第七話:『選んだ道の、先に待つモノ』



 ――人は、いつだって選択しなければならない。

 朝起きて二度寝するかどうか。時間優先で朝食を抜くか、それとも遅刻覚悟で食べていくかどうか。素直に二度寝したと白状するか、ありそうにない言い訳をあれこれ考えて足掻くかどうか。

 厄介事に首を突っ込むか、素知らぬ顔をしてやり過ごすか。夢に向かって頑張るか、早々に諦めるか。……逃げるか、立ち向かうか。

 くだらないことから一生に関わることまで、あらゆる場面で選択を迫られ、答えの数に差異はあっても、限られた時間の中で、必ずどれかを選ばなければならない。後々修正出来るものもあるけれど、その選択自体は、もう取り返しの付かない過去のものだ。

 だからこそ、後悔というのは人間に付き物なんだと思う。自分の選択に後悔したことはないなんて言う人は、ただの見栄っ張りだ。

 かく言う僕も、過去の選択を悔やんでばかりいる。寧ろ、後悔したことのない方が少ないくらいだ。

 それは多分、いつだって僕に、ほんの少しの勇気さえないからなんだと思う。本当は自分がどうすべきか解っているのに、その選択肢を選ぶ勇気がないから、別の道を選んでしまうんだ。

 そしてまた、後悔する。それの繰り返し。

 その積み重ねの結果、僕はここにいる。色んな人を傷付けて、その上に立ってなお、後悔しかしていない。

 後悔の塊。それがディノ=エドガルド=セルヴァ、僕という人間なんだと思う――



        †   †   †



学びの庭ガーデン』・本棟。

 親愛なる魔法学部の生徒達が大陸のあちらこちらでてんやわんやしている頃、彼ら彼女らの敬愛せし教師達もまた、この狭いようで広い学び舎にて忙しなく勤めを果たしていた。

「『魔導工学B』、一から五クラスまでの分終わりました!」

「じゃあ『領域魔法学Ⅰ』手伝ってくれ! とりあえずこっちの山片っ端から頼む! これ応用問題の正解例な!」

「『魔導錬成学』の解答用紙の原本持ってったの誰だ! 採点するなら複写コピーして持ってけっつっただろが!」

 怒声の最中も、シャッ。

「あぁあああ、終わんねぇええ!」

「腕っ、腕がぁあああ……!」

「そこっ、休むヒマあるなら手ぇ動かせ! あと何教科残ってると思ってんだ」

 呻きながら机に突っ伏したのと、利き腕を押さえて悲鳴を上げた同僚に叱責を上げながらも、シャシャッ。

「ちわー、学生部からの差し入れでーっす」

「皆さんお疲れ様ですーっ」

「おお、助かる!」

「女神よ!」

 歓声が沸き上がった中でも、シャシャシャッ。

「それで、何があるんだ?」

「握り飯とか?」

「いや、そろそろコーヒーが飲みたい!」

「何でもいいから早くくれ! いやください!」

 やいのやいの。シャッ、ペラッ、シャッ、シャッ。

「ウィンスレット印の特製栄養ドリンクです! 学園長直々に注文してくださったので、皆さん頑張ってくださいねっ」

「……悪魔だ」

「精魂尽き果てるまで働けと言うのか!?」

「いやだぁああぁあああ~~!!」

 絶叫の中でさえ、カリカリ。

「…………だりぃ」

 死んだ魚のような眼をしながら、それでも手を休める暇はない。

 魔法学部の生徒達が実習をしている間に、手の空いた学部所属教員達は筆記試験の採点を終わらせるべく、 学年の隔てなく答案用紙と格闘していた。

 何故こんなに余裕がないのかと言うと、中間試験に試験休みなどという甘ったれたものはなく、実習期間が終わればすぐさま通常授業に戻らなくてはならないからだ。

 また、膨大なまでの生徒数と教員数の差も原因の一つと言える。学科を受け持つ教員が一人で採点するにはあまりに多く、こうして全員で分担せざるを得ないのだ。加えて言うなら、それでも例年通りならここまで切迫してはいない。この戦争のような忙しさは、ひとえに、来月に控えた行事の準備が押しているからに他ならなかった。

(急にスケジュール変えるからこんな風に皺寄せが来るんだよ)

 主に一年生の教科を受け持つ彼――クライヴ=シン=カーライルもまた、寄った皺に押し潰されている者の一人だ。据わった眼付きの間に深々と刻まれたそれが、まさに現状を表していた。

 内心愚痴をぶち撒けながら、それでも手と目だけは休めない。「基礎魔法学Ⅰ」の問題用紙と解答用紙とを交互に見遣りながら、素早く赤いラインを築いていく。



 問い十三:「魔法陣」とは何か? 概要を簡潔に述べよ。

 答:魔法陣とは魔法の構成内容を書き記したもので、円と様々な紋様、文字を使い、魔力によって構築する。これは、変質した魔力が〝物質界アッシャ〟に顕現する為の「ゲート」のような役割を担っている他、魔法的な補助効果を齎す役割も兼ねている。

 通常、人間が魔法を発動する際には、ごく短時間ではあるものの授かった加護に応じた色の魔法陣が顕れるが、自身の肉体や物質を魔法の直接的な媒介とする場合、それらが「門」の役割を果たす為この現象は起きない。

 ――正解。


 問い十四:魔法陣を物質へ直接刻む行為には、どのような意味があるか。

 答:文字や図形を描き起こす為に詠唱が不要であり、魔力の通る道筋を刻むことで魔法陣構築に必要な消費魔力を抑えることが出来る。また、絶えず魔力を注ぐ必要のある維持型魔法などの場合、予め一定の魔力を注ぐことで魔法行使者がその場に留まらなければならないデメリットが解消される他、構成内容次第では時限式・遠隔式の魔法を行使することも可能である。

 なお、肉体などを直接媒介とした場合に発生する魔法陣の顕現省略は、媒介が「門」の役割を担うだけなので、陣構築に必要な消費魔力が減る訳ではない。

 ――正解。


 問い十五:問い十四のような技術を何と呼ぶか――



「順調ですか?」

 学生部勤めの若い女性事務員の一人が、机の隅に栄養ドリンクを置いて訊ねた。

「……まあ、ご覧の通りです」

「ですよねぇ……」

 傍らに今にも崩れそうな紙束を、足元に同じくらい積まれた紙の山々を控えつつ、答える合間も手は動かす。端から聞いても明らかに不機嫌な声で、しかも一瞥しただけだったというのに、女性事務員は特に気にした様子もなく苦笑いを返した。

「大変ですよね。ただでさえ人手も時間も足りないのに、そのうえ魔法学部こっちは実習が終わったらそのレポートをチェックしなきゃいけないし、しかもはまだ先にあるんですから」

「一年坊主どもでも早い奴らは明日明後日で提出してきますからね。まあ、実習があるのはウチだけじゃありませんし、ない学部はもう通常授業に戻ってるんで文句は言えませんよ」

 もっとも、言えない対象はあくまでもだが。……ということはクライヴは口には出さない。

「そっちも大変なんじゃないすか、この時期は?」

「そうなんですよぉ……!」

 代わりに問い返すと、女性事務員は盛大な溜息を吐いた。

「学内施設の夜間使用申請書は一々全部チェックしなくちゃいけないし、その波はまあ実技試験までですからもう収まったんですけど、実習先やギルドとの遣り取りとか、魔法学科でハイクラスのクエストを受ける子たちの転移魔石の手配もしなくちゃいけなかったし。もちろん、通常業務もありますから。最近大図書館から蔵書の紛失報告がよく届くんで、その補充発注も溜まってるんですよねぇ……」

 どうやら相当鬱憤が溜まっていたらしい。不満の捌け口として狙いを定められたクライヴは、うっかり会話を続けてしまった自分を思い切り抓ってやりたい衝動に駆られた。

 勿論、見た目の割に歳を重ねているこの男性教諭はそんなことはおくびにも出さないし、愚痴を零すことに忙しい女性事務員の方もそれに気付きはしない。

「前から思ってたんですけど、どうして中間試験の実習って直前に決まるんですか? 方々に手配する学生部としては早ければ早いほど助かるんですけど……。後期の期末試験は結構早めに決まりますよね?」

 新入生クエストと違い、中間試験と前期の期末試験は学園側が内容を指定する。その為、ギルドへのクエスト受注処理は予め学生部が手配することになっている。またその場合、一定クラス以上のクエストに分配される緊急用の転移魔石も、受注人数に合わせて学園側から申請しなければならない。簡易式とはいえ、あれやこれやと手配するには、上級魔法の魔石というのは高価な物なのだ。

「一応、名目としては、短期間における適応能力と処理能力を見るってのが理由だったかと。外注だと準備期間の少ない依頼が舞い込む事もあるんで。逆に後期の期末は、事前準備や学園から独立した判断能力、中期的な半集団行動における諸々の面を見るのが目的……ではあります」

「外注」とは学生用ではなく一般用の依頼のことで、外部受注の略称だ。学生用は「内注」――内部受注と、学園関係者には呼ばれている。

「『ではあります』って……」

「まあ、ぶっちゃけそれが機能してるかは断言できないのが本当の所って事です。勉学にも言えますが、効果がある奴、ない奴ってのは別れますから」

「そんなぁ……」

 教師としてその発言は如何なものかと思いつつ、それよりも自分達の忙しさがそんな曖昧なものの為に引き起こされているのだと知って、女性事務員は力なく項垂れた。

「そんなもんすよ、システムなんて」

 適当(本人からすればそうでもないのだが)な慰めを口にしつつも、やはりクライヴの手と目は忙しない。

 ふと女性事務員の目に、赤ペンを握る利き手の指がピクピク動いているのが留まった。

「……吸われないんですか?」

「今吸うと止まらなくなるんで」

 即答された返事が明らかにイライラしていたので、女性事務員はクスリと笑みを零した。

「そもそも、ここ禁煙指定エリアですし」

「あら、普段はあまりお気になされていないように思えましたけど?」

「姪が煩いんでね。同僚がポロッと漏らしたらまた喧しく言われる」

「姪御さんが? 魔法学部ですか?」

「ええ、姉の次女で今年入学しました。最近やたらと母親に似てきたんで、正直参ってます」

「まあ、しっかりしてるんですね」

他人事ひとごとだと思って……」

 クスクス笑いの収まらない女性事務員に、クライヴはじとっとした眼を向けた。……と思ったら、突然ニヤリと口角を吊り上げた。

「まあ、あのバカには今回の実習でキツめのを宛がってやったんで。北の森や湖の近くじゃ、まだ得意の火は上手く使んだろう」

 クックックッ、という笑い声の似合いそうな実に悪い笑みに、クスクス笑いを苦笑いへ変えた女性事務員は名も知らぬ女生徒を哀れんでから、ふと思い出した。

「あっ、そうだ」

「はい?」

「先生にお客様がお越しですよ。学生部の方で応接室へお通ししたのでご案内します」

「客……?」

 特に来客の予定はなかった筈だが……と訝しむクライヴは、というかそれを早く言えよと心中でツッコんだ。

「なんか、まだ学生っぽいような、でもちょっと大人っぽい男の方でした。名前は確か……」

「…………」

 それは結局どっちっぽいんだと思いつつ彼女の口から出てきた名を聞き、最後の設問を終えて答案用紙の表に点数を書き込むと、クライヴは栄養ドリンクの栓を引っこ抜いて一息に飲み干した。

