよルート。彼の名前・・を考えて?自分の想いを打ち明けるのが当人にとって迷惑になる事もあると知っているでしょう?)

 初恋くらいは私だって子供時代に経験済みだ。あれはそう、父の顧客の息子だった。ある年の真冬、本棚に隠していた幼い恋をやり取りした手紙を母が発見みつけ──

 罰として閉じ込められた屋根裏部屋。床の冷たさと埃くささを思い出す。塔に閉じ込められたお姫様のつもりになっていた私は、窓から丸一日通りを見下ろしていた。

(お祭りに行くの。一緒に焼き栗を食べるって約束したわ。早く連れ出しに来てくれないかな?)

 次の日。私が恋していた男の子は別の女の子と仲良く手を繋ぎ、環状道路リングシュトラーセの方角へスキップしていった。彼の頬のあかさは寒さの所為せいだと思いたかった…

 私は決意した。

 券に印字された日の夕刻。ヴェールを被ると母にも内緒で家を抜け出し一路、ウィーン国立歌劇場へと向かう。

 この胸にわだかまる想いに決着をつけなければ。どんな結末を迎えようとも、そうしなければ私はこの先一生いっしょう後悔し続けるだろうという焦燥があった。──まるで破滅が来る予想をしていながらも断崖絶壁に向かって突き進むイカロスのような気分。

 彼が寄越したのは演劇オペラの券、それも劇団所有のボックス席だった。演目は、『マクベス』。

 緞帳どんちょうが上がる。冒頭の魔女の場面シーンに続き彼が現れた。

 勇壮豪胆な武将が魔性からの誘惑に負け、王を弑逆しいぎゃくし玉座を奪う。次第に安寧と眠りを、愛する妻の正気を、やがては執着した王位も命も失う物語。

 人気の公演であるらしく、新聞で顔写真を見た事のある女優や俳優がわんさと出演ていた。その中で主役を張る彼の歌声は誰よりも朗々として重厚、マクベスという役のつよさとはかなさを真に迫って表現していた。分類的には悪漢物ピカレスクなのだろうが、終盤の頃には恐ろしい暴虐の男が吐く哀切なる台詞に私は涙していた。

 最後迄観終わってから、楽屋に彼を訪ねた。

「休憩中に来てれぬゆえ、挨拶あいさつなく帰られたかと危惧きぐしておりましたぞ!」

 余計な言葉は要らなかった。血糊も生々しい衣装を着たままのフェルダーは、大きく腕を広げて迎えてくれた。

「そんなまさか。…でも私が居ることを誰からお聞きに?」

「なぁに。舞台からは客席がよく見渡せるのです。貴女の野菊のような素のかんばせは、白粉おしろいだらけの奥方マダムれんの中でかえって光り輝くようでした」

 生傷なまきず化粧メイクをした顔でウインクする彼の胸に飛び込んでしまうのをこらえられたのは、先客がそこに居たから。

「兄上、お客様がいらしたなら私はここで失礼しましょうか?」

「いや、お前も居ろ。紹介しよう、これは私の弟のマクシミリアンです」 

 先んじて彼と談笑していたのは、彼と同じアライグマ人だった。弟だというがふくよかな体格シルエットと翠の瞳以外は兄と似ず、顔立ちは天使のように愛くるしく声調トーンもまだ少年期の高さだった。

 身長は私の胸くらい。丸みのある眉の片方に一端いっぱし片眼鏡モノクルをかけ、吊ズボンに上等の上着で身形みなりを整えた姿はさんそのもの。

「お初にお目にかかります、お嬢さん。マクシミリアン=フォン=フェルダーです」

 歳下と思った相手からのお嬢さん呼びに微笑み、腰を屈めお辞儀を返した。

「初めまして、ルート=ネメットです」

「あの、兄…ヴィルヘルムのファンのかたで?」

 いな、私の友人さ──彼にそう呼ばれて私の胸がチクリと痛んだ。

 それを隠し、彼に向かいわざと明るく尋ねる。

「本当に可愛いらしい弟さんですこと。もう寄宿舎ギムナジウムに上がられたのかしら?それともだ?」

 一瞬、沈黙が楽屋に流れた。

「…?あの、どうかされまして…?」

 戸惑う私に彼は静かに告げた。

これはとうに成人しております」

「えっ──」

 喉を詰めた私にマクシミリアンは両手を振って苦笑する。

「いいのです。歳下に見られるのは日常茶飯事、皆この幼稚な外見に惑わされます。お気になさらず!」

 自分を抑えた気遣いと優しい笑みは、何故か一層私の心臓を深く切りつけた。

「ああ、如何どうしましょう。私──!」

 涙袋が痛み、鼻筋に温かいものが伝わる。慌てて手袋の甲で拭った。傷付けた相手の前で泣くなんて不覚にも程がある!

