下巻「末路」

「証拠隠滅」下巻 目次


  主な登場機関と人物

第四部 ペテン師達の末路

4-1  過去を洗え

  4-2  暴かれた正体

  4-3  切られた尻尾

エピローグ



主な登場機関と人物

 中央火災海上保険株式会社関係者

日下くさか 大輝たいき 損外部門統括専務取締役

 竹川 荘郎まさお      常務取締役、神戸支店長

  大塚 芳夫            神戸支店損害サービス部長

木橋きはし 邦克くにかつ 同部 自動車損害課長

   川嶋 颯太そうた      同部同課主任 主人公

 

 はつらつ生命保険株式会社(中央火災子会社)関係者

   大杉 ひろし       業務部審査課長

吉野 翔子しょうこ     業務部審査課主任 副主人公

  

 ORI(Organic Recycle Institute,株式会社 有機リサイクル研究所)関係者

   清塚きよつか 康司こうじ 取締役社長

   桜井 泰平たいへい      専務取締役 │

高倉 千乃ちの        秘書 │

河本 清花さやか       秘書


株式会社 慧明塾けいめいじゅく関係者

光中 忠義 代表 矢部官房長官に近い政商

宇田哲哉 取締役企画室長

宇田さつき 宇田哲哉の妻


民自党関係者

矢部 すすむ      官房長官 後総理

平山 克己かつみ     矢部の子分代議士、警察出身

上井うえい きわむ 矢部事務所筆頭秘書    

横河 耕史こうし     平山事務所筆頭秘書


広域組織暴力団川崎組関係者

糸山 英二えいじ 舎弟企業、関西畜産社長

半井 靖士やすし     (株)関西ビジネス・サポート顧問

半井 由美 半井靖士の妻

赤木 孝之 顧問弁護士


その他の主な登場人物

森田 佳奈かな      週刊誌「週刊未来」女性記者

    黒岩 舜一 五稜自動車工業(株)社長

    遠山 文一 林野庁審議官





第四部 ペテン師達の末路


4-1  過去を洗え


 颯太が、吉野翔子から送られてきた清塚康司の有機リサイクル研究所(Organic Recycle Institute 略称ORI)に関する資料を全部読み終えたのはそろそろ室内が薄暗くなる頃だった。翔子が言ったとおり「ちょっとした詐欺ストーリー」として面白くはあったが、半分は仕事の気持ちで読んでいるのだから肩が凝った。そもそもこんなに膨大な資料を読もうと思ったのは、颯太が、ひょっとして宇田哲哉は週刊未来の森田記者が疑っているとおり殺されたので、その殺しに従兄弟の半井靖士がなんらかの役割を果たしているのではないかと思ったからであるが、資料には半井の名前は全く顔を出さなかった。しかし、読み終わった今、この疑念は強まりこそすれ少しも弱まってない。颯太の頭の中では「霊安室なんて女二人で行く場所じゃないな」という竹川支店長の言葉が渦巻いていた。

【 半井が関西ビジネス・サポートに入ったのは去年の九月か・・・・・・。それで宇田哲哉が死んだのが六月末だ。半井はいつリックをやめたんだろう? 宇田が死亡した時には半井はまだリックに在籍していたのだろうか? メトロ・コープは日本の消費者金融業務から撤退したということだが、リックという会社はもうなくなっちゃったんだろうか?】

 颯太はやおら立ち上がると昼過ぎから暗転したままになっていたパソコンを起こし、ネットで「リック 消費者金融」を検索した。リックに関する記事はいくつかあったが、いずれもメトロ・コープの子会社として消費者金融を行っている当時の悪評記事ばかりで、現在の所在地や連絡先等が分かるものはなかった。電話番号問い合わせではいくつか「リック」名の登録はあるが、住所が分からないと、そのどれかが該当するのか、あるいはその中には該当するものはないのか分からなかった。残る手段は一つである。


「川嶋さん? あの事故はその後どうなりました?」

 週刊未来の森田佳奈かな記者は、颯太がかけた電話に出るなり質問をぶつけてきた。携帯画面に颯太の名前が表示されたのだろう。先手を打たれた颯太はしかたなくその後の経緯と、半井靖士の過去を洗い始めていることを話した。

「そうですか。私はこの前も言ったとおり慧明塾のトップ二人は絶対に病死や事故死じゃないと思ってるんですが、それじゃあ川嶋さんは、宇田の従兄弟の半井靖士が二人を殺したんじゃないかと疑ってるんですね?」

「いや、光中まで殺されたのかどうかは分かりませんが、宇田については確かにおかしいし、殺されたんだとすると半井が関係してないはずはないと思ってるんです」

「可能性はありますね。それで、どうやって調べるつもりなんですか? 川嶋さんに何か考えがありますか?」

「それで電話したんです。私はまず、半井がリックを退職したのがいつかということと、できればその前後の事情を知りたいんですが、森田さんはリックって会社が今どうなっているかご存じですか?」

「もう看板は下ろしてるはずですが、会社は一応存続させて、グレー・ゾーン金利時代に取りすぎていた金利を返す作業のために数人だけは残していると思いましたが・・・・・・」

「そうですか。もちろん東京にあるんですよね?」

「ええ、そうだと思います」

「その会社がどこにあるか、御社で調べていただいたら分かりますか?」

「それはすぐに分かると思いますが、それを知ってどうするんですか? 電話してみるんですか?」

「いや、電話で済むかどうか分からないんで訪ねてみようと思ってるんです」

「分かりました。それじゃあご一緒させていただけるなら調べて差し上げましょう」

 またこれである。しかし、保険会社の人間がしたたかな消費者金融にのこのこ訪ねていっても知りたいことを聞けるかどうかも分からない。それは聞き出すプロのほうが上手いかも知れない。

「分かりました。それじゃあ、私が休暇を取ってそっちに行くスケジュールに合わせて下さるならいいですよ」


森田記者がリックの所在地を連絡してきたのは僅か十分後だった。しかし森田は港区にあると教えただけで詳しい住所を教えなかった。

「貴男はこんなに色々な展開があっても、貴男のほうで情報を取る必要が出てくるまでその後の経緯を聞かせて下さらないじゃありませんか。はつらつ生命のなんとかさんも、その後音沙汰なしだし。御社の約束は当てにならないから駄目です。それではいつこちらにいらっしゃるか決まったら連絡して下さい。できればリックの責任者に会えるように手配しておきますから」

 全く手厳しい女性だが、リックに乗り込むためには心強い味方である。

「分かりました。私はこの件が片付かないと仕事が手に着かない気分ですから、できれば明日にでもそっちに行きたいと思いますが、休暇申請を出さなくちゃなりませんので、休暇がOKになったら森田さんに電話を入れます。ですから順調に行ったら明日の昼ぐらいの新幹線に乗って四時ごろまでには東京駅に着けると思います」

「分かりました。それでは私も四時以降は空けときます。それで、新幹線は東京までは来ないで、品川で下りて新橋まで来て下さい。新橋のどこでお会いするかは、月曜の朝電話をいただいた時にお伝えします」

 ということになった。


週空けの月曜、颯太は会社に出ると朝一番に課長席に行った。しかし社長決済で闘わないことに決まり、事実上ほぼ片付いた自動車事故を改めて穿ほじくり返したいなどと言ったら、木橋課長は心臓麻痺を起こしかねない。

「突然で申し訳ないんですが、夕べ熊本の母から電話があって、祖母の具合が悪いらしいんで、ちょっと帰って来たいんです。今日の昼から明後日一杯休みをいただけませんでしょうか?」

「ほう、お婆ちゃんが? 悪いのか?」

「あ、いや、命がどうこうって話じゃないんですが、面倒を見ております母のほうももう年なんで、少しばててるみたいなんです。それでちょっと手伝ってやろうかと思いまして」

 颯太の母は五十八歳、祖母は八十二歳だが二人ともぴんぴんしている。母は夫(颯太の父)が一昨年六十一歳で逝去し、酒造りのほうは長男が後を継いでくれたのを機に、冬の厳しい五木村を離れて、熊本市で一人暮らしをしていた実母と同居している。

「おお、感心だね。仕事のやりくりがつくならいいんじゃないか?」

「ありがとうございます。急ぎの件だけ午前中で片づけますから」

今、手持ちの案件には一日、二日を争うような急ぎの件などないのだが、行きがかり上、出発は昼過ぎになってしまった。課長に言ったのとは反対向きの新幹線に乗らなければならないのが少々後ろめたいが、ここまでは上々の出来である。週刊未来の森田記者とは四時十五分に新橋駅前で落ち合う約束である。

 森田は駅前に展示されたSLの前で、打ち合わせどおり週刊未来の最新号をすぐに見えるように胸に抱えて立っていた。森田の電話から、てきぱきしたいかにもビジネスレディーといった女性を想像していた颯太は一瞬目を疑った。森田記者の出で立ちはグレーのポロシャツにジーンズ、それにカーキ色の登山帽だったのである。それはいいとしても一見して男性に見える。いや、男性というよりは、小柄で細身なので遠目には少年に見える。

【本当にあの人なんだろうか? それとも、本人が来られなくてアシスタントの男の子でも寄越したんじゃないだろうか?】

近づきながら観察する。登山帽の下の顔は多分女性で目鼻立ちはよく整っているが化粧っ気は全くない。帽子の下からは長い髪は全く覗いていない。帽子を脱いだら多分スポーツ刈りである。

【 女性とすれば相当な美人だが、それにしても・・・・・・ひょっとしてレズだろうか?】

 半信半疑で近づくと美少年?は「川嶋さんですね」と先に声をかけてきた。声は聞き覚えのあるよく通る女性の声だ。

「そうよ。川嶋さんのご推察は多分当たってるわよ」

 森田はけろりとして言った。颯太はなんと答えてよいか分からず、

「はい川嶋です。失礼しました」

 ともごもごと言った。自分でもなんで謝ったのか分からない。森田はそんなことには慣れているのか、颯太の戸惑いには構わずに、

「はゝゝ、いいからいいから。こっちよ。行きましょう。リックの約束は四時半だから急ぎましょう。大野はるかって副社長が待っててくれることになってます」

 と言うとさっさと烏森からすもり方向に歩き始めた。颯太はどう対応すればいいのか決め切れぬまま、慌てて森田の横に並んで歩き始めた。森田は歩きながら説明を続けた。

「副社長なんていうけど、残務整理のための社員が五人いるだけなんですけどね。でも、その大野さんという人は、リックがまだ本格的に営業をやってた時には総務部長をやってて、そこで人事も見てたって言うから半井のことをくには最適かも知れませんよ」


 リックの残務整理事務所が入っているテナントビルは西新橋二丁目の裏路地にあり、一階にはパチンコ屋の景品交換所と金券ショップが入っていた。リックはその両者の間にあるドアを開けて突き当たりの階段を上がったところにあった。階段の下のテナントリストに社名が書いてあるだけで看板も出ていない。ブザーを押してドアを開けると、中はせいぜい百平米ぐらいのオフィスで一目で全体が見渡せたが、数人の男性と中年の女性が一人デスクについていた。男性にはネクタイなど締めている者は一人もいない。颯太と森田が入っていっても、女性が席に掛けたままこちらを見ただけで、男性連中は目も上げなかった。これがアメリカのグローバル・バンクの代表、メトロ・コープが日本の消費者金融業務に殴り込みをかけてきた時の尖兵企業のなれの果てである。颯太はショックを通り過ぎて哀れさすら覚えた。

 森田が受付のカウンターから「大野副社長にお時間をいただいております、週刊未来の森田ですが」と座ったままの女に案内を請う。女は「いらっしゃいませ」の一言もなく、立ち上がって「どうぞこちらに」と言うとカウンターの脇にある打ち合わせブースに二人を招き入れた。それと同時に一番奥のデスクにいた男が立ち上がってこちらに歩いてきた。手にはA4のホルダーが一冊あった。


「お忙しい時にお時間をいただいて済みません。お電話を差し上げた週刊未来の森田です」

「森田のアシスタントの川嶋と申します。済みません。名刺を切らしまして」

 颯太は森田との事前の打合せに従って身分を隠した。名刺交換を終わると男は来客の二人より先にソファに腰を下ろした。颯太が前に置いた名刺には「株式会社 リック 取締役副社長 大野遙」とある。一応背広姿ではあるがネクタイはしてないし、Yシャツの第一ボタンも外されていた。

「去年当社を辞めた半井靖士について何かお知りになりたいというお話でしたが、あの男、今どうしているんですか?」

 大野はまだ五十歳前後と思われるが、三人の尻の下のスプリングよりさらに伸びきった疲れた様子で話した。

「はあ、半井さんはいま神戸の関西ビジネス・サポートという会社で顧問をしておられます」

 答えたのは颯太である。

「ほう、顧問ですか。名前からするとコンサルタントかなんかですか?」

「いいえ、債権回収業で、関西畜産って怖ーい会社の子会社です」

 今度答えたのは森田である。

「ああ関西畜産ですか。それなら知ってます。民自党の平山克己代議士の仲介で、当社の未回収債権をバルク買いした会社ですよ。そうですか。半井はどこか神戸のファクタリング会社に行ったと思ってましたが、関西畜産の子会社だったんですな。しかしあの半井が暴力団系の債権回収業者なんかで務まるとは驚きですな。あそこは確か川崎組の息のかかった会社で相当阿漕なことをやっている会社だと聞いてますが」

【 こういうのを目糞鼻糞と言うのか?】

 颯太は大野の厚顔さに呆れて言葉が出なかった。しかしさすがは記者である。森田はそんなことには気にもとめず肝心の問題に切り込んだ。

「あらそうですか? とおっしゃるのは、御社にいた頃の半井さんはそういうタイプではなかったということですか?」

「いや、別に品行方正だったということじゃありませんが・・・・・・半井っていうのは、もともとIFJ銀行にいた男でね。IFJは元当社の筆頭株主だったんですが、半井は二〇〇一年にIFJから当社に送り込まれてきたんですよ。送り込まれたといっても、多分IFJのほうで使い物にならなくて放り出したんだと思うんですがね。それで、半年後に当社をメトロ・コープがIFJから買収した時に、IFJを辞めて正式に当社に入ったんです」

「それが二〇〇一年ですね?」

「そうです。しかしその後も大手銀行風を吹かせるんで当社うちではあまり好かれてなかったんです。どうでもいいような金融知識をひけらかすというか、マニュアル一辺倒で融通が利かないタイプだったんですが、あれでルールなんか糞喰らえの暴力団系の債権回収業なんかでよく務まってるなあ。いや、我々は奴からは神戸のファクタリング会社から引っ張られたと聞いていたんでね。まあ不良債権専門の回収業者もファクタリングには違いないですがね」

【 あの半井靖士がマニュアル一辺倒で融通が利かないタイプだったって?】

 驚いたのは颯太のほうだった。

「そうですか。半井はファクタリングと言ったんですか?」

「少なくとも本人はそう言ってましたが、どうせ格好付けでしょう」

 大野の口ぶりからは彼が半井に好感を持っていないことは明らかだった。しかし、半井がまずまともなファクタリング会社に行って、そこから関西ビジネス・サポートに移った可能性もある。

「半井が御社こちらを辞めたのは正確にはいつだったんでしょうか?」

 森田の問いに大野はホルダーを開いた。

「ちょうど一年ほど前ですな。正確には去年の六月二十四日付けです。その二日前に、私の下にいた人事課長が『半井が二日後の六月二十四日付けで辞めさせてくれ』と無茶を言い出したと言って私のところに来ましてね。いくら社員の出入りが激しい消費者金融とはいっても、半井は曲がりなりにも回収部長だったんですよ。駆け出しのペーぺーでも、退職日の一週間前ぐらいには会社に言うのが普通ですから人事課長が頭に来ましてね。その時に半井が言った理由が『破格の条件で引っ張られて、その代わり来週の月曜には先方に着任しなくちゃいけないから、どうしても二十四日付にしてくれ』って言ったらしいんです。そんなんで、奴はほとんど喧嘩別れみたいにして飛び出したままで、その後奴からは一切音沙汰なしです」

 六月二十四日! 宇田哲哉が建設中のマンションから墜落死する二日前である! これは偶然などではあり得ない。半井は宇田が墜死した時には神戸にいたことにするためにわざわざ人事担当者に「来週の月曜には・・・・・・」などと聞かせたのではないか? 半井は間違いなく宇田殺害に関係している。

 颯太は確信を強めた。

「そうでしたか。半井は六月二十四日に退職して次の週の月曜に新しい勤務先に行く予定だったんですね?」

「はあ、本人はそう言ってたんですが、しかしどこまで本当だったのか・・・・・・。あ、そう言えば、半井はそれまで何年も髭面だったのに、二日後に会社に来た時には髭を剃ってましてね」

「えっ! 半井が髭を剃り落としたんですか?」

 颯太と森田が同時に驚きの声を上げた。

「そうなんですよ。それで、人事の担当者がびっくりして、『半井さん、髭はどうしたんですか?』って聞いたら、さすがに照れくさそうにして、『今度の会社が、髭面は困ると言ってるんで美容院で剃って貰った』と言ったらしいんです。それで後で皆で『あの面でホストクラブででも働くつもりじゃないか?』って笑ったんですよ」

 大野はその時の情景を思い出したのか口の端に皮肉な笑いを浮かべた。その顔を見ながら颯太はハッとした。

「大野さん。ひょっとして半井の写真なんて残ってないでしょうね?」

「いや、あるんじゃないかな?」

 大野は、ホルダーをテーブルにおいてがさがさと書類を漁っていたが、

「これですよ。親会社のメトロ・コープはオフィスの出入りに写真付きの社員証を首から提げさせてましてね。リックにも同じ物を作らせたんです。セキュリティチェックなんて言うのは口実で、日本人社員を信用していないアメ社の人事管理のためなんですがね」

 大野は、辞めた社員のプライバシーなど全く意に介さないといった様子で写真を向かいの二人の前に置いた。

「これがいつ頃の写真でしょうか?」

「さあ、メトロ・コープはリックを買収して間もなく社員証を作れと言ってきましたから多分二〇〇二年の初めぐらいだと思いますが正確には覚えてませんな」

 森田記者は、横で穴が開くほど写真を見つめている颯太に尋ねるように目を向けた。颯太は黙って首を振った。

【 似てはいるが半井靖士とはどこか印象が違う。】

「大野さん、この写真のコピーをいただくわけにはいきませんでしょうか?」

 颯太が遠慮がちに尋ねた。

「こんな物、当社うちにゃあ邪魔なだけですよ。持って行っていいですよ」

 思いがけない答えが返ってきた。颯太は礼を言って半井靖士の社員証をブリーフケースにしまった。


 リック訪問は大収穫だった。リックのうらぶれたオフィスを出た後、颯太も森田も暫くは興奮で無言のまま歩いた。颯太は六時半に数寄屋橋のイタリアンレストラン、ブォーノ・ブォーノで吉野翔子と会う約束である。まだ時間は早いが颯太はブォーノ・ブォーノに直行することにして森田を誘った。森田は喜んで仲間入りすると言った。