 採点の終わった紙に自然と視線を落とした女性事務員が、ちょっと驚いた風に口元へ手をやった。

「あら、満点」



 応接室の扉を開けると、まるっきり面識のない人物がそこに居た。

「……どうも、お待たせしたようで申し訳ない」

 社交辞令としてはギリギリな謝辞を送りながら、しかし視線は怪訝そのもので窺う。

「いえ。こちらこそ、お忙しい中突然の来訪、失礼致しました」

 褐色の髪をしたその男は、まだ十代の若者だというのに何故か荘厳さを感じる――言ってみれば、妙な青年だった。

「それで、〝地の一族〟の長男殿がどのようなご用件で?」

 背の低いテーブルを挟んでソファへ腰掛けたクライヴは単刀直入に訊ねた。まだ仕事は山程残っているのだから、面倒なことはさっさと済ませてしまおうという考えだ。

 あからさまな態度に、マルスが不快に感じたり慌てたりすることはなかった。

「本日は妹の件でお伺い致しました。先生の御担当だと伺いましたので」

 必修とは別に、生徒達にはそれぞれ担当教諭が割り当てられる。進路や学内生活を始めとした様々な面をサポートするのは、この担当教諭の仕事だ。そういえば先程職員室で話題に上がった姪っ子が懇意にしている女生徒は自分の担当だったな、とおぼろげながら思い出したクライヴが、その役割を果たしているのかは別として。

 続けて問う。

「と仰いますと?」

「妹は、九月から故郷の医療学院へ通わせます。ですので諸々の書類を御用意願えませんか」

「……それはまた、急な話で。本人は何と?」

 クライヴの反応は裏も表もないものだった。入学して二月足らずなのだから、それも当然なのだが。

「はっきりと頷いた訳ではありませんが、時間の問題かと」

「つまり、本人から希望したわけではないという事ですか」

「仰る事は解ります。ですがこれは我が一族の問題であると、御理解願えませんでしょうか」

 言外に口出しするなと言われて、クライヴは少し考え込む素振りを見せた。

 無意識に懐へ手が行き掛け、止まる。

「……失礼。構いませんか?」

「お気になさらず」

 逆手で手振りを付けて伺い、止めた手をそのまま懐へ潜り込ませて煙草を取り出した。

 慣れた手付きで適当に一本咥え、指先を「門」とした簡易顕現で火を灯す。やはりこの街で作られた物が一番美味いな、と場違いなことを思いながら紫煙をくゆらせ、邪魔にならない方向へ吐き出した。

「一応、学園長や私を含め、何人かの教員は入学の折にオルランド殿からある程度の事情は伺っています。末娘とはいえ、流石に〝四大貴族〟が理由もなく入学するのは稀ですので」

 そのが既に一人居るのだが、そこは置いておく。

「でしたら、この学園の生徒へ危害が及ぶ前に妹がここを去るべきなのは、御理解頂けるかと存じます」

 自分の妹だというのに随分な物言いだな、とクライヴは思った。もっとも件の老執事から聞いた話を考えると、それも仕方ないのかもしれないが。

「まあ、万が一という事は確かにあります。私も彼女と同い年の姪が通っていますし」

 ふと、マルスの雰囲気がどことなく和らいだ。が、

「ですが、それは医療学院あちらへ行っても変わらないと思うのですが?」

 次の言葉と共にクライヴの紅い瞳が鋭い輝きを帯びた途端、再び緊張感を取り戻した。青いな、とクライヴはことを思った。

「根本的な解決を図る目途が付いているのであれば、反対はしません。しかしそれもなく、本人の意志でもないのであれば、教育者の端くれとしては承諾し兼ねます。彼女の為であるなら尚更です」

「…………」

「勿論ここに居続けて解決する確証もありませんが、ここには色んな奴らが通ってますからね。向こうではできなかった事もここでならできるかもしれません。変化ってのは、多種多様な出会いの中の方が生じ易いもんです」

 いつの間にかクライヴの紅眼から鋭さが取れ、口調も普段のものへと戻っていたが、両者ともそれを気にする素振りは見せなかった。

「まあそれともう一つ、これは至って個人的な願望なんですが」

 テーブルに置かれていた灰皿を手元へ寄せて、灰を落とす。

「さっき言ったウチの姪っ子が、どうやら妹さんと親しいらしいんですよ。折角築いた交友関係なんで、叔父としてはできれば長く続いて欲しいと思ってるわけでして」

 困ったような笑みを向け、クライヴはそこで言葉を終えた。その笑みには子を見守る親のそれが窺えた。

「……ここだからこそ可能な事があるのであれば、逆もまた然り。故郷でしか為し得ない使命が、我が一族にはあります」

 マルスがそれを感じたのかは、彼の分厚い面の皮に阻まれて判らない。

「妹は、ここに居るべきではありません。私にはその確証があります」

 ただ、この台詞にはどことなく苦い感情が滲み出ていた。

 しかし結局、「一度、日を改めます」という一旦の終わりを告げるもの以外、彼の言葉は続かなかった。



        †   †   †



(……あれ、真っ暗だ)

 気が付くと、目の前には暗闇が広がっていた。

(なーんかフワフワするなぁ。アタシ、どうなったんだっけ)

 記憶が曖昧だ。自身の状態もイマイチはっきりとしない。寝ているのか、起きているのか。目を開けているのか、閉じているのかさえ。

 少し遅れて、記憶が追い付く。

(あぁ、そっか。なんとかするとか言っといてやられちゃったのか)

 思い出したら思い出したで、特別悔しいとか、ムカつくとか、そんなことは感じなかった。ただ本当に言葉通り「そっか」としか思わず、他にあると言えば、

(なっさけなー。まだ顔面にぶち込んでないじゃん。しかも結局自分から首突っ込んでるし)

 という、自身の不甲斐なさに対する嘆きだけだった。

(あーあ、なんだかなー)

 気が抜けてしまったらしく、どうにも物事を真剣に考えられなくなっているようだ。水の中を漂うように、ポカン、と呆けてしまっている。

 負けてしまった。大切な友人を侮辱されたのに、その雪辱を完全に晴らすことが出来なかった。

 言いたいことだってまだ残っているのに、どうやら伝えられそうにない。

 何もかもが中途半端で、胸の内側で燻っている。

(……あぁ、クソ)

 それとは違う何かが、徐々に込み上げてきた。まるで燻りの代わりにとでも言わんばかりに、溢れてくる。

 悔しい。

 ムカつく。

 記憶が後から追い付いたように、今更になって感情が追い付いたらしい。ついさっきまで感じてなどいなかった筈のそれらで、心が満ちる。

 大切な人への侮辱を晴らせなかったことが悔しい。

 目的半ばで倒れてしまった自分がムカつく。

 どうしてこんなに弱い。

 どうしてこんなに情けない。

(悔しいよ……お姉ちゃん……)

 ギュッ、と膝を抱える。闇に身を任せ、どこへでもなく漂い続ける。

 漂う中、演じたばかりの死闘の断面が頭に浮かんだ。

 強かった。自分が上のクラスだから偉いとか、下のクラスのデルフィナを侮っていたとか、そんな考えは微塵も抱いていなかった。そもそも、学園のクラス分けは文武双方の総合成績で決まる為、下のクラスにだって何かしらの分野で上のクラスの生徒より実力のある者が居るのは然して珍しい話でもない。

 それでも彼女の強さは、ミリーの想像の遥か上を行っていたのだ。一体、何が彼女をあそこまで強くしたのか――

(……あっ、そっか)

 ふと、気が付いた。

 同じなのだ。自分の抱いた感情と、彼女の抱いた感情は。自分のことなどどうだっていいと思えるくらい、強くて、大切な感情なのだ。

 けれど、ミリーは己の全てを懸けてはいなかった。生き残ることを考え、限界まで周囲への被害を抑え、挙句、。形振り構わず挑んできた彼女との差が、そこにあったことに気付いた。

(……けんな)

 意識が、闇の中へ溶け込んでいく。思考が徐々に鈍っていく。



(――ふざっけんな!)



        †   †   †



「ミリーさん、ミリーさんッ!」

 炎に包まれ始めた森の中へ、必死の呼び掛けが吸い込まれる。

 間に合わなかった。この場へ駆け戻った時には既にミリー目掛けて黒い炎が放たれた後で、ステラに出来たことはそこへ飛び込み、身を挺して庇うくらいしかなかった。

 復讐に狂った炎は、そのまま二人を飲み込んだ……筈だったのだが。

「なんでよ、ディノ……」

 刃先に黒い炎尾えんびを残しながらデルフィナが訊ねた。後から現れたステラとディノには解る筈もないが、直前の狂気じみた雰囲気は忽然と姿を消していた。

 何が起きたのか解らない。確かに炎に飲み込まれたと思ったのに、気付けばステラは無事なままミリーを抱きかかえていたのだ。

「どうしてその女や、その女の友達を庇うのよ……」

 庇った? そう、自分達は庇われたのだ。彼女と自分達との間に立っているこの少年に。だが、彼が一体何をやったのか、ステラにはそれが解らなかった。

「そいつのせいで、わたし達の夢は壊れちゃったのよ? もう元になんて戻せないのよ? 先にやったのはその女の方なのに、その仕返しをするのがそんなにいけないことなの?」

「……違うんだ」

「何が違うのよ! そいつのせいで大怪我したんじゃない! その怪我のせいでまともに魔法も使えなくなったんじゃない! だから今ここにいるんじゃない! !? 何もかも全部みんなそいつのせいじゃないの!!」

 デルフィナの感情に呼応するかのように、黒い炎が僅かに勢いを増した。

「もうわたし、ディノが何考えてるのかわかんないよ……」

 増して、今度は限りなく小さく燻る。

、フィーナ」

 視線を俯けたデルフィナに、ディノは普段より一層静かな声を向けた。後ろからそれを見つめるステラには、前を向く彼の姿が、何故か無理矢理そうしているかのように思えてならなかった。

「順番とか、そういうのが重要だなんて思ってないけど、それでもどっちが先かって話をするなら、それは僕らなんだ」

 静かな口調のまま、全く予想していなかった言葉がステラとデルフィナを揺らす。



「ステラを最初に孤立させてしまったのは、僕らの方なんだよ」



 一瞬、止まった。

「ッ違う、わたし達は関係ないじゃない! あれはその女とクラスの男子達が勝手に――」

「それを僕らは、見ないフリをして手助けしたんだ」

「……ッ!」

「だってそうだろ? 僕らは連中が何をやってたのか知ってたんだ。なのに何もしなかった。先生達に告げ口することさえ。直接やってなくたって、僕らは連中と何も変わらない、立派な共犯者だよ」

 言葉を詰まらせたデルフィナに容赦のない言葉が続くのを、ステラはただ呆然と聴き続ける。

「仕方がなかったのかもしれない。自分も同じ目に遭うことを考えたら、何もできなかったのは無理のないことなんだとも思ってる。でもだからこそ、あの事故は当然あるべき報いであって、あのクラスの全員に起こり得るものだったんだ。それが偶々僕だった、ってだけなんだよ」

