中巻「ベンチャーの星」

「証拠隠滅」中巻 目次

 主な登場機関と人物

 第2部  ベンチャー企業

  2-1  起業

  2-2  ベンチャーの星

  第3部 暗転

   3-1  見捨てた銀行

  3-2  生命(いのち)の値段

  3-3  墜ちた星



主な登場機関と人物

 中央火災海上保険株式会社関係者

日下くさか 大輝たいき 損外部門統括専務取締役

 竹川 荘郎まさお      常務取締役、神戸支店長

  大塚 芳夫            神戸支店損害サービス部長

木橋きはし 邦克くにかつ 同部 自動車損害課長

   川嶋 颯太そうた      同部同課主任 主人公

 

 はつらつ生命保険株式会社(中央火災子会社)関係者

   大杉 ひろし       業務部審査課長

吉野 翔子しょうこ     業務部審査課主任 副主人公

  

 ORI(Organic Recycle Institute,株式会社 有機リサイクル研究所)関係者

   清塚きよつか 康司こうじ 取締役社長

   桜井 泰平たいへい      専務取締役 │

高倉 千乃ちの        秘書 │

河本 清花さやか       秘書


株式会社 慧明塾けいめいじゅく関係者

光中 忠義 代表 矢部官房長官に近い政商

宇田哲哉 取締役企画室長

宇田さつき 宇田哲哉の妻

大滝 はじめ 慧明塾会員企業TQC社長


 民自党関係者

矢部 すすむ      官房長官 後総理

平山 克己かつみ     矢部の子分代議士、警察出身

上井うえい きわむ 矢部事務所筆頭秘書    

横河 耕史こうし     平山事務所筆頭秘書


広域組織暴力団川崎組関係者

糸山 英二えいじ 舎弟企業、関西畜産社長

半井 靖士やすし     (株)関西ビジネス・サポート顧問

半井 由美 半井靖士の妻

赤木 孝之 顧問弁護士


その他の主な登場人物

森田 佳奈かな      週刊誌「週刊未来」女性記者

    黒岩 舜一 五稜自動車工業(株)社長

    遠山 文一 林野庁審議官

大庭おおば 浩太朗 T大農学部助教授





第二部  ベンチャー企業


2-1  起業


 半井靖史の不愉快な自動車事故処理が一段落した週末土曜の朝、颯太はコーヒーメーカーにたっぷりのコーヒーを用意すると、独身寮の自室でとうのリクライニングチェアに陣取った。

 はつらつ生命の吉野翔子が送ってくれた清塚康司の有機リサイクル研究所(Organic Recycle Institute 略称ORI)関係資料は颯太のパソコンに入っている。

 颯太はまずメモの初めにあったORIのホームページアドレス(URL)をクリックしてみた。ホームページは〇五年四月一日にアップデートされたものが立ち上がった。ORIはその僅か三カ月後には雲散霧消したはずだが、この時点ではまだ鼻息が荒かったようである。一ページ目は創設者清塚康司の紹介である。


 S36/1   神奈川県茅ヶ崎市生まれ

 S59/3   T大経済学部卒業

    /4   中央火災海上保険株式会社入社

 H 16/1   最年少で次長に昇格するも、長年の夢だったベンチャー企業立ち         上げのため退社

    /4   株式会社 ORI(Organic Recycle Institute, 有機リサイクル研究         所)資本金五千万円で設立。代表取締役社長に就任

 H16/7    ORI土浦プラント稼働開始

 H16/11   第四回日興ベンチャー大賞受賞

 H17/2    第一回増資(資本金十億五千万円に)


 清塚の人となりはそこそこ知っているつもりではあったが、颯太は「最年少で次長に昇格するも・・・・・・」と自己紹介するセンスに改めて驚かされ、経歴欄の隣に掲載されている顔写真をまじまじと見た。僅か三カ月間ではあるが、古い油で揚げた天麩羅の臭いのように鼻につく顔である。如才なく笑みを浮かべてはいるがそれは口元だけで、目は細淵眼鏡の奥で抜け目なさそうに冷たく光っている。しかし何よりの特徴は鼻である。鼻筋は肉付きが薄く中折れで先は尖ってかぶっている。いわゆる鉤鼻であるが単なる鈎鼻とも違う。鼻翼がしっかり張っているのである。しかし鼻翼も肉薄なので胡座をかいた感じではなく裾野を張って自己主張している感じである。いかにも「最年少で次長に昇格するも・・・・・・」と言いそうな鼻である。

二ページ目は、立ち上げたベンチャー企業、ORIの事業説明で、『酵素分解だけで大量の食品生ゴミを分解して堆肥を製造』『堆肥になるまでの時間は従来の三分の一、製造単価は四分の一』『外食産業と大規模農業の間のリサイクルシステム』『都市の食品生ゴミ問題も解決』『循環型エコ社会の実現』などのうたい文句がずらりと並んでいる。

 説明の下には、装置の開発者、T大助教授大庭おおば浩太朗の写真と経歴が掲載されていたが、その写真がまた清塚の写真とは好対照のものだった。颯太はその写真を見たとき、何故か「うどん」を連想した。素うどんなど食べたこともないのに、何故素うどんを連想したのか自分でも分からなかった。しかし大庭は、素うどんの表現がぴったりの男だった。何かうらぶれていて侘びしい。生白なまっちろくて植物的である。味はなさそうだがどこか安心感があり親しみが持てる。しかしその素うどんの写真は、不思議なくらい安物油の臭いを打ち消す効果があった。

 三ページ目は事業計画である。ここではまた、「将来の構想」と断ってはいるものの、対応分野を食品生ゴミ以外、例えば木材チップ、畜産生ゴミ、食品加工業生ゴミ、更には自治体とのタイアップにより、生活生ゴミの有効活用などにまで拡げ、三年後の平成十九年には上場するという大風呂敷が拡がっていた。しかし、このホームページがアップデートされた僅か三カ月後にはORIは吹っ飛んでいたのである。


 颯太はホームページを閉じて次のファイルに移った。それから夕方まで、颯太は翔子のメールに添付されたORI関連資料に続いて、TMDからプリントアウトした慧明塾関連の資料を、再びバナナだけの昼飯で読み続けた。読み進むにつれて、清塚康司が慧明塾のトップとつるんでやった詐欺事件の全容が徐々に浮かび上がってきた。


 清塚康司が中央火災を辞めたのは二年半前、二〇〇四年一月のことである。辞めた理由は「長年の夢だったベンチャー企業立ち上げのため」でもなんでもない。彼が自動車保険の保険金支払い業務の中で、中央火災海上保険が属する五稜グループの自動車メーカー、五稜自動車工業が行なったリコール隠しの片棒担ぎと言われかねないような、際どい事故処理を行なったからである。しかし清塚本人に言わせれば、それは中央火災のトップ以下、ラインの上の者の内意を受けてのことであり、自分が、功名心や出世欲からスタンドプレーに走った結果だなどとはこれっぱかしも思っていなかった。従って、屈辱の退職を強いられた時は、必ずや再起を果たして自分を追い出した中央火災の連中を見返してやろうと心に誓ったものである。そして、それ以上に熱く煮えたぎっていたのが、そのリコール隠しを暴いた当人であるにも拘わらず、その五稜自動車から製品管理部長として迎えられた、中央火災の同期生、黒岩舜一に対する対抗心だった。

 清塚の退職は、表向きは自己都合退職だから退職金は出たが、それも勤続二十年の中間管理職では一千万足らずである。一応自宅のローンは完済してはいたが、派手好きな清塚は蓄えというものを殆ど持っていなかった。二度目の細君との間にはまだ四歳の娘がいる。なんとか早く次の収入の道を探す必要があった。しかし虚栄心の固まりの清塚には、自分を拾ってくれる職場を地道に探すことなど考えられなかった。

 一方ライバルの黒岩は、移籍後も正論を通す仕事ぶりで、世間のバッシングに喘いでいた五稜自動車の苦境を救い、マスコミ報道によると、今年の株主総会での取締役就任が確実視されているようである。清塚は「奴の華麗な転身など、瓢箪から駒のようなもので、大きな仕事を仕掛けていく実力では自分のほうが遙かに上だ」とは思うものの、いや、そう思えば思うほど、今の自分の状況が腹立たしかった。黒岩を見返してやるためには、五稜自動車以上の格の会社に役員クラスで迎えられるのが理想だが、どう考えても、そんなチャンスがその辺に転がっているはずはない。とすると、自分で起業してベンチャーの旗手になるしかないではないか。上手くいけば一攫千金も夢ではない。しかし起業とはいっても、元手となるのは取りあえずは退職金の一千万円しかない。それに元手の心配をする前に、今の今まで、大企業の中で出世しか頭になかった男に、簡単に起業のアイディアが浮かぶわけもなかった。

 清塚は、起業のアイディアを求めて、これまで仕事でつき合いのあった先や、T大陸上部の先輩達のところを回り始めた。しかし、「クビになって困っているんですが、何か自分で始めるのに良い仕事はないでしょうかね?」などとは死んでも言えない。


「この前の五稜自動車の件では、会社に愛想が尽きて飛び出しちゃったんですが、もう宮仕えは懲り懲りなんで、今度は自分で何かやってみようと思ってるんです。ちょっと考えてることはあるんですが、具体化しましたらまたご報告しますんで、その節は宜しくお引き回し下さい」

 というような挨拶をして、後は、先輩達が何気なく漏らす情報の中に、何か事業化のきっかけが掴めないか、必死で聞き耳を立てるのである。


 彼は仕事にしろプライベートにしろ初めて誰かに会った場合に、その人間を必ず二つのカテゴリーに分別する。一つは社会的に成功している(または成功の可能性の強い)人で、将来自分にとって利用価値のありそうな人間である。清塚自身が評価しているかどうかは関係ない。もう一つはどんなに立派な、人間的に魅力のある人であっても、多分社会的には成功しそうにない人で、自分の出世にはおよそ利用価値のない人間である。彼は前者に対しては猫が身体を擦り付けるように擦り寄って行った。なんの用もなくても、「近くまで来たので、ちょっとお顔を拝見に上がりました」などと忠実まめにコンタクトを保つ。来られたほうは必ずしも清塚を親しい男と思っていないから「ほう、なんで?」とは思うが、だからと言って拒否して突き放すまではしないのが普通である。

 一方で、後者に属する人間に対しては先輩だろうと目上の人だろうと全く関心がない。何かの集まりなどで会っても目礼もしない。


 林野庁審議官の遠山はT大陸上部の六年先輩だから、一緒にグラウンドに立ったこともない。しかし遠山は清塚にとって前者の代表格だった。農水のキャリア技官は順調に行けば林野庁長官まで行く可能性がある。遠山は典型的にそのルートを辿っていた。当然清塚は従来からたまに遠山のところに顔を出していた。特にアポイントを入れて行くことはないが、行った結果留守や会議中で会えないときは名刺を残してくる。初めのうちは遠山も陸上部OBの集まりなどで名前ぐらいは聞き覚えのある後輩が名刺を残していったのだから「何かご用でもありましたか?」と後で電話を入れてやっていたが、結果はいつも「いや、別に用件はなかったのですが、近くまで行きましたのでちょっとご機嫌伺いに・・・・・・」というようなことなので、そのうち名刺を見ても「あゝまた来たか」と思うだけで名刺はゴミ箱に直行していた。そんなことなので、二月のある日清塚が突然顔を出した時も、彼が「会社に愛想が尽きて飛び出しちゃったんですが・・・・・・」というような話をしている間、目をテレビの国会中継に半分向けたままうわの空で聞き流していた。しかし清塚が何か話し終わったらしいのに気がつくとさすがに「これは失敬した」と思ったのか、

「そういえばこの前、陸上部の誰かが言ってたけど、大庭君が面白い研究してるんだってね。聞いたことあるかい?」

 と始めた。清塚は知る由もない。大庭というのはT大陸上部で遠山の二年後輩、つまり、清塚の四年先輩で、遠山と同じ農学部を出た後大学に残り今は助教授になっている男である。四年違うと普通は体育会でもすれ違いになるのだが、大庭は大学院時代も陸上部の練習に顔を出していたので、清塚もよく知っている。しかしいかにも勉強の虫といったタイプで目立たず、アスリートとしてもたいしたレベルにない大庭は清塚にとっては「後者」の典型でしかなかった。卒業後も陸上部OBの集まりで顔を合わす以外は年賀状のやりとりもしていない。


 遠山の話では、その大庭が、生ゴミを酵素で分解し安価で良質な堆肥を作る装置を開発したというのである。

「生ゴミを酵素分解して堆肥として使うというのは、コンポストのように家庭レベルでは実用化されているんだけど、大手外食産業などで発生する大量の生ゴミを低コストで効率的に処理する技術はまだ開発されてないんだよ。そういう技術が開発されたら、外食産業から排出される生ゴミから、安価で良質の堆肥を作って農家に提供し、それを使って生産された安全な野菜や果物を外食産業に提供するという循環モデルが考えられるから僕なんかは面白いと思うんだけど結構技術的に難しいらしくて、これまでも何人か開発に取り組んだ学者がいるんだけど、まだ実用化できるレベルの技術は開発はされてないんだ」

「ほう、そんなに難しいんですか」

「そうなんだ。それが大庭君の開発した装置だと生ゴミに適量のおが屑を混ぜて独特の形状の攪拌アームを使うことで、なんの発酵促進剤も使わずに微生物の増殖を助けて非常に低コストで堆肥を作ることができるんだって話だよ。なんでも、今から試作機を作って実用化実験に入るんでスポンサー探しをしているらしいんだが、どうです? 中央火災でスポンサーになってやったら・・・・・・」

 遠山は「中央火災を飛び出しまして・・・・」という清塚の挨拶などまるで聞いていなかったようである。しかし今は清塚にとっては、遠山が自分の退職に関心があるかどうかなどということはどうでもよかった。彼は早々に林野庁を辞去するとすぐに大庭の研究室に電話を入れた。

 

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「明日大学に用があるので、ついでと言っちゃなんですが、久々に先輩に敬意を表しに寄ろうかと思うんですが、いらっしゃいますか?」

 久々にも何も、清塚から電話を貰ったことなどないので大庭は面喰らった。大庭はこの、自分にとって利用価値があるかどうかで、相手に対する態度のがらりと変わる後輩が好きではなかったが、訪ねてきたいというのを追い払うには温厚すぎた。


 翌日、積み上げられた書籍の山を押しのけたテーブルを挟んで向いのソファに掛けた大庭に、清塚は早速始めた。

「この前、とあるところで遠山先輩にばったり出会いましてね・・・・・・」

「この前」でも「とあるところ」でも「ばったり」でもない。昨日、何か事業化のネタになりそうな話はないかとわざわざ訪ねて行ったのである。

「その折りに遠山先輩から、大庭先輩が生ゴミの大量処理の画期的装置を開発されたと伺いましてね。実は私も環境問題には以前から興味を持っていまして、できれば自分自身で環境関連の仕事を手がけてみたいと思っていたんですが、私も四十を過ぎましたんで、何かやるならそろそろラストチャンスに近い歳だと思いまして、先日中央火災を退職したんですよ。それで、大庭先輩がそんな分野を専門になさっておられるなら、今後ご指導いただきたいし、逆に、何かお手伝いできることでもあるんじゃないかと思いまして、ちょうどこっちのほうに来る用があったものですからお邪魔したんですが」

 ここでも「退職したこと」と「自分自身で何か手がける」という原因と結果が逆転している。しかしそんなことを大庭は知る由もない。

「そうですか。遠山さんがそんなことをおっしゃってましたか。でもそれは正確じゃない。まだまだ、『開発された』なんてところまで行ってないんだ。まあ、実験室段階では上手く行って、技術的目処は立っているんだが、試験プラントを作ってみて、実用規模で上手くいくかどうかテストしてみるまではとても『画期的』なんて言えないんですよ。しかし、試験プラントを造るのは実験室での実験と違って金がかかるからなあ・・・・・・」

「そうですか、しかしその大庭装置ができれば、外食産業から排出される生ゴミから安価で良質の堆肥を作って農家に提供し、それを使って生産された安全な野菜や果物を外食産業に提供するという循環モデルが考えられるんじゃないかなあ。それで、その試験プラントを作るにはどのくらい金がかかるんですか?」

「ができれば」以下の部分は全くの遠山の受け売りだが、清塚は、あたかもその場の自分の思いつきのように言った。それに「大庭装置」などというゴマ擂り単語も即興で創ってしまう。この辺の清塚の腕(口)は超一流である。

「作ってくれそうな町工場に設計図を見せて、二、三当たってみたんだけど、ざっと三千万ってところかな。それに装置は洗濯機か冷蔵庫みたいにポンと置けばすぐ使える物じゃなくて据え付けなくちゃならないから、その費用がまあ五百万ぐらいかなあ。あとは試験プラントで得られるデータ解析などの諸雑費だから、せいぜい二百万もあればいいんだが。

 それと一番難しいのが試験プラントを設置する場所の確保なんだよ。そんなに大きなプラントじゃないけど、それでも生ゴミトラックや、製品の堆肥を搬出するトラックが出入りすることを考えると、最低三百平米は欲しいんだけど、そんな土地をどこが提供してくれるのか・・・・・・。土地まで買うわけにはいかないからなあ。それと、プラントができても原料の生ゴミを提供してくれるところと、製品を引き取ってくれる農家が見つからなくちゃ実験に入れないからなあ。まだまだ先の遠い話だよ」

【 冗談じゃない。そんな遠い先までこっちの蓄えが続かない。】

 清塚は、大庭の、人ごとのようなのんびりした話に苛々したが、それが声に出ないように自分もできるだけ暢気な調子で応じた。

「それじゃあ、まあ、土地のほうは場所を貸してくれるスポンサーでも見つけるとして、その他雑費を入れて、ざっと三千七百万ぐらいあればできるってことですか? そのくらいならなんとかなるでしょう」

「そのくらいって君・・・・・・」

 世俗におよそ縁のない仙人のような生活をしている大庭には、いとも簡単に「なんとかなるでしょう」という後輩が、真面目に言っているのか自分をおちょくっているのか分からず、とまどいの表情を浮かべた。

「そのくらいって言うけどねえ、学部が僕の研究に付けてくれている研究費なんて年に二百五十万しかないんだよ。実験室の実験段階ならいざ知らず試験プラント段階となるとねえ。三千七百万というと十五年分だよ。そのうちには定年になっちゃうよ」

 清塚は清塚で全く異次元の生物いきものを相手にしているような苛立ちを覚えた。

「なんて偉そうなこと言っちゃって、お手伝いしようにも、僕も一千万円ぐらいしか動かせる金はないんだけど・・・・・・。でも実験段階で上手くいってるんだから政府の助成制度か何かあるでしょう。農水省とか環境省とか・・・・・・外食っていうと何処になるんだろう。それも農水かなあ。それとも経済産業省あたりになるのかなあ。その辺に使える制度はないんですかねえ」

「二、三あるにはあるんだけど応募倍率が高いし、産業レベルでの生ゴミの堆肥化はこれまでも上手く行ってないから、まず選考段階で刎ねられると思うんだ」

 清塚にとっては、応募だ、選考だというのは、裏から手を廻して他人ひとを押し退けて通すものであって、内容の善し悪しなど問題にするほうがおかしい。

「そうですか・・・・・・それじゃあ、僕にちょっとルートがあるから当たってみていいですか? それで、それが上手くいったら事業化段階でもお手伝いさせて下さいませんか」

 大庭は目をぱちくりさせた。大庭は実用化実験をどう乗り越えるかだけで頭が一杯で、それから先の事業化のことなどただの一度も考えたことはなかったのである。正直なところ嫌いな後輩だし、言っていることをそのまま信用していいのかどうかも分からなかったが話そのものはありがたい限りである。「やっぱり金は集まりませんでした」ということになっても、今の研究費が減る話ではない。


 一時間後に清塚が大庭の研究室を出た時には、大庭は一週間以内にこれまでの研究成果と実用化された場合の社会的意義などについて役所その他にプレゼンテーションするための資料を作ること。一方、清塚は試験プラント作りの助成金集めと、首都圏近郊で、プラント建設サイトの提供と、試作品の堆肥を使ってくれそうな農協の発掘を引き受けることが決まっていた。というよりは清塚が一方的に宣言し大庭が半信半疑で頷いただけではあるが。


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 清塚のアクションは速かった。彼が大庭に「研究以外の部分は任せておいて下さい」と言ったのは満更はったりばかりではない。そこそこ当てがあったからである。まず彼は民自党の中堅代議士、平山克己の事務所に顔を出した。警察官僚出身の平山は、自他共に認める矢部官房長官の一の子分である。清塚は父が平山の支援者だったこともあり、これまで時々議員会館に顔を出していた。もちろん平山は、「前者」のトップバッターである。先日も退任の挨拶に行った折に、平山から、「今からベンチャーを始めるつもりなら良いコンサルタントを紹介するぞ。光中さんというんだが、この人は官房長官の矢部さんにも非常に近い人だから付き合っておいて損はない」と言われたのである。

 議員会館の平山事務所には代議士本人はいなかったが、筆頭秘書の横河耕史がいて、清塚の依頼を聞くと、

「それじゃあちょうどいいから、金曜の朝八時にホテル・ニュー・オータニのガーデン・コートにいらっしゃい。毎月第一金曜日の朝は光中さんが代表をしている慧明塾の朝食勉強会があるんだけど、今度は矢部さんがスピーカーなんでうちの代議士も出席するから、一緒に入れて貰って光中さんに紹介して貰ったらいい。代議士には予め話しておいてあげるから」

 と願ってもないオファーをしてくれた。


「慧明塾」というのは、光中忠義なるいかさま師が十数年前に始めた経営コンサルタント会社で、法人格は株式会社だが、その名前から察せられるようにカルトもどきの右翼団体である。光中は地方の資産家の一人息子で「海外の大学を卒業した」と本人は言っているが本当に卒業したのかどうかは誰も知らない。卒業後、ゼネコン、ディーラーなど数社に勤務したがどこも長続きはしなかった。四十代で独立して不動産会社を設立したがそれも数年で倒産。借金取りに追い回されていた光中を救ったのが、当時はまだ陣笠代議士だった矢部すすむだった。というのも光中の父というのが、矢部の父(元運輸大臣)の谷町だったことから、「義理堅い矢部が父の代の恩に報いた」と取り巻きは言っているが、その実、矢部がひた隠す古い臑傷を光中に知られているからだという話もある。

 いずれにしても、光中を追っていた消費者金融業者達は、矢部の将来に投資した形でことを納めた。それ以来矢部と光中の切っても切れない関係が始まった。そしてその数年後に光中が立ち上げたのが経営コンサルタント「慧明塾」であるが、矢部はその当初から子分の衆・参議員や各省庁の幹部を紹介してやったり、慧明塾主催の講演会で講師を勤めたりして、慧明塾の広告塔の役目を引き受けてやっている。慧明塾は次期総理の呼び声が高い矢部の応援を全面的に受けて、僅か数年で一部上場企業二十社を含む、三百社以上を関与先企業とする新進中堅コンサルタントにのし上がった。もっともこの二十社を含め、その多くは到底一流企業とは言えないレベルの企業である。その中には、後日、耐震偽装ビル事件で悪名を轟かせた穴沢工務店なども名を連ねており、大半はいかがわしい商売のやり方で短期間で成り上がった二流企業ではあったが金だけはたっぷり持っていた。

 しかしいくら金持ち企業とはいっても、彼らが高額な会費を払ってまで慧明塾の会員になったのは、自分の会社すら潰してしまうような二流男から経営指導を受けるのが目的ではない。その男を通じて矢部に擦り寄り、その権力をバックにして官の世界と結びつくことにあったのは言うまでもない。矢部サイドからも同じことで、こんな二流男を相当のリスクを冒してまでバックアップするからにはそれ相応の見返りがなくてはならない。矢部が与党の次期総裁候補としての地歩を築くために必要な軍資金の相当部分がこの慧明塾本体、及び慧明塾の会員企業から出ていたのは間違いなかった。

つまり慧明塾は金を持った二流企業群と、祖父や父の名前と金の力のみで権力の頂点を目指す二流政治家とが持ちつ持たれつの関係をキープするためのパイプ役だったのである。


 光中忠義が官の世界に食い込んだ第一号は、彼が警察畑の業界紙とも言われる、「コップス・ジャーナル」の編集・発行を全面的に受託することに成功したことである。この橋渡しをしたのが警察出身の代議士で、矢部の番犬とも言われる平山克己だった。矢部・平山を背負った光中の警察との関係は、彼が暴力団とも接点のあるようなビジネスに手を伸ばすのに最高に貢献した。また、一時囁かれた脱税容疑に司直の手が入ることもなくいつの間にか立ち消えになったのも、背後にある権力と無関係ではない。

こうして政商としての基盤ができ慧明塾の会員が拡大するにつれて、コンサルタントとしての光中の言動はどんどん神憑かみがかり的になっていった。元々が企業経営など全く勉強したこともないどころか、若い頃は職を転々とし、立ち上げた事業にも失敗したような男である。理論的企業経営などできるはずもない。光中が慧明塾代表としての権威維持のために採った手法が「神憑り」だったのである。

 東京、紀尾井町の一等地にある慧明塾本部のオフィスには、常に四隅に三方さんぼうに盛った塩が置いてあった。事業についてアドバイスを受けに来た経営者に対しては、話を聞いた後、額に手をかざして尤もらしく暫く瞑想した後に「ご託宣」を賜るのである。もちろんほとんどの相談者はこんなインチキに本当に騙されていたわけではない。その多くは光中の後ろにいる矢部の力を間接的に利用しようとしていたに過ぎない。ご託宣をいただくためには法外なお布施(コンサルタントフィー)がかかるのであるが、しかしご託宣の効果はあらたかだった。


 ある県のバス会社が地元で計画していたリゾート開発案件では、通常、農水省で半年以上は寝る農地の転用申請がたった五日で認可された。間違いなくご託宣のお陰である。

 都心一等地の再開発で地揚げを請け負った業者は、再開発地域の真ん中で、地揚げに応じずに頑張っている小さなビルのオーナーに手を焼き、光中のご託宣を求めた。二週間後、ビルオーナーの会社には、前年に税務署の調査が入ったばかりなのに再度調査が入り、過去数年の税務申告に対して高額の過少申告を指摘された。オーナーは追徴課税に応じるためにビルを売却せざるを得なくなった。

 清塚が期待したのはこんなありがたいご託宣である。

  

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 都心の一流ホテルは朝食勉強会流行ばやりである。ホテルにすれば、結婚式などの本格的宴会が入らない早朝に、せいぜいサンドイッチにコーヒー程度の手のかからない食事で、百人程度の会議室を二時間二十万円ほどで貸せるのだから悪くない。主催者は○○機構、○○研究所、○○協会などの名称のところが多いが、そのほとんどは会員制度を採って得体の知れないビジネスをしているところで、出席者からは五千円から一万円程度の会費をとることが多い。出席者は十数名から、大きい勉強会でもせいぜい百名止まりである。読者の中には、「なんでそんな早朝に勉強会をするのか?」といぶかる向きもあろうかと思うが、そもそもたいした勉強などはしていないのである。早朝に集まるのは、参加者がそこに参加することで、「俺も早朝しか空いてないぐらいに忙しい一流ビジネスマンなんだ」という自己満足に浸ることができるからである。またそんな場で、講師として招かれる著名人と名刺交換をすることで、後日「先日、とある場所で××先生と親しくお話する機会がありまして・・・・・・」と言える価値が大きい。

 翌々日の朝、清塚が紀尾井町のホテル・ニュー・オータニ、ガーデン・コートの宴会場ロビーに到着したのは、まだ七時半を少し回ったころである。フロアにある四つの宴会場の入り口にはそれぞれの勉強会の名前が掲示されており、その一つに「慧明塾朝食勉強会、本日の講師 内閣官房長官 矢部晋先生」と出ていたが、周辺にはホテルの従業員の姿以外に人影はなかった。七時四十分、若い男女一名づつが、各々紙袋を抱えてエレベーターから現れ、掲示板の横に置かれたテーブルで受付の準備を始めた。清塚は二人の準備が終わるのを待ってテーブルに歩み寄った。

「今日、平山先生のご紹介でこちらの勉強会に出席させていただきます清塚と申しますが」

「ああ、平山先生の事務所からご連絡をいただいております。この会は当塾の塾生を対象にしているものなので、本来ですと先に光中代表に面接をいただいて入塾を認められた方だけご出席ということなんですが、今日は取りあえず見学ということにさせていただきますので本日の会費だけで結構です。会費は七千円です」

 清塚は、今日は平山代議士のお供扱いで潜りこめるのかなと思っていたが、仕方なく七千円を財布から出して渡した。

「それではこれに名刺を入れて胸のポケットに挿して下さい。それからこちらが入塾申込書と塾規約ですからお目通し下さい」

 名刺と言われても清塚には今名刺はない。

― ええい構うものか。

 彼は名刺入れから中央火災時代の名刺を取り出し、渡されたプラスチックケースに挟んで胸に挿した。

「それではどうぞ会場のほうに」

 女性が手で会場の入り口を示したが清塚は、

「いやこちらで平山先生をお待ちしますから」

 と言ってロビーのソファに戻った。今後、慧明塾との係わりを最大限利用するためにはこの事務局員達や今日の出席者達に自分と平山代議士との昵懇じっこんさをアピールしておくほうがよい。彼はソファに掛けると朝刊を拡げたが、目は常にエレベーターに向けられていた。

 その平山代議士は八時ぴったりに矢部晋官房長官と二人で慌ただしくエレベーターから現れ、何やら難しい顔で打ち合わを続けながら会場に直行した。清塚は慌てて立ち上がると、

「あっ平山先生」

 と声をかけた。平山はハッと目を上げ清塚の姿を認めると、

「あっ君か、後で終わってから光中さんに紹介するから受付を済ませて入ってくれ」

「もう受付は済ませました」

「ああそれじゃあ適当に座っててくれ。後で紹介するから」

 と言って矢部との打ち合わせに戻りながら会場に入ってしまった。清塚は急いでその後を追い会場に入るとできるだけ前のほうでまだ空いている席に腰を下ろした。


 食事が終わり、コーヒーのお代わりがサーブされたところで、最前列で、矢部を挟んで平山の反対側に掛けていた男が立ち上がって演壇に上がり、テーブルのマイクを取り上げた。小太りで、円形の顔は面積が広すぎるため、道具立てが顔の中央部にこちょこちょと集まっている。どう見ても顔をいた風船である。全体の様子からすると六十歳前後かと思われるが、頭は天井の照明でてかてか光っている。

「お早うございます。代表の光中です。今日は、現在の日本で最もお忙しい政治家である矢部官房長官がこの会のためにお時間を割いて下さいました。なかなか直接にお話しを伺える機会のない方ですから、皆さん、ご講話のあとでどしどし質問を出して下さい。それでは矢部先生お願いします」

 しかし紹介が終わっても光中は壇をすぐには下りずに矢部が近づくのを待って、その額に手を翳した。矢部は神妙に少しうつむき加減になると目を瞑った。誠に安っぽい「やらせ」である。あまりの子供騙しに清塚もさすがに阿呆らしくなった。しかし会場にはあからさまに馬鹿にした表情を浮かべる者はおろか皮肉の笑みを漏らす者さえいない。

「貴男は近い将来間違いなく総理になるでしょう。今は余分なことは何も考えずに、ただ自分の信念のままに真っ直ぐ与えられた仕事に打ち込みなさい」

 ありがたいご託宣が下り場内に拍手が湧いた。

 それから小一時間、矢部の抑揚のない早口のお喋りを聞きながら清塚は必死に睡魔と闘った。矢部の話は新聞で伝えられる国会情勢の繰り返しばかりで何一つ新味がない上、借り物ばかりで自分の頭で考えたことなど全く出てこない。そして締めはこのところ矢部が馬鹿の一つ覚えで繰り返す「美しい日本」である。清塚はこの「美しい日本」を聞く度にむずむず擽ったいような居心地悪さを覚える。「よくこんな陳腐な表現を臆面もなく言えるものだ」と思う。しかしそれは、清塚がその安っぽい国粋主義的ナルシズムに辟易へきえきしたからではない。自分の出世に役立つかどうかだけが価値基準の清塚には凡そ縁のないセンチメンタリズムだからである。

 半分朦朧とした意識の隅で拍手が聞こえた。続いて光中が、

「折角の機会でございます。どうぞご遠慮なく官房長官、いや次の総理に質問をお出し下さい」

 と言った時には、清塚はもうしゃきっとしていた。矢部や光中に取り入るためには極めて重要な瞬間である。清塚の手が挙がった。

「はいその三列目の方」

 さっきの事務局員がマイクを持って走り寄った。

「清塚と申します。本日は大変有意義なお話しを伺うことができましてありがとうございました。それで、私が以前から関心のあるテーマに関しまして官房長官のご卓見をお聞かせいただければありがたいのですが。あっ、このテーマは只今のお話しには直接関係がないのですが、宜しいでしょうか?」

 と言って、許容を得ようとするような視線を、矢部から演壇の際に立っている光中に移した。「只今のお話し」が、矢部がかねて主張している教育改革と、その延長線上にある「美しい日本」だったことぐらいは覚えている。そのテーマで質問するに越したことはないが「お話し」の詳しい内容など何一つ残ってないのだから仕方がない。関係ないテーマだが昨日一日かけて準備したものをぶつけるしかない。清塚がこの会に潜り込んだ下心に通じる質問であり、お世辞にも頭がよいほうとは言えない矢部にでも即答できそうな質問である。

「先生は次期総理として、国内外のすべての事柄に関心を払っておられることと存じますし、それになかなかこんな機会はございませんので」

 テーマ選択の拙さを直ちに逆手に使うところなどさすがに清塚である。

「さあどうぞどうぞ。突然の質問に答えるのも帝王学の一つですから」

 光中は満足げに許可を出した。風船玉の中央で、小さな目が「この男、面白いじゃないか」と言っている。清塚は平山が最前列で満足げに頷いているのも見逃さなかった。

「それでは遠慮なく。私はつい最近まで中央火災海上に籍を置いておりましたが、以前から環境問題に関心を持っておりまして、現在、外食産業などから排出される生ゴミから良質の有機肥料を作り、その有機肥料のみで作った安全な野菜や果物を外食産業に提供するリサイクルモデルを社会的レベルで構築することを始めておりますが、実際に始めてみますとこういう分野を民間の力だけで開拓していくのがいかに難しいかを思い知らされております。

 こういう、民間だけでは難しい分野としては、環境ビジネスの他に介護、医療などもありますが、いずれも採算の問題を越えて進めなければいけない重要分野だと思うんです。しかしながら現在の内閣の経済政策は基本的には自由競争の促進にあると承知しております。その中でこの辺の分野をどういう風に育てていかれるのか、次期政権を担うお立場から先生のお考えをお聞かせいただければありがたいのですが」

『私はつい最近まで中央火災海上に籍を置いておりましたが』という表現は嘘ではないが、あたかも中央火災という大手金融機関が環境ビジネスに出て行こうとしているような発言である。しかも、もう結構検討が進んでいるような印象を与える。

「重要な問題ですね。それでは官房長官お答えいただけますか?」

 光中が司会を進める。

「なかなか面白いことを手がけていらっしゃいますね。私は経済政策の基本を自由競争に置くという現政権の基本スタンスはそれはそれでよいと思っていますが、ご指摘のように、分野によっては資本の原理に任せておくだけでは置いてけぼりにされかねない、しかし社会的には重要な分野があると思っています。従来もそういう分野では民間の投資をバックアップするために種々の助成金制度や税制上の優遇措置などを用意していますが、今後更にそういった制度を拡充していく必要があると思っています」

