第八話:『得てして、儘ならぬが故に』



 ――そいつと初めて同じクラスになったのは、基礎学校の三年生の時だった。

 大貴族の末っ子というのは聞いていたけど、正直まともに話した憶えはない。そもそも、たった一人を除いてそれ以外の連中ともまともな付き合いをしてこなかったのだから、そいつとだって特別親しくする理由なんてなかった。十歳にも満たないのに冷めている、なんて思ったこともない。自分にはそのただ一人が居れば良かったのだから。

 だから記憶に残っているそいつの印象は、とにかく異様に力が強くてよく物を壊していたというのと、よく男子達に「怪力女」というアダ名でからかわれていたことくらいだ。……そう言えば、偶に人気のない場所で蹲っているのを見たこともあった。

 次に同じクラスになったのは五年生だったのだけど、一瞬別人かと思うほど、以前の気弱な面影はなくなっていた。代わりに見るようになった無機質な表情が、とても冷たく思えたのを憶えている。

 最終学年に上がって数日が経った頃、クラスでは武術の授業で起きたある出来事が大きく、けれどひっそりと話題になっていた。それは決して明るい話ではなく、皆恐がっているように思えた。そしてその話題の中心に居たのは、あの冷たい表情の女だった。

 以前からそいつをからかっていた連中は、その数年で成長したのは身体の大きさだけだったらしい。寧ろそいつの持ち物を隠したりする陰湿さは、精神年齢が後退したのではないかと疑うほどだった。

 くだらないと思った。そんな行為の何が楽しいのか全く理解出来なかったし、それを見て他の連中が居心地悪そうにしているのも理解出来なかった。そんな顔をするくらいなら助けてやれば良いだろう。そいつもそいつで、あんな〝力〟があるのだから反撃なんて幾らでも出来る筈なのに、何をされても表情一つ変えずに黙ってやられているなんて馬鹿としか思えなかった。そんなくだらないことに関わりたくなかったから、大切な人一人以外を、全て意識から閉め出した。

 そう――初めから、他者を理解しようとなんてしていなかったのだ。理解しているだったから、その唯一の人が他の連中と同じような感情を抱いていることにも気付いていなかった。

 他人を理解しようとしない奴が、他人に理解されることなんてない。そんな当たり前のことにさえ、わたしは気付いていなかったのだ――



        †   †   †



学びの庭ガーデン』・医学部エリア。

 学生が本格的な医療を学ぶ必要性とは別の理由から、ここには大きな医療棟が建てられている。学内で病を患った者は勿論、学外からの患者も入院している他(寧ろこちらの方が多い)、訓練などで出た重傷者が、治癒魔法による肉体への負担を考慮され、往々にして入院することもある。……とは言ってもある程度の治癒魔法は施されるので、怪我で何ヶ月も入院することなど滅多にないが。

 別の理由、というのは、運用可能な技術レベルに著しい制限が課せられているこの都市の中で、学園内が唯一、その制限を受けない領域であることだ。普通の病や怪我なら街中にある病院でもこと足りるが、難病や重傷の類になると知識や機材の面で不安点が出てくる。その辺りの解決策として、あくまでも医学部生の実習現場の一つという名目で、この医療棟が建てられたのだ。だから当然、ここで働く者は本物の医師・看護師・薬師であり、実習を受けるに足る水準の医学生は、その補佐として就いている。

 医療棟内部は、廊下を除くとほぼ白一色で統一されている。清潔感は感じられるが、掃除する側はさぞ大変なことだろう。掃除夫への気遣いから、訪れる者は余計なところへ触れることにすこぶる抵抗を覚えるらしい。

 そんな医療棟の、同じく白で塗りたくられた扉の一つを、ステラは躊躇いがちにノックした。

「どーぞー」

 部屋の中から気の抜けた声が返ってきたので、扉を引いた。

 薄く白いカーテンがそっと靡き、赤の混じったオレンジの髪が揺れる。同様に白を基調とした部屋の中へ、開け放たれた窓から昼日中の風が注がれていた。

「あぁ、ステラか」

「……怪我の具合は如何ですか?」

 病室のベッドにはミリーが座っていた。勿論、端に腰掛けているのではなく、寝る体勢から身を起こした形だ。左腕を吊り、右腕に医療用の石膏をめている。

「バッチリ。右腕だってもう動くってのに、大袈裟なんだよここの連中は」

「駄目ですよ。主治医の方は学生ではなく歴としたお医者様なんですから、大人しく言う事を聞いてしっかり治して下さい。あっ、これお見舞いの果物です。今食べますか?」

「おっ、食べる食べる。いやぁ、病院食はアタシ、どうも苦手だってことがこの度判明しましてね」

 たはは、と笑うミリーに安堵しながら、ステラはベッドの脇へ寄せた椅子に座って林檎を一つ剥き始めた。

「髪、だいぶ短くなっちゃったね」

 普段と違い後ろ髪をうなじの上辺りで束ねているステラを見て、ミリーが残念そうに言った。肩を越える長さだった茶髪が先日の一件で焼け切れてしまい、長さが不揃いなのでここ数日はこうしているのだ。

 ステラは短くなった部分へ手をやった。いつも片側に結んでいた白のリボンも端が焼けてしまっていたので、今は何も付けていない。

「えぇ、まぁ。ですが、特別伸ばしていた訳ではありませんし、それほど気にしてませんよ。明日にでも整えに行くつもりです」

 言葉通り、ステラはそのことを然程気にしていなかったのだが、目を覚ましてその変貌を目の当たりにしたミリーが、全快したら犯人であるディノにきついお灸を据えようと誓ったことに、当人の心情など関係はなかった。

「私より今はミリーさんの事です。退院はいつ頃になるのですか?」

「んー、あと最低一週間はじっとしてろってさー。予選はギリギリ出られるかなってとこ」

 秋になると、ガーデンでは魔法闘技大会が開かれる。例年では予選と本選を同じ時期に行うのだが、今年は予選を六月に行い、本戦のみを秋に行うことになっている。クライヴ達教師陣がスケジュールに追われているのはその所為だ。

「無理に出る必要はないと思うのですが……」

「いんや、絶対出るっ。賞品はともかく、単位は喉から手が出るほど欲しいっ」

 ミリーは確固として首を横に振った。

「魔法闘技」とうたってはいるものの、大会に参加する者が魔法学部と武術学部の生徒だけとは限らない。他学部でも戦闘に長けた者は居るし、基本、全生徒が最低限の魔法を使えるだけに、思いもよらない方法で参戦する生徒も中には居る。

 彼らが怪我の危険を冒してまで参加するのは何故か。歴史ある大会の栄誉や自身の学び得た成果を試すという理由以上に、大多数の者達には、入賞者に与えられる豪華賞品と、何より、受講教科の一部単位取得が魅力的だからだ。

 中間試験の出来栄えに頭を抱えていたミリーにとって、ここらで一旦勉学に対する心労を取り除く為にも、怪我で不参加などという選択肢はなかった。猫のような薄茶色の瞳は、爛々らんらんというより轟々ごうごうと燃えていた。

 これはもう何を言っても聞かないな、と説得を諦めることにしたステラは、剥き終えた林檎を掌の上で器用に切り分け、ナイフと同じく用意してきた紙皿へ移した。

 ――そもそも、ミリーが怪我をした原因は自分にあるのだ。

「……ミリーさん」

「ん?」

「どうして、あんなになるまで戦ったのですか?」

 あの時心を粉々に打ち砕いた事実を、ステラは自ら口にする。

「あの時ミリーさんは、私の事を嫌いだと仰いました。なのにどうして、両腕が動かないくらいボロボロになるまで戦ったのですか?」

 改めて、自分で言ったから尚更、胸が苦しくなった。

「別に、誰もステラの為だなんて言ってないんだけど……」

「――死ぬかも知れなかったんですよ!?」

 素っ気ない言葉に、ステラは思わず声を荒らげてしまった。急に大きくなった声にミリーがビクリと跳ねた。

「適当な所で逃げれば良かったではないですか! 私なんて嫌いなのでしょう!? 嫌いで、私の為でもなかったのなら尚更、あんなに頑張る必要なんてなかった筈です! なのに、どうしてッ……!」

 不気味に折れ曲がった右腕と、肩の外れた左腕をだらりと下げた痛々しい姿を思い出して、ステラは目頭が熱くなっていくのを感じた。

「……はぁ~」

 俯いたステラに、ミリーは深々と溜息を吐き出した。ダメだこりゃ、と言わんばかりに。

「ステラ、ちょいとこっち来てみ」

「? ――ぅあ痛っ!?」

 ゴツンッ、という結構な響きと共に、互いの額がぶつかり合った。

「なっ、何を――!?」

「いや、だって両手使えんし。あとここ病院」

 涙目になって額を押さえるステラに、ミリーはしれっと言って肩を竦めた。

 そんないつもの軽い調子も、すぐに身を潜める。

「もっかい言うけど、あれはステラの為なんかじゃない。アタシがアイツにムカついて、アタシがアタシの為に戦ったの。その結果がこのざまってわけ」

 はっきりと、まっすぐに、一切の遠慮もない本心からの言葉。それをステラは、嬉しく思う反面どこか寂しく感じてしまい、自身の思い上がりを恥じた。ミリーがデルフィナの腹を立てたのかまでは、残念ながら思い至らない。

 目の前の表情に浮かんだ微細な変化に、やはりミリーはやれやれと心中で頭を振った。考えていることをはっきり言えと言ったのが彼女である手前、ステラの鈍感ぶりに呆れるのは筋違いというものなのだが、それはそれ、これはこれという都合の良い言葉を幸いなことに彼女は知っていた。

 兎にも角にも、なんだかステラが誤解しているらしいことを察したミリーは、言っておくことにした。顔を逸らして僅かに頬を染めた様は、気恥しくて堪らないといった感じだ。

「それにアタシ、別にステラのことが嫌いなわけじゃないし」

「…………はい?」

 思わぬ台詞に、直前までステラの中にあった感情が全て吹き飛んでしまった。

 少しいじけた風になってしまったミリーは、半ばヤケクソぎみに続ける。

「ア、アタシはただっ、ステラの根暗なとことか、ウジウジしたとことか、なんでもかんでも一人で背負い込もうとするとことか、根暗なとこが嫌いなだけ! 見ててすっごいイライラするんだよね」

「うぅっ……」

 さり気に二度も根暗と言われて、しかし反論の余地がないのでステラは項垂れるしかない。それにしてもそこまで自分は暗く見えるのだろうか、と思う分には本人の自由だ。

「けど。頑張り屋さんなとことか、女の子らしいとことか、たまに意志の強いとことか……そういうとこが、嫌いなとこ以上に大好きなのっ。知り合えて、友達で良かったって思ってるんだよ」

 恥ずかしさを紛らわせる為でもあるのだろう、言い終えたミリーはじとっとした視線を送った。

「っていうかさ、あの時も言ったじゃん、これ」

 そう。まさしくあの森の中、デルフィナが乱入してくる直前まで、ミリーはそう言っていたのだ。なのにステラがそんな誤解をしていたなんて、彼女からすれば不服も甚だしかった。