 だから、ステラを恨んだことはない。先程の言葉の理由がそこにあったことを、ようやく理解した。

「僕らはしっぺ返しに文句を言う資格なんてないんだ。だって僕ら自身が、あの時自分の身の安全を優先して、こうなるかもしれない道を選んだんだから。その事実と、僕らはいい加減きちんと向き合わなきゃいけないんだ」

 ある意味、信じられなかった。あの事件について誰もが――ステラ自身でさえ、原因はステラにあると思っていたのに、あろうことか被害に遭ったディノ本人の口からそれが否定されたのだ。

 ミリーを抱えたまま未だに時を止めているステラへ、渋紙色の瞳を前へ向けたまま声が放られる。

「そういうことなんだよ、ステラ。君が償うべき罪なんて、本当は最初からありはしないんだ。僕らこそが、君を苦しめてしまった贖罪をしなければいけないんだよ」

 周囲で炎が波打つ。それに照らされた背中から漂う感情が読み取れない。

 あまりに突然自分が悪いのではないと言われて、ステラは返す言葉を見付け出せなかった。どう反応すれば良いのか解らなくて、ディノを見上げることしか出来ないでいると、

「……いや」

 ポツリと、震えた。

「――イヤ、イヤ、イヤ、イヤァッ! イヤなのォッ! その女が全部悪いの、そんな話なんて聞きたくないッ! その女を肯定しないで、そんなディノなんて見たくないッ!」

 渦を巻いた黒炎が荒れ狂う。

「ッイヤァアアァアアアアアア!!」

「―――ッ」

 黒炎が、激しく、荒々しく、生き物のように襲い掛かった。ミリ―を抱えていたが為に咄嗟に動けなかったステラは、ただその光景を瞳に収めることしか出来なかった。

 ――今度は、はっきりと見た。

 一瞬息を呑んだと思われた少年が、炎へ向けて右手を翳した。たったのそれだけで、全てを呪う悲鳴のような炎は轟音と尾を残して姿を消した。

 何が起きたのかは、やはり解らなかった。

 だが、それよりも、ステラはその禍々しさを改めて目の当たりにして初めて、ここに在ったに気が付いた。

(まさか、〝蠢くモノ〟……!?)

 考えもしなかった状況に動揺する一方、黒炎が更に牙を突き立てた。

 先程と同じように、ディノの翳した右手がそれを消し去る。

「ッ、……!」

 だが、今度は炎の勢いが衰えなかった。炎が完全に消え去る前に後続が放たれているからだ。そして、一層激しく火の粉を散らしていく。

「ステラ、安全な場所でガーフィールドさんの治療を!」

 炎の激突音に霞むディノの叫び声から、焦りを感じた。ステラには何をしているのか全く見当が付かないが、このままではいずれ押し切られてしまうのかもしれない。

「で、ですがディノ君、アレはッ――!」

 ステラは素直に頷く訳にはいかなかった。

 あの禍々しさは間違いなく、先日灰色の火山で目にしたのと同じモノだ。何故アレがデルフィナに――人間に取り憑いているのか解らないが、どうあれ、ディノ一人に任せるのは危険過ぎる。

 しかし、このままミリーをここに置いておく訳にはいかないのも確かだ。デルフィナの攻撃の巻き添えを喰い兼ねないし、何より見た限りでも相当の深手を負っているのが分かる。

「早く! 君にしかできないことなんだ!」

 周囲を囲む炎も、今ならまだ抜け出すことは出来る。そうすべきなのも解っている。

 けれど――

(また、逃げる事しか……)

 出来ないのか。散々悩んで、苦しい思いをして、助けて貰って……それでも結局、自分に出来ることはそれしかないのか。

 解っているのだ、その選択がこの場に於いて最も理に適っていることなど。だが、頭で理解していても身体が動いてくれない。感情が、心が、何故かそれを是としない。

 また、が湧き上がる。心臓の辺りが苦しくなって、呼吸さえ困難になっていく。それでも、時間に迫られた理性が無理矢理肉体を起こそうとした、その時。

「す、てら……」

 腕の中からした掠れ声に、思考が遮られた。

「――ミリーさん! 大丈夫ですか!?」

 慌ててそちらを見やったステラは、改めて、彼女の負傷具合に意識が行った。

 両腕はだらりと垂れ下がり、至るところが土塗れで、所々服が焼け焦げている。肌の見える部分は酷く汗ばんでいて、服越しからでも熱を感じた。

 ……この場を離れよう。その様を見て、ステラは心を決めた。嫌われていようが何だろうが、自分の所為でこんなになった人を、これ以上放っておくなんて出来ない。一体自分は何故その選択を迷っていたのだろうかと、今更ながら不思議に思った。

 ミリーを安全なところで治療して、それから戻ってこよう。もしかしたら、その前にディノがなんとかしてくれるかもしれない。それならそれで良いではないか。落ち着いた後で、改めてデルフィナと話し合えば、それで。

 さあ、そうと決まれば善は急げ。早く立ち上がって、周りの炎が完全に取り囲まないうちに離れなければ。

 自身の中でそう納得して、ステラは思考通りに立ち上がろうとしたのだが……。

(……どう、して)

 立ち上がれなかった。身体が動かなかった。片膝を着いて、背中を丸めた姿勢から微動だに出来なかったことに驚き、そうしようとした途端胸の締め付けが一層強くなったことに戸惑いを覚えた。

 僅かに目を見開きつつも、視線は一か所に釘付けにされている。辛うじて見える薄茶色の瞳が、睨むようにこちらを見つめていた。

「っ、……」

 ミリーの唇が小刻みに震える。詰まった呼吸が繰り返される。普段からは考えられないほどに歪んだ表情。腕さえ無事なら今にも掴み掛かってきそうな迫力。彼女の動作一つ一つを、ステラの脳がゆっくりと認識していく。

 何を言いたいのだろうか?

 何を思っているのだろうか?

 きっと、早く治療して欲しいのだろう。

 それか、怒りたいのだろう。

 だって、自分の所為でこんなに傷だらけになってしまったのだから。

 解っています。

 すぐに治します。

 その後で、幾らでも怒鳴られます。

 ですからどうか、今は何も言わないで下さい。



「ッ逃げんな!」

「―――ッ!!」



        †   †   †



「ステラ、早くするんだ!」

 焦燥感に追われるディノは一層声を張り上げた。

 そう長くは持たない。普通、どれだけ魔力を練ろうともいずれは籠められた魔力が尽きて魔法も収まらざるを得ないのだが、目の前の黒い炎からはその気配が感じられないのだ。

 二人が背後に居る限り、避ける訳にはいかない。かといって、このままではいずれ――

 ――ガリ、

 という音が、ふと炎の音に混じって聞こえた。

「……?」

 不審に思って、意識をそちらへ傾ける。棒か何かで地面を引っ掻いたような音のした方へ、デルフィナの炎の届いていないところへ――自身の背後へ向けて、上半身だけで振り返った。

 見ると、いつの間にか召喚していた大剣で、こちらへ背を向けたステラが地面に何かを彫っていた。円形の、内側に様々な紋様を抱えた何かを。

(魔法陣……?)

 一見しただけでも、それが魔法陣だということは解った。だが何故、このタイミングで、彼女が陣を描き始めたのかが理解出来なかった。

「な、何してるんだステラ! 早く彼女を連れて――」

「それで、また逃げろと言うのですかッ? 何も解決せずにこの場を任せて、問題を先延ばしにして、またいつか同じ事を繰り返すのですか!?」

「っ、……!」

 思いもよらぬ反駁に、思わず炎を喰い止めている手を逸らし掛けてしまい、ディノは慌てて意識を張り詰め直した。

「私はもう嫌なんです。逃げ出すのも、その所為で誰かが傷付くのも、結果として誰かを傷付けるのも。例えそれが正しい選択なのだとしても、ここでまた逃げ出してしまったら、私は一生、何とも向き合えなくなってしまう気がするのです」

 今にも泣きそうな声を張り上げながら、ステラは陣を描き続ける。浅い呼吸と共に横たわるミリーの傍で、複雑な紋様が大地へ刻まれていく。

 しばらくしたところで、ピタリと手を止めた。

「ですからディノ君……申し訳ありませんが、私の我が儘に付き合って下さい」

 振り返った茶色の瞳が、ディノのそれを見つめる。

 揺るぎなく、ただまっすぐに。

(ああ、そうか……)

 昔は見たことのなかった力強さに、ディノは悟った。

 彼女は、踏み出せたのだ。己を変える為の、ほんの僅かな、とてつもなく大きい一歩を。

 ならば、自分のやるべきことは――

「――やるなら急いで! そう長くは持たないから」

「はい!」

 弾けるように、ステラは行動を再開した。それを背に受けながら、ディノはどこか感慨にも似た思いに耽る。

(我が儘なんて、言ったことなかったのにね)

 ほんの一年前までは考えられなかった彼女の言動が、まるで自分がそうしたかのように、ディノの心に深く残っていた。

 ステラは選んだ。この状況と、デルフィナと、ミリーと、正面から向き合うことを選んだのだ。

 ならば自分は、その選択が間違いではなかったことを証明する為に、ここに立たねばならない。ステラが自分の選んだ道を後悔しない為に、過去の自分と決別出来るよう、彼女らを護らねばならない。

「…………」

 目の前に迫り続ける炎を見る。

 どす黒く、不気味で、それでいてどこか悲しげな炎は、その先で蹲った少女の悲しみが増したかのように勢いを増していく。このまま競り合いを続けていては、そう遠くないうちにを超えてしまうだろう。ステラの準備が終わるまで持たせるには、やはり……。

(フィーナには、知られたくなかったんだけど……)

 だが、それは自分の我が儘だ。ステラの我が儘と比べれば押し通す必要など全くない。それにデルフィナの口ぶりからすると、彼女はもう自分の秘密を知っているのかもしれない。

「【奪掠の籠手イルアン・グライベル】、起動」

 炎を喰い止めている右手の感覚が変化していく。虚空より顕れた純白の輝きがそこに纏わり付いていく。

 ――ならばこれが、今自分に出来る、精一杯の贖罪なのだろう。



        †   †   †



「ッ逃げんな!」

 その叫びが気力を振り絞ったものだったことはすぐに解った。噴き出した憤りも共に出し切ったのか、後に続いた言葉はこの黒い炎の巻き起こす轟音の中では辛うじて聴き取れる程度の、か細いものだった。

「アイツは、自分の大事なもんを捨てようとしてる……捨て切れないってわかってるクセに、それを無理矢理壊そうとしてる……そうまでしてでも、アイツはアンタを憎むことを選んだんだ」

 憤りから一転、今度は悲しみに満たされた表情で発するミリーの言葉が、再びステラの胸を穿つ。

「けどッ、アタシはそんなもん認めない! そんな奴から逃げることも認めない! アイツのやろうとしてることがどんだけ矛盾してるのか、誰かがわからせてやらなきゃならない! ……悔しいけど、アタシにはできなかった」

 自身の不甲斐無さを呪う声が、数拍の間を作る。その数秒で、ミリーは今一度自分の心を奮い起こした。

「だからステラ、アンタがやるんだ……ディノ君じゃ意味がない。何もかもから逃げ出して、それでも捨てずに足掻いてきたアンタだからこそ、できることなんだ」

「そんな、私には……」

 ステラの胸中は罪悪感と困惑で埋め尽くされていた。それほどまでにデルフィナの心が壊れ掛けてしまっていたことへの罪悪感と、ミリーがこれほどまでに憤っていることに対する困惑で。