(泣きたいのはきっと、かれの方なのに…)

「ど、どうか本当にお気になさらないで。私の身長これは病気ではなくてですね、先祖かみおやの遺伝か何かなのです。体は至って元気!健康!ですよ?」

「…優しい方。非礼を責めないのね」

「あ、兄上!私はちょっと用事を思い出しました。失礼致しますね」

 てっとっと…軽やかにはずむ足音を残して、小兵の青年は去った。

 残された私に彼は穏やかに問う。

「貴女は何に対して泣かれたのですか」

 私にも判然としない。えて言葉にすれば、これ迄に何回も同じように傷つけられてきたに違いないかれの、即座に相手をいたわる事の出来る優しさに心打たれたのだ。

 ──…そして恐らく、私の内面にも近いきずあとがある所為せい

 彼はす、と立ち上がった。

「私が見るに貴女の精神には重大な停滞がある。ここは私を信じて一つ、療法を試してみないかね?」

「療法…?」

 彼は私に目を閉じて身を委ねるよう言った。指示に従うとやおら横抱きに抱えられ、楽屋から連れ出された。

何処どこへ?」

「シッ、目をつぶって。良いと言う迄そのままで」

 彼の体からワインと香料コロンの混じった雄の体臭が立ち昇ってきて鼻腔びくうをくすぐる。乙女の危機かもしれない状況なのに、私の鼓動は落ち着いていた。

 階段を上がり廊下を抜けた。反響する靴音からして絨毯の敷き詰められた観客用の通路ではないらしい。また階段、そして扉をくぐる…

 そっと降ろされた。薄い扉がきしんで閉じる音がして、足元からひんやりした外風が吹き上げてきた。

「目を開けたまえ」

 言われた通りにした。尖塔のような足場の狭い部屋だ。開いたガラス戸の向こうには断崖絶壁と化した夜が広がっている…

「ひっ⁉︎」

 闇に風の逆巻さかまきうなっている。一歩でも踏み出せばそこから先は…落下だ。

「フェルダーさん!何をなさるの⁉︎」

 恐怖にすくむ私の肩を優しく保持し、彼が言う。 

「下ばかり俯かず顔を上げたまえ。出来るだけ遠くを見るのだ」

 彼を信じ、のりで接着したように固く閉じたまぶたをジリジリと押し拡げる。

「うわぁ…!」

 落ち着いて見晴らした窓の外には、どこまでも続く首都ウィーンの街並みがあった。

 見当たる限りの建物ビルディングの窓灯りは金粒きんのよう。宵闇の下方に散りばめられた街灯は掛け値なし、お世辞抜きに宝石のよう。

「ここは関係者でも一部しか知らない私のでね。──がしかし、景色を見せるだけが目的ではない」

 彼は私の手を取り、夜空と首都ウィーンの夜景に向かってポーズをつける。

「ここは劇場。露台バルコンは舞台。さあ、思いのたけを吐き出すがいい!」

 そんな事とても出来ない。いくら高い場所でも大声で叫べば地上にまで届くかも知れないし、そうなればどんな悪評を招くか…

 でも、こうまで親身にしてくれた彼を裏切る方がもっと怖い。私は両の拳を握りしめた。

「わ、私は…」

「うむ、君は?」

「ど、どうしてじ、自由にしてはいけないの?」

「それから?」

「──周りのひとの顔色ばかり窺うのは…もう厭なの」

「そうだ、その調子!」

「私だって…私だってこれまで色々な我慢をしてきたわ」

「まだまだ!そんなものかね君の苦しみは!もっと腹から声を出すのだ!」

 もう躊躇ちゅうちょは消え去った。私は先刻せんこく目にした女優の演技に感化されたように、胸をあっしてきたおりを吐き出していた。

 私の意見を押し潰すな。

 勝手に婿むこを選ぶな。

 親だからって娘の幸福しあわせを決めつけるな。

「息を潜めて大人しく人生を過ごせ?そんなのかごの鳥以下じゃないの。好きな相手くらい自分で選ぶわ」

