外伝〜壁際のシンデレラ〜
外は肌寒い秋の曇天だが、館のホールには集められた招待客の
古風な
誰もが裕福な、
私は壁際に設けられた自分の席から
(時間潰しなんて簡単。女流作家になったものと思えば…)
頭の内で文章を組み立てる。主人公は、目にも鮮やかな純白の絹に銀糸で薔薇を刺繍したドレスを
素直で臆病な性格を両親が期待を込めて
それが私。ルート=ネメット。
安直な想像は母の声で破られた。
「動物園に連れて来られた子供ではないのよ、ルート。そんなにお客様を凝視しないで。物欲しげに思われたら
普段から何くれとなく家族の世話を焼き、些細な不幸も恐れて心配する母だ。私と同じシャム猫人だが、人好きのするふくよかな顔には眉間に深々と皺が刻まれてある。私は少しでも安心させたくて、なるたけおっとりと
「はい母様。できるだけ
「
いけない、逆効果だ。私は
「心配なさらないで。
これも失敗。不安を取り除くどころか母の皺が一層
「普段の
それ
(この硬い椅子にかれこれ三時間は腰掛けてるのよ?母様、お尻が痛くなっちゃわないかしら)
母の心境を
(各方面に
ネメット家は代々続く織物商。最近では
その一人娘である私の社交界への御披露目。婚礼適齢期ですよ、気品も学もそれなりにありますよ、奥方にぴったり。持ってけドロボー!…の晴れ舞台だのに。
観察したところ、客の男達に主役である私を舞踏に誘おうという気配はさらさらない。
(
私は微笑を崩さず、我が一家の
暫くこうしていよう。頬杖をつきたいけれど、流石に叱られるかしら。
この日のために新調したドレスの裾を整え目を伏せ、スカートの
雑誌や噂で得た知識だと、普通は
(仕方ないか。だって我が家は…)
「なんと可愛らしい
地獄の底
パッと顔を上げれば、いつの間にか巨大なビヤ樽が
「フェルダーと申します。今宵はお招き頂き
赤茶けた毛並み。アライグマ人の巨漢だ。歳は四十がらみだが、声の張りはとても
古代の将軍の如く立派な面相。薄く無骨な眉、睨まれたら悪魔も
ニッと笑むと八重歯が溢れ、低めの鼻も相まって子供っぽい雰囲気になる。
私は唖然としている母の袖を引いた。
「あ、え──ええ!勿論ですわ」
そらご覧。しっかりおやんなさい!…という目配せを受け、私は彼の手を取りしずしずと立ち上がった。
フェルダーと名乗る中年の紳士は、私を片隅で鍵盤を叩いている鼠人のピアニストの許へと
私達の姿を認めた鼠人が気を利かせてワルツを奏で始めたが、彼は
「淑女貴顕を
「勘弁してくださいよ旦那、
彼は鼠人の首根っこをひったくると顔を寄せ、
「隠しているが貴様、アルゼンチンの
金品を巻き上げる
唐突に湧き上がった大音量。近くで
「あの、私、こんな曲を踊った事はありません」
「案ぜられるな、可愛いお嬢さん。頭の中を
彼は思いもよらぬ高さへヒョイと膝を掲げ、黒光りする高級そうな靴の甲を叩く。
「──貴女程度の
威容に似合わぬ
はじめは
次第に私は、自分でもこんな動きが出来たのかと信じ難い素早さで、伸びやかに手脚を動かして未知の舞踏を舞っていた。
そして気付く──この男、とんでもないダンス
タンゴという異郷の舞踏にほぼ初心者の私をなんなくリードし、ホール上をいとも
(なんて軽やかなの?まるで魔法だわ!)
爽快な気分。私の事を
胸を反らし、スカートが際どくなるくらい片足を
「スピードを上げよう。
三白眼が茶目っ気たっぷりに挑んでくる。私は頷きを返す。
「目にもの見せて差しあげますわ」
彼が私を、ルート=ネメットを
…この
…
…女らしく慎ましく、尚且つ魅力的な胸の膨らみ。これを見て諸君は何も感じないのか?