 これに対して、ここへ来るのだって結構悩んだし、ミリーのいつも通りの態度に内心かなりホッとしていたステラは、

「そ、そうなのですかっ? 嫌いだと言われて、私そればかり……」

 と返すしかなかった。

「アンタねぇ……」

 呆れるミリーに、ステラは恐る恐る訊ねる。

「でも、じゃあその……私と、友達で……? 嫌いな所があるのに……?」

「だから、そう言ってるじゃん。あと、何勘違いしてんのか知らんけどさ」

 三度も自分の口から言わされて、その上でのステラのこの発言に、ミリーはいい加減恥ずかしさよりもうんざりした気持ちの方が強くなってきていた。

「嫌いなとこがあるからって、大切じゃないってわけじゃないんだよ?」

「――――!!」

 衝撃がステラを貫いた。

「人間一つは必ず欠点くらいあるもんだし、それも含めてそいつなんだからさ。アタシはさ、そういうのは切り捨てるんじゃなくて、しっかり向き合う方がいいと思うんだ。なんつーの? 妥協っていうか、折り合い付けるっていうか……受け入れる! うん、それだそれっ」

 良い感じの言葉にしっくり来たミリーはうんうんと頷いた。

「とにかくそういうことだから、この件に関してアンタはなんにも気にしないっ。ついでにアイツの言ったことも気にしない。なんかは知んないけど、今は他にやることがあるんでしょ?」

「えっ?」

「え、まさかなんもないのにあんな時間まで訓練してたの? マゾ?」

「ちっ、違いますっ! どうして知っているのかと思っただけです!」

「ムフフー、ミリーちゃんは案外色々知ってるのだっ。ちなみにステラのスリーサイズはごにょごにょ……」

「――どうして知っているんですかっ!?」

 ステラが悲鳴を上げたところで、病室の扉が開かれた。

「ガーフィールドさーん、回診の時間ですよー。あと院内では静かにしてくださいねー」

 医療道具の入ったカートを引く看護師らしき若い女性と、白衣を着た中年男性、最後に医学生と思われる青年が入ってきた。

「ありゃ、もうそんな時間か」

「うぅ……では今日は帰りますね。これから用事もありますし」

「あいよー」

 羞恥に頬を赤らめてミリーを睨んでいたステラは、個人情報漏洩の経緯を問い質したかったものの、渋々席を立った。

「あー、ステラ」

「……はい?」

 医者らと会釈を交わして扉へ向かったところで、呼び留められた。

 じろりと振り向くと、ミリーはなんだか小難しい顔をしていた。真面目な雰囲気なのだが、微妙に迷っているような、それでいて困っているような表情だ。

 小首を傾げたステラに、ミリーは小さな決断をした。

「……アンタの昔がどうだろうが、アンタがどんだけ物凄い力を持ってようが……アタシはさ、自分で選んでにいるから。アンタの傍にいることを、後悔なんてしてないから」

「!」

 彼女の言葉はつまり、ステラの過去を知ったという告白だった。知って、そのうえで、今こうしてベッドに座っていること自体に不満はないと。

「それと……」

 それが自分の選んだ道だから。選ぶのではなく、自然と友人となっていた少女が、少しでも気に病まないように。もっと自分を頼って来れるようにと。

「友達だからってなんでもかんでも話すのは違うと思うし、前にも言った通り解決策なんて考えないけど……それでも、ステラが話してくれるんなら、聞いて、そんでもって味方するくらいできるからさ」

 さっぱりと、六月の日輪ひのわに負けないくらい陽気に、笑った。

「……また、来ますね」

 ステラにはそれが、堪らなく眩しかった。

 医療棟を出て次の目的地へ向かう道中、頭の中でミリーの言葉が幾度となく反芻される。

(嫌いだからといって、大切でないわけではない……)

 それはこれまでのステラには思いも寄らない考え方だった。背反するその二つの感情は、決して共存出来ないものだと思っていたからだ。

(今ここで、私のやるべき事……)

 それが何なのか、ステラは解っている。だからこれから――

「あら、ステラさん?」

 ふと声を掛けられて意識を前へ向けると、豪奢な金髪縦ロールの煌びやかな少女が、片手にバスケットを提げて進む先からやってきた。必修のクラスメイトである、クラウディア=ラウラ=ラフォレーゼだ。

「クラウディアさん。こんにちは」

「ご機嫌よう。……もしかして、のお見舞いに?」

 誰のことを言っているのか、ステラにはすぐ解った。因縁浅からぬ関係の彼女とミリーは、互いのことを口を揃えて「あのバカ」と呼ぶのだ。

「はい。クラウディアさんは大図書館で勉強ですか?」

 彼女のやってきた方角から、ステラはそう当たりを付けたのだが、

「いえ……まぁ少し、色々と、ありまして……」

 どうもそうではなかったらしい。視線を逸らしたクラウディアは少し頬を引き攣らせた。発する度にトーンの下がっていく声から、ステラにはどことなく怒りを堪えているようにも思えた。

 クラウディアは一つ咳払いして声の調子を戻す。

「それでまぁその……帰りついでに、と思いまして」

 ちらりと、青い瞳がステラの来た方角を見やった。

「? ミリーさんのお見舞いですか?」

「うぐっ」

 ステラがキョトンとした声で確認すると、クラウディアは声を詰まらせた。どうやら正解だったらしく、持っているバスケットの中身は見舞い品のようだ。顔を突き合わせれば口喧嘩という印象を持っていただけに、ステラにとってそれは意外なことだった。

「ちっ、違いますわよっ? 体力と騒がしさだけが取り柄のあのおバカが入院したと耳にしたので、珍しいこともあるものだと冷やかしに行くだけですっ! わたくしの寮、南門からの方が微妙に近いので本当にただのついであって、態々遠回りしてまで行くわけじゃありませんわよっ?」

 顔を真っ赤に染め上げて、クラウディアはあたふたと弁明を始めた。それを聞いたステラは不思議な心地で訊ねる。

「……お二人は、実は仲がよろしいのですか?」

「仲良くなどありませんっ!!」

 殆ど脊髄反射レベルで否定された。

「だっ、誰があんな野蛮人代表などとっ……! いくらステラさんでもわたくし、怒りますわよっ?」

「す、すみませんっ……」

 あまりの勢いに後退ったステラは、思わず身体の前で両手を上げた。

「えと、では嫌いなのですか?」

「えぇ嫌いです、大っ嫌いです。出来ることなら同じ教室で学ぶなどご免被りたいところですわよっ。大体あのおバカは――」

 表情一杯に感情を乗せてそれを肯定すると、クラウディアはミリーへの愚痴を零し始めた。不思議なことに、ステラはその殆どをミリーの口から聞いた憶えがあった。

 一頻り愚痴を終えたクラウディアは、短く鼻を鳴らして髪の毛先を弄り始めた。

「……まぁ、それでも不本意ながら付き合いが長いのだけは認めますわ。風邪も引いたことのないおバカの入院です、どれほど無様な格好をしているのかくらいは見て差し上げようかと思いまして。ちょうど言いたいこともできましたし――あら、どうかしまして?」

「……いえ、何でもありません」

 胸の辺りをグサリと刺された気がしてステラは呻いた。本人から自分の所為ではないと言われたとはいえ、そう簡単には切り替えられないのが心情というものだ。

「とにかくそういうことです。……そろそろ参りますわね。あまり遅くなっては医療棟の方々に迷惑ですし」

「はい、また授業でお会いしましょう」

 軽く会釈して、クラウディアはその場を立ち去る。

「あぁ、ステラさん? あのおバカが何か迷惑を掛けたら、いつでも申し付けて下さいね? 友人として、代わりに鉄拳制裁を加えて差し上げますので」

「え……」

「ではご機嫌よう」

 一度振り返ってニコリとした笑顔を向けると、豪奢な金髪縦ロールは遠ざかっていった。

 ポカン、と呆けた状態で、ステラはそれを見送る。

って、もしかして私の事でしょうか……?)

 思い掛けない単語に一瞬思考がフリーズしてしまって、間抜けな声しか返せなかったことを悔やんだ。勿論、ステラはクラウディアともそうありたいと以前から思っていたのだが、よもや向こうもそう思ってくれているなどと、しかもこうもあっさり聞くことになると思っていなかったのだ。

 いや、もしかすると「ミリーの友人として」という意味かもしれない。そうは思うのだが、

「……はっ。いけません、口が……」

 口元が緩むのを抑えられない。誰かに見られる前に直さねば、と頬を揉み解し、なんとか戻ったのを十分確認してから再び歩き始めた。

 色々辛辣なことばかり言っていたが、改めて二人っきりで話してみて、どうにもステラにはクラウディアがミリーを心の底から嫌っているようには思えなかった。

(自分に対してではないからでしょうか? いえ、ですがそれにしては……)

 デルフィナが自分に向けてくる感情とは、かなり違って見えた。彼女も自分のことを嫌っているのに、この差は何なのだろうか?

 クラウディアとデルフィナ。彼女らの「嫌い」は、一体何が違うのだろう。ステラは一度、デルフィナの向けてきた感情を思い出してみる。

(……そうか)

 それで理解した。デルフィナの「嫌い」は、「憎い」のだ。自分へ向けられたあの冷たく燃える眼差しは、相手の全てを否定したものだった。けれどクラウディアは、ミリーの大雑把な性格や騒がしいところを嫌ってはいたものの、その全てを否定してはいなかったのだ。

 相手の全てを否定すれば、「嫌悪」は「憎悪」となる。ならば、全てが嫌いではない場合、残った部分は何なのか。つまりそれが、

(嫌いだけれど、大切でもある……)



 回診を終え、再び独りきりの病室で、ミリーはぼんやりと窓の外を眺め続ける。

「………恥ずっ」

 ボソリと一言。

「恥ず恥ず恥ず恥ずっ! あぁ~、恥ずかしいっ! なんっじゃあれは? うへぇ~、気持ちわるぅ~っ。鳥肌がっ」

 腕が痛まない程度に、全力で、上半身を折ったり反ったりしながら身悶えた。

「思ってたより元気そうだな」

「――ぶへゃおうッ!? 叔父さん、いつから居たのさッ?」

 いつの間に扉を開けたのか、部屋の入口には紙袋を提げたクライヴが立っていた。スーツ姿なのに無精鬚が生えっぱなしなところを見るに、学園に泊まり込んだその足で来たのだろう。

「なんだ、忙しい中折角見舞いに来てやったってのにご挨拶だな」

「抜け出す口実に実の姪っ子を使わないで欲しいんですけど。あとこの両腕のどこが元気に見えるかね」

 手厳しい返しに、クライヴは至極残念そうに肩を竦める。

「そうか、じゃあこのトリーシャ工房の焼き立てアップルパイは自分で食う事にするわ。お前の好物だったと思うんだが、どうやらまだ病院食以外を食えるまでには回復してないみたいだしな。仕方がない、あぁ仕方がない」

「わぁーっ、大好きなクライヴ叔父さんがお見舞いに来てくれたぁー! やったぁー、すっごい嬉しいなぁー! 嬉し過ぎてアップルパイ全部食べられるくらい元気になっちゃったぁーっ!」