 子供の頃から誰も彼も色眼鏡で私を見てきて。両親も、それ以外も根本こんぽんは同じだ。啓典の民ユダヤ人だからといって何が悪い?何を恐れる?

 本人を見もせずに、ろうともせずに背景の書き割りばかり眺め回す。成人披露デビュタントの夜も…

「そうよ!私には聞こえてた。踊りながらちゃあんとのよ」

…成金の娘が思い上がって。

…身分や領分を弁えぬ厚かましい連中だ。

…あんな娘と踊るとは流石さすが、“変わり者”フェルダーだな。

 そう。まさにフェルダーの言う通り。 。陰口もまた然り。

「聴こえてた。でも我慢したわよ⁉︎だって、だって言い返したりなんかしたら──」

 私の事を後ろ指さして楽しんでる連中に、優しい父様や心配性の母様を攻撃させる口実を与えてしまうから──だから私は口をつぐんで俯いて──

「──耐えて微笑わらうほかなかったじゃない…!」

 冷たい仕打ちを受けるのは私だけでいい。だけど私だって人間。女の子だ。あんな言われ方を面白がるとでも思うの⁉︎

「私は只のルート。あんた達と変わらない、普通の人間よ!どいつもこいつも──」

 畜生ちくしょう

 畜生。

 畜生。

 畜生。

 畜生。

 畜生…!

「くたばれェ‼︎」

 私の最後の一声は、「──ばれ…ばれ…れ………」と、エコーを効かせながら首都の夜景を遠ざかっていく。

「うむ、想定外の勢いだった。する程でもないがね」

 スッキリしたろう?と悪い笑みを浮かべる彼に、私も少しだけ背伸びをした笑みを返した。

「ところで私は心に一つ、決めていた事があるのだが、聴いて呉れるか」

 私が頷くと、アライグマ人の巨漢は軽く咳払いをして真面目な口調になった。

「弟の身長を嘲笑しない女性を生涯の伴侶に迎えたいと、常々思っていてね」

 彼の横顔に、出会ってから初めて見る照れの赤さと興奮の汗が浮かんでいた。

 嗚呼、主よ。一縷いちる希望のぞみが叶ったのですか?それともこれは残酷な夢なのでしょうか?

 けれど──

「嬉しいお申し込みですが…断るしかありません」

「何故?」

 自らに追い討ちする辛さにまた泣きそうになりながら、彼の翠の瞳を真っ直ぐに見返した。

 屹度きっと私は今、これ迄の人生で一番美しい。

 だって愛する人の為に行動している女は、美しくなるものなのだから。

「ヴィルヘルム==フェルダー。いえ、フェルダー男爵…貴方の称号のゆえです」

 フォンは貴族のあかし。そしてこの帝国オーストリアおいて、爵位持つ者が私達啓典の民ユダヤ人と結ばれる事は、異民族をめあわすよりも困難なのだ。

 直截にいえば、そんな事はあり得ない。竹に木をぐような選択。不可能な可能性…

「私の事は嫌いか」

いえ!ですが──」

 つ、つ、つ。彼は大袈裟によろめきながら後退し、片手を目許めもとに当てる。

 そしていきなり歌い出した。

〽︎おお。哀れなるかなヴィルヘルム=フォン=フェルダーよ

妻にといし、恋した娘御むすめごは己の有りもしない汚点をあげつらい、一族の誇りよりも巷間こうかん蔓延はびこ醜声しゅうせいを並べ立てて自身を冒涜している…

 凶王としたマクベスに反旗を翻す憂国の武将マクダフの台詞をもじった即興のアリア。しかし浅薄ではない。はらの底から発された本心の響きがある。

「で、でもフェルダーさん。私をめとれば貴方は…貴方の一族は如何どうなります?爵位を剥奪されてしまうか、それを免れてもそしられ貴族の爪弾つまはじきになるのでは──」

 おう!と、今度は胸を短剣で刺し貫かれた芝居をして床にひざまずく。

〽︎眼前に平伏ひれふす男の真心よりも、面子メンツを気にかけるとは!

