証拠隠滅

志摩 峻

上巻「老舗企業」


上巻 目 次

    主な登場機関と人物

  プロローグ

    第1部  老舗企業

     1-1  名車の事故

        1-2  消えた証拠

     1-3  ローン・シャーク

      1-4  弱腰企業


主な登場機関と人物

 中央火災海上保険株式会社関係者

日下くさか 大輝たいき 損外部門統括専務取締役

 竹川 荘郎まさお      常務取締役、神戸支店長

  大塚 芳夫            神戸支店損害サービス部長

木橋きはし 邦克くにかつ 同部 自動車損害課長

   川嶋 颯太そうた      同部同課主任 主人公

  辻 瞭夫あきお       同部  顧問弁護士

 新井 堅司けんじ      同部同課  損害調査人

   

はつらつ生命保険株式会社(中央火災子会社)関係者

   吉野 翔子しょうこ      業務部審査課主任 副主人公

  

 ORI(Organic Recycle Institute,株式会社 有機リサイクル研究所)関係者

   清塚きよつか 康司こうじ 取締役社長

  

株式会社 慧明塾けいめいじゅく関係者

光中 忠義 代表 矢部官房長官に近い政商

宇田哲哉 取締役企画室長

宇田さつき 宇田哲哉の妻


 民自党関係者

矢部 すすむ      官房長官 後総理

平山 克己かつみ     矢部の子分代議士、警察出身

    横河 耕史こうし     平山事務所筆頭秘書


広域組織暴力団川崎組関係者

半井 靖士やすし     (株)関西ビジネス・サポート顧問

半井 由美 半井靖士の妻

赤木 孝之 顧問弁護士


神戸労災病院関係者

笹谷 郁生いくお     外科部長

木内 寿々子すずこ 外科看護師長


その他の主な登場人物

森田 佳奈かな      週刊誌「週刊未来」女性記者

    黒岩 舜一 五稜自動車工業(株)社長




プロローグ


 都心とは言っても、繁華街から外れた此処、港区東新橋の裏町は、日曜日の夜遅くともなると、なまじ郊外の住宅街などよりよほど静まりかえっている。特に今夜のように、糠のような雨が降り続く六月末の夜ともなると、ハーンの「むじな」の舞台もかくやあらんと思わせるような一種物凄寂ものすごさびしい感じがある。

 そんな中、第一京浜を川崎方向から走ってきた白色のライトバンが浜松町一丁目の信号を過ぎて二本目の路地を左折した。街路樹一本無い代わりにコンクリート電柱がやけに多い無愛想な街である。

「二百メートルほど行ったら左に入る一方通行があるからそれを左折してくれ。角にコンビニがあるはずだ」

助手席の男が運転手に指示した。男は背広こそ着ていないが、Yシャツに紺のブレザー姿で、弛めてはいるがネクタイまでしている。こんな薄汚れた作業用ライトバンとは不似合いな出で立ちである。少し酒臭く、首筋が赤らんでいるが全く酔った様子はなくしゃきっとしている。決して大柄なほうではないが、声にも態度にも威圧感があった。

 運転手のほうは、隣の男とは対照的にこの車にぴったりのカーキ色作業服を着た若い男だったが、指示に黙って頷いた。後部座席にも男が三人座っていた。真ん中の男は背広姿であるが完全に酔いつぶれている。両脇に座った男達が左右から脇を抱えていなければずるずると床まで崩れ落ちるだろう。頭はさっきから拡げた両膝の間に沈んだままである。右側のレスラーのような大男はスポーツシャツ姿で、普通の人間の脚ほどもある両腕には青黒く入れ墨が彫られている。左側のスポーツ刈りの男はTシャツに黒の薄いブルゾン姿だった。右側の男より一回り小さいが、首の太さや胸板の厚さはあまり変わらない。両脇の男達に共通するのは、二人とも、この世の中には心を動かすものなど何も無いといわんばかりに無表情なのに、眼にだけはすべてのものに挑みかかるような危険な色があった。


 ライトバンはコンビニの角で左折した。道は片側一車線で、五十メートルぐらい先でT字路にぶつかっている。ヘッドライトの中に、T字路の向こう側で建設中のビルが浮かび上がった。工事現場は白いペンキ塗りの壁に囲まれており、ちょうど突き当たりがゲートである。

「あそこだ。あのゲートの前に車を着けろ」

「はいボス。ライトは消したほうがいいですか?」

 運転手が恐る恐る聞いた。

「おお、お前気が利くじゃないか。消してくれ」

 ボスと呼ばれた男は運転手の膝をぽんと叩いた。運転手はT字路を突っ切ってゲートぎりぎりでバンを止めた。

 ゲートの横に掛かった看板には、瀟洒な十階建てマンションが描かれている。正面玄関から真っ直ぐ延びた道には青々と街路樹が茂っている。どうやら今来た道には街路樹を植え、完成予定の一年三カ月先には立派に茂っている計画らしい。ボスは絵の下に「施工・穴沢工務店」と書かれているのを確認した。

 ビルの鉄筋コンクリートのがたいは最上階までできているが、外壁のパネルはまだ三階辺りまでしか貼られてなくてその上はまだ骨格が剥き出しで見えている。

 ボスがポケットからキーを取り出してスポ-ツ刈りに渡し、顎でゲートの錠前を指した。

「開けろ。車を入れたらあとを閉めとけ」

スポーツ刈りは無言で指図に従った。車が工事現場に乗り入れられゲートが閉じられるとボスは入れ墨男に「そいつを下ろせ」と言って自分も車から下りた。手には携帯ランタンがぶら下げられている。ランタンには足下だけを照らすように黒い布が掛けられていた。ボスは、引きずり出されて後部ステップに座らされた男の顔にランタンの光を当て、空いてるほうの手で男の右目を押し開けた。眼は宙を見たままだったが瞳孔はほんの僅か収縮した。男は四十代だろうかえらの張った幅の広い顔をしているが、そのかなりの面積を獅子っ鼻が占めている。

「どうですか?」

 入れ墨が尋ねた。

「大丈夫だ。ウィスキーを半本以上飲ませた上に、鎮痛剤とタミフルを飲ませたんだから意識は飛んでるだろうが、そのくらいじゃ死にっこない。じゃ、行くぞ。おい。お前は来なくていいから、すぐに出られるように車の向きを変えておけ」

 ボスは運転手に言うと先に工事中のビルに向かった。スポーツ刈りと入れ墨が両方から男の脇の下に手を入れて引きずり起こし、ボスの後を追った。入れ墨の反対の手には酔っぱらいのセカンドバッグが握られている。男の脚はぐにゃぐにゃで全く役に立たない。文字どおり引きずられた形である。ボスが振り返った。

「おい、それじゃ駄目だ。此奴はタミフルを飲んで自分で高いところに歩いて登ったんだからパンツがそんなに泥だらけになるはずはないんだ。できるだけ引きずるな」

「分かりました。よしそれじゃあ面倒だから此奴は俺が担ぐから、お前これを持て」

 入れ墨はセカンドバッグをスポーツ刈りに渡すと、「よっ」と声をかけて、砂袋でも担ぐように男の身体を軽々と自分の肩に投げ上げた。


三人と一個の荷物が工事現場に消えると運転手は言われたとおり車の向きを変えてエンジンを切った。しかし落ち着いて車の中で待っていることなどとてもできない。彼は車を下りると、傍らの資材置き場の軒下に入り工事中のビルを見上げた。一行の姿は見えないが各階の天井が二十秒間隔ぐらいで僅かに明るくなる。おそらくその辺りに階段があるのだろう。六階、七階、八階。だんだん登るスピードが落ちるのが分かる。最上階、十階の天井がポッと明るくなったがその灯りがビルの奥の方に消えていった。

 更に二十秒ぐらい経った。

「ドスッ」

 何か大きな軟らかい物が地面に落ちたような音がした。続けて「ボン」とやや固いもっと小さい物が落ちる音が続いた。運転手はぎくっとして顔をしかめると慌てて車に戻りドアと窓をしっかり閉めた。顔は真っ青だった。


 三分後、ライトバンが元来た方向に走り始めた時には三人の男は車に戻っていたが一個の荷物は戻ってなかった。工事現場のゲートは閉められていたが錠前は開けられたままだった。




第一部  老舗企業


1-1  名車の事故


 兵庫県はさすがに日本の暴力団の総本山が置かれている県である。一般市民と暴力団のトラブルという意味では、生半可なまはんかに警察力の行き渡っている県などよりよほど暴力団サイドの自制が効いている。しかしこれが企業と暴力団のトラブルとなると全く事情が異なる。特に、社会のあらゆるリスクを引き受けるのが商売である損害保険会社の場合、暴力団との対決は日常茶飯事である。


 中央火災海上の常務取締役神戸支店長竹川荘郎まさおは、神戸支店長になってからの一年半で、部下から暴力団関係のトラブルで相談を受けたのは数え切れないほどあるが、今度のケースほど理不尽で腹の立つものはなかった。


 部下で神戸支店損害サービス部長の大塚芳夫、同部自動車損害課長の木橋きばし邦克くにかつ、同課主任の川嶋颯太そうた、それに顧問弁護士の辻瞭夫あきおが打ち揃って支店長室に現れたのは〇六年六月半ばの金曜のことである。用件は、自動車損害課でトラブルになっている半井なからい靖士やすしという個人契約者の自動車事故についてだった。


 事故の第一報は〇六年六月六日、火曜の午前、契約者の妻、半井由美から代理店を飛ばして、直接中央火災神戸支店の代表番号に入り、交換が損害サービス部自動車損害課に繋いだ。電話に出たのは同課所属の調査人、新井堅司である。

 事故が起きたのは二日前の六月四日、日曜日の深夜十一時半だった。契約者、半井靖士は前の週の木曜、つまり六月一日に日本を出て、仕事で香港に行き、現地に三泊して六月四日の午後香港国際空港をって、同日夜関空(関西国際空港)に着いた。そして偶々たまたま香港からのフライトで一緒になった知人と関空のレストランで食事の後、空港に置きっぱなしにしてあったベンツで神戸市須磨区須磨寺の自宅に帰る途中で事故を起こした。事故の発生場所は阪神高速三号神戸線の若宮インターを出て国道二号線に入って間もなくの所である。


「主人の話では、スピードは制限速度よりは出してたけど、そんなに無茶苦茶に出してたわけじゃないって言ってるのよね」

 半井由美は百年の知己のような馴れ馴れしさで話し始めた。由美の言葉は東京弁だったが関西人の新井にも分かるぐらいに崩れており品がなかった。加えて声もがらがらで大きすぎる。新井はたまりかねて受話器を耳から数センチ離した。由美はそんなことは知る由もなく話を続けた。

「それが主人は香港からの帰りだったんだけど、少し眠かったらしいのよ。ところがスピード違反か何かの車を捕まえて路肩に停まってたパトカーがいたんで慌てて急ブレーキを踏んだんだけど、雨で路面が濡れてたもんだからスリップしたって話なの。それで横滑りして中央分離帯のガードレールに車の右側がぶつかって、弾みで路肩に停まってたそのパトカーのお釜を掘っちゃったのよ。事もあろうにパトカーのよ。あはゝゝゝ」

 新井はぶったまげた。お釜を掘るというのは追突の隠語であるが、男が口にしても品の良い言葉ではない。いわんや女性の口から聞くのは初めてである。おまけに「あはゝゝゝ」である。しかしそれでも客は客である。新井は我慢してお愛想に亭主の身体を気遣った。

「それは大変だったですね。それでご主人はお怪我はなくて済んだんですか?」

「済むはずないわよ。でもそれは後でいいから、まずうちのベンツのほうだけど・・・・・・」

 半井由美はまず大切なベンツのほうから始めた。

「ベンツはレッカーで牽引して神戸ヤマセに入れてあるんだけど、御社おたくから誰か行くんでしょ? なんだっけ、鑑定⤴」

 最後の部分は疑問文ではない。「鑑定というのですか?」という疑問文の省略形である。答えは分かっているのだから疑問文にする必要はないのだが、単語止めにするために語尾を上げるのである。若者の場合は語尾の上がり具合と知能レベルは反比例する傾向があるが、中年以降では語尾上げは知能水準だけでなく人品骨柄とも反比例する傾向がある。

「はい。鑑定です。至急に手配します」

「ええ、至急にしてちょうだい。早く修理しないと不便でしかたないから。まあ、私は現物を見てはないんだけど、ベンツって頑丈な車だからたいしたことはないって話なんだけど、パトカーのほうはだいぶへこんじゃったみたいなのよ。お釈迦じゃないの?」

これまた「全損」の隠語である。それにしても、自分が運転していたわけではないにしても、運転していたのは自分の夫である。その夫の過失で大破させた車を「お釈迦じゃないの?」とのたもうとはいい神経である。新井は不愉快になってお愛想を言う気もしなくなった。

「それで、そのパトカーはどこにあるんですか?」

「そんなこと知らないわ。あっそうか、パトカーのほうもうちの保険で直さなくちゃいけないのかしら?」

「それはそうでしょうね。まあ、警察が直さなくていいと言うなら話は別ですが」

 半井由美は新井の皮肉が通じないので平気で話を続けた。

「そう。うちの保険を使わなくちゃならないなら、須磨警察のパトカーだから、どこにあるかは須磨警察に聞いてちょうだい。パトカーのほうも御社おたくから見に行くんでしょ?」

「そういうことになるでしょうね。そっちのほうも手配します。それで? 物の損害はそれだけですか?」

「ええそれだけ。ああ、あとガードレール⤴ でもそんなのはいいんでしょ?」

「いいはずはないでしょう。彼処あそこは国道だから後で国から修理費を請求してくると思いますが、それもこっちで調べておきますよ。それで後はご主人のお怪我ですね。乗っておられたのはご主人一人なんですか?」

「ええそう、一人。それがどうもシートベルトを締めてなかったらしいのよ。主人は、窮屈だって言って、普段からシートベルトを締めたがらないのよね。それで、エアバッグはちゃんと作動したらしいんだけど、車がお尻を振ってガードレールにぶつかった時に、脇腹をチェンジレバーに酷くぶつけたようなのよ。それで肋骨を二本折っちゃって、その一本が肺を傷つけてるとかで、救急車で病院に担ぎ込まれたのよ」

 由美は亭主の怪我などベンツの擦り傷ほどにも心配していない様子で話した。

「病院はどちらの病院ですか?」

「神戸労災病院⤴ 肋骨って結構簡単に折れちゃうのね。でも治療も単純で、普通の肋骨骨折だけだったらギプスもしないでじっとして治すだけらしいのよ。だけど主人の場合、なんだかよく分からないけど、骨折だけじゃなくて肺挫傷とか血胸けっきょうとかを併発したって話で、昨日、背中を切って肋骨の位置の修正と、血を抜く手術をしたのよ」

「それで、肺のほうは大丈夫だったんですか?」

 新井はさすがに心配になって尋ねた。

「ええ、折れた骨が肺を圧迫してたってことなんだけど、手術って言っても、切るのはほんの少しなのね。だから五、六日で退院できるみたいよ」

新井は本気で心配したのがあほらしくなった。多分この女の亭主はゴリラのように頑丈なのだろう。知能はゴリラ以下かも知れない。

「そんなんで、主人は昨日の午後手術を受けてそのまま麻酔で寝てたもんだから、御社おたくへの事故連絡が今日になっちゃったんだけど・・・・・・。それで、これは主人から保険会社によく言っとけって言われたんだけど、こんなときのために保険かけたんですから後はちゃんとやって下さいって」

「それはご心配なく。きちっといたします。それで失礼ですが一つだけ質問ですが、ご主人は関空に着いてからご友人と食事をされてから帰られたということですが、お食事の間に飲酒はしておられませんでしょうね?」

「それも、多分聞かれるだろうから保険会社によく言っとけって主人から言われてるんだけど、主人は香港の空港で搭乗を待ってる間に小ジョッキ二杯ぐらい飲んだだけで、四、五時間飛行機に乗って、関空に着いてからは友達と飯を喰っただけで酒は一滴も飲んでないって言ってるのよ。だから事故の時にはアルコールっは全然ないはずだって」

