最終話 イソツツジの涙
「じゃあ、私はこっち」
祥子のバイクは滑らかに貝殻道を走り出した。遠ざかるその背中を見送った私もクラッチを繋ぎ、砕いた貝殻が撒かれた白く輝くダート路を祥子と逆方向に走る。道の右はオホーツクが打ち寄せる砂浜、左は原生花園が続く。ヘルメットのシールドを跳ね上げたまま、柔らかな海風を感じながら私はのんびり走る。私達は一時間に一度、パトロールと称して原生花園の道とエサヌカの直線路を周回している。二人で逆に走れば彼を見落とすこともすれ違うこともないはずだ。
三キロほど走って直線路との合流地点に到達した。シールドを下ろして舗装路に乗り入れる。浜猿払まで一度北上し、Uターンして直線路を浜頓別まで戻る。祥子はダートを七キロほど走ってから浜頓別から直線路を北上するので、二人が必要とする時間はほぼタイだ。互いに相手が来た道を戻って先の待避所で合流する。
浜猿払までマッシーなし、取り締まり車両なし。ライダーやチャリダーとピースサインを交わしただけだ。フルロックターンを決めて折り返す。右手首を大きく捻るとタコメーターとスピードメーターの針が急激に跳ね上がる。クランクまで六キロほどの直線だ。電柱もガードレールも無い道の所々に、停車してカメラを構えている人々がいる。陽気に手を振る彼等に空元気で手を振り返す。彼の休みは明後日までだから、明日のフェリーに乗る。となれば今日明日しか無い。屈斜路湖で祥子が見せた弱音が怖い。会えなかったらどうしよう。
対向するバイクのヘッドライトが急速に近づく。あのジャケットは祥子だ。
ピースサインの代わりにオーケーサインを送ってきた。取り締まり車両なしの意味。私も同様にサインを送る。すれ違った瞬間、彼女の風圧を確かに感じた。かなり飛ばしている。私もアクセルを更に捻った。
出発地点に祥子は戻っていない。もしかすると……二〇分待っても来なかったら、探しに出よう。ここは携帯が繋がらない。
タンクバックの隙間から潰したコーヒーのスチール缶をとりだした。それを左足下の砂地に投げ、蹴り出したサイドスタンドを乗せる。ヘルメットをミラーに引っかけて手櫛で髪の毛に風を通した。静かだ。打ち寄せる波音。吹き渡る潮風とそれにそよぐ草木の音。冷えはじめたエンジンが奏でる小さな鈴の音。
沢山のツーリングライダーがここに集まるのに、彼だけがいない。困った……次の巡回で浜頓別に出て、彼に電話をしてみようか。風に揺れるアザミの花を見詰めて暫くその案を頭の中で転がす。
でも……運命で二人は出会った。彼がピンチヒッターとなってガイドしたのが始まり。彼と祥子が食堂の前であったのも縁だ。海賊船長の知り合いだったのも縁。海に叩き込んだのは事故だとしてもオロンコ岩で再会し、襲われた祥子を助けたのは間違い無く運命だ。そして祥子の命を救った。二人が互いに惹かれたのも、男嫌いを克服出来たのも縁があったからこそ。大きな意思が働いているような気がして仕方がない。私がそれに介入して許されるのか。そう、私は二人の運命に縛られている。だから今も二の足を踏んでいる。余計なことはするなと誰かに警告されている気がする。でも、でも……。
「お待たせ」
物思いにふけっていた私は不意を突かれた。
「ううん。どうだった?」
言った瞬間、後悔した。もうちょっと気を遣って……ほんとに馬鹿だ。ごめん。
経営者の強みで踏み留まった可能性に賭けようと祥子を説得して、今日も私達は彼を探したが。部屋は水銀に満たされたように重くそして静かだ。
「ねえ、相談なん──」
ベッドに腰掛けて俯いたままの祥子が強く首を横に振った。この一時間、祥子が喋ったのは一言だけ。空に星が瞬きだした時間だから宿へという意味だったのか、家に帰ろうという意味だったのか。
部屋に入ってからはずっと俯いたままだ。携帯を充電しようともしない。
「祥子、私が言ったこと覚えてる? ほら、屈斜路湖で」
小さく頷いた祥子の頬に涙が伝いはじめた。ああ、どうしよう。
「祥子はこの二週間で再確認したじゃない。どれだけ彼を愛しているか。一緒にいたいと願っていることを」
ああ、滴りの間隔が早くなっちゃった。未来だ、未来を話さなくちゃ。
「帰ったら彼に会いに行こう。私も玄関まで一緒に行くよ」
「私……わかんなくなっちゃった」
え。
「会いたいよ、謝りたいよ。もう一度話したい。それだけ願っていたのに。なんで……話しちゃ駄目なの? 誰がそう決めたのよ」
ぼろぼろ泣きながら、でも平静に話す祥子の迫力に気圧された。
「何度もダイヤルしたよ。でも発信できなくて。怖かったの。勝手だよね、自己中そのものだよ」
「そんなことないよ。絶対ちがう。祥子は相手の──」
「そんな私だから罰が当たったんだよ。神様が呆れたんだよ、きっと! こんな女に関わらせたら彼が不幸になる。だから縁を切ろうって決めたんだよ。私が神様だったらきっとそう思うもの!」
「祥子、全部自分の所為だと思っちゃ駄目。ねえ、聞いて。お願いだから」
「涼音、ごめんね。あなたが心配してくれたのも、応援してくれたのもよく解ってる。でも、私ってこの程度なんだ。ごめん」
「馬鹿なこといわないでよ!」
「まだ友達でいてくれるかな」
背中から力一杯抱き締めた。彼女の震えが伝わる。ごめん、私の所為なんだ。私って馬鹿すぎる。
「富良野に行こう。ラベンダーのシーズンが終わ──」
ああ……ごめん。ごめん!