 ミリーは途端に満面の笑顔を作り出した。その切り替えの速さたるや、現役の舞台役者も舌を巻くレベルだ。

「あぁ、自分に正直な姪を持てて俺は心底嬉しく思うよ」

「アタシも見舞いにアップルパイ持ってきてくれる気の利いた叔父がいて、自分は幸せ者だと思うよ」

 互いに軽く溜め息を吐いてから、クライヴはベッド脇に置きっ放しになっていた椅子に腰掛けた。

「叔父さん叔父さんっ」

「? ……あぁ」

 ミリーが何を急かしているのかに気付き、クライヴはやれやれとアップルパイを取り出した。

 香ばしい匂いに堪らなくなったミリーは、大きく口を開ける。

「あーん」

「まったく、そんなになるまで無茶する奴があるか」

 呆れるクライヴが差し出してきたパイの欠片を、パクリと迎えた。

「ん~~っ、お~いひぃ~っ!」

「聞いてんのか。その程度で済んだから良かったもんをだな――」

「聞いてるって。でもしょうがないじゃん、凶暴化した魔物に出くわしちゃったんだからさ」

 存分に味わったうえで呑み込んだミリーは、鬱陶しげに返事をした。

 ミリーが両腕に怪我を負ったのは、実習中に凶暴化した魔物と遭遇した所為……ということになっている。公式な書類上では。

「その話だが、本当なんだろうな?」

「ほーんとぉーだぁって。実の姪を疑うなんて、ひっどいなぁ」

「そういう台詞は普段の自分を振り返ってから言え」

 呆れた視線を前に、しかしミリーは態度を崩さない。一応嘘は言っていないのだからと開き直っていた。

「まあ、色々と突っ込みどころはあるが今は置いといてやる。凶暴化した魔物が出たってのは本当なんだな?」

「それはホントに本当。トリーシャ工房のアップルパイに誓ってね」

「それは」と言っている時点で丸分かりなのだが、クライヴもそこを突くような意地の悪いことはしない。

「……わかった。学園側でも対策は練るが、今後野外実習の時は気を付けろよ」

「うん。あ、そういやウチの班の評価ってどうなったの?」

「成績は後日正式に知らせる」

「えぇー、いいじゃん別にぃ」

 口を尖らせる姪っ子に、クライヴは仕方なく折れてやる。まだまだ仕事は残っているのだから、長々付き合ってなんていられないのだ。

「……パスはしている。評価も、森の一部が大炎上しちまった事以外は上々だ」

「おぉ……!」

(さっすがリオン君)

 ミリーが素直に驚いていると、クライヴから訝しげな眼を向けられた。

「なんだ、えらく他人事みたいな反応だな」

「んなことない、んなことないっ。ちゃーんと喜んでますってば」

 ミリーは誤魔化すようにアップルパイの残りにかじり付いた。

 湖畔のキャンプ地でミリーが意識を取り戻した時には、既に夜が明けていた。ステラは即席多重紋陣魔法の構築で魔力と精神力を消耗、ディノは右腕を負傷し、背中を斬られたデルフィナに至っては陽が昇り切っても眠ったままで、課題の魔草を採りに向かうには厳しい状況だった。

 ところが唯一ピンピンしていたリオンが、ふと居なくなったかと思うとそれを採ってきてしまったのだ。学園側へ提出するレポートに関しては、流石にデルフィナとの一件を書く訳にもいかなかった為、ディノからある程度の事情を聞いたリオンに少し脚色して貰ったという訳だ。

「しかしもう少し手こずると思ってたんだがな、今回の実習」

「ふぇ?」

 感心したような声に、ミリーは何のことかと小首を傾げた。

「課題の魔草、生えてる洞窟まで行くのに湖潜らなきゃならなかったろ。水の加護持ちなら簡単なんだが、今回は外したからな。しかも辿り着いたら着いたで、生えてるとこは水棲魔物の巣の入り口だ」

「あっ……あぁ~あぁ~! そうそう、ホント大変だったんだよもぉ~、って……」

 言われてみれば、キャンプ地へ戻ってきたリオンからは僅かに湿気を感じた。そんなことを思い出しつつ、慌てて調子を合わせたミリーは最後の部分に引っ掛かった。

「ねぇ……もしかして今回のメンバー決めたのって叔父さん?」

「ん? セルヴァとオリソンテはあいつらの担任からの推薦だったな。内容は他の教員も混ざったが……なんだ、急に」

「いや、なんでもないよホント……」

 ミリーが目でも覆いたげな表情をし出したのを見て、クライヴは眉を寄せた。この場にディノでも居れば「余計なことを……」と恨み言を言っていたかもしれない。

「自分に都合の悪い事以外でお前が茶ぁ濁すなんて、珍しい事もあるもんだな。逆に気になるわなんか」

「アタシだってね、言っていいことと悪いことくらいきちんと分けてるんですよ」

 少し目を丸くした叔父に心外とばかりに噛み付いて、ミリーは視線を窓の外へやった。

「……ねぇ、叔父さん」

 それまでの冗談めいた雰囲気から一転、真面目な声で、徐に訊ねた。

「人間ってさ、どうして他人の心の中がわかるようにできてないんだろね」

 偶に思うのだ。相手の心の内が解れば、世の中の色々なことは起こるまでもなく解決しているのではないだろうかと。今回の一件で、ミリーは一層そう思わされた。

 ミリーの心情を別のところから捉えたクライヴは、表情に憂いを乗せる。

「……それが出来ちまったら、多分そいつの事を理解しようとしなくなるからじゃねぇか?」

「心の中がわかるのに?」

「逆だ。心の中がわかるって事は、答えしかわからないって事でもある。そいつが何故そう思うのか、その経緯こそがそいつの人間性ってもんを肉付けしていくのに、それをすっ飛ばしたら理解も何もない。結局、心の中が見えてる筈なのに、外側しか見えてないのと同じなんだよ、それは」

 クライヴの手が懐へ行き掛けて止まる。少し逡巡して、結局名残惜しげに引っ込めた。

「なーんか、もうちょい楽にならんもんかね」

 嘆息したミリーは起き上がった背凭れにゆっくり寝そべった。体重の掛かったベッドがギシリと軋む。

「人生ってのは儘ならないもんさ。その儘ならなさの中で、互いが互いを理解しようと努力する事が大切なんだよ」

「ポエミィだねぇ……」

「茶化すな。他人事じゃねぇだろ、俺もお前も」

「……そう、だね」

 二人の表情に一層の陰りが生まれた。窓の向こうで、一羽だけ群れから離れて飛ぶ鳥の姿が映った。

 クライヴが訊ねる。

「最近、会ったのか?」

「ううん、ここんとこサッパリ。授業も被ってないし、寮に行っても居留守使われるし」

 ミリーは小さく頭を振りながら肩を竦めた。それだけでも少し痛かった。

「俺ももう少し時間が取れれば良いんだがな……」

「仕方ないよ、仮にも教師なんだし」

「『仮にも』は余計だ」

 透かさず軽口が刺されたが、場の空気は重いままだ。こういう空気の続くのが苦手なミリーは、無理矢理表情と声のトーンを明るくする。

「まあいざとなったら張り込みでもするからさっ、大丈――」

「――オォーッホッホッホッ! ご機嫌麗しゅう、ミリアム?」

 バァーン、と病院にあるまじき豪快な音と共に病室の扉が開き、高飛車な笑い声がそれを遮った。

「うわ出たよ、バカドリル……」

「人の事をそのような低俗なアダ名で呼ばないで下さるかしら」

 手の甲を逆側の頬に当てたクラウディアは、入って早々あからさまな溜め息を吐かれて笑みを引き攣らせた。

 豪奢に巻かれまくった金髪が不機嫌そうに払われる。

「まったく、このわたくしが態々お見舞いに来て差し上げたというのにその態度。ナントカは死んでも治らないと言いますが、貴女のその性格も怪我くらいでは治らなかったようですわね」

「あぁ、一応自分が病院に見舞いに来たっていう自覚はあったんだ。喜んでいいんだか悪いんだか……」

「当たり前でしょう。貴女は一体わたくしを何だと思っているのですか」

「……あぁ、はいはいもうわかったから、とっとと入ってドア閉める」

 付き合ってられないとばかりの声に不満げだったが、クラウディアは大人しくそれに従った(閉める時は普通の閉め方だった)。

 部屋の中へ入ったクラウディアと、椅子に座ったまま振り向いていたクライヴの視線が合う。

「クライヴ先生、ご機嫌よう」

「相変わらずだな、ラフォレーゼ」

「あら、学園内とはいえ今は授業中ではありませんし、他の生徒もいないのですから、どうぞ昔と同じようにクラウディアとお呼び下さいな。わたくしもおじさまとお呼びしますので」

「……本当に、お前は昔から変わらねぇなクラウディア」

「わたくしの美点と存じております。お見舞いの品、こちらに置いておきますわよ?」

 クライヴの呆れ半ばな言葉に微笑み返して持ってきたバスケットを棚に置くと、クラウディアは余っていた椅子をベッド脇へ移動させた。

「んで、まさかホントにわざわざ見舞いの為だけに来てくれたん? それだったら素直にお礼を――」

「っそうでしたわ、ちょっとミリアム!」

「……言おうと思ったけど、やっぱんなわけないか」

 座ったばかりで身を乗り出してきたクラウディアに、ミリーは呆れながら顔を逸らした。

 冷めた顔にクラウディアはムッとする。

「何をごちゃごちゃ言っているのですか。それよりも、貴女の班員、少し常識に欠けているのではなくて?」

「どの口が常識を語るか……」

「今日わたくし、班で御一緒した方々と鍛練に励もうと思いましたの。予選も近いですし。それで、どうせなら実戦に近い雰囲気で模擬戦をやりたい、なら闘技場にしようという事になって、闘技場へ行った訳です」

 別段声を窄めている訳でもないのにミリーのツッコミが届かなかったのは、最早いつものことだ。お構いなしにクラウディアの言葉が続く。

「ところがです! いざ行ってみると、既に予約されているではありませんか! それも二時間! 仕方がないから諦めて、どなたが使っているのかだけ確認しようとちらりと代表者の欄を見たら、貴女の班員のオリソンテさんがたったの二人で取っていたのです! 常識的に考えてそのような少人数で闘技場を使うのはおかしいでしょう!」

「いや、別に禁止されてるわけじゃないんだからいいじゃん。遅かったアンタが悪い」

「そういう『早い者勝ち精神』がっ、ここ最近の園内施設の利用問題を引き起こしているのです! きちんと人数と用途に見合った場所をお使いなさいっ」

「だからアタシに言われても……ってか直接言えよ」

 この一言でさらに火が点いてしまった。

「ッ申しましたとも! そうしたら、小馬鹿にした態度で今貴女の言った台詞をほぼそのまま返してきましたわよ、忌々しい!」

「ちょ、あんまベッド揺らさないで。怪我に響くから、割とマジで」

 彼女が喋る度にベッドが揺れるので、負傷した腕がズキズキして堪らないミリーは結構本気で言った。その甲斐があったのか単に気が済んだだけなのか、クラウディアが椅子に座り直して腕を組んだので、ホッと胸を撫で下ろした。これほどまでに安息出来ない病室も中々ないんじゃないか、という乾いた笑いは、心の中で零すに留めた。

「まったく、先程擦れ違った時も思いましたが、貴女方のような野蛮人と班を組まされたステラさんに同情致しますわ。礼節もきちんと弁えていらして、どこかの誰かさん達とは大違いですわね」

 彼女の隣でクライヴが若干頬を引き攣らせた。同時にじろりと自分へ向けられた紅い視線の意味を、ミリーはきちんと読み取る。

「ステラに会ったんだ? あと組ませた張本人アンタの隣にいるから」

 読み取りはするが、汲み取ってはやらなかった。視線の意味など素知らぬ顔をしながら、無精髭を生やしたポーカーフェイスの下で慌てる叔父を見て楽しむ。

「えぇ、こちらへ来る途中で。北へ向かわれたから、大図書館で勉強なさるのでしょう。おじさま、次の実習は彼女と組ませて下さいませんか?」

「……お前も大概調子が良いよな」

 苦々しげな眼付きでミリーを見ながら、クライヴは呆れた声を返した。

「端的に言や、そん時の状況次第だな。必要なら組ませる事もあるだろう」

「まあ、連れませんこと」

 言葉ほど、クラウディアの声は剥れていなかった。

「そういえばおじさま、最近禁煙なさっているのですか?」

「いや、んな予定はこれから先もないと思うが?」

「あら、そうなのですか? この間ベラ姉様が授業中一度も吸われなかったと心底驚かれていまして、確かに今日も吸われていないからてっきり……どうかなさいましたの?」

 いつの間にか会話から外れて外を眺めていたミリーに、クラウディアが眉を寄せた。このくらいの機微なら容易に見抜かれてしまうのだから、腐れ縁とは案外馬鹿に出来ないものだ。