ブォーノ・ブォーノに着いたのはまだ六時を少し過ぎたぐらいだったが翔子は既に店に来ていた。颯太は一番奥の、数寄屋橋広場を見下ろす席で本を読んでいる翔子を見つけて胸が高鳴るのを覚えた。吉野翔子に会うのは昨年秋、颯太が新任主任研修で九段の研修所に行った時に研修所を抜け出して夕食を一緒にして以来である。翔子は颯太の一年先輩ではあるが歳は颯太と同じ二十八歳である。

 今日も翔子はいつもながらの地味なスーツ姿で、装身具は一切身につけていなかった。髪も短くしており凡そフェミニンな出で立ちではないのだが、はっと人目を惹く優雅さがある。そんな翔子に会う時、颯太はいかにも自分が不似合いな野暮に思えて気後れを感じるのだが、翔子はそんなことは全く感じないのか、開けっぴろげに颯太に会った喜びを表してハグしてくれる。初めて翔子にハグされたときには、颯太はチョビリそうにどぎまぎしたものだが最近はかなり慣れてきた。それでもまだ颯太のほうからハグ仕返することなどできずに一方的にハグされるだけである。今も颯太はその場ででんぐり返ししたいような嬉しさを押し殺して、後ろの森田の目を気にしている。しかし、森田はそんなことはまるで気にならない様子で、けろりとして颯太の薦めた椅子に腰を下ろした。

【 そうか、こういう女性はこんなことには関心がないんだろうか? 美女には目がないんじゃないかと心配してたんだけど。】


 颯太が近づいてきたウエイトレスに、暫く打ち合わせがあるから食事はもう少し後にさせて欲しいと言って生ビールを三つ注文している間に、森田はリックでの成果を翔子に手短に話し始めた。

「そうか。それじゃあ、半井は宇田が転落死した直前にリックを退職したってことですね。これは颯太君の推理があたってるかもね。颯太君、その半井の社員証ってのを見せて」

 翔子の請求に颯太はたった今リックで入手した半井靖士の身分証明書写真をテーブルの上に置き、その横にブリーフケースから取り出したノートパソコンを置いてスイッチを入れた。

 二人の女性が椅子を颯太の近くに寄せて写真を覗き込んだ。モニターには半井靖士の顔写真が三枚並んでいる。

「左のが兵庫県警が去年、〇五年の九月ごろに撮ったスナップ写真。真ん中のが同じく去年の十一月に免許更新した時の写真。そして右のが神戸労災病院から貰ったパスポート写真で二〇〇一年のです」

「それでリックの社員証が二〇〇二年の初めね。やっぱりリックのとパスポートのは若いわね。それも四、五歳なんてものじゃなくて十歳ぐらい若く見えるわね」

 翔子が言った。

「うん、それもだけど、最近の二枚は老けてるってだけじゃなくてちょっと違う印象があると思わない?」

 颯太の問いに翔子が頷いた。

「そうねえ。若い頃の二枚がちょっと大人しそうと言うか、気が弱そうなのに較べて、最近の二枚は怖い感じがするわね。草食系と肉食系って言うのかなあ。それにしても、半井が退職の時に次に行く会社から言われて髭を剃ったっていうのは不自然ね。その会社、なんて名前だっけ? 関西ビジネス・サポートだった? そんなお上品な会社じゃないんでしょう?」

「上品どころか日本で一番柄の悪い、やばい会社の一つだよ。だけど、リックを辞めてすぐ行ったのがそこかどうかは分からないよ。県警の情報でも、九月時点で半井が関西ビジネス・サポートに入っていたのは確認してるんだけど、いつ入ったのかまでは分かってないから。それにしても九月にはまた髭を生やしてるんだよ。このぐらい伸びるのにどのぐらいかかるんだろう? 俺なんか髭の濃いほうだけど、それでも一週間無精髭伸ばしてせいぜい五ミリってところだから、このぐらいになるには一カ月ぐらいかかるのかなあ? 髭の薄い人だったら倍以上だろうね」

「ということは、神戸の会社に言われて髭を剃ったけど、その後、早ければ神戸に行ってすぐ、遅くとも一カ月後ぐらいにはまた伸ばし始めたってことよね。一体なんのためにそんなことしたのかしらね」

 翔子がまだモニターを覗き込みながら言った。

「半井は本当に翌週月曜に神戸に行ったんだろうか? 宇田殺害時点のアリバイを造るためにそう言っただけなんじゃないか?」

 颯太は、翔子の頬がほとんど自分の頬に触れそうなところにあるので、ともするともつれそうになる思考を必死で整理して言った。その間森田記者は手帳を捲って何かを探していた。

「あ、これこれ。タイミングが良すぎると言えばもう一つタイミングの良い話があるんですよ。清塚のことですがね、清塚は宇田が転落死した前の日に日本を発ってシンガポールに行ってるんですよ」

「えっ、清塚もその時に東京にいなかったんですか?」

「ええ、清塚は六月の二十五日の土曜に女連れでシンガポールに入って二十八日までいたんです」

「もしかして、半井は翌週の月曜には神戸じゃなくて清塚と一緒にシンガポールに行ってたってことはないかしら。それで、宇田の事件が落ち着いた頃に戻ってきて九月頃関西ビジネス・サポートに入ったってことは・・・・・・。清塚は半井のアリバイの証人よ」

 翔子は漸く頬を離したが真正面から颯太の目を覗き込んで言った。眼がきらきら輝いている。颯太はこの眼にも弱い。翔子の言っていることが半分くらいしか頭に入っていない。

「あっ、えっ? 半井もシンガポールに行ってたかって? そうか、俺、半井のパスポートを全ページパソコンに入れてたんだ」

 颯太は慌てて暗転していたモニターを生き返らせ、パスポートの一ページ目を表示し、順に捲っていった。再び翔子の頬が接近する。颯太は必死で神経を画面に集中させた。次のページをめくる。

「あっ、これだ! 〇五年六月二十六日。だけどこれシンガポールじゃないぞ。半井は香港に行ってるよ」

「えっ、二十六日? それって、宇田の死んだ日じゃないの。香港に何時に入ってるの?」

「ええっと」

 颯太は画面をズームアップした。

「二十六日の十三時三十分だな」

「香港って直行便だと成田から四時間か五時間でしょ。で、確か時差は日本の一時間遅れよね。ということは二十六日の朝九時半から十時半の間に日本を出たってことね。森田さん、宇田の推定死亡時間って何時でしたっけ」

「二十六日、日曜の夜十時頃です」

「清塚が二十五日にシンガポールに行って、翌日の朝半井が香港に行って、その晩に宇田哲哉が事故死したってこと? それって上手くでき過ぎですね」

 翔子が感嘆したように言った。しかし、その結果「普通、女二人で行く場所じゃない」所に女二人で行く不自然が生じたのである。

「それは偶然じゃないな。ひょっとしたら清塚も宇田の殺害に関係したんじゃないかな? 森田さん、清塚はいつ日本に帰ったか分かってますか?」

「清塚は二十八日にシンガポールから台湾に飛んでるんです。もう会社は事実上破綻してるっていうのにまだ台湾の銀行から借り入れするためですよ。信じられます? それで日本には六月三十日に帰って、一度会社に顔を出したらしいんですが、部下の専務から宇田が事故死したと聞いて『それは殺されたに決まってる。俺も危ない』と言って顔色を変えて会社を飛び出したまま今月の十一日に自首してくるまで行方不明だったんです」

「そうか、部下から話を聞いて顔色変えて飛び出したってことは、清塚は宇田殺しには関係してないのかな? 確かに奴はペテン師タイプで、そんなことやる度胸はなさそうだけど・・・・・・。今も清塚がまだ行方不明のままだったら彼奴あいつまで殺されてるかと思うところだけど、奴だけはしぶとく生きてたんですね」

「ねえ、颯太君。半井はいつ日本に戻ってるの?」

 翔子がいた。

「あ、そうか。帰国はね・・・・・・これかな? 成田二〇〇五年七月二十一日」

「三週間以上か・・・・・・結構長いわねえ。香港なんて狭い町で三日も居れば退屈しちゃうと思うんだけど。それに半井は次の会社から破格の条件を提示された代わりに大至急着任しなくちゃならないって言ってたんでしょう? 髭もおかしいけど、それもおかしいわよね。単にアリバイ工作だったらそんなに長く行ってる必要もないと思うけど」

「あっ、もう一つあるぞ。これも香港だ。これは・・・・・・二〇〇五年十二月三日に出てって・・・・・・あれっ、この時は関空から行ってる。それで十二月六日に関空に戻ってる。これはまたずいぶんトンボ返りだな。あっ、これもだ。これが今回のだな。今年の六月一日に出て行って四日に帰ってる。これも三泊だな。一体半井はなんでこんなに香港ばかり行ってるんだろう?」

「去年の六月より前には行ってないの?」

「うん、このパスポートが二〇〇一年四月発効のものなんだけど、それから去年の六月までに海外に行ってるのは・・・・・・一回だけだな。二〇〇三年の五月にハワイに行ってるだけだ」

 颯太はパソコンのウィンドウを半井の顔写真に戻してもう一度四枚の写真を見較べた。今や颯太の頭の中に渦巻いているのは、女二人で霊安室に行った理由から、一番初めに事故聞き取りメモを見た時の疑問に移っていた。半井の車両入れ替え前後の落差についての疑念である。


「ねえ祥子さん、森田さん。僕は半井の事故報告を受けた時から引っかかってたんだけど、半井は東京にいた時は六年使った国産中級車に乗ってたのに、神戸に来た途端にベンツの最高級車に入れ替えてるんですよ。こんな大出世の車両入れ替えなんてそう多くないんですよ。それに普通は高級車に乗り換えると運転は丁寧になるのに、半井の場合は逆にベンツになった途端に飲酒運転を何度もやってるんです。その上、顔写真も二〇〇一年、二年当時の顔と、去年の二枚の顔じゃ似てはいるけど印象がずいぶん違う。そして、海外旅行のパターンも全く変わってるんです」

「颯太君はひょっとして東京時代の半井と神戸の半井が別人じゃないかと言いたいの?」

「うん。どうも去年の六月辺りに断層があるみたいな気がするんだ」

「それじゃあ、東京の半井・・・・・・多分それが本物の半井靖士で、神戸の半井は別人ってことになるんでしょうが・・・・・・本物の半井はどこに行っちゃったのかしら?」

 翔子が半信半疑で尋ねた。

「本物の半井は宇田同様に殺されてるんじゃないかなあ」

「それでは半井が宇田を殺したっていう川嶋さんの推論は間違いだったってことですか?」

 森田も懐疑的である。

「いや、半井靖士も宇田殺しに関係していて、だからアリバイ造りのために直前に香港に飛んだんだけど、そこまでは上手くいったけど、今度は自分まで消されちゃって、その後、誰かが半井になり済まして神戸にいるってことじゃないでしょうかね。半井が退職の時に髭を剃ったっていうのもその辺に何か関係ありそうな気がするんですが」

「でも、感じは違うけど、去年の写真も偽半井と言うには本物とよく似てるわよ。第三の従兄弟似がいるってこと?」

 翔子がもう一度四枚の写真を見較べて言った。

「うーん。だけど断層の痕はくっきりあるんだよなあ。いま神戸にいるのが本物の半井かどうか確認するのが先じゃないかなあ。彼奴が偽半井だということが分かれば、宇田のことも、本物半井がどこにいるかも分かりそうな気がするんだけど」

「それを調べるにはどうしたらいいか何かアイディアがありますか?」

「ええ、神戸の男は病院に担ぎ込まれた時に血液型の検査をしているんです。ですから、もし東京時代の半井が何か大きな病気か怪我で手術でもして、その時に血液型検査をしていれば較べられるんですが、リックは会社健保はなかったのかなあ?もし会社健保だったらさっきの事務所で調べられないでしょうかね」

「でも血液型だけで決め手になります? A型なんて日本人の半分ぐらいはA型なんでしょう?」

 森田が首を傾げた。

「ええおっしゃるとおり、一般論としては、同じ血液型だから同一人物だとは全然言えないんですが、ところが神戸の半井に限ってはそれを言ってもまず間違いないんです。というのは、実は神戸の半井はAB型のRhマイナスって、日本人だと二千人に一人の珍獣なんですよ。だから神戸の半井と東京の半井が同じ血液型だとすればまず同一人物だと言っていいんです。別々の人間が偶々たまたま二人ともAB型のRhマイナスなんて確率は四百万分の一しかないんですから」

「なるほど、それは決定的ですね。あの副社長は半井嫌いみたいだから、あそこで分かるんだったら調べてくれそうですね。もうオフィスにいないかな? 生中なまちゅうもう一つ頼んどいて下さい」

 森田は言い置いて携帯電話を開きながらレストランを出て行った。


リックの大野副社長はもう帰宅して会社にはいなかったので、明朝森田がもう一度電話することになった。颯太はパレスホテルで待機していて、森田がリックを再訪する場合は同行することになった。

方針が決まって、三人はやっと夕食にありついた。



4-2  暴かれた正体


 翌朝九時半。颯太は森田と一緒にリックを再訪した。リック社員の健康保険は親会社メトロ・コープの会社健保でカバーされていた。メトロ・コープは消費者金融からは撤退したが、まだ日本でのいかがわしい金稼ぎをすべて諦めたわけではない。今でも従業員は三千人を超えており、会社健保も続けている。半井靖士の在職中の記録もその健保組合で管理されていた。

 リックの副社長大野遙は、森田が「ある殺人事件に半井靖士が関係していた可能性があるが、半井の血液型が分かればそれがはっきりするので、半井が血液型検査をしなくてはならないような手術歴があったら知りたい」と言うと、テーブルの上に置かれたお礼のロイヤルサリュートにちらりと目をやってから、メトロ・コープ健康保険組合に問い合わせることを承知してくれた。金の亡者共にとっては元社員のプライバシーなどどうでもいいことらしい。


「何? 半井は血液型検査を必要とするような治療歴は何もない?」

 大野は受話器を離すと、森田と颯太に向かって「ですって」と言った。

「半井は四、五年前に虫垂炎の手術をしたと言ってるんですが、それはどこの病院でやったかわかりませんか? まあ、虫垂炎ぐらいでは血液型検査まではやってないかも知れないけど」

 颯太が言った。

「********」

 大野が送話器を手で塞いでなかったので電話の相手は颯太の声が聞こえていたようである。相手は大野が質問する前に回答を寄越した。

「えっ? 虫垂炎の治療記録なんかない? 奴は風邪一つひいてなくて、かかったのは歯医者ぐらいのものですって? 間違いなく虫垂炎やってるはずですか?」

 大野は再び会話の末尾を二人に振り向けた。神戸の半井が、此処ここにいた半井とは別人ではないかと疑わせる材料がまた一つ増えた。

「いや、やってない可能性は充分あります。それじゃあ、半井は血液検・・・・・・」

 颯太が言いかけたのを森田が手で制した。

「歯医者でも役に立ちます。その歯医者がどこの歯医者か聞いて下さいますか?」

「********」

「分かった。三軒茶屋の岡本歯科ですね。かかったのは去年の一月? 住所、電話番号は分かるかい?」

「********」

 颯太と森田はかろうじて判読できるメモを受け取ると、礼を言って席を立った。大野が席を立った時には彼の手はもうロイヤルサリュートに掛かっていた。


      ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


「政界疑惑事件に絡んで行方不明になっている男を追っているんですが、その男がこちらの医院で去年の一月に治療していることが分かっているんです。名前は半井靖士と言うんですが、確認していただけますでしょうか?」

 森田記者がドラマチックな脚色をした質問をぶつけたのは三軒茶屋岡本歯科の「河西マリ」とネームプレートを付けた受付嬢である。森田の出した週刊誌記者の名刺は、毎日が単調な事務の繰り返しである受付嬢には堪えられない魅力だった。河西は面倒なことは言わずに、好奇心一杯でカルテをってくれた。

「ああ、ありました。半井靖士さんですね。生年月日は分かりますか?」

「はい、一九六三年十一月一日です」

 見習記者の颯太が答える。

「間違いないですね。確かに去年の一月に当院で治療していますが・・・・・・」

「それで、その治療の時はX線写真を撮るか歯型を採るかしてますでしょうか?」

「ええ、この方は四十歳過ぎて右下の第四大臼歯が生えてきたので、それを抜いたんですが、他の三本も歯肉の下で生えかけている可能性がありましたので、上下左右全部X線写真を撮ってます」

「それは助かります。恐縮ですがその写真をお借りできないでしょうか?」

 受付嬢はさすがに躊躇ちゅうちょした。

「それでは、あと三十分ぐらいで午前の診療が終わりますから、その後、先生に直接ご説明下さいますか?」

 時間はもう十一時半である。颯太と森田は待合室で待つことにした。颯太はその間にノートパソコンで竹川支店長への報告メモを書き終え携帯に接続して送信した。


 三十分後に二人と向き合った歯科医はいかにも三軒茶屋の土地柄ぴったりのざっくばらんな医者だった。

「何? 前に当院うちに来てた患者が殺されてる可能性があるんだって? それでその患者を殺してその名前を騙ってるらしい暴力団員をとっつかまえる? 面白いじゃないか。貸してあげるよ。俺んとこも暴力団員には何度か苦い思いをさせられてるんだからいいですよ。マリちゃん、その患者の写真持ってきてあげて」

 しかし岡本医師の指示は無用だった。興味津々の河西はうに隣の部屋のファイリングキャビネットを開けてがさがさ始めていたが、すぐに厚紙を一枚手にして怪訝な顔で診察室に入ってきた。

「先生。その患者さんの写真って、去年の六月二十七日に貸し出されたまま戻ってないんです。あっ、思い出した。その人ってフィリピンで強盗に殺された人じゃないですか?」

「えっ? 写真を借りに来た人がそう言ったんですか?」

 森田が驚いていた。

「ええ、来られたのは・・・・・・ええと、半井由美。患者との関係は『妻』になってます。その人が、『フィリピン警察から歯型が分かるものを持って、すぐ確認に来てくれと言われてる』って言ってたんです。それで、先生に申し上げてお貸ししたんですが・・・・・・」

「うんうん。そういえば、何かそんなことがあったなあ」

「はい。その奥さんっていうのが、まだ赤ちゃんをだっこしていたんです。私は、こんな赤ちゃんがいるのに旦那さんを殺されちゃったら大変だろうなあって思ったのに、本人が意外にけろっとした顔をしてるんで、『そんなものなのかなあ?』って驚いたんでよく覚えてます」


 X線写真は手に入らなかったが、それよりも遙かに大きなものを手に入れた。二人は、ホルダーに残っていた「借り受け証」をコピーして貰うと、礼を言って医院を後にした。借り受け証には、借り出し日と、借り出し人住所、氏名が自筆で残っていた。


「宇田哲哉殺害に半井靖士が嚙んでいるのではないか?」という颯太の描いた図式は主客が入れ替わった。

 半井靖士がフィリピンで殺されたなどと言うのが真っ赤な嘘であることは明らかである。二十六日の夜、建設中のマンションから転落死したのが誰であるかは議論の余地がなかった。警察が二十七日の朝、死体発見の連絡をした相手は宇田さつきである。同じ二十七日に半井由美は夫、半井靖士のX線写真を借り出し、それを持って宇田さつきと一緒に霊安室に行ったのである。その時に、X線写真が宇田哲哉のものになっていたことは言うまでもない。

 今や神戸の偽半井靖士の正体は疑いようもなくなった。疑いようはないがそれだけでは推論の域を出ない。どうしたら物的証拠を掴めるか?