コーヒーだけで朝食を済ませた。祥子も眠れなかった様子だ。私達のフェリー予約をキャンセルしたって告げなきゃ。でも祥子の顔を見ると何も言えなくなってしまう。彼女に怒られるのが怖いんじゃない……。
「富良野に行く前に、ちょっと寄っていいかな」
荷物をバイクに縛り付ける祥子が私に声を掛けた。
私は無言で頷いた。祥子の気の済むようにして欲しい。
荷物の具合を確かめた祥子はバイクに跨った。天気は最高なのに、私達は最低気分だ。
エサヌカの直線路は今日も結構な人出だ。無意識に赤白のCBを探し、それを確認した瞬間ライダーを見詰める。もはや習性だ。もういるはずも無い人を探してなんになる。でも祥子はもっと辛い。私達の半径五キロから赤白のCBは消え去ってくれ、お願いだ。
祥子はクランクから原生花園に入る。数え切れないほど繰り返し通ったので、どこに何が咲いているとか、道のアップダウンとか殆ど記憶してしまった。昨日と同じ筈なのに、風景がモノクロームに感じる。眩しいばかりの太陽、雲一つ無い青空。そして風に揺れる花々を貫く白銀の道。野ネズミか昆虫を求めて散策するキタキツネ。生命に満ちあふれているはずなのに、私はそれを感じられない。罪の意識がそうさせているんだ。自分の傲慢さに腹が立つ。もっと謙虚に考えて行動すべきだった。取り返しのつかない事態に二人を追い込んだのは私だ。
祥子がバイクを空き地に乗り入れた。四輪がすれ違うための待避所の一つ。この数日、私達が見張り場所とした地点だ。バイクを停め、空き缶をサイドスタンドに噛ませる。この場所で何度繰り返した作業だろう。ヘルメットをミラーに掛けた祥子は空手で砂浜に向けて歩く。彼女のタンクバックも私が持って後を追う。
数分黙って歩いた祥子は、高台となった場所で蹲った。私もそれに倣う。
「ここがいい」
辺りをゆっくり見渡した祥子が頷いた。何をするつもりと問いたい。でも彼女の思い詰めた表情に言葉を飲み込んだ。
「素敵な場所だよね。周りがよく見えるし、花も咲いているし。道も近いから寂しくないよ」
淡々という祥子に厭な予感がこみ上げた。まさか――。
「あの赤い花はハマナス、道の向こうで白一色に見えるのはワタスゲの群落」
祥子の横顔はあの表情を浮かべている。でも今日はとても寂しそうに。
「彼に教えてもらいながら、自分も図鑑で一生懸命覚えたの。教えてくれたのに忘れちゃ悪いから」
「うん、祥子は努力家だからね」
何を言い出すつもりだ、おい。
「黄色の花はエゾカンゾウ。小さな白い花がボールのように集まっているのがイソツツジ……沢山教えてもらった」
膝をついた祥子は足下の砂を両手で掘り始めた。過去形なんてやめてよ、穴なんて掘るな! でも言葉に出せない。制止できない。怖い。
「でもとても彼には敵わない。だから彼が余り知らない分野でって、花言葉を覚えようとしたの」
頭を殴られたような気分になった。知らなかった。
「エゾカンゾウは「憂いを忘れる草」なんだよ。アツモリソウは「私を忘れないで」だったね……覚えていてくれるかな」
焦りが募るばかりで、何を言ったらいいか解らない。
「ハマナスは「美しい悲しみ、見栄えの良さ」なんだけど、棘だらけだから納得出来ないな」
笑いながら草の根をよけて、彼女は一生懸命掘り続ける。私は唇を噛み締めて見守るしかできない。祥子の手を押さえたい。でも。
「このくらいかな。草の根が這えば砂が飛ばされて出てくることもないよ。きっと大丈夫」
砂まみれの手をポケットに差し入れ、ジッポとフクロウを取りだした。両手に乗せたそれは小刻みに震えている。
「私の初恋、此処に眠らせる。ここなら誰にも邪魔されないし……素敵な場所だもの」
寂しげに笑った彼女に私は涙を流すしかできなかった。
「初恋の花言葉を持つ花は沢山あるの。此処で咲いている花にもあるんだよ。どれだと思う?」
両手をそっと穴に差し伸べる彼女に私の呪縛は解かれた。慌てて彼女の手首を掴む。
「やめてよ! そんな──」
「イソツツジ。可憐な乙女の花」
背後から急に声を掛けられたからか、それともその声はもう二度と聞けないと諦めた人の声だったからか、心臓が大きく跳ねた。慌てて振り向く。朝日を背にした黒いシルエット。まさか、そんな。
「ごめん、遅くなった。本当にごめん」
祥子がプレゼントした黒革のジャケットを着た彼が本当にここにいる。窶れた笑顔を浮かべて立っている。この馬鹿野郎……やっと来やがった!