 そう思いつつ、ミリーはクライヴの方を見る。

「ねぇ叔父さん、ちょおっと相談があるんだけどさ」



        †   †   †



 学区北部には武術学部と医学部の校舎の他に、二つ大きな施設がある。

 一つは、北門の傍に構える大図書館。活版印刷以降、印刷・複写技術はガーデンの誇る先端技術の一つであり、急速な発展を見せた今日、この大図書館は世界で最も書物の多い場所とされている。縦横に大きく広がり、且つ神殿を思わせる洗練された建造物は、まるで要塞が知的さを学び得たかのようだ。

 もう一つは、校舎寄りに位置する闘技場だ。四つの円形闘技場コロシアムと二つの競技場スタジアムがあり、毎年秋頃になるとそれぞれに応じた用途で活用される他、平時は実技の合同授業などにも使用される。

 しかしこの闘技場という施設は普段――授業や学園行事を除くと――殆ど使われることがない。普段から生徒の使用が許可されているのは、第四闘技場だけなのだ。たったの一つだけでは不便と思われがちだが、大概のことは校舎内の訓練室や実習室で事足りる為、実際にはそれほど問題はない……というのが、管理者側の見解だ。

 円形闘技場の造りは各闘技場でそれぞれ異なり、その中でも第四闘技場は、他と比べると少しこぢんまりとした様相を呈している。とはいえ、直接斬り合う分には四人居ようが五人居ようが十分な広さであって、一対一で魔法という飛び道具を全力で駆使しても、少しお釣りが来るくらいには大きい。

「来たわね」

 凝灰岩や石灰岩などの堆積岩を用いた堅牢な印象を与える外観に、深いすり鉢状の観客席。その中心でならされた円の上で、葡萄茶えびちゃ色の瞳が来訪者を迎える。

「こないだは色々と邪魔が入ってあやふやになっちゃったけど、かと言ってそれで何かが解決したわけじゃない。だって、お前の罪が消えたわけでも、わたしの憎しみが消えたわけでもないんだから」

 デルフィナの右手に葡萄色の輝きが集った。抜きざまに振り下ろした薙刀が、砂利の除かれた地面を砕く。

「不意打ちしたのは言い訳しない。だけど今度は正々堂々、真正面からやってあげる。それでやられれば、お前だって少しは納得できるってもんでしょ?」

 そう言って、少し走れば届く位置までやってきた少女を厳しい眼差しで見つめた。

「さぁ、構えなさいよ。わざわざこんな場所に一人で呼び出されておいて、まさか今更話し合うなんて思ってなかったでしょ?」

「…………」

 相対する少女――ステラは何も言わない。何も言わず、己が挙動で答えを示した。

 差し出された右手に光が収束する。眩い土色の輝きから巨大な刃が生まれ、重々しい切っ先がデルフィナへ向けられた。

 淡い赤茶の刃を向けられながらも、デルフィナは不適な笑みを浮かべた。「そうでなくては」とでも言いたげな顔で腰を落とす。

「一応、お前にも言っておくわ」

 念を押すように言葉を置く。次の一言を言い終えたら、最早この場に言葉を放つ余地などない。……否、そんな余地など残すつもりはないのだと、言外に告げていた。

 得物を握る二つの手が力む。季節が齎す熱以上に、二人の間に充満する大気がじわりと汗を生み出す。

 ――そして、

「恨んでいいから、さっさとくたばりなさい」

 その一言を合図として、闘いの火蓋が切って落とされた。

 薙刀を引き摺りながらデルフィナが駆ける。自身の間合いの内側へ素早く標的を入れると、切っ先が勢い良く地面を跳ねるのに合わせて両の手で柄を繰り、後方から前方目掛けて半月を描いた。

 洗練された一連の動作を、ステラは先日と同じく紙一重のところで躱す。刃には一切触れず、また不用意に距離も空け過ぎず、同じ間隔を保ち続ける。

「また逃げの一手!? そんなだからお前は――ッ!?」

 苛立ちを吠えたデルフィナが攻撃パターンを変えようとした矢先、ステラが振り下ろされる薙刀を大剣の腹で強引に払い除けて一歩踏み込んだ。

 ステラの剣が巨大過ぎることから、二人の間合いの差はデルフィナがほんの僅かばかり勝っている程度しかない。ミリーのような超近接タイプと違って、その一歩は薙刀の重みに身体を振り回されたデルフィナへ刃を届かせるのに、十分な距離だった。

 デルフィナは咄嗟に武器に引かれるがまま後ろへ倒れ込んだ。刃を切り返し、払い除けた体勢から全身を使って薙がれた大剣が、すんでのところで空を斬る。

「………!!」

 鼻先を掠めた尋常でない風圧が身体に電流を走らせた。お互い、授業や模擬試合の時のような殺傷性を抑える魔法は使っていない。肉体強化による魔力の鎧があるとはいえ、ほんの少しでも反応が遅れていればあっという間に病院送りになっていたことを、デルフィナはその感覚で悟った。

 だが肉体を麻痺させている暇は与えられない。ステラがさらに肩を回して振り下ろした一撃を転がり躱し、その勢いのまま薙刀の柄頭つかがしらを支点として立ち上がる。視界に映った深く砕かれた地面が、逃げ遅れていた場合の末路を連想させた。

「大地のわらべ、我が仇敵を撃ち抜かん。【石童の手慰みグレイベルショット】」

 間髪入れず、中空に顕れた土色の魔法陣から石礫が放たれた。いや、石というよりは砂利に近い。詠唱文からして下級魔法だろう、射程は短く、範囲も少し広いくらいだ。銃器で言うところの散弾銃ショットガンを思わせるが、速度はこちらの方が遅く、避けられないものではない。強いて言うなら、

(構成から発動までが早い! けど……!)

 詠唱破棄さえすれば間に合っていただろうに、どうやらまだ出来ないらしい。同学年でも出来ない奴は沢山居るのだから何ら不思議ではないが、下級魔法を通常通り発動してこの程度の規模なら、恐るるに足りない。危なげなく躱したデルフィナは、反撃に転じるべく地面を蹴り付ける。

「【岩石巨兵の憤慨グラウンドブレイク】!」

 その瞬間、闘技場の地面が

 デルフィナの足下に魔法陣が顕れ、周囲三メートルほどの地面が大きく砕けた。盛り上がった地面に片足を飲み込まれ、肉体のバランスが崩れて膝を着く。

(しまっ――!?)

 足下に気を取られている隙に、首筋へ冷たい気配が宛がわれた。威圧的な剣尖に、デルフィナは自身の敗北を思い知らされた。

(――ッ避けさせられた……!)

 最初の下級魔法がステラの誘いだったことに気付いて、デルフィナは強く歯軋りした。態々きちんと詠唱までして見せたのも、まだあの程度さえ詠唱破棄が出来ないと思わせる為だったのだ。

 いや、それがなくとも、中級魔法の詠唱破棄をこのレベルで出来る一年生が、一体どれだけ居ると言うのか。大概の者なら詠唱破棄が出来ようとも、精々地面にヒビを走らせる程度が関の山だろう。

 刃を宛がわれたまま、デルフィナは観念して深く息を吐き出した。――完敗だ。

「わたしの負けね。いいわ、好きなようにしなさいよ」

 命乞いなどしない。ステラの全てを壊す為、彼女の友人の命まで狙ったのだ。今更それをする資格など自分にありはない。

「さすがに死んじゃうとそっちも迷惑でしょうけど、それ以外なら事故か決闘で口裏合わせれば済むわ。両手か両足斬っちゃえば二度とお前を襲えなくなるでしょうしね」

 そう決意していたのに、舌はやけに良く回る。必要のないことを次々と口から放り投げていくのに嫌気が差した。

「あぁ、何ならあのオレンジ頭と同じようにする? 両腕とも結構な怪我だったんでしょ? そうね、その程度ならたいした騒ぎにもならないし、お手頃じゃない」

 ……違う、怯えているのだ。これからされる報復を想像して、その恐怖を紛らわせようと口を動かしているのだ。

(案外、往生際悪いのね……)

 どちらに非があろうと、復讐には報復が付いて回る。その覚悟はとっくの昔に済ませていた筈だったのに、今更ながら怯えている自分が滑稽過ぎて笑えてしまう。自分が何をしたのか理解してしまっていたデルフィナには、因果応報という言葉が酷くしっくり来ていた。

 首筋を捉えていた刃が離れる。次にはそれが振り下ろされるだろう。最初はどこ? 右腕? 左脚? どこを斬られても泣き叫ぶような無様を晒さない為に、全身の筋肉を強張らせる。

 しかし、土色の輝きが視界の隅を照らしたと思ったら、刃が光の粒となって消えていった。

「……何のつもり?」

 ステラの行動が理解出来なくて、デルフィナは怪訝な眼を向けた。ことここへ至って刃を退いた意味が本気で解らなかったのだ。

 困惑の眼差しの先で、ステラが自身の両腕を重く持ち上げる。

「……私は、自分のこの〝力〟が嫌いです」

「?」

 何の話かさっぱりなデルフィナはさらに眉を寄せた。だが屈んだ状態から良く窺えた俯く彼女の表情が、その言葉が決して嘘偽りではないことを瞭然と悟らせた。

「女の子らしくないし、化け物呼ばわりされるし、いつもいつも私の周りを傷付けて、壊してしまう……こんな〝力〟なんてなければと、数え切れないくらい考えてきました」

 それは自分の知らない表情だった。いや、思えばステラの表情自体、こんなにまじまじと眺めたことなど一度もなかったかもしれない。あの事件の前は興味がなかったし、後は見たくもなかったから。再会してからだって、怒りと憎しみに頭が沸騰しっぱなしで、一度として表情など視界に収めていなかった筈だ。

(あぁ、そっか……)

「そうしているうちにいつの間にか、上手くいかない事を全てその所為にしていました。クラスでの事も、あの時の事も、この〝力〟がなければ起きなかったのだと、顔を背けて逃げるようになっていたんです」

 瞼を閉じて拳を緩く握るその仕草は、何かの痛みを堪えるかのようだ。だが一拍だけ間を置くと、ステラは再びそれらを開く。

 瞼の奥にあったのは、憂いを残しつつも、強い輝きを秘めた瞳だった。

「ですが違いました。この〝力〟は何かを護れて、誰かを救う事も出来るんです。『壊す力』も『護る力』も、どちらも〝力〟の一部で、私自身なんです。片方だけから逃げたり、顔を背けたりしてはいけないんだと気付きました。……同じように、犯してしまった罪からだって、いつまでも逃げていてはいけないんです」