「もし昔の宇田哲哉の血液型が分かって、それが日本人には二千分の一しかいないAB型のRhマイナスだったら、神戸の男を宇田哲哉と断定しても、それが間違いである確率は四百万分の一しかないってことね。でも宇田の血液型こそ分からないでしょうね」

 クールに分析するのは、午後から休暇を取り颯太達に加わった翔子である。三人は九段にある週刊未来のオフィスに来ていた。颯太はノートパソコンを立ち上げてもう一度顔写真をモニターに並べている。しかし、今日は二枚しか表示させていない。去年、〇五年の秋に兵庫県警が撮ったスナップ写真と、同じく去年の十一月の免許証写真の二枚である。昨日まではこの二枚も半井靖士の写真と思っていたが、これは間違いなく髭を伸ばした宇田哲哉の顔なのである。

「祥子さん、宇田哲哉のパスポート写真持ってる? 僕は宇田の写真は関係ないと思ってたんで、パソコンに入れてないんだ」

「ええ持ってきたわよ。ええと、これは二〇〇三年二月のものよ」

 翔子が取り出したのは、去年、二十億円の高額生保を引き受けさせられた時に、本人確認のために取り付けた宇田哲哉のパスポートのコピーである。

「そしてこれがこの前の週刊未来に掲載した写真のオリジナルです。二〇〇四年七月の慧明塾勉強会の時の写真です」

 森田が並べた写真は、例の、下半分が清塚の顔に隠れた宇田哲哉の写真である。紙ベースの写真二枚は慧明塾当時の宇田の写真で髭がない。モニターの二枚は、神戸に行ってからの宇田哲哉で髭がある。

「さあ、もう一度見てみようよ。コンピューターは神戸の二枚を読み込ませても、TMDに登録されていたパスポートの写真と同一人物とは判定しなかったんだ。僕もこれが同一人物と言うほど似ているとは思わないけど、週刊未来の写真はそっくりだと思うんだよな」

「そうねえ。神戸に行ってからの二枚はやっぱり慧明塾当時の宇田より顎の辺が細くて、むしろ本物半井のほうに似てるわね。でも週刊未来のもそんなに似てるかしら?」

 翔子がコメントした。

「うん、こうして写真で較べるとそうでもないかも知れないけど、パッと見た印象が凄く似てると思ったんだ。僕は実物に二度も会ってるからね。髭のある顎の辺が隠れてるし、斜めから撮ってるから却って印象だけで比較するからかなあ。それで考えたんだけど、宇田が顔を整形して顎を細くしたってことはないかなあ」

 颯太が言った。

「そうか・・・・・・、颯太君、凄い! 香港には顔の整形に行ってたって言いたいのね?」

 翔子が顔を輝かせて颯太を見た。颯太が頷いた。

「よし、行きましょう」

 森田が隣のコンビニにでも行くように簡単に言った。森田が行きましょうと言ったのはもちろん香港にである。

「そう。行くしかないですね。でも香港の整形外科って凄い数なんでしょう? 探し出せるかなあ」

 颯太が珍しく弱気なことを言う。

「宇田は当社から二十億円の保険金を踏んだくったんだし、金はいくらでもあるはずだからセレブの行くような一流のところで手術してるはずよ」

 翔子は、はつらつ生命の応接室でふんぞり返った成金趣味の河馬男を思い浮かべて言った。

「森田さん、宇田哲哉が海外経験があるかどうかなんて情報ありますか?」

 颯太がいた。

「さあ? 宇田が事故死した後、私たちもずいぶん宇田のことは調べたんですが、都内の二流大学を出て、十年ほど商品先物の会社にいたけど自立して会社を作って、まあまあに行ってたらしいんだけど、その会社は他人ひとに譲って慧明塾に入ったという以外ほとんど分からないんです。だけど、海外に留学してたとか海外で仕事をしていたというような話は聞いたことないですね」

「そうですか」

 颯太は頷くと、モニターの顔写真を消してインターネットを立ち上げ、グーグルの検索で「香港 整形外科 日本語」と打ち込んだ。百三十余りのサイトがヒットしたが、初めの二ページぐらいはほとんどが「日本語を喋れるスタッフを置いた香港の美容整形医院」の広告サイトである。試しに初めの一つを開くと「豊胸 痩身 隆鼻 小顔」等の文字が並ぶ。初めの豊胸をクリックすると、手術前と後の女性の胸が並んで写されている。

「あら、凄い違いね。私も行こうかな?」

 颯太の肩越しにモニターを見ていた翔子が言った。颯太は会社帰りにジムに泳ぎに行った時に見た水着姿の翔子の見事なプロポーションを思い出し、自分の顔がかっと赤くなるのを感じながら慌てて画面を「病院案内」に切り替えた。颯太の後ろで女性二人が声を上げて笑った。

 病院案内のページにはいかにも「医は金」なりという顔をした院長の写真の下に香港の住所、電話番号が書かれている。

「ちょっといてみましょう」

 森田は部屋の隅にある電話を取り上げた。

「えっ、なんて尋くんですか?」

 颯太が驚いて尋く。しかし森田は「まあ、任せて」と言っただけで平気でモニターの電話番号にかけた。続けてスピーカーボタンを押す。

「********」

 女性の声が何か言ったが、多分中国語らしいというだけで全く意味は分からない。

"Hello. Iis there anyone who can speak Japanese?"

 颯太と翔子は、この色気のかけらも見せない女性記者から飛び出した見事な英語に驚いた。

「はい、私、日本語話せます」

「こちらは日本のセレブ向けの雑誌社ですが・・・・・・」

「日本の・・・・・・テレビ向きの・・・・・・?」

「テレビじゃなくてセレブ」

「セレブ? セレブって・・・・・・?」

「お金持ち。私は、日本のお金持ち向けの雑誌社の記者なんですが、今度、うちの雑誌で香港の、日本人向け美容整形業界を特集するんです」

「日本の雑誌のお金持ちのキシャが、今度香港で美容整形を特別にしたいんですか?」

 森田は空いたほうの手を挙げてギブアップした。

"Which would you like to prefer, Japanese or English? I don't underestand Chinese."

"English."

"OK. I'll repeat from the biginninng. This is a reporter from an established Japanese magazine publishing house. We are・・・・・・

 この先は英語の会話が続き、颯太は半分以上ついて行けなかったが、途中でミスター・ヤスシ・ナカライとかミスター・テツヤ・ウダが二、三度出て来たのは分かった。小・中学時代に四年間をニューヨークで地元の学校に行っていた翔子は完璧に分かっているようで、最後には吹き出して聞いていた。

 二、三分で電話を切った森田は首を振った。

「ここじゃないわね。去年お宅で顎の整形をした半井靖士さんが『とても良い手術をして貰った』と言って推薦してくれたので取材に行きたいと言っても『半井の手術はやってない』と言うから『半井は仕事では宇田哲哉の名前も使ってる』と言ったけど『宇田って名前も知らない。でも取材は来て貰って結構』ですって。おまけに『雑誌に載せてくれるなら、貴女がどこか整形したいところがあるなら、簡単なものならただでやってあげる』って言うから『私の顔は大手術しても無理です』って丁重にお断りしたわ」

 翔子が吹き出したのはこの部分だったのだろう。その翔子が笑いをかみ殺して言った。

「要領は分かったわ。手分けして電話しましょう。颯太君、順番に一つずつリストをちょうだい」

 颯太は言われたとおり、リストの上から順番に病院名、電話番号を書いたメモを翔子と森田に手渡し、女性二人が「日本人セレブ向けの香港の美容整形業界特集」の電話をかけた。話は概ね日本語と英語が半々である。


 翔子が他の二人に右手を挙げて注意を惹いたのは作戦開始から十分以上経った時である。

「そうなんですよ。半井さんはお宅のサービスに大満足で、当社が特集を組むなら九龍カオルーン美麗外科クリニックを是非入れるようにおっしゃってるんですよ」

「********」

 スピーカーは切れている。この相手はパーフェクトに日本語が伝わるようである。

「ええ。半井さんは父の友達で時々私の家に来るんです。そういえば、半井さんは今月の初めごろにも貴院おたくに行らっしゃたんじゃありません?」

「********」

「そうですか。大きな手術の場合は半年後と一年後にフォローアップチェックをするんですか。それはずいぶん丁寧なんですね」

「********」

「それで再手術や修正が必要な場合は満二年までは無料? まあ貴院おたくに自信があるからおできになるんでしょうけど・・・・・・」

「********」

「半井さんも、すっかり顔が細くなられたんで、手術の後お目にかかった時はびっくりしたんですよ」

「********」

「ああ、そうでしょうね。あの顎だからずいぶん削り甲斐があったでしょう? それで、私は、ついでに『鼻も少し細く高くして貰ったらどうですか』なんてからかってるんですよ」

「********」

「そうですか? それではすぐにでも伺わせていただきます。それで半井さんのことなんですが『自分が推薦した以上は、匿名なら手術前と手術後の自分の顔写真やX線写真を載せて構わない』とおっしゃって下さっているんです」

「********」

 翔子の返事が一瞬遅れた。

「はい、それは結構です。持参いたします。それでは伺える日時が決まりましたら改めてお電話します。はい、私は週刊未来の森田佳奈と申します」

「********」

「は? ツァイチエさんですね? 分かりました。どうもありがとうございました」


 さすがに電話を終えた翔子は緊張で額に汗を浮かべていた。颯太と森田が一斉に拍手をした。

「凄い凄い。私たち本物の記者が取材するときでもそんなに臨機応変のお芝居はできないですよ」

 とお世辞抜きに褒めたが翔子は、

「それって、なんだか自分が詐欺師になったって褒められてるみたいで複雑な気分。まあ、私も清塚の下にいたことがあるから少しは嘘の付き方を鍛えて貰ったけど」

 と本当に複雑な表情で言ったがすぐに、

「ところで、香港には誰が行きます?」

 と話を戻した。

「私の名前を伝えてあるから私が行きましょう。編集長のOKを取らなくちゃいけないけど・・・・・・」

 森田が言った。

「この話は元はといえば僕が言い出しっぺだから、僕もお供しましょうか。僕は熊本に祖母の介護に行ってるんだから、出張というわけにはいかないけど・・・・・・」

 颯太が言った。颯太は香港には行ったことがないし、こんなエキサイティングな旅行に乗らないはない。しかし冷静翔子が少し考えて言った。

「いや、今度の香港は森田さんに私がついて行くわ。颯太君は可哀想だけどお留守番してくれたがいいと思うのよ。と言うのは、ツァイさんが『半井の写真を渡すに当たっては半井自筆の承諾書を持ってきてくれ』って言ってるのよ。当然の要求なんだけどね。それで、そんなものはこっちで勝手に書いちゃえばいいとは思うんだけど、私、ツァイさんってなかなかしっかりしてる人だから、もしかしたら、現地で私たちがいる目の前で半井に電話をかけて確認しようとするんじゃないかと思うのよ。そうしたら私がツァイさんの目の前で颯太君に電話するから、颯太君は偽半井に成り済まして電話に出て貰う必要があるのよ」

 尤もな話であるが颯太は不安だった。

「ええっ? 僕が偽半井になるの? でも僕は翔子さんみたいに詐欺師的能力がないから自信ないなあ」

馬鹿者ばっかもん。貴男も不肖清塚の弟子だったでしょう?」

 翔子の拳骨が颯太の頭上ぎりぎりで止まった。

「だけど翔子さん、ツァイチエさんがそこまで慎重だったら今すぐにでも半井に電話をして確認しないかなあ?」

 颯太が拳骨の下で身を屈めながら言った。

「うん。私も電話をしながらそのことが気になったんだけど、そうなったらそうなったで仕方ないじゃない。それに偽半井は自分の整形をした九龍カオルーン美麗外科クリニックで本当の連絡先なんか書いてないんじゃないかな? 本人確認されて困るのは半井のほうが私たちより上なんだから」

 翔子は拳骨を引っ込めた。

「そうだね。虎穴に入らずんば虎児を得ずか」

 言った颯太に翔子がびっくりした顔を向けた。

「えっ? 颯太君、凄い言葉が出るわねえ。颯太君はてっきり焼肉定食の口だと思ってたんだけど」

「何? それ」

「昔、当社うちの入社試験で、四字熟語の問題で『弱肉強食』と書かせるつもりで『○肉○食』って出したら『焼肉定食』って書いた学生がいたけど入社させたって聞いたから、これは颯太君に違いないと思ってたんだけど、違った?」

 今度は颯太の拳骨が翔子の頭の上で止まった。

 話は決まった。香港には森田記者と翔子の二人が飛ぶことになり、翔子と森田は自分達の携帯電話に颯太の携帯番号を「半井靖士」名で登録した。二人はできれば夕方の飛行機で香港に飛び、明日の朝、九龍カオルーン美麗外科クリニックに行って、午後の便で日本に戻ることにした。翔子は取りあえず明日までは休暇を取ってある。森田は編集長の出張許可を貰いに打ち合わせ室を飛び出して行った。翔子のほうは颯太のパソコンを使って半井靖士の承諾書作成に入った。

 思いがけない展開から、蚊帳の真ん中にいたはずの自分が蚊帳の外に追い出されたような気分で、颯太は寂しを否定できなかったが、思い直してブリーフケースの書類を取り出した。明日、香港のツァイチエなる女性から電話がかかったときに、生年月日などを聞かれてすぐに言えないようだと一巻の終わりである。颯太は、書類を見て半井靖士の住所、生年月日等を自分の名刺の裏に書き移した。颯太は自分がこんな意味のない数字を覚えるのは絶対に無理だという自信があった。せめてすぐに取り出せるところにメモを持っていなければならない。しかし、そんなことは一分で終わってしまった。もうすることがない。

【 さあ、俺は二人が明日の午後帰ってくるまで、ただポケッと待っているしかないんだろうか? いやちょっと待てよ。香港作戦が上手くいって、二人が顎や歯型のX線写真を持ち帰ったとしても、それは半井靖士と称している男の手術前、手術後の写真に過ぎない。仮にその写真と三軒茶屋の歯医者に残されていた借り受け証とで、この男が偽半井で、本物の半井は一年前に転落死しているということが証明できたとしても、それだけでこの男が宇田哲哉であるという決め手にはならないのではないか?その為には翔子さん達が持ち帰るX線写真と付き合わせるために、宇田哲哉の歯型写真を手に入れる必要がある。宇田もどこかの歯医者にX線写真を残しているに違いない。しかし、その歯医者をどうしたら探せるのだろう?】


 夕方七時成田発香港行きキャセイパシフィック505便の手配を終えた翔子と森田は、一度家に帰って出直すことになったが、その前に最後の段取り確認のためにもう一度打ち合わせテーブルの周りに座った。その席で颯太は二人にこの疑問をぶつけた。

「宇田哲哉がかかっていた歯医者っていうとオフィスか自宅の近くだろうと思うけど、それだけじゃあ探すのは大変だと思うんだ。何か良い方法はないかなあ。森田さん、宇田の個人的なことを知ってるような人物って誰かご存じないですか?」

「さあ? 私が慧明塾で知ってたのはオーナーの光中と宇田ぐらいなものなんで、後は清塚だけど・・・・・・あっ、そう言えば!」

 森田は気の抜けたサイダーのようなORIの専務を思いだした。

「そう言えばORIで清塚の下にいた専務が、宇田哲哉から慧明塾に呼び出されたのに、宇田が歯医者に行ってたんで散々待たされたと言ってたんですが、でもどこの歯医者だったかなんてことまで覚えてるかなあ」

「駄目元で電話してみます。電話番号を教えておいて下さい」

 森田はオフィスから当時の取材ノートを取ってきたが、

「あ、ごめんなさい。桜井の電話番号はORIのしか知らないわ」

 と言った。

「清塚は知らないかなあ。そうか、清塚はいま留置場に居るのかなあ。そうだったら携帯も取り上げられてるのだろうなあ。森田さんは清塚の番号はご存じないですか?」

「もう留置場は出ているはずです。彼が偉そうに友達に言ってたように三日じゃ出られなくて、たっぷり十日以上入れられていたようですがね。今は裁判待ちでしょう。彼とは話したことはないけど、携帯番号なら聞いてますよ。ただ清塚はこの前まで逃げ回ってたんだから番号を変えてるかも知れませんけど」