最初は胡散臭さしか感じていなかった彼の強引なやり方に、私はすっかり
ふと視線をずらすと母が遠くで手を揉みしだいている。いかにも優柔で小心な
曲が終わり、彼のエスコートで席に戻った。額に汗の粒が浮く程踊って久々に気分が晴れた。
その後、年若い青年達が引きも切らず私と踊りたいと申し出てきた。
宴がはね、私の
「大金星よルート、これだけ多くの殿方の眼に留まって!宴を催した甲斐があったわね。そらご覧、大商人からお医者…こちらは陸軍の少佐様からよ」
「それより一番最初に踊った
彼はいつの間にか会場から姿を消していた。報われない
あの
沢山の客と踊った。中には貴公子然とした輝かしい青年も居た。けれど私の胸の中に刻み込まれたのはあの、
「あんな
(違うわ母様。あの
…などと言えるわけもない。俯いて
「他の殿方から声をかけられるきっかけを下さったのは確かね。お前が
母が告げた彼のフルネームで、私はその意味を悟った。
それは確かにこの帝国にあって厳然たる不文律、とくに私達のような家族にとっては生きていく上で忘れられぬ摂理そのものだった…
私は既に何回か他家の宴に参じ、お見合いめいたものを経験していた。しかしどんなに素敵な縁談でも心はまるで踊らなかった。
違う。
あの夜別れてからというもの、日を置くごとに胸の奥が苦しくなる。彼の赤茶の毛皮と迫力ある表情。陽気で、ときに凄みのある物腰。
自信と雄々しさの詰まった冒険心に輝く孔雀石の
あの数分間で恋に落ちたなんて、自分でもどうかしていると思うけれど…
(ダメよルート。彼の
初恋くらいは私だって子供時代に経験済みだ。あれはそう、父の顧客の息子だった。ある年の真冬、本棚に隠していた幼い恋をやり取りした手紙を母が
罰として閉じ込められた屋根裏部屋。床の冷たさと埃
(お祭りに行くの。一緒に焼き栗を食べるって約束したわ。早く連れ出しに来てくれないかな?)
次の日。私が恋していた男の子は別の女の子と仲良く手を繋ぎ、
私は決意した。
券に印字された日の夕刻。ヴェールを被ると母にも内緒で家を抜け出し一路、ウィーン国立歌劇場へと向かう。
この胸に
彼が寄越したのは
勇壮豪胆な武将が魔性からの誘惑に負け、王を
人気の公演であるらしく、新聞で顔写真を見た事のある女優や俳優がわんさと
最後迄観終わってから、楽屋に彼を訪ねた。
「休憩中に来て
余計な言葉は要らなかった。血糊も生々しい衣装を着たままのフェルダーは、大きく腕を広げて迎えてくれた。
「そんなまさか。…でも私が居ることを誰からお聞きに?」
「なぁに。舞台からは客席がよく見渡せるのです。貴女の野菊のような素の
「兄上、お客様がいらしたなら私はここで失礼しましょうか?」
「いや、お前も居ろ。紹介しよう、これは私の弟のマクシミリアンです」
先んじて彼と談笑していたのは、彼と同じアライグマ人だった。弟だというがふくよかな
身長は私の胸くらい。丸みのある眉の片方に
「お初にお目にかかります、お嬢さん。マクシミリアン=フォン=フェルダーです」
歳下と思った相手からのお嬢さん呼びに微笑み、腰を屈めお辞儀を返した。
「初めまして、ルート=ネメットです」
「あの、兄…ヴィルヘルムのファンの
それを隠し、彼に向かいわざと明るく尋ねる。
「本当に可愛いらしい弟さんですこと。もう
一瞬、沈黙が楽屋に流れた。
「…?あの、どうかされまして…?」
戸惑う私に彼は静かに告げた。
「
「えっ──」
喉を詰めた私に
「いいのです。歳下に見られるのは日常茶飯事、皆この幼稚な外見に惑わされます。お気になさらず!」
自分を抑えた気遣いと優しい笑みは、何故か一層私の心臓を深く切りつけた。
「ああ、
涙袋が痛み、鼻筋に温かいものが伝わる。慌てて手袋の甲で拭った。傷付けた相手の前で泣くなんて不覚にも程がある!
(泣きたいのはきっと、
「ど、どうか本当にお気になさらないで。私の
「…優しい方。非礼を責めないのね」
「あ、兄上!私はちょっと用事を思い出しました。失礼致しますね」
てっとっと…軽やかに
残された私に彼は穏やかに問う。
「貴女は何に対して泣かれたのですか」
私にも判然としない。
──…そして恐らく、私の内面にも近い
彼はす、と立ち上がった。
「私が見るに貴女の精神には重大な停滞がある。ここは私を信じて一つ、療法を試してみないかね?」
「療法…?」
彼は私に目を閉じて身を委ねるよう言った。指示に従うとやおら横抱きに抱えられ、楽屋から連れ出された。
「
「シッ、目を
彼の体からワインと
階段を上がり廊下を抜けた。反響する靴音からして絨毯の敷き詰められた観客用の通路ではないらしい。また階段、そして扉を
そっと降ろされた。薄い扉が
「目を開けたまえ」
言われた通りにした。尖塔のような足場の狭い部屋だ。開いたガラス戸の向こうには断崖絶壁と化した夜が広がっている…
「ひっ⁉︎」
闇に風の
「フェルダーさん!何をなさるの⁉︎」
恐怖に
「下ばかり俯かず顔を上げたまえ。出来るだけ遠くを見るのだ」
彼を信じ、
「うわぁ…!」
落ち着いて見晴らした窓の外には、どこまでも続く
見当たる限りの
「ここは関係者でも一部しか知らない私の
彼は私の手を取り、夜空と
「ここは劇場。
そんな事とても出来ない。
でも、こう
「わ、私は…」
「うむ、君は?」
「ど、どうしてじ、自由にしてはいけないの?」
「それから?」
「──周りのひとの顔色ばかり窺うのは…もう厭なの」
「そうだ、その調子!」
「私だって…私だってこれまで色々な我慢をしてきたわ」
「まだまだ!そんなものかね君の苦しみは!もっと腹から声を出すのだ!」
もう
私の意見を押し潰すな。
勝手に
親だからって娘の
「息を潜めて大人しく人生を過ごせ?そんなの
子供の頃から誰も彼も色眼鏡で私を見てきて。両親も、それ以外も
本人を見もせずに、
「そうよ!私には聞こえてた。踊りながらちゃあんと
…成金の娘が思い上がって。
…身分や領分を弁えぬ厚かましい連中だ。
…あんな娘と踊るとは
そう。まさにフェルダーの言う通り。舞台からは客席がよく見えるのだ 。陰口もまた然り。
「聴こえてた。でも我慢したわよ⁉︎だって、だって言い返したりなんかしたら──」
私の事を後ろ指さして楽しんでる連中に、優しい父様や心配性の母様を攻撃させる口実を与えてしまうから──だから私は口を
「──耐えて
冷たい仕打ちを受けるのは私だけでいい。だけど私だって人間。女の子だ。あんな言われ方を面白がるとでも思うの⁉︎
「私は只のルート。あんた達と変わらない、普通の人間よ!どいつもこいつも──」
畜生。
畜生。
畜生。
畜生。
畜生…!