何も言わない祥子が気になって振り返った。
目を大きく見開いた彼女は唖然と彼を見詰めている。
「それはまだ眠らせないで。頼むから話を聞いて」
目を瞬いた祥子は、ジッポとフクロウを握りしめて立ち上がった。私は慌てて数歩離れる。私が二人の視界に入っちゃいけない。もっと離れた方がいいかと彼に目で問う。が、完璧なまでに無視された。いや、祥子しか見えていないんだろう。
「どうして」
かすれ、そして上ずった声で祥子が囁く。
「祥子さんは一生の大事だよ。逢えるまで帰る積もりはなかった」
よかった。決断してくれて本当によかった。でも私が聞いていいのか。困ったな。身動きすると、互いに集中している二人を邪魔してしまうかも。そうだ、私は木だ、石だ。気配を消そう。
「本当にごめん。祥子さんを傷つけた。済まなかった」
粗相をした子犬のような目で言う彼に、私の胸はぎりぎり痛くなる。
「ううん、謝るのは私」
祥子の声に張りが戻った。でも震えている。お前も頑張れ。
「話の仕方を間違えて……あなたを責めた。ごめんなさい」
彼がはっきりと、でも優しく頭を振った。
「私も同じ。だからそれはもうお終いに」
切なげに祥子を見詰める彼が一旦言葉を切った。小さく深呼吸したようだ。
彼は更に落ち着いた声で言葉を継いだ。
「不妊治療は無用だ。自然の、神の意志に任せる。私にはあなたが一緒にいてくれることが一番大事なんだ」
「でも、あなたは子供が好きよ。私も好きなの」
「子供が出来なかったらと心配しているんだね」
祥子が二度頷いた。
「例えそうなっても幸せは減らないし損なわれもしない。二人が安らげる家庭、二人が幸せなら立派な家庭だよ」
顔を強張らせたまま祥子が首を傾げ、目を瞬いた。
「でも……私はあなたとの子供が欲しい。子供が出来なかったら、それからの私はどうしたらいいの? あなたと違って何の取り柄もないんだよ」
かちんときた。あんたの文才は──。
「あなたは私を支えてくれる。私はあなたを支えたい。あなただけなんだ、私にそう確信させる人は!」
私は自分を恥じた。
「……自信ない」
「祥子さんには出来る。祥子さんはかけがえのない人だ。私はあなたに支えられて生きていきたい。私はあなたを支える。あなたにしか出来ないんだ」
飾らない言葉なのに……胸に突き刺さった。
祥子は瞬きせずに彼を見詰めている。
「力まずに自然体でいいんだよ。だから……あなたも未来に賭けてくれないかな。私との未来に」
風と波の音が急に大きく聞こえ始めた。祥子は時々瞬きするだけだ。
時間が経つにつれて私の呼吸は浅くなり、厭な予感が高まる。
祥子の喉が動いた。ああ、どうか。神様!
「一緒……」
絞り出すような呟きと共に涙が零れ、しゃくり上げはじめた祥子の唇が震える。
「一緒にいたいよ」
彼は躊躇せずに大きく頷いた。
「私もあなたと一緒にいたい。お願いします。結婚してください」
何度も頷く祥子に歩み寄った彼は、祥子をしっかり抱き締めた。祥子の嗚咽が号泣にかわり、潮騒を圧した。
彼の涙に私の心は震える。息苦しさまで……ああ、息するのを忘れてたか。
二人に背を向け、私はオホーツクの空を見上げた。何処までも広がる青い空。遙か彼方で空と接する水平線が滲む。ずっと此処にいたのに、今迄見えなかった。
うん、素敵な場所だ。少々ノイジーではある。けど人間が出す音だ。自然といえば自然だろう。私だって鼻をすすり上げているし。
目を拭いながら墓穴をつま先で埋め戻す。これは無用。そして忘れるべきものだ。
これでよし。晴れ晴れとした気分で私は辺りを見回した。
おや、これは……一面の花々に縁取られた白銀に輝くバージンロード。質素だけど素敵な結婚式じゃないの。立会人になれてよかった。私もふて腐れずに歩き続けなきゃ。
ああ、腹へったなぁ……私が飢え死にする前に私の存在を思い出せよ! そうだ、神様にお礼しないと。一升瓶を二本、いや、三本奉納します! ありがとう、神様。
私もよろしくです。一升瓶五本で。ご縁だから。
(了)
貝殻のバージン・ロード 橘 哲生 @puccyo338
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