「一応教えといて下さい」

 翔子が手帳を手にした颯太を心配そうに見つめた。

「でも清塚にコンタクトして、それが偽半井に筒抜けにならないかしら」

 しかし森田は首をかしげた。

「それは多分大丈夫だと思いますよ。清塚は宇田も光中に続いて死んだと聞いて、次は自分だと思って今まで逃げ回ってたんですけど、私は、矢部事務所はこの間も清塚の居所を知っていたんじゃないかと思ってるんです。多分、逃走資金も矢部から出てるんじゃないかな? 矢部事務所は、清塚なんか宇田とは違って、たいしたことは知らないから適当に逃げ回らせておけば問題ないと思ってたんじゃないでしょうか。それを清塚自身は、自分は矢部から匿われている大物ぐらいに思ってたんじゃないかな? 清塚が出頭する前に友達に『三日で出てくる』なんて大言壮語したのもそれでじゃないかと思うんです。だから、実は宇田だけは、自分を追い回していた暴力団に顧問で迎えられて悠々とやっていて、自分は蜥蜴の尻尾みたいにぴくぴく震えながら逃げ回っていたなんて知ったら清塚は血相変えて怒ると思いますよ。そういうのが見栄っ張りの清塚が一番頭に来ることですから」

「確かにそうですね。清塚の性格だと、大物扱いして貰っていると思っていた自分が、実は蜥蜴の尻尾だったと知ったら恨み骨髄でなんでも話し始めるでしょうね。でも颯太君、切られた蜥蜴の尻尾が恨み一杯でぴくぴく震えてるのを見るつもり?勇気あるわねえ。私は清塚の声を聞くのも嫌」

 翔子は実際に今実際に蜥蜴の尻尾を見ているように身体を震わせた。


       ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

 

 女性二人が家に帰った後、颯太は一人侘びしくホテルに戻った。東京に来たら飲みに誘いたい友達はいるが、熊本に帰っているはずの身体である。不必要に人目のあるところに出て行くわけにはいかない。颯太は途中マックで買ってきたコーヒーを飲みながら、蜥蜴の尻尾に何をどう話すかを考えた。

【 あの見栄っ張りは、犯罪者になるまで落ち込んでも、元部下虚勢を張って若造扱いするに違いない。どうやったら最高に挑発できるかだ・・・・・・。そうか、黒岩さんの名前を使うことだ!】

 颯太が入社して初めての配属先である本店企業損害部賠償責任保険課で仕えた課長の黒岩舜一は、その三年後にリコール隠しで揺れる五菱自動車工業に転籍したが、そこで見事に会社を建て直し、今年の株式総会でついに社長に選任された。その黒岩の後の課長で来たのが、黒岩と中央火災で同期の清塚である。その清塚も僅か三カ月で追われるように中央火災を去ったが、その三カ月の間に颯太は清塚の黒岩に対する異常とも言うべき対抗心を見ている。事情通から聞くところでは、中央火災を追われた後に立ち上げたORIなるインチキ会社で、清塚があそこまで無理して見せかけだけの拡張路線を取ったのも第一には黒岩に対する対抗心からだという。颯太は暫く考えてから携帯を開いた。


「清塚ですが・・・・・・」

 予想外に清塚は逃亡生活に入った後も携帯の番号は変えてなかったようである。清塚の下にいた三カ月の間颯太が聞き慣れた、口の中でムニャムニャ言うだけの不明瞭音声が聞こえた。しかも昔の勢いがなく声が小さいだけ一層不明瞭である。

「清塚さん。お久しぶりです。中央火災で三カ月間下におりました川嶋颯太ですが、ご記憶にありますでしょうか?」

 一瞬の間があった。颯太は、清塚が僅か三カ月だけ下にいた若造のことなど覚えていないのではないかと思った。しかしそれは昔の部下に対し如何に虚勢を保つかを考えるための一瞬だったようである。

「おう覚えてるよ。球磨の熊だろう? どうしてるんだ? 元気にしてるんか?」

「はい、お陰様で元気にしております。清塚さんはどうなんですか?色々大変でしたね」

「ああ、色々あって一年ばかり身を隠していなくちゃならなかったんだが、まあ、しかし俺が全部被ってカバーしてやったお陰で権力の座を保てた方もいるんでね。今度の事件でも、一応形だけの裁判はやるけど執行猶予付きの最短の刑で済むことになってるんだ。その後は思いっきり暴れさせて貰うから、まあ楽しみにしててくれよ」

【 案の定また始まった。】

 清塚の部下になった当初、一時は信じかけた大法螺おおぼらである。どうやら本人はまだ自分が蜥蜴の尻尾であることに気がついてないようだ。

「そうですか、それを聞いて安心しました。しかしさすがに清塚さんですね。前回はベンチャーの星でしたが、次はなんですか? 政界デビューですか?」

「うん。まあそんな話もあるんだけどね。俺は政界よりもやっぱり財界のほうが自分で向いてるのかなと思ってるんでね」

 声がだいぶ明るくなってきた。颯太の持ち上げが必ずしも不快ではないようだ。

【 思い切り持ち上げてからどすんと落としてやるからな。】

「そうですね。所詮民自党なんていうのも財界の番犬みたいなものですものね」

「うん、まあ番犬と言っても矢部さんとか平山さんとか猛犬もいるけど、猛犬といえども誰かが餌をやらなくちゃならんからな」

「そうですよね。そこへ行くと五菱自動車なんて二流会社じゃ猛犬を飼う力なんかありませんからね」

 清塚のリアクションがまた一瞬遅れた。

「黒岩のことか? まあ、奴じゃたかだか五菱自動車の社長ってところだからな。矢部さんも、俺を財界に戻すにしても、ただ財界だけじゃ勿体ないからもうちょっと国政に近いところで使いたいと言ってるからどういうことになるかね。まあ楽しみにしててくれよ」

【 おうおう、相変わらずですねえ。これだけの恥曝しをやった後でよくそれだけの口が叩けるよ。奴の中で、このゴキブリ顔負けの生命力だけは尊敬に値するね。それじゃあそろそろ落とし始めるか。】

「もちろん楽しみにしてますよ。僕は入社したときから上司には恵まれてまして、初めて仕えた課長が今や、二流会社とは言っても、財閥系自動車メーカーの社長でしょう? その次の課長がちょっと一休みはしておられるけど、何かは知らないけど、財界も政界も牛耳るような仕事につくんでしょう?」

 清塚自尊心が傷つくようなことには人一倍敏感である。裏付けのない自尊心ほど傷つきやすいものはない。声の調子に棘が加わった。

「まあ、五菱自動車の社長ぐらいなら総理の後押しなんて要らんよ。ところでお前、今日は俺に頼み事かなんか用があって電話してきたんじゃないのか? なんの用もないなら切るぞ。俺結構忙しいんだよ」

【 えっ、頼み事? 蜥蜴の尻尾に頼めることってなんなんだ?】

「あっ、これは恐縮でした。清塚さんはいつも最先端でご活躍だからお忙しいですよね。実は、清塚さんの会社で専務をしておられた桜井泰平さんの電話番号をご存じでしたら教えていただきたいんですが」

 また一瞬の遅れ。

「お前、なんで桜井の番号なんか調べてるんだ? 大体お前がどうして桜井なんて知ってるんだ?」

「いや、桜井さんて名前は今日初めて聞いたばかりで、僕が存じ上げてる方じゃないんですが、桜井さんならご存じかも知れないある方のことでちょっと調べたいことがありまして」

「桜井の知ってる人間なら俺はほとんど知ってるよ。だれのことだい? 俺が付き合ってるようなレベルの人間じゃないのか?」

【 間違いなくお前さんのレベルの男のことだよ。だけど宇田のことを調べているなんてことを清塚に話して大丈夫だろうか?】

「・・・・・・・・・・・・」

 今度は颯太が間を作った。

「おい、お前。お前が誰のことを調べようとしているかも聞かずに元の部下の電話番号なんか言う訳にいかんことぐらい分かるだろう? 元の部下に迷惑かけることになるかも知れないんだからな」

【 おお、おお、散々迷惑をかけた元部下にお優しいことで。しかし虎穴に入らずんば虎児を得ずだな。清塚に話すことにはリスクもあるが、ここで賭に出ないとそれこそ焼肉定食レベルだ。】

「もちろん一流の有名人です。お名前は宇田哲哉さんなんですが、ちょっと訳があって僕は宇田さんのことで知りたいことがあって、それで桜井さんにコンタクトしたいんです」

「・・・・・・・・・・・・」

「宇田さんのことはご存じですよね?」

「お前、俺を揶揄からかうために電話してきたのか? 宇田さんが去年亡くなったのを知ってて俺を揶揄うためにそんなことをいてるのか?」

「えっ? 宇田さんが亡くなった? いつ、どこで?」

「・・・・・・・・・・・・」

「清塚さん。貴男、ひょっとして去年の六月に建設中のマンションから転落死した男のことを言ってるんじゃないですよね」

「・・・・・・・・・・・・」

「もしそうだったら、それは全然古い話で大間違いですよ。世間はまだ騙されてるんだけど、警察は初めからあれが宇田さんじゃないことは百も承知ですよ。もちろん、警察があれを宇田さんだって断定したのは上からの指示でやらされたことですよ。でも清塚さんは矢部事務所から凄く大事にされてたんだから、当然そんなことはご存じですよね?」

「・・・・・・・・・・・・」

「もしもし。清塚さん、まさかご存じなかったんじゃないですよね?」

「お前、なんでそんなこと知ってるんだ。なんかの間違いじゃないのか?」

「間違いって・・・・・・。信じられないなあ、清塚さんがそんなこと知らなかったなんて。それじゃあ、清塚さんは矢部事務所にかくまわれてたんじゃなかったんですか? 僕は『さすがは清塚さん』と感心してたんですが。光中って言いました? 慧明塾のトップしてた人・・・・・・光中は消されたんだってもっぱらの噂だけど、清塚さんと宇田さんはしっかり匿われてるんだと思ってたんですよ」

「おい川嶋。お前、どうして宇田さんが死んでないって知ってるんだ。それじゃあ宇田さんは今どこにいるんだ?」

「どこにいるって・・・・・・。清塚さんも矢部事務所に匿われていたなら言ってもいいけど、そうじゃないならそんなこと話せませんよ。うっかり喋ったら僕まで危なくなっちゃう。だって宇田さんと言えば矢部事務所のバックアップで、はつらつ生命に二十億円の生保までねじ込む力があるんでしょう? あっ、そうか、それじゃあ清塚さんは、宇田さんがまんまと自分の保険金二十億円をはつらつ生命から受け取ったこともご存じないんだ。宇田さんは今や大金持ちで良い暮らしをしてますよ。尤も今は宇田って名前じゃないですけどね」

「宇田は今なんて名前使ってるんだ?」

「なんて名前って・・・・・・いや、いいんです。済みませんでした、お忙しいところを。ちょっと僕が勘違いしてたようです」

「おい、ちょっと待てよ。忙しいのは忙しいけど少しぐらいは大丈夫だよ。何年もご無沙汰していたくせに突然電話してきて、勝手に喋るだけ喋って『もういい』はないだろう。俺はそんな教育した覚えはないぞ」

「失礼しました。でもどうぞ今の話は忘れて下さい。桜井さんの電話番号なら他にも調べる方法はありますから・・・・・・」

「宇田のことなら桜井になんかに聞かなくても俺のほうが知ってるよ。何を知りたいんだ?」

「・・・・・・・・・・・・」

「おい、川嶋。聞いてるのか? 桜井なんか俺と宇田の間の使いっ走りで、宇田のことを聞いても何も知りゃあしないよ。言ってみろよ。宇田の何を知りたいんだ?」

【 よしよし引っかかって来たぞ。】

 宇田から『さん』がなくなっている。

「そうですか。それじゃあ、清塚さんは宇田さんがかかっていた歯医者さんまでご存じですか?」 

「えっ? 何? 歯医者? お前、宇田が通ってた歯医者を知りたいのか? あっ、分かった。お前、鎌をかけてるんだろう。本当は宇田が生きてるかどうか分からないんだけど、それを調べるために歯型か何かで照合しようとしてるんじゃねえのか?」

「ビルから落ちて死んだ男の歯型ならもう照合済みですよ。宇田さん以外のある男の歯型とぴったりなんですよ。だから宇田さんは生きているって言ってるでしょう。清塚さん。貴男、自分が嘘つきだから他人ひとの言うこともすべて信じられなくなっちゃったんでしょう。宇田さんは生きています。僕が時々会ってるから間違いありませんよ。大変な羽振りですよ」

「それじゃあなんで宇田の歯医者なんか探してるんだ?」

「僕が時々会ってる男が宇田さんだってことは状況証拠から間違いないんですよ。だけど物的証拠がないんです。それが手に入ればはつらつ生命の二十億円を取り戻せるじゃないですか」

「お前、今、はつらつに出向してるのか?」

「・・・・・・・・・・・・」

「そうなんだな?」

「僕のことなんかどうでもいいじゃないですか。桜井さんの番号を教えていただけないなら切らせていただきますよ」

「教えないとは言ってないだろう。その前に俺の訊いてることに答えろよ。それが人にものを尋ねるときの礼儀だろうが」

「もう勘弁して下さいよ。桜井さんの番号なら他にも調べる方法はありますから結構です。もしかしたら僕が間違ってるのかも知れませんよ。きっとビルから落ちたのはやっぱり宇田哲哉ですよ。それじゃあ」

「おい川嶋。お前、俺を嘗めんじゃねえぞ。一年間暴力団に追われながら生き延びるからには、俺にも然るべき筋との付き合いはあるんだぞ。お前ぐらいのひよこをひねり潰すのはわけないんだぞ」

「だから僕の間違いだって言ってるじゃないですか。宇田さんは死んでるんですよ。貴男はちゃんと矢部事務所からはそう聞かされてたんでしょ? それならそのままのほうがいいですよ。電話切りますよ。失礼しました」

 耳から離した携帯から「おい、川嶋待てよ。おい川嶋」という清塚の声が聞こえたが颯太は構わずに電話を切った。清塚は本当に宇田の歯医者など知らないようだし、もし知っていて教えなかったのだったら、電話を切った後でじっくり今の話を反芻はんすうするだろう。そうすれば清塚のような嫉妬深く執念深い男がどうするかだ。颯太の電話番号は非通知にはしてない。清塚の携帯には颯太の番号は残っているはずである。


 清塚が颯太に電話をしてきたのは颯太が六時のテレビニュースを見ながら缶ビールとハンバーガーの侘びしい夕食を始めた時である。

「おい、川嶋。人がまだ話しているのに切るのは失礼だろう。俺はそんな教育をした覚えはないぞ」

 犯罪者から今日二度目のお説教である。

「失礼しました。さっきの話はお互いに無かったことにしたほうが安全じゃないかと思ったものですから急いで切っちゃいました」

「急いで切ったって・・・・・・お前 、桜井の電話番号は分かったのか? 教えてやらないでいいのか?」

「だって、清塚さん、桜井さんの番号なんかご存じないんじゃないですか? 宇田さんが生きてることもご存じなかったんだから。清塚さんのためにはそのままのほうがいいですよ」

「宇田が生きてることを全く知らなかったって誰が言った。俺も多分そうだろうとは思ってたけど、一年間身を隠していて、できるだけ誰とも接触しないようにしていたから確認のしようがなかったんだよ。でもさっき矢部事務所に確認したよ」

【 何っ! 矢部事務所に確認した? それは拙い。宇田の耳に入らなければいいんだが・・・・・・。】

「そうですか。止めといたがよかったんじゃないですか? 矢部事務所は、清塚さんは知らないほうがいいと思ってたから聞かせてなかったんじゃないんですか?」

「馬鹿野郎。だから言っただろう。俺は一年間浦島太郎になってただけだって。それよりお前、桜井の番号は聞かないでいいのか?」

「いや、もちろんご存じでしたら教えていただければありがたいですよ」

「教えてやるよ。だけど俺がさっき訊いたことに先に答えろよ。宇田は今どこにいて、なんて名前なんだ?」

「そんなこと言えるわけないじゃないですか」

「そうか、それじゃあいいよ。取引はなしだな」

「はいそういうことですね。それじゃあ失礼します」

「おい待てよ。勝手に切るな。目上の者より先に電話を置くのは失礼だって教えただろう?」

【 おっ! 犯罪者のお前のほうが目上だと思ってるのか? いつもながら、どこまで厚顔なんだ?】

「それじゃあ、どうぞ清塚さんが先に電話を切って下さいよ。さあどうぞ」

「まあ、そんなに急ぐことないじゃないか。お前なんか、相変わらずのんびりやってるんだろう? 分かったよ。それじゃあ宇田の今の名前はいいよ。だけどお前がなんで宇田の歯医者を捜してるのか言えよ。はつらつ生命なんていい加減なことを言うなよ。お前がいま、はつらつ生命に出向してるんじゃないことぐらい分かってるんだから」

やばい! 清塚ははつらつ生命に電話したのだろうか? 中央火災にもかけたんだろうか?】

「なんで調べてるかって・・・・・・。その辺まで矢部事務所でお聞きになったんじゃないんですか?」

 これはいいポイントを突いたようである。返事がちょっと遅れる。

「・・・・・・まあ、その辺は色々あってな。お前のレベルじゃ分からん話だからいいだろう。いいから答えろよ。そうしたら教えてやるよ」

「いや、止めときましょう。私は無理に清塚さんからお聞きしなくてもルートはありますから」

「・・・・・・・・・・・・」

「それじゃあ切りますよ。じゃないか、また叱られるところだった。どうぞお切り下さい」

「分かったよ。それじゃあ、俺が先に教えてやるよ。その代わり俺が教えたら、お前も、宇田が今なんて名前でどこにいるのか言うんだぞ」

「そりゃあ駄目ですよ。こっちはたかだか桜井さんの電話番号を訊いてるだけですよ。情報価値のバランスが全然違うじゃないですか。それじゃあこうしましょう。桜井さんの番号を教えていただいたら、今は言えないけど、僕がその男が確かに宇田だという確証を掴んだときにはお教えしますよ。宇田を追い詰めることができれば、清塚さんだって悪くはないでしょう? 清塚さん分かってるんでしょう? 宇田が矢部事務所に大事に匿われている間、清塚さんを蜥蜴の尻尾みたいに逃げ回っていたんだって」

「・・・・・・・・・・・・」

 颯太には清塚の沈黙の意味がよく分かっている。清塚は若造に自尊心をずたずたにされて怒り心頭に発しながらも、颯太の言っている理屈を認めざるを得ないのである。ここは自尊心を抑えても、宇田に復讐をすべきかどうか悩んでいるのである。