「分かりました。アルコールの影響が残ってない状態の運転でしたら保険で処理できますので、至急に鑑定の手配をして結果はまたお知らせします」

「はい、そうしてちょうだい。それで結果の連絡はもう主人が電話に出られるから主人にしてちょうだい」

 半井由美は亭主の携帯番号を伝えて電話を切った。新井は事故聞き取りメモを直ちに主任の川嶋に上げた。


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 川島颯太、国内トップ損保、中央火災海上保険の神戸支店損害サービス部自動車課主任。二十八歳独身である。熊本は球磨くま五木いつき村の酒元に次男坊として生まれ、地元の中学から熊本の有名進学校を経て福岡の国立大学に進んだ。中学、高校時代はラグビーに夢中で、勉強らしい勉強はしなかったが、それでも成績は大体トップクラスだったから頭は悪くないのだろう。大学ではラグビーでは飽きたらずアメフット部に入り、授業にはほとんど出なかったので卒業には五年かかっている。身長百七十八センチ、体重八十二キロというのは、アメフット選手としては最も小さいほうだが、抜群の瞬発力と肩の良さから、三年から五年までクォーターバックとして活躍した。とはいっても九州の大学では剣道や柔道のほうが花形である。いつも汚らしく泥だらけになって、グラウンドで不規則なバウンドをする変形ボールを追い回している男達など誠にもてない集団だった。因みに高校、大学を通して颯太の渾名はネックレース(正しくはネックレス。即ちくび無し)である。

 こんな、球磨の山奥から這い出して来た熊か猪のような男は、都会の一流大学卒業者が大半を占める中央火災では異色の存在だった。入社してすぐに配属された本店の企業損害部賠償責任保険課は相当程度法律知識が必要な職場で、当時の課長、黒岩舜一は、この土の臭いぷんぷんのシュワルツネッガーのような新人を配属された時は、一体どうなることかと心配したが、一カ月もするとそれが杞憂きゆうに過ぎなかったことを知った。

 大学時代の五年間、「どうやったらゴリラのような大男共を出し抜いてパスを出せるか?」しか考えてこなかった脳味噌はあまり鍛えてはなかったが、その代わり新たに学んだことは海綿のように吸収した。決して器用なタイプではないが、真っ向から体当たり的に仕事に取り組む。結局は、理屈ばかり言って小器用に仕事をこなそうとする都会育ちの若者より成長が早かった。そして四年間賠償責任保険課で鍛えられた後、去年神戸支店の損害サービス部自動車課に主任として転勤してきて一年になる。今や部内若手のリーダー役に育っているが、若干の垂れ目気味からくる生来の童顔はそのままで、同僚、後輩からは颯太(さん)と呼ばれることが多い。


颯太は新井調査人から上がった聞き取りメモを読んでから、添付された半井靖士の自動車保険契約証のコピーに目を通したが何点か引っかかるところがあった。

半井靖士の保険は、本店管下の三軒茶屋支社(東京都世田谷区)で、十年近く継続して引き受けている契約であるが、今年の二月に神戸支店営業課で車両入れ替えと住所変更の手続きを行っている。入れ替え後の車はベンツSL55AMG。ベンツの中でも最高級クラス、しかも新車である。神戸ヤマセでの購入価額は一千八百万円だった。それ以前に三軒茶屋支社で引き受けていた車は六年使った国産中級車だから一気に出世したものである。車両入れ替え後の保険は車両一千八百万円、対人・対物賠償は無制限、搭乗者傷害一億円と最高水準の内容で、年間保険料は前車の無事故割引三十%を継承しても軽く三十万円を超え前契約の三倍に近い。こんな車両入れ替えには滅多にお目にかかれない。この格差が颯太が引っかかった第一点である。

第二点は、事故が起きたのは車両入れ替えから僅か四カ月後だということである。通常、新車(それも超高級車)の運転者は非常に運転が丁寧で一年以内の事故率は極めて低い。しかも、半井靖士はここ数年無事故なので無事故割引三十%の適用を受けているのである。

 そして第三点は契約者の肩書きである。申込書に書かれた契約者の年齢は四十二歳。職業は神戸の関西ビジネス・サポートという会社の顧問となっている。世間一般の顧問という肩書きにしては年齢が若すぎる。

 颯太は車両入れ替えの手続きを行なった代理店に電話を入れ経緯を聞いた。代理店の説明では、契約者の半井靖士は今年の二月「インターネットでお宅の広告を見た」と言って電話をかけてきて、「昨年九月に東京から神戸に引っ越してきたが、その時点では住所変更はせずに放っておいた。今度、此方こっちで車を買い替えたので、この際に車両入れ替えと一緒に住所変更もして欲しい」と言ってきたということだった。

「それで、手続きのためにその関西ビジネス・サポートって会社に行ったんですが、海岸通りの一流ビルに入った事務系会社で、ご本人も隆とした身なりの方だったんですが・・・・・・」

という以上のことは代理店も知らなかった。


 もう一つ颯太が疑問に思ったのは、契約者、半井靖士が本当に飲酒運転でなかったかどうかである。颯太はともかくも鑑定人の山岸りょうを神戸ヤマセに派遣し、同時に調査人の新井にすぐに須磨署に行って貰った。新井はラッキーなことに、ぶつけられたパトカーに乗務をしていた警官の一人に会うことができた


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「いやあやばかったよ。無灯火の車がいたから追いかけて停めさせて、俺達がそっちの車の両側にいたからよかったけど、どちらか一人でもパトカーに残ってたら、酷い目に遭ってたところだ。間違いない、飲酒運転だよ。この男は二カ月前にも検問で引っかかってる常習犯なんだ。これで免許取消やな。俺達が現場に行った時にはウィスキーの臭いぷんぷんで、呂律ろれつも回らないぐらい酔っぱらってたんやから。髭の先まで赤くなっとったんとちゃうか? 本人が怪我して救急車で運ばなくちゃならんので呼気テストはできなかったんやけど、相当酔ってたのは間違いない」

「そうですか。それでそのことは事故調書には書かれてあるんですね」

「もちろん書いとるがな」

「ありがたい。その調書のコピーをいただくわけにはいきませんでしょうか?」

 警官はさすがに一瞬迷った。自動車事故の事故調書は多分に個人情報を含んだ書類であるから簡単に第三者に開示できる書類ではないが、あんな無茶苦茶なドライバーの人権など屁とも思わずべらべら喋ったのである。しかしコピーを取らせることは後で何か問題になったときに責任を取らされるおそれがある。

「コピーはちょっとな・・・・・・。見るだけで宜しいやろ。見まっか?」

 開示できないという意味では閲覧も許されないはずであるが、この警官にはそんな理屈は分かっていない。新井は、ここは無理押しをしないほうが無難だと判断した。

「お願いします」

 調書では、初めにぶつかった中央分離帯のガードレールからパトカーまで二十メートルに渡ってスリップ痕がある。それと、ガードレールの破損状態、両方の車の損傷状態などから、推定時速は百キロと記載されていた。制限速度の倍である。呼気テスト欄には「実施せず。強いアルコール臭。呂律回らず。酩酊状態」と書かれていた。

 新井は必要事項を書き留めると礼を言って警察を出た。記載内容からすると酒気帯び程度の軽い飲酒でないことは間違いない。明らかに自動車保険の免責事由に引っかかるケースである。飲酒の有無について万一後で契約者と揉めた場合も、警察の事故調書にこれだけ明確な記載があるのだから、保険会社としては充分に対抗できると思われるが、呼気テストを行なってないことを考えると、できればもう少し傍証が欲しい。新井はその足で須磨消防署に行った。現場に救急車を派遣した消防署である。こちらは生憎あいにく、出動した二名の消防士が勤務明けで帰宅していたが明日は出勤ということだった。

 新井が神戸支店損害部に戻ったのは間もなく昼休みに入るころだったが、彼はケース担当の川嶋主任に声をかけて一緒に木橋課長のところに報告に行った。もちろん後で詳細な報告書は書くのだが、免責を主張する場合はできるだけ早く契約者に伝えたほうがよいので、まずは口頭報告から始める。

 結論は出ているようなもので、飲酒運転の理由による支払い拒否である。しかし契約者半井靖士への連絡は、念のため明日、新井が出動した消防士に会って、飲酒の事実を確認した後にすることになった。


 打ち合わせの後、颯太は神戸労災病院に電話を入れた。半井靖士は胸に溜まった血を抜く手術をしている。病院が手術の前に血液検査をしていれば、ついでに血中アルコール度も調べているかも知れない。

 颯太の用件を聞いて病院の交換手は、外科医局に電話を繋いだ。電話に出たのは外科看護師長の木内寿々子すずこという女性だった。大病院の外科看護師長というと少なくとも五十代だろうが、木内の声は名前のとおり鈴を振るような若々しい声だった。

「ああ半井靖士さんて、昨日交通事故で運ばれてきた患者さんですね。ええ、手術の前には血液型検査はしますが、血中アルコール濃度の検査はしてません。それに血液型検査をしたのは病院に着いてから半日ぐらい経ってからですから、その時にアルコール検査をしていても役に立ったかどうか。到着した時にどうだったかということは個人情報になりますから申し上げるわけにはいきませんが、最近の警察の捜査ってずいぶんいい加減なことも多いけど正確なこともあるんですねえ。これで分かって下さいな」

 なかなか粋な回答ではあるが、これでは訴訟沙汰にでもなったときの役には立たない。


 神戸ヤマセに行っていた山岸鑑定人が帰ってきたのは午後三時過ぎである。ベンツはフロントグリルを大破し、ボンネットが「く」の字に曲がっている。エンジンルーム内もラジエーターなど数部品の取り替えが必要である。また車の右側は先頭から最後尾までこすっている。右サイドミラーはなくなっており、右前ドアは前部が捲れており取り替えるしかなかった。山岸鑑定人の一応の修理見積額は最低でも二百二十万円以上だったが、実際に修理に入ると取り替えが必要な部品が増えることもあり、それ如何では更に相当の積み増しになる可能性があった。契約者の妻は事故報告の際に「ベンツは頑丈な車だから損害はたいしたことない」と言ったそうだが、優に国産中級車の新車価格である。これでも山岸の主張で、部品取り替えを極力抑え、板金塗装で修理できる箇所は板金塗装にしての見積もり金額である。契約者が「そこも部品交換でやれ」と言えばそれだけ修理金額が跳ね上がることになる。修理工場としては部品交換のほうが手間暇はかからず利益率は高いのだから、ちゃんと払って貰えるならそのほうがハッピーである。保険会社としては、飲酒運転で免責扱いとなれば修理代がいくらになろうと関係ない話だが、保険で支払わざるを得ないとなれば堪ったものではない。


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 翌水曜日の朝、新井調査人は再び須磨消防署を訪れ、半井靖士の事故で出動した友田豊と梅木久義という二人の消防士から話を聞くことができた。二人とも救急救命士の資格を持っている。年輩の消防士友田は、

「私はもう三十年以上消防士をやってるけれど、あんな不愉快な患者を運んだのは初めてですよ」

 と話し始めた。


半井は「痛い痛い」と言いながらもたいしたことはないのか、救急車の到着が遅いことに嚙みついた。

「俺は警察より先に消防に連絡したんだぞ。なんで救急車のほうが来るのが遅いんだ?」

 そんなことを言っても、パトカーは常にかなりの台数が県内を流していて、本部からの連絡で近くにいる車が現場に駆けつける。それに対し救急車は消防署で待機していて、連絡があってから出動するのだから、事故現場がよほど消防署の近くでない限り、大体の場合パトカーのほうが先に現場に到着することになる。しかし大きな事故の場合、気の立っている怪我人からこのたぐいの嚙みつきを受けることは珍しいことではない。そんなことにかかずらっているよりも怪我の状態確認が先である。友田は若い梅木が反論しようとするのを目でなだめながら、救急車後部の担架に仰向けになった半井靖士の袖を捲って血圧を測ろうとした。

 交通事故で胸を押さえて痛がっているケースはまず肋骨骨折がほとんどである。肋骨は比較的簡単に折れる骨で、単純骨折だけなら湿布と固定帯による圧迫固定ぐらいで済むが、内臓が傷ついたり、出血が多い場合は緊急な処置が必要になる。ベテラン救急救命士の友田は、半井の顔が青ざめており、やや呼吸が苦しそうな様子もあったので、胸腔内の出血(血胸けっきょう)を心配したのである。血胸は量が多いと呼吸困難を起こし生命の危険を伴うこともある。


「おい聞こえねえのか? 返事しろ」

 半井は痛そうに顔をしかめながら足を伸ばして友田の膝を蹴った。友田の手から血圧計が落ちた。

「痛いっ。何するんだ」

 友田が抗議するより早く、運転席で受け入れ先の病院を電話で探していた梅木がすっ飛んできて半井の胸ぐらを掴んだ。

「何するんだ。放り出してもいいんだぞ」

 梅木は身長百八十センチ以上あり松濤館流空手四段の猛者である。現場に到着したときから、怪我人が暴力団員風の男であることにすぐ気が付いていたが、そのくらいで気後れする男ではない。開いたままの後部ドアからは警官が二人覗き込んでいた。二人とも、現場に来て以来の男の態度には腹の虫が収まらないでいる。二人とも梅木をけしかけこそすれ止めようとはしない。友田が慌てて梅木のグローブのような手を引き離すと、

「多分肋骨が折れてるんだが、内出血してる可能性があるから動かしちゃいかん」

 と言った。半井は自分に覆い被さった若者の肩や胸の大きさに一瞬たじろいたが、覗き込んでいる警官たちの手前、見栄は張らなくてはいけない。半井はたっぷり髭に覆われた顎を突き上げて梅木を睨みつけると「さんざん待たせておいて『手当が遅れてもいいのか?』はねえだろう」と言いながら逆に梅木の胸を突こうと拳骨を伸ばしたが、その拳骨をグローブが包んだ。

「グキッ」

 拳骨が泣き声を上げた。

いてっ、離せ。痛い、痛いったら」

 拳骨と一緒に拳骨の主も泣き声を上げた。一メートル離れていてもウィスキーの臭いがプーンと鼻を突く。呂律も回っていない。梅木が尋ねるように警官達に目を向けた。年輩の一人が頷きながら、

「ヘロヘロだよ。相手にしないほうがいい」

 と答えた。

「よし。病院に放り込むまで大人しくしてるなら離してやるが、どうだ?」

 半井の拳骨がもう一度グキッと音を立てる。

「分かった、分かったから離してくれ」

「よし。それじゃあ離してやるが、もしまた騒ぎを起こしたら今度は本当にへし折ってやるからな」

 梅木は拳骨にもう一度泣き声を上げさせてから手を離した。半井は拳骨をすぐには開けなかった。

 血圧は上が九十だった。酩酊状態の壮年期の男性としては低すぎる。内出血の可能性が高い。そうなると手術が必要になるかも知れない。日曜の深夜でもあり、受け入れる病院は簡単には探せなかった。ようやく決まった病院は現場から十五キロ以上離れた神戸労災病院だった。友田は運転を梅木にさせて自分は患者のチェックを続けた。これ以上血圧が下がるようだったら強心剤の投与が必要になるかも知れない。半井は友田の横でウィスキー臭いげっぷの間に、

「お前ら、どこまで連れて行くんだ? もっと近い所があるだろうが。いいから近い所に着けろ。受け入れないなんて言わせやしねえよ」

 と喚いた。本人は喚いたつもりだろうが、呂律ろれつは更にもつれており、声も弱々しくなっている。

五月蠅うるせえなあ。拳骨に返事を聞かしてやろうか?」

梅木が前を見たままで怒鳴り返した。

「放っとけ。沈没寸前だよ」

 友田が言った。半井は更に数分間髭の奥で何かブツブツ言っていたが、必死の見栄を張った抵抗もそこまでで病院に到着した時にはすっかり泥酔状態だった。


 新井調査人の質問に対して梅木は、

彼奴あいつは『呑んでましたか?』なんて話じゃないですよ。へべれけですよ。飲酒運転の運転手を救急車に乗せることはままあるんですが、大体の人は、少しぐらい酒臭くても、酒は覚めちゃって借りてきた猫みたいにしてるんですが、彼奴は虎みたいだったですよ。尤も張り子の虎だったですがね。あはゝゝゝ」

 最後は思い出し笑いになった。友田も釣られて笑いながら、

「もし裁判にでもなって証人が必要になったら、いいですよ。証言してあげますよ」

と言ったが、笑いの陰に一抹の不安の色が浮かんでいた。

「面白いですね。彼奴と法廷でお目にかかれるなら俺も喜んで証人になりますよ」

 梅木のほうは屈託なかった。 


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 主任の川嶋颯太は新井調査人のこの調査結果を木橋きばし課長と一緒に聞いた。警察の事故調査書に加えて二人のしっかりした証人まで確保できたわけである。これで万一契約者から保険金支払請求訴訟を受けても負けることなど考えられない。颯太は自分の席に戻ってすぐに、契約者半井なからい靖士やすしの携帯に支払い拒否の電話を入れた。半井は黙って川嶋に全部喋らせてから、

「分かった。だけど俺は一滴も酒なんぞ呑んどらんぞ。お前がなんぞ証拠があってそんなことを言うとるのか知らんが、お前等、そういう出鱈目を言うからにはそれなりの覚悟はできとるんやろな?」

 と低い声で言った。怒鳴らないだけ不気味さがこもっている。いかにも暴力団関係者の話し方である。電話だから怖くはないが下手なことは口にできない。

「もちろん、当社としても充分に調べた上で申し上げております」

「そうか、お前、名前はなんというんや?」

「はい、自動車損害課の川嶋と申します」


 颯太は神戸支店損害部自動車課に転勤してきてちょうど一年である。神戸の損害部に来たからには暴力団との対決もあり得ることは覚悟していたが、実際に直接対峙するのは初めてだった。

「それじゃあ関西ビジネス・サポートについても充分調べたっちゅうんだな? 関西ビジネス・サポートって会社がどんな会社か分かった上で払わんちゅうんだな?それならそれでいいんだよ。それで? お前んとこが払わんちゅうのは車の修理代のことだけか? それとも俺の身体の修理代も払わんちゅうのか? 身体のほうは肋骨が二本折れて、その一本が肺を傷つけとったんで手術もしとるんや。それとパトカーの修理代はどうするんや。あんなんは国産の安もんやからお釈迦かも知れんが、それも払わんちゅうのか?」

「はい、飲酒運転事故によって発生した損害という意味では皆同じことですので、半井様の治療費もパトカーに対する賠償金もお支払いの対象とはなりません。それと、ガードレールの損害につきまして、お客様が国から賠償請求を受けました場合も保険でのお支払いはできません」

「そうか、よーう分かった。ま、払わんちゅうのを無理に払ってくれとは言わん。だがな、一つアドバイスさせてもろうとくと、お前んとこは結局は払うことになると思うんやけど、そんときには却って高いもんにつくで。ごたごた言うて修理に入るのが遅れた分、代車の期間も長くなるんやし、払わんちゅうたことに対するお詫びも必要になるしのう。それは分かっとるんやな?」

「はい、私どもはそういうことになるとは考えておりませんので・・・・・・」

「はゝゝゝ、坊やなかなかしっかりお使いができたな。良い子だ良い子だ。それじゃあ上のもんによう言うときや。『首をあろうて待っときや』ってな」

 半井の声には、面白がっているような響きすらあった。


 颯太は電話を切るとすぐに木橋課長に寸分違わず報告した。話を聞き終わった木橋は、颯太を伴って、損害部のフロアにある加山嗣男つぐお顧問の部屋に行った。加山は、昨年中央火災が顧問として迎えた警察OBであり、警察での最終ポストは兵庫県警の副本部長である。木橋が加山に頼んだのは関西ビジネス・サポートの会社概要と半井靖士という同社顧問の素性について警察から情報を取ることだった。

 損保が、暴力団関係トラブル解決のアドバイザーという名目で、警察OBを顧問として受け入れることは珍しくないが、それは名目であって、実のところは、最大の職員規模を誇る公的機関である警察マーケットにおいて、損保が団体傷害保険や団体扱い自動車保険等で、より大きなマーケット・シェアをとるための人質というのが正直なところである。それも損保が頼んで貰い受けるというよりは、警察が「どこどこの損保には五人も取って貰っていて・・・・・・」と暗に圧力をかけてくるというのが実態である。従って、暴力団関連トラブルでの警察OB顧問の出番はそんなに多いわけではないのだが、それでも年に数百万円の顧問料を貰っているのだから、警察OB顧問の多くは肩身の狭い思いをしている。木橋から久々の頼みを受けた加山嗣男は勇んで支店を飛び出し県警本部に向かった。


 加山が情報を取って支店に戻ったのは二時間後である。それによると関西ビジネス・サポートという会社は、本社を神戸市中央区海岸通りに置く社歴十四年の株式会社で、株式の過半は大阪の関西畜産という会社が保有する。関西畜産の社長糸山英二は、日本最大最強の暴力組織である川崎組傘下の似非えせ同和団体、宥和ゆうわ会の幹部でもある。つまり関西ビジネス・サポートという会社は、間接的ながら川崎組のれっきとした企業舎弟だったのである。

 業種は経営コンサルタント、貸金業などとなっているが、実態は不良債権回収業で、全国の消費者金融などが回収に四苦八苦している不良債権を買い取って立派に儲けている凄腕企業である。資本金は五千万円に過ぎないが社員は百二十人いる。しかし決算上は創設以来赤字続きで税金など払ったことは一度もない。

 県警は、関西ビジネス・サポートを以前からウォッチしていたので、昨年九月に、半井靖士という男が東京から顧問として同社に乗り込んできたことも掴んでいた。それによると半井靖士は同社とは雇用関係はなく食客いそうろう的存在らしかった。県警は半井の東京時代のバックグラウンドも洗っていた。それによると、半井はアメリカの大手銀行メトロ・コープが実質支配する日本の消費者金融会社リックで回収部長をしていた。言わば本場仕込みのローン・シャークである。しかし日本の法改正で所謂いわゆるグレー・ゾーン金利が撤廃され、消費者金融では、従来のような高収益が期待できなくなったため、メトロ・コープは日本における消費者金融事業からの撤退を決定した。半井はこのタイミングで関西ビジネスサポートに迎えられたとのことだった。

 神戸での住まいは須磨区須磨寺で、駅近くの高級賃貸マンションに三十四歳の妻と二歳の娘の三人で住んでいるが、ここに住民票は移しておらず、住民票は事故の際に提示した運転免許証記載の住所、東京都世田谷区三宿みしゅくのままになっていた。免許証は昨年十一月に東京府中の運転免許試験場で更新されたものだった。この点について半井は事故の現場で、担当の警官に「俺は関西ビジネス・サポートに頼まれて短期の経営指導で来ているんで、いつまで神戸にいるか分からんので住民票も移さず、免許証の住所も前のままにしとった」と説明したという。

 以上の経歴からすると、半井は相当阿漕あこぎなことをやってきたと思われるが、犯罪歴は見事に何もなかった。さすがにプロ中のプロである。しかし案外、中央火災のデータベースTMDには登録があるかも知れない。颯太は加山顧問の報告を聞いた後、席に戻ると端末でTMDを立ち上げた。

 TMDというのは、中央火災が過去に無理難題を吹っかけられた組織や個人に関するデータベースで、Troublemakers Database の略である。詐欺罪、強要罪など、犯罪を構成する行為については保険会社も警察沙汰にするが、そこまでは行かない無理難題というのは件数にしてその何十倍もあり、その多くは特定の組織や個人によって繰り返されるものである。損保会社は、できるだけ初めからそういうやからとは拘わり合いにならないように、データを蓄積してガードを固めている。登録されるデータは、ふっかけられたトラブルの内容、トラブルメーカーの氏名、住所、生年月日を始めとする文書情報と、顔写真等の図形情報からなる。

 トラブルを持ち込まれた社員は氏名やキーワードから文書情報を検索するか、顔写真がある場合は図形情報からこれとおぼしき既登録者を検索することができる。顔写真で検索するのはベリフェイス(Veri Face)と呼ばれる手法で、最近ではパソコンを立ち上げるときの本人確認や、企業のセキュリティゲートなどでの社員確認等に利用されている。

 颯太はまず氏名、生年月日に、「メトロ・コープ」「飲酒運転」「暴力団」等、凡そ考えられるキーワードを組み合わせて検索したが「ヒット〇件」と表示されただけだった。

 次はベリフェイスである。颯太は加山顧問が県警から貰ってきた半井靖士の顔写真コピーをスキャナーで読み取りTMDにフィードした。写真は、望遠レンズで遠くから撮ったスナップショットで画像はよくなかった。

 ベリフェイスは顔の縦横比、顔全体の中での目の位置、顔幅と目の間隔との比率等、十数個の特徴をチェックして類似性を得点化し、基準点以上の者を表示する手法である。従って、基準点を低めに設定すれば、似てはいるが別人まで引っかかって出てくる確率が高くなるし、逆に基準点を高く設定すると、別人がヒットされる割合は低くなるが、間違いなく探している本人であっても、変装したり、マッチさせる写真と登録された写真の時間差(年齢差)が大きい場合には引っかかりにくくなるおそれがある。中央火災のTMDの場合、正解率は五十%に設定されている。つまり、TMDがヒットしても二件に一件は関係ない別人が紛れ込むぐらいの基準点が設定されているのである。

 待つこと約十秒。モニターは再び「ヒット〇件」と表示した。半井靖士は文書情報でも図形情報でもTMDへの登録はなかったのである。大きな期待をしていたわけではないが颯太は気落ちした。


 これで事前に調べられることはすべて調べ終わり、万一法廷闘争になっても闘える準備はできた。あとは向こうがどう出てくるか待つだけである。颯太は手ぐすねを引いて半井からなんと言ってくるか待ったが、半井からの連絡はその翌日の木曜日も、翌々日の金曜日もなかった。


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 神戸労災病院外科看護師長の木内寿々子が中央火災神戸支店に川嶋颯太を訪ねてきたのは、颯太が「半井の奴、偉そうなことを言ってたけど、さすがにこれだけはっきりした飲酒運転じゃ請求は無理と思ったのかな?」と思い始めた金曜の夕方である。木内は予想どおり五十代の女性だった。この歳の女性としては珍しく髪はすべて銀髪だったが、その髪を染めもせずに無造作に後ろで束ねている。それが全く贅肉のない整った容姿と相まって、不思議に若々しい凛とした雰囲気を醸し出していた。

「実は、この前アルコール検査の件でお問い合わせをいただいた半井靖士のことで少々困っておりましてお訪ねしたんですが、先日申し上げたとおり、今からお話ししますことの中には個人情報が含まれておりますので、こんな話が私どもからあったことは是非御社の中だけに止めていただきたいんですが、そういうことでお願いできますでしょうか?」

 木内は、損害部の応接室で初対面の挨拶が終わると直ちに本題に入った。

「そうですか。病院でも何か難しいことが始まってるんですね。実は私どもも、この男は少々厄介かなと思い始めていたところなんです。守秘義務があるという意味では当社も全く同じ立場ですからもちろん結構ですよ。お宅の病院とは是非共同戦線を張ってこの男に対抗していきたいと思いますから、お互いに守秘義務を守ることで行きましょう」

颯太も一も二もなく同意した。

「ありがとうございます。それでは今、私どものほうで起きていることからお話ししましょう」

木内の話は概略次のようなものだった。


 神戸労災病院に救急車が到着したのは六月五日月曜の早朝〇時四十分である。男の身元は救急救命士から、神戸市須磨区須磨寺在住の半井靖士、四十二歳と伝えられていた。しかし、病院で独自に調べたところ、半井が持っていたショルダーバッグに入っていたパスポートと免許証はいずれも東京都世田谷区三宿の住所になっていた。パスポートは〇一年四月の発行、免許証は昨年〇五年十一月の更新だったが、どちらの写真も本人に間違いなかった。病院から警察に問い合わせたところ、半井靖士は事故の現場で「自分は神戸の関西ビジネス・サポートという会社に経営指導に来ているもので、いつまで神戸に住むか分からないので、免許証等の住所は東京のままにしている」と言ったとのことで、警察の調べで、確かに男が言った須磨寺の住所に半井靖士という男が妻子と三人で暮らしていることが確認されている。またショルダーバッグからは「株式会社 関西ビジネス・サポート 顧問」の肩書きの名刺が数枚入った名刺入れも見つかった。


 救急車からは「肋骨が折れているようで、血胸を起こしている可能性があるが、まずは急性アルコール中毒の措置が必要」との連絡が入っていた。到着後、救急医はまず胸部のCTを撮らせた。その結果、救急救命士の見立てのとおり、第七、第八肋骨の二本が折れていた。また軽度の肺挫傷と出血が認められ、出血はその時点でもごく少量続いており、溜まった血は抜く必要があったが、量は多くなかったので、まずは急性アルコール中毒症状を抑えるためにリンゲルの静脈点滴の必要があった。しかし、リンゲル点滴は血圧を上げるので出血が増える恐れがある。医師は点滴スピードを通常の三分の一に絞った。当然点滴時間は通常の三倍の八時間以上がかかった。

 この治療の間に病院の事務は半井の自宅に電話を入れた。半井が事故を起こしたことについては警察から連絡が行っていたので深夜にも拘わらず半井の細君はすぐに電話に出たが、病院の説明で、手術が必要だが、アルコールが抜けるまで待たなければならないので、多分午後の手術になると聞くと「うちは娘がまだ二歳で、娘を家に置いて病院に行くわけにはいかないので、朝、誰か娘の面倒を見て貰える人の手配をしてから行く」と言った。病院からは、その時に本人の健康保険証を持参するように細君に頼んだ。半井靖士の健康保険は関西ビジネス・サポートの親会社で関西畜産株式会社という会社の会社健保とのことだった。病院は、到着した時の半井の身なりや救急救命士の話から、この患者が暴力団関係者ではないかと心配していたが、曲がりなりにも会社健保を持っている企業の関係者と分かっていくらか安心した。


 手術は胸を切開して第七肋骨の位置を修正してから溜まった血を取り除くという、手術としては比較的簡単なものものだが、手術の際に新たな出血があることもあり得るので念のため血液型検査もした。しかし結果的には輸血の必要もなく、手術は四十分ほどで終わった。執刀したのは、外科部長、笹谷ささたに郁生いくお医師である。


「因みに、半井の血液型はAB型のRhマイナスなんですよ。AB型だけでも日本人の場合十%ぐらいで一番少ないんですが、Rhマイナスなんて二百人に一人ですよ。ですからAB型のRhマイナスといったら二千人に一人で、万一のために用意した血液も非常に貴重なのもなんです。それだけでも病院は大変だったんですのに・・・・・・って、これは八つ当たりですね。血液型は半井の責任じゃない」

木内看護師長は自分で苦笑しながら話を続けた。

「騒動が始まったのは手術の翌々日なんです。看護師の話では、その日の朝、半井の携帯にどこかからか電話が入ったらしいんですが、その後半井はだいぶ荒れてたらしいんです。大体、病室で携帯電話は困るんですが、精密医療機器を置いてない一般病室では、小声で短時間の電話なら大目に見ているんです。しかし半井の電話は傍若無人なんですよ」

「ちょっと待って下さい。手術の翌々日の朝って、六月七日ですよね。それでその後半井は荒れてたんですか? それだったら、その電話は多分、奴の事故が酔っぱらい運転によるものだから保険では支払えないと伝えるために僕がかけたものですね。そうでしたか。奴は一般病室で電話を受けてたんですね。それは失礼しました」

「なるほど、それで半井は急にアルコールのことにこだわり始めたんですね。ごたごたは昼少し前に私が部長回診にいて半井の病室に行った時から始まったんです」


 昼近く、笹谷部長は若手の医師二名と木内以下看護師三名を連れて部長回診に歩いていた。一行が半井のベッドに来た時に半井が言った。

「先生、お陰様で手術は順調だったようですが、ひとつだけ質問させていただきたいんですが宜しいでしょうか?」

「はあ、なんでしょう? どうぞなんでもお聞きになって下さい」

 笹谷は応じた。

 半井の質問は質問などというものではなく、「自分は事故の日は、香港で生ビールを二杯飲んだきりで、関空に着いてからは飯を食っただけで酒は一滴も飲んでなかったのに、救急医は自分が泥酔状態だったと言ってすぐには手術をせずに点滴を、それも通常の三倍も時間をかけてやったという話ですが、私は全く素面しらふだったんですから、点滴なんか全く必要なかったはずなんですよ。そのために手術に入るのが遅れたってことですが、それが結果的に回復を遅らせるなんてことに繋がらないんですか」という言いがかりだった。

笹谷はカッとする気持を鎮めて、「自分が朝半井を診察した時にもまだ酒臭かったぐらいだが、彼が担ぎ込まれたのは九時間以上前なのだから『泥酔状態』というのはそのとおりだったんだろうと思う」と答えた。すると半井は「もし自分が酒を飲んでいたら警察は事故現場で呼気テストをするはずだ。自分はそんなこともされていない。それをやってないのは警察がその必要を認めなかったということだ。病院は自分が飲んでいたという証明ができるのか? 血中アルコール度の測定はしたのか?」と突っ込んできたのである。

「なるほど。おそらく半井は、その前に私が飲酒運転を理由に保険金支払いはできないと言ったんで、病院のほうに飲酒の記録が残っているかどうかをチェックする意味もあったんでしょうね。それで半井は何か無理な要求でもしてるんですか?」

「いや、その時点では具体的な要求はなくて『部長先生の手術は見事なもので、それについて何か失礼なことを申し上げるつもりなんか更々ない。ただ、急性アルコール中毒なんて言われるのは不本意だし、そのために必要も無い点滴なんかされて、手術に入るのが遅くなって回復が遅れたりしたら堪らないと思って質問しただけだ』と言うんですが、そう言いながら『それで先生は、今のところ私の入院はいつ頃まで必要だというご判断ですか?』なんて聞くんですよ。言葉遣いは丁寧だし、あからさまな非難もないだけに不気味でしてね」

「それで先生はなんとお答えになったんですか?」

「患者さんの年齢や健康状態によって違いはありますが、通常ですと四、五日、遅くても六日ってところでしょうかと答えました。そうしたら半井は『そうですか。私は病気といっては四、五年前に盲腸を切ったぐらいで風邪も引いたことがないくらい健康ですから、それじゃあさしずめ四日の口ですかな? よく覚えときましょう』と言ったんです。その時はそれで一応収まったんですが・・・・・・」


 無理難題はその日の午後始まった。同じ日の午後、若い看護師が木内のところに来て、半井から、病室を個室、それもリビング付きの特別室に移せと言われたと伝えてきたのである。個室は一泊三万円だが今空きがない。特別室は二室のうち一室が空いているが、一泊料金は二十五万円である。半井由美は亭主の健康保険証を持ってきてはいるが、健康保険では一泊八千円程度しかカバーされない。木内が病室に出向いてそれを伝えると、半井は、

「俺は、この病院の医療過誤で入院が長引きそうなんだ。病院サイドから特別室ぐらい申し出るのが当たり前だろう」

 と怒鳴り始めたのである。三人の合い部屋患者は突然の怒声に震えあがった。木内はしかたなく、笹谷部長の了承を得て、

「当院としては、半井さんが泥酔状態だったのは間違いないと思っておりますし、点滴は当然の措置でミスだと認めることはできませんが、完治された後、半井さんが当院の医療過誤を証明できない場合には差額ベッド代をお支払い下さることを了承していただけるなら、責任問題は取り敢えず棚上げにして特別室にお移ししましょう」

 と言うしかなかった。半井の回復は順調である。特別室に移しても、週末ぐらいには退院させられるから、もう二、三日のことである。しかし、その判断は甘かった。

 翌々日、六月九日の朝、部長回診の一団が半井靖士の特別室に入った時、半井はベッドに掛けて携帯で何か話していたが笹谷の顔を見ると急いで切った。半井の包帯は昨日から取れている。笹谷は傷口をチェックした後、

「もう手術の跡はすっかり綺麗になってますね。それでは明日ご退院下さい」

 と言った。半井は腕を上げてみて顔をしかめると、

「先生、こうして腕を上げると、胸から背中に突き抜けるような鋭い痛みがあるんですが、これは骨折の痛みなんでしょうか、それとも手術の跡の痛みなんでしょうかね?」

「突き抜けるような鋭い痛みですか? 肋骨骨折ももちろん動かし方によっては痛みますが、鋭い痛みとは違いますね。手術の傷についても昨日のX線写真で中のほうまで綺麗に着いていますから、まだ多少の痛みは感じるかも知れませんがそれももう一日か二日で完全に消えると思います。後はあまり無理な動かし方をしないでいただいて、折れた骨がくっつくのを待つだけですから明日ご退院いただいて差し支えありません」

「そうですか・・・・・・。しかし、こうするとかなり痛みが激しいんですがねえ。通常の開胸手術ならもう痛みがないのかも知れませんが、私の場合はなんか通常と違うことがあったんじゃないんですか?」

 半井はもう一度そっと腕を上げながら意味ありげに笹谷の目を見た

「さあ、何が通常と違うと思っていらっしゃるのかは私には分かりませんが、これ以上ここにおいでになっても、私どもでして差し上げられることは何もありませんから、ご退院いただくしかないですな。なんなら、通常の手術をする病院でセカンドオピニオンをお取りになったらいかがですか?」

 笹谷は不快な気持ちを押し殺して言ったが自ずから言葉がとげっぽくなった。それを聞いて、それまで曲がりなりにも笹谷に向かっては丁寧だった半井の口調ががらりと変わった。

「なんだって? それじゃあ病院は力ずくで俺を追い出すって言うんか? そんなこと言ってええんか? お前等、飲んでもおらん酒を口実にして必要もない医療行為で回復を遅らせておきながら、その後始末もせんと病院から追い出そうっちゅうんだな?」

「我々には必要もない医療行為などしているような裕りはありませんよ。半井さんは一体何を言いたいんですか? 急性アルコール中毒を抑えるための点滴のことを言いたいんですか? 貴男、あの状態で手術したらどうなっていたと思うんですか。いや手術しなくても、あのまま放置したら呼吸困難を起こしていたところですよ」

「なんだなんだ、先生はあの晩は病院にいなかったんじゃねえのか? 『見てきたような嘘を言い』ってのは講釈師だけかとおもったら、医者も同じなんか? ええ部長先生よ。この前も言ったように俺はあの日は全くと言っていいほど酒は飲んどらんのよ。それなのに何を根拠に泥酔状態なんて失礼なことを言いくさるんじゃ? 治療費稼ぎに必要もない点滴なんかやりおって。毒にも薬にもならないんならまだいいかも知れんが、俺はその点滴で出血量が増えたと思っとるんじゃ。ええ先生よ。その可能性は全くないっちゅうんか?」

「いや、リンゲルの点滴は血漿濃度を下げますし、血圧は上がりますから出血が止まりにくくなるのは確かですよ。しかし、そのマイナスと急性アルコール中毒症状を抑えることのどちらを優先させ・・・・・・」

「だからあ、だから言うとるんやろが。俺は飲んどらんかったって。俺が飲んどったっちゅうならその証拠を見せて欲しいんだよ。ここはまかりなりにも病院なんだから、調べようと思えばそのくらいの検査はできるんやろう? そんなのに、その検査もやっとらんのは、必要もない点滴をやって稼ぐのにそんな検査は都合悪いからとちゃうんか?」

「いや一目瞭然の泥酔状態のときに検査するなんて時間も金も無駄なことはやりません。特に交通事故の場合は飲酒運転の記録は普通は警察の事故調書に書いてありますからそんな必要もないんでね」

「おお、それじゃあ警察の事故調書をコピーしてきてくれよ。それに俺が飲酒運転だったって書いてあったら謝るよ」

【 おやっ? 木内看護師長は、中央火災が『警察の事故調書には酩酊とはっきり書いてある』と言ったと言ってたが、この男は自分が呼気テストをさせられなかったから事故調書にも何も書いてないと思い込んでるだけなんだろうか。それとも中央火災の勘違いか木内の聞き違いじゃなかろうか?】

 笹谷は自信がなくなって黙ってしまった。

「え? どうなんだい、先生。そんな偉そうなこと言うなら警察に行ってコピー取ってきてくれよ。そこに何も書いてなかったら泥酔なんていうのはお前達のでっちあげで、点滴なんか必要なかったって話だぞ」

「・・・・・・」

「金儲けに必要もない治療をして、そのために回復が遅れたなんてなったらそれは医療ミスって話じゃあないぞ。そんなのは意図的にやったことで、詐欺か医療法違反だぞ。いや傷害罪だな」

「いや警察の調書に書いてなかったからといって貴男あんたが酒を飲んどらんかったと認めるとは・・・・・・」

「お前さっき言ったことと違うじゃねえか。お前は『普通は警察の調書に書いてあるから病院で検査する必要はないんだ』って言ったじゃねえか。違うか? え、先生よ」

「いや、だから『普通は』って言ったんで・・・・・・」

きたねえよ。そういうのをダブルスタンダードって言うんだよ。それじゃあ百歩譲って調書に書いてなくてもいいとするか。だけど、それと同じぐらいの『俺が泥酔状態だった』って証拠を出してくれよ。証拠でも証言でもいいよ。だけど病院関係者の証言なんか駄目だぞ。この病院なんか、金儲けのためにならなんでもやらかすような病院なんだから。外の関係者の証言を持ってこいよ。現場に来た警察官の証言だとか・・・・・・」

「分かりました。分かったっていうのは、警察の調書に書いてなければ貴男が素面しらふだったって認めるってことじゃなくて、もう少し退院を待つってことですよ。明日出て行ってくれっていうのはひとまず取り下げましょう」

「ひとまずもふたまずもあるかってんだ。俺は、警察の調書に俺が酩酊してたって書かれてるのを見るまでは居たいだけここに居続けるからな」


木内の話は終わった。

「そうですか。それはお困りでしょうね」

 颯太は前に置いたノートをパラパラと捲り、今週の火曜日、六月六日の記載を確認した。このノートには仕事のための覚書を片端から書き留めてある。

「ええと、警察の調書にはこう書いてあります『強いアルコール臭。呂律回らず。酩酊状態』。これはこの前の火曜日に、当社うちの調査人が須磨署に行って事故調書を見て書き写してきたものですから間違いありません。半井は当社うちに対しても強行に『飲んでない』と主張してまして、訴訟か何かを考えているらしいんですが、実は・・・・・・」

 颯太は、半井を事故現場から神戸労災病院に搬送した二名の救急救命士が半井の泥酔状態を証言していて、訴訟になったら証人になってくれると言っていることを話した。

「このことは、もちろん半井は全く知らないことですからお含み下さい。私どもとしては万一訴訟になっても、この警察の事故調書に加えて、救急救命士が二人も証人に立ってくれることで間違いなく勝てると思っているんです」

 木内は、

「そうですか。それを伺って一安心しました。それでは、もしうちの病院も半井と訴訟沙汰になったときには、御社に間に入っていただいてその救急救命士に証言して貰うことを検討するかも知れませんが、そのときは宜しくお願いします。まあ、半井もそこそこで特別室から出て行ってくれると思いますので、もう数日は今のままで様子を見ます」

と言って帰って行った。



1-2  消えた証拠


 半井靖士の代理人を名乗る赤木孝之という弁護士から連絡が入ったのは颯太が支払い拒否を伝えてから六日後の、翌週火曜日である。翌日、赤木弁護士は半井を伴って支店に現れた。中央火災側は颯太と顧問弁護士、辻の二名で応対した。


 赤木弁護士の隣にどかっとふんぞり返って腰を下ろした半井靖士は、顔の下半分は白髪混じりの髭に覆われ、会社の顧問などというよりはインチキ宗教法人の教祖といった風貌だったが、手術から十日足らずとは思えないエネルギッシュさを感じさせた。病院からは半井が退院したとはまだ聞いてない。ということは、半井は病院から来たのだろう。

 二人の来訪者のうち話をしたのはもっぱら赤木弁護士で、半井はほとんど発言せず、時々人を小馬鹿にしたような笑いを浮かべるが、目だけは決して笑うことがなかった。赤木弁護士の論点は「半井靖士は事故の七時間以上前にビールを小ジョッキ二杯呑んだが、事故時点では多分酒気帯びにもならなかったはずである。本人が重傷で警察の呼気テストを受けられなかったため、飲酒運転でなかったことの証明はできないが、保険会社が飲酒を理由に免責を主張するのであれば立証責任は保険会社にある。それができないなら速やかに保険金支払いに応じるべきである。これ以上保険金支払いが遅れるなら、それによる損害も弁済して貰う」というものだった。すべては予想された範囲内の主張だった。

 中央火災側は主に辻弁護士が喋った。辻は予めの打ち合わせに従って、消防士のことは伏せておいて、警察の事故調書に「強いアルコール臭。呂律ろれつ回らず。酩酊」という記載があり、保険会社としては、呼気テストは実施されなかったものの、この記載で証拠は充分と考えているとだけ主張した。

 赤木は驚いた顔をした。

「冗談言って貰っちゃ困りますよ。警察の事故調書は昨日私自身で確認してきましたが、飲酒に関する記載なんか一切ありませんでしたよ。一流損保がそんなでっちあげを言うなんて信じられないですな」

 と言った。中央火災側の二人は呆気あっけにとられた。赤木弁護士が、間違って他人の事故調書を見たとも思えない。そうかといって、ベテランの新井調査人がミスをするはずもない。辻が言った。 

「当社は事故連絡をいただいてすぐに調査人を警察に行かせて、事故調書を見て要点を書き写していますが、なんならお目にかけましょうか?」

「それはご苦労様ですなあ。そんなものなら警察に行かなくても、いくらでも机の上で書けるでしょう。コピーならまだしも、そんな『書き写した』とかいうものを見せて貰ってもなんの意味もないですよ」

 半井は、相変わらず人を小馬鹿にしたような表情で三人の顔を面白そうに眺めている。確かに、書いてある内容についての解釈が違うだけならともかくも、書いてあったかなかったかが違うのでは議論にならない。やや間を置いて辻が言った。

「こんな入り口で水掛け論をしても仕方ないから、双方で再度警察に出向いて内容の確認をした上で次回打ち合わせということにしませんか」

 しかし赤木弁護士は、

「いや、当方は私自身が昨日確認したことで絶対に自信がありますから、再度警察に行くつもりはありません。御社側で勝手に行って下さい。それで、その結果、内容が御社の言っておられるとおりであれば支払い拒否なさればよろしいでしょう。但し、当方はいつまでも待つ気はありませんからね。そうですな、今週いっぱい待ちましょう。金曜の夕方五時までに結論を聞かせて下さい。今日はまだ水曜だから丸二日あれば時間は充分でしょう。金曜の夕方までにご返事がないか、連絡があっても、御社のご方針が変わらないということでしたら訴訟に持ち込ませていただきます」

 と言って席を立った。ほとんど最後通牒のムードである。


 赤木達が帰った後、颯太と辻弁護士は調査人の新井堅司を呼んで、念のため事故調書の記載内容について確認した。新井は自分のノートを二人の前に拡げた。

「見て下さい。この記録は事故調書にあったのを一言一句変えずに書き写したんですから」

そこには「救急搬送のため呼気テスト実施せず。強いアルコール臭。呂律回らず。酩酊」と書かれていた。三人は暫くそのメモを見つめていたが暫くして辻弁護士が、

「まさかとは思いますが、警察があとで調書を書き換えたとしか考えられませんね」

 とぼそっと言った。他の二人も黙って頷いた。

「とにかく私は今から警察に行ってみます」

 辻が言うと新井も、

「先生、私もお供します」

 と言って立ち上がった。


 二時間後、警察から戻った二人を木橋課長と颯太が会議室で迎えた。

「やはり書き換えられてましたか?」

 辻が首を横に振った。

「いやその前に調書が見あたらないんですよ」

「えっ、見あたらない?」

 木橋と颯太が同時に言った。

「そうなんです。須磨警察に行きましたら、運良く新井さんが前にいらっしゃった時に会えた警官がいましたんで、その人に『度々恐れ入りますが半井靖士氏の交通事故の事故調書をもう一度拝見させて下さい』と言ったんですが・・・・・・」


 二人は十分以上待たされた。警官は気まずそうな顔をして受付に戻ってくると、二人に、

「えろうすんまへんけど、事故調書がどこかに行っちゃって見あたらんのや。探しときまっから一両日してから出直して貰えまへんやろか」

 と言ったのである。気まずそうな顔ではあったが、申し訳ないと思っているような様子はない。民間のセンスからすると、とんでもない杜撰ずさんな話のはずだが、警察にとっては読みかけの週刊誌をどこかに置き忘れたぐらいの話なのか? もっとも、五千万件の年金を預かっておきながら、誰のものか分からぬままに放置しておくのが公務員のセンスとすれば、交通事故調書の一件や二件どうということもないのかも知れない。

「困ったなあ。ちょっと至急に確認したいことがあるし、できればコピーを取らせて貰いたいんですが・・・・・・、見あたらないって・・・・・・ないんですか?」

 辻弁護士が怒りを押し殺して聞いた。

「いや物質は不滅でっから、なくなっちゃいないはずなんやけど、どこにも見あたらんのや」

 冗談を言っているのか、真面目に言っているのか分からない。

「実は、今日中にあの調書を確認できないと訴訟沙汰になるかも知れないんで急いでるんですよ。待ってますからもう少し探していただけけないでしょうか」

「あのなあ、事故調書っていうのは運転者本人以外には見せなくてもええのや。裁判所の命令があれば別やけどな。今日はもうわての勤務時間はお終いよって、明日また探しといてあげまっからそれでよろしいやろ」

 横から新井が尋ねた。

「昨日、事故を起こした運転者の代理人で、赤木っていう弁護士がここであの調書を見てるはずなんですが、その後書類は戻されてるんでしょうか?」

警官は明らかに不快の表情でじろりと新井を見た。

「あんた何を言いたいのや。もちろん返してもろうたよ。昨日もわてが立ち会ったやさかい、間違いない。返してもろうて、すぐに事故調書の棚にかたしたんやけどうなっとるんや」

「しかし・・・・・・」

 更に何か言いつのろうとする新井の肘を辻弁護士が押さえた。確かに交通事故の調書は一般の閲覧に供される書類ではない。「それなら何故先週は簡単に見せたんだ?」と言いたいところだが、要は、役所の書類管理など誠に場当たり的でいい加減なのである。都合が悪くなると、いかにも法令を厳守しているような顔で「開示対象書類ではない」を振り回すのである。裁判にでもなれば、裁判所の開示命令を取ることは可能だが、それには大変な手間暇がかかる。ここは、この警官を意固地にさせないほうが得策である。赤木弁護士が言い残した日限は金曜である。明日確認できればいいことである。

「そうですか。それでは明日もう一度来ますから、是非探しといて下さいませんか。貴男は明日はご出勤なんですね?」

「あ、いかん、明日は休みや。明後日は来とりまっせ」

「分かりました。それじゃあ明後日、金曜の午前にもう一度来ますからよろしくお願いします。朝来て探していただくとして、十一時ぐらいなら宜しいか?」

 と辻が言うと警官はあからさまに嫌な顔をしたがノーとは言わなかった。


「という次第なんですが何かおかしいですね。今朝の赤木弁護士の話を聞いてなければ、本当に調書がどこかに行っちゃったってことも考えられるけど、赤木弁護士があれだけはっきり『調書には飲酒に関する記録は一切ない』と言い切った後でその書類が見あたらなくなったっていうのは、警察は一度書き替えたけど、内容を

改竄かいざんするのはさすがにやばいと思って、改めて紛失したことにしたんじゃないですかな?」

「しかし辻先生、なんで警察が暴力団員の交通事故に肩入れするんでしょう?」

 颯太が誠に真っ当な質問をぶつけた。大学五年間を、単純明快な肉弾戦の世界で暮らしてきた颯太にとって、悪徳警官などという存在は、漫画かハリウッド映画の中にだけしか存在していない。辻弁護士に代わって木橋課長が言った。

「いや川嶋君。君も神戸の損害部にもう暫くいれば分かってくるよ。ここじゃ色々信じられないような経験ができるから楽しみにしてたらいい。警察っていうのは国民を守ることより、体制を守ることのほうを優先するからな。その為に必要なら、暴力団と同衾どうきんだって平気でするよ。今、先生が言われたことも充分可能性があると思うよ」

 木橋は辻弁護士の顔を見て続けた。

「先生、警察は見あたらないなんて言ってますけど、もうとっくにシュレッダーに入れちゃってるんじゃないですかねえ」

「確かに。証拠を滅失するって目的だったらそのほうが単純でいいですね。そうだとすると、赤木弁護士が行った時には書き直したものを見せたけど、後で方針転換して書類がなくなったってことにしたのかも知れませんね。いずれにしても、単純にどこかに置き忘れたなんて話じゃないですね」

 恐ろしい話がいとも平然とやりとりされるのに颯太は驚いた。

「そうなったら免責の主張は相当難しくなるんでしょうね」

「そうですね。まあ、新井さんが書き写して来られた記録が唯一の証拠だけど、新井さんは保険会社の嘱託社員で第三者じゃないから証拠として採用される可能性はまずないでしょうね」

「とすると後は、二人の消防士の証言だけってことになるのかなあ。それだけで裁判で争うっていうのは相当苦しいなあ」

 木橋が頭を抱えた。辻弁護士が慰めるように言った。

「まあ、とにかく明後日もう一度警察に行ってみましょう。多分『やっぱり出てこない』ってことになるとは思いますが、警察にとっても不祥事には違いないから大きな顔はできないはずだし、その時に担当の警官がなんて言うかですね。飲酒の事実について何かぽろっとこぼしてくれたらいいんですが。明後日はこっそりデジタルレコーダーを持って行きますよ」

「そうですね。そうして下さい。それで、やはり書類がないと言うようだったら、加山顧問にもう一度県警に行っていただいて一体何があったのか探って貰いますよ。多分、そうなったら顧問でも何も聞き出せないとは思いますが・・・・・・」

「そうですな。それと、新井さんには、至急にもう一度二人の消防士に会って貰って、詳しい話を録音させて貰ったほうがいいですな。敵が、当方が消防士の証言も取ろうとしていることにまで気が付けば、なんとしてもそれを妨害しようとすると思いますから、そうなる前に証拠を固めてしまったほうがいいでしょう」

「ご尤もです。それじゃあ新井さん、それと川嶋君も一緒に行って、できれば今日中にでも二人の証言をテープに取ってくれるか」

 木橋課長の指示で二人は直ちに立ち上がった。

 しかしそのアクションも既に手遅れだった。消防士達が出勤しているかどうかを確認するために須磨消防署にかけた新井調査人の電話に対し、電話口に出た職員は、

「お気の毒ですが、友田も梅木も同時に転勤になりまして、今はこの消防署にはおりません」

 と告げた。新井が、

「大事な件でお二人に連絡を取りたいんですが、お二人の転勤先を教えていただけませんか?」

 と食い下がったが、

「それは個人情報になりますのでお教えできません」

 の一言で電話は切られたのである。

             

       ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 今や中央火災は手足をもがれたようなものだった。颯太が飲酒による免責を通知したのがちょうど一週間前の水曜である。僅か一週間でこんな芸当ができたのは相当上からの政治的圧力があったからに違いない。いや、ひょっとしたら先週の金曜、半井が神戸労災病院からの退院勧告を拒否した時には警察に事故調書を紛失させる目処が付いていたのではないか。

 赤木弁護士が切った日限は今週金曜の夕方である。しかしこの事態での会社としての対応を損害サービス部だけで出すわけにはいかなかった。木橋課長と川嶋主任から報告を受けた大塚部長は直ちに竹川支店長との打ち合わせをアレンジした。打ち合わせは、多分無駄とは思いながら、金曜日に辻弁護士がもう一度須磨署を訪ねた後の金曜午後一時ということになった。颯太はそれまでにやらなければならないことが山とあった。

 まず加山顧問に今一度県警本部に足を運んで貰い事故調書紛失の背景を探って貰うことが必要である。加山は前回とは打って変わった重い足取りで出て行った。

支店長との打ち合わせまでに終えたいもう一つの仕事は消えた消防士探しである。颯太は若いほうの梅木久義消防士に的を絞り、同じ課の女子社員に頼んで、

「私、梅木さんと中学時代の同級生なんですが、クラス会のご連絡をしたいんですが、梅木さんはおられますか?」

 という電話を兵庫県消防本部を初め県内のすべての消防署に電話を入れたが、どこでも「そんな者はいない」と言われただけだった。


 加山顧問が持ち帰った県警本部次長の答えは「事故調書を紛失したなんてことが世間に聞こえると格好が付かないから、あまりほじくり返さないでくれると助かりますなあ。恩に着ますよ。団体傷害保険のシェア改訂も近いことだし・・・・・・」というものだった。

 兵庫県警の団体傷害保険は、外社を含む損保六社がコンソーシアムを組んで引き受けているが、毎年契約更改の時は、六社が引受割合シェアの引き上げを狙って争う。県警本部の次長は、「事故調書紛失事件を追及しないでくれればシェアを引き上げる」という取引を持ちかけたのである。逆に、「追及するならシェアは引き下げる」という脅しも含めていることは言うまでもない。

 しかし一警察署で一交通事故の調書がなくなったことを時日を経ずに県警本部次長が知っていたことの意味は大きい。担当警官は、その調書は昨日赤木弁護士に見せた時にはあったのに、今日それがなくなっていることに気づいたばかりなのである。隠蔽体質の警察で、僅か数時間でそんな些細なミスが県警本部次長まで上がるはずがないではないか。これは調書をなくせという指示が少なくとも次長以上のレベルから下ろされたものであることの証明でしかない。


 もう一つ大事な仕事が残っている。神戸労災病院にこの事態を伝える義理がある。中央火災の責任ではないとは言いながら気の重い電話である。颯太は外科看護師長の木内寿々子に電話に出て貰い、できるだけショックを与えないように、だができるだけ正確に、状況が変わったことを話した。しかしそんな配慮は無用だった。木内は肝が据わっていた。彼女は冷静に話を聞くと、

「分かりました。早速にお知らせいただいてありがとうございます。それで御社としては方針をお決めになったのですか?」

 と尋ねた。

「いいえ金曜日に支店長以下の会議で決める予定です」

「そうですか。それじゃあ方針が決まりましたら教えて下さい。こちらも笹谷先生が土曜に学会から戻りますので、その後、今のお話を報告して当院としての対応を決めることにします。しかし、私個人の意見ですが、私としては半井にこのまま無理を通させるようなことはしたくありません」

 木内は話し方がクールだけに意志の強さを感じさせる。颯太は励まされた。

「それは全く同感です。私も金曜の会議では絶対にこのまま下りるようなことはさせないつもりです。それはそうと、半井はまだ特別室から出て行く気配はありませんか?」

「まだ居座ってるんですよ。それなのに今日は病院の許可も取らずに勝手に出歩いてるんですよ。どうせ碌でもないところに行ってるんでしょうが・・・・・・。でも勝手に出歩き始めたってことは、さすがにそろそろ出て行くってことかなと期待しているんです」

 木内は憤懣やるかたないといった調子で答えた。

「あはゝゝゝ。その碌でもない場所を知ってますよ。光栄にも、弁護士と一緒に当社にお越し下さったんですよ。それで、奴がそこに居る間にお願いしたいことがあるんです。木内さんは、半井が担ぎ込まれた時に病院は半井の免許証とパスポートで身元を確認したっておっしゃってましたね? その免許証とパスポートはもう本人に返されてますか?」

「いいえ、手術の後返そうとしたんですが、病室に置いとくのは物騒だから病院の金庫に預かってくれと言われましたんでまだ預かってあります」

「それは助かった。木内さん、その顔写真をコピーしといて下さいませんか。半井とは将来訴訟になる可能性もあると思うんですが、その時に何かの役に立つと思いますから・・・・・・そうだなあ、ついでに顔の出ているページだけじゃなくて、全ページをスキャナーで読み取って、メール添付で送って下さいませんか? 私のアドレスはこの前差し上げた名刺に書いてありますから」

「分かりました。お送りします」

 木内は快く引き受けてくれた。



1-3  ローン・シャーク


【 わずか数日で警察の事故調書を紛失させ、消防士を二人まで雲隠れさせる奴って一体何者なんだ?】

 会社を出てから阪急三宮駅まで歩く道すがら、颯太の頭にはそのことしかなかった。丁度帰宅ラッシュの真っ最中である。電車のドアが開くと同時に、人の波に押されて颯太は電車の中央部まで押し込まれた。もちろん本も読めない。吊革に掴まって見るともなしに、目の前にぶら下がった週刊未来の中吊り広告を眺めた。


         慧明塾疑惑捜査大詰め

    ベンチャーの星「清塚康司ORI社長」遂に逮捕!


【 オッ、とうとうそこまでいっちゃったか!】

 颯太は前の職場である本店企業損害部賠償責任保険課で清塚康司課長の下にいた三カ月のことを思い出した。

 颯太が二〇〇一年四月に入社して配属された時の賠償責任保険課長は黒岩舜一で、颯太は黒岩の下でごりごりにしごかれたが、お陰で生まれて初めて勉強の面白さが分かったし、仕事にも手応えがあった。その黒岩が二〇〇三年十一月、突然五稜自動車に移籍してしまい、その後に来たのが黒岩の同期生、清塚康司である。その清塚も僅か三カ月足らずで退職した。中途退職率の低い中央火災で、一つの課長ポストで二人が相次いで退職するのは異常な事態だが、駆け出しの颯太には、それが当時マスコミを騒がせた五稜自動車のリコール隠し事件に関係あるらしいということ以上には分からなかった。(この辺の経緯はダイヤモンド社刊弊著「ザ・リコール」に詳しい)

 その三カ月足らずの期間は、颯太にとってこれまた生まれて初めて「ひょっとしたら俺は虐めに遭っているんじゃないか?」と思った時期でもあった。颯太の仕事ぶりは、一つづつ確認しながらじっくり進めて行くタイプで、お世辞にも器用でスマートにこなすほうではない。しかし出来上がりは正確だし質的にも高いものがあると自負していた。黒岩舜一はいつも「そういうお前の良いところを活かせ」と励ましてくれたものだったが、清塚康司にかかるとそれでは全く失格ということだった。清塚は颯太の仕事を「遅い」「要領が悪い」とあからさまに罵った。


 清塚が課長に来て二カ月が経ったころこんなことがあった。

 年末近くのある金曜日、颯太は部内の若手数人と一緒に、午後から会社を出て蔵王にスキーに行く計画を立てていた。休暇届は数日前から清塚に上がっており認められていた。ところがその日の朝になって、清塚は颯太に新しい資料作りを命じたのである。別に颯太でなければできない資料でもないし、さして急ぐ資料でもない。しかし課長から「簡単な資料だから昼までには仕上がるだろう」と言われれば「週明けではいけませんか?」とは言いにくい。颯太は必死で取り組んだが、縦横の集計などは颯太の最も苦手な種類の仕事だった。資料は昼休みになっても仕上がらなかった。見かねた隣の席の一年先輩、吉野翔子がこっそり一部を引き取って手伝ってくれ、昼休みが終わる頃になって漸く仕上がった。翔子も一緒にスキーに行く仲間の一人である。仲間は一時半東京駅発の東北新幹線に乗ることになっている。もう飛び出さなければ間に合わない。二人が慌ただしく机の上をかたづけていると、食事から戻った清塚が、

「おい川嶋。この見出し行は二段書きに直せ。これじゃ見にくいだろう。表は作ればいいってもんじゃないんだよ。使う人が見やすいように作るぐらいのことは考えろ。ちょっとこれだけ直せ」

 ぎりぎりで間に合って、皆と一緒に行けると思ってホッとしていた颯太が愕然とした。顔色が変わったのは翔子も一緒である。

「課長。直すところがあったら僕がやります。此奴こいつ等、一時半の新幹線に乗らなくちゃいけないんです」

 決然と声を上げたのは課長代理の本間だった。本間は前課長黒岩のシンパであり、黒岩にライバル意識むき出しの清塚が課長で来てからは、颯太どころでない虐めの世界にさらされている。今朝、清塚が颯太に嫌がらせとしか思えない仕事を言いつけているのを苦々しく聞きながら敢えて口出ししないでいた。口出ししたところで、

「お前や黒岩がそんな甘っちょろいことを言ってるから若手が全然育っていないんだ。大体こんな仕事は並の能力があったら二時間もあればできる仕事だ」

 ぐらいのことを言われて、却って颯太が不利になるのが分かっていたからである。しかし、若い二人が頑張って昼飯抜きで間に合わせた仕事である。もうこれで充分のはずだ。本間は、今にも罵声を浴びせそうな表情で自分を見た清塚を無視して二人に言った。

「いいから君達は早く行け。必要があれば俺が手直しする」

「ありがとうございます」

 翔子は本間に礼を言うと、躊躇ためらっている颯太の肘を引っ張って、

「行きましょう」

 と言った。颯太は本間に頭を下げると席を離れた。その背中を清塚が本間に言っている聞こえよがしの皮肉が追った。

「大体彼奴はいつも仕事で滑りまくっているのに、何をわざわざ蔵王まで滑りに行く必要があるんだ?」


 そんな課長だったから、それから僅か一カ月後に清塚が突然会社を辞めた時には、本間以下、課の全員で祝杯を挙げたのは言うまでもない。その後、社内情報に疎い颯太の耳にも、清塚が会社を辞めた理由は、彼がそれに先立つ半年ほどの間世間を騒がせ続けた五菱自動車のリコール隠しに一枚噛んでいてその責任を取らされたのだというような噂が入ってきた。しかし噂など誠に無責任なもので、清塚のやっていたことは会社のトップもそこそこ知っていたが、トップは見て見ぬふりをしていたのだとか、いや、トップは五菱自動車の製品欠陥が世間に知られて巨大保険金支払いになるのを恐れてはいたが、中央火災が関与しないようにしていたのに、功名心にはやった清塚が、保険金支払いに発展させないために、自動車保険を使って際どい操作をしようとしたのだとか諸説入り乱れていた。当時、まだ駆け出しだった颯太には何が真相なのかはさっぱり分からなかったが、それでも、清塚が自分の出世のためにはなんでもやらかすような策士なのだろうと思ったものである。

 ところがそれから一年も経たないうちに、全国紙や経済雑誌などで清塚康司の名前を時々見かけるようになった。そして清塚が設立したORIという会社が、日本興業新聞主催の「日興ベンチャー大賞」に選ばれるに至り、清塚はベンチャーの星としてマスコミからもてはやされるようになった。それを見た颯太が、

「僕は大嫌いな上司だったけど、やっぱり凄いところのある人なんでしょうかね?」

 と言うと、清塚の後任として賠償責任保険課長に持ち上がっていた本間はにべもなく、

「どうせ彼奴きゃつ一流のペテンをやってるだけさ。いつまでも持つわけがないさ」

 と言ったものである。そしてそれから半年、どうやら本間の言ったことが当たっていたらしいことが分かってきた。


        ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 週刊未来が「カルト集団慧明塾と矢部総理との切っても切れない縁」というタイトルの特集を組んだのは去年の六月である。そこには清塚が第二の人生でも遺憾なくペテン師ぶりを発揮しているらしいことがかなり詳しく書かれていた。内容は、「慧明塾会員の(株)ORIが、架空の特許や粉飾だらけの決算で十億の桁の金を集めたが、経営が行き詰まっている。その金の相当部分が慧明塾を通して政界に流れているらしい」というようなものだった。その後、清塚がどうも闇の世界から追われているらしいという噂を聞いたことはあるが、マスコミに華々しく登壇するのは一年ぶりである。かつて中央火災にいた人間が逮捕されたというのは、あまり聞こえのいい話ではないが、颯太には「ざまあ見やがれ。身から出た錆だ」と思う気持ちのほうが強かった。彼は独身寮のある甲陽園駅で電車を降りると売店で週刊未来を一冊買った


 シャワーの後、ダイニングルームに行き、ビールの栓を抜きながら週刊誌を捲った。慧明塾けいめいじゅくの記事は二ページに亘るもので、見開きの左右に各一枚写真が載っている。颯太は記事を読む前にまず写真を見た。居る居る。清塚のトレードマークである、鸚鵡おうむのくちばしを正面からぎゅっと潰したような鼻が写っている。間違いなく清塚康司である。一ページ目の写真には、「日興ベンチャー大賞受賞式で。日本興業新聞社滝江社長から賞状を授与されるORI清塚社長」と説明がついている。日本興業新聞がこんな詐欺師を「ベンチャーの星」と持てはやしていたことに対する週刊未来の痛烈な皮肉である。

 颯太はコップにビールを注ぎながら二ページ目の写真に移った。今度は清塚がマイク片手に何か得意気に喋っている。

「あっ、此奴こいつは!」

 颯太の目が清塚の後ろに立っている男の顔に釘付けになった。ビールがコップから溢れた。写真の説明には「慧明塾定例勉強会で質問に立つORI清塚社長。横の講師席に座るのは矢部総理(当時官房長官)と慧明塾光中代表」と書かれているが肝心の男については何も書かれてない。男は、小太りの清塚よりだいぶ背が高く、顔の上半分が清塚の頭の上に出ていて、顎付近は清塚の陰に隠れているが、狭い額や小さいが冷たく光る目など、見えている部分は半井靖士そっくりだったのである。質問者のすぐ後ろに立っているのは、ちょうど勉強会の司会役といった感じである。

 颯太はコップに口を寄せて、表面張力で盛り上がったビールを一口飲むと記事を読み始めた。週刊未来の狙いが、ORIに始まり、慧明塾を巻き込んだ経済犯罪を政界中央にまで遡らせることにあるのは間違いないが、肝心の慧明塾から内側の部分は「・・・・・・という噂もある」「・・・・・・のようだ」「・・・・・・とされる」の羅列で、多分に推定の域を出ない憶測記事だった。


 警視庁生活経済課は、中華信託銀行から詐欺で告訴状が出されていたベンチャー企業ORIの清塚康司社長が今月十一日、自ら警視庁に出頭してきて逮捕されたことを明らかにした。清塚については、この他にも大滝一族の経営するTQC、パチスロメーカーのハウゼ、マンション業者の穴沢工務店など、慧明塾会員だった数社から、合計十数億の金を騙し取ったという噂があり、一時は告訴の動きもあったが、何故か、清塚が出頭した時期と相前後して各社とも告訴を取り下げている。これらの会社は、 当社からの「何故告訴を取り下げたのか?」という質問に対して、一様に「お答えできない」としている。(中略)

 ORIを取り巻く疑惑が囁かれ出して間もなく慧明塾の光中代表が食道癌で急逝し、それから僅か一週間余りでナンバーツーの実力者、宇田哲哉取締役も建設中のビルから転落死した。光中代表は病死、宇田取締役は事故死とされるが真偽のほどは不明。(中略)

 光中、宇田両氏が死亡し、国内の被害企業がすべて沈黙した結果、今後、検察が慧明塾事件で政界中央にまで追及の手を伸ばすことは極めて困難になった。(中略)

 清塚は光中、宇田両氏の相次ぐ不審死のあと、部下に「俺も狙われている」と言って会社を飛び出したまま一年近く行方をくらましていたが、このほど「すべてを話す」と言って自分から警察に出頭して来て、二日間の任意聴取の後に詐欺容疑で逮捕されたものである。


 などと書かれていたが、これらの背景について週刊未来が描いたシナリオは、


 ORIを使った慧明塾の詐欺事件が政界中央に波及することを怖れる何者かが、光中、宇田両氏を殺害し、なんらかの見返りを与えることで被害企業の訴訟も押さえ込むことに成功した今、検察が事件をうやむやに終わらせたという批判を交わすために、清塚社長を逮捕して蜥蜴の尻尾切りをした。(中略)

 清塚は逮捕の直前、親しい友人に「三日で出てくる」と豪語しているが、これも、その何者かが、清塚に微罪で済ますことを保証することで、自ら出頭することに同意させたからであると思われる。


 というものだった。颯太は記事を読み終え週刊未来を閉じると空になったビール瓶を片付けに立ち上がった・・・・・・が、また腰を下ろした。どうも写真が気になってしかたがない。男は髭もないし眼鏡も掛けていない。顔も左斜めから写したもので鼻から上ぐらいしか写ってない。しかし、その半分から受ける印象は半井そのものだった。

 半井靖士は東京時代、消費者金融会社リックの回収部長だったはずだが、そのリックが慧明塾の会員で、半井が勉強会に出席していたということはあり得ないだろうか? 仮にそうだとしても「だからどうした」というだけのことではあるが、この立ち位置はただの勉強会出席者という感じではなかった。

 颯太は急いで夕食を終えると自分の部屋に戻ってパソコンを立ち上げた。それから三十分、彼はインターネットで慧明塾に関する情報を検索した。真っ先に出てきたのは、週刊未来が過去二回掲載した記事のサマリーだった。初めのは一昨年九月、二回目のが昨年六月の「カルト集団慧明塾と矢部官房長との切っても切れない縁」である。内容は慧明塾と矢部官房長官(当時)の不透明な関係を追及した記事だが、今回のもの以上の憶測おくそく記事に過ぎなかった。それにしても週刊未来はかなり前から執拗に慧明塾を追っているようである。週刊未来に電話をすれば写真の男が半井靖士かどうか確認できるかも知れない。しかし週刊未来は、中央火災の社員である自分が清塚康司に興味を持つなら分かるが、清塚の後ろに写っている男に興味を持った理由を根掘り葉掘りくに違いない。まさか半井靖士の自動車事故の件を話すわけにもいかない。何か良い口実はないものか?

 名案は思い浮かばないが、もう夜の十時半を回っている。早く電話しないと、いくら時間が滅茶苦茶な出版社でも誰もいなくなってしまうかも知れない。中央火災では非管理職がマスコミと業務上のことで直接コンタクトすることを禁じている。上司の木橋課長は石橋を叩いても結局は渡らないタイプで、裏では「石橋」と呼ばれている。明朝、石橋に話しても、こんなことで颯太が週刊誌にコンタクトすることなど許すはずがない。そうかといってオフィスの颯太の席は木橋の席から二メートルしか離れてない。そんな電話を橋のたもとでこっそりするわけにはいかない。

【 えいままよ。口から出任せ言うしかないだろう。】


 颯太は104で週刊未来編集部の電話番号を聞くと直ちにダイヤルした。電話に出た男性に「今日発売の週刊未来に出ていた慧明塾の件で教えて貰いたいことがあって電話した」と言うと「担当記者の森田は帰宅したので、明日こちらからかけさせる」と言ってくれたので、颯太は名前と携帯の番号を教えた。しかし、森田佳奈かなと名乗る女性記者の電話はなんと五分後に来た。森田佳奈は颯太の質問を聞くと、

「会社に出て調べれば分かりますから、明日でよければお教えしてもいいですよ。貴男の勤務先におかけしますから勤務先の名前と電話番号を言って下さい」

 と言って携帯に電話することを拒否した。こうなったら破れかぶれだ。

「中央火災神戸支店損害部自動車損害課の川嶋といいます。電話番号は・・・・・・」

「いや電話番号は携帯ので結構です。どうやら本当のことをおっしゃってる様子だから、電話をかけて確認するまでもないでしょう。あの写真の男の名前なら明日まで待たずとも、今私が知ってますからお教えしてもいいのですが、その前に、なんで中央火災の神戸支店の方があの男に関心を持っておられるのか聞かせて下さい。お教えするのはそれからです」

 さすがに大手週刊誌の記者である。心配していたとおりの展開になってしまった。予想していた質問だが回答の用意はできていない。颯太が口籠くちごもっていると森田記者は畳み込んできた。

「清塚康司が昔御社に在籍していたことは存じておりますから、清塚に関心をお持ちになるのなら分かりますが、なんであの男に興味を持っておられるんでしょう?」

「いやたいしたことじゃないんです。あの写真を見た時に、あの男にどこかで見覚えがあるような気がしたんですがどうしても名前が出てこないんで、御社にお聞きすれば分かるんじゃないかと思っておかけしたんです」

「見覚えがあるって、いつごろお会いになったんですか?」

「はあ、割に最近・・・・・・ここ二、三カ月の内だと思うんですが」

「そうじゃないでしょう? 正直にお答えいただけないならこちらもお教えするわけにはいきませんよ。・・・・・・あっそうか、はつらつ生命っていうのは確か御社の関連会社でしたよね?」

 はつらつ生命というのは中央火災と同じセンチュリー・ホールディングス・グループに属する生保で、元はと言えば中央火災が生保分野進出のために作った子会社である。

「はあそうですが・・・・・・はつらつ生命が何か?」

「いや、去年の春頃だったかなあ? はつらつ生命の女性の社員さんからもこの慧明塾のことで・・・・・・そうだ!それもこの男のことでご質問がきたことがあるのを思い出したものですから・・・・・・。御社のグループはどうしてそんなにこの男に関心があるんでしょう? 清塚康司が慧明塾に関係しているからだけじゃないでしょう?」

「ちょっと待って下さい。前にはつらつ生命からも問い合わせが行ったって・・・・・・はつらつ生命の誰から問い合わせが行ったか覚えていらっしゃいますか?」

「ええ、携帯にその社員さんの電話番号を記録してありますから見れば分かりますよ。でもそれを教えたら私の質問にちゃんと答えて下さいますか?」

 颯太は覚悟を決めた。

「分かりました。個人のプライバシーに関する事柄ですので、詳しいことはお話しできませんよ。それで宜しければ、大体のことはお話ししましょう。ですから教えて下さい」

「いいでしょう。それじゃあちょっと待って下さい」

 森田記者は、電話を中断して自分の携帯を操作しているようだった。

「ありましたありました。ええと、はつらつ生命の業務部審査課の主任さんで名前は吉野さんです」

「え? 吉野翔子ですか?」

 颯太が入社以来三年間席を並べた一年先輩の吉野翔子は、颯太より一年先に本店企業損害部賠償責任保険課を出てはつらつ生命業務部審査課に出向している。

「お名前のほうはお聞きしてないんですが、ご存じの方ですか?」

颯太は、翔子が同じ男のことで週刊未来社にアプローチしたと聞いて驚いた。翔子は一体なんでこの男のことを追っていたのだろう?

「ええ、彼女は中央火災からはつらつ生命に出向している社員なんですが、私の一年先輩で、以前、同じ課で席を並べていたことがありますので・・・・・・」

「そうだったんですか? さあ、それじゃあ私の質問に答えて下さい。貴男はなんであの写真の男に興味を持ったんですか?」

「実は私は、先ほど申し上げたように、神戸支店の損害部自動車損害課ってところにいるんですが、今、私が扱っている自動車事故でトラブルになっている件がありましてね。ところが、そのトラブルを起こしている契約者があの写真の男によく似ているし、その契約者が去年の秋に東京から神戸に引っ越してきた男なんで、ひょっとしたらその男じゃないかと思いましてね」

「そうですか。それだったらその契約者さんはこの写真の男じゃありませんね」

「は? と言うと・・・・・・」

「この写真の男は去年の夏に死んでるんですよ。ほら今日の記事に書いてありましたでしょう。建設中のビルから転落死した宇田哲哉って男のことが・・・・・・。この男がその宇田哲哉なんですよ。警察はタミフル事故だって結論を出してますが、当社では殺されたんじゃないかと思ってるんです」

【 あっ!そうか。タミフルで思い出した。そういえば、翔子さんがいつか二十億円の河馬がタミフルを飲んでビルの最上階からジャンプしちゃったとか言ってたけど、この男のことじゃないかな? 確か清塚が紹介してきた契約者だって言ってたからきっとそうだ。それで翔子さんは週刊未来に何か聞こうとして電話したんだ。】

颯太は以前翔子から聞いた話を想い出した。それによると、はつらつ生命は一年ほど前に、清塚康司が紹介してきた宇田哲哉という河馬そっくりの男の二十億円の生命保険を金融庁からの圧力で引き受けさせられた上、僅か三カ月後にタミフル事故で保険金を支払わされたというのである。しかしその河馬男が慧明塾の役員だということまでは聞いてなかった。それにしても、半井靖士がよりにもよってその男に似ていたとは・・・・・・。しかし全くの別人ということなら詮索しても仕方がない。


「そうでしたか。分かりました。どうもありがとうございました」

 颯太ががっかりして電話を切ろうとすると森田記者が慌てた。

「ちょっと待って下さい。いや、あの写真の男が貴男のところの契約者さんじゃないのは確かですが、その契約者さんは神戸の方なんでしょう? 慧明塾の一連の事件には川崎組とか、川崎組の関係企業も絡んでいるようなんですよ。清塚康司が逃げ回っていたのも川崎組系の闇金融業者に追われているからだという話もあるんです。ですからひょっとしたらその契約者っていうのが慧明塾と全く無関係ではないかも知れないんですが・・・・・・よろしかったらその契約者の名前を聞かせて下さいませんか?」

 半井靖士は本場仕込みのローン・シャークだし、関西ビジネス・サポートというのは川崎組傘下の債権回収業者である。森田記者の話とぴったり符合する。颯太は絶句した。

「もしもし、もしもし。川嶋さん、まだ切らないで下さいよ」

 森田記者が電話の向こうから必死に颯太を追った。

「はい、まだ切ってませんから大丈夫ですよ。でも私は偶々たまたまその契約者が写真の男に似ていたから問い合わせしたんですが、どうやら他人の空似みたいだし、基本的には契約者の起こした事故は完全な個人情報ですから、これ以上は勘弁して下さい」

「ちょっと、ちょっと待って下さいな。貴男は、私がこの写真の男が誰か教えたら、何故調べているか教えて下さるっておっしゃたじゃないですか」

「いや、だから、私が今扱っている自動車事故でトラブルになっている件があって、その契約者があの写真の男によく似ているからだって申し上げたじゃないですか」

「それはないでしょう。そんな、箱の外側だけ見せて中に何が入ってるか何も見せないなんて、答えたことにならないじゃないですか。当社にまで電話してこられてるっていうのは、同じトラブルといっても、相当に困っておられるんでしょう? それを聞かせて下さいよ。分かりました。それじゃあこうしましょう。もし、その契約者が慧明塾の事件となんらかの関係があることが分かっても、その事故のことは、御社の了解なしに記事にすることは絶対にしませんから話していただけませんか? もし、やはり赤の他人で、慧明塾とは全く関係ない人間だったら、此方も全く関心ないことになるんですから、それで心配ないじゃないですか」

颯太は再び絶句した。これ以上話して、万一その一部でも週刊誌に出たりしたらとんでもないことになる。しかしそうはいっても、川崎組系の消費者金融が絡んでいるなど、まるで無関係とも思えない。

【 翔子さんだって週刊未来にコンタクトしたみたいだし・・・・・・ええい、言っちまえ。俺が責任取ればいいんだろう?】

腹は固まった。

「それじゃあ、絶対に約束は守って下さいね。実は、こちらでトラブルを起こしている男は関西ビジネス・サポートっていう債権回収業者の顧問で、半井靖士って男なんです。関西ビジネス・サポートは関西畜産という会社の子会社なんですが、その関西畜産が川崎組の企業舎弟なんです。その半井って男は神戸に来る前はメトロ・コープ系の消費者金融リックで回収部長をやっていたプロ中のプロなんですが今月四日の深夜に事故を起こしまして・・・・・・」

 颯太は事故の概略、警察の事故調書紛失、二人の消防士の行方不明を話した。颯太が話し終わると森田記者は驚きの声を上げた。

「信じられない話ですね。でもいくら警察がいい加減でも、暴力団から直接の働きかけで事故調書を紛失したことにするなんて考えられませんから、その話には相当に力のある政治家が間に入っているのは間違いないですね。私どもは、慧明塾が矢部事務所と相当深い関係を持っていると睨んでいるんですよ。川嶋さん・・・・・・その契約者、半井靖士っていいましたか? あれっ、ちょっと待って下さい。半井、半井。どこかで聞いた名前みたいな気がするんですよ。メトロ・コープっていうのも相当阿漕あこぎな商売をやる銀行で、当社で追ったことはあるけど・・・・・・。でもそこで出くわした名前じゃないですねえ。どこだったかしら・・・・・・? 思い出せないなあ。明日会社に出たら当社のデータベースを叩いてみて何か分かったらご連絡しますが、この携帯番号でいいんでしょう? その代わり川嶋さんも今伺ったお話の今後の進展を聞かせて下さいよ。私も携帯の番号をお教えしておきますから」

 颯太が森田記者の番号を書き取って電話を切ったのは夜十一時過ぎだった。


 翌朝、デスクに置いた颯太の携帯が振動した。モニターには「森田佳奈」の表示が出ていたが、森田からの電話を全く当てにしていなかった颯太は一瞬誰か思い出さなかった。

【 森田佳奈? 森田佳奈って誰だろう。あっそうか! 昨夜の・・・・・・。しかしここじゃ拙い。】

 ここは正に橋のたもとである。颯太はトイレにでも立つ様子でさりげなく課のフロアを出て、階段室に入った。

「はい川嶋です」

 森田記者は颯太が電話に出るなり挨拶抜きに本題に入った。

「半井って名前が出てきたんですよ。でも、出てきたのは半井靖士じゃなくて、半井由美って女なんですけどね」

「えっ! 半井由美? 半井由美って半井靖士の内儀かみさんですか?」

「ええその半井由美です。ご存じですか?」

「ええ、こっちの騒動では立派に内助の功を立ててますよ。でもそっちでは半井靖士の内儀さんがどこに出てきたんですか? まさか内儀さんが慧明塾のメンバーだったわけじゃないでしょう?」

「霊安室に出てきたんですよ」

「えっ! 霊安室?」

「ええ。慧明塾の宇田取締役が転落死した後、遺体を見て、宇田哲哉に間違いないと確認したのが宇田のお内儀かみさんの宇田さつきで、その時宇田さつきに付き添って霊安室に現れたのが宇田哲哉の従兄弟の内儀さんで半井由美って女なんですよ。当社のデータベースで慧明塾関係のファイルを検索してたら半井靖士ではヒットがなかったんですが、半井だけで検索したら宇田哲哉が転落死した翌日の警察の発表に半井由美の名前があったんです」

「ちょっと待って下さい。ええっと・・・・・・」

 頭の中がこんがらかった。

「宇田哲哉の従兄弟の内儀さんが半井由美ってことは、半井靖士と宇田哲哉が従兄弟だってことですか?」

「そういうことです。転落死した男は、持っていたセカンドバッグに入っていた免許証や慧明塾の社員証から宇田哲哉と思われたので、警察はお内儀さんの宇田さつきに連絡して遺体の確認に来て貰ったんです。その時に宇田さつきに付き添って霊安室まで行ってやったのが半井由美なんです。それで宇田さつきと半井由美の二人が遺体を宇田哲哉と確認して、最終的には宇田哲哉がかかっていた歯医者から取り寄せた歯型で断定したんです」

「なあるほど。それで似てたわけか。従兄弟似いとこにって奴だったんですね」

「従兄弟同士って、どうかすると兄弟より似てたりしますからね。昨日伺った話では、半井靖士はメトロ・コープ系の消費者金融リックにいたってことですが、メトロ・コープについても色々問題があって、当社うちで追っかけたことがあるんですよ]

「ほう、どんな問題があったんですか?」

「ええ、メトロ・コープは、消費者金融のグレー・ゾーン金利が世間でまだほとんど問題になっていなかった段階で、子会社リックの新規貸し付けを縮小したり無人店舗を閉鎖したりして、日本の消費者金融業務からの撤退を始めていたんです。民自党の大勢が、来年の参議院選挙で勝つためにはグレー・ゾーン金利の廃止もやむを得ないなんて風潮になってきたのはここ二、三カ月のことで、去年の今頃なんて、民自党議員の大半はサラ金業者保護のために、なんとかしてグレー・ゾーン金利を守ろうとしていたんですよ。この段階でグレー・ゾーン金利撤廃を考え始めていたのは金融庁と民自党中枢部のごく限られた人間だけだったんですが、メトロ・コープは他社よりずいぶん早くそれを知っていたようなんです。そのメトロ・コープからは矢部事務所にずいぶん金が流れてたって話なんですがね・・・・・・」


 グレー・ゾーン金利とは、利息制限法で定める金銭貸借上の上限金利(元本百万円以上の場合は十五%)は超えるが、信販会社等を対象とする出資法で定められた上限金利(二十九・二%)には達しない範囲の、合法性の曖昧グレーな金利領域のことである。消費者金融業者はこの金利ギャップを利用して大儲けをしていたのであるが、バブル崩壊後、多重債務者の自殺が相継ぎ社会的に大問題になった。そこで取りあえず出資法の上限金利を二〇%に引き下げ、将来的には更に引き下げて利息制限法の上限金利に一致させグレー・ゾーン金利を撤廃することになり、その為の出資法改正が現在開かれている国会に上程される予定になっている。


「なるほど、そこでも矢部事務所が登場するんですね。確か週刊未来の記事じゃあ、宇田哲哉がいた慧明塾からも矢部事務所に金が流れていたように書いてありましたね」

「そうなんですよ。リックの不良債権は消費者金融の中でも最悪レベルだったんですが、メトロ・コープはいち早くその不良債権のかなりの部分を叩き売って、最小の損失で済んだみたいですよ。問題は、リックがそういう情報をどこから得ていたかなんですよ。そして昨日のお話ですと、リックから川崎組系の債権回収業者に移った半井靖士って男の自動車事故で、警察の調書がなくなったり、証人の消防士が行方不明になったりしてるって話ですね。なんかおかしいと思いませんか? いくら今日日きょうびの警察がいい加減でも、暴力団から言われただけでそこまではやりませんよ」

「そうか・・・・・・。私は半井靖士と宇田哲哉の顔が似てることに気を取られてたけど、そんなことは従兄弟同士だってことだけでなんの不思議もないけど、そんな表面的なところだけじゃなくて、もっとバックグラウンドで宇田と半井とは似ている部分があるみたいですね。それってなんですか? 政治臭ですか? 暴力団臭ですか?」

 昨夜、電話を切った時点では週刊未来の写真の男、宇田哲哉と半井靖士は他人の空似でしかないと思ったにも拘わらず、その後も宇田哲哉のことが頭から離れなかった。確かに写真は似てはいるが半井靖士の顔は翔子が「河馬」と呼ぶ宇田哲哉ほど台形ではない。似ていたのは写真が顔の上半分しか写っていなかったからだろう。しかし、今、森田記者の話を聞いて、何故自分が宇田哲哉にこれほど拘っていたかが漸くはっきりしてきた。この二人は、顔の造作などよりもっと似通っているところがあったのである。バックグラウンドに共通するところが多いのである。

 それに森田記者が知らないことだが、前に吉野翔子から聞いた話では宇田哲哉の二十億円の生命保険には矢部事務所が濃厚に関係している。

「すべての道は官邸に通ずか・・・・・・」

 颯太が独り言のように言った。

「そういうことです。昨日川嶋さんから、半井靖士って男がそちらで起こしているトラブルの特徴や、その男が前にリックにいたって話を聞いた途端に、それは宇田哲哉と顔が似てるなんて話じゃなくて、裏の筋書きが似てるなと思ったんですよ。その上、半井は宇田の従兄弟で、去年リックから関西畜産の子会社に移った男だっていうでしょう。川嶋さんは関西畜産の社長が川崎組系の似非えせ同和団体の幹部だってことはご存じでしたか?」

「ええそれは聞いてます」

「その関西畜産って会社は数年前に国内でBSEが発生した時にいち早く未検査国産牛肉を大量に買い集めて、後で焼却補助金制度で大儲けした企業なんですよ。その時も、まだ補助金制度の検討が表に出ていない段階でどうして買い付けに走ったのか疑問だったんですがね」

「そうか。リックの場合は、グレー・ゾーン金利撤廃の動きが出る前に不良債権を叩き売ったし、関西ビジネス・サポートの親会社は焼却補助金制度の動きが出る前に不良牛肉を買い漁ったってことですか・・・・・・。やり方がそっくりですね」

「そうなんです。そして関西畜産はリックの不良債権を相当買ったという話なんですよ」

「そうか。それじゃあ、半井は顧問なんて肩書きだけど、親会社が買い取った不良債権の回収を助けるために関西ビジネス・サポートに来たのかなあ。それにしてもそんな酷い不良債権を買い取って稼げるっていうのも凄い会社ですね」

「会社なんて名ばかりで、暴力団そのものなんでしょう。債務者や債務者の家族に売春を強要したり、生命保険でもあれば保険金を担保にとってから自殺させたりとか、きっと凄い取り立てをしてるんですよ。自殺に見せかけた殺しもあるみたいですよ。だから、あのゴキブリみたいにしぶとい清塚でも逃げ回ってたんですよね」

「それがなんで今頃自首してきたんでしょう? 逃げ切れなくなって、捕まったほうが安全だというので出て来たんですか?」

「いや、私はそうじゃないんじゃないかと思ってるんですよ。どうも警察は前から清塚の居所を知っていた節があるんです。多分出てこられると困る事情があるので、知らん振りをしていたんじゃないかと思うんですよ。だけど、事情が変わって、もう出て来ても不都合がなくなったから出てこさせたような感じなんですよ。ほら今度の週刊未来にも書いたけど、清塚に煮え湯を飲まされていたTQCとかパチスロハウゼとか穴沢工務店とかが、ここに来て一斉に清塚に対する告訴を取り下げてるんですよ。それに清塚も出頭する前に友人に『俺は三日で出てくることになっている』と豪語してたって言うでしょう。どうも裏でなんらかの取引が成立したみたいなんですが、それが何か分かると面白いんですがね」

「ふーん。全く魑魅魍魎ちりもうりょうの世界ですね」

「本当に。それじゃあ、その自動車事故の件が今からどう展開するか興味がありますから是非聞かせて下さいね」

「分かりました。お話しできる範囲ではそうします」

 颯太は、再び週刊未来に電話することは多分なかろうとは思ったが、当たり障りない返事をした。


 颯太は部のフロアに戻ったが自分の席には戻らず、社外の人との打合せブースに入りはつらつ生命の吉野翔子に電話を入れた。宇田哲哉と半井靖士が従兄弟同士ということが分かり、しかもこれだけバックグラウンドに共通点が多いとなると宇田哲哉についてもう少し調べなくてはならない。


「週刊未来の森田佳奈記者からご紹介をいただきました中央火災の川嶋と申しますが・・・・・・」

 翔子は一瞬びっくりした様子だったが、すぐに颯太の冗談が分かった。

「えっ何? 颯太君、週刊未来にコンタクトしたの? 駄目じゃない。マスコミにコンタクトするときは広報室を通さなくちゃ」

「って翔子さんも叱られたんでしょう?」

「あはゝゝゝ。そんなこと構うかってことよね」

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

 入社直後、黒岩に仕事でしごかれ、猛勉強をさせられていた颯太を励ましリードしてくれたのが同じ課の一年先輩だった吉野翔子しょうこである。翔子は色々の面で颯太とは対照的だった。まず彼女は小学校から大学まで一貫して秀才で通した。大学も現役で東京の一流国立大学に入り、もちろん留年などせずにトップクラスで卒業している。従って、颯太より一年先輩とはいっても、生まれは年月まで同じである。外見も颯太が素朴で野暮ったいのに較べ、翔子はきりっとした目鼻立ちの美人で、立ち居振る舞いがいかにもスマートで垢抜けしている。

 しかし、この二人には絶対的共通点があった。二人とも正義感の固まりだったのである。だがその表現の仕方には相当の違いがあった。会社の先輩が仲間をからかうのに、度が過ぎて虐めに近くなったりすると、颯太は自分がからかわれたようにムキになって抗議する。そんなときに翔子は、揶揄からかった先輩を痛快に皮肉でやっつける。

 二人とも大学は法学部であるが、颯太は概論書もまともに読んでいない。彼は分からないことがあるとまずは翔子に尋ねた。翔子はどんなに忙しい時でも手を休めて教えてやった。そんなとき、翔子は颯太の基本的知識の足りない部分が分かると、学生時代に自分が読んだ専門書に付箋を付けて、翌朝黙って颯太のデスクに置いておく。翔子先生にこうされると颯太も勉強しないわけにはいかない。彼は生まれて初めて猛勉強というものを体験した。

 こんな具合だから、同じ歳とはいっても、どちらが親分でどちらが子分かは自ずから決まってくる。昼食時間に、今日はどこで何を食べるか、映画に行くのに何を見るかなどはすべて翔子が決めて、颯太は黙っていていくだけだった。颯太が翔子にほのかな恋心を抱いていたのは間違いないが、翔子のほうは颯太を弟分として扱っているだけで、恋愛の対象になりうるとも思っていないようだった。同じ課で三年間机を並べた後、翔子は同じセンチュリー・ホールディングス・グループに属する生保「はつらつ生命」に出向し、颯太もその翌年、神戸支店損害サービス部自動車課に転勤になって一年になるが、二人は週に一度は電話をかけ合っていた。


「だけど颯太君はなんで週刊未来になんかコンタクトしたの? 一昨日の清塚関係の記事の件で?」

「うん、あの記事の件だけど、清塚のことじゃなくて・・・・・・」

 颯太は、清塚の後ろに写っていた男があまりに今神戸で手を焼いている半井靖士という男に似ていることを話した。

「ああ、あの写真ね。あれが例のタミフル飲んで建設中のマンションからジャンプしちゃった二十億円の河馬よ」

「うん、そうらしいね。ペテン師清塚の紹介とか言って滅茶苦茶高額の生命保険を申し込んできた河馬のことだろう? 昨日、森田記者からあれが翔子さんのお友達の宇田哲哉だって聞いてびっくりしたよ。だってあんまり半井に似てるんだもん」

「それじゃあ、折角禁を破って週刊誌に電話したのも無駄だったってわけね。宇田は今頃閻魔様に舌を抜かれて、ついでに二十億円の保険金も召し上げられてるわよ」

「いや、それが無駄どころか大ヒットだったんだ。半井靖士は宇田哲哉と従兄弟同士だってことが分かったんだ」

「えっ、なんですって? そっちの酔っぱらい男が空飛ぶ河馬の従兄弟ですって?」

 颯太は、一年前に霊安室に現れた半井由美の話をした。

「それに、森田さんから聞いた宇田のバックグラウンドには半井と共通するところが凄く多いんだ。それで、翔子さんが持ってる慧明塾関係の資料を送って貰いたいと思って電話したんだ」

「それだったらTMDを見たほうが早いわよ。TMDに『宇田哲哉』のタイトルで慧明塾関係の資料が全部登録してあるから」

「あ、そうか。僕は『半井靖士』の名前ではTMDを叩いてみたんだけど、『宇田哲哉』の名前ではまだ見てなかったからな。TMDには宇田の顔写真も登録してある?」

「ええ、二十億円の契約を受ける時に本人確認のためにパスポートのコピーを取ってるから、それも登録してあるわ。でもパスポートの顔写真だから小さいけどね」

「そうか・・・・・・週刊未来の宇田哲哉は半井と凄く似てたんだけど、パスポートの宇田はそんなに似てないのかな?  僕は、半井の顔写真をTMDに入れてベリフェイスしたんだけど、翔子さんが登録した宇田の写真はヒットしなかったな」

「TMDのベリフェイスも、人間の目には凄く似てても引っかからなかったり、なんでこんな違う顔が同一人物になるの?っていうようなのが引っかかったりするからね」

「うん、まあ、所詮ベリフェイスも正解率五十%だからね」

「颯太君、慧明塾のことはTMDで分かるけど、清塚の創ったORIってインチキ会社の資料もどっさりあるけど読む? 慧明塾と清塚はべったりだったから両方併せて読んだほうが背景がよく分かると思うわ」

「そうか、それじゃあお手間じゃなかったらORIの資料も送ってくれる?」

「おやすいご用よ。ORIはTMDには登録してないけど、資料は全部私のパソコンに入ってるからメールに添付して送ってあげる。ちょっとした詐欺ストーリーで面白いわよ。どっちのコンピューターに送ろうか?」

「ありがとう、半井の事故の解決には直接には関係なさそうだから、この件が一件落着してからじっくり読むから、プライベートのパソコンに送ってくれる? 久しぶりで清塚の謦咳けいがいに接するのは楽しいだろうなあ」

「あはゝゝゝ、Have a wonderful time. ってところね」

 翔子は彼女の魅力の一つである明るい笑い声を残して電話を切った。



1-4  弱腰企業


 翌日、金曜の朝、中央火災の顧問弁護士、辻瞭夫あきおは多分無駄な努力とは思いながらも、一縷いちるの望みをいだいて十一時に須磨署を訪ねた。しかし結果は予想どおりだった。一昨日の警官は、

「さんざん探したがファイルは見つからなかった。これ以上探すためには署内をひっくり返すしかないが、裁判所の開示命令もない段階ではそこまでやる気はない」

 と木で鼻を括ったような返事を返した。今や警察も消防も政治的圧力でねじ伏せられたことは明らかである。このような政治的背景を含め、半井靖士と宇田哲哉のバックグラウンドはあまりにも似ていたが、それらの情報はいずれも週刊未来から得られた情報である。それを石橋(木橋)の上に並べるわけにはいかない。それに、それ等の情報は直ちに半井問題の解決に役立つものではない。颯太は、午後の支店長との打ち合わせでは宇田哲哉の話は一切出さないことにした。


 午後一時、支店長室に入ったのは大塚部長、木橋課長と颯太、それに辻弁護士の四人である。まず初めに颯太が用意したメモを元に、事件の経緯を時系列的に説明した。聞き終わった竹川支店長は、辻弁護士にプロとしての現時点での情勢判断を求めた。辻の意見は、

「事故調書のほうはおそらく裁断されているんでしょうから、これについては新井調査人のメモ以外に当社が出せる証拠はない。消防士二人についてはいくらなんでも消されてるってことはないでしょうから、もしどちらか一人でも見つかって、証言することに同意してくれればまだ争うことは可能でしょうが、上手い具合に消防士が見つかっても、証言に応じては貰えないんじゃないかと思うんですよ。そうなると新井メモだけじゃとても争えないですね」

 というものだった。当然の情勢判断である。

「支店長。悔しいけど、これで闘うのは無理じゃないでしょうかね」

 大塚部長はすっかり弱気になっていた。

「それにこれで闘ったら裁判で負けるだけじゃなくて、証拠をでっちあげて支払い拒否をしようとしたような形になって、当社が悪役にされる危険がありませんか?」

 課長の木橋はすっかり石橋に変身している。しかしこんな議論は颯太には我慢できなかった。

「そうでしょうか? こんな大きな事故で、しかも停車していたパトカーにぶつけてるんだから、誰も警察が事故調書を作成しなかったなんて思うはずはないでしょう。その調書が行方不明になるっていうことだけでも異常な話ですが、その上、そのなくなった調書の内容について、当社と暴力団関係者の主張が真っ向から対立しているんですよ。そうなったら世間は暴力団関係者じゃなくて、当社の言ってることのほうを信用してくれるんじゃないでしょうか。それにそんな事態になったら、警察だって責任問題になるから、怪我人を出すことになるでしょう。そうなると、どこまでも『見あたらない』で通せるとも思えません。それと、現場に行ったはずの消防士二人が二人ともいなくなったってことだって、裁判沙汰になった段階では、消防は『どこにいるか言えない』では通せないでしょう。だから、この時点では当社は証拠を提出できないけど、逆に裁判になったら証拠が出てくるってことも考えられるんだから、ここで下りる手はないんじゃないでしょうか」

 木橋はあくまで石橋だった。

「裁判になって、警察が『漸く見つかりました』と言って調書を出してきたら、飲酒のことなんかこれっぱかしも書いてないなんてことにならないかな」

大塚部長も頷いて同感を示しながら竹川支店長の顔を見た。

「そうねえ、木橋君の言うような展開も考えられるけど、一度『なくなった』ものが出てきたら、そこには飲酒のことは何も書いてなかったっていうのも、あまりに白々しくて、警察もさすがにそこまではできないんじゃないかなあ。僕はどっちかというと川嶋君の意見に賛成だな。裁判になったら負けるかも知れないけど、世間は、本当は当社が言っていることのほうが正しいんじゃないかと思うんじゃないかね。少なくとも当社が悪者扱いになったり、裁判官の心証を害して懲罰的な判決が出たりってことははなくて済むんじゃないかなあ」

 大塚が不安そうに、

「それじゃあ支店長は、先方に『訴訟するならしろ』って突っ放すお考えですか?」

 と尋ねた。

「うん取り敢えずはそうしておいて、それでも警察は『見あたらない』を続けるのかどうか見極めようじゃないか。それで時間稼ぎをして、その間に消防士達を探し出す努力をもう少し続けようじゃないか」

 颯太は拍手喝采したい気分だったが、部長、課長が渋い顔をしているのを見てぐっと我慢した。辻弁護士は、

「撤退するなら早いに越したことはないんですが、しかしまあ、支店長がそうおっしゃるならその線で頑張ってみましょうか・・・・・・」

 と自信なさげに言った。半井靖士の代理人の赤城弁護士には辻弁護士から連絡することになった。


 辻弁護士は、須磨警察が「事故調書がみつかった」と簡単に前言撤回するとは思っていなかった。仮に出てきたとしても、そこには飲酒についてはまず何も書かれていないだろうと考えていた。本来なら、とても「訴訟するならしろ」と突き放せるケースではない。彼は時間稼ぎを狙った。

「残念ながら警察が調書をどこかにやっちゃって、我々は再確認できてないんですよ。でも警察は捜してみると言ってますんで、もう少し時間を貸していただきたいんですがね」

もちろん、赤木は乗ってこなかった。

「警察が書類をなくしちゃったのは御社おたくにとっては好都合なんじゃないですか? しかし調書をなくしたのは警察で我々の責任じゃないんですから、我々としてはこれ以上御社が意図的に支払いを遅らすのを許すわけにはいきませんよ。それじゃあ、御社としては、まだ免責の主張を撤回されないんですね。それならそれでこちらも次のアクションに移らせていただきますがそれでいいんですな? しかし同じ弁護士として信じられんですなあ。貴男はこんな不利な状況でも、クライアンツに争うことを勧めるんですか?」

 竹川支店長が当面の対応方針を決めた時には、辻弁護士はその結論に懐疑的だった。しかしこうも不貞不貞ふてぶてしく出てこられると闘争心がむらむらと頭をもたげる。

「訴訟を起こしますか? 訴訟となれば裁判所は警察に調書を証拠として出すように言うでしょうが、そのときは警察はどうするんでしょうねえ。紛失で押し通すとなれば警察内に怪我人を用意しなけりゃならんでしょう。それとも偽調書を作りますかな。いずれにしても一騒ぎですよ。それに消防士だって、いつまでも雪隠詰せっちんづめというわけにはいかんでしょう。マスコミが嗅ぎ付けたら面白くなりますよ。そうなったらマスコミは、警察や消防にそんなことをやらせているのがどこの誰かを必死で知ろうとするんでしょうなあ」

「はゝゝゝ。そういうことになるかどうか楽しみですなあ。今お聞きした御社の結論がどのレベルで出ているのか知りませんが、それじゃあ、御社のトップがどこまで頑張れるか拝見しましょうか。貴男も足の下の梯子がいつまでもちゃんとあるかどうか、時々確かめておかれたがいいですよ」

 赤木は親切なアドバイスを残して電話を切った。辻も強がりは言ったものの、赤木のアドバイスの適切さは認めざるを得なかった。


        ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 第二ラウンドの火蓋は翌日切って落とされた。火曜の昼前、敵の弾は思いがけない方角から飛んできた。竹川支店長のところに、本社で全店の損害サービス部門を統括している日下くさか大輝たいき専務から電話が入ったのである。

「神戸支店でなんかトラブルになっている個人契約があるんだって? ええっと、半井靖士とかって契約者の自動車事故の件だけど、聞いてる・・・・・・? そうか。詳しい話を聞かせてくれないか」

「専務のところにはどこから話がきたんですか?」

「うん、今朝金融庁の検査部長から電話があって、ちょっと相談したいことがあるんで来てくれって言うからさっき行ってきたんだ。そうしたらその話なんだ。なんでも、当社うちが飲酒運転で免責を主張しているんだが、契約者はそんな事実はないと言って怒ってるんだって? それで、事実がどうなっているのか調べて報告して欲しいって言ってるんだよ。どうもはっきり言わないけど、官邸からの指示らしいんだ。何者なんだい、その半井っていうのは」

 竹川は一度電話を切り、まず、昨日担当部から上げられていたこれまでの経緯メモを日下にファックスした上で電話をかけ直した。日下は、

「警察に事故調書を紛失させた上、消防士達までどこか行方不明で飛ばしちまうなんて驚いたね。ところでどうするね」

「私は簡単には下りたくないですね。本当は向こうが裁判に持ち込んでくれればいいんですが、それぐらいなら金融庁を使うなんて汚い手は使わないでしょうから、そんなつもりはないんでしょうね。どうでしょう、金融庁には事故調書のことや消防士の件を話していただいた上で、『どこから圧力がかかっているのか知らないが、組織的な証拠隠滅が図られているのは明らかで、それ自体が飲酒運転についての当社の主張が正しいことの証明だから、当社としては免責主張を変えるつもりはない。契約者が訴訟に持ち込むというなら受けて立って裁判所の判断を仰ぎたい』と言っといて下さいませんか。証拠隠滅の指示を出しているところと、金融庁に圧力をかけてきているところとは同じでしょうから、そこまで言えば、金融庁も深入りはやばいと思うんじゃないでしょうか」

「うん、君の考え方は分かった。でもなあ、今当社は、保険金不払い問題やら火災保険の料率間違いやらで、金融庁には人質を取られているみたいなもんだからなあ。この件は社長に話しておかなくちゃいけないと思うんだけど、社長がなんて言うか・・・・・・」


 このところ損保業界は、数万件の自動車保険金不払いミスに加えて、今度は数十万件の火災保険に料率ミスがあったことが明らかになり、全社で全契約の洗い直しを実施中である。中央火災にとってラッキーだったのは、ライバルの損保アジアが悪質さにおいても件数においても突出しており、業界を代表してとっちめられている状況にあることだが、中央火災も洗い直しの結果如何ではいつ矢面に立たされるか分からない。じっと頭を低くして台風が行き過ぎるのを待っている状態である。金融庁もこれ以上の事態悪化を避けたいという点では保険会社側と同じ立場である。この問題の責任者である日下専務としては、この時期に金融庁と利害が反するような事件は、どんな小さい事件でも避けたいところだろう。しかも日下は社内策士の最右翼である。

 竹川は、問題は「社長がなんて言うか」ではなく「日下専務が社長になんて言うか」だと思っているが、いくらなんでもそうは言えない。自分の立場で言うべきことはすべて言った。後は本店トップの結論を待つしかなかった。


 敵の次なるパンチは、本店トップの方針が戻ってくるのよりも先に来た。民自党の有力代議士、平山克己の筆頭秘書を名乗る横河耕史こうしという男から竹川支店長に電話が入ったのはその日の昼過ぎである。竹川は平山代議士とは全く面識はないが、平山が矢部総理の腹心で、警察官僚出身なので、警察畑に大きな影響力を持っているということぐらいは聞き知っている。竹川は、秘書が平山克美代議士の秘書からと言って電話を取り次いだ途端に「ははん」と思った。

 大物代議士の筆頭秘書クラスには往々にして自分自身が大物になったと勘違いしている低レベルの人材が少なくない。横河耕史はこのの典型的な話し方で始めた。

「お忙しいところに突然で済みません。平山事務所の横河という者ですが、少々お願いの向きがありまして電話させて貰ったんですが・・・・・・。実は兵庫県警から電話がありまして、なんですか、御社に保険の付いている車が起こした自動車事故の事故調書が行方不明なんですって? いやあ、お粗末な話で申し訳ない。いやね、ご存じとは思いますがうちの代議士も実は警察のOBなんですよ。そんなんで、代議士の後輩共が御社に詫びて取りなしてくれって泣きついてきてましてなあ」

「事故調書を紛失しろ」と無理難題を言われた上に「お粗末な話で」と言われたのでは、後輩も浮かばれないだろう。竹川は思いきり声に皮肉を込めて言った。

「いや実際のところ困り果ててますよ。余程マスコミにすっぱ抜いてやろうかと思っていたぐらいなんですよ。でも消防のほうは、書類どころか、大の男を二人までどこかにやっちまえと言われたみたいですから、それと較べれば警察のほうがまだお楽でしょう」

「ほう、消防はそうなんですか? 大の男二人じゃあ、どこかに置き忘れたなんて話じゃないですよなあ」

 あくまでも図々しく空っ惚そらっとぼける。

「そうなんですよ。でも、それだけにいつまでも隠しておけるはずはないんで、消防士のほうはまあいいとして、警察には弱ってるんですよ。どこかに置き忘れてるならいずれ出てくる可能性もあるんですが、シュレッダーにでも入れちゃってるとすると、出てきたらお化けですからね。とんでもない内容になって化けて出られても困りますしね」

「そう、不要書類と一緒にシュレッダーに入れてる可能性もあるんですよね。それでご相談なんですが、警察としては未決の事故調書を間違ってシュレッダーに入れたとか、紛失したとかということになると大変な醜聞で、関係者は処分ものですから、できれば内聞にお願いできないでしょうかな。その代わりと言っちゃなんですが、まあ恩に着ますよ。その辺、警察は義理堅いですから」

「そうですか。まあ平山事務所が、一個人の自動車事故の件でそこまで言ってこられるというのも余程の事情がおありなんでしょうから考えてみますよ。そうでなくても、金融庁からも私どもの本店のほうに何か言ってこられているようですから」

「ほう、金融庁からも何か言ってきてるんですか? それはどうも。この節、御社も色々あっているようだからなかなか大変でしょう」

 横河の声に込められているのは皮肉だけではない。脅しもたっぷり含まれている。脅しておいて次の要求である。

「それでどうでしょう? 私共もお願いばかりじゃ恐縮なんで、その契約者っていうのは、うちの代議士の支援者の身内なんですが、確か半井靖士っていいましたかな?その半井のほうには、私から、『絶対に無茶な保険請求をするな』とよく釘を刺しておきますんで、お忙しいでしょうが、支店長さんが直接会ってやっていただく訳にはいかんでしょうかな? 本人も、御社の担当者にはお会いできているらしいんですが、そのレベルでは、こう言っちゃあなんですが、杓子定規な話ばかりでらちが明かないらしいんですよ」

 無理難題を言われている保険請求で上の者が出ていくタイミングは難しい。しかしどう転ぶにしてもこのケースは単に法理論だけで解決できる話ではない。

「分かりました。お会いすることはお会いしましょう。しかし保険金をお支払いできるかどうかは、この時点では何もお約束できませんよ」

「結構結構。まあ私共のほうは警察の不手際のお詫びと、半井をご引見いただくことが電話の目的ですから、後は御社のご判断でどうぞやって下さい。それじゃあ、本人から電話でご都合を伺った上で伺わせますんで何卒よろしく」

 横河はしゃあしゃあと言うだけ言うと電話を切った。竹川は怒りと不快感が収まるのを待ってから部長の大塚を呼んだ。


「君、平山克己って民自党の代議士聞いたことあるか?」

「はあ、確か矢部総理の腰巾着みたいな男でしょう?」

「そうだ。警察官僚崩れのやくざみたいな奴だよ。今、平山の秘書って男から電話があって、俺に半井靖士に会ってやってくれってさ」

「えっ? じゃあ、今度の事件の裏にいるのは平山代議士ですか?」

「うん多分な。だけど十中八九、その裏には矢部が関係してるよ。平山だけだったら警察は動かせても、金融庁まで個別ケースで動くことはないだろう。日下専務も金融庁の部長の口振りから、金融庁はどうも官邸から何か言われているようだと言ってたしな」

「しかし、それじゃあこの半井靖って奴は一体何者なんでしょうかね? 高々債権回収業者の顧問かなんかだと聞いてたんですが、それだけで、官邸が動くとも思えないし・・・・・・」

「うん。まあ君の話じゃその債権回収業者は川崎組系ということだし、矢部は川崎組とも繋がってるなんて話もあるからな。それにしても半井なんて、組織の中では下っ端のほうだと思うんだがなあ」

「ええ、下っ端じゃないにしても幹部ってことはありえないでしょうね。それもせいぜい二、三百万円の自動車事故の話ですからねえ」

「全くだなあ。ところで俺が半井に会う時には辻先生に同席して貰ってくれるか?そうだなあ、それと川嶋君を同席させるか」

「は? 川嶋君ですか? それは宜しいですが、私か木橋課長のほうが宜しいんじゃありませんか?」

「はゝゝゝ、僕も君達の介添えが要るほど耄碌もうろくしちゃいないