第六話:『現在(いま)』



 燃え上がる森に、じっと潜む。

 まだ気付かれてはいない。

 獲物は視線を俯けたまま森を歩いている。

 慎重に、後を付ける。

 枝葉が触れて僅かに音がするが、それでも気付かれた様子はない。

 獲物の傍にもう一人現れた。腕には細かい枝が大量に抱えられている。

 さらに、気配を殺す。

 気付かれないよう、赤く染まり上がった森へ身を沈める。

 溶け込む。

 一つになる。

 ひたすらに、を待つ――



        †   †   †



 ――いっそのこと、傷付けたのがいじめの犯人なら良かったのだ。それなら、もしかしたら天罰が下ったとでも割り切ることが出来たのかもしれない。

 いや、それでもやはりこうなっていただろう。誰を傷付けたのかが問題ではない、誰かを傷付けたのが問題なのだ。

 だからあの時の、鋭いものから慢性的なものへと変わった頬の痛みにさえ、涙を流す資格はなかった。

「ステラ様」

 父から叱責を受けて自室謹慎を命じられたステラの許へ、一人の老人がやってきた。

 夏が本格的に訪れたその日も変わらず執事服に身を包んでいた彼の顔にはかなりの皺が刻まれていたが、服の下に見事に隠れたたくましい長身が、白い頭髪から感じられる春秋しゅんじゅうの積もりを打ち消していた。

「爺や……」

 ステラは、それが慣れ親しんだ老人だったことを確認して、彼から目を逸らした。

 ティエラの屋敷では大勢の使用人が働いているが、彼――オルランドはその中で一番の古株だ。ステラの姉兄きょうだいどころか、父の代から既に仕えていたという彼にとって、ステラは孫に等しい存在だった。

 実際、幼少時の記憶では両親よりも彼の方が多く一緒に居て、ステラも彼に懐いていた憶えがある。基礎学校の上級生になったその時分になっても、赤ん坊の頃は一向にメイド達に懐かないのに、彼が抱き上げた途端に泣き止むのでよく世話係の者達を困らせていたものだと、ことある毎にからかい混じりに聞かされていたくらいだ。

「お使い下さい」

「…………」

 そんな彼から差し出された湿った布を、ステラは受け取ろうとしなかった。腫れた頬に手をやることもせず、視線を逸らしたまま沈黙する。

 老執事はその様子に困ったように眉を下げると、ステラの傍へしゃがんで布を頬に当てた。

「っ、……」

 父の掌が打ったのはたったの一度だったというのに、冷たい布が嫌に沁みた。

 頬にじっと当てたまま、オルランド老の優しい眼差しがステラを見つめる。

「いつの頃からでしょうな。そうやって痛みを、感情を堪える様になられたのは」

「…………」

「私など、旦那様の張り手を受け切れば、たちまち泣き喚いてしまいましょう。ステラ様はお強い」

 嘘だ。彼が今でもそこらの魔導師など相手にならない手練れだということくらいステラは知っていたし、自分が彼の言うほど強くないことも解っていた。

 そう、自分は――

「……化け物」

 自身の口を衝いて出た言葉に、心臓が震えた。

「私は、化け物なの……」

「その様な事は――」

「化け物なのッ!」

 否定の声さえ、叫ぶように遮った。

 それは悲しみだったのか、それとも怒りだったのか。

 或いは、両方だったのかもしれない。それ以外もあったのかもしれない。それまで必死に抑えていた筈の、い交ぜになって黒ずんだ感情が、その叫びを切っ掛けにせきを切って溢れ出てきた。じっとしていたらおかしくなってしまいそうで、どうにかしようと、身体が勝手に反応する。

「花瓶も!」

 傍にあった花瓶を華奢な手が弾き割り、

「壁も!」

 横殴りに打ち付けた拳に壁が欠け、

「クラスメイトも!」

 血に塗れた男の子が脳裏に映り、

「私が触ると、色々な物が壊れてしまう! なんとかしようと頑張っても、結局それも壊れてしまう!」

 張り上げた声が、空気に亀裂を生じた。

 花瓶の破片で切ったのか、片手から床へと、赤い雫が滴り落ちる。

「ステラ様、手を……」

「触らないで!」

 手当てを促そうとしたオルランドが触れるより早く、拒絶の言葉が吐き出された。

 血の溜まる音に混じって、もう一つ、雫が落ちる。

「……爺やを、壊したくなんかない……ッ!」

 怖かった。

 自分の腕は、誰かを助けることが出来ると信じていた。どれだけ気味悪がられようと、どれだけ辛い目に遭おうと、それだけは間違いないのだと信じていた。

 けれど、違った。

 この腕は、誰かを救えなどしない。

 この腕が触れるものは、皆簡単に壊れてしまう。

 この腕が、そこに宿る〝力〟が、全てをステラから奪っていくのだ。

 涙を流す資格なんてない筈なのに、その事実がただ怖くて、胸の内側が締め付けられたみたいに苦しくて、どれだけ抑えようとしても止められなかった。

 小さく震えるステラの手を、拒絶された老人は、それでも握る。

「私は、貴女の手で壊れなどしません」

 優しい光が傷付いた手を包み、痛みが消えていった。

「ほうら、御覧なさい。手は無事です。私のものも、ステラ様のものも」

 目の前まで手を持ってきて、ニッコリと、皺だらけの顔が微笑んだ。

 柔らかくて、暖かい笑顔だ。今まで幾度となく、自分を救ってくれた笑顔だ。

 彼だけが――少なくともステラの知る大人の中で彼だけが、一度たりともステラを誰かと比較したりしなかった。成績が上がれば褒めてくれたし、いけないことをすれば優しく諭してくれた。

 だからこそ、血を分けた家族にさえ話せない悩みを、この老人にだけは打ち明けてこれた。落ち込んでいる時、悲しい時、寂しい時。その度に励ましてくれる彼が決まって最後に見せるこの優しい笑顔のおかげで、ステラはなんとか心を保てていたのだ。

 けれど、今はそれさえ、この心を癒すには至らない。

「……どうして、私なの?」

 歪んだ視界に映る老人へ、問い掛ける。

「姉様だって、兄様だって、私なんかよりずっとずっと凄い〝力〟を持っているのに……どうして私だけが化け物扱いされなければいけないの?」

 何故自分だけが、こんな辛い目に遭わなければいけないのだろう。

 どうして精霊は、自分を選んだのだろう。

 世界は、自分のことが嫌いなのだろうか?

 だったらこっちだって、こんな世界……。

「こんな……こんな〝力〟なんて――」

「ステラ様!」

 突然、オルランドが声を張り上げた。

 あまりに唐突で、加えて彼の怒鳴り声など聞いたことがなかったステラは、思わず身を強張らせた。

 怒鳴った本人はすぐにハッと我を取り戻すと、哀しげな表情でステラの頬に触れ、流れる涙を指先で拭う。

「……よろしいですか。決して、貴女の〝力〟そのものを憎んではいけません。それは〝力〟だけでなく、貴女を加護する精霊すらも憎むという事なのです」

 それは、自分よりも精霊の方が大切だということだろうか。だとしたら、そんなのは納得いかない。

 ステラのそんな怒りにも似た反発心を察して、オルランドは小さく頭を振る。

「人間と精霊は、一心同体も同然なのです。もう一人の自分と言ってもいでしょう。だからこそ、彼らを否定してしまえば、人間は本当の意味で孤独となってしまいます」

 嘗て、遥か遠い地にて孤独となってしまった一人の少女のことなど、彼女の経験した想像を絶する苦しみなど、二人は知る由もない。

「どちらかが大切なのではありません。どちらも大切なのです。片方が完全に欠けてしまった者は、もはや人間という枠組みからも外れた存在となってしまうでしょう」

 生物学的な話ではなく、もっと別の、概念的な、或いは観念的な話として。精霊の加護を授かるようになった現代の人間を人間たらしめているのは、もはや人間だけではないのだ。

「ですからどうか……彼らを、そして御自身を信じて下さいませんか」

 正直な話、ステラは彼の言葉の大部分を良く理解出来なかった。また、自分をこんな現状へ追いやった〝力〟を信じるなんてことも出来なかった。

「……私、怖いの」

 大切な人達を壊してしまうことが怖い。

 学校へ行って、また誰かを壊してしまうことが怖い。

 だが今は、目前へ迫った医者への道を進むことが、進んで、そして一族の膿と見做みなされるのが、何よりも怖かった。

 握り締めた小さな手を震わせる少女に、老人は穏やかに語る。

「ステラ様、この世界の中心に、あらゆる所から子供達の集う学園都市があるのは御存知でしょうか。医院へ進むのを拒まれるのなら、そこへ進学するのは如何いかがでしょう?」

「でも、医院は……?」

 基礎学校を卒業したらそのまま医療学院へ進学し、医者となる。その為に今の学校へ通っているし、姉も兄も、ティエラの血筋は皆その道を辿っている。それは一族に課せられた使命でもあった。それを放り出すことを、一族が、父が許す筈がない。

 オルランドもそれは解っているだろうにと、ステラは戸惑いを見せた。

「私が言うべきではありませんが、あそこへ通う者達は、大抵が決められた道筋に従って生きています。言うなれば、箱庭の中しか知らず、また必要ない為に知ろうとしません。それ故、箱庭の外や、箱庭に収まり切らない存在に必要以上の抵抗を感じてしまう事があるのです」

 だからこそ、収まり切らない存在――ステラの〝力〟を目の当たりにしたクラスメイト達は、過剰とも言えるほどの恐怖を、あのような形で示したのだろう。

「それについては、どちらかに非がある訳ではありません。ですが今のまま医院へ進学しても、恐らく同じ事が繰り返されるだけです。繰り返さずとも、ステラ様の状況が改善される事もないでしょう。それは周囲だけでなく、ステラ様御自身が、自らの〝力〟を恐れているからです」

 優しい声なのに、ステラはつい身を強張らせた。

「だからこそ、自ら道を切り開こうとする者達の許で、貴女は世界の広さを知る必要があると、私は考えます」

 老人は言う。

 きっとそこには、ステラさえ及ばぬ〝力〟もあるからと。

 その〝力〟の強大さなど気にしない者達も居るからと。

「これはあくまでも、選択肢の一つに過ぎません。一族の使命を考えれば旦那様や奥様方、屋敷の使用人達には内密でなければなりませんし、それでもそう遠くないうちに知られてしまう事でしょう。それを承知の上で、私も出来得る限りの御助力は致しますが、選ばれるのはステラ様御自身です」

 老人は問う。

 この残酷な運命に従うかを。

 幸福など保証されない未来の為に、それでも抗ってみせるかを。

「このまま定められた道を歩む事が怖いのなら、まずは彼らと共に、御自身の〝力〟としっかり向き合っては如何でしょうか」

 少女は思う。

 この〝力〟を信じるなんて出来ない。

 目の前の道を進むことも出来ない。

「私は……」

 少女に出来たのは、彼の言葉を信じてみることだけだった――



        †   †   †



 そうやって、ステラはガーデンへとやってきた。オルランドの言葉を信じて、箱庭の外へ足を踏み出したのだ。

 自身の〝力〟と向き合うというのがどういうことなのかは解らなかった。しかし他所へ来ても自分が〝地の一族〟の一員であることに変わりはない為、初めの頃はひたすらに、〝力〟を伴ったうえで優秀な成績を修めようと考えた。その為に魔法学部を選び、刀剣術科の授業も受けることにした。

 それでも考えが改まった訳ではない。自分の腕が人を救うに値しないと考えると医学部へはどうしても行く気になれなかったし、オルランドの示してくれた道とはいえ、結果として自分が一族や誇り、医者になるという夢から逃げ出すことを選んだのは事実であり、それが余計にステラの心を急き立てた。

 恐らく〝力〟と関わる機会の少ない技術学部や芸術学部へ行ってしまったら、本当に全てから背を向けることになり、後は何をするにも怯えるしかない惨めな人生が待っていただろう。それだけは嫌だという想いが、その頃の自分に残された最後の意地だったのだろうと、ステラは思考のどこかで自覚していた。

 入学式を控え、家族に黙って大陸を渡ったステラは、以前にも増して〝力〟を抑えなければと躍起になっていた。医療学院の入学試験を放り出してきたここでまで同じ失敗は繰り返せないと、を心にきつく戒めた。

 そのおかげか、初めて訪れる土地への感慨だとか、 偶々知り合ったクラスメイトが同じ寮だったとか 、上級生達の基礎学校などとは比べるべくもない実力だとか、他にも色々と感情を揺さぶられることがあったが、それでもなんとか、初めの数週間を乗り切ることに成功した。

 ――のだが、

(……あれ?)

 ふと、いつの間にか自分がそれを意識していないことに気付いた。

 ここ最近、姉達やディノ達と再会する前を思い返してみても、〝力〟を抑える為に感情を殺す自分などどこにも見当たらない。普通に笑って、普通に怒って、誰を何を壊すでもなく、他の友人達と同じように普通の学生生活を送っていたのだ。

 何故?

 いつから?

 一体何が、自分の心持ちを変えたのだろう?

 思い当たる、あれほどの事件を経た自分を変えるくらい大きな出来事は、確かにある。

 あの火山での出来事は、確かにステラの心にあったおもりを幾らか取り除いてくれた。自分と同じような経験をしていたのおかげで、初めて祖父も同然の老執事以外に弱音を吐き出せたことは、自分にも誰かを救えるのだと思えるようになったことは、感謝してもし切れない、切っ掛けと呼ぶには十分過ぎるものだった。

 しかしよくよく考えてみると、ステラはそれ以前から、自分の〝力〟を抑えることを意識していなかったように思えた。舞い上がったり驚いたりしてその都度枷が外れるのではなく、日常として、枷の外れた状態に身を落ち着けていたのだ。

 一体、いつから……?

(ええと……)

「ステラ」

 思案していると、背後から声が掛かった。振り返った先で、ミリーが両腕いっぱいに枝を抱えていた。

 実習地で拠点を決めた今、薪の収集担当となった二人は、食糧係のリオンとディノ、テント係のデルフィナと離れて森を散策している最中だ。物思いにふけっていたステラも、至るところに転がっている枝を拾おうと身を屈めていたところだった。

「そろそろ戻らない? いい加減日も暮れてきたしさ」

「……そうですね」

 戻ってまた彼らと顔を合わせなければならないことを考えて、つい声が沈んでしまった。同時に視線も逸らした為、ステラはミリーの表情が曇ったのには気付かなかった。

 茜色に青紫の迫り始めた森を、今頃全員分のテントが張り終えてあるであろう湖畔へ向けて、来る時と同じく、ミリーが先頭となって歩く。

 後ろを付いていくステラは、再び思考の海へ潜った。もっとも、つい先程まで考えていたことに答えを出せそうになかったので、別の海域へ移動することにした。

 こちらへ来てから、ステラの〝力〟を恐れる者は居なかった。と言っても、それを実際に見たことがあるのは新入生クエストで知り合った面々か、しくは武術系の授業で一緒になった生徒だけだったので(魔法系の授業は、リオンを初めステラと同等以上の者が居る為それほど飛び抜けている訳ではない)、彼らが偶々免疫を持っていたのか、それともオルランドの言った通り、基礎学校のクラスメイト達が特別恐れを抱き易かったのかは判らない。

(ミリーさんは……)

 ふと目の前の背中に思う。

 彼女はまだ、ステラの〝力〟のほどを知らない。必修は先の通りであり、武術系の授業も一緒ではない為、これまでその機会がなかったのだ。そんな友人がもしあの〝力〟を目の当たりにしたら、一体どのような反応をするだろうか。

 いやその前に、ステラは当然のように思っていたが、果たしてミリーの方は、自分のことを友人と思ってくれているのだろうか……そんな疑問が、まったく唐突に浮かび上がってきた。

 実は彼女にとってステラは、ただ必修の席が隣合わせになったクラスメイトというだけで、偶にお昼を一緒したり、他愛のない雑談に興じたりしているのは、別に友人でなくともすることなのではないだろうか。思えば今こうしているのは、偶然同じ班になり、一人残ったデルフィナを除いた女子が自分一人だったからなのでは? 普段一緒に行動しているのだって、彼女からしてみれば行く先や目的が一緒というだけで、自分やリオンである必要はないのかもしれない。

 というか、友達とはどこからが友達なのだろう。知り合ってから会った回数? 話す頻度? それとも、自分の秘密を曝け出さなければ友達にはなれない?

 なんだか、混乱してきた。

 思考が堂々巡りを続ける。友達とはどういったものだったか……。自身の経験を元に考えてみたのだが、

(そういえば、向こうでは大抵一人でしたし……)

 そもそもの話、「友達」と呼べるほど親密に接した存在がこれまで居なかったことを思い出した。余計暗い気分になってしまった。

(でっ、でもでもっ! こちらではそれなりに……!)

 居る、と思わず声にさえ出しそうになって、言い切る前に引っ込んだ。

 真っ先に思い浮かんだのはリオン。恐らく接する頻度はこちらでは一番多いだろう。だが彼は誰に対してもあの弛い表情で接するので、果たして自分が友達という特別な枠に入っているのか定かでない。

 次に思い浮かんだのはアレン達新入生クエストの面々だが、こちらに至ってはまず友達というよりも先輩後輩という間柄だし、それよりもクラスメイトより先にこちらが出てきたことになんだか虚しくなった。

 その後に出てくる名前にも、やはりそうと確信出来る者は居ない。こういう時、普段自分が周囲とどのように接しているのか思い出せないのは何故だろうか。

 結局、はっきり友人関係であると言える人物は、一人たりとも挙げられなかった。

(うぅ……どうして『友達証明書』というのはないのでしょうか)

 首から提げてくれていれば一目で判るのに、とそんな詮無いことを考えて項垂れた。

 何がいけないのだろう。というかどうすればはっきり「友達」と呼べる間柄になれるのだろうか。

(そういえば……)

 ふと、先日の温泉宿で、イリスがアリスに正面から「友達になって!」と言っていたのを思い出した。あれなら承諾さえ得られれば即友達になれる(その時自分も友達になりたいと言ったことを、何故かステラはすっかり忘れていた)。

 光明我が内に見たり。これだ、と思ったステラは、さっそくとばかりにミリーへ呼び掛ける。最早当初の海域など大陸を挟んだ先にあった。

「ミリーさんっ」

 前のめりぎみになってしまった声に、ミリーの肩が若干跳ねた。

「……どしたの?」

「あ、あのですねっ……!」

 鼻息荒く(実際に鼻を鳴らすようなはしたない真似はしなかったが)、振り返ったクラスメイトへ詰め寄る。が、

「そのっ……あの……」

 口から出てくるのは、そんな曖昧なものだけだった。友達の「と」の字も出てきやしない。

(『私と友達になって頂けませんか』、『私と友達になって頂けませんか』……もうっ、どうして言えないのステラ!)