 卒はないが誰にでも答えられる内容でしかない。しかし清塚はさも感心したように頷きながら、

「心強いお答えを伺って勇気が出ました。ありがとうございました」

 と礼を言った。これで今日早起きした目的は十二分に果たした。光中にも平山にも、それに多分矢部自身にも相当インプレスすることができた。

 その証拠に、十分後、更に二、三の愚にも付かない質疑応答の後、勉強会がお開きになったとたんに平山が振り向いた。

「おう清塚君。ちょっと紹介するからここに来なさい」

「はい」

 清塚が急いで最前列に行った。

「官房長官、さっき質問したこいつは清塚君といいまして、親父おやじさんの代から私の事務所に出入りしている男なんですよ。この前まで中央火災にいたんですが最近辞めて・・・・・・そうか、そんなことを始めようとしてるのか?」

 と、最後のほうは清塚への質問になった。

「はい、大学時代の友人で、T大の農学部で助教授をしている奴がいるんですが、此奴と一緒に食品生ゴミと農作物のリサイクルモデルの立ち上げを始めてるんです」

「そうか面白いね。何か困ったことがあったらうちの事務所に来たらいいけど、まずは光中さんのご指導をいただくといいんじゃないかな」

「はいありがとうございます。そうさせていただきます。光中先生、清塚と申します。どうぞ宜しくお願いします。会社の設立が終わりましたら名刺ができるんですが、これはもう古いものなんですが」

 清塚は中央火災の名刺を取り出し、矢部と光中に渡した。光中は「株式会社 慧明塾 代表」の肩書きの名刺を清塚に渡したが、矢部のほうは清塚の名刺を頷いて受け取っただけで自分の名刺は出そうとはしなかった。

「そうですか、もう会社設立まできてるんですか」

 光中が尋ねた。

「はいそうなんですが、できればこの段階で、先生に一度ご相談に乗っていただければと思っているんです」

「はい、いいですよ。なんだったらこの後なら私は暫くは空いてますが、私の事務所はこの上だから寄っていきますか?」

「えっ宜しいんですか? そうしていただけると私もありがたいんですが」

 清塚も慧明塾がこの豪華ホテルの二十階にあることは予め慧明塾のホームページを見て知っていた。しかし、こうとんとん拍子でことが運ぶとは夢想だにしていなかった。

【 中央火災も黒岩も見てやがれ。二年後には俺もこんなところに事務所を置いてみせるぞ。】

 清塚は胸の高鳴りを抑えて、日本を表と裏から牛耳る男達の後について会場を出た。


       ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 こうしてスタートした光中とのビジネス関係は、清塚自身も驚くほどのスピードで急速に強化され具体化された。

 光中に案内された慧明塾の本部で、清塚は幹部職員数人に引き合わされた。また清塚が近日中に設立を終える(と言ってしまった)会社が、設立と同時に慧明塾の会員となることと、光中が新会社の顧問に就任することも決まった。こうなるとはったりだけで止めておくわけにはいかない。清塚はその日のうちに顔見知りの司法書士に連絡をして新会社設立の準備に入った。会社名は株式会社ORI(オーアールアイ)と決めた。Organic Recycle Institute(有機リサイクル研究所)の略である。


 大庭が書き上げたプレゼンテーションは、プレゼンテーションというよりは、研究者が学会誌に発表する論文のようなものだった。清塚は心の中で舌打ちをしたい気分だったが黙って引き取り、翌日自分の手で全面的に書き直した。大庭の作った、文字と表だけ、A4で二枚、モノカラーのプレゼンテーションは、大胆な色で図表中心のB4裏表二つ折り一枚に纏められた。実験データは細かい条件や説明を一切抜きにして、「堆肥になるまでの時間は従来の三分の一、製造単価は四分の一」などと、圧縮されたセンセーショナルなものとなった。「食品生ゴミの酵素分解による堆肥製造装置」に限られた大庭のプレゼンテーションは、「全国をいくつかのブロックに区切り、各ブロックごとに一つの基本プラントと、そこから提供される堆肥を利用した大規模な有機野菜栽培と、その野菜を活かした地域外食産業との循環型社会モデル」にまで拡大されており、更に、「将来の構想」として対応分野を、食品生ゴミ以外の生ゴミ、例えば木材チップ、畜産生ゴミ、食品加工業生ゴミなどに拡大することの研究に既に着手しているかのような表現も含まれていた。

 できあがったものを見た大庭は憮然を通り過ぎて唖然とした。話が自分の研究とはおよそかけ離れたところまで舞い上がっている。何より問題なのは、ある条件下での実験結果が、あたかもどんな条件下でも得られる結果であるかのように誇大宣伝されていることである。

「清塚さん、これは拙いんじゃないかなあ。このプラントの将来像を君がどう描くかは君の勝手だけど、少なくとも僕の実験結果については正確に伝えて貰わないと。これは全くの嘘じゃあないけど到底正確なものとは言えないよ」

 という大庭の弱々しい抗議を、

「そんなことを言ってたらスポンサーなんてつかないですよ。ビジネスに入る段階のプレゼンテーションなんて学術論文じゃないんだから、細かい正確なことよりも、大まかにどんなものかが分かることとどんな夢が描けるかが大切なんですよ。大庭さんだって、『嘘じゃあない』と言ってるじゃないですか。心配要らないから、その辺は僕に任せていただいて、大庭さんは研究に打ち込んでいて下さいよ」

 と取り合わなかった。

 翌日清塚はこの資料を携えて再び慧明塾本部に光中を訪ねた。光中は清塚の持ち込んだ話に完全に乗り、計画は「ORIプロジェクト」と名付けられて今後のアクションプランがその場で具体的に練られた。

まず試験プラント造りに必要な研究費の確保である。これについては光中の要請を受けて、矢部事務所の上井うえいきわむ秘書経由矢部官房長官の意を受けた節井ふしい和夫官房副長官補から、使えそうな助成費予算を持っている省庁の会計課長に指示が出された。そして各省庁の会計課長から、当該予算を持っている課長に話が下りたころを見計らって清塚が出向いてプロジェクトの説明をするのである。実際に指示が出された省庁としては、有機農法推進の立場から農水省、外食産業育成とベンチャー企業育成の立場から経済産業省と中小企業庁、生ゴミの無公害処理の立場から環境省と厚生労働省などがあったが、いずれの省庁も、指示が官邸から出ているとなると、本来なら新年度に入ってから受け付ける申請を先取りして受け付け、四月に入って早々に支給する段取りをしてくれた。環境省リサイクル対策課などは、その年度で交付が決まっていながら研究の進捗が遅れていた二つの案件に、翌年度での助成金交付を約束して枠を空けることまでしてくれた。こんな具合だから必要研究費は、清塚のプレゼンテーションでは、必要額が大庭原案の倍以上の九千万円に水増しされていたにも拘わらず十日余りで目処が立った。

 

農水省経済局には、助成金の他に、試験プラントを建設するサイトを提供してくれる農協探しが指示された。このほうも結論が出るのに二週間とかからなかった。茨城県土浦市郊外で、農協の敷地の一角を格安で借りられることが決まり、そこで生産される堆肥を引き取ってくれる農家の開拓にも農協サイドの協力が得られることが決まった。土浦は平山代議士の地盤でもある。農水省は、以前から農水族のドン的存在である平山から要請されていた土浦広域農道に予算を付けるという人参をぶら下げて農協を釣ったのである。農水はこれで広域農道とORI試験プラント用地という平山の指示を一石二鳥で解決したのである。土浦広域農道は、農道整備事業としては優先順位は一番下のほうだが、そんなことはどうでもいい。どうせ他人ひとの金、税金である。それに最近の平山は矢部に直結しているから怒らせると厄介である。

 原料の生ゴミ提供は、土浦に工場を持つ大手外食チェーンの工場と、県内納豆メーカーの組合が協力してくれることが決まった。これには、従来これらの生ゴミを処理していた地元の産廃業者が強く反撥したが、平山代議士が間に入って、ORIが原料生ゴミと製品堆肥の搬送をその業者に若干高めの手数料で委託することで話がついた。


 清塚が初めて大庭を訪ねた時からこの時点まで、たったの一カ月である。この間、大庭は毎日夢を見ているようだった。夢を見ていると言っても、それは非現実の世界を漂っている気分ということで、必ずしも「幸せな気分」というわけではない。大庭はプロジェクトがあまりにも凄いスピードで動いていることに不安を感じていた。すべてのことが自分のコントロールの効かないところで動いていた。助成金をつけてくれることが決まった省庁への正式申請は、これまた超特急で設立準備が進んでいる「株式会社 ORI」の名前で行なわれるので、助成金はORIに支払われ大庭はORIから研究受託することになる。

 大庭にとって唯一安心できたのは、各省庁とも、「大庭がORIからの研究を受託することに応諾していること、及び、その研究成果をORIが使用することについて(特許が取れた場合は特許権使用許可を含め)大庭が応諾していること」が助成金の条件とされていることだった。清塚はこの条件を満たすために、ORI設立準備室名で「研究委託仮契約書」を作り大庭に見せた。そこでは、実用実験で得られる成果はすべて大庭とORIの共有とすること、及び、その結果を踏まえて取得される特許については、大庭とORIが五十%づつ権利を持つことが記載されていた。しかし大庭が所有する五十%部分についても、ORIの発行する株式の十%と引き替えにORIに使用権を認めることとなっていた。大庭はこれで自分が五十%の権利を保有した意味があるのかどうかが分からず口をもごもごさせるばかりだったが、清塚はそんな大庭に、

「とにかくこれはまだ仮契約に過ぎないんで、必要であればORIが設立されたあとで本契約を交わす時に変更することも可能なんですから、今は急ぐので、取り敢えずこれで役所には出させて下さい」

と言った。確かに写しの最終条項には「この契約は期限を付けないが、甲乙いずれかからの二カ月以前の通告により改廃ができる」と記されている。大庭は完全には不安を払拭できなかったが、これにサインしないと自分がプロジェクトから完全に振り落とされてしまいそうな気がして契約書にサインした。契約書を受け取った清塚は、

「大庭さんまあ見ていて下さい。僕はORIを絶対三年以内に上場して見せますから。そうしたら大庭さんも億万長者ですよ」

 と言った。大庭はこれまで自分の研究成果で一儲けすることなど考えたことはなかったし、億万長者などと言われても現実感が全く湧かない。金儲けに繋がらなくても、自分の研究成果が実用化できるのであればそれだけで舞い上がるほど嬉しいことなのだが、しかしこうして到底自分がついて行けそうにない猛スピードで事業化に向けて走り始めると複雑なものがあった。

 清塚からははっきりしたことが聞けないが、ORIが受け取る助成金の総額は、自分が算出した額の二倍以上の九千万円になっているようである。そのうち実際に自分の手に入る研究費はデータ解析のための二百万円だけである。試験プラントの製造費三千万円と据え付け費五百万円はORIから請け負う業者達に支払われる。それはどのみち業者に渡る金なのだから自分を経由する必要は全くないし経由させられても面倒なだけではあるが、あまりにも当然のようにORIが全部取りしきるのを見ていると、プロジェクトの中の自分の存在が実験室の試験管一本と同じように感じられる。況や残る五千三百万を清塚がどうしようとしているのかは全く見当がつかなかった。この点について大庭が清塚にそれとなく聞いてみた時、清塚は、

「九千万? とんでもない。そんなに取れっこないですよ。そりゃあ三千七百万よりは少しは多いけど、これだけかき集めるには色々の方面にずいぶんお世話になってるんですよ。何もお礼しないわけにはいかないんですよ。土浦農協のトップなんかにも、今後ともお世話になるんだから、きちんと礼は尽くさなくちゃいけないじゃないですか。

 それに、大庭さんには大学から給料が出ているからいいでしょうが、僕のほうは他の仕事を辞めてこのプロジェクトにかかりっきりになるんだから、当面この助成金の中で食って行くしかないんですよ。そんなことを考えたら今の助成金でもとてもじゃないけど足りないんですよ。まあしかし、その辺のところは任せといて下さいよ」

 と立て板に水で答えた。大庭は不消化物で胃がもたれているような気がしたが黙ってしまった。こういうことになると大庭は清塚の半分も頭が回らない。それにこんなことでやり合うのは億劫だった。

 

 〇四年四月末にはORIの設立登記が完了した。資本金は当初から五千万円(授権資本二億円)と、いかにも見栄っ張りの清塚らしいものだった。一株百万円の株券が五十枚印刷された。慧明塾の光中代表は五百万円を出資し、その他に「経営指導の御礼」と言って清塚が持参した五株を含めて十株を保有した。また「大庭先輩の研究成果の事業化を応援しよう」という泣かせ文句と「三年以内の上場約束」で清塚がT大陸上部OBに声をかけ、応じてくれた二十五人から二十万円づつ集めたのが五百万円である。この分の五株は代表者として林野庁の遠山審議官に預けられた。大庭が知っている清塚以外の出資者はこれだけである。

【 清塚は、初めて訪ねて来た時に「自分が今動かせるのは一千万円しかない」と言っていたはずだが、残りの三千万円はどこから出たんだろう?】

 大庭は約束どおり自分に渡された五株の株券を手にして首を捻った。大庭にはどうしてもそれが五百万円の価値のあるものには感じられなかった。


 ORIは設立当初から二人の女子社員を秘書として採用した。年上の高倉千乃ちのは四十歳前後で、どう見ても普通の家庭の主婦である。品は良いがおよそオフィス勤めのムードではない。若いほうは河本清花さやかという二十代末の女性で、いつも下着が見えそうな短いスカートで出勤する。普通ならスカートの下を携帯で盗撮されることを心配しなければならないところだが、何しろそこから突きだしている二本の脚が、針で突いたらパンクしそうなほど立派なものなので、携帯を差し込む隙間がないからか心配している様子は全くない。こちらも(高倉千乃とは反対の意味で)どう見ても昼のオフィス向きとは思えない。しかしどうして分かるのか、清塚に言わせると「業務能力の高い達だから採用した」のである。会社ができたとはいっても、まだ試験プラントを造っている段階で秘書を採用してなんの仕事があるのか?

 本社はお茶の水駅から歩いて三分ほどのオフィスビルに置かれた。さしあたっては社長以下常勤三人なのだが、フロアは五十坪あった。清塚はこの半分近くを仕切って社長室にして、デスク、革張りの応接セットなどを入れた。これらの当初コストだけで二、三百万はかかっているはずである。その上、いくら払っているのかは分からないが、毎月、家賃と二人の女性の給与を払っていては、実験が終わる前に資本金を使い果たしてしまうのではないか? 世知に疎い大庭もさすがに心配になりお茶の水のオフィスを訪ねた。清塚は心配顔の大庭に向かって、

「はゝゝ、当初コストといっても、キャッシュから固定資産などに変わっただけで、資産をすり減らしているわけではないんだから心配しないで下さい。女子社員なんかについても、これから色々仕事をしていくためには、そこそこの体裁も作らなくちゃ外部から信用されませんからねえ。例えば外から電話が入ったときにはまず秘書が出なくちゃあ。初めから社長が出たんじゃ格好つかないじゃないですか。それに一年以内に相当規模の増資をするつもりですし、出資者の目処もほぼついていますから」

 と言って全く取り合わなかった。大庭は半信半疑だったが、少なくとも諸事万端順調に運んでいる様子なのを見るとそれ以上何も言えなかった。


 会社設立の二カ月後には墨田の町工場で作らせていた試作機が完成した。土浦農協のプラント建設予定地は整地とコンクリート打ちが終わっており、プラントの到着を待つばかりになっていた。その横にはプレハブの現場事務所もできあがっている。

 この頃になると、清塚は土浦駅前のビジネスホテルにスィートルームを借りた。現地で仕事が遅くなったときの宿泊と自分の現地オフィスのためである。土浦は上野から快速で一時間足らずなのだからこんな必要は全くないのだがこれも彼一流の見栄だった。市役所や農政局出先との打ち合わせなどには先方に自分から出向くが、協力してくれる農協との打ち合わせや、生ゴミや堆肥の搬送を委託する業者との打ち合わせは先方をこのオフィスに呼びつける。夜は夜で、県議や市議など地元有力者との付き合いを切らさないのだから東京まで帰るのは確かにしんどいかも知れない。


 七月六日、試験プラントの据え付け工事が終わり、開業の式典が行なわれた。中央官庁からは、関東農政局長はじめ、助成金を付けてくれた省庁の課長、課長補佐クラスが招かれ、地元からは平山代議士、市長、県議、市議、県と市の幹部など八十名ほどが招かれていたが、会場入り口で、まず一同を驚かせたのは、平山代議士の花輪と並んで、次期総理の呼び声が高い矢部官房長官のひと際大きい花輪が飾られていたことだった。矢部当人は来ていなかったが、筆頭秘書の上井うえいが顔を見せており、矢部の祝辞を代読した。そしてテープカットで平山代議士、上井秘書、市長と並んで立ったのはもちろん清塚本人である。さすがに、装置の開発者である大庭も会場に招かれてはいたが、来賓席の一番端に座らされていただけで開発者として紹介されることもなかった。式典に続くパーティーは農協の庭に張られた大テントの下に出された屋台で、東京から呼ばれた職人が寿司、天ぷら、ローストビーフなどをサーブするという贅沢なもので、地元招待客達は度肝を抜かれた。一時間半後、満足しきって会場を出る出席者達の手には、来賓には九六年物のドンペリニヨン・ロゼ、一般招待客にはミレジム・ロゼの九九年物が入った袋がずしりと下げられていた。


 この開業式典の様子は茨城の地方紙と、全国紙でただ一つ取材に来ていた政府ご用達の日本興業新聞に掲載された。海の物とも山の物ともつかぬ会社の開業式典に中央からこれだけの顔ぶれが出席したことはメディア各社の注目を集めた。

 開業式典は清塚流には大成功だった。ドンペリはネット業者から十五本纏めて安く仕入れたとはいいながら一本三万五千円である。ミレジムのほうが一本六千円だからお土産だけで百万円以上かかっている。パーティー代その他を含めると、総額は四百万円を超えた。しかし清塚は、

「四百万なら安いものですよ。これだけの宣伝効果は、一千万のテレビ広告でも得られませんから」

 と笑い飛ばした。確かに翌日以降、新聞、雑誌などからの取材が相次ぎ、ORIは本格開業もせぬうちから、メディアで次世代ベンチャーの代表のようにもてはやされた。そしてORIがメディアで取り上げられる度に、清塚の風呂敷はどんどん拡がっていった。

 開業式典に来賓として招いたが来られなかった客の一人に、林野庁審議官の遠山がいた。式典の翌日、清塚はドンペリを持って林野庁を訪ねた。清塚にとって遠山は「前者」の代表格である。彼は昨日の晴れの舞台を更に誇張して伝え、

「これも全て遠山先輩のご支援のお陰です」

 と言った。遠山は半年近く前に、ふらりと訪ねてきた清塚に大庭の研究の話をしたことすら忘れているぐらいだから、その後T大陸上部OB仲間の噂話に度々登ることのあった、「大庭の研究の事業化」が、元はといえば自分の世間話に始まったことも知らなかった。その後、後輩の清塚から「先輩各位」宛て「大庭先輩の研究への資金協力呼びかけ」レターを受け取り二十万円を出資したが、それは大庭へのお付き合いであって清塚への協力ではない。従って、「これも全て遠山先輩のご支援のお陰です」と言われてもピンとこないものがあったが、酒飲みの遠山にはそんなことはどうでもいいことである。なんだか知らないが呉れるというものを断る理由はない。それもそんじょそこらのシャンパンではない。九六年のドンペリニヨン・ロゼである。

遠山は豪華プレゼントへのお愛想で、たいして関心もないのに、

「そうか、なんだかとんとん拍子で行ってるみたいだな。結構結構。それでいま何人ぐらい使ってるんだい?」

 と尋ねた。これに対し清塚は、

「はあ、まだ十二、三人なんですが。そうだ先輩、先輩は誰か有機肥料の専門家で、当社うちで社員の技術教育をして貰えそうな人をご存じないでしょうかね? 当社もどんどん仕事が増えるんで、人を採り始めてるんですが素人ばかりなんで困ってるんです。大庭先輩が来て下されば最高なんですが、大庭先輩はまだまだT大で偉くなっていただかなくちゃいけない方だから」

 と始めた。

「そうか有機肥料ねえ。居なくもないけど。社員教育って短期の話なのかね? それとも社員として迎えるって話なのかね?」

「はい。できれば私の右腕になってくれて技術部門を任せられるような人を考えてるんで、年齢や経歴にもよりますが、場合によっては専務とか常務とかで考えたいと思うんですが」

「なるほどね。それだったら居ないこともないなあ。君と同じぐらいの歳の男で、専門知識、人柄は申し分ないよ。話してみましょうか?」

「是非お願いします」

 ということになった。

 遠山は清塚が帰るとすぐに引き出しから名刺を一枚取り出して電話をかけ始めた。名刺には「緑営産業 肥料部次長兼有機課長 桜井泰平」と書いてあった。


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 東京都大田区JR大森駅の真ん前に、三階建ての古色蒼然たる小さなビルがある。壁一面が蔦に覆われているが、ビルが蔦を養っているのか蔦がビルを支えているのかよく分からない。ビルの入り口には、お寺の山門にでもありそうな、古い木の看板が掛けられている。書かれた社名は、木と墨の明度差があまりなくなっていて読みにくいが、近づいてよく見ると「綠營産業株式會社」と読める。

 緑営産業株式会社。国内で専ら農機具、農薬、肥料などを、メーカーと農協との間で取り次ぐ商社であるが、商社というよりは○○商店といったほうが似合いそうな地味な会社である。

 その緑営産業の中でも一番土の臭いが強いのが肥料部有機肥料課であるが、この課の課長、桜井泰平が、林野庁審議官の遠山文一から電話を受けたのは〇四年七月七日、駅前商店街の七夕飾りが雨に濡れた梅雨寒つゆざむの日だった。


 泰平は入社以来十八年、どっぷりと有機肥料に浸かっている。現在の肩書きは肥料部次長兼有機課長であるが、次長とは名ばかりのことで実際の仕事は有機肥料・・・・・・と言えば聞こえはよいが、平たく言えば「堆肥」を売ることである。

 そんな、地味といってはこれ以上地味なサラリーマンはいないような男が、林野庁のナンバーツーである審議官から電話を貰うというのも変わった話である。しかしそういうこともあり得るのがこの男の面白いところである。


 桜井泰平。国立C大学農学部の大学院修士課程まで終了している。緑営産業に入社して十八年。今年四十三歳であるが、苦労したことがほとんどないからか、見てくれはどう見ても三十代半ばである。苦労したことがないとは言っても、そんなに恵まれた環境ばかりだったわけではない。特段望みが高くないし、自分に対する要求水準が高くないから「失敗した」と感じたことがほとんどなかっただけのことである。中肉中背。まあ、整った顔立ちなのだろうが、これといって目立ったところがなく、仮に強盗でもやって防犯カメラに写っていても、それだけでは絶対に捕まりそうにない平凡な顔である。敢えて特徴を言うなら、牛乳瓶の底のような厚ぼったい眼鏡の奥で、目がいつも穏やかに笑っているぐらいのものだろう。

 泰平の入社当時は大学進学率が既に二十五%を超えていたが、緑営産業は大卒社員が社員の二割にも満たない。そんな中で、旧高等農林系国立大学の大学院修士課程卒業といえば抜群の学歴なのだが、泰平は緑営産業の中でお世辞にも出世しているほうではない。大体、元々が商売には不向きな男である。真面目で人が良いといえば聞こえはよいが、糞真面目でお人好しというのが正直なところである。無理に何向きかといえば学者向きということだろうが、大学に残っていたとしても万年助手か、せいぜい講師で終わっていた口である。当時、C大大学院の修士課程修了者はほとんどが博士課程に進んでいたが、泰平については、主任教授が企業内研究者の途を奨めた。

 一方、当時の緑営産業は、高卒三分の二、大卒三分の一というのが採用目標だったが、こんな地味な農業系企業にとって、満足なレベルの大卒者を集めることは決して容易ではなく、実際には大卒者の採用は全体の二割にもいかず、高卒社員を実務の中で鍛え上げて凌いで来たのが実情である。しかし、メーカーのエンジニアなどと技術的な打ち合わせをしなくてはならないような場合には、往々にして社員の基礎学力不足が問題になった。そこでトップは常々、農学部系大学でしっかり勉強をしてきた学生を採って技術室の中核とし、社内全部門のバックアップ態勢を強化したいと考えていた。

 折しも、日本経済はバブル景気に突入した時期であり、就職戦線は一層売り手市場になっていた。

頭を痛めたトップが、かねてから技術指導を受けていたC大の助教授に相談したところ、助教授が直ちに回してくれたのが桜井泰平である。それもなんと修士まで終了した学生だった。大学院卒の学生を採用することなど緑営産業七十年の歴史始まって以来のことである。トップは正に金の卵を貰った気持ちで泰平を迎え、まずは現場の経験を積ませるために、一番泥臭い営業部門である有機肥料課に配属した。

 ところが二週間ほど経ったころ、社長のところに有機肥料課長の望月が上司の部長と一緒にやってきた。二人が社長に言うには「桜井は宇宙の別の天体から地球に落ちてきた異星人で、地球人ではない。他社と競り合って商売を取らなければならない営業現場ではとても使えない。素直で真面目だが、相当のお宅タイプで、勉強をさせればできるのだろうが、ピンセットで頭のてっぺんから『負けん気』という神経を全部抜き取ったのではないかと思われるぐらいに競争心がない」と言うのである。


「昨日呆れかえったんですが・・・・・・」

 望月が苦笑しながら、前日、宇都宮の全農栃木本部で行なわれた苺栽培農家用堆肥の最終ビッドの話をした。栃木は日本一の苺の産地で、全農栃木が一年間に購入する苺農家用肥料の購入額は十億円を下回らない。肥料の納入業者に決まれば、それと密接な関係にある農薬の納入についても、非常に有利な立場に立つ。最終ビッドに残っていたのは、緑営産業と、緑営のライバル、P社の二社だけだった。望月はこのビジネスの重要性を考え、最終ビッドには自分自身で、会場となる大田原農協に行くことにして、勉強のために桜井も連れて行くことにした。


「それで、当社うちのプレゼンテーションについては、事前に桜井にも読ませておきましたし、往きの新幹線でも、このビッドの重要性やポイントを教えて、去年、栃木で発生した灰色カビ病対策を考えたときに『P社がどこのメーカーのどの肥料を、どんな混合比率で使うのか?』が価額以上の関心事だと説明したんですよ。それなのに・・・・・・」


 大田原の駅で新幹線を下り、そこからタクシーで農協に行った。会場となる会議室にはP社の課長と担当者が既に来ており、会議テーブルの向こう側に座っていた。望月はこの二人とは色々の場所で顔を合わせておりよく知っている仲である。ライバル会社とはいっても、そこはお互いに紳士である。望月は二人に泰平を、

「当社の新人の桜井です」

 と言って紹介した。P社の二人はお義理の挨拶が終わると、何かそわそわした様子で額を寄せて話し始めた。

「私が『どうしたんだろう? 何かあったのかな?』と思っていたら、桜井の奴が、テーブルを回って向こう側に行って名刺を出し始めたんですよ。向こうさんも『取り込み中なのに面倒な』というような顔をしながら名刺交換したんですが、その後で桜井が、『ひょっとしてこの書類をお探しじゃないですか?』と言って、鞄の仲からP社のロゴ入りの封筒を出すと向こうの課長に渡したんです。私は唖然としたんですが、向こうさんは私以上で、暫くあんぐり口を開けて桜井を見つめてましたよ。 そうしたら桜井がにこにこしながら、『さっき大田原駅でトイレに行ったら、目の前にこの封筒があったんですが、新幹線の中で課長から、今日のビッドには当社とP社の二社が行くと説明を受けてましたので、これはてっきり御社の方がお忘れになったんだと思って持ってきたんです』って言うんですよ。向こうさんは慌てて封をチェックしてましたけど、封を開けた痕跡がないんで、『いやあ、なんてお礼申し上げていいか・・・・・・』って絶句してましたよ。駅からのタクシーはたっぷり二十分はあったから、タクシーの中で私に話せば、じっくりと敵の手の内を見ることができたのに・・・・・・」

 社長は笑い出した。


「まあまあ最近にない美談じゃないか」

「笑い事じゃないですよ、社長。ビッドの後でP社の課長から、『いやあ良い新人さんを迎えられましたなあ』と言われちゃいましたよ」


 それから十八年。泰平も八年前には結婚もし、今は六才になる娘もいる。さすがに一見したところは宇宙人ではなく地球人に見られるようになったが、本質は全く変わっていなかった。「社外コンペティターとの競争に勝たなければ商売は取れない」ぐらいは分かってきたが、社内の同期などに対する競争心はまるでなく、常にマイペースだった。「桜井を技術室の中核に据えて・・・・・・」という構想は最初の一年で雲散霧消し、結果として十八年間、どっぷりと堆肥に浸かることになったのである。泰平自身は出世ということに関して、自分が社内でどの辺のポジションにいるのかさえよく知らないので気にもならないが、さすがに最近マンネリを感じるようになってきた。堆肥が嫌いになったわけではない。堆肥を売ることに飽きただけである。


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 桜井泰平が農業系官・財界のドン的存在である林野庁の遠山文一審議官から電話を受けたのはそんな時である。二人は翌日、新橋の居酒屋で一杯やることになった。泰平は、遠山とは鳥インフルエンザが流行した折に、鶏糞堆肥の問題で、業界と農水が協議会を持った時からの付き合いである。当時農水省の食品安全局動物衛生課長だった遠山は、業界人間なのに、監督官庁の課長に対してなんの遠慮もなく言いたいことを言うこの変わり者が気に入り、その後も、肥料に関することで、業界の実情を知りたい場合などは泰平に電話をするようになった。それにこの男に聞けば、自分の会社にとって都合の悪いようなことでも、事実は事実で喋ってくれるところが便利だった。その代わりに、こうして監督官庁の審議官が一杯やろうと言っても、「勘定は当社で」などという気遣いはまず期待できない。だから泰平から情報を取ろうと言うときはいつも安居酒屋である。

カウンターで横に座った泰平に、遠山が切り出した話は思いがけないものだった。


「俺のT大農学部の二年後輩で、今も大学に残っている奴に大庭というのがいるんだが、此奴が食品生ゴミを特殊な技術で効率的に堆肥にする装置を開発してね。その技術を使って、外食産業なんかから出る食品生ゴミを堆肥にして農家に提供して、逆に、その堆肥で作った有機野菜を外食産業に供給する循環システムを造ろうって言うんで・・・・・・なんの略かなあ? Organic Recycle Institute ぐらいかなあ、ORIって会社が立ち上がったんだ。ついこの前、開業式典があってね。中心になってるのは清塚って男で、此奴もT大卒だが農学部じゃない。確か経済学部だと思うんだけど、大庭同様、俺の陸上部の後輩でね。尤も此奴は六年も下だから、俺は一緒に競技したことはないんだが、変に人懐こい奴で時々俺のところに顔を出すんだよ。

「この男が大庭の研究に興味を持って、とうとうそれまで勤めてた中央火災を辞めて、大庭と組んで会社まで創っちゃったんだが、その清塚から、ORIの役員クラスで迎えるから有機肥料のことが分かる人間を探してくれないかって俺のところに頼んできてるんだがね。どうだろう、君やってみる気はないかね?」

「ということは、その会社は新しい技術を使った堆肥メーカーということですか?」 

「まあ、そういうことだな。清塚ってのは、正直なところ、俺はあまり好きなタイプじゃないんだが、遣り手は遣り手だよ。中央火災でもトップクラスに出世してたらしいんだが、前から環境ビジネスに興味を持っていて、全財産を注ぎ込んでこの仕事をやるっていうことだし、矢部晋とか平山克己とか強力な応援団もついてるようだからかなり期待していいんじゃないかなあ」

 矢部晋は現在官房長官で次期総理の呼び声が高い。平山はその腰巾着のような警察出身の代議士である。泰平は緑営産業での仕事に少し飽きを感じていたところなのですぐに気持ちは動いたが、元々即断即決とは反対の局で生きてきた男である。

「いや、もちろん今すぐ答えて貰おうって話じゃないんだが、そうかと言ってあまり時間をかけてもいられないんだ。よく考えて一週間ぐらいの内に返事をくれないかなあ。給料は今のところより悪くはさせないように、俺から清塚に釘を刺すよ。その他に『これは?』っていう条件があるんだったら、それも俺のほうから清塚に言ってやるから、遠慮なく条件を付けてくれていい」

 遠山は口ごもっている泰平を見て言った。



2-2  ベンチャーの星


 桜井泰平は林野庁の遠山審議官から話のあった翌々日、ORIに清塚を訪ねて事業計画などの説明を受けた。ORIの本社には、会社設立直後に採用された二人の女子社員に加えて、男性六名、女性一名が新たに採用されていた。また土浦の現地に男性二名、女性一名がいるので、この時点の社員総数は十二名である。開業したとはいっても、まだ試験プラントが動き始めたばかりで、データ集めをしている段階である。現地社員がプラント操作、生ゴミの受け入れ、堆肥の搬出などにかかっているのは分かるが、本社で尤もらしくパソコンに向かっている九人は何をしているのだろう? 泰平の素朴な質問に清塚は笑いながら、

「試験プラントのテスト期間は半年だが、順調に稼働しているから事業化に問題はないと思うんだ。だけど本格生産に入っても、一台三千万円以上もする装置なんだから、コンポストを売るのとはわけが違う。今から装置の販売先を開拓しなくちゃ間に合わないんだ。この連中は、皆、ディーラーとか不動産屋とか、なんらかのセールス経験を持った連中なんだけど、今のところは、各人のこれまでの経験を活かして、得意のマーケットに売り込めと言ってるんだ」

「と言っても、肥料のことなんか何も知らない人達なんでしょう? できた堆肥の売り先を探す面倒も見ないで、装置だけ売れるんですか?」

「肥料は最後の話だから、肥料の填め込み先なんか『こちらで見つけます』と言っといて後でみつけりゃいいんだよ。そんなことより、まずは装置を買ってくれる見込み客を見つけなくちゃあね。食品生ゴミならどこにでもあるわけだから、取り敢えずは堆肥についての専門知識なんかなくても、装置の売り込みはできるからね。それで、今の内に君に来て貰って、社員に堆肥の教育をして欲しいんだ」

【 そんないい加減なことでいいのかなあ? ベンチャーが新規分野を開拓するときなんてそんなものなんだろうか?】

 泰平は漠たる不安を拭いきれなかったが、一方ではおよそ緑営産業とは正反対の融通無碍ゆうずうむげなエネルギーも感じた。翌日、泰平は遠山を通して清塚のオファーを受け入れる返事をした。泰平の肩書きは技術担当専務だったが、会社規模が小さいうちは、人事・総務・経理も見ることになった。給与は緑営産業当時の十%増しである。悪い話ではない。泰平は「一日も早く来て欲しい」という清塚の要請に応えて、翌週末の七月十七日で緑営産業を退社し、週明けの月曜からORIに出社することにした。


 初出勤の第一日目、社長室に挨拶に行った泰平に、清塚は挨拶もそこそこにORIの株式五株(五百万円)を自分から購入することを要求した。

「社長に次ぐナンバーツーの専務なんだから、株ぐらい持って貰わないと社員に対する示しがつかないからね。しかし、これは僕からするとむしろ好意のつもりなんだからね。三年以内には上場するけど、その時には株価は間違いなく三十倍にはなってるから」