 だが今は、その罪悪感を拭うことも、困惑への答えを得ることも、出来そうにない。

「お願い、ステラ……アイツはもう、自分じゃ止まれないんだよ」

 ミリーの呼吸が更に浅くなっていく。もう殆ど目を瞑っている状態だ。

 それでも、最後の最後まで言葉を振り絞る。

「だから……手遅れに、なる、前に――」



 気力が尽きたのだろう。ミリーの意識はそこで途切れた。

 腕の中で気絶したクラスメイトをステラは見つめ続けた。

 自分が色々なことから逃げ出した所為で、こんなにも傷付けてしまった。ミリーだけでなく、ディノも、デルフィナも、今このような状況になってしまっているのはやはり自分が逃げ出したからだという考えに、変化は生じていない。

「ミリーさん。もう少しだけ、我慢して下さい」

 刻み終えた陣が消えないようその上にミリーをそっと乗せ、ステラは彼女の状態を再確認する。

 治癒魔法の基本は対象者の体内魔力を刺激し、自己治癒力を高めることにある。だが一口にそうは言っても、実際には単純に外傷を直すものの他に骨折や炎症などの内部損傷を治すものもあり、傷の付き方や種類によっても適切な魔法は変わってくる。

 またそういった物理的な怪我に対するもの以外に、解毒や解熱作用を促進させる魔法などもあって、高度なものになれば複数の効果を併せ持つ魔法だって存在する。治癒魔法の使い手は、対象の状態を見極め、常に適切な――最低でも無難な――魔法を選ばなければならないのだ。

 医療学院付属というだけあって、通常、魔力操作に十分慣れた最終学年から学び始める治癒魔法の基礎を、故郷の基礎学校では四年生の後半から教えている。初めの頃は上手く魔力を制御出来ていなかったとはいえ、ステラとて例外なく(寧ろ〝地の一族〟の末子として当然)そのことは頭に叩き込まれていた。

 自身のに間違いがないことを改めて確信して、陣の端へと移動する。

 細かいものも含めればかなり広範囲に怪我を負っているが、取り急ぎ治療しなければならないのは両腕だ。左腕は肩も外れているし、右腕の骨折具合はミリーの今後に関わるほど酷い。

 しかし今の自分では、それらを的確に、且つ素早く治癒出来る魔法は扱えない。複数種の効果を含んだ治癒魔法というのは、それほどに高度なものなのだ。かといって、それぞれの怪我に応じた魔法を個別で発動するには、そもそもの話、片方だけでも時間が足りない。デルフィナの炎がいつ襲ってくるかも分からないこの状況で、一つ一つの怪我を悠長に治している余裕はなかった。

「…………」

 本来なら、ミリーをどこか安全なところまで連れて行くべきだったのだ。そうすれば余計なことは気にせず、確実に彼女を治療出来ただろう。

 だが彼女の願いが、想いが、胸の内で何度も響いた。だからこそ、ステラはこの場に留まる決断を下したのだ。

(――げるな、逃げるな、逃げるな、逃げるな……!)

 心の中で何度も自分に言い聞かせる。

 ずっと、逃げ続けてきた。

 家族からも、一族のしがらみからも、学校からも、自分自身からも。その結果として、クラスメイトを傷付けた。心が壊れ掛けてしまうほどに人生を狂わせてしまった。それは誰が何と言おうと、ステラの犯した罪だ。今目の前のこの状況から逃げ出してしまっては、また同じことを繰り返すだけだと思った。

 それに、逃げ出さなくともそれは変わらなかったのかもしれない。いつか、どこかで誰かが傷付いていたのかもしれない。それは結局のところ、選んでみなければ判らない仮定でしかないのだ。

 ならば、また逃げ出して後悔するよりも、立ち向かって後悔すれば良い。そう思えるようになったのは、ミリーの叱咤のお陰だった。

「逃げるな」。この一言がデルフィナから逃げるなという意味だと、誰もが思うだろう。事実、その意味も多分に含まれていたのは間違いない。しかし一方で、ミリーが自分自身から逃げるなという意味合いを以て叫んだことを、ステラは迷いなく確信していた。ディノがこの場をなんとかしてくれるだろうと、また誰かに頼り切りそうになっていた自分を戒めてくれたことを。

(ありがとうございます)

 そのことに感謝し、深く、一度だけ呼吸をした。

 魔法陣の主立った役割は、魔法効果がこの世界に顕現する為の「ゲート」だ。しかしそれは何も、発動時に勝手に顕れてくれる訳ではない。記された紋様の成り形はともかく、魔法陣それ自体は、行使者の意志によって、行使者の魔力を使い形成されるのだ。

 通常の魔法発動時の陣が短時間しか顕れないのは、その役割以上に、そこに割ける魔力が限られているからに他ならない。「門」にばかり魔力を注ぎ過ぎては、肝心の魔法効力が落ちてしまうことになり兼ねないのだ。

 かと言って、あからさまにその量を減らしてしまえば、今度は魔法自体が発動しない。「門」が(視覚的ではなく性質的に)小さ過ぎると、変質した魔力が通れなくなってしまうからだ。だからこそ魔法陣の形成は、幼い子供達の持つ「魔導師」の適性を測る上での最初の関門でもある。適性の高い者ほど陣と魔法、双方へ注ぐ魔力のバランスが良いということだ。

 ――ところで、顕現した魔法陣には様々な紋様が記されているが、先にも述べた通りその全てを行使者が描き上げている訳ではない。行使者が実際に思い浮かべるのは、魔法陣に限って言えば、せいぜい発動位置くらいのものなのだ。

 ではその成り形は一体どのようにして決まるのか。実を言うと、現代人でその答えを正確に知る者は居ない。「精霊の気まぐれ」と言う者も居れば「喚び起された世界の記憶」と詠う者も居るが、いずれにせよ、未だ推測の域を出ていないことだけは確かだ。

 故に魔法陣を物質へ直接刻むには、一度実際に魔法を発動して、ならない。一般に知られている魔法の陣はそのようにして書物に収められており、現代魔導師はそれらを記憶、複写して陣を刻む。その性質上、通常通りに魔法を発動するよりも時間を要してしまうものの、魔力を流す道筋が目に見える分、使用する魔力のバランス調整は格段にやり易くもある。

「――――ッ」

  の一部に手を触れ、ステラは身の内で変質した魔力を注いだ。

 爆風に曝された大地を、刻まれた導に沿ってそれが走る。陣に触れた部分を始点とし、多方向から一斉に、対面で合流すべく突き進む。 

 その中、ステラは自身の胸が再び締め付けられていくのを感じていた。

(怖いッ……!)

 この方法が上手くいく確証なんてどこにもない。自分の下した判断の所為で、今度こそ大切な人を失うかもしれない。その恐怖に心が満たされていく。

「向き合う」ことがこんなにも怖いだなんて、思いもしなかった。自分が今まで、如何いかに逃げ続けていたのかを突き付けられているような気分だ。

 けれどそんなことは関係ない。ここで失敗してしまえば、失われるのは決断したステラではなくミリーの未来なのだ。

 だから、抑え付ける。必死に、懸命に、この身の内で暴れ回る情念と闘う。



 ――光が、円を結んだ。



        †   †   †



 ずっと、解らなかった。

 どうしてあの時、蹲った背中に手を伸ばしたのかを。

「ッ、……!」

 黒い炎と相対するディノの頭の中をそんな思考が掠めたのを余所に、純白の輝きに包まれた右腕が再び姿を現した。

だって……?)

 黒の制服に包まれたそれに、変化は見られない。

(そうさ、僕は羨ましかったんだ)

 背後で倒れている全く無関係の少女が立ち向かったのだと聞いた時、自分でも驚くほど真っ先に、ディノはそう思った。誰かの為に立ち向かうのに必要なものが、自分には決定的に欠けていることを理解していたからだ。

 数年前のあの頃、ステラが嫌がらせを受けていることを知っていながら、ディノは何もしなかった。出来なかったのではなく、

 だって、周りの誰もそうしなかったから。ステラと隣り合っていた子も、クラス委員の子も、誰も助けようとはしなかったのだから。周囲と違うことをするのに、ディノは人一倍恐怖心を抱いていた。

 ディノの育った環境は、医療に秀でた貴族という家柄以外、至って平凡なものだった。成績が良くても、幼馴染と夢を誓い合っていたとしても、それらはまさに平凡そのもので、平和そのものの日常だった。けれどもある日を境に、その平凡には亀裂が生じてしまった。たった一人の少女と同じ空間で学ぶようになったその時から。

 ディノはすぐに理解した。彼女は自分とは違うと。どれほど周りが冷たい目で見ていようとも、それはまさに、凡百である自分達と違うからこその感情なのだと。そんな自分が他とは違う行動を取るなど、竜に挑む気概を以てしても出来ることではなかった。

 だから見ないようにしてきた。特別親しくもないクラスメイトがどうなろうと興味のなかったデルフィナとは違い、ディノにとってその行為は、自身の中の罪悪感に苛まれる日々の始まりを告げるものでもあった。

(最初から踏み出していれば、フィーナもステラもこんな風に争ったりしなかったかもしれないのに……)

 あの日――この状況を作り出した直接的な原因でもあるあの日、偶々ディノは小さく蹲る背中を見付けてしまった。怯え震えるその姿に、募り続けていた罪悪感は一息に膨張を果たした。

 天使の囁きも悪魔の囁きも聞こえない。その後にどうするかなど思い付いてもいない。ただ漠然と、そうすることでこの罪悪感が払拭されると勘違いしてしまっていたことにさえ気付かず、まるで何かに取り憑かれたかのように手を伸ばしていた。

(いつまで経っても昔のまま。後悔するって分かってる癖に変えられない自分が、嫌で嫌で堪らない)

 しばらく見ないうちに僅かでも変化していた彼女とは違う。どうしようもない自分に、いい加減愛想が尽きてしまう。

(今だってそうだ。こんな時でさえ、僕は踏み出すことを躊躇ってる)

 自分の秘密が大切な人に知られることを。その所為で更に彼女を苦しませてしまうかもしれないことを。……そうやって言い訳を繰り返し、踏鞴たたらを踏んでいる。

 ふと、

「――てやル」

 荒れ狂う炎を挟んでいるというのに、デルフィナの呟きが耳へ届いた。

「壊してやル壊シてやる壊しテやる壊してヤる壊シテヤル……」

「フィー、ナ……?」

 心配と怪訝の混じった表情で窺うのと同時に、ディノが思わず身体の力を抜いてしまいそうになったその時。

「ッうアぁァアあァああアア!!」

「――ッ!?」

 デルフィナの叫びと共に黒い炎の勢いが急激に増した。余りの勢いに右腕が弾かれ掛けたのを、ディノは左腕で支えることでなんとか持ち堪えた。

「全部ッ、全部壊してヤルッ!! 邪魔すル奴ハ全部! その女モその女の味方モ全部!!」

「ぐッ……!」

 今にも炎に飲み込まれそうになるのを、ディノは全身に有らん限りの力を込めて懸命に堪える。堪えながら、頭のどこかが冷静に「それにしても」と思考を巡らせた。

 今のデルフィナは、明らかに普通ではない。怒り狂っているにしても常軌を逸している。それに、確かに彼女は実技の方が得意ではあるが、これほど強力な炎を扱えはしなかった筈だ。などというものもデルフィナの加護からして有り得ないし、それが詠唱もなしにここまで密度の高い魔力を帯びているのもおかしい。何よりこんな魔力を放出し続けていては、デルフィナ自身、無事では済まない。

(――いや、違う!)