 言うことを聞いてくれない声帯に焦れったさしか感じない。

 改めて実践しようとして初めて、あれはイリスだから、またその相手がアリスだったから出来たのだということを思い知った。あんなドストレートな台詞、自分では言葉が恥ずかしがって全く出てきたがらない。

 口をパクパク動かす少女に、ミリーの眉間の皺は益々深まる。猫のような瞳には「この子大丈夫かな」という言葉がはっきりと刻まれていた。

 それでもなんとか、一度絞った雑巾から残りの水分を無理矢理捻り出すように、ステラは強張った喉から声を絞り出す。

「っ、…………す、みません……何でも、ありません」

 しかし、結局吐き出せたのはそれだけだった。

 中途半端で気拙い雰囲気に、沈黙が流れる。

(…………)

 言えなかった。

 どうして、言えなかった?

 恥ずかしさだけではない。言葉は喉元の先までせり上がっていたのだ。その時点で羞恥心などというものは踏み越えていた筈だった。

 なのに、言えなかった。直前で胸の内側が異様なまでに苦しくなって、言葉が妨げられたのだ。

 その現象を引き起こした原因は何だろうか。

 それは……そう、それは――

「あぁ~、やっぱダメだ」

 突然、ミリーが何かに痺れを切らしたように頭を掻き毟った。

 あからさまな不機嫌を顔に乗せながら、ステラを見る。

「あのさ、アタシは別に他人の事情に深入りするつもりなんてないし、知ったところで当人同士の問題なんだから、解決策なんて考えない」

 彼女の心情を知らないステラからすれば、それは突拍子な話だった。よもや色々考えたり思い出したりしていたのが原因などとは思っていない。

「だからこれは全部、単に黙ってたらアタシが気持ち悪いから言うんだけどさ」

 普段と真逆の、夜の砂漠のような、声と表情。それだけで、ステラは息を呑んでしまう。

「言いたいことがあるなら、きちんと声に出して言いなよ。ごちゃごちゃ考えたって雰囲気に醸し出したって、ステラの考えてることなんか言わなきゃ誰にもわかんないんだからさ。もしなんにも言わずに理解されたいなんて考えてるんだったら、それって結局ただ相手に甘えてるだけじゃん」

 瞳に宿った決意が、ステラには怒りに思えた。

 いや、気の所為ではないのだろう。少なくとも、そこには怒りもあった筈だ。そしてミリーの決意を知る由のないステラには、窺い知れるそれこそが全てだった。

 だからこそ、彼女の言葉に、ディノ達と再会した時以上の衝撃を受けた。



「アタシはさ、ステラのそういうとこが、すっごい嫌いだ」



 ……あぁ、あの胸の苦しさの正体が判った。

 あの苦しさは、オルランドが怪我をした手に触れようとした時と同じものだったのだ。

 また、大切なものを壊してしまうかもしれないことへの気持ち……恐怖だ。

 思えばいつだって、自分の中にはまず恐怖があった。何かに触れる時。誰かと接する時。独りっきりでいる時でさえ、そこには恐怖を基盤とした感情しか存在しない。それこそが自身の心を剥き出しにした時の真実なのだと、ステラはようやく悟った。

 だから今も、たったの一言が言えなかったのだ。

 だから今も、悲しみや怒りではなく、恐怖に意識が支配されているのだ。

 ミリーはまだ話を続けていた。しかしそれは、ステラの耳には届いていない。

 何かが自分の中で壊れていく。

 壊れて、砕けて、それでもさらに、粉々になっていく。

 そして、これ以上は壊しようもないほど砕け散り、光届かぬ奈落の底で虚しく積み上がったそれに、迫る。

 怒りの炎が。

 復讐の炎が。

 どうしようもなくなったステラの心を、灰すら残さずき払わんと、現れた。



「……だからアタシはさ――」

 散々迷って、それでも結局、ミリーが自分の思うところを余さず伝えようとしていた時だった。

 背後からの殺気。

 だがそんなものを感じ取れるほど戦い慣れていないミリーは、視界の隅が葡萄えび色に輝き、肩越しに過ぎ去った何かがステラへ襲い掛かってからようやく、何かが起きたことを理解した。

 目の前で金属の激突する音が拡がった。

「っ!?」

 同時に散った火の粉へかざした手の向こう側で、先日聞いた摩擦音が唸る。

「……ッ、デルフィナ……さん……!」

「…………」

 咄嗟に大剣で受け止めたステラには応えない。突如森の中から現れたデルフィナは、例の薙刀のような武器を巨大な刃へ押し付けるだけだ。小柄な所為か、相対するステラからもその表情は窺えない。

「ちょ、ちょっとアンタ何やってんのさ!? 危ない――」

「うるさいッ!」

 弾き、払われた幅広の刃から散った火が、ミリーの声を遮った。

 再び身を強張らせたミリーの視界の中で、火の粉が舞う。その先で空を斬った刃から、ほむらの残骸が尾を残していた。

(これ、魔力の……?)

 勿論、こんな森の中で突然火がおこる訳がなく、それは明らかに魔力によって顕現された炎だった。

 二人の緊張した表情の中に僅か、驚愕が紛れ込む。

 魔物に対して、ただ武器で攻撃するという行為は棒切れを振り回すに等しい。多少は差があるかもしれないが、「傷付ける」ほどの効果が見込めることはまずない。

 それは彼らが強靭な肉体を有しているのとは別に、薄い魔力の鎧を身に纏わせているからだ。人間で言うならば常に肉体強化の魔法を施しているのと同じであり、どれほどの名工が仕上げた武器であろうと、それだけでは到底魔物には太刀打ち出来ない。

 だからこそ、魔物と戦うには魔法を使うか、こちらも武器に魔力を纏わせなければならない。基礎課程の学び舎では、初めて武器を手に取ったその日から、肉体強化と共にその技法の習得が義務付けられている(武器そのものに魔力が籠められた物ならば、この限りではないが)。

 当然ミリーもそうであり、またそれが現代魔導師の常識として浸透している為、他所の大陸出身のステラやデルフィナも、今こうして各々手に取った武器に魔力を纏わせている。だからそれ自体は散々見慣れた光景だったし、デルフィナがただ炎を発したのならば、ミリーはただ緊張するだけで驚きはしなかっただろう。

 しかし葡萄茶えびちゃ色の瞳に炎を燃やす少女は、その刃にも焔を纏わせている。

 武器に纏わせる魔力には、肉体強化と同じく属性がない(正確に言えば「無」という属性を持っているのだが、ここではあまり意味を成さないのでそう解釈して構わない)。ただ魔物と対等に戦うだけなら、態々属性を変え、またそれを維持するのは手間なだけだからだ。

 逆に言えば、。魔力の性質の一つである属性を変えられるということは、それはつまり普通の魔法と同じく、効果も加えられるということだ。

 しかしながら、性質変化を維持し続けるには相応の技能が要る。通常の魔法でさえ、その技法を用いたものは維持型魔法という系統に属し、その多くが習得に当たって並みならぬ修練を必要とするのだが、それを生身ではなく武器という全く別の物質に維持させるというのは、単に魔法を創造するより難しい技術なのだ。

 故にこそ、普通武器に「魔法」を纏わせる者は居ない。精々が、アレン達のように媒介や発動のトリガーとして用いるくらいだ。

 デルフィナのしているそれは、その中間のようなものだ。「火」という属性が持つ性質的特徴と「燃える」というごく単純な効果のみを、維持するのではなく攻撃の瞬間にだけ加えるそれは「魔法」と呼べるほど複雑な構造ではないが、そうすることで普通に「魔法」を維持し続けるよりも消費魔力と労力を抑え、ただ魔力を纏わせるよりも大きな破壊力を付加しているのだ。

 これと同じ手法を使う者自体は、魔導師の中には割と沢山居る。だが基礎課程上がりの一年生が扱うには高度な技術であり、実際、短期間とはいえ上級学院で過ごしたこの二月、同じ学年で扱える者をミリーもステラも見たことがなかった。

 班員通知の表記とミリー達の記憶が正しければ、デルフィナはディノと同じく、学年の真ん中より少し上くらいのクラスだった筈だ。決して低い訳ではないのだが、これほどの技能を持っていると予想出来るレベルでないことも確かであり、少なくともステラの方はそれについて驚いたのだと、構えた大剣の奥に控えた表情が物語っていた。

 だがミリーが何よりも驚愕したのは、彼女が、それを使ったことだった。

 先日、突然の再会で我を忘れて飛び掛かってきた時でさえ、デルフィナは武器を振り回すだけに留まっていた。唐突過ぎてそこまで気が回らなかっただけかもしれないが、それでもとりあえず、それが彼女の無意識下での本気だった。