 というのが清塚の親切なオファーだった。五百万円というと泰平が緑営産業から受け取った退職金のほとんどすべてである。泰平にはこのほかには蓄えなどというものはほとんどない。八年前に貰った細君との間にできた娘は今春小学校に入ったばかりである。彼はすっかり退路を断たれた気分だったが今更緑栄産業に戻るわけにもいかない。翌日、泰平は設定したばかりの定期預金を崩して、清塚の指定した口座に五百万円を振り込んだ。


 着任してみるとORIの実態は、のんびり屋泰平にとって驚くことの連続だった。土浦の試験プラントは一応稼働はしているが操業率は三割にも達していない。操業率を上げるには受け入れ生ゴミが足りなかった。しかしそれにもかかわらず、プラントの横には製品の堆肥が積み上がり始めている。堆肥を引き取ってくれる農家の確保が充分でないまま見切り発車したためである。大庭の開発したプラントは、できあがった堆肥が適当な大きさの粒状になることと、製品が臭気を伴わないことが大きな特徴ではあるが、季節が季節である。機密性のある袋にも入れずに放置した堆肥は数日で臭い始め、蠅などの害虫も発生した。ORIには地主兼スポンサーである農協から、「なんとかしてくれ」とクレームが来た。だからといって、販売量に併せて操業率を落とすと、今度は生ゴミのほうが余ってしまい、もっと酷い臭気を発する。清塚は農協の理事長に頭を下げながらも、

「堆肥を使ってくれる農家探しにはお宅も協力してくれる約束だったじゃないですか」

 と嚙みついた。契約では農協サイドは協力するとは言っているが、全量引き取りを保証すると言ったわけではない。それにこれまでに決まった協力農家はすべて農協が探した先であり、ORIが独自に探したところなどゼロである。この頃になると清塚はほとんど土浦には来なくなっており、現地にいるのは何を言っても糠に釘の頼りない社員三人だけである。臭気で苦しむのは清塚ではなく農協職員達だった。理事長は、当初間に入って試験プラントの受け入れを頼んできた農水省経済局にクレームを付けたが、農水は、

「それはORIに言ってくれ」

 と取り合わなかった。土浦農協は農水に広域農道という人質を取られているのであまり嚙みつくわけにもいかない。理事長は平山克己事務所にも、

「ORIになんとか言ってくれ」

 と頼んだが、

「見返りに広域農道を取ってやったじゃないか。お前達で協力農家を探してやれ」

 と、逆に叱られてしまった。結局堆肥受け入れ農家開拓は、臭気に悩んだ農協職員がやらざるを得なかった。


 試験プラントからのデータは順調に取れていたが、結果は思いがけないものだった。実験室では生ゴミが堆肥に変質する段階で増殖が確認されていた微生物が、試験プラントではほとんど増えないのである。にも拘わらず、製品堆肥の品質は実験段階のものと変わらない上質のものが得られている。何度かテストを繰り返した後、大庭は苦笑いをしながら、

「この結果は微生物による発酵と考えていたけど、なんのことはない。攪拌機の運動エネルギーが温度エネルギーに転換して、六十度というちょうど良い温度が保たれていただけの話みたいですねえ」

 と認めざるを得なかった。しかし官庁への補助金申請も特許申請も、すべて「生ゴミに適量のおが屑を混ぜて、独特の形状の攪拌アームを使うことで、なんの発酵促進剤も使わないでも微生物の増殖を助けて、非常に低コストで堆肥を作ることができる」として出しており、新聞や雑誌への広報もすべてこれでやってしまっている。現在、各地の農協や自治体に送ってしまった宣伝チラシにもそう書いてある。その上、月末に参加を予定している環境庁主催生活リサイクル展の展示パネルもほぼ出来上がっている。この展示会には全国の自治体の廃棄物処理担当者が集まってくる。ORIとすれば、会社の将来がかかる重要なイベントであり、二百万円以上をかけて準備をしてきている。このイベントへの参加の話が出たのは、試験プラントによる実用実験が始まったばかりの時期で、大庭はまだデータがほとんど取れていない段階での参加に強く反対していた。

「だから見合わせるように言ったんですよ。まだ間に合うから展示会は辞退して下さい」

 大庭の抗議に対し清塚は、

「微生物の増殖を促進するからだと言ったのは貴男じゃないですか。もう退くわけには行かないですよ。ここに来て、微生物の増殖効果はなかったなんて言えるわけないじゃないですか。展示会はこのままでやります。結果としてちゃんと良い堆肥ができてるんですから構わないじゃないですか」

 と取り合わなかった。見かねた泰平が、

「社長、それってやはり拙いんじゃないですか。確かに従来のものよりうんと低コストで良い堆肥ができるんだから、この装置は装置で胸を張っていいし、売り続ければいいと思いますが、微生物の増殖効果ではないんだから、嘘の宣伝はしないほうがいいんじゃありませんか? 展示会には自治体の人も来るけど、学者や研究者も来るんでしょう。追試されて嘘がばれることのほうが危ないんじゃありませんか?」

「お前にはそんなアドバイスをして貰うために当社うちに来て貰ったんじゃない。お前は関係ないから引っ込んでろ」

「いや、私は技術担当の専務として来たんですから、この装置の理論的説明は私の責任範囲だと思いますが」

「馬鹿野郎。お前は林野庁の遠山さんからのご依頼だから引き取ったんだが、そんな融通の利かないことを言ってるから、緑営産業なんて二流会社でもうだつが上がらないんだよ。お前に本気で技術指導なんかして貰う気はないから、余計な口出しせずに引っ込んでろ」

 オフィスの皆が聞いているところでの発言である。穏やかな泰平の顔色がさっと変わった。大庭は泰平に初めて紹介された時から、商社マンというよりは、田舎の駅前の肥料屋さんといった感じのこの男に好意を感じていた。自分が我を張れば泰平が窮地に陥りそうである。

「分かりました。それじゃあ予定どおりなさったらいいでしょう。まあORIが何をなさるかは私が口出しすることじゃないから。但し展示パネルと配布するチラシ類からは、開発者としての私の名前は消して下さい。間違った宣伝に私の名前が使われたんじゃ私が恥を掻くことになりますから。それから、展示会の会場には私は行きませんからご承知下さい」

 清塚は、現場で出る質問に答えるために、展示会の開かれる三日間、晴海の会場に詰めているように大庭に頼んでいたのである。

「結構です。但し、実用実験で得られたデータでは微生物の増殖効果はなかったなんてことは言わないで下さいよ。この装置はこの装置で立派なものなんだから、商売の妨害はしないで下さいね」

「自分から積極的に『あれは間違いだった』などと言うのはしないでおきましょう。だけどどこかから聞かれたら言いますよ。学者として嘘の説明はできませんから。それから、仮契約になっていた私の研究委託契約は解約にして下さい」

「分かりました。それも結構でしょう。だけど、解約には二カ月以前の文書による通告が必要ですからね。先生から解約通知をいただいてから二カ月後に解除しましょう」

 大庭はこの会社の設立に参画しているとは言えないが、大庭の技術を使わせて貰うことがこの会社の存立基盤だと泰平は聞いている。

【 大庭さんに縁を切られても事業は継続できるのだろうか? それに、自分に対する清塚の今の発言は! 一体俺はここでやっていけるんだろうか?】

 泰平は目の前が真っ暗になった。


 大庭にそっぽを向かれた今、生活リサイクル展の現場で技術的質問に対応できるのは、ORIでは泰平一人しかいない。清塚は大庭との対決のあった日の午後、泰平を社長室に呼び、ソファに座らせると、

「いや、会社の危機だと思ったら、カッとして心にもないことを言ってしまった。済まん、このとおりだ」

 と言って深々と頭を下げたのである。しかし。大庭や泰平の主張に従って展示会の出展を取りやめると言ったわけではない。

「俺を初め、ここの社員には肥料に関する知識はゼロで、君だけが頼りなんだ。君や大庭さんの言ってることは理論的にはそのとおりで、そうすべきだろうと思うよ。だけど今、『あれは微生物増殖の効果じゃなかった』なんて言ったら直ちに会社はお仕舞いだから、今はその問題はそっとしておいて、会社が軌道に乗り初めたら徐々に言い方を変えて行くってことにするから、暫く目を瞑ってくれよ。それで、今度の展示会での現場の対応は君に任せるから、何か質問が出たら君の判断で上手く切り抜けてくれ」

 と猫撫で声で頼んだのである。泰平は着任からの数日で、清塚の人間性については極めて強い不審感を抱くようになっていたが、今日のことでそれは決定的であり、今、目の前で頭を下げている清塚の言葉をこれっぱかしも信じたわけではないが、人と争うぐらいなら、物事を曖昧なままにしておきたいほうの泰平には、これ以上抵抗する気力はなかった。その結果、泰平は三日間晴海の会場に詰めることになったのである。


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生活リサイクル展は大成功だった。ORIの展示は関係者達の間で評判を呼び、マスコミの取材が続いた。幸いにして三日の間、試験プラント内での微生物増殖についての具体的質問はなく、処理能力、コスト、製品のグレード、臭気など周辺への影響に関するものだけだった。


生活リサイクル展が終わった翌週から、全国各地からのプラント引き合いがORIに来始めた。こうなると清塚は一変して強気である。社員会で清塚は、

「やっぱり俺の言ったとおりだろう。ビジネスというのはこうでなくちゃあな。お前達もしっかり売り込んでくれ。よし、がんがん売るぞ。こうなるといつまでも試験プラントでもないな。それじゃあ、これからはこの装置はORIプラントって名前にしよう。装置よりプラントって言ったほうが高度なものって感じだろう?」

 と発破をかけた。しかし一週間経っても二週間経っても具体的発注はなく、引き合いは引き合いで終ってしまいそうだった。引き合いのあった先を社員に追わせてみると、自治体や農協などは、実績のない企業からの物品購入には極めて保守的であること、もし買うところまで漕ぎ着けても、実際の購入は、早くても、予算措置のできる来年度以降になることなどが分かってきた。

「実績」と言われても、どんな企業も初めは実績ゼロからのスタートである。その段階で「実績がないから」と言われては永久に実績は出ない。清塚は焦った。焦って頼ったのがまたまた慧明塾の光中である。光中もこの会社には僅かだが投資もしている。インチキだろうとなんだろうと上場に漕ぎ着けさせたかった。光中は再び官邸に出向いた。

 翌々週、文科省ルートで、二つの市の学校給食センターにORIプラントを納入することが決まった。地元自治体が元々決めていた給食センター改造事業に文科省が補助金を上乗せしたのである。次の週には、自衛隊の二つの駐屯地での導入が決まった。膨大な防衛予算の中では屁みたいな金額である。それら四カ所に地理的に近い農協には、農水省から、堆肥引き取り農家探しの協力依頼が出された。しかし所詮は依頼である。入り口(材料生ゴミの入手)だけは確保されたが、出口(堆肥費消)の目処は立っていない。土浦の二の舞で、糞詰ふんづまりになることは目に見えている。しかしそんなことは清塚は全く意に介さず、すぐにORIプラント四台の発注をした。試作機を作った墨田区の町工場との値段交渉は泰平に命じられた。

「取り敢えず四台だけど、このあと年内に二、三十台、来年は百台の桁になるのは間違いないって言ってうんと値切るんだぞ。取り敢えず、今度の四台は単価二千万円だな。それで嫌なら大手に回すって脅してやれ」

 試作機の三千万というのも、生活費もぎりぎりに切りつめて研究に打ち込んでいた大庭に同情した町工場の親爺が、原価で引き受けてくれた額である。

「商売はやらなくていい」というのが、泰平がORIに移籍する条件だったはずだが、清塚に言わせればそれは「売り込みはしないでいい」ということで、資材の購入は商売ではないそうである。しかし、値切り交渉は泰平の最も苦手なことだった。墨田に三度足を運び、清塚に「無能だ、子供の使いだ」とさんざん嫌みを言われた挙げ句、四台で九千万円で話は纏まったが、代金については半額の四千五百万円を発注時に支払い、残金については完成時に六ヶ月物手形で支払うという条件が付いた。

【 社長は条件を呑んだけど、一体どうやって払うんだろう?】

 泰平は不思議だった。総務・経理も見ろと言われてはいるが、会社の帳簿類は清塚が抱え込んでいて見せて貰えないので、財務状況がよく分からない。しかし、先月の開業式典で、土浦に出張して屋台を出してくれた都内の寿司屋と天麩羅屋からは、やいのやいのの催促を受けている。土浦のプラントは、半年間の試験稼働で操業に問題がなければ、農協が原価の三千万円で買い取る契約になっている。清塚の寿司屋や天麩羅屋への話しぶりからすると、清塚は彼らへの支払にその収入を充てるつもりらしい。しかし、農協が臭気に追われて協力農家を探してくれたお陰で、製品堆肥は今のところ残らず捌けてはいるが、それでも操業率はかろうじて四割である。この水準では、生ゴミを提供する外食業者と納豆組合から入る処理費用と、協力農家から入る堆肥の代金を足しても、運送業者への支払いとプラントの操業費(主に電気代)を支払うのがやっとで、現場人件費はまるまる赤字である。清塚は現場の三人に、

「自分たちの食い扶持ぶちぐらい自分で稼げるぐらいには操業率を高める努力をしろ」

 と言って生ゴミ提供先と協力農家の発掘を指示し、給料の一部をその成果との歩合給に変えてしまった。元々この三人は試験プラントの操業(操作)のために採用した人員で、マーケット開拓ができるような連中ではない。彼らは清塚の暴挙に怒り、男性一名、女性一名が突然退社してしまった。直ちにプラントの操業に無理が生じた。今度はプラントへの生ゴミ投入が間に合わなくなったのである。清塚は残る一人に給与体系を元に戻すことを約束して慰留し、本社から応援要員二名を派遣したが、操作方法を全く知らない応援要員はすぐには役に立たない。またこの二名は営業・事務要員として採用されたのであって、土浦のプレハブ小屋で臭気と闘う約束ではなかったから、土浦滞在が長くなるなら退社すると騒ぎ出した。そのため清塚が慌てて現地要員を補充採用したが、その要員が戦力化するまでの十日間、地主の農協職員達は今度は生ゴミの臭気に悩まされた。このトラブルで業を煮やした農協理事長は、とうとう試験稼働期間終了後もプラントは引き取らないと言い始めた。にも拘わらず清塚は料理屋達に「試験操業期間終了時には・・・・・・」と胸を叩いてみせるのである。泰平には今やそんな清塚が、身体じゅうが嘘でできている奇怪な生き物のように見え始めた。しかし緑営産業を辞めてORIに来て、僅かばかりの退職金もORIに注ぎ込んでしまったからにはもう後の祭りである。泰平も必死でORIを軌道に乗せるしかなかった。


町工場との話が纏まった翌日、清塚は資金繰りの協力を求めるため慧明塾に出かけていった。協力農家の発掘など、多くの課題を残しているとはいうものの、とにもかくにもORIプラントの納入先が四カ所も決まったのは慧明塾のお陰である。今やORIの社員達は、慧明塾を打ち出の小槌のように見ていた。泰平といえども例外ではない。彼は清塚の帰社を待ちわびた。夕方戻ってきた清塚はしんと静まりかえったオフィスを見回して、

「みんな、どうしたんだ、何かあったのか? ひょっとして、俺が光中さんのところに行った結果が気になってたのか?」

 とオーバーに驚いて苦笑して見せた。

「たいしたことないじゃないか。この程度のアップダウンは創ったばかりの会社じゃあ珍しくもない。こんなことで一喜一憂しててどうするんだ。まあ経営のほうは俺に任せて安心しててくれよ。だけどみんながそこまで心配しててくれてたのはありがとう。それじゃあ今夜は一杯やろうか。そこで今日の報告をするよ」

 清塚が呑もうと言い出したら、社員は何があってもついていかないと、

「お前は俺と一緒に来るのが嫌なのか」

 と絡まれる。皆「そのとおりです」と言いたいのだが仕方なくついて行く。なんといっても、部下の生殺与奪を握ろうとする握力は、世の中一般の社長とは桁が違う。居酒屋に着くと清塚は、昼の光中との取り決めについて話した。


まず光中から二億五千万円の借り入れをする。次ぎに、今から四カ月後に十億円の増資をする。その金で光中への返済をするというものである。

「慧明塾の中心的な会員企業には、前から当社うちに出資したいというところがいくつもあったんだけど、実用実験も終わっていないのに出資を受け入れるのは無責任なんで待って貰ってたんだが、試験プラントも順調だし、大きなビジネスも取れ始めたからそろそろいいか、ということになったんだ。だから出資者はもう決まってるみたいなものなんだ。さあ三年後には上場だぞ。みんなもしっかりやってくれ。このまま順調にビジネスが増えていったらボーナスに株式を持たせてやるからな」

 社員は一様にほっとした。しかしそれはボーナスのことではなく、これで二日間待たされている今月分給与の支給が受けられるという安堵からだった。


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 三日後の朝、泰平は慧明塾の宇田という男からの電話を社長室に取り次いだ。電話の後、清塚は社長室から出て来て、社員に聞こえるように泰平に言った。

「光中さんが、第一回目として一億用意できたから取りに来るようにと言ってきたから今から行ってくるが、お前もついてきてくれ。現金で、それも新券じゃないんだから、一億円というとちょっとしたかさになるからな。がっちりした鞄を持ってこいよ」

 泰平は驚いた。清塚は二億五千万円の借り入れを現金で受け取ろうとしているのか!

それに「がっちりした鞄を持ってこい」と言われても泰平は一億円の現金など見たことがない。「ちょっとした嵩になる」と言われてもどのくらいの嵩か見当がつかなかった。

「こんな物で大丈夫でしょうかね?」

 伊沢が机の下から取り出したのは、彼が通勤に使っているA4のアタッシュケースである。

「馬鹿、そんなので入るわけないだろう。いいよ、俺のを持って行け」

 清塚はそう言うと社長室に戻り、ロッカーから自分のアタッシュケースを出してきた。同じA4だが泰平の物よりだいぶ厚みがある。

 

 慧明塾は紀尾井町のホテル・ニュー・オータニ・ビルにある。泰平は慧明塾に行くのは初めてである。泰平のみならず、清塚以外で慧明塾に行ったことのあるORIの社員は一人もいなかった。泰平のいた緑営産業のビルは、場所こそJR大森駅の駅前にあり便利ではあったが、六十年以上経った三階建ての代物で、周辺に小さなビルがひしめきあった雑然とした場所にあった。当時、仕事で訪ねる先の企業も、似たり寄ったりのビルに入った企業ばかりだった。一流ホテルと同居するような会社に行くのは初めてのことである。大体、泰平は都心の一流ホテルなどとはおよそ縁のない生活をしてきた。ホテル・ニュー・オータニに入るのはもちろん初めてである。清塚は気後れから一歩遅れている泰平を振り返って、

当社うちもオフィスが狭くなってきたからどこかに移ろうかと思ってるんだが、このビルはどうだ?」

 と言った。官邸ルートで取れたビジネス以外に、社員が取ってきたビジネスはまだゼロなのだが、泰平がORIに来て以来、営業社員数は更に二名増えており、確かにオフィスは狭くなっている。しかしそれは泰平以下がいるサイドのことで、社長室はゴルフのアプローチができそうな広さである。住民一人のところにエアコンの吹き出し口が三つもあるので、清塚は「寒過ぎる」と文句を言っていた。社員は皆、社長室との間の仕切を少し向こうにずらすことを望んでいるが、社内にはそんなことを言い出せる雰囲気はおよそなかった。

 慧明塾で応接室に案内してくれた受付嬢のスカートは、ORIの河本清花の物より更に短かかったが、そこから出ている脚はすんなりと長く、目を覆う必要はなかった。案内された応接室の壁には、青を基調にした夜の砂漠の絵が掛かっていた。泰平も見覚えのある絵である。

「平山郁夫だよ。もちろん本物だ。いいだろう」

 清塚はまるで自分の家の応接間に案内したように自慢するとソファにふんぞり返ったが、ドアノブがガチャッと言うと跳ね起きた。部屋に入ってきたのは身長は百七十五センチぐらいで、肩幅が広く、ボクサーのようながっしりした身体をした男だった。年格好は四十台半ばだろうか?額はやや狭めで、その下に小さい目が冷たく光っている。顎の辺は、額の完全に二割増しぐらいの広さがある。つまり完全な台形である。台形の真ん中には、底辺の幅を広いと感じさせないくらい堂々たる獅子っ鼻と、食パンを横向きにでも食えそうなほど幅広の口が頑張っている。その口の向かって右上には大きな黒子ほくろが二つ並んでいる。

 清塚は立ち上がって男を迎えると、

「どうも色々お世話になっています」

 と言って六十度頭を下げた。泰平がこの二カ月余りの間に見た清塚のお辞儀角度の全合計より多い。

【 これが慧明塾のカリスマ指導者で、矢部官房長官とツーカーの付き合いをすると言われる光中さんか?】

 泰平は直立不動の姿勢で胸のポケットから名刺入れを出した。

「専務の桜井でございます」

 清塚が紹介した。泰平も六十度頭を下げながら男が差し出した名刺を押しいただいた。

「宇田です」

 男は泰平の名刺を見もせずに、どかっとソファに腰を下ろした。泰平はハッとして名刺を見た。名刺には「株式会社 慧明塾 けいめいじゅく取締役企画室長 宇田哲哉」と記されている。

【 そうか光中さんじゃないんだ!】

 清塚はこういうときの部下の反応には極めて敏感である。

「宇田さんは光中代表の右腕で慧明塾のナンバーツーだ。官邸なんかノーチェックで出入りできるんだ・・・・・・と伺ってますが、そうなんでしょう? 宇田さん」

 後半は宇田に向けられたお世辞である。

「いやあ、ノーチェックというわけではないけど、普段、官邸や矢部事務所に出入りするのは光中代表より私のほうですから」

 否定ではないのだろう。再びドアノブがガチャッと言い、清塚はもう一度跳び上がった。泰平も慌てて清塚に続いた。挨拶の手続きは先ほどの繰り返しである。今度こそ光中だった。光中は、

「光中です」

 と言って泰平の名刺を受け取ったきりで自分の名刺は出さなかった。光中のほうは六十歳少し手前か? 小太りで、面積の広い丸顔の中央部に小さな道具類がこちょこちょと集まっている。てっぺんには上下の目印程度に僅かな白髪が残っている。どう見ても顔を描いた風船である。この男のどこにカリスマ性があるのか、カルト性があるのか泰平にはさっぱり分からなかった。この間、宇田のほうはソファにどっかと脚を組んで座ったまま、その巨大な口の両端を下げて、三人の挨拶交換を見ていた。普通、こういう表情は人を小馬鹿にしたときに浮かべるものだが、ボスの前でこういう表情を浮かべる男も珍しい。どう見ても、どちらがボスなのか分からない態度である。しかし光中はそんなことは一向に気にならない様子で始めた。

「あれからTQCと穴沢工務店に話したんですが・・・・・・」

 と言いかけて言葉を切り、泰平のほうを顎で指して、

「いいんですか?」

 と清塚に尋ねた。泰平が珍しく気を利かして、

「私、出てましょうか?」

 と清塚に聞くと、清塚は

「うん、そうだな。部屋の前にチェアがあるからそこで待ってて貰おうか」

 と言った。

 泰平は、十五分後に清塚がドアから顔を覗かせ、

「もういいぞ。入れ」

 と言うまでロビーにおかれたチェアに所在なく座っていた。泰平が入るのと入れ替わりに部屋を出て行った宇田はすぐにがっちりした箱形の鞄を持って部屋に戻ってきた。宇田は、

「それじゃあまず一億円。一応中を改めて下さい」

 と言って清塚の前に鞄を置いた。清塚は、

「それじゃあ」

 と頭を下げると鞄を開けた。中は百枚づつ銀行の帯封をした一万円札がきちっと収められている。

「桜井、アタッシュケースを開けてここに置いて」

 清塚が箱形鞄を動かしてテーブルの上に隙間を空けた。泰平が言われたとおりにして蓋を開けると清塚はその中に、

「一つ、二つ」

 と数えながら札束を移し始めた。

「七十二、七十三」

 早くもアタッシュケースは満タンになり、百束全部移し終えたときは盛り上がって蓋が閉まらなくなっていた。

「清塚さん、持ってきた鞄はこれ一つかね?」

尋ねた宇田が口の端を下げた。

「はあ。ほら桜井、俺が言ったとおりこれじゃ小さいだろう」

 清塚が咎めるように泰平に言った。泰平は呆れ返って何も言えなかった。

「それじゃあこの鞄を貸すからこれに金を戻しなさい。これは私が矢部事務所に金を運ぶときに使う鞄だけど二億までは問題ないから。貴男あんたもでっかい仕事をするんだったら、このぐらいのを一つ買いなさいよ」

「分かりました、早速手に入れます。それじゃあ今日はこれをお借りします」

 清塚はそう言うと急いで札束を箱形鞄に戻した。戻し終わると宇田はキーでロックし、そのキーを、

「落としなさんなよ」

 と言って清塚に渡した。清塚は空になったアタッシュケースを閉じて持つと、

「それじゃあこれで失礼します。桜井これを持って」

 と金の入った鞄を泰平のほうに押しやった。どうやら借用証も何も書かない様子である。

【 金利その他の返済条件はどうなっているのだろう?】

 泰平は不思議に思いながら鞄を持ち上げた。

【 重い!】

 鞄は予想以上に重かった。

「待った! 貴男あんた達、一億円の金をただぶら下げて持って帰るつもりかね?」

 宇田は今度は本当に呆れたように言うと、

「ちょっと待ちなさい」

 と言って再び応接を出るとまたすぐに戻ってきた。今度宇田が手にしていた物を見て泰平はギクッとした。手錠である。

「さあ鞄を持って」

 宇田は当たり前の顔で泰平に命じた。嫌も応もなかった。泰平が仕方なく鞄の上部の取っ手を握ると、宇田はリングの一つを泰平の手首に回してカチッとロックし、もう片方を鞄の取っ手にロックした。

「これも落とさないようにね。落としたら腕を切るしかないよ」

 と言いながらそのキーも清塚に渡した。悪い冗談とは思うが、清塚がキーを無造作に上着のポケットに入れるのを見ると「この連中にとっては、金儲けの役に立たない男の腕なんか、鞄の取っ手より価値のない物なんだろうな」と思わざるを得なかった。泰平は憮然として鞄を持って部屋を出た。


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 それから二週間ほど後に、官庁街のど真ん中、霞ヶ関二号館、三号館に小型のORIプラントを納入することが決まった。これももちろん官邸ルートで決まった話である。いずれも周辺の官庁ビルに入っている食堂業者からの生ゴミ処理を当てにしたものではあるが、排出されるゴミの量が正確に掴めていない。小型機にしても、多分プラント一機の操業には到底足りないのではないかという懸念があった。それ以上に心配なのが、霞ヶ関のど真ん中でどんどん堆肥ができても、それをどう消費するかである。首都圏近郊まで運んでいたのでは運送コストが馬鹿にならない。

 そこで社員の一人が思いつきで言ったのが、近年流行はやりの屋上緑化である。東京中心部のビルにも消エネのために、屋上に木を植えたり菜園を造ったりするところが出始めている。最近では地下室菜園も始まっていた。こういうところに堆肥を売り込んだらどうだろうと言うのである。清塚はこの話に飛びついたが、単純にその社員の思いつきを誉めることはしない。

「屋上緑化をやっているところを探して売り込むなんていうことじゃ駄目だ。屋上緑化そのものから売り込むんだ。そうすりゃ屋上緑化と堆肥と両方で商売できるだろう。一石二鳥じゃないか。商売というのはこういうふうにやらなくちゃ」

 という次第で、ORIは、もう一つズブしろビジネスに手を出すことになった。清塚は官邸経由、環境庁のルートで大手商社五井物産に話を持ち込み、同社が手がける屋上緑化事業のお先棒を担ぎ、新規ビジネスが取れれば総工費の二十%のマージンを貰う契約を結んだ。ついでに、そのビジネスの指導役として五井物産の省エネ事業部の担当者を繰り上げ定年で貰い受けた。しかし、スタートから二カ月が経っても、取れたビジネスは、その男が手土産代わりに持ってきた仕掛かり中の案件二件だけだった。


 官邸ルート以外にORIプラントの新規案件が全く出ないため、ORIは次々に思いつき副業に手を出し始めた。介護老人ホームなどで大量に発生する使用済み紙おむつから固形燃料と堆肥を作る機械の受託販売。使用済み食用油を分解する酵素水製造機の受託販売等々である。看板に掲げて商売するからにはカラー写真入りのビラも必要になる。清塚の性格では、それらのビラも、トヨタ、ソニーなど超一流会社の商品カタログに見劣りしないものでないと満足しない。しかし、実際に取れたビジネスは、それぞれ二、三件ということになれば印刷代も出ない大赤字である。

こんなことで、ORIは見せかけだけのビジネスをどんどん増やしていったので、はたからは超優良成長企業に見えた。とりわけ、官邸の意向を組んだ環境省と経済産業省は、あちこちでORIの宣伝をしてくれた。これを鵜呑みにしたのが政府の御用達新聞、日本興業新聞である。日本興業新聞にはORIが度々「ベンチャーの旗手」として登場し、清塚は「現代の最もチャレンジングな企業経営者」として紹介された。そして、とうとう〇四年十一月には日本興業新聞主催「第四回日興ベンチャー大賞」にORIが選ばれたのである。この賞は日本興業新聞社が、革新的な技術やアイディアで新しいビジネスにチャレンジするベンチャー企業を鼓舞・育成するために立ち上げた賞であり、大賞に選ばれると、日本興業新聞グループ各社のメディアで紹介されたり、各社が主催するフォーラムやコンベンションに講師やパネラーとして招かれるので、創設四年目にしてベンチャー企業の登竜門ともいうべき賞になっていた。その賞に、会社創立から僅か半年のORIが選ばれたのだから、清塚でなくても有頂天にならないはずはない。

 このところ、清塚に完全に愛想を尽かし果てていた社員達も、「ひょっとすると、うちの社長はやっぱり天才だったんだろうか? これで会社も大丈夫だ」と喜んだ。


 受賞式は十一月二十五日、浜松町の日興ホールで行なわれた。受賞式に続いて行なわれた記念講演で日本興業新聞の滝江社長は

「ご承知のように、ゴミ処理の問題は、どこの都会でも自治体が頭を痛める最大の問題になっており(中略)。一方では消費者の健康志向が進む中で、有機栽培野菜に対する需要は急速に拡大して(中略)。こういう二つの現代的課題を一石二鳥で解決し、しかもそれをビジネスチャンスに結びつけるという逆転の発想は(中略)。それではただ今から、ベンチャーの星、清塚康司ORI社長の受賞記念講演に入らせていただきます。清塚社長どうぞ」

 と言って清塚を紹介した。清塚が颯爽と演壇に上がった。

「ただ今ご紹介いただきましたORIの清塚でございます。本日は・・・・・・」

 会場にはマスコミ関係者や、ベンチャー企業の育成に関心のある官界・財界関係者などが二百人ほど詰めかけていた。最前列の来賓席には矢部官房長官の筆頭秘書の上井、官房副長官補の節井などの顔も見えていた。

 厚顔では誰にも引けを取らない男であるが、清塚にはさすがに感無量のものがあった。屈辱の思いで中央火災を去って以来、古巣の連中を見返してやりたい一心でずいぶん危ない橋も渡ってきたが、僅か十カ月でこうして日興ホールの舞台に上がり、二百人を前に講演をするところまで漕ぎ着けたのである。明日の日本興業新聞朝刊には、間違いなくこの晴れ姿の写真が載るだろう。清塚が激しいライバル意識を燃やす黒岩舜一は、六月の五稜自動車工業株主総会で予定どおり取締役に就任している。

「だけど所詮二流メーカーの雇われ役員じゃないか。俺は今や花形ベンチャー企業のオーナーだぞ」

 清塚はそうマイクに向かって叫びたいのをぐっと我慢すると、見事に謙虚な、抑えた調子で話し始めた。


「実は、私が生ゴミから作った天然堆肥を使って野菜を作ることを思いついたのはかれこれ二十年近くも前のことで、私が大学の卒業旅行でメキシコに行った時のことなんです。当時のメキシコの田舎は想像を絶する、素朴というか、原始的な生活で、ある日私はとんでもない光景を見てしまったんです。それは、私がおんぼろバスに乗ってメキシコ北部の農村を通り過ぎていた時のことですが、一軒の農家の庭先で、裸の子供が大きな木の枝にぶら下がっていたんです。何をしているのかなと思って見ましたら、なんと木にぶら下がった格好でウンチをしてるんですね。ところが木の下には豚が二、三頭集まって来て、ブーブー争ってそのウンチを食べているんです。人間のウンチには人間には消化吸収できないで出てしまうけれど、豚なら消化吸収できる栄養素がまだ残っているんですね。だけどその豚を人間が食っちゃうわけですから、これはまあ完璧なリサイクルなんですよ」

 ホールの中は顔をしかめた聴衆の笑い声で満ちた。しかし清塚自身はメキシコに行ったことはない。受賞記念講演の準備をしているときに、昔、メキシコを旅行した友人から聞いた話を思い出したのである。清塚の生ゴミリサイクル事業は、彼の思いつきでもなんでもない。陸上部の先輩、遠山のアイディアに乗っかって、同じく陸上部の先輩大庭おおばの開発した堆肥製造装置の技術をぱくっただけのことである。しかしそんなことは口が裂けても言うわけにはいかない。


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 清塚が日興ホールの晴れの舞台で自分の作り話に酔いれているころ、本当の開発者大庭はORIのオフィスで桜井泰平と向かい合っていた。泰平の前に置かれた封筒には、研究委託仮契約の解約通知とORIの株券五株分が入っていた。ORIプラントに関する大庭のノウハウ使用許可の見返りとして、仮契約書に基づいて清塚が大庭に渡した株式である。

「契約の解除は、解約通告の二カ月後から有効ということですから、来年の一月二十五日以降は、ええとなんて言いましたかね・・・・・・ORIプラントですか? まあどんな名前を付けるにしても、私の開発したノウハウは一切使わないで商売をやっていただくことをお願いしますよ」

 言葉遣いは丁寧で穏やかだが、泰平には大庭が怒りを押し殺して話しているのがよく分かる。心情的には完全に大庭をサポートしたいところだが、今や泰平自身もすべての財産と生活をORIにかけてしまっている。

 プラントに関する特許の審査も異例のスピードで進められている。清塚に言わせれば「官邸経由で持ち込んだのだから、実質的には無審査みたいなもの」だそうである。契約書では特許が取れた場合、その特許権は大庭とORIが五十%づつ保有するが、大庭が保有する五十%部分についても、ORIの発行する株式五株と引き替えにORIに使用権を認められることになっている。この契約が大庭により破棄されたらORIは業務を続けられるのだろうか?