 唐突に気付いたディノは、慌てて右腕に意識を集中した。

 何をするにも一旦この攻撃を途切れさせなければならない。を使い、極めて単純な魔法効果を構築する。

「【火弓兵の鏃フレイムアロー】」

 右腕の傍に葡萄えび色の魔法陣が顕れ、矢の形をした炎が黒炎の隣を一直線に疾走はしった。

 炎の矢はデルフィナの足元へ命中、衝撃で飛び散った石飛礫が代わりに襲う。彼女を取り巻く炎の渦が意思を持ったかのようにそれを阻んだが、同時にディノへ向かってきていた炎も途切れた。

 すぐさま、駆け出す。

(あんな魔力、普段のフィーナならまず出せない)

 魔力の保有量は人それぞれだ。しかしある程度は訓練すれば増やせるものの、そもそも人間が肉体の性能を引き出し切れないのと同じで、意識的に使える量というのは限られている。生物には肉体の崩壊を防ぐ為の安全装置リミッターが備わっているものだ。

 そしてデルフィナの魔力量は、同い年の中でもあまり多いとは言えない。それ故にあまり魔法を使わず、身体能力と散発的な「効果」を駆使して戦う彼女は、魔導師の戦闘スタイル基準で言うところの戦士タイプに相当する。そんな少女が、既に一度戦闘を終えた後で、これほどまでの魔力を放出し続ける。それの意味するところを察したディノの心に、これまで以上の焦りが生まれていた。

 とにかく、なるべく魔力を使わせないようにしなくてはならない。それには接近戦が最も効果的なのだが、そこで一つ、ディノは問題を抱えていた。

 ディノは自分の武器を持っていない。自身の魔法技能に絶対の自信を持つが故のイリスとは違い、専用の武器を持とうとしない。だから彼が今喚び出すことの出来る武器は訓練用の木製の物だけで、炎の使い手とは相性が悪過ぎる。長く密接状態を保つには別の武器が必要だった。

「邪魔ヲすルなぁァッ!!」

 黒い炎が横から回り込むように襲ってきた。この軌道なら後ろの二人には当たらないと踏んで躱し、念の為避け様に右手で少し触れておく。勢いの欠けた炎が離れたところで樹木を燃やす炎と同化した。

 もうデルフィナとの距離はあまりない。猶予は僅かばかりしか残されていない。

 ……だというのに。

(まだ、迷うのかッ……!)

 この期に及んでまだ躊躇っていることが自分でも信じられなくて、歯軋りさえしそうになった。

 決めたのだろう、ステラの選んだ道の為に彼女達を護ると。解っているのだろう、もうデルフィナがではないことくらい。気付いているのだろう、この躊躇いが全て自分だけの為のものなのだと。

 もういい加減、変わらなければならない。選ばなければならない。そうしなければ、今度こそ本当に、自分は大切なものを何もかも失ってしまうに違いない。

 デルフィナが片腕で薙刀を構えて迎え撃つ。黒い炎がその刃先へ集まっていく。

 ――決断の時だ。

(ステラは選んだんだ)

 新しい場所での出逢いを切っ掛けにして。

(フィーナも選んだんだッ)

 結果がどうあれ、それは彼女が選び抜いた道だ。

(僕は……僕だって!)

 彼女達がそうだったように、今この瞬間が、自分にとっての切っ掛けなのだとしたら。

 大切な人を止める為の、最後のチャンスなのだとしたら。

 自身の犯してしまった過ちを償える、唯一の場面なのだとしたら。

 ……たとえそれが、その大切な人と刃を交える結果となろうとも。

 未だ躊躇う心を、叫び、押し出す。



「【剛炎槍牙エルデバルド】!!」



 右腕の肘から先が炎に包まれた。

 制服の袖が消し飛び、腕が露出する。その下にあった、肌を覆っていた物が姿を現す。

 鋼色のそれは籠手のような物だった。腕を筒状に包み、打撃や斬撃から護る防具という意味では、それは確かに籠手の役割を務めていると言えただろう。だがその形状フォルムは普通の籠手とは明らかに異なる――否、

 武骨で味気のなかった見た目が、巻き起こった炎と一体化したかのように、流動的に姿を変える。鋼色が炎朱えんじゅに染まり、肘までだった長さは肩をも越え、全体が炎の尾鰭おひれを模る様はさながら、燃え盛る鎧。

 変化はそれだけに留まらない。巻き起こった炎の、籠手と一体化しなかった部分が別の形状へと姿を変えていた。

 唸り声を上げて炎が集う。細長い柄は槍を思わせるが、先端部分の片方には斧頭が、逆側には鉤爪のような突起が付いている。ハルバードと呼ばれる武器だ。それを、炎を纏っていない左手が掴み取る。

 ――戟音が散り、黒い炎が消えた。

「!?」

 デルフィナの驚愕した気配には構わず、ディノは炎の作り出した得物を振るう。

 片腕だけで振るうにはその武器は些か大きかったが、鎧を纏った利き腕は使わない。デルフィナもミリーに負わされた(と思しき)怪我の所為か片腕しか使わない為、条件は同じ。武器も同じような長物だ。重量感のあるぶつかり合いが、しかしディノの攻勢で続く。

 互いの武器が幾度も交わり、その度、デルフィナの刃に黒い炎が灯り、消える。

 不可解な現象。不利な状況。デルフィナが距離を取ろうとする。だがディノはそれを許さない。殆ど身体ごと、隙間もないくらい武器を押し付けた。

「ディノォッ……!」

「邪魔するさ、それが僕の選んだ道なんだ」

 忌々しげに睨んでくる葡萄茶えびちゃ色の瞳に、ディノは柄を押し付けながら応えた。互いの得物が堪え切れずに弾き合い、重量に逆らって再び斬り付ける。金属と金属の衝突音が炎の中を駆け抜ける。

 ――最中さなか、全力で働くディノの脳ではなく、第六感とでも言える何かが告げる。

 見た限りで魔力の消費が最も激しいのはあの炎の塊だ。武器への「効果」はこの際無視してでも、あれを阻止しなければならない。

 いっそのことデルフィナの意識を奪ってしまえれば話が早いのだが、残念ながらそれは出来そうにない。ただでさえまだいないのに、体力を消耗しているとはいえ実技の得意なデルフィナと接近戦をしているのだ。気を抜くとすぐに立ち位置が逆転してしまいそうで、ディノには現状を維持するのがやっとだった。

 ――と、感じていたところへ、

「――ッ、!?」

 横腹からミシリと嫌な音がして、体内の空気が唾液ごと勢い良く吐き出された。くの字に折れ曲がった身体が軽く宙を浮く中、遠ざかっていくデルフィナが足を投げ出しながら宙に浮いているのを視界の端が捉えた。

 一度肩で地面を擦り、素早く起き上がる。それが解っていたのかデルフィナはステラへは向かわない。十分に態勢を整える間もなく襲った追撃を、ディノは目前ギリギリで受け止めた。

「選ンだ!? 流さレてばかりノ癖に、一丁前ナこと言わないデ!!」

 激しい怒声が熱気と共に吹き掛かる。

「ディノはいつダってそう! 自分一人じャ何も決めラれなくテ、他人ノ視線ばかり気にシテ、結局何モ出来なクて、その癖後悔ばかりシてル!」

「……ッ!」

「わたシは違う! わタしは自分デ決めてここにいル! 自分で決めテこうシテる! 今叫ンでるのも、戦っテルのも、全部わたしノ決めたコトよ!」

 無理矢理弾かれ態勢を崩される。武器の重みなど感じさせない動きの蹴りを喰らい、地面へ這い蹲る。右手を地面へ着いた状態で振り下ろされた刃を受け止め、衝撃に腕と膝が悲鳴を上げた。

「わたしはあノ女が憎い! ワたしタチから全てヲ奪ったあの女が憎クて憎くて堪らナい! アの女の全部を壊さなイと気が済マない! そレを邪魔したからオレンジ頭はあアなった! ディノだって、邪魔ヲするならッ――」

 突然、デルフィナが言葉を詰まらせた。目を見開いて、武器を押し付けたまま硬直する。

 言葉の途中で固まった口から、言葉にならない声が漏れ出る。、それでもなお無理矢理言おうとしているかのように、唇が震える。

「邪魔ヲ……邪魔を、スル、なら……ッ!!」

 苦しげに歪めた顔が酷く汗ばんでいき、絶えず感じていた嫌な気配が僅かに鈍った。

(――――僕は)

 その様を、ディノは得物越しに茫然と見つめる。

(僕は、フィーナのことを考えたか?)

 苦悶の表情を浮かべる幼馴染みを前に、改めて思った。

 デルフィナは他人に無関心なことが多い。自分以外で仲が良いと呼べる友人をディノは知らないし、彼女自身そのことを気にした素振りを全く見せたことはない。彼女にとって周囲の殆どの人間は、居ても居なくても同じ人形のように映っているのかもしれない。

 ディノだ。ディノだけだ。デルフィナにとっては、ディノこそが全てなのだ。ディノのいない世界なんて考えられないし、ディノを傷付ける奴はゆるさない。ディノの幸せこそが自分の幸せであり、それを邪魔したからこそ、彼女はステラをこれほどまでに憎んでいるのだ。自惚れと思われるかもしれないが、それは恐らく間違いないのだろう。

 そんな彼女が、今このような状況で何を想っているのか。大切な人と相対して、胸の内にどのような感情が渦巻いているのか。ディノはここへ至るまで、遂に考えていなかったことに気付いた。

「ッッッッッァァァアアァアアアアアア―――!!」

 何かを振り払うように上げられたデルフィナの叫び声は、もはや怒号なのか慟哭どうこくなのかも区別が付かない。嫌な気配が一層増し、激しく舞い上がった黒い炎と今一度振り翳した薙刀が、纏めてディノへと降り注いだ。

(でも……)

 甘えていたのかもしれない、彼女が隣に居る日常に。あまりに当然のことだったから、彼女がこちらへ付いてくることに何の疑問も覚えなかった。彼女が怒ってくれるから、泣いてくれるから、自分で表すべき感情を全て任せてしまっていたのかもしれない。自分がステラを護る為に立ち塞がったことも、きっといつか理解してくれると手前勝手に確信してしまっていた。

 ……甘えていたのだ、デルフィナという存在に。

(でも、!)

 薙刀を転がり躱し、無数に形成された炎の槍を立ち上がり様、右手で受け止め掻き消す。受け切れなかった炎が身体を包む魔力の鎧を破り、端々が焼け切れて熱を纏う。間隔を空けず舞う炎。重量に抗う互いの武器。再び柄がぶつかり合い、先程よりも多く炎が突き刺さる。

 同じ工程を繰り返し、少しずつ炎を受ける量が増えていく中、右腕の異常を感じながらもそれを繰り返すディノは、炎で霞む向こう側へ渋紙色の瞳を向ける。

(今度こそ、僕はッ!!)