 けれど今、その刃には焔が宿っている。明確な敵意と確固たる決意を内包しながら、刹那の隙間から二度、姿を現した。

 それはまさしく、彼女の身の内で燃え盛る復讐心の顕現だった。

「……本気なの?」

 問い質さなくとも、ミリーはその炎の意味を正確に捉えていた。

 デルフィナは本気だ。今度こそ意識的に、確実に、復讐を果たそうとしている。なんの前触れもなく襲い掛かってきたのがその証拠だ。

 伏せぎみだった視線がミリーを捉えた。

「わたしはいつだって本気よ」

 瞳の中の炎が、冷たく燃える。

「本気だからここにいるし、本気だからディノに付いてきた。何もかもが全部本気で、だから全部大切なの」

 何かを抑え込んだ声は、奇妙なほど平坦だ。

「わたしの『本気』のほとんどは、もうこの女に壊されてる。二度と戻らないし、何をやったって戻せやしない。けどね、それでもいいって思ってたの。忘れるなんてできやしないけど、それでも心の奥底にしまって新しい道に進めば、きっとまた心から笑える日が来るって、そう自分に言い聞かせることにしてたの」

「…………」

 誰が、とは、彼女は口にしない。沈鬱な表情をしているステラが視線を逸らした。

「上手くいくって思ってた。新しい場所で、誰も何も知らないこの場所で、新しい夢を見つけて今度こそ辿り着けるって、そう思ってた。――なのに……!」

 炎が、再び激しく燃えてステラを見据えた。

「どうしてお前が、お前だけが普通に過ごしてるの! どうしてディノだけがあんなに苦しまなければいけないの! お前にそんな資格なんてないのに! ディノが苦しむ必要なんてないのに!」

「私は、っ……」

 反論しようとして、しかし口をつぐむステラ。

(――ッたく……!)

 それにまたイライラする。ウジウジウジウジ、そんな風に躊躇ってばかりいるから話が余計ややこしくなっていくのだ。

 彼女のこういうところが、やはりミリーは心底嫌いだ。

 ……だけど――

「お前に、わたしたちの苦しみはわからない」

 ゆっくりと腰を落としながら、デルフィナは強く握り締めた薙刀の刃先を引き摺るように構えて、空いた方の手を柄に添える。

「だからわたしが、わからせてやる」

 最後の台詞が届いたのは、再び戟音が響いてからだった。

 デルフィナの足が力強く地を蹴った。

 十歩とない距離を小柄な身体が瞬く間に埋める。それに置いて行かれまいとするかのように、薙刀が腕ごと大きく縦の弧を描く。

 振り抜かれた弧閃が、地面を砕いた。

「……ッ!」

 そう離れていないところに居た為、一撃の余波たる石飛礫いしつぶてがミリーを襲った。

(なんっ、つー……!)

 馬鹿力。身を護りながら心中でそう悪態吐いた。

 あんな小さな身体のどこにこれほどの力があるのか。そういえば先日の騒動や先程聞いた鍔迫り合い(デルフィナの武器に鍔はないが)の音も、まるで巨漢同士のもののように重々しく響いていたのを思い出した。

(ステラは……)

 砕かれた地面から視線を移すと、すぐ目に入った。恐らく跳び退いたのだろう。先程まで居た場所から数歩分離れたところで、ステラは大剣を構えていた。

 なんとも言い難い、複雑な表情だ。

 悲しんでいるのか、恐れているのか、怒っているのか、戸惑っているのか。入り混じり過ぎて特定が出来ない。

 再びそこへ迫った一撃から、身を退いた。

「逃げるなっ!」

 吠えたデルフィナがそれを追う。気が急いているのか、かなりの大振りだというのに、それでも刀身がステラの髪を掠める。

 休む間もなく、更なる追撃。縦に振り下ろし、或いは振り上げる形で弧が描かれる。気後れでもしているのか、ステラは反撃に転じようとはせず、ただ紙一重でそれらを躱していく。

「いつまでも……」

 苛立たしげな呟きが聞こえた。

 これまで同様、まずは下から大きく弧が描かれた。

 映像が繰り返されるように、ステラも同じ動作を繰り返す。曲げた膝のバネを利用して強く地面を蹴り付けた。

 風圧が茶髪を乱す。そこからさらに、デルフィナが踏み出す。

「――逃げられると思うなッ!」

 振り下ろされた刃に焔が宿った。

 一閃、炎が鋭く駆けた。

「ステラッ……!」

 思わず叫んだ先で、紅蓮が収まる。

 無事だ。少し掠めたらしく腕に焦げ跡が付いていたが、制服に編み込まれた対魔障壁のおかげでその程度で済んだようだ。

 ミリーはホッと胸を撫で下ろした。が、

「――、ッ……ハァッ、……!」

「………!?」

 突然、苦しげに胸を抑えたと思ったら、ステラはあろうことかその場で膝を着いてしまった。

 今の一撃をまともに受けたようには見えなかった。それはデルフィナの怪訝な表情からも見て取れる。

 だがとにかく、このままではまずい。

「……何かは知らないけど、ちょうどいいわ。ちょこまか鬱陶しかったし」

 網膜に残った紅い軌跡が消えないうちに、デルフィナが武器を構えた。

「殺しはしない。お前には生きて、わたしたちと同じだけ苦しんで貰うんだから」

 ステラは応えない。いつの間にか大剣は姿を消していて、完全にしゃがみ込んでいる。

「苦しんで苦しんで、死ぬならその後で、苦しみながら死ね」

 蹲る少女へ、その右腕目掛けて、振り下ろした。



 陽の落ちた森に、赤みが差した。



「……あのさぁ」

 少し踏ん張った所為で、声が震えた。

 寸前で、ミリーは両腕を頭上で交叉させ、デルフィナの凶刃を受け止めていた。

 腕には、握りの突き出た一対の短い鉄棍。

「まだアタシ、話の途中なんだよねぇ……!」

「ッ、……ミリー、さん……」

 苦悶に歪んだ顔を僅かに上げたステラへ、視線だけを向ける。足下の地面が押し込まれているのを感じた。

「ここはなんとかするから、ステラはちょっとディノ君呼んできて」

「で、ですが――」

「いいから行けっつってんの!」

「ッ……!」

 急な怒声に、ステラの肩が小さく跳ね上がった。その様子にやれやれと脱力しそうになるのを、なんとか堪える。

「駆け足ッ!」

「は、ハイッ!」

 蹴り上げられたように、ステラは蹌踉よろめきながらも慌てて駆け出した。

 暗がりへ消えていく少女を背中で見送っていると、正面から問われる。

「……何のつもり?」

「言ったじゃん、まだアタシの話は終わってないの。アンタの好きにさせてたらこっちはいつまで経ってもスッキリできないんだよ」

 答えながら、ミリーは力を込める。

「なんせ、あの子にはまだまだ言いたいことが山ほど残ってるから……ねッ!」

 台詞に合わせて、押し付けられた刃を弾いた。

「?」

 互いに距離を取る中、ミリーは妙な違和感を覚えたが、それよりさらに奇妙な状況へ意識を傾ける。

「ちょい意外かな。てっきり死に物狂いでステラを追っ掛けると思ってたんだけど」

 言葉の通り、ミリーはデルフィナの攻撃を受け止めながらそれに備えていたのだ。しかし予想に反し、彼女はステラが去っていくのを何もせず眺めるだけだった。

「わたしは、あの女が苦しんでくれればそれでいいの」

「わけわかんない。だったらなおさらじゃん」

 んなことさせないけど、という声を言外に乗せる。

 と、

「……あんた、あの女がわたしたちに――ディノに何したか知ってるの?」

 不意な質問。同時に自分の推測への解答を得た。やはりステラがディノに何かやってデルフィナが横槍を入れているらしい。

 答えは勿論、

「知らん」

 ――の一言。

 デルフィナもこれは予想通りだったらしく、たいした反応は見せなかった。

「でしょうね。でなきゃ、そんな脳天気にこっちの邪魔なんかしてこないだろうし」

 寧ろ、なんだか呆れているように見える。いや、馬鹿らしげに息を吐いたのだから確実にその類の心境だ。

「あの女はディノを傷付けた。孤立したあの女に優しく声を掛けてあげたのに、それを仇で返すどころか、わたしたちの大切な夢まで奪っていった」

(あ、喋るんだそこ……)

 別に頼んでないんだけどなぁ、と緊張感のないことを思っているミリーには構わず、デルフィナは続ける。

「なのにあの女は、そんなことも忘れてこっちで楽しく過ごしてる。友達なんか作って、周りにちやほやされていい気になって、まるで自分の犯した罪なんてなかったみたいに暮らしてる。ディノがどれだけ苦しんでると思ってるの。ここに来るまでの間も、ここに来てからもずっと大変な思いをしてるのに、どうしてあの女だけが幸せそうにしてるのかわたしには理解できない」

 むっ、と引っ掛かった。

「だからあの女にわからせてやらなきゃならない。大切なものを失う苦しみを。失った後の苦しみを。そのためならわたしは、ディノに嫌われたっていい。だって、どうせディノはやめろって言うに決まってるもの」