「おっしゃることはよく分かりますが、一応社長に報告いたしまして改めてご連絡しますから今日はこれはお持ち帰りいただけませんか?」

泰平は封筒を大庭のほうに押しやった。

「いや、ご連絡いただくことは何もないと思いますから連絡は結構です。仮契約書では二カ月以前の通知で解除できるはずですからこれはお受け取りいただきます」

「そうは言っても、これまでのノウハウ使用料のこともありますから・・・・・・。株券をお返しいただいちゃったら今までの使用料が払われないことになっちゃうでしょう?」

 大庭は苦笑した。

「そんなものどうでもいいことです。だいたい、近々取れるとおっしゃった特許にしても、特許の根拠になる理論が間違っていることが分かったらどうなるんでしょうね。私は特許庁に試験プラントのデータを提出するつもりですよ。仮に特許が出てしまっても、私が保有する五十%部分については御社は使用できないんだから業務が成り立たないはずで、そうしたらそんな株券は紙屑以外の何物でもないじゃないですか」

 まさに泰平の不安ずばりである。黙ってしまった泰平に大庭は、

「貴男や社員の皆さんにはなんの恨みもないんで心苦しいけど、私にも譲れない一線がありますから。それでは恐縮ですがこれにサインしてお返し下さいますか?」

 と言って鞄から別の書類を一枚取り出して泰平の前に置いた。

「株券の受領証です。これをいただいておかないと、清塚のことだから『受け取ってない』なんて言い出しかねないですからね」

 書類には既に今日の日付が入っていた。こんなものにサインして渡したら、後で清塚から「馬鹿だ、間抜けだ」と言われるのは目に見えているが大庭の要求はすべて尤もなことばかりである。

「分かりました」

 泰平は腹を括って「ORI専務取締役 桜井泰平」とサインをして大庭に返した。

 清塚は講演に続くパーティーに出席した後、夕方帰社する予定である。泰平は重い気持ちで清塚の帰りを待った。

 清塚は酒で顔を赤くして上機嫌で帰ってきた。泰平は清塚にいて社長室に入ると、大庭が訪ねてきたことを話し、デスクの上に解約通知書と株券を置きガードを固めた。間違いなく清塚の罵声が飛んでくると思ったのである。ところが、予想に反して清塚の上機嫌は変わらなかった。

「こんなものなんの意味もないさ。と言うより、そもそも仮契約なんて交わしてないんだから。大庭が持ってるコピーは仮契約書のコピーさ。だけど実際に交わしたのは仮でもなんでもない。役所に出したのは堂々たる本契約だし、本契約では二カ月以前の通告による改廃権なんか認めてないんだから」

泰平は唖然とした。

「ということは、社長は大庭さんを騙したってことですか?」

「人聞きの悪いことを言うなよ。大庭は俺が役所の助成金を取ってやらなかったら、百年かかっても実用実験なんか始められなかったんだぞ。そうしたら特許も何も取れないじゃないか。だけど役所は大庭との研究委託契約書がないとORIに金を出すわけにはいかないって言うし、大庭はぐずぐず言ってるだけで決断ができないし、だから仮契約だからとにかく判を押せと言うしかないじゃないか」

「それはそうかも知れませんが、そうやって大庭さんに見せた仮契約のコピーと内容の異なるものに判を押させたんですか?」

「そんなもの、契約書をきちっと読まないで判を押すほうが悪いんじゃないか」

「でも契約書は二部作成したんでしょう?」

「ああ、二部作ったよ。一部は役所に提出したし、もう一部はそこにファイルしてあるよ」

 清塚は顎で社長室のキャビネットを指した。

 大庭は自分に渡されたコピーと契約書の本紙の内容が同じかどうかも確認せずに、二部とも判を押してしまった上、一部を受け取ることもしていないのである。いくら世間知らずの学者とはいってもこれは酷すぎる。

「それじゃあ大庭さんにはそのことを説明して株券は返しときましょう」

「馬鹿。お前も大庭に勝るとも劣らぬ馬鹿だなあ。放っとけばいいんだよ。二カ月間じっくり待たせとけばいいんだよ。株式だって本人が受領辞退するっていうものをわざわざ追いかけて返す必要なんかあるもんか。今日もパーティーの席で『株を持たせてくれ』って何人もから頼まれてるんだ。今売っても、額面の十倍ぐらいで買う奴はいると思うぞ」

 何をか言わんやである。泰平は黙って社長室を出た。


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 日興ベンチャー大賞受賞の後、清塚のところには各地の商工会など、日本興業新聞グループ以外からも講演依頼が来るようになったし、ベンチャー関係の雑誌などからの執筆依頼も続いた。

 数日後、更に清塚を有頂天にするようなことが起きた。矢部官房長官が民自党の総裁に決まったのである。清塚は矢部とは九カ月前に慧明塾の勉強会で一度会ったきりであるが、それ以来清塚は、周囲には矢部のことをまるで百年の知己のように言っており、どうやら、今では本人もそう信じ始めている風情があった。その矢部が総理大臣になるというのだから、これでもう世の中に怖いものはない。清塚にとっては人生最良の時期だった。しかしこれで、見栄っ張り清塚にもかろうじて残っていた僅かな用心というものも吹っ飛んでしまった。


「今からはビジネスは倍々で増えるだろうが俺が財界活動で忙しくなりそうだから、俺の代わりに会社を見て貰える男が欲しい」

 欲しいとなったら我慢できない男である。彼は節井官房副長官補の口利きで、大手都市銀行の「いなほ」から、都内の支店で支店長をしていた楠木くすき茂兵もへいという男を副社長で、また日本興業新聞社長の紹介でホンマ自動車から、営業部門の次長をしていた岡谷おかや章郎あきおを営業統括の常務の肩書きで向かい入れた。泰平の上下に一人づつ入ったわけである。このうち、副社長のほうには銀行からの要請で副社長室を用意することになったが、泰平以下がいる大部屋は既に狭くなっているので、社長室を削る以外にはスペースがない。

 年の瀬も迫ったころ、ORIはお茶の水のオフィスを畳んで、千代田区四番町にできたばかりのビルの七階に移ることになった。面積も二倍以上になったが坪単価は東京でも最高レベルの四番町である。家賃は一遍に五倍になった。しかし業績は倍々どころか全くの低空飛行である。清塚が社員に大見得を切ったボーナスは見送りとなった。ベンチャー大賞は清塚の虚栄心を満足させることには大いに貢献したが、ORIのビジネス拡大にはなんの役にも立たなかったのである。

 副業で手を出した紙おむつ処理機や食用油分解酵素水製造機のほうは、インターネットで宣伝したこともあり、八台の納入先が決まったが、納入先をよく調べもせずに納品したため、詐欺で機械をだまし取られたもの二件、倒産一件の計三件が回収不能となり、仕入先の商社やメーカーからやいのやいのの催促を受ける結果となった。

 これらの経費と、墨田の町工場に支払う四台のORIプラント及び二台の小型プラントの頭金は光中から借り入れた二億五千万円でなんとか支払ったが、年明け以降は社員の給与支払いにも窮する状態になり、いなほ銀行から二億円を借り入れて当面の経常経費支払いに充てて急場を凌いだ。


 〇五年二月一日、十億円の増資が予定どおりに行なわれた。増資に応じたのは大手ホテルオーナー一族の経営する不動産会社「TQC」、パチスロメーカー「ハウゼ」、矢部首相が社長の娘の媒酌人を務めた中堅マンション業者「穴沢工務店」などの八社で、いずれも光中慧明塾代表の薦めを信用して出資した企業だが、清塚に言わせれば、

「出資を希望してこられた企業は数十社にのぼるが、そのうちでも特に光中代表に近い企業さんにお入りいただくことにした。予定どおりの増資を終えて、これでまた上場に一歩近づいた」

 ということで、清塚が光中を立てて光中に近い企業に絞り込んだということになり、話の順序が逆になる。泰平が知っている限りではこの八社の他に、ORIに出資の希望を伝えてきた企業は一社しかない。中央火災海上だけである。


中央火災海上で財務運用部門を担当している岩田貴一きいち専務がORIに飛び込んできたのは増資まで一週間を切った一月二十六日の昼前でである。岩田は清塚の中央火災時代の十年先輩だが清塚と上下の関係だったことはない。しかし同じ三重県四日市の支社長経験者ということもあり、互いによく知っている。清塚は陰では、人はよいが能力的には平々凡々たるお坊ちゃんタイプのこの先輩を馬鹿に仕切っていた。しかし今はとにもかくにも一流企業の専務である。清塚の人間分類の「社会的に成功している(または成功の可能性の強い)人で、将来、自分にとって利用価値のありそうな人間」の典型例である。かれは誠に如才なく岩田を歓迎した。

「これはこれは、トップ損保の大専務がお越し下さるなんて光栄の至りです。いったいなんでおいで下さったんでしょう?」

「いや、なんでってこともないんだけどね。前から君が立ち上げた評判の会社ってのに興味があって一度覗いてみたいと思ってたんだけど、今日、偶々たまたま近くまで来たもんだからひょこっと寄ってみたんだよ。しかし凄いね。まだ設立から半年かそこらだろう? このところ、経済誌にはしょっちゅう登場してるじゃないか」

 この「偶々」という言葉の使い方は清塚のほうがプロである。清塚には岩田がこの時期に初めて、しかも突然訪ねてきた意図は見え見えだった。しかし、そんな様子はおくびにも出さない。

「まあまあってところですかね。来週はなんとか第一次増資まで漕ぎ着けましたんですがお陰様で応募が殺到しまして絞り込むのに苦労しました」

「おっそうか。そんな話があったのか? そんな話があったなら当社も一枚噛ませ貰いたかったなあ。まだ間に合うんだろう? 少し手伝わせろよ」

「ご冗談を・・・・・・当社うちなんかまだまだ御社のような一流企業にお付き合いいただけるような身分じゃありませんから」

 およそ謙虚さとは縁のない男ではあるが謙虚さを装うのは超一流である。

「いやいや、君も知ってのとおり当社うちの株式ポートフォリオは昔からの持ち合いでがんじがらめでね。損保も一昔前とは違って、保険収支ではほとんど儲からなくなってるから、運用のところの利回りを上げて行かなきゃ食っていけなくなるんで、社員には前から新進気鋭のこれからの企業を発掘してこいって言ってるんだけど、役員が手本を示さなきゃなかなか走り出してくれなくてね」

 財閥系損保の代表格である中央火災は五菱グループを中心とした大企業相手のビジネスで安定的な利益を上げてきたが、競争の激化した昨今では保険料収入と保険金支払いの差、つまり保険収支はぎりぎりのところまで追い込まれている。今や、財務運用の優劣が損保の優劣を決める最大の要素となっている。そうなると、グループ内での株式持ち合いや、保険ビジネスのためのお付き合いで縛られた中央火災の株式資産は全体の利回りの足を引っ張る存在でしかない。

「専務、本気で当社の株式を持って下さるおつもりなんですか? わあ、これは名誉な話で感激ですね。御社が入って下さったら掃きだめに鶴ですよ。だけど専務、残念ですが今回はもう固まっちゃいましたので・・・・・・」

「そこをなんとか頼むよ。何しろ創業オーナーなんだからなんとでもなるだろう」

「いやいやありがとうございます。しかし、当社がここまで順調に来られましたのもいろいろお引き立ていただいた企業のおかげなんですが、今回はそれらの企業にもお待ちいただいておりますので、今ここで、直前になって御社にお入りいただく訳にもいかないんですよ。その代わりと言っちゃあなんですが、次回増資の時には一気に筆頭クラスになっていただくように考えますから。そんな次第ですので、第二次増資までは今回とほとんど同じ条件で優遇するつもりでおりますんで、それでなんとか勘弁して下さい」

「そうか、それじゃあ仕方ないかなあ。それで、第二次はいつ頃になるんだい?」

「はあ、お待たせしているところからもやいのやいの言われてますんで、できれば一年以内にと思っているんですが」

「分かった。あまり無理を言ってもいかんから、それじゃあ、その時には頼むよ。君には中央火災もご縁があることだから、普通のベンチャー投資の枠を超えて思い切って持たせて貰うから」

「分かりました。岩田専務に言われちゃ、言うことを聞くしかありませんね。承知しました」

 というようなやりとりがあった。このやりとりには泰平も立ち会ったが、第二次増資の話など聞いたこともない泰平は目をぱちくりして聞いていた。


 とにもかくにも増資は無事終わったが、この十億円は借入金の返済と未払い金の支払いを終えたら見事に吹っ飛んでしまった。最大の支払額は光中への借入金返済と利息の支払いである。増資の翌日に清塚が切った小切手の額を見て桜井泰平は度肝を抜かれた。三億五千万円を出る額だったのである。二億五千万円を借り入れたのはたったの二カ月前である。泰平は三度に分けて借り入れが実行されるたびに慧明塾に現金を取りに行ったが、借用証などただの一度も渡してない。しかし仮に年率十二%としても二カ月の金利は五百万円で済むはずである。ところが清塚の説明では、この元本以外の九千余万円の大半は金利ではなく経営指導料だというのである。十ヶ月前にORIが慧明塾の会員になったときの光中との契約では、ORIは月々一千万円の経営指導料を光中に支払うが、業務が軌道に乗るまでは支払いを猶予して貰っていた。それをここで一気に清算するというわけである。清塚に言わせれば、

「研究助成金が取れたのも代表のお陰、協力農協が見つかったのも代表のお陰、ORIプラントの納入先が六カ所も決まったのも代表のお陰、日興ベンチャー大賞を貰ったのも代表のお陰。そう考えると月に一千万円なんて額でいいのかどうか?」

 ということになる。しかし、土浦のプラントは昨年末で実用実験期間を終わったが、その後も毎月赤字を出し続けている。二カ所の給食センターと二カ所の自衛隊駐屯地へのプラント納入は年明けに終わり、見かけの売り上げを増やしはしたが、実態はメーカーへの買い掛金が増えただけで、稼働しても黒字を残せるような態勢は全然できていない。日興ベンチャー大賞に至っては、清塚一人舞い上がっているだけで、会社業務には何一つプラスになっていないのに、祝辞を寄せてくれた先に記念品として贈った置き時計代が二百万円かかっている。





第三部 暗転


3-1  見捨てた銀行


 ORIに元いなほ銀行支店長の楠木茂兵が副社長で、また元ホンマ自動車営業部次長の岡谷章郎が営業統括常務で着任したのは増資当日の〇五年二月一日である。泰平は何か騙されたような気がした。半年前に泰平がORIに来た時の条件は、会社のナンバーツーということであったが、そのことに関して清塚からは何一つ説明がなかった。しかも増資後アップを約束されていた報酬も前のままである。普通なら「約束が違うじゃないか」と怒るところだろうが、泰平の場合は「絶対に当たる」と言われて引いた籤が空籤だったような気分がしただけだった。

 しかしその泰平も、自分以下、以前からいる役職員が清塚に何一つ言えないでいるときに、来たばかりの楠木が、

「財務状態を抜本的に立て直す必要がある。社長はもっと本業にしっかり取り組んでいただきたい」

 と清塚に嚙みついた時には、上席役員に楠木が来てくれたことを心から感謝する気になった。真夏のカンカン照りに日傘を差し掛けられたような気分である。楠木が清塚にものが言えるのにはいくつかの理由がある。何よりも、ORIがいなほ銀行に主取引銀行として面倒を見て貰っていることがある。清塚は自分にとって利用価値のあるもの、ないものの見極めは極めて明快である。また楠木がいなほ銀行に籍を残したまま出向身分でORIに来ていたことも楠木を強気にした。出向先のORIが世評どおりの優良企業なら銀行を繰り上げ退職してORI副社長に填り込むが、ORIに問題があればまだ銀行に帰ることも可能である。それに何よりも、楠木が清塚の横暴さをよく知らなかったことも歯に衣着せずに清塚に嚙みつくことを可能にした。

楠木の直言は清塚も無視するわけにはいかなかった。そこで清塚が財務建て直しのために慧明塾の光中代表と打ち合わせて決めたことは、年度が変わったらできるだけ早い時期に再び増資をするということだった。二人は柳の下にいる泥鰌は何匹でも取れるだけ取ることにしたようだった。しかし、今度の増資の前には決算がある。なんとかもう少し決算らしい決算を作れるようにしなくてはならない。その為に求められたのが、数台のORIプラントとか数件の紙おむつ処理機、僅か二件の屋上緑化などではなく、安定的に出てくる日常ビジネスだった。清塚がこのために新たに手を出したのが、農水省から「手を貸してやってくれないか」と頼まれた千葉県銚子市の「農業環境整備組合(農環組合)」との提携だった。


 この組合は外房地区の有力農家九十軒が持っている農地と牧場を集約して、大規模に有機農・牧畜業を行なおうというもので、農環組合は組合員の農畜産物の物流、加工、販売を一手に行なうと同時に、組合員の廃棄農作物や加工工場から出る生ゴミを利用して堆肥を作り組合員に販売する。また、農畜産物の販売先からの代金回収を待たずに、組合員に収穫代金の即時決済するという、一種の金融機能も持つ。

 清塚と農環組合の理事長の二人が取り決めた協定では、農環組合はORIプラントを導入し、生ゴミ処理をORIに委託する。ORIはこの見返りに農環組合の金融機能の原資一億五千万円を供給し、農環組合は見返りにORIの次回増資の際に五千万円の株式(五十株)を購入するというものである。

 清塚は農環組合理事長と提携覚え書きを交換した翌週、ORIの取締役会でその内容について報告した。

「生ゴミの供給者と堆肥の販売先が同じところだっていうのはシンプルでいいよな。プラントはリースにして、リース料は生ゴミ処理費と堆肥の販売費にオンして支払わせる。それと一億五千万円の肩代わりだが、具体的には、当社が農家から収穫物を買い上げて、代金を即時現金決済する形で行なう。当社はそれを農環組合に売り、農環組合は卸業者に売るんだが、当社への支払いは農環組合が卸先から回収してからになる。だから一億五千万円は一種のエスクローみたいなもので、農環組合に対する融資じゃないから金利制限もないし、相当の高利で運用できるんだ。どうだい良いとこ尽くめだろう」

 と言われても他の役員達は「農業環境整備組合」なるものも初耳だし、提携の中味もちんぷんかんぷんである。大体、債務超過の赤字会社に、そんな「農水ご推奨の立派な組合」への金融制度支援などできるはずがないではないか。出席の取締役は皆黙ってしまった。清塚にすれば予想外の反応である。

「お前達、何か不満があるのか?」

 と不機嫌に言った。楠木が憮然として、

「私は反対です。しっかりした担保を取って融資するならまだしも、エスクローなんて冗談じゃないですよ。エスクローっていうのは、引き出せる場合の条件が付いているとは言っても譲渡は譲渡ですよ」

「だから『エスクローみたいなもの』と言ったんでエスクローだとは言ってないだろう。桜井以下が分かりやすいと思ったから比喩として言ったんだよ」

 とんでもないところで自分が引き合いに出されて泰平は面喰った。楠木は引き下がらなかった。

「じゃあどうするんですか? 融資じゃなくて譲渡でもない? ってことは当社の金を預けておいて向こうに勝手に出し入れさせるってことですか?」

「いやそうじゃなくて、いわば枠を与えるだけだよ」

 清塚はしどろもどろになった。清塚も先方の理事長もこんな事には素人である。大まかなことは決まっていても、きちっとしたところまで詰まっているわけではない。楠木は遠慮なく畳み込む。

「ということは、向こうがどこどこの農家にいくらいくら払ってくれと言ってきたら、その都度こっちから振り込みするってことですか?」

「とんでもない。そんなことできっこないですよ」

 経理を担当する泰平としては堪ったものではない。うっかり口を出した。清塚は「しめた!」とばかり矛先を泰平に変えた。

「そんなことできっこないことぐらい分かってる。そうじゃなくて、そういう小口支払い事務は農環組合に全部やらせて、一定期間ごとに合計額を当社うちから農環組合に補填するんだよ」

 清塚としてはこれで正面の敵を楠木から泰平に変えたつもりだが、楠木は正面から退いてくれない。

「それで、当社は農家からは現金で買い上げてそれを農環組合に売るけど、農環組合から支払われるのは、農環組合が販売先の卸業者から回収してからってことは、その間は農環組合に対する売掛金になるんでしょう? それだったら農環組合に対する貸し付けと同じことじゃないですか? それに、プラントはリースにするっておっしゃったけど、どこかリース会社はついてくれるんですか? 当社の連帯保証を付けても見つからないんじゃないかなあ? そうなると、当社が直接リースするしかないってことですよ。駄目ですよ、それならそれでしっかりした債権保全措置をしとかないと。物的担保はあるんですか? それと理事長の連帯補償は取れるんでしょうね」

「そういう細かい話はすべてこれからだ」

「すべてこれからって、もう覚え書きも交わしちゃったって言うんでしょう? そんな重要な提携を取締役会にもかけないで覚え書きを交わすなんておかしいんじゃないですか。今からでも覚え書きの取り消しや変更は可能なんですか?」

「そりやあ全くできないというわけじゃないが・・・・・・。だけどこの組合は農水が全国のモデルケースにするためにバックアップしているところで、補助金まで付けてるんだから心配ないと思うんだ。だから俺の一存で進めさせて貰ったんで、この先のことは俺に任せて貰いたいな」

 覚え書きのコピーは先週の内に農水省に出してしまっているがそんなことはおくびにも出さない。農水は提携を歓迎して清塚に大感謝しているのである。今更「あの話はなかったことにして・・・・・・」はもちろん「理事長の連帯保証を・・・・」などと言い出せるわけがない。

「いやこれはちょっと問題が大きすぎますよ。私もこの会社のお世話になっていますが、銀行に対しても責任がありますので、社長にお任せするかどうかなんて話の前に、少なくともその覚え書きを見せて下さいよ」

 そうは行かない。「そういう細かい話はすべてこれからだ」と言ってしまったが、実際は相当細かいところまで踏み込んで決めてしまっているし、その内容は先ほどから楠木が指摘している問題点を全部含んだ内容になっている。正論の議論をしたのでは勝ち目はない。清塚は論点を変えた。

「見せろと言うなら見せなくはないが、そこまで俺を信用しないと言うなら俺は社長を辞めるから、それから見てくれ」

「いや、何も清塚さんに社長を辞めろと言っているんじゃないでしょう? 見せていただいて内容に問題がないならそれでいいんだし、問題があれば『変更が全くできないわけじゃない』ってことなんですからなんとかしましょうよ」

「いやそういう問題じゃない。俺が信頼できるのかできないのかの問題を言ってるんだ」

楠木以外の役員は皆、清塚のこの手のごり押しは何度も経験しているが楠木は初めてである。いなほ銀行にも相当変な上司もいたが、さすがにここまで横車を押す人間に出会ったことはない。

「信じられないな。この会社は清塚さんの会社なんだから清塚さんが社長を辞めたからそれでいいってわけじゃない。結構ですよ。いいようになさったらいいじゃないですか。私が辞めさせて貰います」

 楠木がそこまで抵抗すると思っていなかった清塚は慌てた。

「俺が独走しすぎたようだな。済まん。このとおりだから、本件は俺に任せて協力してくれないか」

 と言って頭を下げたが覚え書きはついに出そうとしなかった。


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 楠木は翌日から出社を止め、翌週には銀行に帰ってしまった。楠木からORIの実態をつぶさに聞いたいなほ銀行は、直ちに融資している二億円の繰り上げ弁済を申し入れてきた。こうなると清塚はケツを捲る。

「あんな意気地のない銀行の世話になんかなるもんか」

 と言って他の銀行を駆け回ったが、いなほ銀行が出向させた行員を僅か二カ月で引き上げたらしいという評判は早々に銀行間に流れ、付き合おうと言ってくれる銀行は一行も出てこなかった。すると清塚は居直った。

「いなほが何を言ってきても放っておけ。増資のあとで返せばいいんだから期限までは相手にするな」

清塚は、今やいなほ銀行との交渉窓口にさせられた泰平に言いつけた。しかしいなほ銀行も楠木からの情報で、今ORIを追い詰めても回収はおそらく困難で、それよりは当面そっとしておいて予定どおり増資を実行させるほうが良いと判断したようで深追いはしてこなかった。


 農環組合の金融事業支援は、楠木の指摘した問題を詰めた結果、結局は組合に対する融資の形を取ることになった。しかし、理事長個人の連帯保証こそとったが、今更物的担保をとることまではできなかった。組合との覚え書き修正交渉をやらされたのは泰平である。理事長は「何を今頃になって」と猛反発しながらも、自分一人が覚悟を決めれば済む連帯保証までは渋々応じたが、組合員の了承が必要な物的担保の提供に対しては頑として応じず、結局物的担保なしの融資をする事に決まった。しかし貸そうにもORIにそんな金は無い。清塚は再び光中から農環組合に貸し付ける一億五千万円を借り入れた。これも増資のあと返済しなければならないのである。

農環組合にリースするプラントについても楠木の指摘は正しかった。大手のリース会社はORIの連帯保証付きでも取引に応じようとはしなかった。なんとか見つかったのは専門のリース業社ではなく、大阪の「関西畜産」という会社で、平山克己代議士の口利きによるものだった。平山の秘書、横河耕史こうしの説明によると、この会社は三、四年前に国内でBSE(脳牛病)が発生して、国産未検査牛肉の焼却処分が決まった時に、衆議院農水族のドン、平山代議士が尽力して作った焼却補助金制度の恩恵を最も受けた会社とのことだったが、それ以上の詳しいことは清塚も聞けなかった。しかもリース料は見かけ上は出資法の上限金利の二〇%だが事務費その他を加えた実質金利は三〇%を超える。それに加えて遅延ペナルティーは年率百九・五%である。泰平にはとてもまともな会社とは思えなかった。しかし「大阪の食肉加工業者」ということで不安を口に出した泰平に対して清塚は、

「なんだそれは。職業差別か? 地域差別か? この時代にそんな差別感覚が許されると思うか? それに、この会社は平山先生のご紹介だぞ。先生のご紹介だからリースを組んでくれるだけじゃなくて、自分の工場の廃棄物処理にも当社うちのプラント導入を考えてくれるって言ってるんじゃないか。罰が当たるぞ」

 と、誠にご尤もな正論で罵った。清塚の頭の中は、今年の株主総会で一足飛びに五菱自動車工業の専務取締役就任が確実視されている黒岩舜一に対するライバル意識で一杯だった。ここはどんなリスクをとっても乗り切らなければならない。

 そうは言っても清塚もさすがに不安だった。当初は見栄を張って新品で納品の予定だった農環組合向けプラントは、土浦の試験プラントを移設することでリース金額を抑えることにした。土浦では、その後も繰り返されるORIの杜撰ずさん操業に愛想を尽かした農協が、ORIに対する協力を全面的にストップしたため操業はほとんど止まっていた。ORIが約束した地代は既に二カ月払われていない。このため、試験期間が終了しても、農協はプラント買い取りを拒否しており、プラントの撤去と跡地の現状復帰を要求していた。従ってこのプラントを銚子の農環組合に移設すれば、メーカーへの新規発注はしなくて済む。試験プラント自体は補助金で作ったものだからただである。それでも土浦からのプラント撤去、跡地整地、銚子への搬送、新規据え付けなどで一千五百万円にはなる。この金額がリース額となる。関西畜産に毎月のリース料を払うのは農環組合ではあるがORIも連帯保証人になっているのである。

【 そう言えば、数年前に国内でBSEが発生した時にいち早く未検査国産牛肉を大量に買い集めて、後で焼却補助金制度で大儲けした企業があって、その企業がまだ制度検討が公になっていない段階に、どうして買い付けをしたのか疑問だというような報道があったような気がするけれど、まさか関西畜産がそれじゃないんだろうな?】

 泰平の不安は募った。


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 今回の光中からの借り入れは五千万ずつ三回に分けられた。例によって手錠付き鞄を持って泰平が清塚の供をして取りに行くのである。一回目が用意された三月七日に応接室に出てきたのは宇田だけだった。

「今日は代表は?」

 清塚が尋ねたのに対し宇田は、

「ああ、光中さんは先月初め頃から時々胸が痛いって言っててね。先週この下の診療所に行ったんだが、どうも癌じゃないかって言うんで昨日検査入院したんだ」

 と答えた。大きな口の端が下げられている。どうもボスの容態など何一つ心配していない様子である。しかし清塚は本気で心配した。

「そうですかそれはいけませんね。どちらの病院ですか? 下じゃないんでしょう?」

 ホテル・ニューオータニの二階には、超金持ちだけを会員とする、最新検査装置を備えた診療所がある。

「ああ、下はドック専門の診療所だから入院はできないんだ。まあ頑丈な人だから問題ないとは思うんだが、『検査入院だけだから誰にも言うな』と本人が言ってるから・・・・・・。だけどあんな元気な人がこういうことになると、俺もちょっと気になるなあ。俺のところは娘二人なんだけど、まだ二人とも小学校だからなあ・・・・・・。女房なんかには一銭も残す気はないんだが・・・・・・。やっぱり、生保にでも入っといたがいいかなあ? そういえば貴男(あんた)は前は保険会社に居たんだよな。でも貴男が居たのは損保だっけ?」

 宇田が珍しく弱気なことを言う。

「ええ損保ですが、関係会社に『はつらつ生命』を持ってますから・・・・・・。大手生保みたいにかびだらけじゃないから却っていいと思いますよ。宜しかったら、いつでもしっかりした代理店をご紹介しますよ」

「そうか・・・・・・それじゃあ頼もうか」

「分かりました、会社に戻りましたらすぐに代理店に連絡を取って、宇田さんに電話させます。ここの電話番号でいいんでしょう?」

「ああここでいい。それじゃあお手数だけどお願いするか。あっそうそう、この前の謝礼から約束どおり五千万円を矢部事務所に届けといたからね。出所が貴男(あんた)のところだってこともよく言っておいたよ。上井秘書が貴男に呉々も宜しくってさ。何かあったら、またなんでも言ってきてくれって言ってたよ」

「ありがとうございます。多分またお世話になることがあると思いますので」

 清塚は深々と頭を下げた。泰平も清塚の後ろで中途半端に頭を下げながら、「なるほど、そういうことだったのか」と半分ぐらい理解した。



3-2  生命いのちの値段


 清塚は歩いて十五分の自社に戻るとすぐに、古巣の中央火災の代理店で、はつらつ生命の代理店でもある瀬川に電話を入れた。瀬川は中央火災の代理店研修会で清塚の講義を聞いて以来、彼に心酔している男で、典型的スモール清塚である。清塚も、何かのときには役に立ちそうなこの男とコンタクトを絶やさないでいた。

 瀬川は清塚からの連絡を受けてすぐに宇田に電話を入れ、翌日慧明塾を訪ねて、その場で期間十年、死亡保険金額二十億円の高額契約を貰った。保険料は年に八百十二万円、手数料は年二十五万円以上である。

「さすがに清塚さんが紹介して下さる契約は桁が違いますね。大感謝です。心ばかりのお礼に仕立券付きのYシャツ生地をお送りしておきましたのでお納め下さい」

 瀬川は申込書他の契約関係書類をはつらつ生命に届けたあと、清塚にお礼の電話を入れた。

 しかし生保会社がそんな高額の契約を、そんなに簡単に受け取るはずはなかった。特にバブルが弾けて以来というもの、経営の立ち行かなくなった中小企業経営者などで、高額の生保契約を締結してから自らの命を絶つケースが増えている。この悲しい風潮に対抗するため、生保業界は、以前は契約締結から半年以内の自殺は免責としていたのを、「契約締結から二年以内の自殺は免責」と改訂した。しかし死亡原因が自殺と確定できないケースについては、いくらそれが疑われても支払わざるを得ない。高額契約の引き受け審査は瀬川の想像よりはるかに厳しくなっていた。

 二日後、瀬川ははつらつ生命の女子社員から、契約受付の経緯について問い合わせを受けた。

「ご契約者の宇田哲哉様は瀬川さんが以前からご存じの方でいらっしゃいますか?」

 はつらつ生命業務部審査課主任の吉野翔子しょうこと名乗るその女子社員は直ちに本題に入った。

 瀬川の理解では、はつらつ生命の引受限度額は通常は五億円までである。しかし特別な事情があるときは、事前審査を通れば二十億円までの引き受けが可能だと聞いている。瀬川自身がこれまでに引き受けたことのある高額契約はたかだか二億円止まりであり、二十億円の契約の引受審査がどの程度厳しいものなのかはまるで知らなかったが、しかし、他ならぬビジネスの神様、清塚の紹介である。はつらつ生命からチェックが入るとは考えてもいなかった。もちろん、清塚が中央火災を去った本当の事情など、中央火災の中でもごく限られた一部の者しか知らない。況んや瀬川のような元々清塚の取り巻きのような連中は、清塚のスピンアウトを「華麗なる転職」としか聞いていない。


「いや全くの初面識の方なんですが、御社の関連会社の中央火災を一年ほど前に退職されて、今ORIってベンチャー企業の社長をしておられる清塚さんからのご紹介なんですよ。ご存じでしょう? 創業僅か半年で日本興業新聞の『第四回日興ベンチャー大賞』を受賞された方ですから」

 瀬川は、自分の身内の自慢をするような誇らしげな様子で答えた。一瞬返事が返ってこなかった。

「あれご存じなかったですか? 清塚康司さんって、今やマスコミ界で、『ベンチャーの星』って有名な方なんですがね・・・・・・」

 瀬川は、いかにも女子社員の無知に驚いたという風に付け加えた。

「いえ、よく存じあげております。前のセクションで私の直接の上司だった方ですから・・・・・・。もっともほんの二、三カ月のことですが・・・・・・」

「それじゃあそれで充分でしょう?その清塚さんのご紹介なんですから」

「そうですか、そうすると、瀬川さんはこのご契約者とは、清塚さんのご紹介ということだけのご関係なんですね?」

『清塚の紹介などには一文の価値もない』と言わんばかりの切り捨て方である。

「だから全くの初面識だって言ったでしょう? 貴女あんた、何を言いたいんですか? 私は慧明塾って、ご契約者の会社まで行って来ましたけど、ニュー・オータニの二十階の凄い立派なオフィスですよ。契約者の肩書きは取締役企画室長でそこのナンバーツーだって清塚さんが言ってた方ですよ。なんでも矢部総理とか平山代議士なんかともツーカーの方だって話ですよ」

瀬川は、この小生意気な女子社員など、大物政治家の名前を一人二人出せばすぐにシュンとなると思っていたが、実はこれはこの吉野翔子を相手にするときは最悪の手法である。

「よく分かりました。しかし、このご契約金額は異常な高額なんで、これだけの高額契約を必要としておられる何か尤もな理由がないと、このままでお引きするのは難しいと思いますので、此方こちららでよく検討させていただいて改めてご連絡申し上げますから、少々時間をいただけますか? それから、このお申し込みにつきましては、現時点では弊社はまだお引き受けした形にはなっておりませんから、その点誤解のないようにご契約者にもお伝え下さい」

「おいおい、ちょっと待ってくれよ。冗談じゃないよ。保険料はもう振り込まれちゃってるんだから、今更そんなこと言われても困るよ。ちょっと、こんな大事な話を女子社員なんかじゃ駄目だ。課長か誰か出しなさい」

「いえ、この電話は単に瀬川さんが申し込みをお受けになった経緯をお尋ねするだけのもので、今直ちにお引き受けをお断りするっていうことではございませんので。此方でよく検討させていただいて、お断りする場合に必要でしたら課長を出させていただくかも知れませんが、今日はこれで失礼します」

「ちょっと待っ・・・・・・」

 電話は食い下がろうとする瀬川の鼻先で切られた。瀬川はカッと来る前に慌てた。このままでは清塚の顔を潰すことになりかねない。それよりも何よりも、滅多にない大ご馳走にありつけそうになったのに、並べられた料理を引き上げられそうな気配である。彼は直ちに清塚に応援を求めた。清塚からは「中央火災には、在任中に十人分の仕事をして充分貸しを残してあるから、何か困ったことがあったらなんでも言って来なさい」と言われている。彼が口を利けば一発だろう。

 しかし、瀬川がかけた電話に対する清塚の反応は予想外のものだった。

「そうですか。はつらつ生命はそんなケツの穴の小さいことを言ってるんですか。そんなことだから、ちょっとでかい仕事をする社員はどんどん出て行っちゃうんだよな。分かりました。そうだな、私からはつらつに言ってあげてもいいけど、それより、瀬川さんはアプダックの代理店もやってるんでしたよね。いいですよ。構わないからアプダックに持って行っちゃいなさいよ。アメリカの生保では何千万ドルとか、一億ドルを超えるような契約も珍しくないんだから問題なく受けるでしょう。そんなケツの穴の小さいこという会社に無理に受けて貰う必要ないじゃないですか。私のことでしたら全然構いませんから、宇田さんにもそう言って下さい」

 瀬川が何かはぐらかされたような気分で、もごもご言っているうちに、清塚は喋るだけ喋るとさっさと電話を切ってしまった。清塚は彼一流の嗅覚で貧乏くじを避けたのである。

 アプダックが受けてくれるなら瀬川にとっても悪くない。アプダックのほうが代理店手数料ははるかに高いのである。「世界の保険業界を股にかけてきた」という清塚が言うのだから、多分アプダックなら受けてくれるのだろう。しかしそれにしても、契約者に断らずに保険会社を変更するわけにもいかない。瀬川は続けて慧明塾の宇田に電話を入れた。

 しかし宇田の反応も思いがけないものだった。

「はゝゝゝ、断られましたか? ン? アプダック? 嫌だねアメ社は。アメ社は引き受けるときは胸を叩いて引き受けるけど、支払う段になると全く当てにならんからね。それに、断るなんて生意気じゃないですか。断れるものかどうかやらせてみたらいい。何? まだ決まったわけじゃない? それじゃあ、なんと言ってくるか見てましょう。それで、もしそんな高額契約は受けられないと言ってきたら、保険会社から私に直接電話するように言って下さい。ン? いやいいですいいです。放っときなさい」

 宇田は瀬川の懸念を笑い飛ばして電話を切ってしまった。

  

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 吉野翔子、二十七歳。一流国立大学を出て、数少ない女性総合職として損保大手の中央火災海上保険に入社して六年目である。きりっとした目鼻立ちと均整の取れた身体の持ち主で、社内で評判の美人であるが、本人は仕事が面白くて仕方ないようで、「まだ特定のボーイフレンドはいないらしい」というのが独身男性社員達の噂である。昨年の人事異動で関連会社のはつらつ生命に主任として出向。引受審査を担当して九ヶ月である。


 瀬川代理店への電話を切って十分後、翔子は業務部次長兼審査課長の大杉ひろしのデスクの前に座っていた。

「そうか、それじゃあその宇田哲哉って客は、代理店にとっても全くの一見いちげんだっていうわけか? 一体どこでそんな客を掴まえたんだ? 飛び込みの客じゃないんだろう?」

「はい。それが、去年まで中央火災に居られた清塚さんからの紹介だって言うんです」

「何? 清塚って、ペテン師清塚のことか?」


 中央火災が属する五稜グループの自動車メーカー、五稜自動車工業がリコール隠しで大揺れに揺れてから一年以上が過ぎた。そのリコール隠しを国土交通省に告発したのが、大杉と中央火災の同期で、リコール保険を担当する課長職にあった黒岩舜一だった。黒岩は告発と同時に中央火災を退社した。顧客企業のリコール隠しを告発するからにはそれだけの覚悟をしてのことだった。そして、黒岩の後任課長に就任したのが、これまた大杉と同期の清塚康司だった。ところが、その清塚も賠償責任保険課長のポストにわずか二カ月半いただけで突然退職したのである。この時には、「中央火災も、五稜自動車のリコール隠しに手を貸しており、清塚がそれに一役買っていたらしい」という噂が社内に流れたが、大杉も詳しいことは知らない。ただ、清塚がそういう噂を立てられるような策士だったことは間違いなかった。(この辺の経緯はダイヤモンド社刊弊著「ザ・リコール」に詳しい)


「はい。清塚さんは賠償責任保険課長でしたから、私の直接の上司でもあったんですが・・・・・・と言っても、清塚さんは、黒岩さんが五稜自動車に移られた後の課長で来られて、たった二、三カ月でお辞めになりましたから、ほとんどお付き合いの期間はなかったんですが」

「そうかそれはラッキーだったね」

 大杉はニヤリとした。翔子も苦笑して否定しなかった。僅かの期間の付き合いであり、特に不当なあしらいを受けたわけでもないが、清塚は、翔子にとって大嫌いな上司だった。むしろ、清塚は男性の部下達に対してほとんど虐めとも言える高圧的態度で接したのに対し、翔子に対しては気持ち悪いほどに優しかった。男の部下を呼ぶときは「おい○○、ちょっと来い」だが、翔子に対しては「翔子ちゃん、ちょっといいかい?」と、それも、半オクターブ高い猫撫で声で呼ぶのである。トラブルになりそうな筋の悪い仕事はいつも男性に振られ、翔子が担当するのは、特に難しい点はないが、その割には大きな見映みばえのする案件だった。そして翔子がそれを無難にこなしたときは、課員の前で翔子が顔を赤らめるようなオーバーな誉め方をした。

 そんな清塚の、部下に対する姿勢は、彼の同期で、前任者の黒岩とは正反対だった。黒岩は黒岩なりに部下に対して厳しかった。黒岩は部下がミスをしたときは、ミスの原因がどこにあったかを課の全員の前で指摘して注意した。それはミスをした本人にすれば辛いことではあるが、課員皆が仲間のミスで学ぶことができたし、皆が同じ扱いを受けるのだから不平は出なかった。それに、黒岩は叱るときもピシッと一言言うだけで決して後を引かない。何よりも気持ちよかったのは、黒岩自身がしくじったり間違ったりしたときは、全員の前で「ご免。あれは俺の判断のほうが間違っていた」といった調子で率直に謝るのだから誠に公平である。その上、部下の仕事が上手く行ったときは、わが事のように一緒に喜んでくれたし、その成果が、黒岩の手助けがあって初めて可能であったような場合も、黒岩から部長に報告された時にはすべてが部下の手柄になっていた。そんなときは、仕事の後、よく社員食堂に祝杯をあげに行ったものだが、黒岩は、職場を離れると徹底的に上下関係を持ち込ませなかった。飲み終わった後、空いたビール瓶やコップ、皿などを配膳室に下げに行くのはいつも黒岩が率先して行なった。

 清塚の場合、それらのすべてが、丁度手袋を裏返したようにまるで反対だった。仕事の後の一杯にしても、部下は、「なんだ俺に付き合えないのか?」という圧力で仕方なく付き合うが、その席で出る話は何日も前の部下のしくじりであり、前任者黒岩のあげつらいであり、これまでに自分がやってきた仕事の大げさな自慢である。従って清塚の着任から一週間も経つと、「こんな課長の下で我慢してやっていけるんだろうか?」と不安になったのは翔子だけではなかった。そんなことだから、着任から二カ月半ほど経って、清塚が突然会社を休んだ翌日に、部長が、「清塚課長は個人的事情から急に退職することになった」と告げた日は、課の全員で祝杯をあげに行ったものである。


 翔子はその後間もなく中央火災から関連会社のはつらつ生命に出向し、そこで仕えることになったのが、いま目の前に座っている大杉洋だが、大杉もたまたま黒岩、清塚と同期だった。ということは翔子が入社以来仕えた三人の課長は、いずれも八十四年入社の同期生ということである。大杉は黒岩とはまた好対照の男だった。すなわち、黒岩が率先垂範で実務の先頭に立ち、「俺にいて来い」というタイプなのに対し、大杉は、部下に任せて自分はどっしり構えているタイプである。また黒岩が理詰めでてきぱき仕事を片づけるタイプであるのに対し、大杉は大まかで悠揚迫らぬ雰囲気を持っていた。身体も黒岩が細身のスポーツマンタイプなのに対し、柔道三段の大杉は、和服を着せて上野の山に立たせたら、そのまま西郷さんの代理がつとまりそうな体型・風貌をしていた。しかし、この二人はおおいに気が合うようで仲が良かった。二人は清塚嫌いという点でも一致していたが、その表現の仕方がまた正反対だった。黒岩は、清塚と個人的には付き合おうとはしないが、会社の内外でそんな素振りは見せなかったし、清塚のことを悪く言うことも決してなかった。それに対し大杉のほうは清塚に対する嫌悪感を隠そうともせず、いつも「ペテン師清塚」と呼んではばからなかった。


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「そうか、それで瀬川代理店はその宇田哲哉って男が清塚の紹介だからというんで安心して受けたってわけか。あのペテン野郎、まだ会社に迷惑かけやがる」

「はい、瀬川代理店は、昔、代理店会のセールストーク研修で清塚さんの話を聴いて清塚ファンになって、それ以来清塚さんとお付き合いがあるんだと言ってました」

「清塚のことは、本人をよく知ってる人なら誰も信用しないんだけど、彼奴あいつのやってることを外から見てるだけだと、いかにもスケールのでかい凄い仕事をやってるみたいに見えるから、代理店や客先の中には彼奴に心酔してるのも結構いるんだよな」

「そうなんでしょうね。私は『清塚さんの紹介』と聞いただけで『そんな契約者大丈夫かしら』と余計に心配になっちゃったんで、宇田哲哉が役員をしている『慧明塾』を調べたんです。慧明塾ってなんだか右翼団体の名前みたいですけど、一応、株式会社ではあるらしいんです。それなのに帝国データバンクにも載ってないんですよ。それでホームページで見たんですが、確かに瀬川代理店が言うとおり、最近急成長している経営コンサルタントのように書いてあるんです。でもどうもピンとこない部分があるんです」

「ふーん、何がピンとこなかったんだい?」

「はい、この種の頭脳企業みたいなところって、オーナーがどこどこのMBAを持っているとか、外資系投資顧問会社にいたとかって、オーナーの経歴を宣伝することが多いじゃないですか。ところがこの慧明塾の場合、オーナーの光中忠義って人の経歴がほとんど書かれてないんです。書いてあるのは、矢部総理とどんなに親しいかってことばかりで、出てくる写真も矢部総理と一緒に並んで写ってるものばかりなんですよ。

「私はこの手の企業って大嫌いなんです。企業人には企業人の誇りっていうのがありますよね。それを政治家の腰巾着みたいに・・・・・・。それも、どう見てもおつむは空っぽって感じなのに、親かお爺さんの七光りだけで総理になったような二流政治家の腰巾着になるなんて、企業人としちゃ三流でしょう?」

 大杉は苦笑した。かくいう翔子自身、数年前まで文部大臣をしていた与党大物政治家の娘である。小学校から大学まで一貫教育をしている私立のお嬢さん学校に高校まで籍を置きながら、大学はそこには行かず一流国立大学に進んだ。大杉が、翔子と飲む機会があった時に「なんでそのままお嬢さん大学に行かなかったんだい?」

 と聞いたら

「私は、のんびりそこに行けばいいと思ってたんですが、ちょうど私が高校三年になった時に父が文部大臣になったんです。そうしたら、あちこちの一流私大から、『どうぞ当校うちに来て下さい』って声がかかって・・・・・・。そうしたら父が、『お前は絶対に私立に行くな。私立に行ったら、いくら実力で入っても親の七光りだと言われるぞ』と言うんで、しかたなく国立を受けたら入っちゃったんです」

 と答えた。大杉は、民自党にもまだまだ骨のある政治家がいるんだなあと感心したものである。それにしても翔子のストレートな物言いは社会人六年生になっても学生時代のままである。日本の最高権力者も「おつむは空っぽ」と言われる。


「俺も全く同感だけどなあ。だけど当社うちなんか古くてお堅い金融機関の典型なんだから、翔子ちゃん抑えて抑えて」

 大杉は部内を気にするような素振りで言ったが、翔子には大杉がそんなことは全く気にしていないのを知っている。

「でもそんな三流人物がやっているコンサルタントが急成長しているのが不思議だったんです。それに慧明塾は会員組織を採っているんですが、会員には、私でも名前を知っているような会社がずらりと名前を連ねてますし・・・・・・。それでホームページ以外に何かないかなと思ってインターネットで検索してみたんです。たいしたものは見つからなかったんですが、その中で半年ほど前の週刊未来の記事に、慧明塾と、当時は官房長官だった矢部総理との関係を追及したものがあったんです。それで私、週刊未来に電話してその記事のコピーをファックスしてくれるように頼んだんです。これがその記事です」

翔子はそう言って週刊紙見開き二ページのファックスを大杉の前に置いた。大杉はそれを取り上げ、急いで斜めに目を通した。記事は多分に推測記事で、たいして掘り下げられたものではなかったが、概ね以下のような内容だった。


 慧明塾代表の光中忠義は、海外の大学を卒業したと本人は言っているが、それがどの大学なのか、本当に卒業したのかは不明である。大学卒業(?)の後、ゼネコン、ディーラーなど数社に勤務したがどこも長続きはしなかった。四十代で独立して会社を設立し不動産業を始めたが、それも数年で倒産し、借金取りに追い回されているところを救ったのが当時民自党副幹事長だった矢部晋(現総理)である。

 矢部事務所の話では、矢部総理の父(元運輸大臣)が衆議院選挙に落選して経済的に困っていた時に光中の父に助けられたことがあり、義理堅い矢部晋がその時の恩に報いたのだということだが、事情通の中には、矢部が光中に何か秘密を握られているからだと言う者もいる。

 それから間もなく光中が立ち上げたのが慧明塾である。慧明塾は名前は新興宗教か何かのようだが一応は株式会社の形を採っている。しかしその運営実態は新興宗教そのものであり、代表の光中忠義が相談者の額に手翳しをして経営診断を行なうなどということが堂々と行われている。それにも拘わらず慧明塾の関与先企業には一部上場企業二十社を含む三百社以上が名を連ねており、そこから上がる年会費だけでも二億円を下回ることはないと見られている。

 慧明塾が創設十数年でこのような隆盛を極めた背景を知る上で参考になるいくつかの逸話があるので一、二紹介すると、


例一、中堅ゼネコンF社のケース

 F社が請け負った岡山県瀬戸内沿岸のリゾートホテル建設で、F社は国土交通省の許可を得ないままに海岸線の変更を行なう工事に着手し、地元漁協がこれに反撥して同社を告発した。困ったF社長は慧明塾の光中代表に相談した。その結果、光中の要請で矢部が間に入って地元とのトラブルは収められた。また不思議なことに、国土交通省への申請は工事開始以前の時点に遡って受理されていた。


例二、Rゴルフクラブのケース

 R社が茨城県で計画していたゴルフ場の建設は、総工費三百億円の一大プロジェクトだったが予定地に広大な農地が含まれているのが難点だった。農地の転用許可は都道府県に委ねられてはおらず農水本省まで申請が上がるが、通常審査には半年以上がかかり、その間の金利負担だけでも膨大なものになる。しかし光中代表に相談したところ、その許可がなんと一週間も経たないで降りてしまった。


 これらの噂の裏付けはまだ取れていない。しかし仮に本当だとしたら、それが手翳しの功徳ではなく、高額のお布施(顧問料)の功徳であることは明らかである。問題はそのお布施がどこに流れたかである。


「それで、私がこの記事を受け取って読んでいるところに、なんと週刊未来の担当記者から電話がきたんです」

「えっ、週刊未来から君にコンタクトしてきたのか? で、君が出たのか?」

「はい」

「おいおい翔子ちゃん。会社業務に関係することでマスコミとコンタクトするときは、少なくとも俺の耳に入れてからにしてくれよな」

 大杉はさすがに呆れた。金融機関にとってマスコミは重要な情報源ではあるが、直接コンタクトするのは痛くもない腹を探られるおそれもあり、特に経験の浅い若手社員が自分の判断だけでコンタクトすることには危険が多い。


「まあいいや。やっちゃったことは仕方ない。それで週刊未来の記者はなんだって?」

「済みませんでした。もちろん私が週刊未来に電話した時には、宇田哲哉のことも清塚さんのことも何も話さず、記事のコピーを送ってくれるように頼んだだけなんですが、それなのに記者がすぐに電話してきたのは、どうも私がはつらつ生命の社員だって言ったことに関心があったらしいんです。『なんではつらつ生命が慧明塾に興味を持っているのか』ってしつこく聞くんです」

「だろうな。それで君はなんて答えたんだい?」

「たまたま慧明塾って会社に接する機会があったんだけど何をする会社かよく分からないので調べているんだと言って頑としてそれ以上言わなかったんです。そうしたらその記者が『ひょっとして清塚康司のことで調べてるんじゃないんですか?』ってずばっときたんです」

「ふーむ、それで?」

 全くミサイルみたいに突っ込みのいいお転婆娘である。

「私は『えっ、清塚康司って、去年当社の関連会社を退職した清塚さんのことですか? 清塚さんが慧明塾と何か関係あるんですか?』ってしらばっくれて聞いたんです」

「全く呆れた奴だなあ。記者も参ったろう」

 とうとう大杉は笑い出した。

「はい、記者も笑い出して『貴女には参りましたよ。それじゃあ当社がなんで清塚康司に関心を持っているかを先に言いますから、その後でいいですから貴女が慧明塾のことを調べている理由を聞かせて下さい』って言って話してくれたんです。記者の話では、どうも清塚さんは慧明塾の光中忠義って代表にしっかり喰い込んでいるみたいで、光中代表の紹介で慧明塾の会員企業の数社が清塚さんのORIっていう会社に十億円余り注ぎ込んでいるらしいんです」

「なるほど」

「ところがそのORIっていう会社が、表向きは先端技術による生ゴミリサイクルをうたっているんですが、創ってたった一年なのに農水の出先とか防衛庁の出先とかに装置の納入をしてるらしいんです。だけどORIは官庁関係に数台装置を納入した以外には何をやってるのか、営業の実態がまるで見えないらしいんです。ですから集めたお金はいったいどうやって返すつもりなのか全く不明なんですが、それより不思議なのは、そんな実績のない会社がどうして官庁に装置の納入なんかできたのかって記者は言うんです。どうも記者は、その金の相当部分が慧明塾経由で矢部総理の周辺に流れているんじゃないかと疑っているみたいなんです」

「それは週刊未来だけの憶測なのか? 他の週刊紙や新聞社はどうなんだろう」

「ええ、インターネットでは週刊未来以外の記事は見つかりませんでした。どうも今のところ、週刊未来が追いかけているだけみたいなんですが、週刊未来は『検察も関心を持っているようだけど、何しろ矢部事務所まで関係しているとすると、何も手は出さないだろう』って言ってました」

「うーん、なるほどね。それで君は、君が慧明塾について調べている理由はなんだと言ったんだい?」

「慧明塾の社員から保険申し込みがあったんだけど、聞いたことのない会社なんでどんな会社かと思って調べていただけで、清塚さんが慧明塾と関係しているって話は初耳だと言いました」

「向こうは信用しなかったろう」

「はい、全然信用してなくって、その契約者っていうのは誰かって聞くんですが、もちろんそんな個人情報は言えないって突っ放しました。そうしたら向こうは、『清塚についてはまだ記事にするだけの材料が集まっていないが、もう少し全体が見えてきたら改めて記事を書くつもりなんで、その契約者のことや清塚康司のことで何か話せることが出てきたら電話してくれ』って言って諦めました」

「はゝゝゝ、翔子ちゃんの勝ちってとこか。それにしても、清塚って奴もたいしたもんだな。ちんぴらペテン師と思ってたら、いつの間にか中堅ペテン師に出世してたみたいだな。それで宇田哲哉と清塚の関係は分からなかったんだな?」

「ええ、宇田哲哉の名前を出すわけにもいかないんで聞けなかったんです」

「そうだろうな。それにしても、宇田哲哉の契約は清塚の紹介ってだけでも信用できないのに、今の話を聞いたら、いよいよもってこのまま受けるわけにはいかないな。それで、この契約の申込人が宇田哲哉本人だってことは確かなのかな?」

「はい。瀬川代理店はパスポートで本人確認をしてまして、申込書にパスポートのコピーも添付されてました」

 九・一一テロ以来、マネーロンダリング防止の目的から、金融機関は取引開始に当たって本人確認を義務づけられている。それに加えて生保の場合は保険金目当ての殺人もあり得るので、本人が知らないところで第三者が保険契約を結ぶことは絶対に避ける必要がある。しかしいくら本人自身が申し込んだ保険であっても、自殺による保険金取得の完全な防止は難しい。自殺の場合の保険金支払い拒否は、契約締結から二年以内の自殺の場合だけ有効であるにすぎない。

「ようし分かった。こんなわけの分からんのは、本当は一億だって引き受けたくないけど、どうしても当社にって言うんだったら仕方ないから基準引受限度額までにして貰おうよ。それで納得しなければデクライン(引受拒絶)でいいよ。で、どうする? 俺から電話しようか?」

 一度代理店が受け取ってしまった申し込みの契約金額を下げて貰おうというのだからなかなか難しい交渉である。

「いえ、私で大丈夫だと思います。どうしても難しい場合はお願いします」


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翔子は席に戻って直ちに瀬川代理店に電話した。しかし瀬川代理店は「そんな交渉はできないから、断るなら保険会社から直接やってくれ」と言って間に立とうとはしなかった。

 瀬川から番号を聞いた宇田の携帯電話は話し中だったが、二分後に宇田のほうからかかってきた。

「なんやって? 代理店から聞いたんやが、お前んとこは一度代理店が引き受けた保険の金額を下げろっちゅうのか?俺はもう保険料も払っとるんや。それで契約は成立しとるんとちゃうんか?」

 宇田の話し方はおよそ経営コンサルタントなどという知的企業とは縁遠い、暴力団口調そのものだった。

「恐縮ですがそうではないんです。代理店はお客様のお申し込みを保険会社に取り次いでいるだけで、お引き受けするかどうかは、保険会社が審査の上決定することなんです」

「そんならなんで代理店は保険料の請求なんかするんや。それやったら引き受けると決めてから請求するのが筋やろが」

 口調はともかくも、尤もな理屈で攻めてくるところはコンサルタントを名乗るだけのことはある。翔子は暫くやりとりしていたが、とても電話ではらちが明きそうになかったので、「お時間をいただけましたら、お訪ねしてご説明させていただきたい」と食い下がった。それに対して宇田は、「それなら、明日、丸の内に行く用があるから、俺のほうから行ってやるよ」ということになった。


 翌日、はつらつ生命本社の応接室で、ほとんどソファに寝そべるように脚を組んだ男は、煙草の煙の向こうから翔子を面白そうに眺めた。

「そうかねえちゃん、俺の生命いのちなんか二十億の価値もないって言うのかい? ずいぶんと失礼なことを言ってくれるじゃないか。一体『はつらつ生命』は客の生命の値段をどうやって決めてるんだ? そもそも生保が他人ひとの生命の値段を決めるなんていうのが僭越なんじゃないのか? いいじゃないか、どうせまともに払おうとしないんだから。いくら高額の引き受けをしたって構わないじゃないか」

 男は大きな口の両端をキュッと下げた。普通、この表情は「口をへの字にする」と言うのだろうが、この男の場合は、向かって口の右上にある二つの黒子ほくろのせいで、それが「べの字」になる。応接室に入って、翔子の前に座ってから既に三度目の「べの字」である。翔子はそれを、本当は自分になんの自信もない人間が(いや自信がないからこそ)、虚勢を張って相手を小馬鹿にした態度を取ろうとするときに往々にして見せる一種のチックであると読んでいた。

 宇田は、まともに翔子の相手になる気は全くない。あきらかに、テーブルの向こうで背筋をピンと伸ばしている翔子をなぶっているのである。「お前みたいな小娘なんかとまともに議論する気なんかない」という態度を見せたいのだろう。


 折りも折り、生保は業界全体で数十万件、金額にして数百億円の不払いが表沙汰になって大騒ぎである。小娘を揶揄からかいながらも、生保業界挙げての不祥事を引き合いに出すあたりはしたたかである。翔子はあからさまな小娘扱いにカッとする心を押し鎮めて答えた。

「いえ、私どもも生命の値段などとおこがましいことを申し上げているのではありません。生命保険の保険金額は生命の価値とは全く無関係で、純粋に経済合理性に基づいて決まるもので、お客様に万一のことがあった場合、後に残された方たちがお受けになる経済的損失・・・・・・」

「じゃあなんかい? 姐ちゃんは、俺の生命の経済的価値はディープ・インプレッションの半分もないって言うんかい?」

 突然の方向転換に翔子は一瞬きょとんとしたが、すぐに、宇田がナリタブライアン以来、六代目の三冠馬で、最近、現役競走馬を引退したディープ・インプレッションの保険を、はつらつ生命の実質親会社である中央火災が五十億円で引き受けたことを当てこすっていることが分かった。


 競走馬の保険は、馬の生き死にを問題にする生命保険ではあるが、生保ではなく損保で引き受けている。それはその保険価額が馬の使用価値で決まるからで、そこでは馬は財物として認識されているからである。財物であるからには、その保険金額が人間の生命保険を上回ることはいくらでもあり得る。人工衛星の打ち上げといえば数百億円の保険金額もあり得るが、人間の生命保険でそれは考えにくいのと同じことである。競走馬の場合は、保険の対象物が人間にとってセンチメンタルバリューを持った動物であり、人工衛星のように財物として割り切りにくいから厄介なだけである。

種牡馬しゅぼば(種付け馬)の価額は、その馬が、将来種付けで稼ぐことが期待できる収入をベースにして決められる。多くの場合、名馬が引退して種牡馬になると、馬主はその種付け権を株にして売りに出し、購入者によるシンジケートを組成する。シンジケートメンバーは、種付けから上がる利益を配当金として受け取ることができる。例えば価額三十億円の馬だと、一株五千万円、六十口などとして売りに出す。投資家はその馬の血統や戦績から見て三十億円が高いか安いかを判断するのであるが、四、五年経ってその馬の子供達が走り始め、大きな賞でも取ると、それ以後の種付け料が上がり、配当が増えるので株価も値上がりする。逆に、種付けをしても子供ができにくかったり、生まれはしても凡庸な子供ばかりだったりすると種付け料は下がり株価も下落する。このように競走馬への投資はハイリスク・ハイリターンであるが、中でも一番怖いのは、若い種牡馬が事故などで死亡することである。そのためシンジケートにとっては競走馬保険は必須である。

 競走馬保険の保険金額は、その馬の客観評価に基づいて、馬主と保険会社との間で協定されるが、馬主はできれば客観評価額以上でシンジケートに販売したいので、保険会社との協定額はオープンにされないのが普通である。また馬の価額が保険金額より下がったような場合、シンジケートメンバーの中には馬を殺して保険金の配分を求める者が出てこないとも限らないので、保険会社も保険の引き受け内容を極秘にしている。人間を保険金目的で殺したら殺人罪であるが、競走馬の場合はたかだか保険金詐欺で殺馬罪はないのだから保険会社のリスクは大きい。にもかかわらずディープ・インプレッションの場合は、どこがリークしたのか、保険価額が五十億円を上回るらしいという記事が二カ月ほど前にある週刊紙ですっぱ抜かれ評判になった。何事にも好奇心の強い翔子は、記事を読んですぐに、同期入社の仲良しで、競走馬保険の引き受け課にいる啓子に電話をしておおよその知識を得ていた。


「競走馬保険は馬という財物の使用価値を担保しているもので・・・・・・」

 反論しようとした翔子を宇田は苛々した調子で遮った。

「そのぐらい分かってるよ姐ちゃん。ちょっと揶揄からかっただけだよ。じゃあなんかい? 姐ちゃんは種牡馬の値段がどうやって決められるかも知ってるのかい? そこまでは知らんだろう。教えてやろうか。

 例えばある名馬が四歳で引退して種牡馬になるだろう。雄馬は平均二十歳ぐらいまで生きるんだが、十四、五歳ぐらいまでは何をやれるから、あと十年はやれるってことだ。それで普通の種牡馬なら一年に五十回はやれるから、一生にはあと五百回やれるってことだ。三冠馬クラスになると一発やれば二千万は稼げるから、ええっといくらだ? 二千万掛ける五百回ってのは・・・・・・百億か? 一生じゃあそれだけ稼げるってわけだ。だけど、現在価値を出すには、それから十年間の飼育料や保険料を差し引いて、それから十年分の金利を・・・・・・」

「ご教示ありがとうございます。その辺も勉強しておりますから存じております」

 今度は翔子が遮(さえぎ)った。宇田がこんな話をする目的が、知識のひけらかしではなくセクシャル・ハラスメントにあるのは明らかだった。宇田は、紺のスーツに身を固めて、「お客様とはいっても失礼な態度は許しません」と言わんばかりにキッと自分を睨んでいる翔子を面白そうに眺めた。このの男が一番そそられるタイプの女性である。

「はゝゝゝ知ってるか。だけど馬はいいよなあ。好きなことをやって金まで貰えるんだから。そう思わんか? ええ? 姐ちゃんよ。そこに行くと人間の男なんか情けないもんだよな。金を払わなくちゃやらせて貰えないんだから。だからディープには五十億円の値段を付けても俺にはその半分も認めないって言うんだよな。これじゃあまるで当て馬じゃないか。そう思わんか? そうかそうか、姐ちゃんはさすがに『当て馬』って言葉がどこから来たのかまでは知らないみたいだな。

「当て馬ってのはだねえ、種付けしようとしてる雌馬・・・・・・これも昔、重賞レースなんかで勝ったことのある雌馬で、これのことを繁殖牝馬はんしょくひんばっていうんだがね・・・・・・その繁殖牝馬がいつなら一番妊娠しそうかを判断するために、その雌馬を、一頭だけがぎりぎりぎり入れる柵の中に繋いでおいて、盛りのついた雄馬をその廻りをぐるぐる引き回すんだよ。これには元気だけが取り柄の駄馬を使うんだがね。これを当て馬っていうんだよ。当て馬のほうは盛りがついてるからヒンヒンヒンヒン大変なんだが、そうすると牝馬のほうもだんだん興奮してきてあそこが濡れてくるんだよ。その濡れ具合をプロが見て『これは明日種付けしよう』とか『明後日にしよう』とか決めるんだ。まあ、一千万も二千万も払って種付けするんだからそのぐらい慎重にやらんとな。だけど哀れなのは美人の牝馬を見せられながらぐるぐる歩かされるだけの当て馬だよな。俺なんかも当て馬並だから二十億ぽっちでも高いなんて言われるんだろうな」

 宇田は口をべの字にしながらスーツの上から翔子の身体をめ回した。盛のついた駄馬でもこの男よりは品がありそうである。

 額の幅よりも顎の幅のほうが完全に広く、その台形の顔の真ん中でパイプのような鼻孔がこっちを睨んでいる。その鼻孔からは先ほどから煙草の煙が立ち上りっぱなしで、翔子は気分が悪くなりそうだった。

【 時々テレビで見るあの政治家に似てるわ。誰だったかなあ。あの知性の全くない河馬みたいな顔をした・・・・・・。そうそう、中河だっけ、民自党の・・・・ええと元幹事長だったかなあ。】

 こんな下品な男から姐ちゃん呼ばわりされるのは煙草の煙以上にむかむかするが、この挑発に乗ってしまったら交渉には勝てない。

 昨日、宇田との電話を切った後、課長の大杉に報告したのに対し、大杉は心配して「僕も同席するよ」と言ってくれたのだが、「もう一度、私だけで交渉させて下さい」と言って頑張ったのである。意地でも簡単にこんな男の挑発に乗るわけにはいかない。

 中央火災から最重要関連会社「はつらつ生命」の業務部審査課に出向してまだ一年足らずだが、スピードの要求されるこの時代には、半年も経てば一人前でなければならない。このの暴力団員まがいとの交渉が全く怖くないと言ったら嘘になるが、だからといって一々上司に同席して貰ったのでは男性の総合職に互してはいけない。

 翔子は「当て馬」の語源を聞くのは初めてだったし、種付けの話にも正直なところ興味はあるが、そんな顔を見せるわけにはいかなかった。

【 それにしてもこの男、馬のことをよく知っているわ。ひょっとしたら競走馬でも持っているんじゃないかしら。経営コンサルタントなんて言ってるけど、一体慧明塾って本当は何をやってる会社なんだろう?】


「お客様の博識には感心しましたが、競走馬の話は本件には全く関係がありませんので話を元に戻させていただいて宜しいでしょうか?」

 翔子はつとめて関心のない顔で言った。

「そうか残念だなあ。種付けの本番の話がまた迫力あるんだが、それじゃあその話はまた今度聞かせてやることにして・・・・・・。結構ですよ、元に戻させていただきましょうか?」

 宇田は身体を起こした。ソファにふんぞり返っていたのでよく分からなかったが、身体を起こすとボクサーのようながっしりした体格をしている。申込書に書かれた年齢は四十五歳である。

「それで? なんで代理店が引き受けた保険金額を保険会社が認めないって言うんですかな。それじゃあ代理店ってのは一体なんなんですかね。全く意味がないないじゃないですか」

 急に言葉遣いがフォーマルになった。これも小娘扱いの一つなのか?

「それはもうおおせのとおりで、誠に申し訳なく思っております。代理店に指導が行き渡っていなかった点につきましては充分反省して、今後に活かしたいと思いますのでご容赦下さい。ですけど生保の適正な引受額については当局からも強く指導を受けておりまして、誠に恐縮ながら先日お申し込みいただきました金額は当社の引き受け基準を大幅に上回っておりますので、このままではお受けできないんです。なんとか引き下げに応じていただけないでしょうか?」

 どこの生保も引受限度額についての社内基準を持っている。しかしそれは一応の目処であって、何が適正な金額かは契約者の職業、年齢、収入などで千差万別である。サラリーマンの場合は給料と就労可能年数から比較的簡単に適正金額が弾けるが、自営業者などは、算出の根拠を本人の所得におくべきか、事業収入におくべきかもケースバイケースである。況や、赤字だ赤字だと言って税金も支払っていないのに、豪華な外車を乗り回しているような得体の知れない人種の場合は、妥当な保険金額など算定のしようもない。

「引き下げるって、一体いくらならお受けいただけるんですかな?」

「最高で三億円までにしていただきたいのですが」

「何? 三億? それじゃあ十七人かかってようやくディープ並ってことじゃないか。ワッハッハ、これは軽く見られたもんだ。で? その根拠は?」

「はい。私どもでは、ご契約者様の職業や収入の詳細を伺っていない場合は、確定申告が必要になる年収の二千万円に、ご契約者が、一般的な定年年齢の六十歳に達しますまでの年数を掛けた額を保険金額の限度にしております。お客様の場合は現在四十五歳でいらっしゃいますので、二千万円に十五年を掛けまして三億円と申し上げたようなわけですが、更に高額のご契約をご希望ということでしたら、最近二年分の確定申告か源泉徴収票を拝見・・・・・・」

「そんなものを見てもなんの参考にもならんよ。大体、税務署に馬鹿正直に全収入をさらけ出すような男に経営コンサルタントが勤まると思ってるのかね、え? 姐ちゃん。嫌だね。嫌だって言ったらどうなるんかね?」

 言葉は再び姐ちゃん言葉に戻っている。

「残念ながら、話し合いでご了解が得られない場合は引受謝絶通知を郵送させていただきまして、保険料のほうは全額を返済させていただくことになります」

「一度払った保険料なんか受け取らんよ」

「受け取っていただけない場合は供託することになります」

「供託ねえ。そう、それじゃあそうしたらいいんじゃない?」

 宇田またべの字を浮かべた。

「ということは、全く話し合いに応じてはいただけないってことですか?」

「姐ちゃんが一度デートに付き合うっていうなら、そうねえ、十九億円までは下げてやってもいいよ。でもそれが限度だね。悪くないと思うよ。一億も下げさせて会社から誉められた上、ご馳走にもなれるんだから」

【一流料亭でご馳走すると言われてもこんな男と食事をするのは真っ平だが、宇田がこんなことを言うところを見ると、少しは交渉に応じる気があるということか?それなら怒らせないようにしなくちゃ。】

「こちらがお願いする立場なのにご馳走になるなんてとんでもございません。そのほうはご遠慮させていただきます。如何でしょう? それでは五億円でご了承いただけませんでしょうか?」

「はゝゝゝ、デートなしじゃ二十億からは一円もまからんよ。それじゃあ引受謝絶通知とかってのをお待ちしましょうか」

 宇田は、灰皿に煙草を乱暴にこすりつけるとソファーから立ち上がりかけた。翔子は慌てた。

「ちょっとお待ち下さい。引受謝絶ですと、保険金額の引き下げではなくてゼロになってしまいますがそれでも宜しいんでしょうか?」

「まあ、そうなるかどうかやってみたらいいんじゃないの? 世の中、そんなに簡単に姐ちゃんの書いた筋書きどおりにはいかないと思うよ。じゃあ、デート付き十九億の話に乗る気になったときは電話しておいで。そうそう、今日し残した種付け本番の話もその時に聞かせてあげるよ」

 宇田は挨拶もせずに応接室を出た。翔子は仕方なくエレベーターホールまで宇田を送り無言で頭を下げた。


      ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 十分後、翔子から首尾を聞いた大杉は、

「宇田が五億で妥協しないで帰ってくれてよかったよ。さすがはペテン師清塚の紹介だな。此奴は三億はおろか一億でもご免だね。これは中途半端な額で引き受けたりしないで、デクライン(引受拒絶)して他社様よそさまにおいでいただこうじゃないか。すぐにデクラインの手続きに入ってくれるか? 瀬川代理店にも伝えといてくれよな」

と結論を出した。

「分かりました。それじゃあすぐに引受謝絶通知を発送します」

 宇田哲哉への引受謝絶通知は速達の内容証明郵便でその日の内に発送された。


 宇田哲哉は期待に反して他社様よそさまには行ってくれなかった。大杉も翔子も、宇田がこのまま簡単に引き下がるとは思っていなかったが、宇田に投げたボールは思いがけない方向から曲球くせだまで返ってきた。 翌々日、翔子が昼食から戻ると大杉が待ちかねたように、

「一昨日の宇田の件で、金融庁から川喜多副社長のところに問い合わせが来て、副社長から部長に事情を聞かせてくれって言ってきたらしいんだ。それで、今から部長のところに説明に行かなくちゃならないんだけど、申込書と週刊紙の記事を出して君も一緒に来てくれるか?」

 と言ってから小声で、

「説明したら部長はおそらくびびるんだろうな。どうも嫌な展開になってきた」

 と付け加えて顔をしかめた。審査課が属する業務部の部長、高瀬は神経質で肝っ玉が小さく、トップの気持ちを必要以上に斟酌するところがある。部長室に入った二人に高瀬が話した経緯はこうだった。


 昼前に、金融庁次長の小宮から副社長の川喜多に電話があり、はつらつ生命の死亡保険金引受限度額について問い合わせがあった。川喜多が、

「何か個別のケースで次長のところにクレームでも持ち込まれたのでしょうか?」

 と尋ねると、小宮は、

「いやクレームというわけではないのですが、さっき節井官房副長官補から電話がありましてね」

 と始めた。節井というのは財務省で財務官までなった男で、政治家への立ち回りが上手く、総理の矢部がまだ官房長官だったころに矢部に取り入って、今は官邸で官房副長官補になっている。

 その節井が小宮に話したところでは、その日の朝、矢部事務所から「うちの支援者の一人が、はつらつ生命に二十億円の生保を申し込んだところ、代理店が一度引き受けたにも拘わらず、保険会社のほうから保険金が高すぎるから三億に下げてくれと言われた。その人が引き下げに応じなかったところ、今度は一方的に引受謝絶通知を送ってきた。一度代理店が引き受けたのに、後になって金額を下げるとか引受謝絶だとか言うのは、申込書の記載に虚偽でもあるならともかくも、そうでなければおかしい。そんなことが許されるのかどうか金融庁に聞いてくれ」と言ってきたというのである。小宮は、

「契約者の名前は宇田哲哉で、引き受けた代理店は瀬川代理店というんですが、御社が、どういう理由で金額引き下げを言っておられるのかお調べいただいて報告を貰えませんか。

「それと、くれぐれも誤解のないようにお願いしたいんですが、私どもはその宇田哲哉の契約を二十億円のままで受けてくれなどと言うつもりはありませんからね。個別契約の引き受けは、あくまでも御社の方針でお決めになればいいことで、監督官庁としてそんなところにまで口出しする気は全くありませんから勘違いしないで下さいよ。御社ほどのところが、一度代理店が引き受けた契約の金額引き下げを契約者に要求なさると言うからには、余程の理由がおありのことだろうと思いますから、それならそれで、そのとおり矢部事務所に報告しますから」

 と言って電話を切った。


「ということなんだが、それじゃあその宇田哲哉って契約者には、実際に君たちのところから引受謝絶をしているんだな?」

部長の高瀬が苦い顔をした。

「はい。これがその申込書と、こちらから送った謝絶通知の控えです」

高瀬は大杉が部長席においた書類を取り上げざっと目を通すと、

「それで? 君たちがこの保険金額が大きすぎると考えている理由を聞かせてくれるか?」

 文章で書けばあくまでもニュートラルな質問文であるが、声の調子は明らかに詰問調である。大杉は、実際に宇田との交渉に当たった翔子から部長に説明させるつもりで一緒に部長室に連れてきたのだが、「これは俺が話したがよさそうだな」と思い直した。順風のときは部下を先に歩かせるが、逆風のときは自分が先に立つのが大杉のやり方である。

「まず気になるのは、この宇田哲哉って契約者が中央火災グループにとって全くの一見いちげんの客で、火災保険も自動車保険も当社グループには来てないことなんです。こういう契約者が、飛び込みでこんな高額の生保を申し込んでくることは普通はあまりないことなんで、瀬川代理店に契約者のことを聞いてみたんです。そうしたら瀬川代理店も全く知らない男で、一昨年中央火災を辞めた清塚の紹介だと言うんです」

「何? 清塚が紹介してきたんだって?」

「はい。部長のお耳にも入っていると思いますが、清塚が中央火災を辞めたのは五稜自動車事件のごたごたに関係あることで、必ずしも円満に退職したとは言えないように聞いています。僕は清塚とは同期で彼のことはよく分かっているつもりですが、そういう形で辞めたとすれば、あの清塚が当社のために優良な契約者を紹介してくるはずはないと思うんです」

 高瀬も清塚の人となりはよく知っており全く同感である。しかしそれを口にするわけにはいかない。副社長は高瀬に、「至急に事情を調べて報告してくれ」と言っただけではあるが、副社長が、上手く金融庁の顔を立てられるような幕引きを求めていることは読めている。

「それは決めつけ過ぎだろう。当社のためじゃないにしても、清塚が瀬川代理店と親しくて、代理店に手数料を稼がせてやろうと思って紹介したってこともあるんじゃないか?」

「ええ、それは考えられます。しかし代理店に手数料稼ぎをさせてやるだけだったらどんな契約でもいいわけです。彼奴が会社を辞めた経緯からすると、彼奴の紹介契約は一応用心してかかったがいいと思ったんです」

「うん、用心するに越したことはないが、だから直ちに金額引き下げはないだろう」

 大杉には、高瀬がいちいちネガティブな反応をする理由は一目瞭然である。「この腰抜け野郎」と言いたいのを我慢して、せいぜい声の調子に皮肉を込めて答えた。

「いや、もちろん清塚の紹介だというだけで金額引き下げを申し入れたりしてるんじゃありませんよ。だけど部長だって、清塚が紹介してきたという以外にバックグラウンドのまるで分からない未取引契約者の契約を二十億も受けるのは心配じゃありませんか?」

 高瀬もぐっと詰まった。

「吉野君もそこを心配して、まずネットでこの契約者の勤務先の慧明塾ついて調べてくれたんです。その結果、慧明塾っていうのはどうも真っ当な会社とは思えないし、しかもその慧明塾と清塚がつるんで何かやらかしているらしいということが分かって来たんです。それじゃ翔子ちゃん、ここからは君が調べてくれたことを簡単に報告してくれるか?」

「はい、まず部長、これにお目通し下さい。これは慧明塾のホームページのコピーですが。これには慧明塾というのが会員制を採っている経営コンサルタント会社だってこと以外にほとんど何も書いてないんです。特に代表者、光中忠義の経歴などは全く書かれてなくて、書いてあるのは光中代表が矢部総理とどんなに親しいかってことばかりなんです」

 高瀬は話を聞きながらコピーに目を通している振りをしているが、その内容など何一つ頭に入っていかない。結論は出してあるのだからコピーに何が書いてあるかなどどうでもいいのである。問題は、その結論に持っていくための尤もらしい筋書きである。

【 ふーむ、副社長のところに伝わってきた地震も震源地は官邸だ。ということはこの二人が勘ぐっていることは図星かも知れないな。となると、いよいよもって早めの幕引きをしないといけないな。】

翔子は説明を続けた。

「それで去年、週刊未来が慧明塾について書いた記事があったので週刊未来に電話してファックスして貰ったんです。それがこれです」

 翔子がホームページのコピーの上にファックスのコピーを重ねた。

「これによりますと、慧明塾というのは表向きは株式会社組織の経営コンサルタントなんですが、実態は新興宗教もどきの・・・・・・その金が政界のどこかに・・・・・・週刊未来はそれが矢部総理のところと見ているようなんですが・・・・・・そうしているところに週刊未来の担当記者から電話が来まして・・・・・・」

「えっ、週刊未来に電話をしたのか?」

 上の空で聞いてはいても、高瀬の耳の「ご主人様防衛本能」はアメリカの危険にだけは敏感に反応するどこかの国の首相以上である。

【 これは拙い。】

 大杉が割って入った。

「いやそうじゃなくって、向こうから電話が入ったんです。ファックスの送り先が当社だったんで記者がピンときて電話してきたんです。なんでだと思われますか?やはり清塚が慧明塾とべったりになって何かやらかしてるんですよ。ということはですねえ、この一見いちげん客からの高額の生保申し込みを、単に清塚が知り合いの代理店に好意で紹介してきた申し込みと考えるのはあまりにナイーブだってことだと思うんです。それで我々は契約者にコンタクトして保険金額の引き下げを申し入れたわけなんです」

「うーむ」

 高瀬は目の前の週刊誌の記事を睨みつけながら暫く考え込んでいたが、態勢を立て直して反撃を開始した。

「しかしこの記事でも、違法行為があったとまでは書いてないし、況や、そうして集められた金が政界に流れているというのも『らしい』と言うだけじゃないか。しかも保険契約の申し込みは第三者がしているわけじゃなし、本人が申し込んで来てるんだからそんなに心配することはないんじゃないか?」

「たしかに『らしい』だけです。清塚とのことにしても、記者は『まだ記事にできるだけの裏付けは取れてない』と認めてます。しかし、こんな個別契約一件で官邸から圧力がかかること自体『らしい』が単なる『らしい』ではないことの証明じゃないですか」

「だから、それはすべて週刊未来の推定が正しいとした場合の話で、それが何一つ証明されてない段階で、それを理由に、一度代理店が受けた契約の金額を引き下げられるかどうかって問題だろう?」

「代理店が受けたって言っても、それはあくまでも申込書を受け取ったってだけで、代理店には契約締結権は与えていないんですから、それで直ちに保険契約が成立したってことじゃないじゃないですか。その申込書を保険会社が審査した後で引き受けを断ることに問題はないはずですよ。そうでなければ審査なんて全く意味がないじゃないですか」

「法的に可能だからといっていくらでもやっていいということじゃないだろう。そんなことを簡単にやられたんじゃ代理店としては堪ったものじゃないだろうが」

 普段、代理店を見下したような発言をすることの多い高瀬部長が見事なまでの正論を吐いた。大杉は遠慮なしに苦笑でこれに応じた。

「全くもってご尤もです。それではそのように審査記録に残して引受OKにしときましょう」

 高瀬としては、こう簡単に自分に下駄を預けて大杉に降りられても困る。部下もきちっと納得して一枚岩になってくれなくてはすべての責任を自分が負わなくてはならない。

「うん、俺はそれでいいと思うがちょっと待ってくれ。金融庁から副社長に電話が入った件でもあるから、一応副社長の了承を取っておこう。それじゃあこの書類をちょっと貸してくれ。副社長にもお目にかけとくから」

 部長室を出て審査課に戻ると大杉は翔子に、

「翔子ちゃんが調べたことの詳細と、我々がデクライン手続きをとったことと、矢部事務所からの要請で金融庁から副社長のところに事情聴取が来たことと、それから、今の部長と我々との議論と、全部正確に記録を残しておいてくれ。いつかきっと役立つよ。ついでに、副社長から『これだけの材料でデクラインは無理だから引き受けるように』って結論が下りてきたと書いといてもいいぞ」

 と指示した。翔子は不満を隠しきれないといった顔をした。

「結局そういうことになっちゃうんんですか?」

「決まってるじゃないか。高瀬部長が我々の主張をそのまま上に上げるわけないだろう。『担当課で調べたところではかくかくしかじかですが、これだけの材料では金融庁への説明は難しいでしょうから、なんか尤もらしい条件を付けて引き受けるしかないかと考えてるんですが、それで宜しいでしょうか?』とかなんとか言えば副社長も『君のところがそれでいいと言うならそれでいいんじゃないか』ってなところさ。お互いに『決めたのは俺じゃない』って形にして、万一将来おかしなことになっても誰も責任取ろうとしないんだろう。良い会社だよ」


 翌日、副社長決裁ということで、「形ばかりでいいから何か条件を付けて二十億で引き受ける」という結論が高瀬部長から審査課に伝えられた。

 大杉は、宇田哲哉から前年一年分の源泉徴収票に加えて、慧明塾の役員報酬が業績比例給であり、年により、この源泉徴収票に記された年収の七十%から三百%程度で変動する旨の付帯説明書の提出を受けることを条件に、保険金額二十億円のままで契約を受けることで宇田と話を纏めた。

 契約者と円満に契約が成立したことは、川喜多副社長から金融庁の小宮次長に電話で伝えられ、小宮は川喜多に感謝を伝えた。



3-3  墜ちた星


「いやはや、貴男あんたが紹介してくれたはつらつ生命ってのはなかなかお堅いね。出口の保険金支払いがお堅いのかと思ってたら、入り口もお堅いんだね。『お前には二十億なんて保険金はやれない』って言われちゃったよ。せいぜい三億だってさ」

 応接にどっかり座るなり宇田は清塚に嫌みを言った。清塚は桜井泰平をお供に、第二回目の五千万円の借り入れ金を受け取りに慧明塾に来ていたのである。

「ええっ! そんな失礼なことを言ったんですか?それでどうなったんですか?」

清塚はこのことは瀬川代理店から聞いて知っているはずだが、みごとにしらばっくれた。泰平は横で聞いていて、あんぐり口を開けそうになった。

「うん、矢部事務所から金融庁を通して一言言って貰ったら簡単に方針転換してくれたよ。なかなか芯のしっかりしたいい会社だね」

「そうですか、そんなことがあったんですか。それは失礼しました」

「いや、それはもう上手くいったことだからいいってことだが・・・・・・。ところで光中さんだがね、検査入院のはずだったのがそのまま本入院になっちゃったよ」

「そうですか。ずいぶんお悪いんですか」

「食道癌なんだが、二週間ほど精密検査をしてから今月下旬に手術するって話だ」

 と言っただけで、入院先、進行状況などの詳しいことは一切話さなかった。


 更に二日後の朝一番、宇田から、「残る五千万円の用意ができたからすぐに取りに来るように」という連絡を泰平があった。清塚は社長室を出てきて泰平に、

「今日は光中代表もおられなくて宇田だけだし、金を取りに行くだけのことだからお前一人で行ってくれ」

 と言った。泰平は、清塚の、宇田と面と向かっているときの卑屈までのおべんちゃら言葉と、「宇田だけだから・・・・・・」と言う言葉使いとのギャップに驚いた。五千万のキャッシュを一人で運ぶのは不安で、部下の一人も連れて行きたいところだが、尊大な清塚は、慧明塾には泰平までは同行させるがその下の社員には出入りを許していない。下の者を連れて行きたいなどと言えば、清塚から何を言われるか分かったものではない。

 慧明塾に着いたのは九時半である。泰平はいつもの打ち合わせ室に通された。しかし宇田はいくら待っても現れなかった。時計が十時を回ったときに、泰平は受付に行き、

「宇田取締役からすぐに来るように言われたので来たのですが、宇田さんには、私が来ていることは伝わっているのでしょうか?」

 と尋ねた。受付は驚いた。

「宇田取締役は歯医者に行ってるんですが、お約束があったんですか?」

 泰平は憮然とした。歯医者の予約が入っているのに「すぐに来い」と言う男も男だが、初めに「宇田さんからのご連絡で参りました」と言った時に、「歯医者に行っておりますが・・・・・・」と言わない受付も受付である。しかし、金を借りる者の弱みで泰平は抗議もできなかった。

「そうですか。どこの歯医者さんでしょう? 遠い所で、まだ暫くお帰りにならないようでしたら出直しますが・・・・・・」

 と言うと、受付は悪びれた様子もなく、

「一番町の、英国大使館の裏にある歯医者さんですが、車で行ってますし、予約は九時半ですからもう帰ると思いますが・・・・・・」

何をか言わんやである。泰平は打ち合わせ室に戻った。宇田は十分後に金の入った紙袋を手に打ち合わせ室に入ってきた。もちろん「お待たせしました」の一言もなかった。


 会社に戻った泰平を迎えた清塚の慰労の言葉は、

「たったそこまで行くのに何時間かかってるんだ!」

 だった。清塚の周辺の世界は、目下の者を人間扱いにしてはいけない世界のようである。泰平は、遅くなった理由を話す気にもなれず、今、清塚に引き渡した手垢まみれの紙幣を口に押し込まれたような不快感を抱えて社長室を出た。

 しかしこの手垢まみれのお金のお陰で、なんとか農環組合への融資も実行されるのである。清塚の言うところでは、「これでいよいよ安定的に出てくる日常ビジネスが走り出す」はずだが、泰平にはどうしてもそう思えなかった。


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 第二次増資は六月十五日と決まった。三月末の決算は、実際の数字などそっちのけで、全ては増資対策で作られたものだった。数件のORIプラントの架空売り上げが計上され、多額の売掛金残高が資産に載った。一方で、買掛金残高は隠せるだけ隠された。こうした厚化粧は決して只でできる話ではない。好業績をでっち上げるからには、そこそこの株主配当は覚悟しなければならない。第二次増資で新規に出資を期待できる先は、農環組合と中央火災の二社しかない。この二社を除くと、期待できそうな先は第一次増資に応じてくれた慧明塾の会員企業八社しかないのだからその八社を失望させるわけには行かなかった。ORIの現状は自分の足を食う蛸のようなものだったが、しかし、今や、当面の命を繋ぐにはこれしか方法はなくなっていた。今回も額面発行で、発行株数は前回と同じ千株、十億円の予定である。


「ORIプラントにつきましては、特許庁での実質審査は終わっておりまして、あとは正式通知を待つだけとなっております(中略)。すでに大手商社を含め、数十社から販売代理店契約の引き合いが来ており、このうち五稜商事ほか数社と代理店契約の締結を予定しております(中略)。

「現時点で某監査法人に試算して貰ったところ、弊社株式は既に一株百五十万円の価値があると評価されましたが、今回までは額面発行とさせていただき、第一次株主の皆様に感謝の意味で優先的にお譲りします」

 泰平は既存株主相手の増資説明会での清塚の説明を聞いて驚いた。特許については、先月、大庭から、「特許申請の根拠になっていた理論に基本的な間違いが見つかったので申請は取り下げたい」という取り下げ通知が特許庁に提出され、審査は棚上げになっている。従って、特許を前提とした代理店契約の話しなど出るはずもない。監査法人も唯の一度も会社に来たことなどない。説明は九十九%嘘である。

 しかし、それでも既存株主達の反応は鈍かった。彼らが第一次増資で株主になったのは、光中代表の手翳てかざしによるご託宣に従っただけであって、更なる投資をするべきかどうかを彼らに指示する光中は今回はいないのである。結局、既存株主からの増資申し込みは二百株にとどまった。この他に決まっているのは中央火災の百株、一億円と、農環組合からの五十株、五千万円だけである。清塚は焦った。彼は日本興業新聞に頼み込んで、「日興ベンチャー大賞受賞企業のその後」と題した自らのインタビュー記事を、月刊日本興業六月号に載せて貰い、その中で、

「近々増資の予定だが、基本的には既存株主と、第一次増資時点からお待ちいただいていた投資家さんにだけお配りするつもりで、それらの投資家さんからのお申し込みが万一予定増資額に届かなかった場合にのみ新規の投資を受け付ける。但し、弊社の株式は現時点でも既に一株百五十万円の価値があるという評価を監査法人から得ておりますので、既存株主の皆様とのバランス上、今回新規でお入りいただく株主さんには一株百三十万円でお譲りする方針である」

 と話した。月刊日本興業はこの発言に添えて、清塚が提出した決算データをなんのチェックもせぬままに掲載した。

 反響は大きかった。聞いたこともない企業や個人投資家から、「何株でもいいから持たせて貰えないか?」といった問い合わせが殺到し、残る六百五十株はあっという間に填め込み先が決まった。それも一株百三十万円である。払い込まれた資金は総額で十一億九千五百万円になり、予定額を上回った一億九千五百万円は資本準備金に積まれた。

 慧明塾からの一億五千万円といなほ銀行からの二億円は翌日一括弁済された。今回の慧明塾への経営指導料は半年分六千万円である。これらの借り入れを返し、何カ所かへの買掛金を支払い、更に前期の配当金を支払うと、増資で入ってきた金は早くも五億円以上が消えていた。しかし、とにもかくにも、一時的にせよ債務超過の状態を脱した。来月応答日を迎える四台分のORIプラント残金、四千五百万円の手形決済もこれで大丈夫である。

「だから何も心配することはないと言っただろう」

 清塚は社員の前で得意満面で言ったが、その清塚も内心では不安を払拭し切れなかった。今回は滑り込みセーフだったが、光中代表のバックアップが期待できないことがどれだけ重いかは、今回の増資で嫌というほど知らされた。日興ベンチャー大賞の効果が期待できるのも今回までだろう。配当金も第一期の配当率は五%で五千万で済んだが、資本金が倍になった今期は八%を約束している。一億六千万円以上の配当原資が必要である。


 ORIの第二次増資はこんな具合で表向きだけは華々しく終了した。中でも中央火災の出資は投資業界の興味の的となった。清塚は中央火災が一気に第二位の株主になったことをことあるごとにORIの宣伝に使った。

中央火災の運用担当専務、岩田貴一きいちは会社の取締役会の場で、

「以前から全社に号令をかけながらなかなか具体的に走り出せないでいたベンチャー投資の第一号として、株式会社有機リサイクル研究所、略称ORIというところに一株百万円で百株、一億円の出資をいたしましたのでご報告させていただきます。

「このORIという会社は、二年前まで当社の企業損害部次長兼賠償責任保険課長をしていた清塚康司君が、外食産業等から出る食品生ゴミを特殊な技術で効率的に堆肥化して農家に提供して、逆に、その堆肥で作った有機野菜を外食産業に供給するという循環システムを実現させるために立ち上げた会社で、時代のニーズにぴったり填っているところから、農水省他の官庁のバックアップを得て急成長している企業で、設立されてからまだ一年とちょっとしか経たないのですが、昨年は日興ベンチャー大賞にまで選ばれています。で、二年以内には上場も予定されておりますが、現時点でも一株あたり百五十万円の価値があるという監査法人のお墨付きを得ております。

「今回の増資では新規株主への譲渡単価は百三十万円だったのですが、弊社は・・・・・と言うか、私がなんですが、第一次増資の時点からアプローチしておりましたので、弊社については既存株主と同様の一株百万円での取得となりました。ですから、当社については出資と同時に最低でも三千万円、多分五千万円の含み益が生じたことになります。

「まあ、今度のベンチャー開拓は私がやったものではありますが、これが弾みになって全店で有望ベンチャー企業の発掘が進むことになって欲しいと思っております」

 と得意満面で報告した。取締役会の議長は会長の北川嘉明かめいであるが、北川は、五菱自動車工業が二年半前にリコール隠しを引き起こした時の社長であり、その事件に関連して不明朗な画策をしていた清塚を実質的に馘首くびにしたのも北川自身である。しかし、北川はけろりとして、

「それは結構でした。清塚君というのも、色々経緯があって当社を辞めた人ですが、しかし当社にいたときから大変な遣り手だった人で『さすが』という感じですな。役員の皆さんも各々のご担当部署で岩田さんのような率先垂範に努めていただきますようお願いします」

 と言った。北川も内心では「あんな策士が造った会社につぎ込んで大丈夫なのか?」という懸念を禁じ得なかったが、そんな懸念に触れれば、中央火災がリコール隠しの片棒担ぎをしたと世間の批判にさらされるぎりぎりのところまで行ってしまったことについての自分自身の責任問題にも触れざるを得ない。万一、この投資が裏目に出ても、それは担当部門の代表取締役である岩田の責任である。しかし、ORIの実態はこの時点ですでに「懸念」どころの話ではなかったのである。


 ORIの日常ビジネスは惨憺たる状況だった。農業環境整備組合(農環組合)の金融制度は、スタート三カ月後の六月始めに早くもつまずきが見えた。毎月一日のORIへの借入金返却が遅れたのである。泰平の催促の電話に対して理事長は、

「卸し先からの代金回収が遅れてるんだから、回収できるまで待ってくれよ」

 というものだった。泰平が、

「当社は組合に貸しているんで、組合の卸し先に貸しているんじゃないんですよ」

 と言ったのに対し理事長は、

「それは御社が後から無理を言うから、形の上では当組合うちが借り入れた形を取ったけど、初めは御社は自分のところが売った形を取りたいとまで言ってたんじゃないですか。貴男が覚え書きの変更交渉に来た後、私が清塚さんに抗議の電話を入れたら、清塚さんは『貴組合おたくを借入人にするのは、そうしないと技術的に難しいからで、実際の運用は当初の案と同じにするから』と言ったんですよ」

 と言った。泰平が清塚に確認すると、清塚は、

「そんなことを言うはずがないじゃないか。とにかく金消契約(金銭消費貸借契約)はそうなっているんだから、ちゃんと期日に取り立てろ」

 と言うばかりだった。


 四件の新規プラントは一月には完成し、二月にはそれぞれのサイトで据え付け工事も完了していた。地方都市の給食センター二カ所と自衛隊駐屯地二カ所である。ぎりぎりまで見つからなかった製品堆肥の納入先は、農水からの依頼で、近くの農協が引き取ってくれることになった。しかし、運送料は農協持ちだが堆肥自体はただである。それでも堆肥がプラント横に積み上がらないで済む目処が立ったので操業を開始したが、これが実に据え付けから四カ月が経った六月である。この四基についてはオペレーションはそれぞれの施設が自前で行なうので、ORIとしては、アフターサービスの義務があるのみでオペレーションに伴う収入は全くない。操業が始まったので納入先からは売却代金として一基について五千万円、全部で二億円が入ってきた。この中から、町工場への残金の手形四千五百万と運送費、据え付け費を支払うと一億二千万円が残る勘定だが、この三分の二に当たる八千万円を慧明塾に渡す約束なのでORIに残るのは四千万円である。それにしても、ORI創業以来初めての本格的収益である。社内は久々に活気に満ちた。しかし泰平はこのビジネスが、光中が官邸を動かしてくれたお陰でとれたものであることを知っている。

【 ORIの本格ビジネスなんて、後にも先にもこれっきりになるのではないだろうか?】

 彼は皆と一緒になって喜ぶ気にはとてもなれなかった。この四件に続くビジネスは霞ヶ関の官庁ビルに納入予定の二台の小型プラントでお終いだが、このほうの操業目処は全く立っていない。


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 慧明塾代表光中忠義が死んだのは増資から三日後の六月十八日、土曜日の未明である。その前夜、清塚は秘書の河本清花さやかと一緒に都内のホテルで一晩を過ごしたが、朝、まだベッドの中にいる時間に宇田からの電話で知らされた。

「それで、貴男あんたとちょっと打ち合わせたいことがあるから、十一時頃塾に来てくれないか」

 宇田はほとんど命令のように伝えると清塚の都合も聞かずに電話を切った。清塚はカチンと来たが、光中がいなくなった今、清塚が何も知らない外部の人間に、あたかも自分が官邸に繋がっているように見せられるかどうかは、今や、どこまで宇田に食い込めるかにかかっている。従うしかない。

 午前十一時。慧明塾の受付には重苦しい雰囲気が漂っていた。土曜ではあるが、奥の会議室では代表の死去を聞きつけて駆けつけた幹部数人が、葬儀などの打ち合わせをしているようだったが、秘書から清塚の来訪を告げられた宇田は、打ち合わせから抜け出して来た。


「清塚さん、昨日、TQCの大滝さんがやってきて、ORIの財務状態は本当に大丈夫なのかって聞くんだよ。大滝さんの耳に変な話が入ったようでね。俺は『よくは知らないが、自分はORIが順調に商売を拡げているものと思っていましたがね』と取り敢えずは言っといたけどね。本当に大丈夫なんだろうね?」

宇田の口の端がキュッと下げられている。TQCというのは、全国に一流ホテルを展開する大滝一族が持つ不動産会社で、ORIの第一次増資に応じて一億五千万円(百五十株)を出してくれた企業である。社長の大滝はじめは、慧明塾会員の中でも光中に最も心服している男だ。

 それにしても宇田は、ORIの実情が公表とは全く違うことぐらい承知しているはずである。承知しているからこそ、足元を見て、増資さえ成功すれば回収できる貸し付け金に暴力団金融並の利息を要求したのではないか。

【 此奴は慧明塾の会員に対して、当社うちに投資をさせたのは光中さんで、自分は関知していないと言いたいのかなあ?】

 清塚は、宇田がなぜこんな白々しい質問をするのかが分からず、こちらも外向けの答えを返した。

「ありがとうございます。だけど冗談じゃないなあ。一体大滝さんはなんでそんな心配してるのかなあ? 当社は計画の三年より早く上場できるんじゃないかと思ってるぐらいに順調なんですが。どこかでデマ情報を聞かされたんじゃないですか?当社も、順調すぎるだけにあちこちで妬まれてますんでね」

 宇田は狸と狐の化かし合いを続けた。

「そうかね? それならいいんだが。大滝さんとこは、いなほ銀行に追加担保を出さなくちゃならないことになってORIの株券を出したらしいんだ。追加担保はほんの三千万程度で済むんで、ORIの株式は未公開だけど上場間近だし、額面で一億五千万だから充分だろうと思ったらしいんだ。ところが銀行から『こんなのは紙屑だ』と言われてショックを受けたって言うんだよ。一方じゃ、ORIを大滝さんに薦めた光中代表がこんなことになっちゃったもんだからすっかりおろおろしてるんだ」

「そうか、そんなことじゃないかと思ったらやっぱり・・・・・・。実は、昨年末に、いなほ銀行に頼まれて支店長クラスの男を採ってやったんですが、これが全く仕事ができない上に銀行の権威を笠に着て、他の役員に横柄な態度ばかりとるんで、二カ月で追い返したんですよ。そうしたら、いなほが二億の融資を繰り上げ弁済しろって言ってきたものですから、今度の増資で叩き返してやったんです。大体あの融資だって、こっちは全然必要なかったのに、借りてくれ借りてくれってうるさいんで借りてやったものなんですがね。そうしたらあっちこっちで、当社の財務状況について根も葉もないことを言ってるみたいなんですよ」

「なるほど、そんなことがあったのか」

「ええそうなんです。まあ当社のことは、日本興業新聞がしょっちゅう宣伝してくれてますんで、世間一般は当社の順調さは分かってくれていると思って放っておいたんですが、こんなことが出て来るんだとしたら放っておけないな。いなほに謝罪広告ぐらい出させますか」

「うんそうだな。放っておかないほうがいいな。それでもデマが続くようだったら金融庁から言わせるからその時は言ってきてくれ。それでね・・・・・・」

「それでねって、まだあるんですか?」

「まだあるんですかって、今からが本題だよ」

【 まだ悪いことがあるのか?だから宇田さんはこんな白々しいことを言って当社との距離を取ろうとするのか?】

 清塚が固唾かたづを呑んだ。

「実はね、検察が動いてるんだよ」

「えっ、検察がですか?」

「うんそうなんだ。いや、検察が動いているのは今に始まった話じゃない。慧明塾については、もうだいぶ前から警察や検察に色々たれ込みがあっててね。貴男あんたのところでも妬まれてるぐらいだから、当社がコンサル業界の中で恨まれてるのは当然だが、何しろ代表の後ろに控えている人が人なんで、検察も手が出せないでいたんだが、その代表がどうも駄目らしいなんて噂が出だしたころからまた動き始めているようで、この先、検察がどう出てくるか要注意なんだ。だから貴男あんたんとこも気を付けといたほうがいいと思ってね」

「気を付けろと言われても、当社は総理のところとは全く繋がっていませんから・・・・・・」

 今度は清塚が白々しくなった。助成金が取れたり、実績ゼロの会社が官公庁と取引ができたのは、すべて官邸のバックアップがあってのことである。その謝礼として、一度目の増資の後五千万円を光中が官邸に届けた時に、それが元はと言えばORIから出たことを矢部側によくインプットして欲しいと念を押したのは清塚である。しかし表向き、それらのことはすべて、光中が光中と矢部の関係の中でやったことでORIは一切跡を残していない。この見事なしらばくれぶりにはさすがの宇田も呆れた。

「ご尤もご尤も。それじゃあ貴男のとこと当社も一切関係ないってことらしいから、俺の取り越し苦労だったようだ。ご足労だったな」

 光中代表のいなくなった今、官邸を動かすパイプとしての慧明塾にどれだけの力が残っているのかは分からないが、もしなにがしかの力が残っているとすれば、それを具現化できる者は宇田以外には考えられない。清塚は慌てた。

「いや、そんなつもりで申し上げたんじゃないんですよ。僕なんかちんぴらは、官邸になんか行ったこともないし、そういう意味では、一切矢部事務所と当社うちの関係は形に残っていないから、検察が動いても当社とうしゃについては心配ないでしょうという意味で申し上げたんで、決して慧明塾に責任を押しつけて白を切るなんてつもりで言ったんじゃないんですから、お気を悪くなさったら謝ります。光中代表が亡くなっちゃった今、お頼りするのは宇田取締役しかいないんですから、どうぞ当社をお見捨てなくお願いしますよ」