 炎朱を纏った右手が、最後の決意を掴み取り、振り抜いた。



 ――それはやはり、慟哭だったのだろう。

「どうして、わかってくれないのよ……」

「―――ッ!!」



 炎を突き抜けて声が届いた時には、既には発動していた。

 ディノの武器が燃えた。

 否。燃えたのではなく、右腕を接点として、武器そのものが炎となった。その余波に触れて、数多の槍を模る禍々しい炎が焼き払われた。

 瞬く間もなく迫り来た薙刀を、姿を変えたハルバードが迎え撃つ。

 幾度となく弾き合ったそれらは、結末を迎えた。

 デルフィナの薙刀が、燃え盛る槍斧そうふの刃に触れ、両断された。

 しかし、炎の槍斧はそこで止まらない。先端の欠けた柄を振り上げ終えたデルフィナの片腕目掛けて、彼女がそうしていたように、その斬閃を疾走らせた。

 葡萄茶色の瞳から零れ落ちた涙に、ディノの胸の内側へ激しい感情が押し寄せる。

 いつもと同じ、最早自身の一部とさえ言えるほど経験した感情が。

(ああ。結局、僕はまた……)

 その情念を繰り返しいだく瞳が、大切な人を見失った。



 土色の輝きを燦然さんぜんと放つ魔法陣へ掌を着きながら、ステラの頬を流れた汗が顎先から滴り落ちる。

 に随分と時間が掛ってしまった。無理もない。これは完全に今この場で考えたことで、誰にやり方を教わった訳でもないのだから。だがこの場でミリーを治療する以上、やらない訳にはいかないことだった。幸いにして、魔法は無事成功しているようだ。

「――エルデバルド!!」

 ディノの声に続いて、背後で金属同士のぶつかる硬い音が響いた。二人が武器を交えている。気になるが、だからこそステラは二人に背を向ける形で跪いていた。決して振り向くまいと自らを律して、目の前の作業に全神経を注ぎ込む。

(まだ、もう少し必要ですね……)

 感覚で量りつつ、都度微調整。身の内側から掌へ向かって魔力が流れていくのに比例して汗の量が増えていくのを、眼尻を伝う雫から感じ取る。慣れない作業に全身が鉛となっていくが、掌を地面から放すことはしない。

 最中、自身の決意と、ミリーの言葉を心の中で反芻はんすうする。

『―それでも捨てずに足掻いてきたアンタだからこそ、できることなんだ―』

 それは違う。捨てなかったのではなく、捨てられなかったのだ。そうする勇気さえ持てず、引き摺ってきただけなのだ。

『―アイツは、自分の大事なもんを捨てようとしてる―』

 けれど、自分は知っている。大切なものを壊してしまった時の痛みを。その苦しみを。壊されたデルフィナの苦しみは解らなくとも、自分自身の手で壊してしまった苦しみならステラは嫌というほど味わってきたのだから。

 だから決心した。ディノとデルフィナに対する贖罪の仕方は未だ見付けられていなくとも、今この状況で、自分がやらなくてはならないことをする。今度こそ逃げずに、正面から向き合ってみせると。その為に今は、目の前の作業に全力を注がねばならない。

(七十……七十二……七十五……)

 感覚を数値化しつつ、はやる気持ちを抑える。繊細な魔力操作を必要とする治癒魔法で、一息に魔力を流し込むのは最もしてはならない行為の一つだ。焦らず、徐々に魔力を満たしていく。

「もう、少しっ……」

 無意識に声に出しながら最後の一滴を流し込むと、ミリーを包む鮮やかな輝きが淡いものへと変わった。

『―アイツはもう、自分じゃ止まれないんだよ―』

「――――ッ!!」

 その言葉が浮かんだのと、背筋に悪寒が疾走ったのは殆ど同時だった。

 仕舞っていた大剣を取り出す間もなく振り返る。膝を着いたディノが黒い炎と薙刀を転がり躱していくのを目にし、地面を蹴った。離れていても感じるほどの、これまでで一番強烈な禍々しさだ。この感覚を、これから何が起こるかを、ステラは既に経験していた。

 鉛と化した脚は驚くほどにゆっくりとしか進んでくれない。少しでも速く進む為に武器さえ出すことをせず、全力で駆け抜ける。炎の槍に貫かれていくディノの眼から、事態が思わぬ結末を迎えようとしていることを悟った。

 動悸が急激に速まる。

(……いや)

 ほんの少し時間稼ぎをしてくれるだけで良かったのだ。自分はそんなつもりで頼んだのではないと、ステラは必死に念じた。

(やめて……!)

 いつの間にか燃える鎧のような物を身に付けたディノの右腕が、武器を握った。武器が炎と化し、襲い掛かった黒炎の槍を焼き払う。デルフィナの薙刀が両断され、炎の刃が更にその腕目掛けて駆け抜ける。

「駄目ッ!!」

 頭上を鋭い刃と化した炎が駆けた。側面から地面へ激突し、獲物を見失った炎の斬閃が焼け付いた空気を、その先にあった樹木を斬り裂いた。最後の一歩を大きく跳ぶことで、ステラはすんでのところで横合いからデルフィナを押し倒していた。

 鈍い痛みがステラの腕を巡る中、炎のハルバードが元の姿へと戻る。

「ステラ……!」

「……ディノ君、無理を言ってすみませんでした。こちらはもう大丈夫です」

 ギリギリの緊迫感と全力疾走からのダイブで心臓を大きく脈打たせながら、ステラは身を起こした。

 その様を目にしたディノは、心の底から安堵した。ステラの言葉にではなく、行動に。

 もう少しで、本当に取り返しの付かない後悔をするところだった。いや、後悔自体は武器を振るった直後に既にしているのだが、それにしたって最悪の事態は避けられた。今はとにかく、デルフィナを助けてくれたステラに感謝しかない。

 不意に、鼻孔が刺激される。

「す、ステラ、それ!? 髪の毛!」

「え?」

 ステラは起き上がり様に頭へ手をやった。頭頂部から下ってうなじの先で熱を感じ、その先の肩辺りで、掌が本来あるべき感触の代わりに空気を掴んだ。

「……ああ、燃えてしまったみたいですね。余計な部分に移らないなんて、凄い切れ味? ですね」

「そんな他人事みたいに! ああ、でもこういう時ってどうしたら……! と、とにかく本当にごめんなさい!」

 当人の代わりにとでも言うように慌てふためいて、ディノが勢い良く腰を折った。それで何がどうなる訳でもないのだが、女性の髪を駄目にしてしまったのだから、そうしなければ気が済まなかったのだ。

 ステラは小さく微笑む。

「良かった、私の知っているディノ君ですね」

「?」

 キョトンした顔が見返した。

「先程までのディノ君、凄く怖かったです。鬼気迫るというより、追い詰められたような顔でした」

「………っ!」

 ステラのその言葉は、改めてディノに自分のやろうとしていたことの意味を思い知らせた。

 ステラとミリーを護る為に戦っていた筈だったのに、ステラの準備が終わるまでの時間稼ぎのつもりだったのに、いつの間にかディノは、本気でデルフィナと闘っていた。本気で彼女の片腕を、切断まではいかずとも斬ろうとしていた。を使えばそうなることは解っていたのに、遂に振り抜いてしまった。

 振り抜く直前までは、それでも良いと思っていた。一旦この場を納める為にも、自分達のこれからの為にも、そのくらいの結果は必要だと感じたのだ。けれど、直後にそれが過ちだったことに気付いた。デルフィナの流した涙で、言葉で、表情で、ディノはまたしても選択を間違えてしまったのだと自覚した。

 愕然とした表情に、ステラは心底申し訳ない気持ちになった。そのつもりがなかったとは言え、自分の我が儘に付き合わせた所為で、危うく彼自身に大切な人を斬らせてしまうところだったのだから。

 それでもステラは、今更己の決断を覆すつもりはない。

「頼んだ私がこのような事を言えた義理ではありませんが、私は――」

「……ふざけないで」

 ステラの足元からした声に二人は視線を向けた。

「よりにもよって、どうしてお前がわたしを助けるのよ……!」

 うつ伏せのまま身を起こしたデルフィナが、地面で拳を握る。

「同情? それとも贖罪? どっちにしたってそんなもの要らない! お前にそんなことされるくらいならあのままディノに斬られた方がマシだった!」

 この上ない屈辱に耐える為、未だ湧き上がる悲しみを堪える為、デルフィナは言葉を吐き捨てた。刃を失った薙刀を掴み、蹌踉よろめきながら立ち上がる。

「わたしを助けて改心でもさせるつもりだった……!? 残念だったわね。わたしたちと同じ苦しみを味わわせるまで、お前の全部を壊すまで、わたしはッ――!!」

 静まっていた黒炎がデルフィナの足元から唐突に吹き荒れ、放たれた。

「しまっ……!」

 不意を突かれたディノにはどうすることも出来なかった。それは炎がデルフィナの目の前に居たステラを通り過ぎ、背後で横たわるミリー目掛けて飛んで行こうとも変わらない。

 ただ、ステラが慌てることも、黒い炎がミリーを飲み込むこともなかった。彼女へ届く前、ちょうど魔法陣の外縁辺りで、見えない壁に阻まれでもしたかのように飛散したのだ。

 ゾクリとした。目の前で起きた現象を理解出来たからこそ、ディノは安心よりも先に寒気を感じた。

 ミリーの治療がまだ済んでいないのは、彼女を包む淡い輝きから見ても明らかだ。普通、治癒魔法を使うには使用者がその場に留まらなければならないのだから、冷静に考えれば今のこの状況自体がまずおかしいのだが、ステラの採った手段が何かをディノは理解していた。

 物質に直接魔法陣を刻み、予め必要な魔力を流し込む技法――紋陣魔法だ。

 技術的にはこの年頃でも「出来ないことはない」というレベルのものだし、それだけならディノもこれほどまでに驚きはしなかっただろう。ディノが何よりも驚愕したのは、ミリーを中心とした一つの陣に、「治癒する魔法」と「炎を防いだ魔法」の二つが共存していることだった。

 遠目からだと判り難いが、あの魔法陣は通常のものより一つ分外周の円が多い。だが決して、別種類の魔法陣が二つ重なっている訳ではない。それではどちらの魔法も正常に発動してはくれないだろう。

 ステラは、一つの陣に二つの魔法を組み込んだのだ。それはつまるところ、全く違う魔法陣をそれぞれ分解し、再構築した結果だった。だ。

 これこそがステラのであり、その場に置いて離れなければならないミリーを護る為に必要不可欠な準備だった。誰に習った訳でもない方法を極々僅かな時間で編み出したことの異常性を、しかし本人は理解していない。

(やっぱり、ステラは……)