 引き摺る形で柄を握っていた手に、力が込められた。

 ほんの数歩踏み出せば、デルフィナの長物の間合いの中だ。ミリーも再び、気を引き締める。

「本当はあの女の右腕を斬り落としてやるのが手っ取り早いんだけど、別にそれ以外にも方法がないわけじゃない。例えば、あの女の大事なを再起不能にしてやるとかね」

「な~る、それでステラを追わなかったってわけか。案外、なりふり構ってはなかったんだ」

 軽口を叩きつつ、デルフィナの一挙手一投足に神経を注ぐ。

「わたしだって、関係ない人を傷付けるのは本意じゃないわ。けど首を突っ込んできたのも邪魔をしたのもあんたの方。その分の代価は貰わないとね。それに……ッ」

「っ!」

 唐突に、駆け出したデルフィナの刃が頭上の空を裂き、ミリー目掛けて振り下ろされた。

 待ち構えていたミリーは、先程と同じ形でそれを防いだ。重い一撃が両の腕に激突する。武器ごとへし折らんばかりの衝撃に、顔が歪んだ。

「わたし、すっごくイライラしてるのよ、今」

「へぇ、っ……奇遇、じゃん……」

 ギリギリと押し付けられる薙刀を押し返しながら、力んだ声で返す。

 耳に残った、あの言葉。

「アタシもちょうど……ものすっごいムカついてるん、だッ!」

「!」

 交叉して挟んだままの刃を、横へと流し、弾いた。

 そのまま、前のめりに体勢を崩したデルフィナを追うように回転。遠心力に任せて思い切り蹴り付ける。

「だぁりゃあッ!」

 ゴッ、と鈍い音に続いて、デルフィナの身体が宙に浮いた。

 吹き飛んだデルフィナは、短い飛距離の中で受け身を取る。さらに追撃に備えて体勢までも整えてみせたところで、

「?」

 未だにミリーがその場に留まっていることに気が付いて、眉を寄せた。

 というよりも、ミリーに端からそんなつもりはなかった。それよりまず、言ってやらねばならないことがあるのだ。

「ったく、どいつもこいつもウジウジウジウジ! アンタらの頭ん中にはカビでも生えてんのかっ」

 限界だ。

 もう自分でも抑え切れないことを、ミリーは自覚していた。こうなったら当て付けに全部ぶつけてやる。それこそ話の邪魔をしたデルフィナに責任があるというものだ。

「アタシを再起不能にする? やってみろっての。その前にアンタのその捻くれまくった性根を叩き直してやる」

 掛かってこい、と言わんばかりに、ファイティングポーズを取った。

「…………」

 デルフィナは静かに応じる。蹴られた箇所を痛がる素振りも見せず、手にした武器で地面を引っ掻きながら、ゆっくりと歩み寄る。

「死んでも恨まないで、なんてことは言わない」

 冷たい声が、空気を刺した。

「恨んでいいから、さっさとくたばりなさい」



        †   †   †



 心臓が、肺ごと締め付けられたかのようだった。

 苦しくて苦しくて、呼吸さえ出来なくなってしまうほどになったあの感じは、今は少しだけ和らいでいる。

 何が締め付けた?

 何が和らげた?

 態々問い質さなくとも、今はもう全部、解っている。

「……ッ、ハァ、……!」

 限界を感じたステラは、足を止めて傍の木へ寄り掛かった。

 普段ならなんてことのない距離なのに、呼吸器官だけはまるで数時間全力で走り続けたかのように疲弊していた。

「…………」

 静かだ。離れたとはいえ、ミリー達が戦っているとは思えないくらいに。

 その静寂さが、かえって思い出させる。

『――ステラのそういうとこが、すっごい嫌いだ――』

『――逃げられると思うな!――』

「――ッ!」

 また勢いを増した圧迫感に、堪らず蹲った。

 二人の言葉が呼吸を妨げる。

 違う、二人の所為ではない。これは全て自分の招いた結果なのだ。苦しいことから逃げ続けて、殻に閉じ籠って、何一つとして解決してこなかった。それでは失敗するだけだとあの時身を以て思い知ったというのに、それでも自分は頑張っている、一生懸命考えていると無言で周りに訴えるだけで、ミリーの言う通り誰かが何とかしてくれるのを心のどこかで期待していたことに気付かされた。

 家のことだって、ディノ達のことだって、本当はもっと早くに向かい合わなければいけなかったのだ。それをこんなところまで引き摺って、挙句無関係なミリーやリオンまで巻き込んで。デルフィナの言葉が、本人の意図せぬところを咎めているように聞こえた。

 話して否定されるのが怖い。

 向き合って拒絶されるのが怖い。

 恐怖に絡め取られた愚かな自分が、全ての元凶なのだ。

(……何も、変わってない)

 こちらへ来て足掻いてみて、あの火山で何かが変わったと思ったのに、結局何一つとして変われていなかったのだと思い知らされた。こんな自分が誰かと特別親しく――信頼して貰える関係になれる筈がない。

 でも……それでもミリーは、助けてくれた。ステラの期待するような思惑ではなかったのかもしれないが、ただその事実が、胸の苦しみを和らげてくれたのだ。

(どうしようもないくらい、単純ですね、私……)

 はっきりと否定されてもなおそんな風に思ってしまう自分が、酷く滑稽に思えた。

「……っ急がないと」

 いつの間にか、青紫と茜色の入り混じった空は完全な濃紺へと変わり果てていた。それほど長い時間が経ってしまったのか、それとも闇の足が速かったのかも判らない。

 心持ち同様の重い身体にグッと力を入れて、木を支えにして立ち上がった。

「――ステラ?」

 突然、所々で月明かりの射す闇の中から声がした。次いで、影から姿を現す。

「ディノ、君……」

「良かった、無事だったん――」

 額に汗を浮かべ息を切らせていたディノは、安堵の息を吐き掛けて、ステラの疲弊し切った様子に言葉を切った。

「……? あの、大変なんですディノ君っ。デルフィナさんが――」

「フィーナが、来たんだね」

「!」

 ステラがデルフィナの名前を出すか出さないかのところで、ディノも状況を解っているとばかりの口調でその名を口にした。

 ステラは彼の反応に戸惑った。が、今はそれどころではないとすぐに切り替える。

「は、はいっ。それで今、ミリーさんがデルフィナさんと……!」

「ガーフィールドさんが?」

「と、とにかく止めるのを手伝ってください!」

「……わかった、僕もそのつもりで探してたしね」

 ディノが頷いたのを確認すると、鉛のような脚には構わず、ステラはすぐに来た道を駆け戻った。背後でそれを追ったディノが傍に並んだ。

 闇に沈んだ森を、二人は乱雑に突き進む。

「でも、どうしてガーフィールドさんがフィーナと?」

「私を助けて下さって、この場は自分がなんとかするのでディノ君を呼んできてくれと……本当は私がしなければいけないのに……」

「……羨ましいな」

「え?」

 木々の間を駆け抜けながら少し声を張り上げていた中、ステラはボソリと呟かれた言葉が良く聞き取れずに訊き返した。

 呟いたディノは、何故か驚いたように目を見開いていた。しかしそれも僅かな間のこと。すぐに頭を振って答える。

「いや、いい友達が出来て良かったね」

「友達、ですか……」

「?」

 今度はディノの方が首を傾げた。正面の木々を避けながら、傍を走るステラへ視線を向ける。

 同様に駆けながら視線を落としたステラは、一瞬話そうか躊躇った。

「……実はつい先程、嫌いだと言われたばかりなんです、私」

 すぐに話してしまったのは、多分、誰かに聞いて欲しかったのだろう。そうすれば、なんとなくその事実を受け入れられる気がしたのだ。

 あの時のミリーの言葉を、そっくりそのまま繰り返す。

「それも当然なのかなと思いました。だって、こんな私を信頼してくれる方なんて、いる筈ありませんから。ですから、そう言われてしまったのは仕方のない事なんです、多分……」

「…………」

 弱々しく寂しい微笑に、ディノは沈黙で応える。

「やはり駄目ですね、私は。こちらへ来て少しは変われたかなと思ったのですが、結局のところ、人はそう簡単に変われなどしないのでしょうね」

「……そうだね」

 今度は肯定が返ってきた。行く先の闇が二人に群がる。

「人は簡単に変われない、確かにその通りなんだろうね。だから僕達はいつまで経っても同じことばかり繰り返してる。それじゃダメだってわかってるんだけど、どうしてもそうしてしまう。多分、これから先何度でも」

 その結果が今のこの状況なのだろうと、ステラは視線を逸らすことで肯定した。

「でも、絶対に変われないわけじゃない」

 耳に届いた言葉に、顔を向けた。

「変わらないところもあるけど、ほんの少しずつでも変わっていくところだってあるんじゃないかな。現に、今のステラは僕の知ってるステラとは少し違うように思うよ」

「そう、でしょうか……」

「うん。……あの頃は、今みたいなことだって話さなかったし」

 思い出すように、ディノは少し間を空けて言った。

 確かに。こちらへ来る前のステラは、ほんの些細なことさえ誰かに打ち明けようとはしなかった。オルランドに打ち明けていたのだって、自身の抱える悩みのほんの一部に過ぎない。それくらい――頑なに、と言えるほど――誰にも胸の内を明かしてこなかったのだ。