 てのひらは再び返された。宇田の口のべの字がくっきりした。

貴男あんたね、まあいいけど、迂闊なことは言わないようにしてくれよ。当社と矢部事務所とだって何もないんだから」

「あっ、いやいやそういうつもりじゃ・・・・・・」

「まあいい。そういう発言を迂闊にしないように注意しようと思って呼んだんだから・・・・・・。いや、検察は代表が死んだからと言って、当社と矢部総理との間には手は出せないよ。当社から内側の部分は、矢部が失脚しない限り大丈夫だ。危ないのは当社から外側の部分なんだ。例えば貴男んとこだ。貴男んとこが万一にもおかしくなったような場合に、貴男んとこに投資した当社の会員が、貴男んとこと当社がぐるになって会員を騙したと言って告発してこないとも限らんだろう? だけどそんなことになっても、矢部事務所は『慧明塾がORIとつるんで何をしようとしたか知らんが、それと自分のところが慧明塾から受けた政治献金とは一切関係ない』と言って、当社から外側の部分を切り捨てようとするだろうし、検察も、光中代表が死んじゃった今は、『実態の解明が難しくなった』と言えるから、内側に波及させずに外側にだけ手を付けようとすると思うんだ。だから近い内に貴男んとこに捜査の手が伸びることは充分あり得ると思うよ」

 清塚はだんだん不安になってきた。

「しかし、光中代表が亡くなったと言っても、宇田さんがいらっしゃるじゃないですか。検察も、実際に慧明塾と矢部事務所の間を往き来していたのが宇田さんだということぐらい知っているんじゃないんですか? だから宇田さんが健在でいらっしゃる限り・・・・・・」

「甘いよ。俺はねえ、光中さんの死因だって本当に病死なのかどうか若干疑問を抱いてるぐらいなんだよ」

「えっ! 光中代表が病死じゃない可能性もあるんですか?」

 清塚の顔色が変わった。

「うん、可能性はあると思うんだ。だってそうじゃないか。代表は年に二回は一泊で人間ドックに入って精密検査を受けてたんだよ。それに煙草は吸わないし酒もたいして呑まないだろう。それが、胸が痛いと言って検査に行ったら食道癌が見つかって、開けてみたら気管から肺のほうにまで転移していて手が着けられないと言われて、それからたった一カ月でおさらばなんて考えられないじゃないか。それに途中段階での病気の詳しい状況は俺にも聞かせて貰えなかったんだ」

「病院はどこだったんですか?」

「四谷の私立の病院だ。食道癌の手術では有名なところらしい」

「あれ? 元々代表がご存じのところだったんじゃなかったんですか?」

「いや、此処の下にある診療所で癌らしいと分かって精密検査をすることになった時に、代表が矢部事務所に紹介して貰ったところなんだ」

「そうなんですか・・・・・・」

「そうなんだ。俺が貴男に頼んで、はつらつ生命の保険に入ったのも、これはなんかおかしいって気がしたからなんだ」

「ということは・・・・・・、宇田さん。ひょっとして宇田さんは、もし光中さんが誰かに殺されたんだとしたら、ご自分にもその危険があると思っていらっしゃるということですか?」

「うん、その可能性がないとは言えない。もし誰かが『内側』への波及をくい止めるために代表を殺したんだとすると、俺もかなり知っちゃってるからなあ。それにしても皮肉な話だよな。『内側』に波及させないために俺が狙われるんじゃないかと不安になって申し込んだ生保を、その『内側』のお口添えで契約できたんだから」

「いや、その節は全くもって恐縮でした」

「いや、それはもう上手くいったことだからいいってことだが、そんなわけだから貴男のところが蟻の一穴になると困るんだよ。会社がおかしくなったりすることのないように頼むよ。まさか今度の増資の際の決算報告書なんかにインチキはないだろうとは思うけど、不要な書類は残さないことだね。もし貴男んとこがおかしくなっても、当社としちゃあ、貴男んとこへの出資を仲間の会員に勧めたのは光中個人で、慧明塾は関係ないと言わざるを得んからね。そのときは悪く思わんでくれよ。まあ尤も、そんなことになったら慧明塾もお終いになると思うけどね。だからしっかりやってくれと言うんだけど」

「よく分かってます。大丈夫です。そんなご心配は要りません」

 清塚は胸を張って見せたが、胸の下の胃袋はきりきり痛んでいた。前期決算は架空売り上げ、架空特許、架空見込客など、インチキのオンパレードである。社内書類をいくら廃棄してみても、同じ書類は増資説明会でたっぷりばらまいてある。


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 清塚がTQCの大滝社長から電話を受けて、TQCが保有するORI株百五十株を、第二次増資の公募価額である一株百三十万円で買い戻してくれと要求されたのは、週明け、月曜の朝一番のことである。それまで、大滝社長とは慧明塾で光中を介しての付き合いであり、大滝が、直接清塚に電話してきたのは初めてである。

「清塚さんは第二次増資の説明会で、どこだかの監査法人が御社の株価を時価百五十万円と評価したとおっしゃってたんだから文句ないでしょう? 実際、公募価額は百三十万円で受け付けたんだし」

 大滝の声にはこれまで何度か会った時の親しさのかけらもなかった。

「いや、お返し下さると言うなら飛びついてでも欲しいぐらいなんですが、そうかと言って他の株主さんもどんどん同じことを言ってこられたときには、さすがに当社も資金繰りの問題が出ますんでそれは・・・・・・。まあ、ちょっと考えてみますが、それにしても、大滝さんはなんで当社の株式をこの時点で手放したいなんておっしゃるんですか? 再来年の上場予定はほとんど決まったようなものなんですが」

「いや、そんなに儲けさせて貰わなくても結構です。一年足らずで百万が百三十万になって返ってくるならそんな結構な話はございませんによって、取り敢えずこの時点で確定させて貰いたいと思いましてな」

「そうですか。残念だなあ。だけど、百五十万円と見積もられているのはそのとおりなんですが、だからと言って直ちにそれ以下なら引き取るかどうかと言うとそれは別問題ですから。とにかく当社の株は現時点未公開なんですから、社長がお売りになりたいなら、どなたか相対で取引に応じる方を見つけていただかなくちゃ。当社としては御社だけ特別扱いってわけには行きませんので」

「そうですか? 私はまた、当社だけ特別扱いにしていただくほうが御社にとってはいいのかな? と思っとるんですがね。それとも、他の株主さんにもお話しして、皆で一緒にお願いしたほうがいいのでしたらそうしてもいいですよ」

「ちょっと待って下さい。社長はどこで何をお聞きになっているのか知りませんが、多分当社の足を引っ張ろうとしているどこかの会社のデマ情報をお聞きになっていらっしゃるんだと思うんですよ。もし宜しかったら、最近の財務データをお持ちして、当社がどんなに順調にいっているかご説明に上がりますから、一度お時間をいただけませんか?」

「いや、お互いに時間の無駄はやめときましょう。私の情報源はそんないい加減なところではないし、複数の筋から聞かせて貰っていますから、清塚さんから重ねてお聞かせいただく必要はありませんよ。どうなんですか? 当社の要求を呑んでいただけるのか、それとも正式に訴訟まで起こす必要があるのか? そんなことになったら他の株主にも知られることになるし、お互い時間も金もかかることだし」

「分かりました。分かりましたが、今週いっぱい待って下さい。こちらから必ずお返事を持って参りますから。私どもの経営の健全さについては、慧明塾も日本興業新聞もお墨付きをくれてるぐらいなんですから、なんでしたら、慧明塾の宇田さんにもお問い合わせいただいて・・・・・・」

「宇田さんには、先週末、もう問い合わせましたよ。そうしたら宇田さんから『御社のことは全部光中さんが個人的になさったことで、慧明塾は一切関係ない』と言われちゃいましたよ。こういうことを言うようになったらあそこももうお終いだな」

 土曜日に、宇田から話を聞いた時には、宇田は大滝社長に、「よくは知らないが、自分はORIが順調に商売を拡げているように思っていましたがね」と答えたと言っていたが、宇田は既にORI切り捨てを初めていたのではないか? 清塚は暗澹たる気持ちになったが弱みは見せられない。

「そうですか。そう。宇田さんは確かに当社のことにはあまり関係してこられなかったから、当社の状況について詳しいことはご存じないんでしょうね。分かりました。分かりましたが、今すぐと言われても・・・・・・、如何でしょう? 今週いっぱい待って下さいませんか」

「そんなには待てんですな。御社が貴男のおっしゃるとおりの順調さなら、二億足らずの金の工面にそんなに時間は要らんでしょう。なんでも聞くところによると、今度の増資じゃ、予定額を遙かにオーバーする額が集まったようだから・・・・・・。それじゃあ明後日、水曜一杯お待ちしましょう。水曜の夕方五時までに必ず金の用意をして下さい。そうですなあ、水曜一杯に全額の用意がどうしても無理な場合は、取り敢えず額面の一億五千万だけでいいですよ。残り四千五百万は貴男が言うとおり今週いっぱいなら待ちましょう。いいですか、明後日の五時までですよ。それまでに連絡がない場合はアクションを起こしますから悪く思わんで下さいよ」

「分かりました」


 清塚は電話を切って頭を抱え込んだ。中央火災当時からかなり際どいことをやってきたので何度も厳しい局面を経験してきたが、これだけ厳しい局面は初めてである。

【 これまでも、なんとかなる、なんとかなるの連続でやってきて、実際なんとか切り抜けてきたのだから、今度だってなんとかなるはずだ。この俺にどうにもならないことなんかあるもんか!】

 十分ほど考えたあと、清塚がかけた電話の先は衆議院議員会館の平山事務所である。具体的に何を頼むという当てがあったわけではない。ただ大滝氏を宥めるのに、平山代議士の影響力が使えないかという漠然とした期待からだった。しかし、電話に出た横河秘書の反応は信じられないものだった。横河は部下から「ORIの清塚さんからです」と受話器を渡された途端に、

「昨日来、貴男あんたんとこにはえろう迷惑しとるんじゃ。週刊未来の記者が何度も事務所に来たり電話してきたりで、貴男んとこや亡くなった光中さんとことうちとの関係をうるさく聞いてきとるんや。それで、なんでやと思って慧明の宇田に聞いたら、宇田が言うには、なんやら貴男んとこは実態とかけ離れた財務データで投資家から金を集めとるようだとか言っとったが、そんなことしとるんかね? だから記者には、『清塚っちゅうのは、親爺おやじさんの代にうちの代議士がえろう世話になったから、本人が時々事務所に来たいっちゅうから来させとったがそれだけのことだ』っちゅうて追い返しとるんやが、そんなことしよるんだったら、この事務所には出入り禁止や。今後は電話もしてこんようにしてくれ」

 と一方的に言うと、清塚が一言も喋らないうちにガチャッと電話を切ってしまったのである。どこで何を聞いたのか分からないが、週刊未来まで動いているということはショックである。ということはTQCばかりでなく他の出資者の耳に入っている可能性が大きい。「TQCの大滝社長をなんとか宥めて・・・・・・」などという段階は疾うに通り越しているのではないか。

 それに、もう一つのショックは宇田が横河秘書に話したという内容である。宇田が平山事務所に話したことは「ORIのことは全部光中が個人的にしたことで・・・・・・」というレベルを超えた積極的ネガティブ情報である。宇田は平山事務所と組んで「蜥蜴の尻尾切り」を始めたのではないか?

【 平山事務所がこんな反応だということは矢部事務所も同じことだろうな。】

 清塚はそうは思ったが、確認のため矢部事務所の筆頭秘書、上井うえいに電話をかけないではいられなかった。宇田から「何かあったら、またなんでも言ってきてくれ」という上井の伝言を受けたのは、つい三、四カ月前である。

 電話に出た女性は、

「上井でございますね。少々お待ち下さい」

 と言ったが二十秒ほどして電話口に戻り、

「上井はただ今ちょっと外に出ておりますが、どんな御用件でしょう? 私が伺っておいて上井が帰りましたら伝えますが」

 と言った。居留守は一目瞭然である。清塚は黙って電話を切った。


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 TQCの大滝社長が初めてORIの財務状況に疑問を持ったのは、一週間ほど前、いなほ銀行への担保差し入れに際してであるが、その時はいなほ銀行もそれ以上の詳しい話をしようとはしなかったし、念のために訪ねた慧明塾の宇田取締役も「よくは知らないが、ORIは順調に商売を拡げているように自分は思っていますが」と言ったので、その時は「いなほ銀行ぐらいの大手行になると、いくらベンチャーの星などと言われても、できて一年そこそこの会社の未上場株など担保には取ってくれないのだな」と解釈した。ところが先週金曜の昼過ぎ、週刊未来の森田という女性記者から自宅に取材希望の電話があった。大滝が「なんの話ですか?」と聞くと「御社がORIに投資を決められた経緯についてだ」と言われ、ぎくっとしたのである。それで大滝が、「当社うち以外の株主さんには話を聞かれたのですか?」と聞くと森田記者は、「御社が外部の筆頭株主なので、まず御社に電話した」と言った。そこで大滝は、「今から会社を出て、週末は軽井沢に行くので、月曜の午後なら・・・・・・」と言って時間を稼ぎ、直ちに宇田に電話を入れて、夕方、無理に宇田の時間を空けて貰ったのである。


 TQCは、大手ホテルチェーンのオーナー、大滝一族が株を持っている不動産会社だが、社長の大滝自身は筆頭株主でもなければ、一族の中核的存在でもない。どちらかと言えばお公家風な人間の多い大滝一族の中で、目前めさきが利いて身軽なところから、グループの不動産会社、TQCの社長をやらせて貰っているに過ぎない。

 そんな大滝が、一族の中で少しでも大きな顔ができたのは、彼が慧明塾の場を通して政財官の錚々たる連中と顔見知りになれたお陰であるが、就中(なかんずく)、一族に対し、今や総理にまで上り詰めた矢部晋と自分がツーカーのように吹き込んでいた効果は大きい。しかし慧明塾会員仲間のお付き合いは金もかかる。彼はこれまでにも何度か、短期で、確実に利益の上がりそうな投資については取締役会にはもちろん、筆頭株主で会長の叔父にも話さずに独断で行ない、そこに大滝個人を絡ませることで某かの小遣い銭稼ぎをしてきた。

 そんな大滝にとって、光中の「薦め」は神の「ご託宣」にも等しかった。ORIへの投資は、「ご託宣」に従うことで神様のご機嫌をとりながら自分の小遣い銭稼ぎもできる一石二鳥の機会だったのである。しかし不滅の神が死んでしまい、そのご託宣もぐらつき始めた。そうなると、なんとしても一族の長老達が知る前に、密かに投資資金を回収する必要がある。大滝は必死だった。にもかかわらず、額面の百万円ではなく百三十万円での買い戻しを要求したのは、こんなに切羽詰まってからでもまだ欲の皮が突っ張っていたからである。

 しかしそれでは遅すぎた。ORIは、翌、火曜の午前中には、パチスロメーカー「ハウゼ」の副社長とマンション業者「穴沢工務店」の財務部長の訪問を受けたのである。どちらも、ORIに株式の買い戻しを要求するのは自分が最初だと思っているから、二人が清塚に言ったことは大滝の話とほとんど変わらない。「直ちに応じるか、さもなければ世間に言いふらす」である。これに対する清塚の回答は「金はありますから用意して、でき次第ご連絡します」というものだったが、もちろんそんな気は更々ない。この三社だけならなんとか買い戻せるぐらいの金はあるが、しかし、今や第一次増資からの株主である残りの五社が同じ申し入れしてくるのは時間の問題だし、そうなれば個人株主を含め全株主が実態を知ることになる。


 顔色が変わっているのは清塚ばかりではなかった。前日月曜の朝、矢部事務所の筆頭秘書上井うえいは清塚からの電話を切るとすぐに平山克己代議士の筆頭秘書横河を矢部事務所に呼びつけた。

 政治家の世界は面白い。横河は上井より十歳近く年上だし政治家秘書としてのキャリアも長いが、秘書同士の序列は、単純にボス同士の序列と同じである。上井に呼びつけられた横河は、なんの違和感もなく矢部事務所を訪ねた。

「週刊未来はお宅にも来たかい?」

 矢部がいないときは、矢部の執務室は上井の応接室である。応接ソファの上座に座るなり上井は横河に尋ねた。

「来ましたよ。『清塚の親爺さんに昔世話になったから、本人が時々事務所に来たいって言うから、断る理由もないんで来させてたけど、なんでや?』と空っ惚けといたけど、ちょっと厄介なことになってきましたなあ」

「しかしこっちは、慧明塾の光中がうちに持ち込んどった金が、そんなことして作った金とは知らんかったやからなあ。まあ光中は、別に清塚んとこだけで儲けとったわけじゃなかろうから、清塚のやっとったことと、光中から来た金が直結するわけじゃなかろうがな」

「だけど清塚の・・・・・・あれ、なんて言いましたかな? 食品生ゴミ処理機って言いましたか? あれの実用実験に助成金を付けてやることでは、総理のところも色々してやんなさったんでしょう?」

「そう。それに実験が終わった後、装置をあちこちに売り込むときにも光中から頼まれてなにがしかはしましたよ」

「そうでしょう。うちでもある程度動いてやったぐらいだから、そりゃ矢部事務所から言われれば役所は震え上がるから」

「うん、そこまで全部が表沙汰になるとちょっとやばいんだが、検察が、その辺まで探らざるを得ないようなことになるかどうかだな」

「そう思います。何しろ総理が絡む話だから、検察も万一にも手を出すことはないとは思うんですが。こうなってくると光中が死んでくれたのは、金の面じゃ痛いけど、実にタイミングがよかったと言うべきじゃないですか?」

「全く同感だな。それにしてもタイミングが良すぎるから、ひょっとして貴男あんたんとこが付き合いのある、あのなんとかってその筋の会社を使って何したんじゃないかと思ってたんだが」

「関西畜産のことですか? 冗談言わんで下さいよ。あれは例のBSE騒動のときに矢部先生が川崎組の佐々さっさ会長に頼まれて、うちの代議士に『面倒見てやれ』っておっしゃったから、平山がしかたなく面倒をみてからの付き合いなんですよ。ああいうところはよほど気を付けないと、両刃のつるぎで、こっちがばっさりやられますからな」

「そうですか。すると本当に病気だったのかなあ? 私は貴男のとこがあそこに頼んでやらせたんでなければ宇田がやったのかと思ってたんだが」

「いや、実は私も宇田じゃないかと勘ぐっとったんですがね。あの男だったらやりかねないから。それに宇田は慧明塾の株式も相当持ってるらしい。慧明塾は光中抜きじゃ解散するしかないでしょうが、今解散したら、解散価値は凄いって話じゃないですか」

「なるほどね。それはあり得るな。しかし光中はいなくなっても、慧明塾とうちやお宅との関係は宇田がみんな知っとるんじゃないかなあ?」

「そうなんですよ。それに清塚のために矢部先生の所やうちがしてやったことも全部知ってますよ」

「そうか、そういえばこの前宇田が金を持ってきたときに『この金は元々はORIから出たものですから』とくどく言っとったけど、あれは『俺は知ってるぞ』って意味だったのかなあ?」

「可能性はありますな。そういう意味では光中以上に消えて欲しかったのは宇田ですよね。光中は、間違っても総理やうちの代議士を裏切るようなことはせんけど、あの男は何をやらかすか分からん。不気味ですよ」

「本当ですな。光中がいなくなったんだから、あとは宇田さえいなければ、検察も清塚のところからうちやお宅まで遡ってくるのは相当難しくなるんだろうが」

「そうです。案外そのほうが検察もホッとするんじゃないですかな」

「そう思いますよ。横河さん、それこそ、その関西畜産ですか? あそこに頼んでなんとかして貰ったらどうかなあ?」

「それが危(やば)いんですよ。と言うのは、光中が入院して暫くしてからだけど、宇田の奴がうちの事務所に来た時に『光中代表もあんなことになったんで、私もついこの前たっぷり生保に入った。まあ、そんなことをしなくても、自分は危い書類はすべて厳重に封をして弁護士に預けて、自分に万一のことがあったときはどうしたらいいか、ちゃんと指示してあるから心配はないんですがね』とか言いおりましてな」

「え? ということは宇田は宇田で、光中の死についてこっちを疑ってるってことですか?」

「いや、多分ったのは自分じゃないぞというポーズでしょう。それと、自分に手を出したらとんでもないことになるぞという脅しじゃないですか?」

「なるほど、するとそれも駄目か・・・・・・それじゃあ、宇田を預かって貰ったらどうだろう。慧明塾が解散するしかないとしたら宇田もいずれどこかに行かなくちゃならんのでしょう。まあしたたかに金は貯め込んであるんだろうが、まだ隠居するわけにはいかんのだろうから。そうだとしたら、関西畜産に頼んで雇って貰ったらどうかなあ。適当な肩書きを与えてそこそこの給料を出せば乗るんじゃないかなあ」

「なるほど、それは名案かも知れんですなあ。でも、あそこに新たな借りは作りとうはないなあ」

「しかしあの時は関西畜産には相当儲けさせてやったんでしょう? 関西畜産から佐々会長のところにたっぷり回ったみたいで、後でうちまで佐々会長からお礼を言われちゃいましたよ」

「確かにあの時は六、七十億は儲けさせてやったんだったと思うから、まだうちの貸しのほうが大きいでしょうけどねえ・・・・・・」

「横河さん、それしかないですよ。あそこのいいところは、向こうがうちに見切りを付けない限り、あそこに宇田を預けとけば、宇田に変な動きはこれっぱかしもさせないってことですよ。変なことをしたらそれこそ牛肉ミンチに混ぜられちゃうから」

「ええ、確かに・・・・・・よしそれで行きますか? それじゃあ先方が受け入れてくれるようだったら、宇田の説得は上井さんがやって下さいますか?」

「分かりました。確かに、宇田に因果を含めるのはうちの事務所じゃないと無理かも知れませんな」

 話は纏まった。宇田を高級座敷牢に押し込もうという話である。横河は立ち上がってデスクの電話を取り上げると、ポケットから出した手帳を見ながらダイヤルした。

「糸山だが、どなたはん?」

 関西畜産社長、糸山英二の声は、二、三メートル離れている上井にも充分聞き取れる。三分後に横河が電話を切った時には、横河は会話の内容を上井に説明する必要は何もなかった。糸山は、

「他ならぬ矢部総理や平山先生のところからのご依頼とあれば、無下にお断りというわけにもいかんのでしょうが、逆に、総理の事務所からのお話を佐々会長のお耳にも入れずに勝手に進めるわけにもいかんから、ちょっと待って下さらんか。すぐに会長に伺って、折り返し電話しまっから」 というものだった。


 回答は十分後にあった。

「佐々会長にも相談したんやけど、BSEの時にあれだけお世話になっとるんだし、矢部総理のところまで関係した話なんだから全面的にご協力しろと言われましてな。ただ、総理や平山先生に繋がる男となると、こちらでお預かりしても人目につくとややこしいから、それよりはいっそ・・・・・・」

 どこで電話をしているのか糸山は急に声をひそめた。

「分かりました。それができれば名案だと思いますが、そんなに上手く行くんでしょうか?」

横河秘書も思わず声を顰めざるを得ないような話である。

「あはゝゝゝ、そんなこと問題あらへんがな。お任せ下さい」

両秘書は、その日のうちに、それぞれのボスの耳に入れ、ボスの与り知らぬこととして作戦実行の了承をとった。


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 桜井泰平は、ORIの株主ではあるが今まで会社に訪ねて来たこともないパチスロメーカー「ハウゼ」の副社長や、マンション業者「穴沢工務店」の財務部長が突然訪ねてきたことで、何かただごとならぬ事態が始まりつつあるのを感じていた。清塚が「ちょっと出かける」と言って、いつも出張のときに持ち歩く大型のブリーフケースを手にオフィスを出て行ったのは昼少し前である。

 週刊未来の森田という女性記者が「清塚社長にお目にかかりたい」と言って受付にやってきたのはその直後だった。


「それがあ、社長は今お出かけになっていらっしゃってえ、いつお戻りになるか分からない⤴」

 受付に出たのは河本清花である。森田記者は驚いた。区切りの母音がやけに強い上、見事なまでな語尾上げである。面食らったお陰で、滅茶苦茶な敬語など全く気にならなかった。

「それでは、財務か経理を担当しておられる役員の方にお話を伺いたいのですが」

「財務⤴経理⤴それじゃあ桜井専務⤴」

「どなたか存じませんけど、宜しく⤴」

 しかし森田記者の精一杯の皮肉も、マスカラでお目々ぱっちりの受付嬢には届かなかったようである。清花は傷ついた様子もなく、愛想よく記者を応接に案内した。

 清花から記者の来訪を告げられた泰平は、九十九%の不安に、「ひょっとしたら、また日興ベンチャー大賞のような話が週刊未来でも持ち上がっているのではないか?」という一縷いちるの甘い期待も残して応接に入った。しかしその期待も森田の初めの質問で砕き散った。

「これは御社が増資説明会でお配りになったチラシなんですが、ここに書いてあります特許というのはもう取れたんでしょうか? 当社が特許庁に問い合わせましたら、特許庁では『二カ月ほど前に開発者の大庭T大助教授から、特許申請の根拠になっていた理論に基本的な間違いが見つかったので、申請は取り下げたいという申し出があったので、申請者である御社に問い合わせたが、その後なんの回答も得ていない。従って審理途中で中断した状態のままだ』と言ってるんですが・・・・・・」

 泰平はぐっと詰まった。しかしここまで来れば破れかぶれだ。自分の財産、生活はすべてこの会社に賭けてしまっている。それにORIの詐欺紛い増資が表沙汰になったときは、どうせ自分も同じ穴のむじな見做みなされるのだろう。

「そうなんです。残念ながら今の時点では特許庁の中でペンディングで止まっているんです。このチラシは、まだ大庭先生から特許申請に理論的なミスがあるとご指摘いただく前に作ってしまったものだし、増資説明会の時点でも・・・・・・というか、今でもそうですが、私どもは、大庭先生のご指摘どおり、先生の初めの理論構成は間違っていたかも知れませんが、結果的には低コストで大量の生ゴミ処理ができて、上質の堆肥が得られるという意味では、ORIプラントは充分に特許に値するものだと思っておりますので、そのまま使わせて貰いました」

 咄嗟にしては、我ながら上出来の回答ができた。泰平はやや自信を取り戻して次の質問を待った。

「そうですか。それではその特許をとったとされる装置の販売代理店契約を五稜商事ほか数社と締結の予定というのはどうなっているんでしょうか?」

「ええ、まだ締結までは漕ぎ着けてませんが、近々という見込みです」

「なるほど。五稜商事さんに問い合わせたところでは『そんな装置の話は聞いたこともない。ORIからは去年、当社の屋上緑化事業の代理店をやりたいという話があって、代理店契約を交わしたことがあった。その際に屋上緑化の技術指導をして貰える人が欲しいと言うんでOBを一人紹介してやって、お土産にほぼ話の決まっている案件を二つ付けてやったけど、結局成約したのはその二件だけで、ORI自身では一件も商売は取れなかった。それに、紹介してやったOBも、給料が遅配になったり約束どおりの額が払われなかったりで、今年の春には引き上げた。代理店契約も解除した』とお聞きしたんですが、それでもその生ゴミ処理機の話のほうはまだ切れてないんですね?」

 泰平はたちまちノックアウトされた。それから先はドクターストップ寸前の受け答えになった。

「ご回答がないようですね。それでは次の質問ですが、この装置の実用化実験では、農水省、経済産業省、環境省の三つの官庁から研究助成金が出てますね。総額で九千万円以上出てるんですが、それがいずれも去年の三月、年度末に申請を受け付けて、ほとんど審査された形跡もないのに年度が替わった途端にばたばた支払われてるんです。これ自体が不自然なんですが、その上、この時点ではORIはまだ会社設立さえ終わっていなかったんです。これはあまりにも異例の取り扱いだと思うんですが、これらの助成金が付いた経緯を教えていただけませんか? それと、その助成金をどういうふうに使ったのかも併せて伺えないでしょうか? 大庭先生が受け取られた研究費は僅か二百万円だそうですし、先生のおっしゃるところでは装置の制作費や据え付け費など多めに見積もっても四千万円もあれば充分だろうということなんですが、残りの五千万円ほどは、どんな研究でどこに支払われたのか、具体的に伺いたいんですが」

「その辺は、私がこの会社に来る前の話なんで・・・・・・」

「・・・・なんでご存じないっていうことですか? そうですね、桜井さんは去年の七月にORIにお入りになってますからね」

森田記者は手帳を見ながら言った。森田は事前に相当調べ上げてあるようである。

「それではこれは桜井さんがこちらに入られた後のことだと思いますので、できればお答えいただきたいんですが、御社は設立半年で、営業実績が全くない時に、自衛隊駐屯地とか学校給食センターとかにその特許装置を納入しておられますが、こういう公的機関が、実績の全くない企業から装置を、それも、数万円の事務機器なんて言うならまだ分かりますが、一台何千万円もする装置を購入するっていうのは異例の話で、どうしてそんなことが可能だったのか不思議に思っているんですが、その辺の絡繰からくりを教えていただけませんでしょうか?」

 十分後、森田は、ストップするドクターがいないままにリンクで伸びきっている泰平を捨て置いてORIを出て行った。


週刊未来は、翌日の六月二十二日号で、「カルト集団慧明塾と矢部総理との切っても切れない縁」を特集した。泰平は出勤途中の駅で一冊買い求め、満員電車の中で読んだ。特集の狙いは慧明塾から内側、即ち慧明塾と矢部総理との繋がりをあばくことにあるのだが、肝心のその部分は憶測の域を出ず突っ込み不足は否めない。逆に外側の部分は具体的事実が掴めているので、やたらに詳しく書かれている。そのため、本来は脇役に過ぎないORIが、まるで主役のようにスポットライトを浴びていた。

しかしさすがに昨日の自分のインタビューは間に合わなくて記事には盛られてないので泰平はほっとした。

 その日は、午後からORIの電話は鳴りっぱなしになった。大半は株主からの事実確認や株式の買い戻し請求だが、中には買掛け金のある先からの支払い催促もある。第二次増資で、現金はまだ七億円近くはあるはずだが、会社の基本口座はすべて清塚が管理していて、普段でも十万円を超える支払いはすべて清塚が自分でやっている。泰平が預かっているのは日常小払いに充てる口座で、清塚はその口座には三百万円以上は残さないようにしていた。その口座の残高も既に百万を切っており、これ以上の支払い請求を受けても泰平にはどうしようもなかった。

 清塚は前々日に会社を出たきり音沙汰なしで、携帯に電話をかけても、「ただ今電話に出られませんので・・・・・・」が流れるばかりで居所は全く掴めなかった。こうなると、ひっきりなしに鳴る電話を取ってはみても、「申し訳ございません、ただ今、社長の清塚が不在で何も分からないので、社長と連絡が取れ次第こちらからご連絡させていただきます」と言うしかなかった。


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 泰平が関西畜産社長、糸山のだみ声電話を取ってしまったのは、翌週月曜の朝である。清塚は関西畜産のことを、「平山先生が紹介してくれた企業だから心配ない」と言ったのだが、泰平は間違いなくその筋の怖い会社だと思っている。彼が、

「申し訳ございません、ただ今、社長の清塚が不在で・・・・・・」

 を言いかけると、糸山は最後まで聞かずに、

「仕方ない。清塚の次の男を出せ」

 と言う。そこで泰平が仕方なく、

「私が専務の桜井でございますが」

 と言うと、糸山は突然怒鳴り始めた。

「お前のところが頼んできてリースしてやった農業環境整備組合ってのはなんだあれは? まだたったの五回目だっていうのにリース料が入ってないぞ。それにあの理事長っていうのはなんだ。うちの社員が請求の電話をしたら、『そんなものを払うつもりはない。ORIに請求してくれ』って言ってるらしいぞ。一体どうなってるんだ? この話は、元々大恩ある平山先生から頼まれた話だから乗ってやったんだが、それだからとって約束違反は絶対許さんぞ。いや、平山先生のご依頼だからこそ、先生の顔に泥を塗るような奴は徹底的に絞り上げてやるからな。お前ンとこはあの組合の連帯保証人なんだから、あそこが支払わないなら今日中にお前のところが支払え。ペナルティーも一緒に支払うんだぞ。ペナルティーがなん%かは知ってるんだろうな・・・・・・何? 知らない? 契約書は清塚が保管してて見たこともないって? お前専務って言ったんじゃないのか? 清塚はどこに行ったんだ、どこに」

 泰平は五分以上怒鳴られっぱなしに怒鳴られてなんとか電話を切ると、すぐに農環組合の理事長に電話を入れた。「お前のところが支払え」と言われてももう五十万円も払えない。

「冗談じゃないですよ。うちは御社おたくの株を五千万円も買わされたんですよ。一年半で上場じゃなかったんですか? それが完全な紙屑らしいじゃないですか。リース代金なんてたったの二千万円ですよ。これはうちでは払いませんよ。御社で払って下さるのが当然でしょう? もし約束どおり上場した場合には株を売らせていただいて、その中から一括でお返ししますから、それまで御社で払っておいて下さい。ああそれから二千万円差し引いても三千万円残るんですから、借入金の返済も三千万円まではしませんからね」

 泰平には理事長の主張が筋が通っているかどうかは分からなかったが、ぐうの音も出なかった。


 清塚の行く先が分かったのはその日の午後である。昼過ぎに秘書の高倉千乃が泰平の席にやってきて遠慮がちに切り出した。高倉千乃は会社設立の当初に、清塚が「業務能力の高い達だから」と言って河本清花と一緒に採用した秘書である。会社勤め二年目になっても相変わらず家庭の主婦然としていて品はよいがやることなすことビジネスのテンポではない。同じことを話すにも普通人の倍の時間を要する。

「あのう・・・・・・差し出がましいんですが・・・・・・、ひょっとしたら、ここに社長がいらっしゃるかも知れないという場所が分かったんですが」

「えっ何? 社長の居所が分かった? それは助かる。どこだい?」

「いえ、あのう・・・・・・絶対にそこにいらっしゃるかどうかは分かりませんから、あのう・・・・・・もし間違っていたら申し訳ないんですが、それが、シンガポールのホテルなんです」

「何? ス、スンガポール? 高倉さん、なんでそんなことが分かったの?」

 泰平も決して何事にもスピーディーなほうではないが、高倉のテンポに苛々して舌を嚙みそうになった。しかし高倉は泰平の焦った尋ねかたに怖気おじけづいて、それ以上話してよいのかどうか躊躇ためらってもじもじした。

「それが・・・・・・実は・・・・・・先ほど、私が昼食おひるに出ております時に清花さやかさんから私の携帯にお電話がありまして」

 清花は先週金曜の夕方、退社の寸前に泰平のところに来て、突然週明けの月曜から三日間の休暇を申請したのである。

「それで、清花さんのお電話の用件は、清花さんがお休みに入る前にお出しになるつもりでお忘れになった高島屋のメールオーダーの・・・・・・あっ、じゃない、三越のだったかしら・・・・・・あら、どちらだったかしら?」

「どこのでもいいからそれがどうしたっ?」

 さすがに、気の長い泰平も切れる寸前である。

「あっ、本当にそうですね。ご免なさい・・・・・・えっと、あの、その、三越のメールオーダーのレターをお出しになるのをお忘れになって、そのレターが清花さんの引き出しに入っているから、それを探してポストに投函しておいて下さいと頼まれたんです」

 風が吹けば桶屋が儲かるでもこれよりは話が速い。泰平は必死で我慢した。高倉の話を聞くのよりは、ビールの三本も呑んでトイレに行かないほうがもっと楽そうである。

「それでっ?」

「あ、それで・・・・・・あの、私、昼食おひるの途中だったものですから、探して見つからないといけないと思いまして、清花さんが今どこにいらっしゃるのかお聞きしたんです。そうしたら、あの・・・・・・清花さんは、今シンガポールのホテル・シェラトンにいらっしゃるんです。それで、お休みに入られる前に清花さんからはそんなお話は全然伺ってなかったものですから、これは、ひょっとしたら・・・・・・と思いまして」