「なら……だったら、その罪をどう償ってくれるって言うの? 具体的には?」

「何もしません」

「はっ、何よそれ」

 あまりにもはっきり言われて、デルフィナは呆れる以外の行動を思い付けなかった。

「ずっと考えていました、どうすればお二人に償いが出来るのかを……ですが、いくら考えても答えは出ませんでした。当然です。だって、何をしたところでデルフィナさんの気が済む事はありませんし、私の罪が消える筈がありませんし、ディノ君の腕が治る訳でもないのですから」

「…………」

 そんなことはない。確かにステラを斬ったところでディノの腕は治らないし、況してや彼女の罪がそれでチャラになる筈もないが、デルフィナ自身の気なら少しくらい晴れるかもしれない。だがデルフィナは、それを口に出すことはしなかった。

「勿論、そちら側からすれば納得出来る話ではありません。ですから今後もいつだって、私個人に対しての報復は受けて立ちます。それこそ、デルフィナさんの気が済むまで」

「そんなこと言っちゃっていいの? 言っとくけど、死ぬまで気なんて済まないかもしれないわよ?」

「構いません、本来なら私の考えなんて無視しなければなりませんから。もっとも今は私もこの場所でやるべき事があるので、そう簡単にやられるつもりはありませんが」

「随分と虫のいい話ね。復讐は受けて立つ。けど他は巻き込ませないし、自分もやられるつもりはないなんて」

「分かっています。ですが、あの時色々なものから逃げ出してしまったからこそ、罰だから、贖罪だからと言い訳してそれから逃げ出したくないんです。今度逃げ出してしまっては、いつか私の犯したこの罪さえ、逃げ続けた日々の中に埋もれていってしまう気がするのです」

 戒めとして傷を残すのは簡単だ。抵抗をしなければ良い。痛みは伴うが、代わりに自身の中で区切りのようなものが生まれ、そこから少しずつ、罪から解放されていくことが出来るだろう。

 だがそれは同時に、犯してしまった過ちに対する意識が薄れていくということでもある。これからも積み重ねていく逃げ出した日々の中で、いつか今日のこの出来事も思い出になってしまうかもしれない。身体に薄ら残った傷跡を見て、そんなこともあったと懐かしむ時が来るかもしれない。罪という事実は消えずとも、記憶の奥底へ埋もれ、押し潰されてしまうかもしれない。

 そうならない為にも、今自分がやるべきことから逃げ出す訳にはいかない。逃げ出さない代わりに、この罪を背負ってこれからも生きていくのだ――そんなステラの言葉に、デルフィナは納得出来ない。納得は出来ないが、それを正面から拒絶する気にはどうしてもなれない自分が心のどこかに居て、勝手にこう口走る。

「……背負って忘れない保証なんて、どこにもないじゃない」

 その呟きの意味するところは理解していなかったのだろう。短くなった茶髪が小さく左右へ振られる。

「忘れたりしません。だって、背負う訳じゃありませんから」

 振られて、表情が和らいだ。或いは優しく、或いは困ったように、微笑みと苦笑の狭間のような顔がデルフィナを見つめる。

「向き合うんです。自分の罪の顔を忘れないよう、正面から。受け入れて、折り合いを付けて、これから先もずっと一緒に歩んでいくんです」

 隙間だらけで支離滅裂に近いけれども、それが自分の出した答えだと、見つめてくる眼差しはそう告げていた。

「……何よ、それ」

 デルフィナはもう一度、今度は本心から、そう呟いた。

「それ全部、自分が勝ったから成立する話でしょ? ただの開き直りで、しかもお願いとか提案とかじゃなくてもう決定してるし」

「それは、その……」

「ムカつく」

 たじろぐステラの言葉を遮って、ようやく足が抜けたデルフィナは立ち上がって背を向けた。

 そのまま、少し片足を引き摺って歩き出す。

「あ、あの、デルフィナさん……?」

 脚も止めず、戸惑うステラに見向きもせず、デルフィナは声だけを返す。

「温情掛けられたのはこっちだし、正面から戦って負けたわたしにお前の決めたことを覆す権利なんてない。かといって、今すぐ再戦して勝てるって思えるほどおめでたい性格でもない。だから今日のところは、お前の言葉に従ってあげるわ」

「……すみません」

「そのすぐ謝る癖」

 背中を追ってきた声にイラッとして、少しだけ振り向いた。

「ムカつくから、やめた方がいいわよ、ステラ」

 そう言い捨てて、デルフィナはその場を後にする。

 直前に向けた葡萄茶色の視線は、言葉ほど冷たくも、鋭くもなかった。



「…………」

 これで良かったのだろうか――デルフィナが通路の陰へと消えた後も、ステラは胸中に蹲る迷いを拭えずにいた。

 自分なりに答えを出して、伝えてみた。伝える為に闘った。けれど、それが本当に「正しい向き合い方」なのか判らないから、こうも迷いを振り切れずにいる。一応、しばらくはデルフィナも他を巻き込むような無茶はしないでいてくれるようだが、納得とは程遠い口振りだったのは疑いの余地もない。

 犯してしまった罪に対して何もしないというのは、自分でもどうかと思ってはいる。けれど先程言った通り、デルフィナに斬られても何も解決しないし、これ以上自分の罪を言い訳にして生きていくのは嫌だった。かと言って二人の代わりに医者の道を行くのも違うし、結局、ディノの言っていた「罰」が一番近いのかもしれないが……。

「ッわぁ――――――――――――――――!!」

 唐突に、ステラは叫んだ。

 体内の酸素全てを声に換えて、腹の底から思い切り吐き出す。身体をくの字に曲げて放ったそれが円形に造られた闘技場に反響し、開け放たれた空へと吸い込まれていく。

 やがて声が途切れると、一度だけ深呼吸して前を向いた。

「…………よしっ」

 濃茶の瞳が景色を捉える。

 もうこの件に関して迷うのはやめだ。自分なりに考えて決めたのだから、せめて立ち止まって迷うのではなく、歩きながら悩もう。迷うだけ迷って向き合わずに後悔するよりも、悩みながらでも向き合ってから後悔しよう。今自分に出来るのは、そうやって少しずつでも前へ進むことだけなのだから。

(爺や……私、頑張ってみる)

 上を向くと、空はやけに澄んで見えた。



 背中の傷痕がジンジンと痛む。

(なんか、変な感じ……)

 あれほど激しく燃え盛っていた復讐心が、今はめっきり感じられない。まるで胸の内側にポッカリ穴でも空いたような感覚に、デルフィナは違和感を覚えていた。

 復讐心がなくなった訳ではない。少なくともそれだけは断言出来るのだが、あの森の時のように「何をしてでも」というほどの炎をたぎらせられないのだ。今回ステラを呼び出したのも自身の中でケジメを付ける為であり、仮に勝っていても、彼女を斬って復讐を成すほどの感情は湧かなかっただろう。……まあ、蓋を開けてみればステラの圧勝だったのだが。

 そもそも、何故あれほどまでに憎悪が膨れ上がったのかさえ、デルフィナは自分自身でも解っていなかった。ディノの件でステラのことは以前から憎かったし、再会した時は我を忘れて斬り掛かるくらい感情が沸騰したのは確かだ。だが森での一件、特にミリーと対峙して以降の自分は、復讐に狂っていた。無関係の人間を巻き込んで、あまつさえ――

「……何よ」

 通路の途中で、デルフィナは外へ向かう足を止めた。

「んにゃ、別に? 偶々通り掛かっただけで用なんかないけど」

 病院着のまま壁へ凭れ掛かっていたミリーが、わざとらしく視線を逸らした。石膏を嵌めて片腕を吊っている癖によく言う、とデルフィナは半ば呆れた。

「心配しなくても、あの女の右腕ならまだくっついてるわよ」

「だから聞いてないって。アンタさ、ひょっとして話したがり?」

「いちいちムカつく奴ね」

 頗る不機嫌な色に表情を染めながら、ミリーの傍を通り過ぎる。

「アンタはそれで良かったの?」

 擦れ違いざまに浴びせられた言葉に、ピタリと立ち止まった。

 しばらく、沈黙が続いた。互いに視線を交えず、背中を向き合わせたまま、どこを見るでもなく視線を漂わせる。応えないデルフィナに、ミリーが何も言わずただ佇んでいると、

「……ディノと戦ってる時、気付いちゃったのよ」

 やがてデルフィナは、声を喉に引っ掛けながらそう零した。

「ディノの為に戦ってた筈なのに、いつの間にかわたしは、自分の為に戦ってた。わたしの気持ちをわかってくれないディノに、怒ってさえいたんだって」

 ――あまつさえあの時の自分は、大切な人の為に大切な人を壊そうとしていた。立ち塞がったディノへ言おうとした言葉に愕然としたデルフィナは、自身の行為の矛盾にようやく気付き、それでもなお、その矛盾を押し退けて刃を振り抜いてしまった。その事実が、腹の奥底から噴火した岩漿マグマのような復讐心を、自分でも驚くほどあっさりと鎮火してしまったのだった。

「今思えば、最初から全部そうだったのかもしれない。何も言わなくても大丈夫、お互いのことは全部理解できてる……でも結局、それはわたしの思い込みでしかなかった」

「そりゃそうだ。血を分けた実の家族だって、んなことできやしないってのに」

「あんたにそんなこと言われるなんて――いいえ。あんたのことだって殆ど知らないんだから、別に意外でもなんでもないか」

 そう、自分は何も知らなかったのだ。ミリーのことは勿論、ステラが自分の〝力〟を嫌っていることさえ。ディノ以外の殆どに関心を持とうとしなかったから、ことの原因を、何故あの事故が起きてしまったのかを、ディノに言われるまで理解していなかった。

 これまでと違い、憎まれ口を叩くどころか自嘲して見せたデルフィナに、なんだか肩透かしを喰らった気分のミリーは、

「んー、なんかゾワッときた」

「大きなお世話よ」

 腕を擦る訳にもいかないので、身体を震わせた。

 大層失礼な態度を取った彼女を、デルフィナはじとっとした眼で睨んだ。

「まぁそういうわけだから、『ディノの為』って言い訳して、自分の気晴らしにあいつを斬るのはやめたわ。多分それをしちゃったら、わたしは一生ディノの傍にいられなくなるから。……もっとも、しばらく顔合わせ辛いのは変わらないけど」

「……ふーん」

 どこまでもディノの傍に居る為に。それこそが自分の為でもあるという基盤は揺るがないが、これまで盲目的にそう信じてきたからこそ、その為に自身がどう在れば良いのか、一度歩みを止めて考えてみる必要がある。今回ステラと闘って、デルフィナは改めてそう思った。

「言っとくけど、あんたには謝らないわよ」

 念を押すようにデルフィナは付け足した。ステラとの勝負だって勝つ気でいたし、負けた際にある筈だった報復も斬ったから斬られるというだけで、それほど自分のしたことが「悪」とは思っていないのだ。ただ、ミリーに恨まれるのは当然のことだという自覚もあり、だからこそ謝るつもりはなかった。謝るくらいなら、初めからしなければ良いのだから。

 ミリーは即座に、心底嫌そうな顔で言う。

「んなもん期待してないし。これはアタシの責任だ」

「……そういうサッパリしたとこ、ステラと真逆過ぎてどうにも嫌いになれないわ、わたし」

「そりゃどうも」

 苦笑混じりに脱力して、デルフィナは止めていた脚を出口へ向けて再び動かす。

 ――突然、グラウンドの方から叫び声が届いた。悲鳴とかではなく、ただありったけの声を吐き出す感じの叫び方だ。思わず振り返ると、ミリーも驚いた様子でそちらを向いていた。