 そう考えれば、今こうしてディノに話している自分は、少しはあの頃と違うと言えるのかもしれない。

「僕らに必要なのは、多分、ほんの少しのきっかけと、踏み出す勇気なんだと思う。ガーフィールドさんは、きっとステラにきっかけをあげたんじゃないかな」

「きっかけ……」

 彼女の台詞と、今日一日で得た印象から、ディノはそんな風に思ったようだ。とはいえ、

「まあ、もしかしたらただ気に喰わなかっただけかもしれないけどね。ほら、あの人ってすごいサッパリした性格だし。まだ会って二回目だけど」

 と保険を掛けておくくらいには、その予想に自信があるわけではないらしいが。

「…………」

「ステラ?」

 少し冗談っぽく言ったのに反応がなかったので、ディノは「あれ?」とステラを見た。

「……ディノ君も」

「?」

「自分を変えたいと、思っているのですか?」

「!」

 渋紙色の瞳が僅かに揺れた。同時に、駆けていた脚が止まる。

 先程から、ディノの言葉の主体には彼自身も含まれていることが多い。まるで自分自身へ言い聞かせるかのように。

「……どうして――」

 そのことに引っ掛かったステラは、訊きたいと思う心を抑えられなかった。

 同じく立ち止まって、振り向かずに問う。

「どうして、こちらへ来たのですか?」

 以前にも訊ねたことだ。そしてその問いに対する答えは、既に聞いている。

 当然、ディノの返答はこうだ。

「……前にも答えたと思うんだけど」

「それは解っています……ですが、いくら考えてもあの言葉の意味が解らないのです」

 ただこうなるべくしてなった。

 誰が何を言ったってどうしようもないことなんだ。

 それに、これは自分自身が選んだ結果でもある。

 だから、ステラが気にするようなことじゃない。

「――ですが、ディノ君やデルフィナさんの御両親は腕の良いお医者様です。以前母がそう仰っていました。それにお二人とも基礎学校での成績は良かったではないですかっ」

 振り向いた勢いで声を張り上げた。

 そんな二人が、態々こちらへ来て、しかも魔法学部へ通う必要などない。

「……私の、所為なのですよね」

 あの日以来、ディノは学校に来なかった。

 怪我が長引いているという話は噂で耳にしたが、殊更に居心地の悪くなった教室からなるべく離れるようにしていたステラは、卒業の時期になってようやく、試験だけは受けて卒業出来ることを知った。卒業してすぐに大陸を渡った為、二人が顔を合わせたのは本当にあれ以来のことだ。だから、ディノに関する詳細を、ステラは知らなかった。

 けれどやはり、デルフィナの反応や今のこの状況からして、それしか原因はない。

「自分で選んだなんて嘘です。あの時の怪我の所為で、そうするしかなかったのでしょう……?」

 自分の所為で、二人の人生を狂わせてしまった。臆病で、愚かで、どうしようもない自分が、彼らの日常を壊してしまった。

 解っていたのだ。そのくらいのこと、彼らと再会した時点で容易く想像出来たことだった。ただ、その事実を見ないようにしていただけだ。

「……ごめん、なさい……」

 醜い。

「ごめ、なさい……ッ」

 なんて醜いのだろう。

 今さら謝って赦しを請おうだなんて。なら何故あの時に謝らなかった。自分が傷付けた事実を受け止めたくなくて、糾弾されるのが怖くて見舞いにすら行かなかった癖に。

 謝れば赦されると思っているのか。

 涙を流せば二人の人生が元通りに戻ると思っているのか。

 赦されない。

 元通りになんてならない。

 解っているのに、それでも頬を伝う涙は止まらない。

 ただ謝ることしか出来ない自分が、涙でディノの優しさに訴えようとしている自分が、ステラはこの上なく醜く感じられた。

「…………」

 泣きじゃくりながら謝り続ける少女を、ディノはただ見つめる。

 つい、自身の右腕を掴んだ。

「僕は、ステラに謝って欲しいわけじゃないよ」

「ですが、わた、し、他にどう、していいかッ……」

「別に、何もしなくていいんだよ」

「……っ、?」

 手の付け根部分で涙を拭いながら、ステラは顔を少しだけ上げた。

 潤んだ瞳に映る表情は、困ったように微笑を浮かべている。

 良く言えば優しい、悪く言えば少し気弱な微笑みだ。

「何もしなくていい……ううん、何もしないで欲しいんだ。僕はあのことでステラを恨んだことなんてないし、ステラがそれを気にしてたら、逆に僕が謝りたくなっちゃうから」

「そん、なっ、ディノ君、何も悪く、ない……!」

「ああ、そっか。ステラからしたらそうなっちゃうのか」

「………?」

 何かに納得したように呟くと、ディノは「参ったな……」という風に頬を掻いた。

「じゃあさ、こうしよう。僕やフィーナの代わりに、ステラは自分の本当にやりたいことを頑張って欲しい」

「私の、本当にやりたい事……?」

「うん。医者とか、そういうのは関係なしに、ステラが本気で望むことを。それを、フィーナの『本気』を奪った『罪』に対する、『罰』だと思ってくれないかな」

「…………」

 少しの間、彼の言葉を己の中で噛み締める。

 それが本当に贖罪になるのかは判らない。だが、他の誰でもないディノが言うのなら、自分はそうすべきなのかもしれない。

 そしてなんとなくだが、ディノはこちらの事情を察してくれている気がした。だから「医者になれ」とは言わなかったのだと思う。

 ――けれど、

「さっ、早く行こう。折角きっかけをくれたんだから、踏み出さないとね」

 ステラの答えを待たずして、ディノは再び走り始めた。

(ディノ君は……)

 贖罪の対象にディノ自身が含まれていないことに気付いて、ステラは頷けなかった。



        †   †   †



 地面に生えたコケがえぐられた。

 叩き付けられた場所を始点として再び斬り上げられた刃を、ミリーは必要以上に大きく跳び退いて躱す。

 それを追うように、刃から炎が突き出た。

「こんのッ……!」

 再び追撃に出たデルフィナを、忌々しさを乗せて睨んだ。

 森に火が移ることなんてまるで躊躇していない。寧ろ、ここまで振り回して未だに燃え移っていないなんて奇跡だ。

 対して――

「大地の幼子、我に応じて彼を穿てッ!【地子の童剣グレイブストーン!】」

 二人の間の地面に赤み掛かったオレンジの魔法陣が顕れた。

 感付いたデルフィナが方向修正。魔法陣の一歩手前で折れ曲がると、本来の移動地点から短い石柱が突き出た。

 ところを、

「!」

 先回りしていたミリーは拳打で迎え撃った。腕の外側から伸びた鉄棍がデルフィナの顔面を躊躇なく狙う。

 しかし、それも頬を掠めただけで躱されてしまった。

(やばっ……!)

 ミリーは慌ててデルフィナの逆手側へと跳び付いた。頭上を風圧と刃が通り過ぎたが、息を吐く間もなくさらに距離を取る。

 案の定、今し方居た場所に重い一撃が振り下ろされ、その斬道からさらに炎が噴き出た。

 体勢を整え、乱れた呼吸を落ち着かせる。

(……とりあえず、このくらいかな)

 目算にして六メートル。これがデルフィナの武器と、そこから槍のように突き出る炎の間合いだ。

 対して、ミリーの間合いは腕より少し長い程度。しかも自身を加護する火属性の魔法を迂闊に使うことさえ出来ないでいる。性根を叩き直すとは言ったが、流石に殺すつもりはない訳で、となると森に火が移る可能性を自ら高める訳にもいかないのだ。

 正直、厳しい。

(あー、あっちはんなこと考えてないんだろなぁー)

 というか、殺人宣告紛いのことを言われたばかりだった。

 何にせよ、ステラがディノを連れてくればこのくだらない喧嘩は終わりだ。なんやかんや言っても、デルフィナは結局ディノの言うことを聞くと読んでいる。ディノがあちらに加勢する可能性は、彼女の言い様からしてないだろう。

 けれど、

(それじゃあ、こっちの気が収まらないんだよね~)

 最初は適当に時間稼ぎするつもりだったのだが、今となってはそんな気は毛頭なくなっていた。だがそれはつまり、ディノの到着はこちらにとってもタイムリミットということでもあった。事態の収拾を付ける為に自らそうしたとはいえ、焦りが生まれる。

(さてさて……)

 得物の相性は最悪。行動は制限付きでしかも解消不可。

 となれば、

(まずは、あの物騒なのからなんとかしましょかねっ)

 決めたのと同時に、デルフィナが駆け出した。

 相変わらず地を這う刃に注目する。

 彼女の武器は、正確に言えば一般的な薙刀とはかなり異なる。普通の薙刀の刃は本当に刀のような形をしているが、彼女のそれは幅広で、深く反り返り、丸みのある柄には不釣り合いなほど大きな形状をしているのだ(刀というより、槍や戟の方が近いとミリーは思った)。

 斬り上げてきたそれを身を反らして躱した。大きく弧を描いた獲物が、一周してまた地面へ着くかと思うほど仰け反る。

 実際には、柄を握り締める両手に引き留められて、持ち主の頭上を越えた辺りで振り下ろされた。

「ハァアアッ!」

 地面を砕くほどのあの一撃が雄叫びと共に迫る。

(けどッ……)

 敢えて、ミリーはそれを先刻と同じ方法で受け止めた。

「ぐっ、ぎぃッ……!」

 鉄棍越しに骨へと伝わる衝撃。互いに肉体強化をしている為、素で殴り合うのと変わらない痛みが襲ってくる。

 だが――

「ッ!?」

 鉄棍と刃の接触点を軸に、デルフィナが月光注ぐ宙を舞った。

 鉄の滑る鋭い音に続いて、縦円を描く刃が頭上を過ぎる。

 背後から届く着地音。直後に景色が横転した。

 咄嗟に、背中へ魔力を集中させる。

「――ゥァアアッ!!」

 短い咆哮に応じて、背中で小さな爆発が生じた。

「ぐッ、うぅッ!」

 近くの木まで吹き飛ばされたミリーは、背後と正面から受けた衝撃に身悶えた。

(き、曲芸師か、アンタは……ッ)