 漸く鼠が桶を囓るところまで来た。

「間違いないよ。それで電話番号は聞いたんだろうね?」

「はい。これが電話番号とルームナンバーです」

 初めて「・・・・・・」抜きのセンテンスが返ってきたが、高倉は泰平の前に蕎麦屋の割り箸の袋を置きかけて引っ込めようとした。

「あの・・・・・・これ、メモ用紙に書き直してきます」

「いいッ、そのままでいいッ」

 泰平は受話器に手を伸ばしながら割り箸の袋をひったくった。

「あっ、それから・・・・・・あのう、清花さんが・・・・・・専務に休暇を今週いっぱいまで延ばしていただきたいとお伝え下さいとおっしゃってました」

「分かったッ」

 再度泰平が手を伸ばしかけるとまた高倉が遮った。

「あっ、あの、差し出がましいんですが・・・・・・」

「なんだッ、まだあるのかッ?」

 もう桶屋は儲け終わったのではないのか? 泰平は思わず高倉を睨みつけた。

「あっ、いえ、そうじゃないんですが・・・・・・あのう・・・・・・ホテルに電話をなさっても、ルームナンバーはおっしゃらないで、ミスター・清塚の部屋に繋いでくれとおっしゃったほうが宜しいんじゃないでしょうか? そうすれば、清塚さんがそのホテルにお泊まりかどうかはっきりすると思いますが・・・・・・あのう、ルームナンバーで繋いで貰っても、清花さんがお出になって『清塚さんなんかいらっしゃらない』とおっしゃらないでしょうか? ・・・・・・差し出がましいんですが」

 差し出がましくもなんともない。誠に尤もである。が、泰平はもう「サンキュー」も言わずに受話器を取り上げた。


 ミスター・清塚はシンガポールのホテル・シェラトンに滞在していた。

【 主婦高倉でもこのぐらいの作戦は立てるんだ。自分だって少しはしたたかにやらなくちゃ。】

泰平はホテルの交換に「慧明塾の宇田」と名乗った。「桜井」と伝えたのでは居留守を使われるのは目に見えている。

「清塚でございます」

 清塚が自分より強い者に話すときの語尾曖昧声が聞こえた。

「桜井です」

「・・・・・・・・・・・・」

 高倉よりももっと長い。

「桜井ですが、社長。こんな時にシンガポールなんかで何をなさってるんですか?」

泰平もさすがに詰問調である。

「お前、宇田って言ったじゃないか。人の名前を騙るなよ」

「だってそうじゃないと社長は電話にお出にならないでしょう?」

 清塚も覚悟を決めたようだった。

「俺忙しいんだよ。今からここの商工会議所のお偉方と飯なんだ。用があるなら早く言ってくれ」

「用はいっぱいありますよ。だけどその前に社長はそこで何をしてらっしゃるんですか?」

「だから言っただろう。こっちの財界のトップ連中に会ってるんだよ。ORIに投資して貰うつもりなんだ。何人か有望な人が出て来てるぞ」

 泰平は呆れて返す言葉を失った。この男のしぶとさは間違いなく尊敬に値する。ゴキブリというものに舌があったら、きっと舌を巻くに違いない。

「それでなんの用だ? 早く言ってくれよ。時間がないんだから」

「今日は給料日ですよ。先月分も払われてないっていうのに今月も支払いが遅れたんじゃ、社員は飢え死にしちゃいますよ。どうするんですか? 私は基本口座はお預かりしてませんから支払えませんよ」

「小払い資金があるだろう。あれから払っとけよ。足りなかったら一部支払いにしといてくれ」

「小払い資金の口座にいくら残ってると思ってらっしゃるんですか?  今現在八十万円も残ってませんよ」

「なんに使ったんだ。俺が会社を出るときにはまだ三百万近くあったろう?」

「この一週間で何社の取り立てに遭ってると思ってらっしゃるんですか? それに社長の先月分のアメックス請求だけでも六十万以上あるんですよ。これが五日に落ちるんですよ。それに、同じ頃に電気代などもこの口座から自動引き落としなんですよ。家賃も放ったらかしですよ。料亭の請求書やなんか払わなくちゃならないものは山ほど来てますよ。どうなさるんですか?」

「振り込みで払うものは俺が戻ってからやるから放っといてくれ」

「そうですか、それじゃあ農環組合のリース代も放っといていいんですね。農環組合が今月分を払わなかったんで糸山社長が怒鳴り込んできてるんですがね。農環組合に電話したら、五千万の株券を紙屑にされたんだから、五千万円まではリース代金も借入金の返済もしないって言ってるんですよ。私は見せて貰ってないから知らないけど、関西畜産との契約ではペナルティーが凄いんじゃないですか? それにあの社長『人間一匹殺すのと、牛一頭殺すのとどっちが簡単か分かってるかと清塚に言っとけ』って言ってましたよ」

 関西畜産とのリース契約の実質金利は年三〇%だが支払いが遅れた場合のペナルティーは更に百九・五%である。清塚は当初から関西畜産が川崎組系の似非(えせ)同和ということは知っている。子会社には消費者金融が取りっぱぐれた債権を安く買い集めて大儲けをしている会社を持っているとも聞く。他の未払い先とはわけが違う。

「分かった。こっちに五稜銀行の支店があるからすぐに送金する。関西畜産の口座番号と金額を教えてくれ」

清塚は基本口座の通帳などを持って、女を連れて豪華ホテルを泊まり歩いているようである。泰平は苦い思いを嚙み殺して関西畜産の口座とペナルティーを加えた支払い金額を伝え、

「それじゃあ、小払い資金口座にも一千万ほど入れといて下さい。それで、いつお帰りになるんですか? あすは会社に出られるんでしょうね?」

 と畳み込んだ。

「いや、明日までこっちで用があるんだ。その後、夕方の便で台湾に渡るから、日本に戻るのは早くて木曜だな」

「えっ? 台湾にも行らっしゃるんですか? 台湾でも出資家を募るんですか?」

「いや、台湾は出資の話じゃなくて借り入れだ。台湾の中華信託から十億円借り入れる話が纏まりそうなんだ。だから二流週刊誌の取材ぐらいでおたおたするなって皆に言っといてくれよ。じゃ行くからな」

 電話は切れた。


 関西畜産からの取り立てはさすがの清塚も怖かったのだろう。清塚は電話の後、直ちに遅れていたリース料にペナルティーも含めて電告で送金したようで、その後は糸山社長からの恐怖の電話はなかった。また小払い資金口座には泰平の要請どおり一千万円の入金があった。

【 しまった、こんなことなら一億円と言うんだった。】

 泰平は臍(ほぞ)を嚙んだが、しかし咄嗟に「一千万」と言っただけでも泰平にしては上出来である。これで遅れていた社員の給与もなんとか支払ってやることができる。

 社員達は、TQCの大滝社長が来社したのを皮切りに、ハウゼ、穴沢工務店とORIの大口株主が次々に乗り込んで来た頃から、何かただならぬ気配を感じてはいたが、何が起きているのか分からずにいた。しかし、先週水曜の週刊未来で真相が分かり、すっかり浮き足立っている。そして今日、二カ月分の給与を受け取ると、直ちに七人の社員から退社の申し出があった。その先頭に立ったのが昨年末、ホンマ自動車から常務で来ていた大西だった。大西が六ヶ月の間にやった仕事と言っては、社長車としてホンマの最高級車を古巣からリースで受け入れたことだけである。泰平もさすがに、「会社が残るかどうかの瀬戸際に、お前も曲がりなりにも常務取締役じゃないか」と言いたかったが、そんな気力は到底なかった。全員に二カ月分の給与と、退職者に既定どおりの退職金を支払えば一千万円はあらかた無くなるのは分かっていたが、泰平はもう破れかぶれだった。大西は既定どおり〇・五カ月分の役員退職金まで受け取って会社を辞めていった。


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 ORIの始業は九時であるが、高倉千乃は普段、八時半には出勤する。二つあるオフィスのキーは清塚が一つ持っており、もう一つは守衛室に預けてある。最初に出勤した者が守衛室から貰い受けて、最後に帰る者が守衛室に持っていく決まりである。ORIでは高倉が一番出社が早いので、毎朝キーを受け取るのは大体において高倉だった。翌、火曜の朝、高倉が地下一階の守衛室でキーを受け取って七階に上がりエレベーターを降りると、オフィスのドアの前に背の高い男が二人立っていた。高倉の心臓がパックパックと音を立て始めた。背広姿ではあるが雰囲気がビジネスマンのそれではない。おそるおそるドアに近づきハンドバッグからキーを出しながら、

「あのう・・・・・・何か・・・・・・当社に御用でございましょうか?」

と言うと、年上とおぼしき男が内ポケットから警察手帳を出して千乃に見せた。

「愛宕警察署の者ですが清塚社長にお伺いしたいことがあって参りました。まだご出勤ではないようですね」

 言葉遣いは丁寧だが目つきが鋭い。いや鋭いというよりは悪い。どちらかというと捕まえる側ではなく捕まえられる側の男に多い目つきである。

「社長は・・・・・・あの、出張しておりまして・・・・・・今日は出社しないはずでございますが」

「そうですか。それでは専務さんの、ええっとなんておっしゃいましたかね。花井さんでしたか?」

「桜井でございますね。あのう、桜井は・・・・・・多分いつもどおり出社すると思いますが・・・・・・当社は九時始まりでございますので・・・・・・あのう、そのころにならないと参らないんでございますが」

「そうですか、それではそれまで中で待たせていただいて宜しいでしょうか?」

「あのう・・・・・・私では・・・・・・」

千乃は宜しいのか宜しくないのか分からず口の中でもごもご言ったが、元々男達は回答など期待していない。二人は千乃が半分開けて押さえていたドアを押し開けると千乃より先にオフィスに入ってしまった。千乃は慌てて二人に続くと、

「あのう・・・・・・それでは・・・・・・どうぞこちらでお待ち下さい」

 社長室前のソファを手で示した。

「ここが社長室ですか?」

 年上の刑事は千乃の案内を無視して社長室のドアに手を掛ける。

「あっ、あのう、そこは・・・・・・」

 社員は清塚に呼ばれた時以外は社長室に入ることを禁止されている。許可を取らずに外部者を入れたりしたら清塚に何を言われるか分からない。しかし、男達は千乃の狼狽ぶりなど全く意に介さず、勝手にドアを開けて中を覗いた。

「これは豪華な部屋ですなあ。こっちのほうが居心地が良さそうだからこっちで待たせて貰いますよ。どうぞお構いなく」

 誰もお構いなどするなどと言ってないのだが、これは「お構いしろ」と言っているのか? 千乃には判断がつかなかったが、取り敢えず電気ポットに水を入れてスイッチを入れた。十分後、千乃が茶碗をカタカタ鳴らしながらお茶を入れているところに泰平がオフィスに入ってきた。千乃でさえ優柔不断に思うことが多い泰平が、この時ほど頼もしく思えたことはない。

「あのう・・・・・・警察の方が社長に会いたいと言って来ておられるんです。で・・・・・・今日は出張ですと申し上げましたら、それでは、あのう・・・・・・桜井専務にお目にかかりたいとおっしゃって・・・・・・社長室にいらっしゃいます」

 言い終えると千乃はへなへなと座り込みたい衝動を覚えた。僅かの間に肩がコリコリになっている。入れ替わりに泰平の顔色が変わった。

 泰平が社長室に入ると、若いほうの刑事が壁に掛けられた額入りの写真をデジカメで写しているところだった。写真は三枚ある。一枚は慧明塾の勉強会の写真。清塚がマイクの前に立って質問をしている。その斜め後ろに口端を下げて立っているのは司会役の宇田。清塚の左側のテーブルには講師の矢部総理(当時官房長官)と慧明塾の光中代表が座って清塚を見上げていた。もう一枚は清塚が民自党の中堅代議士、平山克己と額を寄せて何か打ち合わせている写真。多分平山の事務所で撮ったものだろう。最後の一枚はどこかの壇上で清塚が年輩の紳士から賞状を受け取っている写真。二人の頭上には「第四回日興ベンチャー大賞表彰式」の垂れ幕が掛かっている。いずれも清塚の栄光の瞬間である。

ソファに掛けていた年上の刑事が立ち上がって泰平に挨拶をした。

「お早うございます。桜井専務ですね。愛宕警察刑事部捜査課の兼子です。あれは部下の甲斐かいです」

 甲斐は後ろを振り返って軽く会釈したが、すぐに写真に戻った。兼子は甲斐が視線を写真から本棚の本に移してチェックを続けるのをやらせたままで泰平に話し始めた。

「写真を勝手に撮らせて貰ってますが、手は一切触れていませんからご安心下さい。それで、清塚社長がご出張と伺いましたので二、三専務に伺いたいんですが、宜しいでしょうか?」

「はあ結構ですが、お役に立ちますかどうか」

「いや、多分、清塚さんしかご存じないことも多いんだろうということは分かっていますから、お分かりになる範囲で結構ですから。その代わりご存じのことは正直に聞かせて下さい」

 言葉は丁寧だが調子は厳しい。

「清塚社長はご出張中ということですが、どちらにいらっしゃってるんですか?」

「シンガポールです。あっ、シンガポールから今日台湾に移るはずです」

「ほう? シンガポールと台湾ですか? 何かご商売ですか?」

「はあ、商売というか・・・・・・投資家への説明とか・・・・・・」

「とか?」

「はあ、シンガポールのほうは投資家への説明ですが、台湾のほうは銀行借り入れの件だと思います」

「ほう、台湾の銀行から借り入れるんですか?」

「はあ、そう聞いております」

 専務としては伝聞形の返事ばかりというのはみっともよくないがしかたなかった。

「それでいつからお出かけになっていつお帰りの予定ですか?」

「出かけたのは、と言うか、会社を出ましたのは先週の火曜なんですが、シンガポールにはいつ行ったのか・・・・・・? 帰国は早くて明後日だと言ってました」

「御社はずいぶんおおらかと言うか、いい加減と言うか、いや失礼。しかし、社長がいつ出張に出かけたかもはっきりしないんですか?」

「はあ、お恥ずかしいんですが、今回は清塚は先週の火曜の昼頃に、突然『ちょっと出かける』と言って会社を出たまま居所が分からなくなりまして、昨日、漸く連絡が着いたらシンガポールにいたような訳でして」

「なるほど。それでその時に清塚社長がシンガポールにいたということは確かなんですか?」

「はい、昼過ぎにシンガポールに電話をした時にホテルにいましたから確かです」

「それが昨日の昼過ぎですね?」

 泰平はちらっと若い刑事のほうを見やった。甲斐は今は本棚の前からじっと泰平を見ている。

「ええ、そうです」

「そうですか、なるほど。それでその時に清塚社長は、今日、ということは、電話の時点では明日ということですが、『今日台湾に移って、帰国は明後日』ということは木曜日に帰国するってことですね?」

「はいそうです」

「それで、昨日の電話以降は清塚社長とは連絡を取り合ってはないんですね?」

「はい話してません」

「台湾でお泊まりになるホテルはどちらかお聞きになってますか?」

 泰平は「しまった」と思った。専務としては当然尋ねて置くべきだった。尤も、尋ねたところで清塚が答えるかどうかは怪しいものだが。

「いや聞きそびれました」

「ふーむ。社長が海外出張で泊まられる所も聞かないっていうのも面白いですなあ。それじゃあ、それは仕方ないとして、シンガポールのホテルの名前と電話番号を教えていただけますか?」

「結構です。ちょっとお待ち下さい」

 泰平は社長室のドアから首だけ出して、千乃に、

「昨日のシンガポールのホテル名と電話番号のメモ、まだ捨ててなかったらくれないか?」

 と頼んだ。几帳面な千乃は割り箸の袋は捨てていたが、メモ用紙に書き写して残していた。兼子は受け取ったメモを甲斐に渡しながら何か囁いた。甲斐は黙って頷き社長室を出て行った。兼子は泰平に向き直った。

「それでは、今度は桜井さんご自身が日曜日に何をしておられたか伺いたいんですが、日曜の夜九時から十一時の間、桜井さんはどこにいらっしゃいましたか?」


慧明塾の光中代表が死んだ後、清塚が「ひょっとしたら検察か警察から何か聞いてくるかも知れんが、お前は『一切何も知らない』と言っていればいいからな。当社うちの後ろには平山先生がいて、その後ろには矢部総理が控えているんだから検察も警察も何もできやしないさ」と言ったことがある。その時は泰平は「また清塚一流のはったりが始まった」と聞き流していた。しかし、ここまでの兼子刑事の質問は、何か刑事犯罪に関して清塚のアリバイを潰しているような感じで、経済犯罪などの質問とは思われない。泰平は不審に思いながら答えていたが、突然矢が自分に向かって飛んできた。

【 これは一体何なんなんだ?】

 泰平は不安になった。

「社長が会社を飛び出して以降は来客だ電話だで追い回されて、土日は自宅まで押しかけられてへとへとだったんで、日曜は十時前にはベッドに入ってたんですが・・・・・・」

「そんなに早くからベッドにね・・・・・・。そうですか、お宅は確か谷保だったですよね」

【 俺の住所まで予め調べて来なければならないような何があったんだろう?】

「そうです。そうですが刑事さん。何かあったんですか?」

「失礼ですが、桜井さんが、日曜の晩、九時から十一時ぐらいの間お宅にいらっしゃったという証拠は何かありますか? いや、貴男についてはあくまでも参考までに伺っているだけなんですが・・・・・・、どうも貴男は本当にご存じない様子ですね。実は、慧明塾の宇田取締役が日曜の夜、芝大門で建築中のマンションの最上階から落ちたんですよ」

「えっ! 宇田さんが! いや知りませんでした。それで、宇田さんは・・・・・・?」

「即死です。十階建ての建築中マンションの最上階からですから助かるはずはありません」

「自殺・・・・・・ですか?」

「いや自殺か他殺か、あるいは単なる事故かはまだ分からないんです。それでこうしてお尋ねしているんですがね」

兼子はそう言って意味ありげに泰平の目を覗き込んだ。泰平は恐怖で黙り込んだ。ちょうどそこに甲斐刑事が戻ってきた。

「清塚は土曜にシンガポールのホテルシェラトンにチェックインして、今日チェックアウトの予定になってますが、今現在まだホテルにいますね。ずっと女と一緒です」

「ほう?」

 兼子刑事は「そうだったのか?」と確認するように泰平を見たが、泰平はそれを無視した。

「それで、桜井さんは宇田取締役のことはよくご存じだったんですか?」

「いや、存じ上げてはいますが、いつも社長にいて慧明塾にお金を取りに行くときにお会いしてましたんで」

 言ってしまって、泰平は「しまった!」と思ったがもう遅かった。

「ほう? お金をね。御社は慧明塾から相当大きな借り入れがあるようですが、お金っていうのはその借入金かなんかですか?」

「そうです」

「借入金をキャッシュで受け取るんですか? だって何億って金額だって言うじゃないですか」

「はあ、そうなんですが、いつも現金で渡されるんで、受け取るときは、社長は運び役に私を連れて行ってたんです」

「なるほど、これは生活安全部が面白がりそうだな。それでその時には向こうは宇田取締役が出てきたんですね?」

「はあ、初めの数回は亡くなった光中代表も出て来られたんですが、代表が入院した後は宇田取締役だけでした。あの・・・・・・刑事さん、自殺じゃない可能性もあるんですか?」

「いや、まだ分かりません。宇田については、本庁の生活安全部が御社(おたく)との取引のことで事情聴取しようとしていた矢先なんですが。しかし、とても自殺しそうな男には思えないんですよね。正式な解剖結果はまだなんですが、タミフルが検出されたなんて話もあるから、タミフル事故って可能性もあるんですが、しかしタミフルを呑んでおかしくなっているのは十代の若者がほとんどで、四十代の男が飛び降りたっていうのはあまり聞かないんでね。そんなわけで最近宇田とコンタクトのあった人間を一応チェックしてるんですから悪く思わんで下さい。

「それでどうなんです? 桜井さんが日曜の晩ご自宅に居られたということがはっきりすると大変助かるんですが。ま、こう言っちゃなんですが、できれば奥さんの証言なんかじゃなくてですね」

「日曜の晩は・・・・・・、困ったな、家内しかないなあ」

「いやなければないで心配要りませんよ。そんなものないほうが普通ですから」

「あっ、ちょっと待って下さい。ありますあります。ベッドに入ってうとうとしかけたところだから、十時少し過ぎだと思いますが、林野庁の遠山審議官から電話がありました」

「ほう、林野庁の審議官ですか? その方とはどんな関係なんですか?」

 兼子刑事は「専務とは名だけの、こんな冴えないサラリーマンが林野庁の幹部を知っているのが不思議」とでも言いたい様子で尋ねた。

「はあ、遠山審議官とは、私が前の会社にいた時に、鳥インフルエンザの問題でお目にかかってから存じ上げてるんですが、私がこの会社に入ったのは、遠山さんからのご紹介で・・・・・・。日曜は、遠山さんが週刊未来をお読みになって、心配して下さって私に電話をくれたんです」

「なるほど。そのことは遠山さんに確認させて貰って宜しいでしょうか?」

「どうぞ構いません。電話番号をお教えしましょうか?」

 甲斐刑事は遠山の電話番号を書き取ると再び部屋を出て行った。


 一時間ほどして刑事達が帰って行った時には泰平はくたくたになっていた。宇田の墜死については清塚も泰平も嫌疑は消えたようである。しかしこれで一件落着するとは思えない。今度は生活安全部がくるのだろうか? どう贔屓目ひいきめに考えても、自分の会社が不正な資金集めをしていたことは否定できそうにない。その場合、自分も専務としてなにがしかの罪に問われるのだろうか? 自分の資産のほとんど全部である緑営産業の退職金はこの会社に注ぎ込んでしまった上に、犯罪者にまでさせられてしまったらどうすればよいのか? 日曜の電話で、遠山は、泰平をとんでもない会社に紹介してしまったことを気の毒がり、「万一倒産なんて場合は、必ずどこかしっかりしたところを探すから」とは言ってくれたが、犯罪者のレッテルを貼られたら、「それは話が違う」ということになるのではないだろうか? それよりも、宇田は警察が疑っているように殺された可能性があるのだろうか? いや、殺されたとしか考えられないのではないだろうか? あの頑健そうな、叩き殺しても死にそうもない男がタミフルぐらいで飛び降りるなんて考えられないではないか? それに自殺なんてもっと考えられない。あの冷たい目の男は、人を殺すことはあっても、自分を殺すことなどあり得ないのではないか? そしてそうなると、光中代表の病死というのも違うのではないか? 兼子刑事は、宇田の墜死は警視庁生活安全課からの事情聴取の直前だったと言った。そんなタイミングの良い話があるのだろうか? 誰が殺したのか? 光中や宇田に喋られると困る人間は? 自分などたいして何も知らないのだから、自分が怖れる必要はないとは思うが、何か背筋が冷たくなるような気がする。

 その日帰宅した泰平は、家で取っている新聞で、昨日、今日の朝・夕刊を隅々まで見たが宇田の墜死事故は載っていなかった。


      ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 清塚がオフィスに顔を出したのは木曜の夕方四時である。清塚は上機嫌でオフィスに入ると泰平に社長室にいてくるように言った。そんなことは言われなくても、泰平は清塚に嚙みつかなければならないことがいっぱいある。何よりも宇田の墜死を話さなければならない。しかし清塚は泰平に一言も話させるタイミングを与えず、

「明日、中華信託銀行から十億の振り込みがあるはずだから朝一番で確認してくれ。これが台北で開いた中華信託東京支店の当社うちの口座だ」

 と凱旋将軍のような大きな声で言いながら、バサッと通帳をデスクに放り出した。もちろん開け放したドアから、まだ退職せずに残っている僅かな社員達が聞いていることを意識してのことである。泰平はにこりともせずに通帳を取り上げた。

「分かりました。それはやっておきます。それで私からの報告がいくつかあるんですが、まず、一昨日の朝愛宕警察の刑事が来ました。日曜の夜、慧明塾の宇田さんが芝大門で建築中のマンションの最上階から落ちて死んだそうです」

 清塚の顔色が変わった。

「死んだって・・・・・・誰かに殺されたのか?」

 声がかすれてほとんど声になっていない。

「自殺か他殺かそれとも単なる事故か、昨日の時点ではまだ分かっていないと言ってました。タミフル事故の可能性もあるようなことも言ってました」

「そうか、ちょっと他の報告は後にしてくれるか? それでドアを閉めて暫く一人にしてくれ。ああ、千乃ちゃんに言って、お茶を一杯淹れさせてくれ」

 清塚はそれだけ言うとソファに崩れるように座り込んだ。泰平は仕方なく言われたとおり清塚を一人にして社長室を出た。しかし、清塚は頼んだお茶が入る前に社長室を出てきた。手にはさっき持って帰った大型ブリーフケースがそのまま下げられている。清塚は泰平に、

「済まんがちょっと気分が悪いんで今日はこのまま帰らせて貰う。報告は明日聞かせて貰うから」

 と言うと、返事も聞かずにオフィスを出て行った。しかし清塚は翌朝オフィスに現れなかった。


 その日以降も株主からの買い取り請求や、噂を聞きつけた債権者からの支払い催促が相次いだが泰平にはいかんともし難かった。清塚は動転してオフィスを飛び出したので、中華信託銀行の預金通帳は泰平の手に残っていた。泰平は日本橋にある中華信託銀行東京支店を訪ね通帳に記帳をした。口座には、清塚が言ったとおり中華信託銀行からの十億の振り込みがされていた。しかし、清塚のサインがないと一円たりとも引き出すことはできない。こうなるとこの十億は、まるで清塚の逃走資金のために借り入れたようなものである。十億もあればさぞ豪勢な逃避行ができることだろう。そして、逃げ出したくても先立つものなど全くない泰平は、一人針の筵に座らされているのである。今週から更に二人の社員が来なくなった。

 清塚を追い回す者は今や株主や債権者ばかりではなく、警察、マスコミも加わっている。もちろん、清塚の携帯は常に切られており連絡はつかなかった。翌週月曜になっても清塚が会社に顔を出さなかったので、泰平は清塚の自宅に電話をしたが、細君は、清塚が前週木曜に日本に戻ったことさえ知らなかった。清塚は会社を出た後自宅に戻っていないのである。

 昼まで待っても清塚からの連絡がなかった時に泰平は不安になった。もう一度自宅に電話をしたが、これまでにも清塚はなんの連絡もなしに数日外泊することが度々あったようで、細君はなんの心配もしていない。もちろん細君は、慧明塾のトップの相次ぐ不審死など全く知らない。シンガポールと台湾に一緒に行っていた河本清花は、退社してくれればいいのにしっかり出社しているのだから、今回の清塚の雲隠れは女連れではないようである。泰平は、清花が清塚の行く先について何か知っているのではないかと思い問いつめたが、彼女も本当に何も聞いてないようだった。

 夕方、泰平は愛宕署の兼子刑事に電話をかけ、清塚が予定どおり木曜に帰国したが、会社には三十分ぐらい立ち寄っただけで、宇田の墜死を聞いた途端に会社を飛び出し、その後行方が知れないと告げた。しかし兼子刑事は、

「宇田の話があるからご心配なのでしたら、宇田はやはりタミフル服用による異常行動という結論になりましたから。当署うちは宇田の死亡事故を担当しただけで、御社おたくや清塚のことは経済犯罪を担当している本庁の生活安全部の話ですから。そうですな、今のお話は私からそっちのほうに話しておきますよ。大丈夫なんじゃないですか? 御社の社長は簡単に死ぬような男じゃないでしょう。多分、借金取りから逃げ廻ってるだけなんじゃないですか?」

 と取り合ってくれなかった。


二十年近くサラリーマン生活はしてきたが、泰平ほど経営から遠いところで暮らしてきた人間も少ない。会社が破産寸前であることはわかっても、彼にはどうすればいいのかさっぱり分からなかった。いや破産寸前なのかどうかも分からない。清塚が抱えて逃げ回っている二通の銀行通帳には十数億は残っているはずなのである。しかし、一体幾らの負債があるのかよく分からない。株主達に買い戻し請求権があるのかどうかも分からなかった。そういう意味では泰平がオフィスにいても屁のつっかえにもならないのだが、そうは言っても、泰平はここ以外にどこにも行くところがなかった。彼は一日、ひたすら打たれ続けて、七時過ぎにくたくたになってオフィスを出た。


 泰平がオフィスのドアを閉めている時に、エレベーターから週刊未来の森田記者が出て来た。森田は今日も清塚は不在と聞いてがっかりしながら、泰平と一緒に下行きのエレベーターに乗り込んだ。この、迷子になって虎の檻に入り込んでしまった野良犬のようにおどおどした男の話を聞いても時間の無駄である。しかしエレベーターが一階に着いたときに食い下がったのは迷子の野良犬のほうだった。

「記者さんならご存じでしょう? 慧明塾の宇田取締役は本当にタミフル服用による飛び降りなんですか? 大体タミフルってインフルエンザの薬でしょう? 真夏にインフルエンザのはずはないから、多分単純な風邪だったんでしょうが、宇田さんはインフルエンザと風邪が全く違う病気だってことも知らなかったのかなあ? それにしてもタミフルなんて市販されてる薬でもないし・・・・・・。清塚社長はすっかり怯え上がっているんですよ」

「私どもも初めは、これはてっきり他殺だと思ったんですが、警察は事故死と言い切ってますね。宇田は事故の前の週末に、脇の下のリンパ腺が腫れて切除したらしいんですが、事故の時点ではまだ痛み止めと化膿止めを飲んでたらしいんですよ。その後、夏風邪で熱を出したんですが、医者が出した薬が効かないと言って、今年の初めにインフルエンザで相当高い熱を出したときに病院で貰ったタミフルがまだ残っていたので、それを勝手に飲んだらしいんです。風邪とインフルエンザが全く別の病気だってことを知らない人は結構いるんですよね。それで、熱は一日でほぼ引いたらしいんですが、そうしたら二日目には夕方からお酒をやってたって話なんですよ。ですから、痛み止めに化膿止めにお酒を呑んで、その上にタミフルを飲んじゃったんですから、大の男でもおかしくなったんだろうってことですよ。解剖結果でも血液中からタミフルが検出されたってことです」

 泰平は、自分の手に手錠をかけた時の、宇田の、口の端を下げた顔を思い出した。

「まあ自業自得ってところですかね?」

「あれっ? 桜井さんは宇田取締役とお親しかったんじゃないんですか?」

「冗談じゃない。あんな奴とは百万円貰ってもお親しくなんかなりたくないですね」

森田は、迷子の野良犬の言葉とも思えない激しい言葉に興味をそそられた。この男が政界と慧明塾やORIとの関係について何か知っているとは思えないが、記事を書くときのアドリブぐらいには使えるかも知れない。

「何かよほど不快なことでもあったんですか?」

「いや、たいした話じゃないんですが、そりゃいくつかはありますよ」

「そうですか。ちょっと興味あるなあ。聞かせていただくわけにはいきませんか。立ち話でもないから、どうですか? ここでコーヒーでも」

ORIが入っているビルの一階にはスターバックスがある。二人がカウンターでコーヒーを受け取って小さな丸テーブルに着くと泰平は森田に促されてまず手錠の話をした。


「それで、宇田取締役は私の手首と鞄の握りを手錠で繋いだ後、『落としたら腕を切るしかないよ』なんて冗談を言いながら清塚社長にキーを投げて渡したんですよ。私には冗談のように聞こえなくてね。あの宇田って人にとっては、本当に人間の腕一本より金のほうが大事なんじゃないかな?」

「そうなんでしょうね。慧明塾の内幕を知っている人は、本当に悪いのは光中じゃなくて宇田だって言ってますね。元々慧明塾っていうのも、光中が父親から相続した資産と政治人脈を、宇田が自分が使うために光中をそそのかして作らせた組織だっていう話ですよ。光中はそんな知恵も才覚もない男だったみたいですよ」

「そうですか。私が慧明塾に行った時も、光中代表と宇田とどっちが偉いのか分からないような感じだったけど、なるほどなあ」

 泰平は、自分がいつの間にか宇田から「さん」も「取締役」も落としているのに気が付かなかった。

「光中っていうのは結構ウエットなところもある男だったようですが、宇田のほうは金オンリーのドライな性格だったらしいですね。清塚社長はどうなんですか?やっぱり金オンリーの男ですか?」

「いや彼は、金もだけど、金よりも見栄とか権勢欲なんじゃないかなあ? 彼の場合は見栄や名誉欲を達成するのに必要だから金にも汚いんじゃないかなあ?」

「なるほどね。それで、さっきの話ですが、慧明塾からの借り入れはいつも現金だったんですか?」

「そうです。いつも現金なんで手錠付き鞄が必要になるんです」

「それは面白いですね。それも使用済み紙幣でですか?」

「はあ・・・・・・そうです」

森田記者の興味の中心は使用済み紙幣のことで、どうも手錠のほうではないらしい。泰平は気勢をがれた。

「それと、桜井さんは何回か不快な思いをなさったとおっしゃってましたが?」

「はあ、まあ・・・・・・」

 泰平はしかたなく、ぼそぼそと歯医者の話をした。

【なんだつまらない。そんな話か! まるで気の抜けたサイダーじゃないの。】

 森田は話途中からあほらしくなったが、自分が言い出したことなので我慢して最後まで聞いてから席を立った。


泰平は森田記者の話で、漸く宇田の事故死を信じる気になった。しかしそうだとすると、清塚は特段身に迫った危険もないのに逃げ回っているということになる。彼はホッとすると同時に、今、清塚が連絡してきたら、

「馬鹿野郎。お前みたいな小悪党なんか誰も襲ってくれないから安心して会社にこい。無責任野郎が」

 と怒鳴りつけてやりたい気分だった。しかし翌日の夕方、漸く清塚が泰平の携帯に電話をかけてきた時にはそんな激しい言葉はとても口にできなかった。泰平は我ながら情けないほど穏やかな調子で兼子刑事と森田記者の話を伝えた。

「ですから社長が用心なさる必要はないんじゃありませんか?早く戻って下さいよ。社内はしっちゃかめっちゃかですよ」

 しかし清塚は、

「お前なあ、それは甘いんだよ。光中さんと宇田さんが続け様に死んだのが偶然のはずないじゃないか。警察が宇田さんの死因をたいして追及もせずにタミフル事故の結論にしたのは、上からの指示なんだよ。済まんが俺は暫く消えてるから宜しく頼むよ。時々こっちから連絡するから」

 と勝手なことだけ言って電話を切った。


 翌五日、朝一番にアメックスから電話があった。

「何かのお間違えとは存じますが、本日引き落とし予定のご利用代金、六十三万二千八百十五円が落ちていないんです。本日もう一度引き落としの手続きをさせていただきますので口座残高をご確認いただいて、不足の額を入金しておいていただけますでしょうか?」

 アメックスの女子社員の声は誠に感じの良いフレンドリーなものだった。しかし「何かのお間違え」でもなんでもない。先週末七十数万円あった残額から電気代や水道代など三十万円ほどが先に落ちただけのことである。

 一時間後、泰平は出社していた僅か三人の社員を自分の席に集め、「本日この時点でオフィスを閉鎖する」と伝え、退職金の一部を渡した。全部払ってやりたくとも、これが先ほど銀行に行って引き出した小払い資金口座の全額である。口座にはもう一円も残っていない。もちろん泰平自身は一円の退職金も受け取れなかった。

この日以降、清塚康司の名前はもちろん、慧明塾、ORIなどの企業名もマスコミの表からはふっつりと姿を消した。

                 「証拠隠滅」中巻 了


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