 実技試験を終えた時にも感じた想いをディノが再び味わっている中、

「……嫌だと思ったからです」

 ステラはデルフィナが最初にした問いに答えた。

「同情とか贖罪とか、そんな言葉が浮かぶよりも先に、デルフィナさんがそうなってしまう事が嫌だと思ったから、私はあなたを助けました」

 数分前と同じ、迷いのない表情。その時ディノにしたように、ステラは驚きと悔しさの入り混じった表情のデルフィナをまっすぐ見つめる。

「私は、そんな結果を望んではいません。どうすれば良いのかもまだ分かりません。ですが少なくとも、デルフィナさんの望むがままにさせるつもりは、決してありません」

「ふざけないで! どの口がそんな――」

 パァン、と乾いた音が遮った。

 傍観するディノも、頬を打たれたデルフィナ本人も、一瞬何が起きたのか解らなかった。

 ――あの時の贖罪の為に自分がどうすれば良いのか、まだ答えは見付からない。 

「あなたは、何の為に私を憎んでいるのですか。ミリーさんを傷付けたのですか」

 けれどステラは、自らがこの場ですべき事柄を知っている。

「そうまでして護りたかった、あなたの一番大切な人は一体、誰だったのですか? 自分が何をやろうとしていたのか、もう一度しっかり考えてみて下さい」

 大切なものを自身の手で壊してしまう。その痛みを、苦しみを、デルフィナにも、そしてディノにも味わわせたくない。それはミリーの願いでもあり、だからこそステラは、この場に留まる決心を固めた。

 思わず涙が浮かびそうになるのをグッと堪えながら、ステラはまっすぐにデルフィナを見つめる。

「お願いします……どうか、あなたの大切なものを捨てようとしないで下さい」

 まだ頬を打たれた時の表情のまま、葡萄茶色の瞳が揺れた。  

「…………わた、しは……?」

 唐突に、急速に、デルフィナの中で思考が飛び交う。

 ステラの言葉は、彼女が無意識下で得ていた答えを浮かび上がらせた。自身の目的と、手段と、その結果が、決して交わることのない矛盾したものなのだという答えを。そしてその矛盾を理解してしまったことで、自身の行為を正当化し、ある意味で精神的な安定を与えていた行動理念が崩れ去る。

 それは彼女自身さえ気付いていなかった天秤の片側に、圧倒的な傾きをもたらした。

「わたしは、ディノの為に、ディノと戦って……? こいつの全部を壊す為に、邪魔する奴はみんな……!」

「フィーナ……」

 目を見開き、頭を押さえながら呟くデルフィナに、ディノが歩み寄った。だが、デルフィナは化け物を前にしたかのように後退あとずさる。

 その瞳に在ったのは、恐怖と、狂気。

 ゆらりと、その周囲から煙のように黒い靄が立ち昇った。

「だから……ダカラ、ディノモ壊サナクチャ――――ディノはディノがディノがディノをディノはディノをディノががガがガガガガ……ッ!!」



 ――鮮血が散った。



「う」

 目の前で飛び散った血がステラの頬に付着した。

 何の前触れもなく現れたそれは、一言で表せば人間大の蟷螂かまきりだった。ただし、通常の脚に加え計四つの鎌と、人一人を丸飲み出来そうな顎を持ち、全身を甲殻に覆われた、と付け足さねばならないが。それが、まるで身体の端から素早く色塗りでもしたかのように唐突にデルフィナの背後へ現れ、背中を斬り付けた。

 巨大な蟷螂が持て余した凶刃をさらに振り下ろしてようやく、ステラは状況の把握へ至った。

「ああああああああああああああああああ――――!!」

 倒れるデルフィナを受け止めたステラが咄嗟に大剣を構えるより先に、激情に支配されたディノが蟷螂へ斬り掛かった。

 元の姿に戻ったままのハルバードが蟷螂の胴を斬り付ける。耳に不快感を与えた。

「よくもッ……」

 四つの鎌がディノを襲う。二つを薙ぎ払い、しかし二つを受けてディノの態勢が崩れたところへ、蟷螂の大顎が開かれた。

 ――蟷螂を中心に暴風が拡がり、周囲一帯を焼く炎が全て吹き消された。

 突然の暴風で今度は逆に蟷螂が怯んだ。その懐へ、頬と片腕から血を流すディノが暴風を受けてなお潜り込む。

 再び炎と化した槍斧が、右半分の鎌脚を胴体ごと斬り裂いた。耳をつんざく奇声が蟷螂の大口から上がる。

 その肉体から、黒い靄が滲み出た。

 生々しい音と共に、斬られた部分が青紫色の体液と思しきものを伴って生え換わる。身体から滲んだ靄が蟷螂の全身を覆――

「よくもフィーナをッ――――!!」

 炎の斬閃が蟷螂を縦に裂いた。

 青紫の雨が降り注ぐ。少し遅れて、熱を持った斬り口を境に、蟷螂の肉体がそれぞれ左右へゆったりと倒れた。

「ッフィーナ!!」

 それを見届けることもなく、ディノはデルフィナの許へ駆け寄った。

「フィーナ、しっかりして! フィーナ!」

 武器を放り投げて呼び掛けるディノは、ステラの目などはばかることもなく泣き叫んでいた。

「お願いだステラ。フィーナを、フィーナを助けて……!」

「大丈夫です! 出血の割に傷は浅い……これなら……」

 懇願されるまでもなく、ステラは既に治療に取り掛かっていた。うつ伏せに寝かせたデルフィナの背中が、治癒魔法の淡い輝きに覆われている。あの禍々しい気配も今は感じられなかった。

「フィーナ、ごめんフィーナ……僕は……!」

 治療を進める中、傍らのディノが嗚咽を繰り返す。自身の選んだ道への後悔を呟きながら。

 ふとステラは、突然吹き荒れた暴風を思い出した。

(先程の風は、もしかして……?)



        †   †   †



 湖畔のキャンプ地へ向かうリオンは、夜に沈んだ木々の枝を伝う。

(あのぐらいなら、オリソンテさんはなんとかなるかな)

 遠目から見た限りでは致命傷に至っていなかったし、ステラも付いている。命に別条はないだろう。寧ろあの程度の傷なら因果応報と断じてしまっても構わないかもしれない。

 それよりも色々と気になることが多過ぎて、一旦それらを整理すべく、順を追って思い出す――



「――まったく、甘く見られたものです」

 食糧集めの真っ最中に飛び出していったディノの後を追う道中、木々の向こう側からした声に、リオンは一旦静止して頭上の枝へ跳び乗った。

 気配を殺し、枝を移りながら声のした方へ近付いて、樹上からそこを窺う。飛び込んできた光景に思わず気配を漏らし掛けて、グルグル巻きにした藍色のマフラーを息を隠すように口元へ引っ張り上げた。

 貴族がよく着用する、スカートの傘が少し膨らんだドレス。豪華、きらびやかではなく、華麗と形容した方が正しいそれを、あくまでも自らの引き立て役として着こなす、癖の強い栗色の髪の女性――ステラの姉、ルナだ。

(なんで、あの人が……?)

 その場に似つかわしくない服装をした女性の存在に、リオンは眉を寄せた。この「森」という環境ではなく、彼女の足元に転がった惨状と、あの華麗なドレスはどう考えてもミスマッチしていた。

 彼女の周囲を埋め尽くす、大量の黒い蟷螂の屍骸とは。

「あの子にちょっかいを出そうとする害虫を、このわたくしが見逃すとでも?」

 先日会った時とは違う、冷たい声が屍骸へ向けて発せられる。まさしく、害虫を見る眼差しで。

「あの子には果たして貰わなければならない役目があるのです。その邪魔をするのであれば、どれほど小さな羽虫であろうと容赦は……あら?」

 一匹、辛うじて動きを見せた個体が居た。鎌脚を三つ失いながらも、残る一つと通常の脚で、ルナとは逆方向へ向かって地面を這う。その姿が、まるで消しパンでも使ったかのように、スゥ、と消えた。

 ――と思いきや、生々しく不快な音と共に青紫の血液をぶち撒けて、再び蟷螂が姿を現した。残っていた脚は全て付け根から潰れていた。

 不覚にもリオンは、目の前で何が起きたのか、結果以外を理解することは出来なかった。

「呆れたものです、擬態したままでは外皮の硬質化が出来ないでしょうに……虫けらなりに焦っていたのかしら。まあ、硬質化していようと関係はありませんが」

 言葉とは裏腹に、その場に立ったままのルナの声に呆れやあざけりは感じられなかった。どころか、他のどのような感情もリオンには汲み取れなかった。

 地面を埋め尽くす蟷螂達の屍骸から、水が蒸発するように黒い靄が立ち昇る。それまで屍骸から感じていた例の禍々しい気配が一層濃くなった。

「ああ、成程。この様になっているのですね、『彼の意志』というものは」

 全ての屍骸から黒い靄が剥がれると、靄は一ヶ所へ集まり始め、雲のような塊となった。蟷螂達は元のものと思しき体色へと戻っていた。

宿主しゅくしゅの意識が途絶えれば剥がれ落ちる……根本が違うという話ですし、やはり魔物では定着しないという事でしょうか?」

 誰に問うでもなくルナはそう独りちる。そこに先程聴いた冷たさはなく、純粋に不思議がっているように思えた。

 宙を漂う黒い靄の塊が、ふらふらとルナの傍へ寄る。

「今度は私に取り憑くつもりなのですね。それはそれで面白いのですけれども……」

 言いつつ、ルナは先日には見られなかった首飾りを外した。細かい鎖の先端に付いた小さな宝石らしき物を掌に乗せ、靄へ向けて差し出す。

「生憎と、私には必要ありませんので。悪しからず」

 宝石がぼう、と光る。灯篭とうろうのような、或いは蝋燭ろうそくのような光に導かれた靄がその中へ吸い込まれるかのように消えると、例の嫌な気配も途切れた。

 静寂が森に戻る。

「さてと……」

「………ッ!」

 首飾りを付け直すルナの視線が、リオンの隠れている方向を一瞥いちべつしたように見えた。

(気付かれた……?)

 咄嗟に木の幹の陰に身を潜める。姿を隠す必要があるのか確信を持てなかったが、リオンはそれを拙いと感じたのだ。

〝蠢くモノ〟を知っているうえに制御(と言っても良いだろう)出来るなど、少なくともルナがリオン達以上に事情に精通しているのは間違いない。だが公になっていない存在を本来リオンは知らないし、ルナとて知らないことになっている筈だ。であるならば、考えられる可能性は三つ。

 一つは、ルナもリオン達同様、シドの所属するグループの一員である可能性。

 一つは、別の組織の者としてこの場へやってきた可能性。

 一つは、組織ではなく、単独でその存在に気付き、制御法まで見付け出した可能性。

 一つ目なら、何故本人やシドが何も言ってこなかったのか。或いはシドが伝えていないだけでルナはこちらのことを知らないのかもしれないが、どちらにせよ、ここで互いの存在を知るのは誰にとっても予定外の筈だ。

 二つ目は――そもそもその類の組織というものが他にあれば、そしてそれらが対立していればの話になるが――「非公式の存在を知ってしまった一般人」というだけならまだしも、下手を打てば自分の所属している(という実感はあまりないが)非公式グループ、延いてはイリスの存在まで嗅ぎ付けられるかもしれない。

 三つ目は論外だ。ステラには悪いが、個人でそこまで出来る人間など得体が知れなさ過ぎる。

 いずれにせよ、今この場で見付かるのは得策でない。

(気になるけど、離れた方が良いか?)

 判断に迷っていると、

「――ああ、貴方ですか。ええ、こちらは終わりました」

 不意にルナがそう言った。

 リオンは彼女の周囲を確認した。が、他に誰かが居るようには見えない。ともすれば……。

(念話……相手は……?)