 反射的な鎮痛処置の為の手が行き場に迷っている中、横転したままの視界を半分開けて毒吐いた。

 デルフィナは追撃してこない。先程の意趣返しのつもりだろうか。

 どちらにせよ来ないなら好都合だ。今のうちに少しでも体力を回復させなければ。

(っ痛ぅ~、結構持ってかれたぁ~っ)

 木を支えにして立ち上がる。首か下半身なら完全に致命傷という危ない賭けだったが、背中の広範囲に魔力を集中させたのは正解だった。

 その分、残存魔力もかなり減らされたが。

(ってか、燃やすだけじゃないんかいッ)

 そんな話は聞いてないと、正面に念を送った。デルフィナからすればとんだ言い掛かりだ。

 ――だが、これではっきりした。

 デルフィナは、腕力が強いのではない。彼女の破壊力は、全てあの身体能力の高さから得たものだ。初速からほんの数歩で最大速度へと達し、全身を使って武器を操ることで余すことなく力を伝えている。

 そして何度か受け止めた感触から、恐らくは相当な重量を持つであろうあの武器。引き摺っていたのは独特な構えでも何でもなく、ただ両手で持ったままだと走り辛く、片手で持ち上げるにはそれなりの力が必要だからだろう。その証拠に、純粋により力を込める為というのもあるのだろうが、デルフィナは攻撃の最中は必ず両の手を駆使していた。動作が全て大振りなのは、武器の重量的に小回りが利かないのと、それでもなお足りない力を補う為。魔法効果もその為のものだ。

 だがだからこそ、力を出し切る前、或いは出し切った後ならばどうにか押し返せるし、流せる。

 これが、あの時感じた違和感の正体だった。これまでの攻防で、ミリーはそこまで看破してみせた。

(まぁ、今の攻撃は完全に予想外だったけど……)

 痺れの残った両腕に、突き止めた事実と引き換えたにしては代金の方が割に合わないと、心中苦い笑いを浮かべた。

 ただ、悪いことばかりではない。「爆発」の効果は単に「燃える」より複雑な分、魔力を消耗する。そして魔力の消費は体力の消費にも繋がる。小規模とはいえ、他にも炎を乱発させていたので、あちらもそれなりには使った筈だ。

「……わからないわ」

 不意にデルフィナが言った。

「身を護るために抵抗するのはわかる。わたしの性根を叩き直すとか言ったんだから逃げないのもわかる。けど、ならどうして全力で来ないの? あんた、火の方が得意よね、どう見ても」

 外見的特徴からか、それとも性格から判断したのか、どちらにせよ的は射ていた(学園で少し調べれば判ることなのだが、ミリーの頭からはすっぽ抜けていた)。

「あのさぁ、アンタの性根を叩き直すためにいちいち火事起こしてたら、森がいくつあっても足りないと思わんかねぇ」

「……そう、ならいいわ」

 痛みを誤魔化す為にわざと軽口を叩くと、デルフィナは短く言葉を切って再び駆け出した。

「せいぜい、甘い自分を呪うことね!」

「お生憎様、自分の決めたことにはなるべく文句つけない主義なんでねっ!」

 今度はミリーも自ら攻めに出た。

 ――重い武器の所為で、デルフィナの攻撃パターンはかなり限られている。

 これまでよりも早い時点で、デルフィナの武器が地面から離れた。

 ――第一に、走る際は武器を引き摺らなければならず、また次の攻撃へ繋げる為に、大抵初撃は下から斬り上げてくる。

 斜め前へと躱し、ミリーはさらに一歩踏み出す。

 ――第二に、斬り上げた後は、武器の重量に負けない為に全体重を乗せるか、直上でなければ回転を加えて振り下ろす。

 頭上高々と掲げられた刃を、小柄な身体が悲鳴を上げながら引き留める。

 ――第三に、それを跳び退いて躱した場合、振り下ろされた斬撃の軌道の中から炎の槍が突き出る。またはそこを始点として再び斬り上げてくる。

 そこで初めて、ミリーはこれまでにない行動を取った。

「!」

(大振りしかできないならッ……)

 森の静寂を斬り裂く一撃へ向かって、さらに前へと踏み込んだ。

 刃ではなく、その先にある柄の部分を、振り切られる前に片腕で迎える。

 まだ痺れる腕に無理矢理力を込める。鉄棍を手放さないよう、突き出た握りをしっかりと掴む。

 棍と柄が接触。再び衝撃が腕を襲う。押し切られる前に外へと弾き出す。

「ッ!!」

 短く息を吐き出し、武器にバランスを持って行かれたデルフィナの横っ面を空いた側の鉄棍で思い切り殴り付けた。そのまま鋭く身体を回転。さらに体勢を崩したところへ、武器を弾いた側の腕を裏拳の要領で縦に振り抜く。

「……ッ!」

 しかし驚いたことに、デルフィナはこれを無理矢理身体を捻って躱してみせた。肉体のどこかからミシリと嫌な音が聞こえた気がしたが、彼女はそんなことを感じさせない俊敏な動きで距離を取る。

 だが、そこを逃すほどミリーは甘くない。距離を取り、両手で武器を構えたデルフィナの正面へ素早く追い縋った。

 透かさず、拳打の嵐を打ち込む。

 左右正面。下から潜り込むような突き上げ。腕ごと押し付ける形での当て身。そこから回転を加えた振り払い。

「クッ、……!」

 鉄棍と柄のぶつかり合う音が激しく鳴り響く。

 小さく、しかし激しく繰り出される連撃に、今度はデルフィナが防戦一方となっていた。両の腕を駆使した、デルフィナとは正反対の細かい攻撃が反撃のいとまを与えない。

 真逆なのは攻撃だけではない。一撃一撃に己の全てを乗せるかのような咆哮を上げていたデルフィナと違い、ミリーは攻撃側の気勢どころか、先程のダメージすらまるで感じさせない静けさを纏っていた。

 響き渡る衝突音に鋭い呼吸が掻き消される中――

「――ッ、勇猛なる、我が、焔の友よ、ッ」

 その合間を縫って、途切れ途切れに呟く。

「汝が力、灼熱の意志、紅蓮をもたらす、撃鉄と成し」

「!」

 デルフィナが気付いた。だがもう遅い。

「――愚者へと放たん、我が怒り!」

「このッ――!」

 なおも収まらない拳打を押し退けて、薙刀が強引に振り上げられた。

「ハズレっ」

「ッ!!」

 完全に見計らっていた動きで側面へと回り込んだミリーは、短く舌を出すように言った。

 トン、と右の鉄棍を空いたデルフィナの脇腹へ当て、握りを掴んだままの左手を支えるように右腕に乗せる。

「【瞋恚の焔撃フレイムブリンガー】!!」

 瞬間、鉄棍とデルフィナの接触面に顕れたオレンジの魔法陣を中心に、炎の渦が巻き起こった。

 ――――――!!

 先程ミリーが喰らった爆発よりも遥かに激しい爆撃音が、夜の森を震わせた。

「――ハアッ……ハアッ……!」

 膝に手を着いて、ミリーは大きくゆっくりと呼吸を繰り返す。

 汗が次々と滴り落ちる。押し退けていた疲労が二回り以上も膨れ上がって跳ね返ってきていた。

 視線は下へ。爆風で緑の消し飛ばされた地面へ、汗が染み込んでいく。

「アンタらの問題は、アタシには、関係ない……もしかしたら、向こうでのステラは、ッ、アンタの言う、通りの奴だったのかもしれない」

 声は前へ。幹の削がれた木の根元へ、そこに倒れ伏したデルフィナへ向けて、乱れた呼吸ごと押し出す。

「けどねぇ……」

 声が震えたのが先か、腕が震えたのが先か。

(んなの、どっちだっていい)

 顎を持ち上げ、疲弊した眼で前を見据える。

(泣き虫で、ウジウジしてて、ドがつくくらいの根暗で、人に頼ろうとか全然しなくて……)

 ステラのそういうところが、自分は凄く嫌いだと思った。

 けれど、ミリーは知っている。

 ステラが、何かの為に人の何倍も努力しているのを。

 成績が良くたって、話題の中心になったって、嫌味な態度なんて一つも取ったことがないことを。

 普段はちょっとしたことで一喜一憂する、甘い物とか可愛い物とかが好きな、どこにでも居る普通の女の子だということを。

 ……なのに時折、言いようのない悲しい表情を見せることを。

 だからあの時、ムカついた。

 ちやほやされていい気になっている?

 何もなかったみたいに幸せそうにしている?

 ――一瞬、ルナ達がやってきた時のステラの顔が浮かんだ。

(ふざけんな!)