「嫌ならいいですよ。それじゃあ、切りますね。面倒だから僕から先に切らせて貰いますよ」

「分かったよ。教えてやるよ。だけど、確証が掴めたら必ず言ってくるんだろうな?」

 確証が掴めたときには週刊誌に載るのである。颯太が隠しておく必要などない。

「大丈夫ですよ。人を騙しちゃいけないって言うのは清塚さんの教育の一番目だったですよね」

 清塚はさすがにムッとしたようで一瞬返事が遅れたが何も反論せずに桜井の電話番号を二度繰り返した。颯太が、

「だけどこの番号は桜井さんがまだORIにいた頃の番号でしょう? 変えてないんでしょうね?」

 とくと清塚は

「大丈夫だよ。俺がこの前かけたから」

 と不機嫌に言って電話を切った。颯太には、不正経営で会社を破綻させて一年以上も雲隠れした挙げ句に、さんざん迷惑をかけたであろう元部下に平気で電話をかけられる男の神経が理解できなかった。

 教えられた番号は確かに今も桜井のものだったようで「はい。桜井泰平です。ただ今電話に出られません。ご用の方はお名前とご用件を・・・・・・」の録音が聞こえた。颯太は「中央火災に勤務する川嶋と申します。慧明塾に関することで教えていただきたいことがあってお電話をしました。お手空てすきのときに0903377****の番号におかけいただければ幸甚です」とメッセージを残した。


 成田空港第二ターミナル62番ゲートでキャセイパシフィック505便の搭乗開始の放送があったのは六時半である。待合室を埋めた乗客達は機内持ち込みの手荷物を抱えて、一斉にベンチを立ち上がったが、ゲートから一番遠い所にいた吉野翔子は空港で買った夕刊を読み終えてから立つつもりでベンチに掛けたままだった。隣では森田佳奈がノートパソコンを開いて、次号の週刊未来に掲載する予定の「疑惑だらけの慧明塾捜査」と仮題を付けた記事の下書きに取りかかっていた。

 翔子の携帯が鳴った。翔子はてっきり颯太からの電話と思い、画面を確認もせずに電話に出ると、なんと電話ははつらつ生命の上司、業務部審査課長の大杉洋だった。大杉はもちろん翔子が午後から休みを取っていることは知っている。よほどのことがないと休暇中の部下に電話するような男ではない。翔子は嫌な予感がした。

「翔子ちゃん、休暇中に済まん。今話せるかい?」

「はい、私、今から飛行機に乗るところでもう搭乗が始まってますんで長いことは無理ですが三、四分なら・・・・・・」

「分かった。三分で済ます。実はさっき川喜多副社長から高瀬部長のところに電話があって、去年、二十億円の生命保険を引き受けたあと事故死した宇田哲哉のことで、今、うちの部で何か調べているのかって電話があったらしいんだ。部長がいてきたんで『私は何も知らないけど、あれは明らかにおかしい事故なんで、その後何か情報でも入ったら吉野君のところで調べているかも知れませんが、彼女は今休暇中だから出て来たら尋ねてみます』と言って時間稼ぎしたんだけど、翔子ちゃん、あの件で今何か調べてる?」

 翔子はドキンとした。出発直前に颯太から相談のあった清塚へのコンタクトは、敵側に情報が漏れる可能性がおおいにあるということは覚悟の上だったが、こんなに早いとは思っていなかった。万一敵に漏れたとしても、最悪、それが翔子達が香港で偽半井の写真を手に入れた後なら、これまでに判明している事実を来週水曜に出る週刊未来に掲載することで、少なくとも一年前に転落死したのが宇田哲哉ではなく、多分宇田の従兄弟の半井靖士という男だというところまでは明快に言える。そうすれば敵の攻撃を封じ込めることができるだろうと考えていた。その上、首尾良く翔子達の帰国までに颯太が宇田のかかっていた歯医者を探し出していれば、今、半井靖士を自称している神戸の男が実は宇田哲哉であることまで突き止め、敵にとどめを刺すことができる。

 翔子は、昨日、颯太からリック訪問の成果を聞くまでは、颯太が追っている自動車保険不正請求問題は宇田哲哉の不審死事件と無関係ではないにしても、本質的には神戸支店の問題だと思っていた。それがとんでもない。今日の三軒茶屋の歯科医訪問で、去年転落死した男は宇田哲哉ではなく、颯太が正体を暴こうとしている半井靖士という男らしいということが分かったのである。しかしそれはたった数時間前のことである。信頼する大杉課長ではあるが、もちろんまだ何一つ話してない。


「大杉さん。今日の午後、私は宇田哲哉が生きているらしいという情報を掴んだんです。その情報はかなり信頼性が高いんですが、実は私、その件で今から香港に飛ぶところなんです。すべて今日の午後に始まったことなんで大杉さんのお耳に入れる時間がなかったんですが、済みませんが今は飛行機に乗ります。遅くなりますが香港から電話しますんでその時詳しいご報告をしますから、今はごめんなさい」

 いつもおおらかな大杉が珍しく深刻な声を出した。

「分かった。だけど、川喜多副社長がそんなこと言ってきたってことは、君のやってることがどこか外部に漏れて、そこから副社長のところに探りが入ったとしか考えられないんだ。多分、宇田の保険を引き受けた時と同じで官邸からじゃないか?とすると翔子ちゃん。大丈夫か? 今の話からも宇田哲哉・・・・・・じゃないのかな?とにかく誰だか知らないが、ビルから落ちたのが事故じゃなくて殺人であるのは間違いないんだぞ。行くなとは言わないけど充分気をつけて行ってくれよ。君一人で行くんじゃないよな。誰か仲間がいるんだろう?」

「はい、ベテランの週刊誌記者さんが一緒ですからご心配要りません。大杉さん大感謝です。それじゃあ行ってきます」

「うん、気をつけてな。それから、今の話は俺は聞いてないことにして上には言わないから心配しないでいいぞ。もちろん君が香港だなんて俺は聞いてないからな」

「ありがとうございます」

 電話を終えた翔子を、早くもパソコンを仕舞い終えた森田記者が心配そうに見守っていた。

「飛行機に乗ってから話します」

 ゲートに向かいながら翔子は頭の中で情勢分析を始めた。

【 多分震源地は大杉課長の想像どおり官邸、矢部事務所だろう。しかしそこからはつらつ生命に探りが入ったというのは悪くない。最悪のシナリオは、矢部事務所から神戸支店に探りが入ることだ。神戸支店に探りが入ると言うことは、自分達が神戸の偽半井が多分宇田哲哉であることまで知っていることを敵も知ったということで、自分達の動きは偽半井にまで伝わっているおそれが強いということだ。そうなったら颯太が危ない。しかし、話がはつらつ生命に来ていると言うことは、敵は自分達が偽半井の存在と宇田の事故死を結びつけて考えていることまでは知らず、単に宇田哲哉転落死の事故性を疑っていると思っているだけだろう。これは香港から大杉課長にすべてを報告して、明日、川喜多副社長に、自分達の関心が宇田転落死の事故性にあるように話して貰う必要がある。】


 シャワーを浴びて、竹川支店長に状況報告のメールを出し終えた颯太は見るともなくテレビを付けながら桜井泰平からの連絡を待った。しかし桜井からの電話はなかなか来なかった。代わりに、夜の十時半に入った電話は香港のビジネスホテルに納まった翔子と森田からのものだった。

 翔子は、颯太への電話の前に改めて大杉課長に経緯を詳しく報告し終わったばかりだった。


「心配してたことが実際になっちゃったわね。清塚は宇田が本当に生きてるのかどうか矢部事務所かどこかに聞こうとしたのね。それで私たちが心配してるのは、私達が神戸の半井が本当は宇田だって知ってることを敵が知ったのかどうかなのよ。単に宇田の事故死を疑っているぐらいに思ってればいいんだけど。もちろん颯太君は清塚に半井のことは話してないでしょ?」

「もちろん、半井のナも言ってないよ。それに奴は、多分僕が今神戸支店にいることも知らないと思う」

「そう? そうだったら多分大丈夫だと思うけど、でも清塚が矢部事務所に、宇田が本当に死んだのかどうか聞こうとしただけでも、神戸の偽半井にウォーニングが行ってないとは限らないから、颯太君充分注意してね。矢部事務所止まりならいいけど、偽半井に伝わったら相手は暴力団でしょ? 何するか分からないわよ」

「分かった。念のため、明日の朝ここを引き払ってどこか他のホテルにチェックインするよ」

「うん。颯太君も偽名使ったほうがいいわよ」

 神戸の男の正体を突き止めてやろうと決めた時から覚悟していたこととは言え、颯太は緊張を覚えた。

「それで、そっちの虎児こじはみつかりそうなの?」

 翔子が尋ねた。

「いや、清塚から聞いた桜井泰平の番号にかけてみたんだけど留守なんだ。電話して貰うようにメッセージを残したんだけどまだかかってこない」

「ちょっと待って」

 翔子は颯太を待たせて、森田と何か話していたが、

「森田さんにいたら、桜井専務って凡そ毒にも薬にもならない男だけど、清塚に振り回された被害者の一人で、むしろ糞真面目なタイプで、凡そ悪いことのできる男じゃないからある程度信用しても大丈夫っておっしゃってるわよ」

「そうか。それじゃああまり詳しいことを話すわけにはいかないけどある程度率直に話したほうが聞き出しやすいかもね。明日は早い内にチェックアウトするからもう寝るよ。お休み。森田さんに宜しく」

 電話の後、颯太は携帯を耳元においてベッドに入った。


      ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 翌朝の行動開始が早いことでは香港の二人も同じだった。翌朝、週刊未来記者の森田佳奈と、同じ週刊未来のカメラウーマン、吉野翔子が九龍カオルーン美麗外科クリニックに到着したのは七時半である。診察は九時に始まるが八時半頃にはぽつぽつ患者が来始めるので、取材は七時半からにして欲しいと事務長のツァイチエから言われていたのである。出迎えてくれたツァイチエは院長チアン国華クォファの妻だった。ツァイチエは日本人の父と中国人の母を持つハーフであるが、日本の大学を卒業後中国人の祖母の養子となり母方のツァイ性を継いでいた。

 翔子と森田は九龍カオルーン美麗外科クリニックを一とおり見学し、最新の医療装置や院長の写真を何枚も撮った後、応接室でツァイチエと向き合って座った。

「どうも色々ありがとうございました。それでは昨日お願いしておりました、半井靖士さんの手術前、手術後の写真をちょうだいできますか? これがご本人の承諾書です」

 森田が手渡したのは颯太が半井靖士の名前でサインした承諾書である。シャチハタでこそないが、押してあるのは至急で手に入れられた、そこそこのサイズの印鑑である。

 ツァイ事務長は暫くその承諾書を見ていたが、フッと笑いを浮かべて、

「しかし信じられませんね。貴女達のような感じの良い方達があんな品のない患者のお知り合いとは・・・・・・」

 と言った。翔子は愕然としたが必死で平静を保って答えた。

「あら、ありがとうございます。でも半井さんの友達は私の父で、私じゃありませんから」

「そうですか? 私はあの患者は大っ嫌い。私が院長の妻だと知らなかったにしても、あからさまに品の悪いことを言ったり誘おうとしたりするんですから。あら失礼。貴女のお父様のお友達に・・・・・・。女って、時には男の人から色目を使われるのも悪いものじゃないけど、それは並以上の男からの場合で、中には、色目を使われたこと自体が侮辱でしかないような男もいますでしょう。そういう男に限って自分がそういう風に見られていることに無頓着なんですから」

「あら、私なんかはご覧のとおりの女なんで、並の男からも並以下の男からもそういう経験は・・・・・・」

 森田がなんとか話を冗談にしようとしたが翔子が遮った。

ツァイさん。おっしゃるとおりです。私も半井からは同じような嫌な思いをさせられましたからよく分かります。半井が初めて私の会社に来た時には本当に不愉快な思いをさせられました」

 翔子は嫌悪感を隠そうともせずに言った。そんな翔子をツァイは暫く黙って見つめていたが立ち上がって隣の事務室に行った。

【 これで商談ぶちこわしか。】

 森田が絶望的な表情になった。しかしツァイが戻って来たときにはツァイの手には中型の封筒があった。

「さあ、どうぞお持ち下さい」

 ツァイは封筒を向かいの二人の間に置いた。翔子が封筒を取り上げた。中には男の正面顔写真が二枚と、頭部下半分のX線写真をポジに焼いたものが数枚入っていた。顔写真の一枚は髭のない宇田哲哉のものだった。はつらつ生命の応接室で翔子をむかつかせた「べの字」がはっきり写っている。もう一枚は髭がかなり伸びた偽半井の写真だった。X線写真のほうは、頭部全体を正面から撮ったもの、左右の下顎を上部と下部から写したものの五種でそれぞれ'05/06/28、'05/07/19の二枚、合計十枚である。すべてに Y.Nakarai と入っていた。

「半井靖士は下顎の左右を削って顔を細くしました。六月二十八日のが手術の前日の診察で撮ったもので七月十九日のが最終チェックの時に撮ったものです」

 同じ部位の写真を二枚並べてみると手術の跡は歴然としている。上部から撮ったものでは下側の歯並びもしっかり写っている。首尾良く宇田哲哉の歯型写真が手に入れば問題なく照合できそうである。

翔子は感謝一杯の目を上げた。

「これであの下劣な男の化けの皮を剥がせます」

 ツァイが笑いながら言った。

「半井が当院に来なくなるのは大歓迎ですが、後で訴えられたりするのは嫌ですから一応この承諾書はいただいておきます。後はその写真をどうお使いになるもこちらは構いません。多分美容整形業界特集に載ることはないのでしょうが」

 ツァイはすべて見通していたようだった。

「はい。でも、もし本当にそう言う特集をやったらこちらの病院をトップにお載せすることを約束します」

 森田が照れながら言った。颯太が偽半井役をしなくてはならない電話はかけられないで終わった。


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 同じ日の朝、颯太は六時半にホテルをチェックアウトした。颯太の休暇申請は今日までの予定である。翔子達は一番順調にいっても、成田空港着が夕方六時以降であり、東京に戻るのは早くて八時以降である。颯太が仮にそれまでに宇田のかかっていた歯科医院を探し当てたとしても、翔子達が持ち帰るX線写真との突き合わせは明日の、それも、おそらく午前中は外来の診察時間だろうから、早くて午後になるだろう。だから、本当は休暇をもう一日延長して、このホテルに居続けるのが楽だったが、自分達の動きが敵に漏れたからにはそれは危険である。

 丸の内界隈でうろうろしていると会社の仲間と顔を合わせる危険がある。颯太はタクシーで東京駅の反対側、八重洲側に回ると、地下街のコーヒーショップで朝食を済ませてから八重洲の裏通りにある、ラブホテルまがいのビジネスホテルにアーリーチェックイン割り増しを含めて現金先払いでチェックインした。フロントで書いた名前は宇井うい哲士てつしである。IDの提示を求めるようなホテルではない。


 颯太の携帯に桜井泰平から電話が入ったのは、颯太が四階の部屋に収まって間もなくの九時少し前である。桜井は、川嶋颯太と名乗っただけで何者とも分からぬ相手に対しても丁寧な挨拶をした。

「昨日留守電を残していただいた桜井泰平と申します。昨日は携帯電話を会社に忘れて帰ったため、留守電を聞いたのが今になってしまいお返事が遅れて大変失礼をしました。慧明塾の件とのお話ですがどんなことでしょうか?」

 ORIが倒産して一年。桜井は倒産の当初こそ、姿をくらました清塚に代って株主や債権者から責め立てられた。しかし彼らも桜井が専務とは名ばかりで代表権もなく、清塚に騙されて、四十三歳まで働いた会社の退職金をすべてORIにつぎ込んだ被害者で、いくら絞り上げても、それ以上一銭も出てくる人間ではないことが分かると無駄な追求は終わりになった。最後まで桜井を追い回したのは関西畜産だったが、それも秋頃までには終わった。

 その後桜井は、今は林野庁長官に出世している遠山文一の斡旋で、倒産したゴルフ場ばかり百以上も買い集めてそこそこの利益を出している会社に、肥料の専門家として採用して貰い、なんのことはない、また堆肥に埋もれた毎日を送っていた。

 颯太は、森田の話から、桜井がORIに、ひいては慧明塾に対しても良い感情を残しているはずがないと踏んでいた。颯太は偽半井が起こした自動車事故のことには触れず、既に敵に漏れているはつらつ生命絡みの話だけをした。


「実は私は中央火災に勤めている者なんですが、桜井さんもご存じの男だと思いますが、慧明塾のナンバーツーだった宇田哲哉のことで少々調べているんです。ご存じのとおり宇田は建設中のビルから転落して死んだことになっているんですが、実は、その宇田がその僅か三カ月前に当社の関連会社のはつらつ生命に二十億円の生保契約を申し込んでるんですよ」

「ええ、その話は知ってます。あれは確か清塚社長がはつらつ生命に紹介したんじゃなかったですか?」

「そうですそうです。それではつらつ生命は、警察が事故死だと断定したので、しかたなく二十億円支払ったんです。ところが、最近になって実は転落死したのは宇田哲哉ではなくて、宇田はまだ生きているという情報が入りましてね」

「えっ、本当ですか? 宇田が生きてる?」

「いや、まだ確証を得られてないんですが、我々が『此奴が宇田じゃないか?』と思っている男がいるんです。そいつは顔の整形をしたらしいんですが整形した後の歯型写真が手に入りそうなんで、照合するために、昔宇田がかかっていた歯科医院を探しているんです。それでひょっとしたら桜井さんがご存じかも知れないという情報が入ったものですからお電話差し上げたような次第なんです。桜井さん、宇田がかかってた歯医者なんて存じないでしょうか? 宇田は清塚と組んでさんざん悪いことをしてきた男ですが、私どもは、そんな男が私どもの支払った二十億円で悠々と暮らしているとすれば絶対に許せませんので・・・・・・」

颯太としても最大限丁寧な頼み方である。おまけに桜井の被害者感情を十二分に逆撫でしている。

「知ってます知ってます。頭に来たことだから忘れられません。一番町の英国大使館の裏の歯医者です」

「一番町の英国大使館の裏・・・・・・。名前はご存じないですよね?」

「ええ、名前までは・・・・・・」

「あ、いや、それだけ分かれば調べられると思います。ありがとうございました」

「ちょ、ちょっと待って下さい。もう少し詳しく聞かせて下さい。宇田哲哉が生きているかも知れないって、今、宇田はどこにいるんですか?」

「いやそれもまだはっきりしないんですが、はっきりしましたらお教えしますから、今はちょっと急いでおりますんで済みません。本当に助かりました。それじゃあ」

 気の毒ではあるが、今は、気の抜けたサイダーの相手をしている時間はない。しかし、気の抜けたサイダーのお陰で大成果である。

 颯太は早々に電話を切るとすぐにパソコンを立ち上げグーグルの地図で千代田区一番町を検索し、英国大使館の裏と言える地域をズームアップして切り取り、その地図をスティックメモリーに落とした。次にそのスティックメモリーを持ってフロントに下りると、フロントのクラークに千円を渡して、スティックメモリーをフロントの端末に差し込み、地図を呼び出してA4の白紙にプリントして貰った。

 そのプリントと、同じクラークに頼んで借り受けた職業別電話帳を持って部屋に戻る。電話帳には千代田区一番町の歯科医院が六軒載っていた。颯太はその番地をグーグルの地図検索に打ち込んで場所を確認し、「英国大使館の裏」と言えるものを絞り込んで、プリントしてきた地図に書き込んだ。該当する歯科医院は全部で四軒あった。さて、この中からどうやって宇田哲哉が通っていた歯科医院を探し出すかである。颯太が頬杖をついて考えているところに電話が入った。知らない番号からである。


「パレスホテル・フロントのクニイと申しますが川嶋颯太様でございましょうか?」

 さっきチェックアウトしたばかりのホテルである。支払ミスでもあったのか?