不滅の愛の謎を胸底に隠す月の女神ダイアナ、残酷なる処女神よ。その賢さ故に憂うべき未来さきを見通そうとするは、臆病なる暗雲の虚ろな手で御身の輝きにふたするも同然…

「フェルダーさん、真面まともになさって」

 下から私を見上げる顔。目尻にわずかなしわのある、威厳と誠実を含んだ男の顔だ。

〽︎これこそ我が真面まともなる心情、なんじが求めし嘘偽りなき心情しんじょう!ほんの一滴の慈悲があるなば答えたまえ

──我に愛の有りや?無しや? 

 まるで高枝の果実にするように、私の手に彼の両手を添えてくる。

 武張ぶばった掌から微かな震えが伝わってきた。年齢差は父と娘程もあるというのに、片想いにびくつく少年さながらに…

 全身に電気が走り、私は再び瞑目めいもくした。

 ああ、私はまだまだ覚悟が足りていなかった。

 彼は…帝国貴族ヴィルヘルム=フォン=フェルダーは、彼のつちかってきた名声キャリアも紳士としての自尊心も、男爵としての安寧あんねいも総て放りててみせたのだ。

 ひとえに、私に向き合う為に。

 ならば、私は──

 ひと呼吸。肩の力を抜き、生まれて初めて男の人に対峙たいじしっかりと告げた。

「私も…一緒に踊るのは貴方がいいです。貴方じゃなければ厭!ホールでも──

 言ってしまってから顔から火が出た。いきおいとはいえなんてはしたない告白を!

 でも。

 私は今、毅然きぜんと前を向いて彼を見つめる。

 これが私。飾らず、絞らず、隠さない本音のルートの姿だ。

(そうさせくれたのは、ヴィルヘルム=フォン=フェルダー、貴方なの)

 私の返答に満足した様子で頷くと、彼はニッと笑った。

「よく言ってくれた!これで晴れて両想いの夫婦となれるな。婚約指輪は後日君の家に持参するぞ」

 彼は元の調子で立ち上がり膝の埃を払う。

「あら、既にもらっておりますわよ?」

 謎かけに豆鉄砲を喰らったような顔をする彼。私はその腕をとらまえ、指で眼下の目抜き通りを示した。

「うむ?」

「分かりません?」

 道路に沿う街灯の連なりが、パノラマの視界に弧を描いて続いている。首都に巨大な環状リングを形作る幹線道路…

 そう、夜鳥が帝都ウィーンを天空から見下ろせば、そこには街灯の輝きに飾られた環状道路リングシュトラーセが置かれてあるのだ。

「なんとまあ、我が妻君は帝都ウィーンいただきし指輪リングを御所望か!」

 ぺし!自分で後ろ頭を叩き、彼は大笑した。

「良いだろう、この指輪を君に捧げよう!いずれ全ヨーロッパ、新大陸、やがてアジアと我がフェルダーを轟かせるぞ。世界の全てを君と手に入れよう。マクベスにならって私達は一心同体というわけだ!お嬢さん、いやルートよ。覚悟はよいな⁉︎」

 私は勿論だとばかり頷く。そして隙だらけの彼の肩を掴んで伸び上がり、軽く口づけをした──初めてのキスは想像よりも、ずうっと甘く爽やかだった。

 彼は「まさか君から先にキスされるとは。一本取られたな」と動揺した。私よりはるか年長、海千山千のプレイボーイであろう押しも押されもせぬ大俳優が困っている。なんて爽快な気分!

 頃合を見て、私は無言で片手を差し出した。

 彼は打ち解けた親愛も露わに私を抱き寄せた。

 異性の体熱に包まれる心地良さ。さざなみのような都会の喧騒を音楽にして、私は彼の胸に頬を預ける。

 漆黒の空にかる満月のスポットライトに照らされて、熱に浮かされたような私達だけの舞踏はいつ迄も終わらなかった。

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