の、何をアンタが知ってんのさ! こっちにいることさえ知らなかったアンタが、好き勝手に今のあの子のことを語るな!」

 久しぶりに姉兄と会ってあんな暗い顔をする奴の、一体何が幸せだと言うのだ。

 ちやほやされていい気になっている奴が、夜遅くに訓練室から出てきて、ボロボロになった身体を引き摺って帰るとでも言うのか。

 自分でさえまだまだ知らないことの方が多いのに、昔を知っているからと、今の彼女を全く知らないデルフィナが好き放題抜かしたのが、この上なく許せなかった。

「アンタらの問題は、アンタらで決着ケリつけなよ。けどね、今のあの子の全部にケチつけるってんなら」

 今一度、上体を起こし、鉛となった腕を持ち上げる。

「今度は顔面にぶち込んでやるから、覚悟しなよ」

 ステラの為だなんて、そんな小綺麗なものではない。

 これは、紛うことなき私闘だ。

 大切な友人を侮辱されて頭にきた。

 その憂さを晴らす為に、ミリーは今、武器を握っているのだ。 



「……ッ、……あんたに、何がわかるって言うの……」

 痛みを抑え付けるように息を詰まらせたデルフィナは、這い蹲るように身を起こす。

「あんたみたいな能天気な奴に、わたしたちの気持ちがわかるはずないッ……」

 身体が焼けるように熱い。火属性の中級魔法をゼロ距離で撃ち込まれたのだ、制服に編み込まれた下級の対魔障壁などでは相殺し切れるものではない。

「あんただけじゃない。周りに流されてなんとなくあそこに通ってるような連中に、本気で生きてきたわたしたちの苦しみがわかってたまるもんかッ!」

 違う、熱いのは撃たれた箇所だけではない。寧ろこの身を焼き滅ぼすような感覚は、身体の奥底から生まれていた。

「あの女の『今』なんか関係ない! あの女がわたしの大切な人を傷付けた、だからわたしはあの女の全部が憎い! あの女の全部を否定してやる! それの何がいけないの!?」

 熱い。熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。

 身体の内側が燃えている。

 心の全てが灼けている。

「ッ、……!」

 おぼつかない足取りで立ち上がる。手に持った武器だけは、へし折らんばかりに握り締める。

「あの女の全部を壊してやるんだ……あの女の全部を奪ってやるんだ……あの女の大切なものも、邪魔する奴も、全部全部壊し尽くして……」

 ただそれだけを、既に壊されてしまった自分自身の、ほんの僅かに残った「全て」と引き換えにして。

「――思い知らせてやるんだ!!」

 何もかもを焼き尽くさんと、世界を、この不条理な運命を憎む真っ黒な炎を、壊れてしまった心に燃え上がらせた。



「うぁああああああ――ッ!!」

「ッ!!」

 悲鳴にも似た喊声かんせいを上げて飛び掛かってきたデルフィナの攻撃を、ミリーは正面から受け止めた。

 否、

(やばッ、足動かん……!)

 攻撃しながら魔法を創造するのには、相応の集中力を必要とする。

 況してやミリーは、命を賭けた実戦経験に乏しい一年生だ。既に負っていたダメージだけでも相当なものなのに、それを無理矢理抑え込むことで魔法を創造出来るだけの集中力と魔力を引き出した為、その反動が一気に肉体を襲っていた。

「くっ、そ……!」

 一層激しく繰り出される攻撃を、腰から上だけの力でなんとか防ぎ続ける。怒りで冷静さを欠いているのか、これまでのような連携ではなくただのメッタ打ちになっているからどうにかなっているものの、それでも握っている武器が今にも腕ごと吹き飛ばされそうだ。

「壊れろッ! 壊れろ壊れろ壊れろォッ!!」

「いい加減にしろッ! んなことしたってディノ君は喜ばないんでしょうが!」

「うるさい! あんたがディノを語るなァッ!!」

 ダメだ。身体が言うことを聞かない分口を動かしたが、生み出した効果と言えば腕に伝わる衝撃が強くなったくらいだった。ディノの名前は却って火に油を注いでしまったようだ。

 このままではいずれ押し切られてしまう。その前に何か手を打たなければ。

(つったってッ……)

 何が出来る。今のこの満身創痍な自分に、一体どんな打開策があるというのだ。せいぜいステラがディノを連れてくるまで気合いで耐えるくらいが関の山だが、それさえ今のままの状態で果たせるとは思えない。

(――いや)

 一つだけ、状況の打開ではなく緩和だが、それでも出来ることはあった。

 デルフィナは、あの武器を片手では満足に振り回せない。少なくとも、今ほどの勢いでは。

 ならば、その状況に追い込めばいい。そうすればこの疲弊し切った身体でも耐えられる筈だ。幸いもう一度中級魔法を使うくらいの魔力は残っている。集中力は攻撃しながらよりも楽だと考えればなんとかなる。体力は気合いだ。

(けどッ……)

 確実に彼女の片腕を、出来れば両腕を使えなくするには、ミリーが使える中で最も威力のある先程の魔法でなければ駄目だ。他にも使える魔法はあるが、どれも確実性に欠けてしまう。

 そしてあの魔法には一つ、問題があった。

 そもそもあれの本来の形は、凝縮し爆発性を持った炎を一直線に撃ち出すというものだ。密着して放たなければ、漏れた炎で辺りは瞬く間に火の海と化すだろう。だがそれは自分の主義に反する手段であり、何より今の状態では、その状況へ持っていけるだけの体力が残っていない。森に火が移る危険を、ミリーはどうしても無視することが出来ないでいた。

(どうする、どうするッ!?)

 踏み切れないまま時間が過ぎる。いっそこのまま耐えてみることも検討する。

 ――が、

「あぁああああああッ!!」

「ぐっ、うぅッ……!!」

 これ以上は保たない。自身の状態からも、なおも激化するデルフィナの猛威からも、これ以上先延ばしにしては間に合わなくなるとはっきり感じた。

 もうの段階は過ぎている。主義云々などと意地を張っている場合ではない。そんなことで命を落とすのは真正の馬鹿がやることだ。

 決断する。

「勇猛なる我が焔の友よッ……!」

 出来得る限り早く、可能な限り具体的に想像する。肉体に残った僅かな魔力を搔き集める。

(早く……早く……!)

 時間の流れが急激に遅くなったように感じた。一つの音を出し切るのが途方もなく長く、終わりを感じられない。

 まだだ。詠唱だけ終えても意味がない。想像するだけでも意味がない。二つが合わさり、それを創造出来るほどの魔力が集まらなければ、この行為には何の意味も価値もない。

 腕の感覚が徐々に消えてきた。もはや防御と呼べるほどの動きもなく、ただ目の前で掲げているだけに等しい。それさえ、崩れるのにもう幾許いくばくの猶予もない。

 遂に、武器にしがみ付く手から力が抜け落ちる。

 その時、

(――きた!)

 待ち侘びていた瞬間が訪れた。離し掛けた手の片方になけなしの力を込める。

 もう片方を、我を忘れた凶刃へ向けて振り払った。

「壊れろォオオオッ!!」

(腕の一本くらいくれてやる!!)

 肩を巻き込んだ痛烈な感覚と共に、腕が鉄棍ごと弾き飛ばされた。同時に弾かれた薙刀が映る視界の中から、掌から引き剥がされたくろがね色の棒切れが消えていった。

 代わりに、命を削って叫ぶ。

 自らの灼熱の決意を顕現する、その名を。 

「うぉおおおおお――ッ!!」

 顕れた魔法陣目掛けて、握り締めた拳を振り切った。

 主の意志をそのまま反映したかのような勢いで、渦を巻いた炎が撃ち出された。

 愚直なまでに一直線に、炎は目の前の獲物を喰らう。

 そして、先刻よりも一層激烈な爆発を生み出した。

「ッ、……!」

 至近距離で発生した爆風に吹き飛ばされそうになるのをなんとか堪える。ただ必死に、目の前の結果を確認することだけに全力を注ぐ。

 腕を弾き飛ばされた反動が想像以上に大き過ぎて発動位置がズレたが、それでもギリギリ、片腕には命中した筈だ。目の前で起きた爆発はその何よりの証拠でもあった。

 霞む視界の先で、黒ずんだ爆煙が僅かに晴れてきた。

 その中から、力なくぶら下がった左腕が覗く。

(やっ――)



「――ォオオオオオオオオオオオオオ!!」



 射し込んだ希望の光が、獣の如き咆哮に搔き消された。

 ミリーが片腕を犠牲にして弾いた薙刀が、黒煙を斬り裂いて現れた。

 無意識に構えた右腕から、不気味な音が鳴る。

「がッ……あぁああぁあああぁああああ――ッ!?」

 吹き飛ばされた先で、ミリーは絶叫を上げた。右腕に力が入らない。鉄棍を挟んで刃を受けた部分から先が、傍に転がっていたそれと同じく、吐き気を催す方向へと折れ曲がっていた。

(なんで、なんでッ……!?)

 確かに片腕は潰した。それなのにどうして、あれほどの勢いであの重い武器を振り切ることが出来るのだ。

 自分の推測が誤っていたのか?

 本当は最初から、片腕だけでも振るえたのか?

 倒れたまま首だけを動かし、睨むようにデルフィナを見る。

「――なに、さ……それ……ッ!!」

 炎だ。

 森を染め始めたそれとは違う、黒い炎だ。

 どす黒く、全てを呪うような炎が、息を荒らげるデルフィナに纏わり付く蛇のように、渦を巻いていた。

「壊、レロ……壊……」

 虚ろな呟きに従って、薙刀が軽々と天を指した。

 狂える黒炎が、その刃へと集う。

 そして――



 振り下ろされた焔が、放たれた。


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