「はい、川嶋ですが」

「昨日はご宿泊ありがとうございました。それで川嶋様がご出発なさった後で、外線からお電話がございまして、川嶋様に至急に連絡を取りたいとおっしゃいますので、電話番号を伺っておいたのですが」

【 俺が夕べ泊まったホテルを知っているのは翔子と森田だけのはずだが?】

「その電話をしてきた人は『川嶋颯太という者が泊まっていますか?』と言いましたか? それともただ『川嶋颯太をお願いします』と言いましたか?」

「電話は私がお受けしたのですが、先方様は『川嶋さんの部屋にお願いします』とおっしゃいました。それで私が『川嶋どなたでしょう? フルネームをお聞かせ下さい』と申し上げたら『川島颯太です』と言われたので『川島颯太様でしたら先ほどご出発になりました』とお伝えしましたら『至急に連絡を取りたいので、もし川嶋さんの携帯番号が分かっていたら教えて欲しい』とおっしゃったんです。それで、『携帯番号は分かっておりますが、勝手にお教えするわけには参りませんので、もしご希望でしたらこちらから川嶋様にご連絡して、そちらにおかけいただくこともできますが』と申し上げましたら『それじゃあそうしていただこうか』とおっしゃって携帯番号をお聞かせいただいているんですが・・・・・・」

「名前も言ってましたか?」

「はい、神戸の半井様とおっしゃいました」

颯太は腹の底に何か重い物がズンと落ちたような気がした。信じられない話だった。颯太の居所を突き止めるだけなら『いや、川嶋に連絡して貰わなくて結構』と言うだろう。あの男はわざと自分が颯太を追っていることを隠さなかったのである。『お前なんか簡単に捕まえられるぞ』という意味なのだろう。、

「お手数をおかけしました。一応、番号を伺っておきましょう」

 颯太は090に始まる番号を書き取り、礼を言って電話を切った。


      ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 それにしてもどうやって颯太が東京に出て来ているのか調べたのだろう? 万一、神戸支店に問い合わせをして、課の誰かが自分の行く先まで言ってしまったとしても、自分は熊本にいると思っているはずである。颯太達の動きを察した敵が、そういうことを追求するなら東京に来ていると見当をつけたのだろうか? いずれにしても、敵はすぐ後ろに迫っている。この事態は一応翔子達に知らせておいたほうが良さそうである。

颯太がメールを書きかけているところに入れ違いに翔子からのメールが入った。

「大成功。歯型写真入手。十時三十五分香港発に乗れます。成田着十六時ちょうど。成田からタクシーをとばして帰るから颯太君も十七時半に週刊未来編集部に来て下さい。そちらの進捗しんちょく状況は如何いかが? 翔子」

颯太は嬉しくなって画面にキッスをすると作りかけメールの画面に戻った。

 メールを打ち終わっていよいよアポイントの開始である。敵は背後に迫っている。時間のゆとりはない。翔子達が予想外に早く帰って来るので、先方さえ応じてくれれば、歯科医院を訪ねるのは明日まで伸ばしたくなかった。しかしアポイントを入れる電話で宇田の名前まで出すのは危険である。颯太はこの時点で宇田が通っていた歯科医院を絞り込むことは諦めて、四軒の歯科医院全部にアポイントを入れることにした。

 さあ、なんと言ってアポを入れるかだ・・・・・・。


 颯太は、四軒の歯科医院をネットで検索してみた。四軒ともホームページを開いていた。高級億ションの二階にあるが外部からの専用階段があるもの。瀟洒しゃれたフレンチレストランを思わせる一軒家。一流ミニホテルのロビーのような待合室。中には初診の場合は紹介状持参が必要と言いながら、誰の紹介ならいいのか書いてない歯科医院もあった。おそらくは、一流有名人ならいいと言うのだろう。さすが億ションが軒を並べる一番町、いずれ劣らぬセレブ歯科医院である。

【 よし、香港方式だ。少なくともここなら日本語だけで済むはずだ。】

 颯太は一軒目に電話を入れた。紹介状必要医院である。颯太は「週刊未来編集部の宇井」と名乗って「院長先生か事務長さん」を指名した。


「はい、事務長の大貫ですが、なんのご用でしょう?」

 凡そ愛想のない年増女の声である。

「私、週刊未来編集部の宇井と申します。お忙しいところを恐れ入ります。いま弊社では『セレブの通う高級医療機関』という特集を企画しておりまして、その手始めに、二号先で『都心の超高級歯科医院』の特集を組む予定なんです。それで、インターネットでいくつか『これは!』と思う歯科医院を絞ったんですが、その中にお宅も入っているんです。ついては急で申し訳ないんですが、今日の六時半以降か明日のできるだけ早い時間で院長先生のインタビューをさせていただきたいんですが如何でしょうか? お承けいただけますでしょうか?」

「はいはい。もちろん結構でございますよ。今日の夕方でも院長はお空けすると思います」

 声はすっかり愛想良くなっている。

【 そうだろう、そうだろう。歯科医としての技量向上などより、一人でも多くの有名人に来て貰うことのほうが十倍も大事なセレブ歯科医院が大手週刊誌のこの種特集に飛びつかないはずはない。】


 紹介状必要医院のインタビューは今夕六時半に決まった。四軒の歯科医院は、こちらの希望を全面的に受け入れて、六時半を皮切りに一時間おきの取材訪問に応じてくれることになった。最後の訪問は実に九時半である。

 手配を終えたのは十一時に近かった。それから夕方までの時間は今まで颯太の経験した最も長い待ち時間だった。持参の本を出したが一ページも読めない。テレビをつけたがどのチャネルも五月蠅うるさいだけで、全く見る気になれなかった。


キャセイパシフィック520便は二十分遅れで成田に着いた。香港帰りの二人が颯太の待つ九段の週刊未来編集部に駆け込んできたのは一軒目の紹介状歯科医訪問予定時刻の十五分前である。

 六時二十五前。森田佳奈は英国大使館の裏沿いの道を新宿通りから百メートルほど入った所にある億ションの二階で、朝比奈歯科医院のインターホンを押した。後ろには、編集部から持ち出した三五ミリのデジカメを肩からぶら下げたカメラマン、宇井哲士が立っている。週刊未来で待機している翔子には次の大役が待っている。

 待ちかねていた院長の朝比奈は、二人を、まずご自慢の診察室に通し、たっぷりと写真を撮らせた。その後、院長室の革張り応接セットに案内して、二人にコーヒーを奨めると、

「○○物産の××会長だ、民自党の△△先生だ」

 と常連著名人の陳列を始めた。森田は、宇井カメラマンに朝比奈院長の写真をカシャカシャ撮らせながら、自分は尤もらしくノートを出して朝比奈の話をメモしていたが、著名人の棚卸しが一段落したところで釣り糸を下ろした。

「アポイントをいただくときにも伺いましたが、こちらのクリニックでは、初診の患者さんは原則紹介状が必要だそうですね?」

「はい、お陰様で、昔からの患者さんでほぼ手一杯なんで、原則としては、新規の患者さんは、余程のご紹介がなければお受けしてません」

 いったいどんな紹介なら「余程のご紹介」になるのか? 宇井ういカメラマンは、デジカメの中のぞろっとしたなまちろい顔を軽蔑の目で見た。しかし、森田はさも感銘を受けたように相槌を打つ。

「やはりそうでしょうね。此方に見える患者さんなどには、健保治療を希望するような方はいらっしゃらないんでしょうね。いえね、先生のお話を伺っている間に思い出したんですが、もうずいぶん前の話ですが、私が歯痛で困っていた時に、存じ上げていたコンサルタント会社のお偉方が、『英国大使館の裏に良い歯医者さんを知ってるから、よかったら紹介してやるぞ』とおっしゃって下さったんですが、私は『ひょっとして、そんな歯医者さんて、健保が使えないんじゃないか』と思って尻込みしたことがあるんです。もしかして、こちらだったりして・・・・・・」

 朝比奈はまんまと引っかかった。

「まあ、一見いちげんさんは診ておりませんが、そんなにぶっているわけではないんですよ。健保治療もやっておりますし、よかったら診てあげますよ。ところでどなたですか? そのコンサルタント会社のお偉方っていうのは」

「ホテル・ニュー・オータニに本社のあった慧明塾というコンサルの役員さんで、宇田さんて方なんですが・・・・・・」

 森田はさり気なく言いながら朝比奈の目を見ている。ボールはど真ん中のストライクだった。

「ああ、宇田さんですね。慧明塾は宇田さんもですが、トップの光中さんも当院に見えてたんですよ。しかし光中さんも宇田さんも続けさまに亡くなっちゃったんですよね。しかも宇田さんのほうは事故死って言うじゃないですか。あの会社、何かたたられてたみたいですね。いや、あの時は驚きました」

「そうなんですよ。あの事件には少々不審な点がありましてね。当社でも政治部のほうで追ってるんですが・・・・・・。あっそうだ、院長先生、こちらで治療していらっしゃったってことは、宇田さんの歯型とかX線写真とかも先生のところにあるんでしょうか?」

「ええ、宇田さんについては当院で何本か義歯も作って差し上げましたから、X線写真は残してありますが・・・・・・」

「わあ、それじゃあ、もし宇田さんのものかどうか確認したい歯型の写真があったら、照合していただけますか?」

 朝比奈は、思わぬ話の展開に一瞬返事を躊躇ためらった。なにか胡散うさん臭さも感じる。

「ピカッ」

 カメラマンの手でフラッシュが光った。また一枚自分を撮ったようである。

「いいでしょう。お貸しする事はできませんが、その写真を持っていらっしゃったら照合ぐらいしてあげますよ」

 森田は天にも昇る心地だった。しかし功を焦ってはいけない。自分はあくまでもセレブ歯科医院の取材に来た記者である。宇田の話は偶々たまたま出た話で、今、自分がX線写真を持っているはずはない。

「そうですか。ありがとうございます。そうか・・・・・・、あの記事は来週号のはずだから、政治部は先生さえご都合が付けば今日、明日にでもお願いしたいなんて話になるかも知れないな・・・・・・。先生、ちょっと失礼して、今、担当記者に電話させていただいて宜しいでしょうか?」

「はあ、どうぞ・・・・・・」


 森田は、直ちに携帯を引っ張り出して、九段の週刊未来で待機している翔子の携帯番号をプッシュした。

「ああ、吉野さん? 社会部の森田です。実は今うちの部で『セレブの通う高級医療機関』って特集やってて、私、今その取材で一番町にある『朝比奈歯科クリニック』ってところにお邪魔してるんだけど、なんと、慧明塾の宇田取締役が、此方こちらの医院で治療してたってことが分かったのよ。貴女確か宇田取締役の歯の写真を持ってて、それが本人のものかどうか調べたいって言ってたわよね。あれってもう片付いたの?」

「********」

「そう。それじゃあ、此方こちらの先生に見ていただいたら? 此方の先生が、写真を持ってくれば照合して下さるっておっしゃってるのよ」

「********」

「え? 是非お願いします? 分かった。それじゃあ、先生の・・・・・・。何? 貴女今永田町にいるの? ・・・・・・民事党本部? ・・・・・・此処ここ? 此処は一番町。英国大使館の裏沿いの道を百メートルほど新宿通りから入った左側。今から? それはどうかしら? ちょっと待って、先生に伺ってみるから」

 森田は携帯の受話器を手で覆うと、朝比奈院長に、

「先生、担当の記者がちょうど民自党本部を出たところらしいんですが、タクシーを拾えば五分だから、今から駆けつけていいかって言ってるんですが、お願いできますでしょうか?」

 朝比奈は尤もらしくサイドボードの上の時計を見てから、

「五分ぐらいで来られるならいいですよ」

 と答えた。森田は、

「吉野さん、先生のお許しが出たから、それじゃあ大至急来て下さい」

 と言って電話を切った。

「ピカッ」

 颯太のデジカメが再び光った。


 永田町から一番町と、九段の週刊未来から一番町までは距離的にはちょうど同じぐらいである。政治部の吉野翔子記者は七分後に到着した。朝比奈院長は、翔子がテーブルに置いた偽半井靖士の下顎X線写真と、待っている間に大貫事務長に出させておいた写真を較べた。結果は素人目にも明らかだった。香港の九龍カオルーン美麗外科クリニックに残されていた男の歯型は、朝比奈歯科医院に保管されていた宇田哲哉の歯型とぴったり一致したのである。


十五分後に朝比奈歯科医院を出た週刊未来の記者三人は、無言でハイタッチを交わした。森田は携帯を取り出した。

「七時半に院長先生に取材をお願いしております週刊未来の記者ですが、突発事故で本日はどうしても伺えなくなってしまいましたので、後日改めてお時間をいただいてお邪魔したいと思いますので、折角お時間を取っていただきましたのに申し訳ございませんが、先生にそのようにお伝えいただけますでしょうか?」

 同じ電話が更に二本繰り返された。颯太はその間に神戸支店の上司である課長の木橋に電話をして、休暇を一日延長させて貰いたいと言った。


「疑惑だらけの慧明塾捜査」の特集は一週間後、来週水曜発売の週刊未来に掲載と決まった。原稿の締切は明後日である。今夜は森田記者は徹夜覚悟である。森田が書かなければならない記事は、単に昨年六月に発生した建築中のマンションから転落して死亡した男が警察の発表とは別人であり、事故ではなく殺人事件だったということだけではない。事件の三カ月前に起きたはつらつ生命二十億円引受事件。本年六月の中央火災神戸支店飲酒事故保険金支払い事件、警察の事故調書紛失、二人の消防士の行方不明事件など、書かなければならないことは山ほどある。それに一つ一つの事件の裏で起きた、官邸、金融庁、それに平山代議士などからかかった圧力など、表の事件以上に重要なトピックスが一杯ある。

暗い嫌な話ばかりではいけない。政官からの不当な干渉と、それに安易に妥協した企業トップに反撥して、このこんがらかった事件を解決した若者達の活躍も書かなくてはならない。

 颯太は明日、森田記者が書き上げた粗稿に目を通して事実関係のチェックを終えてから新幹線に乗り夕方までに神戸に帰るつもりだった。


「明日の夕方までには支店に戻れると思いますから・・・・・・」

「うん分かった。それと今朝、例の酔っぱらい運転の暴力団員から電話が入ってたぞ。俺が出て、君が休暇中だが何か用かと言ったけど『あの若い衆じゃなくちゃ分からんことだからいい』って言われちゃったよ。川嶋君は彼奴にすっかり気に入られたみたいだな、ハゝゝゝ」

 木橋は脳天気に笑った。

「ああ、ありがとうございました。彼奴は僕の携帯番号を知ってるんでこっちまで追っかけて来ました。用は済みましたから大丈夫です」

 颯太はどきっとしながら電話を切った。



4-3  切られた尻尾


 川嶋颯太は六月二十九日の木曜、午後四時少し前に神戸支店に戻ると真っ直ぐ木橋課長のところに行き、一緒に部長席に来てくれるように頼んだ。木橋は、てっきり颯太の熊本の祖母の具合が悪いのだろうと思ったが、何も聞かずに一緒に大塚部長のところに行ってやった。話はとんでもないことだった。

 川嶋颯太は熊本とは逆向きに東京に行って、一週間前にトップ決済でようやく決着がついて胸をなで下ろしたばかりの保険事故を洗い直し、事故を起こした男が、実は元々の契約者半井靖士を殺害して半井に成り済ました男だということを突き止めて帰ったというのである。成果なしに手ぶらで帰ってくれれば、颯太をこてんぱんに叱ることで話は済むが、保険金搾取を証明してしまったとなると話は厄介である。しかもその話が、来週水曜発売の週刊誌に載り、そこには警察の事故調書がなくなったこと、証人になることを約束してくれた消防士が二名行方不明になったことまで書かれると言う。それだけではない。金融庁経由、官邸からの圧力があったり、平山代議士から横車が入ったりした結果、どう見ても飲酒事故の保険金をトップの指示で支払うと決めたことまで全部書かれると言うのである。大塚も木橋も頭を抱えた。その記事が出た時に神戸支店はどういう立場に置かれるのか?自分達は上から何を言われるのか?


【 飲酒運転であることの証明ができなかったのだから、保険金支払いの決定は正当だったと強弁できるのではないか? いや待てよ。その前に、神戸支店は事故を起こした男が本当の契約者ではないことを知り得る立場になかったのだし・・・・・・いや、そうは言えないか・・・・・・契約はその男がしていたのだから契約者本人なのか? しかし契約は他人の名前でしていたのだから無効なのか? それとも第三者のための契約として有効なんだろうか? いや、ちょっと待てよ、その契約は東京で使っていた車の入れ替えで、前車の無事故実績を継承している。しかも前車の契約者と、入れ替え後の契約者とは、契約者名は同じだが、乗る人間は別の人間だったということになる。ということは無事故実績は他人のもので継承はできないんだから契約自体が無効なんじゃないか?】

 部長の大塚芳夫も課長の木橋邦克も頭の中がこんがらかって問題点の整理がつかなかった。木橋は、こんがらかればこんがらかるほど腹が立ってきた。はっきりしているのは、颯太が熊本のお婆さんの介護に行くと言いながら東京に行ってこんなことをしていたことである。

「そもそもお前は熊本のお婆さんの介・・・・・・」

「そんなことは今はいい!」

 さすがに大塚部長が怒鳴りつけた。木橋は自分が部長に怒鳴られたことにびっくりした。

【 怒る相手は俺じゃないじゃないか!】

 しかし言われてみればそのとおり。今はそれどころではないはずだ。もっと大変なことが起こりつつあるようだがそれがなんだかよく分からないのだ。よく分からないから余計に腹が立つ。一番腹が立つのは此奴のしたことが悪かったのか悪くなかったのかがよく分からないことである。熊本の婆さん以外に何が悪かったのか?