 通路の向こう側が静かになる。この場にあった何かが叫び声に押し出されたように、空気が軽くなった気がした。

「……ところであんた、入院中でしょ? こんなとこにいていいの?」

「あぁ、ヘーキヘーキ。あのベッドはもっと医者に看てもらった方がいい奴に譲ってあげたから」

「あ、そう」

 にへらっ、とした笑いに冷めた視線を返して、デルフィナは今度こそ歩みを再開する。その時、一人病室に置き去りにされた金髪縦ロール少女が大きなくしゃみをしていたことなど、二人が知る由はない。

(あんな風に叫ぶんだ、あいつ……)

 そんな感想を抱いて、外へ出た。



 二人の決闘を観客席の柱の陰から見守っていたディノは、ステラがデルフィナと反対側の通路へ消えたのを見計らって陰から出た。

「どうするんだい、彼女らのことは?」

「っ!」

 突然背後からした声に、反射的に振り返った。

「おや、典型的な反応をありがとう。まさしく『どうしてここに!?』って顔だね」

「……何の用ですか」

 視線と口調、両方に警戒と疑念を込めてディノは訊ねた。

「何の用とはご挨拶な、遥々来てあげたんじゃないか。それも契約の一つだからね。それで、どうするんだい?」

 白衣を纏った女性は惚けた表情で肩を竦めると、同じ質問を繰り返した。その仕草に少し苛立ちながら、ディノはデルフィナの出て行った通路へ視線をやる。

「……多分僕達は、互いに依存し過ぎていたんだと思います」

 ディノなら、デルフィナなら、きっと自分の気持ちを理解してくれる。互いがそう思っていたから、結局、互いに自分のことを理解して貰おうとしなかったし、相手を理解してもいなかった。あまりにも当然傍にいたから、互いの言葉や行動が、最早自分自身のものであるかのようにしていたのだ。

 ようやくそれに気付いたからこそ、ディノはあの時最後の躊躇いを捨て、炎と化した武器を振り抜いた。デルフィナに指摘された通り、流されてばかりいたこれまでの自分と決別する為に……。だがその選択は過ちだったのだと、直後に思い知らされた。

「だからこれから少しずつ、それを治して行かなくちゃいけません」

「依存癖のリハビリ、というわけか。で、茶髪の娘の方は?」

「何もしませんよ、必要ありませんから」

「おや、随分と冷たいんだね」

「別にそういうわけじゃありません。ステラは僕とは違う……それだけです」

 そう、彼女は自分とは違う。過去との決別しか選択出来なかった自分のような凡夫と違い、彼女は過去と向き合ってこれからも歩んでいくことを選べた、まさに非凡以上の超凡とも呼べる人間なのだから。「彼女が過去の自分と決別する為に護る」だなんて、そんな思い上がりが少しでも贖罪になると思っていた自分が、どれほど愚かしかったことか。

 冷めた口調に、女性は皮肉った笑みを浮かべる。

「皮肉な話だ。過去と決別したがっている君は未だ過去に囚われ、受け入れ向き合うと決めた彼女は解放され始めたように見える……もしかしたらそれこそが、君にとっての『罰』なのかもしれないね」

「だとすれば妥当な結果ですよ。そもそもの原因は僕にもありますし、あの時僕が余計なことをした所為で、話が余計ややこしくなったんですから」

「ふむ、君がそれで良いと言うのなら、こちらからはこれ以上何も言うまい」

 腕を組み、顎に片手を当てて納得した素振りで頷くと、彼女の履くブーツが闘技場の石畳をコツコツと鳴らす。

「さぁて、それじゃ『修理』と行こうか。いやぁー、それにしても見事に壊してくれたもんだね。というか痛いだろう、そのままじゃ。よくもまぁ数日間も放置できるもんだ」

「…………」

 クルリと軽快な動きで振り返った女性に、ディノは露骨な顰めっ面を返した。決して、右腕に蹲る痛みの所為ではなかった。

 女性が小さく口角を吊り上げる。

「何だい、今更辞めたくなったのかい? けれど辞めてどうする? 片腕を失い、魔法も使えない状態に戻ったところで、一体君に何ができる?」

 解かれた腕がゆっくりと広がる。促すように。いざなうように。

「辞めることなんてできやしない。君にはソレが必要だし、我々にもソレが必要だ。何たってソレは、新たな可能性の一つになるかも知れないのだから」

「さて、どうする?」とでも言いたげに眉を動かした女性に、ディノはやはり苛立ちを覚えることを禁じ得なかった。

「……行きますよ。大体、そうする以外にもう道なんてないんですから」

 溜め息を一つ吐いて、ディノは歩き始めた。

「それにこれは、例え流された末のものだとしても、やっぱり僕の選んだ道です。この選択に対する後悔なんて、とっくの昔にし尽くしてますよ」

 その後ろに、拭えぬ過去を引き摺って――



        †   †   †



 寮へ戻るといきなりデジャヴを感じた。

 玄関の光景に少し苦い顔をして、ステラはリビングの扉を開ける。

「…………」

 案の定、そこにはテーブルで紅茶を堪能する兄が居た。だから何故態々管理人に頼んでまで鍵を開けて部屋へ上がっているのか、という思いは飲み込んで帰宅の挨拶をする。

「只今戻りました」

「む。帰った、か……」

「? どうかされましたか、マルス兄様?」

 ところが、マルスはステラを見た途端驚いたように小さく目を見張った。若さの割に荘厳さを感じさせるこの兄にしては、至極珍しい光景だった。

「――っステラ!?」

 今度はルナが声を上げた。ナチュラルに浴室から出てきたことについては最早何も言うまい、とステラは思った。

「ルナ姉様。只今戻り――」

「ちょっとこっちへいらっしゃい!」

「え、あっ!?」

 物凄い形相をしたルナに引っ張られて、ステラは強引に浴室へ連行された。

 姉の異様な興奮ぶりに、ステラはどこか恐怖を覚えた。何故か下着姿にさせられたのも一役買っているのだろう。

「あ、あの姉様、何をそんなに……? それにどうして服を……」

 脱衣所の向こう側で、ルナはニコリと笑う。

「い・い・か・ら。こちらへいらっしゃい、ステラ」

「うっ……」

 笑顔が怖い。いつものフワフワしたのとは程遠いそれに、ステラは従うことを余儀なくされた。

 椅子に座って少し待っていなさい、と言って浴室を出て行ったルナに促されるがまま、タオルで拭かれた浴室用の椅子に腰掛ける。ルナが使ったばかりで湿気が充満していて、これならいっそのこと下着も脱いでしまいたいと思ったものの、全裸でちょこんと座ったまま呆けているのは流石に恥ずかしいのでやめることにした。

「はい、これを肩に巻いて」

 脱衣所で何やらガサゴソしていたルナが、大きめのタオルを手渡してきた。どうやらなるべく滑らかな生地の物を漁ってきたらしい。それを巻く傍らで結んでいた髪を解かれ、短くなった茶髪に手櫛が入る。

(あぁ、そう言えば)

 そこでようやく、ステラは二人が何に驚いていたのか理解した。

「あぁもう、やっぱり痛んでる」

 ルナが嘆かわしげな声を上げたと思ったら、金属の擦れる音がして毛先が少し軽くなった。

 実習が終わって二人に会うのはこれが初めてだ。つい数日前に会ったばかりの妹の髪が不自然に短くなっていれば、動揺もするだろう。制服を脱がされたのは単に、切った髪の毛が付かないようにする為だった。

 はさみの小気味良い音が淀みなく続く。

「女の子がこんなはしたない状態を放置しないの。自分は気にならなくても、他人が見ればだらしのないと思われるのだから」

「すみません……」

「……少し変わったかと思っていたけれど、そうやってすぐ謝る癖は直っていないのね」

「えっ?」

「ほら、動かない」

「あ、はい……」

 振り向こうとしたところを制されて、ステラは仕方なく諦めた。その背後でルナが小さく嘆息する。

「まったく。何があったのかは知らないけれど、せめて帰ってすぐ整えに行きなさい。それはマルスだって動揺するというものよ」

「レポートの提出だったり、色々とやることが多くて……。それにしても、マルス兄様が驚かれるところなんて初めて見ました。と言いますか、以外を初めて見ました」

 いつも何か怒ってそうな顔が崩れた様が新鮮過ぎて、思い出したステラの頬が小さく緩んだ。ところが、どうやらルナにとっては違うらしく、どこか呆れた声で言われる。

「何を言っているの。あの子は確かにいつも仏頂面だけれど、貴女の前ではもう少し表情豊かよ? 何と言っても、溺愛する妹の前ですもの」

「姉様、それはいくら何でも冗談が過ぎます」

 これには流石に頷けずそう返すと、益々呆れられた。

「冗談なものですか。言っておきますけれど、貴女を迎えに行くよう提言したのは、お父様ではなくマルスなのだからね?」

「…………はい?」

 いつものマルスに対するからかいだと思っていたステラは、一瞬この姉が何を言ったのか解らなくて思考がフリーズしてしまった。

 マルスが迎えを申し出た? あの使命感の塊である兄が、一族の使命から逃げ出した自分の為に? きっと何かの勘違いだ。恐らく、いやきっと、それも使命を尊重してのことだろう。だがそれなら、何故先日会った時に父が指示したと嘘を吐いたのだろうか。

 そう、マルスは嘘を吐いたのだ。その事実がステラを一層混乱させた。

 眉を寄せる妹にはお構いなしに、ルナは手を進めていく。

「あの子は常々、貴女は医院へ通うべきだと思っていたわ。『ここに居るべきではない』だなんて、『ここよりも医院の方がステラの才能を伸ばせる』と、素直にそう言えば良いのに……。マルスったら、こちらへ来る為に卒業課題を半年以上も早く終わらせて来たのよ? あれには流石にお父様も医院の先生方もビックリ」

「そんな、ですがマルス兄様は……」

「不器用も度が過ぎるといけないという事ね。まあ、身内である分には可愛げがあっていのだけれども、あの子の場合愛嬌が欠片もないものだから」

 ルナはやれやれと苦い微笑みを浮かべた。

「はい、もう良いわよ。ついでにシャワーも浴びてしまいなさい」

 そう言ってルナが流しに集めた髪を捨てに出て行くと、ステラは半ば言われるがまま、下着とタオルを洗濯籠へ放り込んで湯浴びを始めた。少し気持ちを整理したいという理由もあった。

 浴室から出て身体を拭く際、洗面台の鏡が目に入った。長さや髪型が大きく変わった訳ではないが、不揃いだった部分が綺麗に整っていた。医院を卒院して実家を出てから身に着けたのか、ルナの意外過ぎるスキルにステラは思わず感嘆の息を漏らした。