 念話の魔法を使っているかどうか、知る術はある。更に言えばその内容の傍受も高度な技術ながら可能だ。しかし、特に傍受に関しては、使用者同士を繋ぐ魔力の流れに微弱な乱れノイズが生じ易いことから、その行為を相手側に悟られる可能性が高くなる。使用の有無を確認するだけなら大抵の者には判るまいが、リオンはそれさえやるべきではないと判断した。

 とにかく、三つ目の可能性はほぼ消えた。

は滞りなく。そこそこの数に憑いていましたから、それなりに集まったかと……。飛んで火に入る夏の虫とはまさしくこの事ですね」

 念話の魔法は、意識さえ傾けていれば声に出しても相手に届く。彼女は一人の時は喋るタイプなのだろう。

(ってことは、とりあえず気付かれてはないのか……?)

 リオンが疑念を抱く間も、ルナの声は続く。

「ああ、ですが、一匹だけ泳がせてありますので。……失礼ですね、討ち漏らした訳ではありません。初めに伝えた通り、私にも他に目的がありますから。ええ、その為の布石のようなものです」

(目的? 布石? いや、それよりも……)

 少し聞き捨てならない台詞が他にあった。

「あら、心配して下さるのですか? 貴方はその様な性格ではないと思っておりましたが……冗談です。貴方々にとっては大事な『シンジュ』の一人ですものね」

 からかい混じりの表情は、しかしどこか冷たいものを感じた。

「心配せずともこの程度の相手、あの子なら死ぬ事はありません。まあ、一緒に来ていた子達は、運が悪ければ犠牲になるかもしれませんが――」

 はたと、ルナは口をつぐんだ。

「……いいえ、何でもありません。では、私はこのまま戻りますので」

 そこまで聞いたところで、リオンは音もなくその場を離れた。先程よりも速度を上げて、本来向かっていた方角へ急ぐ。

 台詞の端々に意味を汲み取れない単語が出てきたものの、一つだけ、リオンにも解ることがあった。

(『一匹泳がせた』、『あの子』、『一緒に来ていた子達』……)

 それらが紡ぎ出す答えに、木の枝を踏む勢いが無意識に強くなった。



 念話を終えたルナは、へ視線を向けた。

 見られてしまったのは想定外だったが、それならそれでこのくらいの情報は問題ないだろう。彼らはあまりに何も知らなさ過ぎる。布石がどの程度役立つかは解らないが、これで少しでも自分の「本願」が叶うのが早まればそれで良かった。もっとも、泳がせた先でまた別のが待っていることは、彼女も知らないのだが。

 ふと、先程うっかり口にしてしまった言葉を思い返す。

などと、そんなものを口走ってしまうなんて……我ながら滑稽ですね」

 そこには確かに、自身への嘲りがあった。



 リオンが火の手の届かないほど離れた樹上からステラ達を見付けた段階では、まだ危惧していた事態へは至っていなかった。代わりに、なんだか良く解らない状況になってはいたが。

 特に注目せざるを得なかったのは、デルフィナの放つ炎の禍々しさだ。

(あの感じ……まさか、?)

 信じられなかったが、つい先程目にしたこともあって、やはりリオンもステラと同じくあの気配を間違うことなど出来る筈もなかった。だがそうなると状況は非常にシビアだ。リオン達は、〝蠢くモノ〟の剥がし方を敵を殺すことでしか知らない。

(ステラ、どうするつもりなんだ?)

 魔法陣を描く少女へ視線を注ぐ。気付いていない筈はないだろうし、どうやら一旦ディノに時間を稼いで貰うつもりらしいが、では彼女はどうやってアレを取り除くつもりだろうか。まさかデルフィナを殺したりはしないだろうが……。

(待てよ、でも確か……)

 ルナの言葉を思い出す。

「宿主の意識が途絶えれば剥がれ落ちる」。つまり殺さずとも、意識さえ奪えばアレは取り除けるということだ。彼女の言葉がどこまで本当かは判らないが、そういえばあの火竜だって最終的に死んではいないのだ。

 とにかく、そういうことならデルフィナを気絶させてしまえば良いのだが、ステラはそのことを知らない。念話を使えば伝えられるものの、どのような手段であれ、リオンはあの場に直接関わることを避けたかった。それは本来自分の意図したものとは違うのだから。

(……言ってられないか)

 む無く、そう判断した。あのままでは誰かが命を落とし兼ねない。だが、あくまでも姿を見せたり念話で語り掛けたりはしない。そこは妥協の最低ラインだ。それらをせず、且つデルフィナの意識を奪うには……

(ここじゃ駄目だな)

 リオンは屈めていた身を起こして周囲を見渡した。少し離れた場所に一際高い樹木を見付け、軽い身のこなしでその頂上へ移動する。

 頂上――一番高い枝ではなく、文字通り樹の先端――では、眼下で燃え盛る炎を切り取ったかのように、夜風が静かに髪を薙いだ。幸い爆発でもあったかのようにその場が開けてもいるし、ここからならステラ達の動向を余さず窺える。ルナの泳がせた「布石」とやらも。

 夜に紛れて暗緑色の光が静かに右手へ集い、そこから弓が取り出された。弦の張られていない翠の長弓は姫反が深く、幅のある胴は刃物の鏡映しを思わせる。その間にある弓束ゆづかを握って、今度は両の眼に意識を――魔力を集めた。

 魔力を帯びた瞳は、遠く離れたステラ達の姿を、彼女らの表情から口元の動きまで正確に、はっきりと捉えた。他人ひとより眼が良い分、強化を施すとそれがより鮮明になるのはかなりの利点だ。

 構える。

「【嵐童の一吼えテンペスタロア】」

 弓に注がれた魔力と周囲の風が混ざり合って弦を織り成し、暴風を孕む矢を創り出した。射線をディノと斬り合うデルフィナへ合わせる。通常、動き回る標的に矢を射るのは困難だが、リオンにとって、それは然程障害にならない。

(後は、タイミングか……)

 出来れば、射るのは混戦している時が望ましい。誰が何をやったのか良く解らない――そういう状況下なら、疑念は湧いてもリオンの仕業とまでは特定されないだろう。それが無理だとして、せめてデルフィナへの攻撃に紛らせたいところだった。

(『布石』ってのもまだいないみたいだし、早めに終わらせて見張っときたいんだけどな)

 視力を強化するついでに魔力の痕跡を探っているものの、それらしきものは見付かっていない。どうやらこちらが先に着いてしまったらしい。

 そう思案しているところへ、機会が訪れる。炎の槍と薙刀を受けつつも、ディノから反撃の気配を感じた。何かするつもりのようだ。

 ゆっくり、大きく息を吸って呼吸を止め、限界まで風の矢を引く。魔力に渦巻く大気が、実体のない弦のキリキリとした悲鳴を代わりに上げる。

 実物の矢なら不可能なことだが、この風の矢でこの距離からなら、例え後出しだろうとディノの攻撃より先に矢が届く。上手くいけばディノの攻撃が当たったように見せることさえ出来るだろう。狙いを定め、いつでも反応出来るよう、全神経をその場へ注ぐ。

(――今だ!)

 ディノの武器が変化し、デルフィナの薙刀を真っ二つに断った。さらに炎の斬閃が疾走するのと同じタイミングで、矢尻から手を放す――

「―――ッ、!?」

 ――直前で、矢と斬閃の交差点にステラが飛び込んできて、慌てて思い留まった。

「あっ、ぶな……! ステラ、何やってるんだよ……!?」

 止めていた息を吐き出しながら、リオンは聞こえる筈もない文句を垂れた。気絶させるのが目的だから殺傷性は低いが、それでも当たり所が悪ければ骨くらい容易く折れる矢だ。想定外の出来事に心臓が跳ねたのが解った。

 とにかく、仕切り直しだ。鼓動を落ち着けている間にステラとデルフィナの問答が始まっている。ステラに何か策があるのか、それとも何もないからか、彼女は丸腰でデルフィナと向き合っていた。

(っていうかそもそも、ステラは気付いてないかもしれないのか)

 可能性としてはあまり高くないが、確証の持てないことを待つ訳にもいかない。この際贅沢は言わないから、すぐにでもデルフィナの意識を刈り取るべく、狙いを定める。

 ところが、今度はデルフィナが突然背中から血を流して倒れてしまった。彼女の背後にルナの周囲に転がっていた屍骸と同じ、人間大の蟷螂が文字通り姿を現す。あれが「布石」とやらかと、リオンは直感に頼るまでもなく理解した。

「~~~っあぁ、もう! どいつもこいつも!」

 悪態を吐いて、蟷螂目掛けて矢を放った――



 ――余計なことまで思い出して、誰も見ていないのを良いことに不満を思い切り表情に出した。折角綺麗さっぱり気持ちを切り換えたというのに。いつもの弛い表情など欠片も見当たらなかった。

(魔力遮断能力って面倒臭いんだよな……しかもあれ、出てくるまで全然わからなかったし)

 リオンは木の葉に紛れながらそう嘆息した。だいたいデルフィナの件はともかく、ルナがあんなのを泳がせなければもう少しことが楽に運んだのだ。

 クラストマンティス。甲殻蟲型の中級種で、外皮の性質を変化させてハイレベルな擬態を行うことで知られる魔物だ。擬態中は鎧にも等しき甲殻が軟化してしまうが、代わりに環境に左右されない擬態能力と、体外へ漏れ出る魔力の遮断能力を得ることで、弱点を補って余りある狩猟スキルを発揮する。

 勿論リオンは、その特性を知っていた。だが魔力を遮断すると言っても所詮は中級種、普通は少しくらい漏れてしまうものだ。だからこそ事前に索敵しておいたのだが、全く反応が見られなかったということは、凶暴化でその辺りの能力値が向上していたのだろう。まったく以て忌々しい。

 そしてもう一つ、あの蟷螂には特性がある。意外なことに、あれは炎に強い耐性を持っているのだ。擬態中は例の如く弱体化するが、そうでない時はあの鋼の甲殻があらゆる熱と衝撃を防いでしまう。容易に骨折へと至るリオンの矢を受けて、怯んだだけというのがその頑強さを証明していた。

 そんな魔物をあっさり、しかも耐性を持つ炎の刃で両断してしまった少年に、リオンは驚きを隠せなかった。

(あの武器と右腕の鎧、魔具か何かかな)

 流石にあの樹の頂上にまで声は届かなかったので、ディノが口にした固有名称を知らないリオンにとっては、その辺りが推測の限界域だった。

 ともあれ、どうにかこうにか事態は収拾したようだ。ルナがどのような目的であの蟷螂を泳がせたのかは解らないが、倒れたデルフィナから〝蠢くモノ〟の気配が消えていたのだけは確かだ。

(あれ? でもじゃあ、どこへ行ったんだ……?)

 両断された蟷螂はいつの間にか元の体色へ戻っていた。あの火山での火竜のように、仮にデルフィナに憑いていた分が蟷螂に吸収されたとして、ではそれに憑いていた〝蠢くモノ〟は一体どこへ消えたのだろうか。

(……しばらくは様子見かな)

 あの場ではもう例の気配は感じられなかったが、念の為、リオンはそう判断した。ルナの言っていたとやらも気になるし、もう少し見ておいた方が良さそうだ。

 ――それにしても、

「結局よくわからなかったし、無駄骨かぁ……」

 溜め息混じりに、リオンはそうぼやいた。


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