「お前の正義感は正しいよ。でも正しいことをしようとしてたんだから、そんな姑息な嘘をつかずにちゃんと俺に話して行けばよかったじゃないか」と言いたいのは山々だが、さすがにそんな白々しいことは言えない。そんなことを言われて、OKを言えるような度胸が自分にないことは木橋自身が一番よく知っていた。

【 だから俺が部長から怒鳴られることになっちまうじゃないか。畜生!】

 木橋がハッと気がつくと、大塚部長は席を立って、デスクのインジケータをチェックしている。部長デスクには役員の状況を示すインジケータが載っている。

「おい、支店長は一人だぞ。行こう」

 週刊誌が出れば、社長にも日下専務にも直ちに知られる話である。部長の大塚が真っ先に考えたのは、竹川支店長から事前にトップの耳に入れておいて貰うことだった。それに、この時点ですぐに保険金支払いの方針を変更すべきかどうかも自分達の判断でやりたくはなかった。そうは言っても神戸ヤマセは中央火災が保険金支払いに応じると言ったので安心して高額の修理を進めている。この上間違った事後処理をやったら自分の出世はここまでである。ここはどうしてもすべての対応を竹川支店長の指示の下でやっておいたほうが無難である。


 支店長室に入った颯太は、吉野翔子と森田記者が香港で偽半井のX線写真を入手したところからいきなり話を始めた。大塚が苛々した様子でそれを遮った。

「おい川嶋君。支店長は君が半井の事件を週刊誌の記者と手を組んで洗ってたなんて全くご存じないんだから、君がTMDをチェックしたこととか、週刊未来に問い合わせたこととか、その辺からちゃんとご説明しないと分からないじゃないか」

 それを竹川が手で制した。

「いや、俺はその辺は全部知ってるんだ。川嶋君が東京でリックや三軒茶屋の歯医者を訪ねて、去年の夏にビルから落ちて死んだ男が半井だってことを突き止めた辺までは知ってるんだ。もちろん、その転落死ではつらつ生命が二十億円騙し取られていることも聞いてる。だから香港の結果辺りから聞かせて貰えばいい」

 大塚と木橋が口をあんぐり開けた。暫くは颯太に対する怒りも忘れた。その顔を見て竹川が苦笑しながら言った。

「いや、君たちには済まんが、俺はこの前の自動車事故はどう考えても不可解なところが多すぎるから、川嶋君にここに来て貰ってもっと詳しい話を聞かせて貰ったんだ。そうしたら、状況証拠に過ぎないけど色々おかしいことが見えてきたから、俺から川嶋君にもう少し突っ込んで調べてくれと言って頼んだんだ」

 大塚も木橋も支店長の話をそのまま信じてよいのかどうか分かりかねて、支店長と颯太の顔を交互に見較べた。彼らも馬鹿ではない。颯太が、

「支店長・・・・・・」

 と言ったまま自分達より大きく口をあんぐり開けているのを見て、大体の事情は理解した。だからといって「支店長、それは順番が逆でしょう。川嶋が自分達を飛び越えて支店長に直訴したんでしょう」などと言っても、却って支店長からどやしつけられるに決まっている。竹川はこの様子に、

「まあ、そんなことはどうでもいい。先を聞かせてくれ」

 と颯太を促した。

 颯太の報告が終わると竹川は暫く黙って颯太の顔を見つめていた。木橋が勘違いした。

「支店長、管理不行き届きで申し訳ありません。私はすっかり川嶋が熊本に・・・・・・」

「馬鹿者! 川嶋君が正直に『あの事件を掘り返しに行く』と言ったら、君達はOKを出せたのか? 川嶋君に休暇を取らせたのも僕が頼んだことなんだよ。君達には悪かったけど、もう少しはっきりするまでは極秘で、君たちにも聞かさずにやってくれって指示したんだ。君達に川嶋君の気概の半分でもあれば、川嶋君も熊本なんて言わずに済んだんじゃないか。当社の体質がそういう体質だったら本社の調査員を動員して調べることで、週刊未来まで引きずり込まずに済んだかも知れないんだよ」

 木橋は三十分の間に二度上司から怒鳴られた。会社に入って二十五年にして初めてのことである。竹川は川嶋に向かってニヤリとした。

「おう、君はなかなか突っ込みが良いとは思ってたが、短時日でよくそこまで調べあげたなあ。驚いたよ。ありがとう。さあしかし、こう一気に解決されちゃって、それが全部週刊誌に出るとなるとなあ・・・・・・。俺もそこまではまだ考えてなかったからなあ。まあいいさ。変に時間的余裕があるとまた本店が週刊誌を押さえ込もうとしたりして問題をこじらせかねないからな。今度のことだって、あんな酔っぱらい運転を、当社が敢然と受けて立って闘っていれば、来週週刊誌で表沙汰になっても世間は当社を『格好好い会社』と思うだけで、当社にとってプラスにこそなれ、拙いことなんか何一つなかったはずなんだ。事実は事実としておくのが一番良いんだよ。よし分かった。後は俺に任せておいてくれ」

【 支店長は、俺のやったことを全部自分が指示したことにして責任を取る気なんじゃないか?】

 颯太は胸がじんと熱くなるのを覚えた。しかしそんなことはさせておくわけにいかない。

「支店長。僕は支店長のお耳には入れていましたが、飽くまでも個人の興味でやった調査で、会社の業務としてやったんじゃないんです。支店長もおっしゃってるじゃないですか『事実は事実としておくのが一番良いんだ』って。僕が勝手にやったことを支店長が被って下さるのは止めにして下さい。万一会社を困らせる事態になったら、自分の尻ぐらいは自分で拭けます」

「アハハハ、そうはいかんよ。若い者に付けを押しつけるほど俺も耄碌しちゃいないよ。まあ今から取り越し苦労はしないで、そうなったらなった時に考えようか」

「支店長。このことを事前に本店に伝えておかなくていいでしょうか?」

 大塚が恐る恐るいた。

「なんのために? 間違ったことが週刊誌に載るって言うなら別だが、事実が載るだけなんだからいいじゃないか。本店に話せば、茶坊主どもが記事を押さえようとしてじたばたやるだろう。下手に事前にを打とうなんて姑息なことはさせないほうがいい」

 竹川は「なんてつまらないことに気を遣うんだ?」と呆れた眼差しを大塚に送ったが、すぐに颯太に視線を戻した。

「おい川嶋君、君、今帰ってきたんだろう? 今日は何か用があるのか? よかったら祝杯を挙げに行こうか」

「ありがとうございます。腹ぺこです」

 言いながら颯太は翔子のことが気になっていた。

【 俺は球磨の熊だ。自分で自分の尻を拭くぐらいは平気だが、翔子さんはどうなるんだろう? やっぱり翔子さんを巻き添えにするんじゃなかった。】


      ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 七月四日の昼前、森田記者は翌朝全国の駅の売店に並ぶ週刊未来七月五日号三冊と香港で入手したX線写真のコピー、三軒茶屋の歯科医から入手した借り受け証のコピーを携えて愛宕警察を訪れた。表紙には特集記事のタイトルが踊っている。

 

        特集 疑惑だらけの慧明塾捜査

      タミフル飛び降り事故の宇田取締役は生きていた!


 記事は昨年三月のはつらつ生命二十億円生保契約引き受けから始まり、この一カ月間に神戸で起きた中央火災と暴力団男性との攻防を具体的な調査結果に基づいて書いており、二ページ目には手術前、手術後の宇田哲哉の顔写真を並べて掲載している。これまでの「・・・・・・という噂もある」「・・・・・・のようだ」「・・・・・・とされる」ずくめの記事と違いど迫力があった。

しかし、一つだけ森田が意図的に伏せておいたことがあった。それは半井靖士が死亡する数日前に「関西のどこかの消費者金融に破格の条件で引っ張られている」と言って、突然リックに退職を申し出たことと、退職金を受け取りに来た時に長年の髭を剃っていたことである。森田にとって蜥蜴の尻尾などはどうでも良かった。狙っているのは蜥蜴の頭である。彼女は蜥蜴の頭と尻尾を結びつけるリンクを一つだけ隠しておいたのである。


 同じ日の夜八時、颯太は清塚の携帯に電話を入れた。

「川嶋です。すべてはっきりしました。宇田哲哉はやはり生きていて神戸にいます。詳しいことは明日発売になる週刊未来に出ますからそれを見て下さい」

 と清塚との約束を果たすために最少のことだけを話し、挨拶もなしに電話を切った。颯太も、切れた蜥蜴の尻尾が未練たらしくぴくぴく動くのなど見たくはなかった。


 その晩十一時、宇田哲哉(偽半井)が神戸市須磨区須磨寺のマンションにタクシーで帰ってきたところを数名の男達が取り囲んだ。男達は、宇田と、宇田と同居する半井由美の両名に須磨署への任意同行を求め、二人は別々のパトカーに押し込まれた。その姿はマンションの前で待機していた週刊未来と同系列のテレビ会社であるテレビ未来のカメラにしっかり捉えられた。半井由美は二歳の娘半井莉奈りなを連れていた。

 不思議だったのは、タクシーから宇田と一緒に赤城弁護士が降り立ったことである。またマンション入り口のインターフォンからの赤城の呼びかけに応えて、半井由美が、あたかもこの迎えを予期して準備していたように数分で出て来たことである。手には、小旅行にでも出かけるような旅行鞄さえ持っていた。

 翌朝、宇田哲哉と半井由美の両名に対して逮捕状が執行された。宇田哲哉の逮捕理由は生命保険金搾取、及び他人の健康保険証を不正に使用した健康保険法違反の容疑である。半井由美は生命保険金搾取及び健康保険法違反幇助容疑だった。同時に神奈川県茅ヶ崎市在住の宇田さつきも生命保険金搾取容疑で逮捕された。


 三日の拘留後、三人は容疑が固まったとしてスピード送検された。この日警視庁記者クラブで警視庁刑事部次長と愛宕警察署長が出席して捜査結果の発表があった。それによると宇田哲哉の逮捕後の主張は、


 1,宇田哲哉は〇四年ごろから妻さつきと別居状況にあり、二人の間には離婚問   題が持ち上がっていた。

 2,同じ頃から宇田哲哉は従兄弟、半井靖士の妻、半井由美と関係ができ、〇四   年三月には二人の間に娘ができたが、半井由美はその子を半井靖士の長女と   して出生届を出した。

 3,半井靖士は勤務していた消費者金融リックが閉鎖されることが決まったこと   から将来に不安を感じ〇五年春ごろから鬱を発症し、自殺を考えるように    なった。宇田は従兄弟に「本当にやる気があるなら自殺指南のプロを紹介す   るぞ」と言って、仕事の関係で知っていた関西の暴力団関係者を紹介して    やった。数日後、その暴力団関係者から「委細引き受けた」と連絡があった   ので、宇田は、半井の容貌が自分とよく似ていることから、死んだのが自分   であるように見せかけて自分の生命保険契約を騙し取ることを思いつき、そ   の暴力団関係者に「自殺を手伝うなら、自殺ではなく事故死に見えるように   して欲しい。また死んだのが半井ではなく、自分だと思われるようにして欲   しい」と頼んだところ、「半井靖士が死んだ後、本人確認のために半井の歯   型X線写真を入手することは可能か?」と聞かれたので「それは可能だ」と   答えた。

 4,数日後、その男から、

  ①  二〇〇五年六月二十四日の夕方四時に、宇田哲哉は八重洲地下街にある     コーヒーショップに宇田本人の運転免許証、慧明塾社員証、名刺などを     入れたセ カンドバッグをチェアの上に置き忘れること。

   ②  半井靖士は六月二十六日の夜、都内の建設中ビルで転落死する。

    警察から宇田哲哉の妻、宇田さつきに遺体確認の要請が来たら、半井靖     士の歯形X線写真を入手して、それを宇田哲哉のものとして警察に提出     すること。

  ③  宇田哲哉自身は、半井靖士のパスポートを使って六月二十六日の朝、成     田から出国し香港で半井に似せるために必要な整形手術を受け、顎髭を     伸ばしてから帰国すること。

  という三点の指示を受け、すべてそのとおり実行した。

 5,六月二十七日の朝、宇田さつきは警察から「宇田哲哉と思われる男性が建設   中のビルから転落ししたから遺体の確認に来て欲しい」という連絡を受け、   宇田哲哉の従兄弟の妻、半井由美に付き添われて霊安室に行き、遺体が宇田   哲哉のものであると証言した。また半井由美が、半井靖士が生前にかかって   いた歯科医から取り寄せた歯型のX線写真を宇田哲哉のものと言って警察に   提出した。

 6,宇田さつきは警察が「事故死」の結論を出すのを待って宇田哲哉を被保険者   とする二十億円の生命保険金を保険会社から受け取った。宇田哲也はこの中   から宇田さつきと半井由美にそれぞれ各一億五千万円ずつを渡し、残る十七   億円の中から五千万円を暴力団関係者に渡した。

 7,宇田哲哉は帰国後、半井由美と一緒に神戸に引っ越し、半井靖士の名前で神   戸の企業(川崎組系企業舎弟)で働いていた。


 以上である。つまり宇田の主張は「自分は自殺願望の従兄弟に神戸の暴力団関係者を紹介しただけで、実際に半井が自殺だったのか事故だったのか、あるいは殺されたのかは知らない。後は、それに便乗して保険金を搾取しただけだ」というものである。

 これに対する警察の見解は、

「当初、愛宕署が宇田さつき及び半井由美の提出したX線写真に騙されて、転落死したのが宇田哲哉であると誤って断定したことは甚だ遺憾ではございますが、現場には自殺、または事件を疑わせるような痕跡がなかったことから誠にやむを得ないミスであり、捜査に手違いはなかったものと考えております。

 再鑑定の結果、転落死したのが半井靖士氏であったことが確認され、警察としては半井氏が殺害され、その殺害に宇田哲哉が関与している可能性があると判断して慎重に再捜査いたしましたが、その結果でも、半井靖士氏が殺害されたと結論づけるに足る物的証拠は発見されず、当初の結論どおり、単純事故であった可能性を否定できませんでした。この状況に鑑み、宇田哲哉については疑わしきは罰せずで殺人容疑での送検は見送りました」

 締めくくりを話したのは刑事部次長である。全国各地で、誘導された自白のみでの犯罪捏造ねつぞうが続いている日本の警察にも、一部には良心的な警察官が残っていたようである。


 最前列で夕刊未来の記者が手を挙げた。

「慧明塾は従来から政界との癒着が取りざたされていますが、宇田哲哉が川崎組の企業舎弟に匿われていたのは政界関係者の仲介によるものではなかったんでしょうか? 宇田は以前から直接暴力団幹部とパイプを持っていたのでしょうか?」

「宇田哲哉は、この暴力団幹部を慧明塾の関係で以前から知っていたと言っておりますが、具体的個人名は話しておりませんので確認は取れておりません。また本事件で政界関係者の関与を疑わせるうような事実は一切見つかっておりません」

 蜥蜴の頭は無事藪の中に逃げ込んだかに見えた。しかし警察のこの対応は森田記者の読み筋だった。


   故意か杜撰ずさんか? 謎だらけの慧明塾捜査

     警察はこれだけの証拠を何故見落としたか?


 三日後に発刊された週刊未来七月十二日号は、前週の特集をフォローアップして重大な事実を暴露した。前号で森田が伏せておいた「半井靖士がリックを退職する前後の行動」である。森田はこの記事で、

  半井靖士は警察の死亡推定日、六月二十六日の四日前に「関西方面の会社から破格の条件で引っ張られた」と言って突然勤務先のリックに退職を申し出て、二日後の二十四日に退職金を取りに来た時には永年の髭を「今度行く会社から剃ってくるように言われた」と言って剃り落としていたのである。しかも宇田哲哉は半井靖の転落直前に半井のパスポートを使って出国し、香港で整形手術をして髭まで伸ばして帰国している。それでも警察は「宇田哲哉が半井靖士殺害に関与した嫌疑は不十分で、半井靖士は事故死だ」と言うがこれが自殺する男が自殺の二日前にする行動だろうか?