「中々上手いものでしょう? けれど応急処置みたいなものなのだから、明日必ず整えに行くこと。良いわね?」

 リビングへ戻ったステラに、ルナが少し自慢げに言った。夕飯を作ってくれているらしく、エプロンを着けてオープンキッチンから顔を覗かせていた。

 ふと、何気なくマルスを見た。相も変わらず不機嫌そうな顔で紅茶を飲んでいる。一体何杯目なのだろうかという素朴な疑問が湧いたが、ステラは訊かないことにした。

 ルナの言葉が真実なら、この兄が、自分を想って態々訪ねてきてくれたということになる。マルスだけでなく、ルナとて決して暇を持て余している訳ではない筈だ。

「さあ、お夕飯にしましょう。こうして二人に振る舞うのは初めてね。これでこちらへ来た目的はほぼ達成したようなものです」

 嬉しそうに手を合わせたルナにマルスが鋭く口を挟む。

「姉上。一つ御忠告申し上げますが、我々の本来の目的はまだ果たされていない事をお忘れなきよう」

「そう、そうですね。肝心な事をまだ出来ていませんものね……ランド――」

「間違っても、ランドハウスに乗る事などでは断じてありません」

 ピシャリと遮られて、ルナは頬を膨らませた。

「『など』とは何ですか、『など』とはっ。そのような物事を軽んじる子に育てた憶えはありませんよっ」

「私を育てて下さったのは父上と母上、そして屋敷の者達であって、姉上ではありません」

 眉を寄せた状態から微動だにしない兄に、長子である姉が悲しげに口元を覆う。あくまでも、

「ああ、一体いつからこんな反抗的な子になってしまったのかしら。昔は『ねえさま、ねえさま』と、どこへ行くにも私の後ろを付いて回ったというのに……」

「……席へ着け、ステラ。埒が開かん」

 強引に話を切り上げたマルスの眉間に、一層不機嫌そうに皺が寄った。

 この人の眉をこれほど自在に動かすことが出来るのは姉くらいだろうな、と場違いなことを思いつつ、ステラはマルスの対面へ座った。

 ――着いてすぐ、一呼吸を入れる。

「あの、お二人とも。食事の前に、先日のお話の続きをさせて頂けませんか?」

「ああ、こちらもそのつもりだった」

「私は先に食事のつもりだったのだけれど……」

 マルスの隣に座ったルナが透かさず口を挟んできたが、いつもの如く、弟たる兄には受け取られなかった。

「あの後、お前の担当教諭と話をしたのだが――」

「――えぇっ!?」

「……したのだが、本人の意思を尊重すると言われた。そう案ずるな」

「そ、そうですか……」

 突然の暴露に驚いたステラは、ホッと胸を撫で下ろした。この話を自分から切り出すのにかなりの勇気を振り絞ったと言うのに、いきなり気抜けしてしまいそうだった。

 改めて、居住まいを正す。

「私は、医院へは参りません」

 はっきりと、今一度自身へ確認するかのように告げた。意外なことに、二人は全く動じた様子を見せなかった。

「私は取り返しの付かない罪を犯しました。他人の未来を奪って、一族の名を汚して、あまつさえそれらから逃げてしまいました。そんな私が、どうしておめおめと元居た場所へ帰れましょうか」

 声が震える。こういう真剣な話をする時、そんなつもりはないのに何故か涙が浮かびそうになる自分の癖は嫌いだった。けれどそんな癖も自分の一部なのだと、今のステラは思う。

「勿論、一族の使命は理解しているつもりです。それから逃げ出してしまった私に、お二人がチャンスを与えて下さっている事も分かりました。ですが、今のままでは恐らく、そのチャンスも棒に振ってしまいます」

 その予感は確実にあった。あの頃からまだ何も成し得ていない自分では、また逃げてしまうかもしれない。……いや、予感ではなく不安なのだ、これは。だからこそ、今はまだ、その道を行く訳にはいかない。

「私には今、この場所でやるべき事があります。いえ、やりたい事が出来ました。ですからそれをきちんと、今度こそ逃げずに成し遂げたいのです。そうする事でようやく、あの時逃げてしまった色々な事と向き合える気がするのです。ですから……申し訳ありません」

 深々と、ステラは頭を下げた。

「…………」

 何度となく見慣れた泣きそうな顔。けれどその中にこれまで見たことのない力強い意志を感じたのか、拒否権など存在しないと言っていたにも拘わらず、マルスは沈黙を保った。その隣で、ルナが優しげな微笑みを浮かべる。

「ステラ、学園は楽しい?」

「はい? えぇ、と……楽しいと言うより、色々と驚きの連続です」

 突拍子もない話に狼狽える様が可笑しかったらしく、ルナがクスクスと笑いを零したので、なんだか気恥ずかしくなったステラは頬を染めて肩を狭めた。

 一頻り笑って、ルナが言う。

「ねぇステラ、聞かせてくれないかしら。貴女がこの見知らぬ地で、何を見て、何を感じたのか」

「…………! はいっ」

 ステラはこちらへ来てからの出来事を、可能な限り沢山話した。言った通り驚いたことの方が多かったが、大変だったことや楽しかったことも同じくらいあって、ほんの三ヶ月程度の短い期間の中で、自分がどれほど濃密な時間を過ごして、どれほど多くのことを感じたのかを改めて知った。

 思えば、二人とこういう話をしたことはなかった。両親とだって、本当に物心付く前、母にしたくらいだった筈だ。歳が離れている所為でもあったろうし、オルランドや世話係が居たことも理由の一つかもしれない。けれど一番の理由は多分、ステラ自身が、姉兄のことを知ろうとも、自分のことを知って貰おうともしなかった所為だろう。

 話している間に知らずとルナが食べ始めたので、ステラとマルスも食事を始めていた。ルナの振る舞ってくれた手料理はとても美味しくて、それだけで胸の内側が暖かくなったが、きっと何よりも、自分のことを知って受け入れて貰えることこそが、この気持ちにさせてくれるのだと思った。

 話は食事の間中続き、やがて二人が宿へ戻る時間となった頃、それまで黙っていたマルスがようやく口を開いた。

「姉上、そろそろ戻りましょう」

「あら、もうそんな時間ですか? 楽しい一時というのは本当に過ぎるのが早いものね」

 ルナは心底名残惜しそうに席を立った。

「あ、あの、結局私は……」

 このままここに残っても良いのか。まだ何も答えて貰っていないステラは、部屋を出るマルスへ恐る恐る訊ねた。

「……先日私が言った事は、何も変わらん。お前に拒否権が無い事も含めてだ」

 こちらを見ずに放たれた言葉に、ステラは少し胸を詰まらせる。

「だが、学園側からの手続きを無視して編入を進めるのは、礼を失する。そのような些末事で一族の名を汚す訳にはいかん」

 それだけ言うと、マルスは玄関を出て行った。

 何か言う間すら見付け出せなかったステラの前で、ドアが閉じる。

「まったく、本当に素直じゃないのだから、あの子は」

 その隣を通って今一度ドアを開けたルナが、やれやれと言った。

「あの、姉様……」

「ステラ、一つ良い事を教えてあげる」

 茶目っ気のある笑みで、ルナは人差し指を立てた。

「マルスが視線を合わせず言った事は、言葉通りに受け取らない事。少し捻って受け取るくらいが丁度良いのよ」



「ふぅ……」

 手の掛かる姪っ子をもう一度病院へ送り届けた後、教員室の明かりを落とされるまで仕事の続きをしてから自身の研究室へ戻ったクライヴは、誰を憚ることもなくたっぷり煙を吐き出した。こうするのは随分と久しぶりに思えた。

 にされた少女から「非道いですわっ、どうしてこのわたくしが!?」とクレームを受けたものの、「バレなかったからいいじゃん」という姪の言葉に内心賛同してしまう辺り、血の繋がりは怖い。

 とりあえず一本吸い切って、先程まで机の隅で埋もれていた電話を手に取る。掛ける先は、直径にすると百メートルも離れていない研究室だ。

「……あぁ、俺だ。今回は悪かったな、いきなり頼んで」

 開口一番、クライヴは謝辞を述べた。

「まぁ、さすがに万事解決って訳にはいかなかったみたいだが、一緒に行かせた価値はあってくれたよ」

 姪っ子の同行者をしてくれた後輩教諭は、貸しにしておきます、とニヤけた声を返してきた。

「今度メシでも奢るわ。あぁ、それじゃあ」

 それだけ言って電話を切ったクライヴは、その日の財布は軽くしておこうと決心した。

『―先日お伺い申し立てた件ですが、手前勝手ながら保留させて頂く運びとなりました―』

 受話器を置く際、つい先程学生部経由(この時間になっても事務室の明かりは落ちていないのだ)で掛かってきた電話の内容が、今一度脳内で繰り返された。

『―夜分に電話での口伝て、並び先日の非礼についてはお詫び申し上げます。大変失礼致しました。今後とも妹への御指導御鞭撻の程、宜しくお願い致します―』

 たったそれだけだった。だが、どうやら「変化」はあったらしい。本人にも、本人以外にも。

 ディノ達がこの学園に入学していた偶然は、ある意味でステラにとって幸運だったのかもしれない。でなければ、クライヴには「変化」を起こす手立てが思い付かなかっただろうし、ステラはあのまま医療学院へ連れ戻され、後ろ暗い未来を進んだだろう。そうなれば、彼女と親しくするミリーにも影響した筈だ。そもそも、「変化」が良い方向へ向かう確証などもなかった。

 勿論、ステラの為というのはあるし、オルランド老に「頼む」と言われた以上、クライヴが断る理由はなかった。だがそれ以上に、彼女がミリーの親しい友人とことが、何よりも重要な理由だった。

(儘ならねぇっつーが、こりゃ完全に俺の我が儘だな)

 それで一人の少女が過去から解放されるのなら良いではないか、というこの考えもまた我が儘だ。ミリーがそう望んでいると口にした訳でもない。だがそれでも、クライヴはその我が儘を貫かねばならないのだ。

 もう一本だけ火を点ける。先程よりもゆっくり、多く煙を吐き出して、目の前に積まれた紙の山々を忌々しげに睨んだ。これを吸い終わったらまた戦争が始まると思うと憂鬱だ。目を閉じてもう一度開けたら「茶色い隣人ブラウニー」が全部終わらせてくれていないかと、を夢見る。

「……やるか」

 灰を落として、取り掛かった。



        †   †   †



「食事は栄養を考えて作る事。部屋の空気は頻繁に入れ換える事。それから――」

「分かっています。姉様、もう五度目ですよそれ」

「そう? あっ、洗濯物もこまめに干すのよ?」

 ガーデン北部――自治区の施設内で、淡く輝く転移装置が低い唸りを上げる。その前で、何度も同じことを言われて少し辟易するステラに構わず、ルナがやはり既に聞いたことを繰り返した。

「……姉上、いい加減にして頂けませんか。既に予定を一時間も過ぎているのですよ」

「もう、細かいですね。そのように細かいと貴方の度量も――」

「姉上」

「はいはい、分かりました。……溺愛する妹との暫しの別れだというのに、まったくもう。いえ、もしかすると、これが世に聞く『つんでれ』というものなのかしら。まあ、こんなにも身近なものだったのですね!」

 何やら独りでに納得して感動している姉に頭が痛くなったマルスは、額に手を遣りながら頭を振った。

「では行く。努々ゆめゆめ、心身の鍛練は怠らぬよう」

「はい、兄様。お身体にお気を付け下さい」

 マルスの掛けた言葉はそれだけだった。いつもの通り眉を寄せる兄に、しかしステラは萎縮することなく応え、装置へ登る背を見送った。

 転移装置の唸りが大きくなった。まもなく転移が始まる。

 流石のルナもそろそろ装置へ向かおうとしたらしく、手荷物を持った。……にも拘わらずその場で話し掛ける辺り、往生際が悪い。

「やはり、専門家に任せるのが一番ね」

 短くなったステラの茶髪に視線をやりながら、ルナは微笑んだ。「言い忘れていたのだけれど、明日の昼頃に帰るわね」とあの後電話越しに言われたので、急遽午前中に整えに行ったのだ。

「はい、これ」

「?」

 包装された薄長い小箱を差し出されて、ステラは小首を傾げた。

「今のままでも十分可愛いけれど、やはりこれがあった方がしっくり来るわ。いつも付けていた物は実習でボロボロになってしまったのでしょう?」

「――ありがとうございますっ……!」

 思わぬプレゼントに感激する妹へ微笑んで、ルナは半分だけ装置へ振り向く。

「お父様とお母様には伝えておくけれど、夏休みには一度帰ってきなさい。その時に改めて、直接お話しなさい」

「……はい」

「あぁ、それとオルランドの事なのだけれど」

「!」

 そう言えば、オルランドのことを訊きそびれていた。長く一族に仕えているとはいえ、あくまでも使用人という立場の彼が主人に黙ってステラを学園へ送り、生活を支援してくれているのだ。何度か手紙の遣り取りはしているが、実際にどうなっているのかステラは何も知らなかった(手紙の宛先は屋敷ではなく、ステラには馴染みのない住所だった)。

「安心なさい、彼は元気よ。寧ろ、貴女の寮の場所を教えてくれたのはオルランド本人ですもの」

「そうだったのですか……」

 ステラは胸のつかえが少し取れた気がした。同時に、彼に甘えているな、という思いも味わう。

 その様子に困ったように微笑んで、今度こそ、ルナも装置へ登る。低かった唸りが徐々に高くなっていき、装置に描かれた陣が一層輝きを増す。

「お二人とも、お元気で」

 微笑む姉と仏頂面の兄へ向けて、装置の音に負けぬよう、ステラは声を張り上げた。遂に転移が発動する直前で、ルナが口を開く。甲高くなった音が耳を満たし、眩い光が視界を満たした。

 すぐに光が止み、音が遠退く。装置の上にあった二人の姿は、もうなかった。



 ――色々な物を壊した。色々な人を傷付けた。これから先もその危険を孕むこの〝力〟を、やはり好きにはなれそうにない。

 けれど、それは〝力〟そのものが悪い訳ではない。なにより、何かを護れる、誰かを救える可能性を抱くこの〝力〟は、やはり自分にとって大切なものなのだ。

 認められない辛さなら良く理解している。だからこそ、持ち主である自分くらいは認めてあげなければならない。たとえ好きにはなれずとも、受け入れて向き合わなくてはならない。何故ならそれは、自身の一部であると同時に、自身そのものなのだから。

「……あ、便箋買わないと」

 学区へ戻り、寮への道程をゆっくり歩いている途中で、自室のストックが切れていたことへ思い至ってステラは独り言ちた。

 こちらへ来て最低でも二週に一度、多ければ毎週出していたのに(火の大陸でも港で出していたくらいだ)、中間試験のあったこの期間はまだ一度もオルランドへ手紙を書いていない。色々あり過ぎてそんな余裕が吹き飛んでいた。

(何て書きましょう……二人がいらっしゃった事は書くとして、あとは……中間試験の事とか?)

「――ス~テ~ラぁ~っ!」

 手紙の内容を考えていると、どこからともなく駆けてきたイリスに抱き着かれた。

「い、イリスさんっ?」

「聞いてよステラっ、お兄ちゃんったら酷いんだよ!? もう本っ当に信じらんないっ!」

 結構な衝撃をなんとか堪えて抱き留めると、目端に涙を浮かべた幼顔がガバッと見上げて捲し立ててきた。その向こうから勘弁してくれとでも言いたげな表情のアレンがやってきたので、ステラは困惑した面持ちで訊ねる。

「……どうされたんですか?」

「いや、冷蔵庫に買った覚えのないシュークリーム入ってたから食っただけ……」

 心底どうでも良さげな声色だった。だがそれが火に油を注ぐ。

「『だけ』!? いまお兄ちゃん『だけ』って言った!? あのシュークリームの価値を無視した冒涜だよそれ!?」

「んな大事なもんなら自分の部屋の冷蔵庫に入れとけよ。なんで俺んとこに入れたんだよ」

「ご飯食べた後ですぐ食べたかったからに決まってるじゃない! お兄ちゃんこそ、なんで買った覚えのない物を食べるかな!? 拾い食いみたいなものだよ!?」

「お前かシャルが買って置いといてくれたのかなーって思うだろ、普通は」

「そんなわけないじゃん!」

「何気に酷いな!?」

 確かに普段のイリスなら買い置きくらいしそうなものだが、それさえ考えようとしないほどの物だったのだろう。とはいえアレンの言うことももっともであり、恐らくシャル辺りがいれば「どっちもどっちね、馬鹿らしい」と呆れていたに違いない。

 そんな感想を抱きつつも、ステラは全く別の事柄に気を取られていた。

「……ん? どうかしたか、ステラ?」

「あ、いえ。改めて思ったのですが、お二人でも兄妹喧嘩なさるのですね」

 アレンもイリスも、血の繋がりさえ感じさせるほど本当に、互いのことを大切に想っている。けれど知り合ってこれまで、(たとえどれほど下らない原因だったとしても)ステラは二人が何度か喧嘩する姿を見たことがあった。

「そりゃあケンカぐらいするって。ケンカするほど仲がいい……って言うわけじゃないけど、親しいからお互い本音をぶつけられるんだし。それが納得できなきゃケンカして、どっちかか両方が折れて仲直り。……まぁ大体俺が折れるんだけどな」

 微苦笑を返したアレンは、ふとステラの頭部へ視線をやった。

「そういや、髪短くしたんだな」

「えっ? あぁ、その……ちょっと、イメージチェンジです」

「そっか。うん、良いんじゃないか?」

 ことの経緯を話すのもどうかと思ったので、ステラはそう誤魔化した。アレンからの追求がなかったのは有り難かった。

 今度はイリスが訊ねる。

「ねぇステラ、その箱は?」

「先程、帰り際に姉様が下さったんです」

「ルナさん達、地の大陸に帰ったのか……」

 アレンの声色はどこかホッとしたようだった。

「……あ、あのさ、ステラ――」

「それで、中身は何なの?」

 何かを言い掛けたアレンを、イリスの純粋な好奇心が遮った。

 既に中身は知っていたが、ステラはこの場で箱を開けた。箱の中には、ステラがいつも付けていたのと似た白いリボンが入っていた。アレンがしっくりきた風にポン、と手を叩く。

「あぁ、そっか。なんか違和感あるなぁって思ったら、リボン結んでなかったんだな」

「ねぇねぇ、付けてみて?」

 請われて片側を結んだステラは、改めてじっくり見られるのが恥ずかしくなって、少し頬を朱に染めた。

「えっと、どうでしょうか……?」

「あぁ、似合ってると思う」

「うんうん、こっちの方がステラっぽいかも!」

 二人の真っ正直な賛辞と屈託のない笑顔には、恥ずかしい思いをした価値があった。自然と、顔が綻ぶ。

(あっ……)

「と、ところでさ、ステラっ」

 アレンが先程イリスに遮られた話の続きを切り出した。

「えっと、その、なんつーのかな……」

「アレン先輩」

 思っていることを上手く言葉に表せず、後頭部を掻くことしか出来ないでいる先輩に、ステラは柔らかい微笑みを向けた。 

〝力〟を制御する為に感情を抑えていた自分が、いつの間にか自然体で居られるようになっていた。それが一体いつからで、そして何故なのか……今ようやく、その答えへと至った。

 初めて一緒に受けた実技の授業――あの時、自身の〝力〟を見せた際に、アレンが一言、真っ正直に「凄い」と言ってくれたことが、自分でも気付かないくらい深く心に残っていたのだ。

「ありがとうございます」

「へっ?」

 アレンはキョトンとした声を返した。髪型のことにしてはタイミングが遅かったので、何故自分が感謝されたのかさっぱり心当たりがなかったのだろう。

「何? お兄ちゃん、何かしたの?」

 同じように小首を傾げるイリスに、ステラは隠すつもりもなく嬉しげに笑う。

「ふふっ、何でもありません。そうだ、よろしければ夕飯を御一緒しませんか?」

「別に、いいけど……まだシャル戻ってないしな」

 イマイチしっくりきていないアレンは、同意しながらまだ首を捻っていた。

「あ、お兄ちゃん? 罰として明日買いに行くの付き合ってよね」

「あー、はいはい。わかりました」

 まだ怒りを忘れていなかったイリスがしっかり約束を取り付けた。食べ物の恨みは恐ろしい、というのは本当らしい。

 そんな二人の後ろ姿を眺めながら、ステラは後ろ手を組んで歩く。

 自分を変えてくれた。変わる切っ掛けをくれた。その人達にとって大切で、自分にとっても大切になっていた少女を、このありふれた光景を護りたい。改めて、ステラは心の底からそう思った。そうすればきっと、自信を持って一族の使命とも向き合える。犯してしまった罪とも歩んでいける。



「貴女を大切に想う人が居るという事、忘れないでね?」

 装置の音に邪魔されて聞こえなかった筈なのに、あの時ステラには、その言葉が聞こえた気がした。



        †   †   †



 機械都市・アルドハイナ。

 大陸間用に互換性を持った転移装置が、眩い輝きを伴って静かに音を上げた。

「はあ、ようやく戻ってきましたね」

 装置を降りたルナは、、待ち侘びたとばかりに言った。

「…………」

 その後ろをマルスが続く。先日と同じく転移酔いに顰めた顔には、「長距離転移はやはり苦手だ」という思いが滲み出ていた。

「私は直接自宅へ帰りますが、マルス、貴方はどうしますか?」

「このまま実家へ戻ります。父上達に今回の事を話さねばなりませんので」

「そうですか。お体に気を付けるよう、伝えておいて」

「また、直ぐに発たれるのですか?」

「えぇ、あまり時間はないの。先に一度、お風呂にも入りたいですし」

 ルナにとって、それは最優先すべきことだった。結局どうなったのかは判らないが、もしかしたら、しばらく同じ水準のものは使えないかもしれないのだからなおさらだ。

「……時間が無いのであれば、もう少し手早くプレゼントを選べば良かったのでは?」

 遅れた一時間はステラのリボンを選んでいたからなのだから、マルスの言い分はもっともだった。しかし、ルナはそう思わない。逆に何を言っているんだとばかりに頬を膨らませる。

「マルス、物事には優先順位というものがあります。私にとってその最たるは入浴であり、出立の準備と妹へのプレゼント選びなら当然、後者こそが重要なのです」

「それは今更なので理解しているつもりですが、ですからその選ぶ時間自体を短縮すべきだったと申しているのです。あの場で私が決めなければ残った二つで延々悩んでいたでしょう、姉上は」

「あら、延々だなんて大げさな。まぁ確かにかなり悩みはしましたが、あれは私なりの配慮です」

「配慮?」

 一体誰への、とマルスが訝しげに眉を寄せた。

 ルナは微笑ましそうに顔を綻ばせる。

「勿論、溺愛する妹へプレゼントの一つも贈るに贈れない『つんでれ』お兄様への、です」

「…………………」

「照れずともいのですよ? 貴方が店内でさりげなく視線を移していた物を最終候補に残したのですから――あら、どうしました、マルス?」

「実家へ戻ります。姉上、どうか息災で」

 バッサリ切り捨てて、マルスは施設を出て行った。

「まったく、本当に素直じゃないのだから」

 やれやれと小さく溜め息を吐いたルナは、マルスの後を追うこともせず、ゆっくりと歩き出した。

 ゆっくり、ゆっくりと。世界のすべてが、彼女を中心としているかの如く。

 その「中心」から遠く離れた、異国の妹を想い、呟く。

「……ステラ、どうか立派に成長なさい」

 いつの日か、「本願」を叶えるその時の為に。


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銀色の虹の果てに ぺんぎ @penggi0912

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