「くたばれェ‼︎」
私の最後の一声は、「──ばれ…ばれ…れ………」と、
「うむ、想定外の勢いだった。
スッキリしたろう?と悪い笑みを浮かべる彼に、私も少しだけ背伸びをした笑みを返した。
「ところで私は心に一つ、決めていた事があるのだが、聴いて呉れるか」
私が頷くと、アライグマ人の巨漢は軽く咳払いをして真面目な口調になった。
「弟の身長を嘲笑しない女性を生涯の伴侶に迎えたいと、常々思っていてね」
彼の横顔に、出会ってから初めて見る照れの赤さと興奮の汗が浮かんでいた。
嗚呼、主よ。
けれど──
「嬉しいお申し込みですが…断るしかありません」
「何故?」
自らに追い討ちする辛さにまた泣きそうになりながら、彼の翠の瞳を真っ直ぐに見返した。
だって愛する人の為に行動している女は、美しくなるものなのだから。
「ヴィルヘルム=
フォンは貴族の
直截にいえば、そんな事はあり得ない。竹に木を
「私の事は嫌いか」
「
つ、つ、つ。彼は大袈裟によろめきながら後退し、片手を
そしていきなり歌い出した。
〽︎おお。哀れなるかなヴィルヘルム=フォン=フェルダーよ
妻にと
凶王と
「で、でもフェルダーさん。私を
おう!と、今度は胸を短剣で刺し貫かれた芝居をして床に
〽︎眼前に
不滅の愛の謎を胸底に隠す
「フェルダーさん、
下から私を見上げる顔。目尻に
〽︎これこそ我が
──我に愛の有りや?無しや?
まるで高枝の果実にするように、私の手に彼の両手を添えてくる。
全身に電気が走り、私は再び
ああ、私はまだまだ覚悟が足りていなかった。
彼は…帝国貴族ヴィルヘルム=フォン=フェルダーは、彼の
ひとえに、私に向き合う為に。
ならば、私は──
ひと呼吸。肩の力を抜き、生まれて初めて男の人に
「私も…一緒に踊るのは貴方がいいです。貴方じゃなければ厭!ホールでも──
言ってしまってから顔から火が出た。
でも。
私は今、
これが私。飾らず、絞らず、隠さない本音の
(そうさせくれたのは、ヴィルヘルム=フォン=フェルダー、貴方なの)
私の返答に満足した様子で頷くと、彼はニッと笑った。
「よく言ってくれた!これで晴れて両想いの夫婦となれるな。婚約指輪は後日君の家に持参するぞ」
彼は元の調子で立ち上がり膝の埃を払う。
「あら、既に
謎かけに豆鉄砲を喰らったような顔をする彼。私はその腕を
「うむ?」
「分かりません?」
道路に沿う街灯の連なりが、パノラマの視界に弧を描いて続いている。首都に巨大な
そう、夜鳥が
「なんとまあ、我が妻君は
ぺし!自分で後ろ頭を叩き、彼は大笑した。
「良いだろう、この指輪を君に捧げよう!いずれ全ヨーロッパ、新大陸、やがてアジアと我が
私は勿論だとばかり頷く。そして隙だらけの彼の肩を掴んで伸び上がり、軽く口づけをした──初めてのキスは想像よりも、ずうっと甘く爽やかだった。
彼は「まさか君から先にキスされるとは。一本取られたな」と動揺した。私よりはるか年長、海千山千のプレイボーイであろう押しも押されもせぬ大俳優が困っている。なんて爽快な気分!
頃合を見て、私は無言で片手を差し出した。
彼は打ち解けた親愛も露わに私を抱き寄せた。
異性の体熱に包まれる心地良さ。
漆黒の空に
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