 と鋭く追究した。

 度重なるすっぱ抜き記事に警察は激怒したが、これだけの事実を突きつけられては「疑わしきは罰せず」で逃げることはできない。発刊の日、模範刑事部次長は「指摘された事実の確認を急いでいる」と発表した。


 宇田は、それでもしぶとく半井靖士殺害を認めようとしなかった。実際のところ、酔い潰れた上タミフルを飲まされた従兄弟を、まだ手摺りの付いていない建設中ビルの最上階に連れて行って投げ落としたのは彼自身ではない。

 宇田自身は、事件の数日前に矢部事務所の平田秘書から「慧明塾疑惑が沈静化するまで、お前には高給で仕事を斡旋するから、暫く姿を眩ましていろ。具体的には、近く俺の知人だと言って関西のさる筋の男からお前のところに電話があるはずだから、一切彼の指示に従うように」と言われ、実際その翌日に関西の「さる筋の男」から電話を受け、計画のあらましを伝えられ、「お前自身の代わりに消えて貰いたい男は?」と聞かれたので、以前から肉体関係を持っていた半井由美の夫で、よく自分とそっくりだと言われる従兄弟の半井靖士を「身代わり候補」として推薦しただけである。宇田がその計画に生命保険金搾取を絡ませることを思いついたのも実にその時のことで、その後、彼が実行したことといっては、逮捕された後警察に話したことがすべてである。もちろん、その「さる筋」が誰かは彼も推察はしていたが何一つ証拠はない。矢部事務所の関与を匂わすようなことはこれっぱかしも口にはできない。

そして香港に着いた後、半井由美から夫、半井靖士の事故死を知らされた時に、墜落死した建設中のマンションが慧明塾光中代表の取り巻き企業の一つ、穴沢工務店が施工しているものだと聞いてハハンと思ったものである。穴沢工務店社長、穴沢貞樹さだきの娘が結婚した時の仲人は矢部総理であり、穴沢が周囲に自慢できることといったらそれぐらいしかない。穴沢にとって矢部総理の失脚は矢部本人以上に致命的損害である。もちろん宇田は、何故その工事現場のゲートが事故が起きた時に施錠されてなかったのかなど知るよしもない。

 宇田は、自分が犯した罪はせいぜいのところ「保険金詐欺」だという主張を頑固に変えなかった。これが宇田が逮捕された後、関西畜産の糸山社長が派遣してきた赤木弁護士から伝えられた「さる筋からの命令」なのである。宇田自身もこんな説明が通用するかどうか半信半疑だったが、矢部事務所には「危い書類はすべて厳重に封をして弁護士に預けて、自分に万一のことがあったときはどうしたらいいかすべて指示してある」と嚙ましてある。よもや自分を蜥蜴の尻尾扱いにはできないはずである。

 しかしその判断は甘かった。週刊未来の追加記事が出た二日後、宇田哲哉は拘置所で首つり自殺をしたのである。それは警察の発表で「自殺」となっていただけで真実は誰にも分からない。その日、宇田との打ち合わせに来ていた赤木弁護士は、打ち合わせが終わって、見張りの警官に声をかけたが誰も出て来ないのでそのまま帰ったと言う。見張りの警官は、宇田が弁護士と面会中だったことを忘れていて、二時間後にチェックに行ったら、宇田は格子窓に、繋いだ二本のタオルを掛けて首を吊っていたと言うのである。

 宇田が命綱と思っていた書類は、どこをどう経由したのか、すべて赤木弁護士の事務所に保管されていた。



エピローグ


 週刊未来の二回に亘る爆弾特集で世間は騒然となり、中央火災海上の中はその話で持ちきりになった。本店トップはマスコミ各社からの問い合わせに対し、神戸の自動車保険金支払いで金融庁からの働きかけがあったことを否定した。

 マスコミは神戸支店の担当ラインを取材した。竹川支店長は、

「日下専務が電話で『金融庁検査部長から問い合わせがあった』と言ったのも『元々は官邸から出た話らしい』と言ったのも、専務が社長と打ち合わせの上で、『支払いに応じるように』と指示してきたのも事実だが、このところ当社も色々あって本店トップは多忙だから、こんな些末さまつな事件は覚えていないのでしょう」

 と答えた。また大塚部長は「一切お答えできません。本店広報部にいて欲しい」と答え、木橋課長は「一切記憶にない」と答えた。

 本店トップと現地トップの言っていることが真っ向対立したのである。翌日、日銀記者クラブで広報部長は「詳細な事実関係は近く社内に調査委員会を立ち上げて調査するが、現時点ではそのような連絡が金融庁から担当専務のところにあったという事実は確認されていない」と発表した。歯切れの悪さは否めなかった。

 マスコミ各社は、兵庫県警と兵庫県消防本部にも殺到した。県警交通課長は記者達の質問に対し、しらっと答えた。

「ああ、あの書類なら週刊未来の記事が出た後、全員で署内を徹底的に探したら出てきましたよ。ロッカーとロッカーの間の隙間に落ちてたんです。・・・・・・ ええ、飲酒運転です。・・・・・・ 本人に対する処分ですか? しかし本人が死亡してますからね」

 実に紛失から一カ月ぶりの発見である。誠に「物質不滅」である。

兵庫県消防本部のほうは総務部長が、

「友田消防士は成績が優秀なので、消防庁のほうに研修出向させております。梅木消防士も県内の他の消防署で通常に勤務しております。・・・・・・ は? いや、隠したわけでもなんでもありません。通常の転勤です。職員の勤務場所については、個人情報でもありますから外部からのお問い合わせには原則としてお答えしておりません」

 と説明した。


中央火災とはつらつ生命を傘下に持つセンチュリー・ホールディングスは外部弁護士を入れた「事実調査委員会」を立ち上げた。調査委員会は、まず、はつらつ生命の高額保険引き受け経緯から検討を始めた。初めにヒヤリングしたのは、「金融庁次長からの電話を受けた」と週刊誌に書かれた当時の副社長、川喜多である。既に副社長を退任して今は監査役に就任している川喜多は二十億円事件について、

「当時は生保の不払い問題などで金融庁からは毎日電話が入っていた。そんな中で、そのような話があったのかも知れないが、はっきりとは覚えていない」

 と言った。次ぎに呼ばれたのは、川喜多に保険金額引き下げ交渉の経緯を報告をした業務部長の高瀬伸夫である。高瀬は取締役業務部長に昇格していた。高瀬も、

「その件で金融庁から問い合わせがあったという記憶は定かにはない」

 と一応否定した。これに対し、二人に続いて委員会に呼ばれた審査課長の大杉洋は、

「事実はすべてこの中に書いてあります。これに付け加えることは何もありません」

 と言って、A四、数ページのメモを提出した。昨年三月、川喜多副社長の「形ばかりでいいから、何か条件を付けて二十億円で引き受けるように」という結論が下ろされた時に、大杉が翔子に指示して残させた詳細な経緯メモである。メモにはもちろん川喜多の言葉がそのまま残されていた。

 当時の引受経緯が週刊誌の報道どおりだったことに疑いの余地はなかった。しかし官邸はもちろん、金融庁も「生保の個別契約引受で注文を付けることなどあり得ない」と全面否定している。保険金不払い件数はその後も増え続けており、はつらつ生命が金融庁に抑えられている人質の人数は増え続けているのである。

 二週間後に、センチュリー・ホールディングスの取締役会に提出された調査報告書では、

「金融庁からは一般論として引き受け基準についての問い合わせはあったかも知れないが、当該個別契約についての問い合わせや要請があったということを裏付ける証拠は担当者レベルのメモ以外には何もなかった。

 しかし契約引受時点では契約者自身も保険金搾取を考えていたわけではないのだし、二十億円という金額も当社基準からして引き受けられない金額ではなかったのだから、引受自体にはなんら問題はない。

 従って、仮に金融庁からなんらかの問い合わせがあったとしても、それが当社の引き受けに影響を及ぼしたとは考えられない」

 というものだった。委員会は、吉野翔子が個別案件の引受経緯を週刊誌に漏らしたことについては一切追及することなく解散した。大杉が提出したメモが委員会を沈黙させるのに役立ったことは言うまでもない。翔子は昨年、大杉が「正確に記録を残しておいてくれ。いつか役立つよ」と指示したことの賢明さに感謝した。


 はつらつ生命の調査結果発表に遅れること二週間、調査委員会は中央火災神戸支店の自動車保険事故処理経緯についても調査結果を公表した。結論は短く、

「関係者の記憶は区々まちまちだが、金融庁からの働きかけがあったことを示す客観的証拠はない」

 というものだった。しかし担当者川嶋颯太は、「飲酒運転だと確信していたが、政・官の圧力に屈して有責処理をした」と週刊誌に話してしまったのだし、竹川支店長も颯太の話を全面的に裏書きしているのである。この本支店間のやりとりについては、はつらつ生命審査課が残していたような記録は何もなかった。

 今ごろになって出て来た警察の事故調査書には「救急搬送のため呼気テスト実施せず。強いアルコール臭。呂律回らず。酩酊」と書かれている。となると「飲酒運転と分かっている事故に対し約款に反して保険金を支払った」という保険業法違反の事実だけが残ってしまう。この点は、はつらつ生命のように「なんら問題はない」で済ますわけにはいかず誰かが責任をとらなければならない。しかし調査委員会が「政治的圧力があった証拠はない」という結論を出したのだから、本店トップは事件に関与していなかったことになり、付けは現地に回ってくるしかなかった。

 一カ月後、竹川支店長は常務取締役を解かれて本店顧問。大塚部長、木橋課長は厳重注意、減給十分の一、一カ月。川嶋颯太主任は譴責、減給十分の一、二カ月の処分が伝えられた。

 調査委員会の報告の中で、中央火災の運用担当専務、岩田貴一が行なったORIに対する一億円のベンチャー投資のことなど一言も触れられてなかったのは言うまでもない。


      ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 処分発表の翌日、颯太は依願退職届を木橋課長に提出した。大塚も木橋も、自分達は暴走族川嶋のとばっちりを受けたとしか思っていなかったが、それにも拘わらず必死で颯太を慰留しようとした。彼らは、颯太の退職がマスコミに漏れたら、折角収まりかけた世間の中央火災バッシングがぶり返すのではないかと心配したのである。そうなれば、今度は自分たちがまともに寒風に身を曝すことになる。二人は、

「支店長から川嶋を慰留して下さい」

 と言って退職届を支店長室に持って行った。しかし竹川は、

「川嶋は当社うちみたいなケツの穴の小さい会社に居る必要はないよ。どこに行っても立派に活躍できる男なんだから、本人が辞めたいというのなら辞めさせてやればいいじゃないか」

 とケロリとして退職届を受理してしまった。


その晩、竹川はもう一度颯太を食事に誘った。居酒屋で向かい合った竹川に颯太は、

「僕の軽率な行動で支店長のご栄進を台無しにしてしまい、なんとお詫びを申しあげたらいいのか・・・・・・」

と言って深々と頭を下げた。これに対して竹川が言ったのは、

「俺はこんな性格だ。こんな男を会社はよくぞ常務にまでしてくれたと思ってるよ。しかし当社じゃ元々俺みたいな男はこの辺までが限界なんだから、何も気にすることはない。実は俺は前から、退任したら小説を書きたいと思ってたんだが、顧問なんて、何もしないでも一応給料はくれるって言うんだから、素人が小説を書くにはこんなに恵まれた環境はないじゃないか。君に感謝したいぐらいだよ。それに、今度の一連の事件は小説のネタとしちゃ最高だよ。どうだ『証拠隠滅』なんてタイトルは? さあ、君の将来と俺の処女作に乾杯だ」

「ありがとうございます。乾杯の前に支店長に・・・・・・」

「おいおい、俺はもう支店長じゃなくてただの新米作家だぞ。そのうち新進作家ぐらいにはなりたいけどな。まあ今のところは竹川さんぐらいにしといてくれよ。それで?」

「はい、竹川さんに二つご報告があるんです。一つは、支店長・・・・・・じゃなくて、竹川さんが口には出さないでおられますが、僕の再就職先の心配をして下さってるのは分かっています。それがもう決まっちゃったんです」

「ほう早いじゃないか。まさか前から辞める気で準備してたんじゃないんだろう?」

「いやそうじゃないんです。ほんの数時間前に決まったばかりなんです」


 その日、颯太が退職届を出し、ペンディングの案件を木橋課長に渡してデスクの引き出しを片づけ始めているところに電話が入った。間もなく昼休みの時間である。電話は週刊未来の森田記者からだった。

 二本の特集記事は週刊未来でも数年に一度の大ヒットになり、彼女はこの記事でえある社長表彰を受けた。しかし彼女には忸怩じくじたるものがあった。それは川嶋颯太と吉野翔子という二人の若者が、若さの血気で突っ走るのを上手く利用してこの世紀のスクープを書いたのではないかという思いがあったからである。二人が若々しい正義感から行なったことには何一つ間違いはない。その結果森田が知り得たことを世間に知らしめることは、ジャーナリストとしての彼女の使命でもある。しかし一流金融機関の鉄の組織というものがそんなに生易しいものではないことは、ベテラン記者の森田のほうが若い二人よりは分かっていたはずである。

前日、日銀記者クラブで開かれたセンチュリー・ホールディングスの記者発表では、非管理職の処分までは発表されなかった。森田はすぐに吉野翔子に電話をして、翔子についてはお咎めなしだったが、川嶋颯太には譴責と減給の処分があったことを聞いた。翔子は、

「マスコミに社内のことを勝手に話したって意味では、私も颯太君と同罪なのに、彼だけ処分されるなんて、当社の男女差別の裏返しに過ぎないんで、私としては侮辱されたような気もするんですが、そんなことより、颯太君の性格だと黙って処分を受けるはずはないから心配してたら、やっぱり会社を飛び出しちゃうみたいなんです。彼どうするつもりなんでしょう? あんなに大食らいなのに」

 と付け加えた。

 森田は会社に戻ると真っすぐに編集局長のところに行った。週刊未来の社長表彰規定では表彰される者には二十万円と特別休暇二週間、または本人の希望するそれに相応する報償が与えられることになっている。森田はどちらにするか答えを保留していたが今その答えが見つかった。森田が編集局長に言った希望の品は、

「半年間フリーで蜥蜴の頭を追いかけさせて欲しい。それと、そのために自分の希望するアシスタントを一人記者として採用して欲しい」

 というものだった。局長は目を白黒させたが直ちに社長室に上がって行った。社長のOKは翌日森田に伝えられた。但し、

「そのアシスタントを記者として正式に採用するかどうかは、半年間の試用期間後に決める」

 という条件付きだった。


「という次第なんだけど、君なら絶対大丈夫。私が徹底的にしごいたら半年で間違いなく一人前の記者になれるから。どう、私と一緒にやってみない? 切れた尻尾だけ捕まえたってつまらないじゃない。頭を押さえようよ、頭を」

颯太の返事が一瞬遅れたのは感激で声が詰まったからである。

「森田さん、本当に僕なんか使ってくれるんですか? すげえ! 僕は本当は学生時代からマスコミに憧れてたんですよ」

「よかった。それじゃあ決まりね。あっ、だけど覚悟しといて。半年間はお給料は正規の八掛けだし、正規の記者になってからも中央火災よりうんと低いわよ。でも給料が安いといいこともあるかもよ。お腹を空かした球磨の熊さんなんて結構可愛いくて、『私が飼いたい』なんて美女が現れるかもよ」

 森田は意味深に言って電話を切った。


「・・・・・・と言うことなんです」

 聞いていた竹川は颯太以上に顔を輝かせた。

「それは良かった。凄いじゃないか。そうか。と言うことは小説家とジャーナリストの違いはあるけど、物書きと言うことじゃ君と俺と同時新米スタートだな。よおし、俺も負けないぞ。それで? 何かもう一つ良い話があるって言ったな。だけどその前にまずは一杯目をやろうか」

「はい」

 二人はジョッキをガツンとぶつけると一気に半分ほどを呑んだ。颯太が続けた。

「それでもう一つの話なんですが・・・・・・」

「うん、吉野翔子のことだろう? 聞かせろよ」

「あれっ、竹川さん分かっちゃいましたか?」

「そんなことも分からないで小説家になれるかって言うんだよ。早く聞かせろよ」


森田記者との電話を切ると、颯太はすぐに翔子にかけた。

「俺、やっぱり会社に残る気なくって退職届出しちゃったんだけど、そうしたらたった今森田さんから電話が来て、週刊未来で働かないかってお誘いがあったんだよ」

「そう、よかったわねえ。実は森田さんが昨日電話くれて、颯太君と私の処分がどうなったか心配してくれてたのよ。その時私が颯太君の処分のこと話したら、彼女『そうか・・・・・・未来グループは給料が安いからなあ』なんて言ってたから『あれっ、なんか考えてるのかな?』とは思ってたんだけど、ありがたいわね。凄いじゃない、ジャーナリストなんて格好いいなあ。私が代わりたいぐらい。それでその話受けることにしたんでしょ?」

「うん、もちろん大感謝で受けることにしたよ。だけど翔子さん、ひょっとして翔子さんは球磨の熊がお腹空かせたら何をしでかすか分からないって心配してくれてたんじゃない?」

「そりゃあそうよ。なにしろ球磨の熊さんは大食らいで大酒のみだからなあ」

「それは翔子さんにだけは言われたくないな」

「ハゝゝゝ、ねえ颯太君、よかったら同じ釜の飯食わない? 一人より二人のほうが安上がりよ」

「うん実は翔子さんにそれを頼もうと思って電話したんだ。ねえ翔子さん結婚してくれる?」

「うん、颯太君さえよければね」

「ありがとう翔子さん。いいに決まってるじゃないか」

 颯太の声が詰まったのはこの日二度目である。

「こっちも『ありがとう』よ。私、貴男が会社辞めるんだったらこの話は私のほうから切り出すつもりだったんだけど、正直なところ、颯太君に『考えときます』なんて言われちゃうんじゃないかと思って自信なかったんだ」

 颯太は呆気にとられた。翔子は男勝りの勝ち気で、男の集団の中で肩肘張って頑張っている。社内の若い男性の中には、「彼女あいつはかなり男性的だからなあ・・・・・・」などと言う者もいる。しかし颯太は、そう言う連中の多くが、翔子を高嶺の花と思って強がりを言っているだけであることを知っていた。翔子は確かに女っぽく見られることを嫌って、身のこなしなども直線的であり、一見中性的に見られるが、翔子と四年間席を並べた颯太は、彼女がどんなに優しい暖かさを持った女性であるかよく知っていた。社内で彼女を「ひょっとすれば手の届く花」と思うぐらいの自信のある独身男性にとっては抜群の人気度の女性である。颯太も自分だってチャンスはあるぐらいには思っていたが、自信を持つにはあまりにも強敵がひしめいていた。

【 その翔子が自分のことをパートナーとして考えていてくれて、しかも必ずしも自信がなかったとは!】

 分からないのは女心である。颯太が感慨に耽っていると翔子らしいパンチが飛んできた。

「いいか? 掃除、洗濯、炊事全部半々だぞ。それから多分、当分は私のほうがかなり高給取りだろうけど生活費は割り勘だぞ」

「はい、全ておおせのとおりで結構です」

 颯太には、翔子の言葉が経済的に劣後する颯太に対する配慮であることが痛いほど分かっている。こういう優しさがこたえられないのだ。

「よし、それじゃあ私と結婚しなさい。ねえ颯太君、早く東京においでよ。早く来ないと気が変わっちゃうかもよ」

「分かった分かった。すっ飛んでいくよ。って言っても、寮の荷物を纏めなくちゃいけないから早くて明後日かな?」

「OK。それじゃあ一緒に住むところの候補をいくつか探しとくから、今度の週末に見に行こう」

「うん。それじゃあいつ着くか分かったら電話する」


「・・・・・・ってなわけなんです。吉野翔子っていうのは、僕の一年先輩の総合職で、今、はつらつ生命に出向している人なんです」

「うん、週刊誌が美人戦士って書いてたのが彼女だろう? いい掴まえたなあ。これで薄給も解決か? 最高だね。じゃ今度は吉野翔子に乾杯といくか?」

「はい、それと支店長・・・・・・じゃない、竹川先生の処女作『証拠隠滅』に乾杯!」


                    「証拠隠滅」下巻 了

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証拠隠滅 志摩 峻 @shun0908

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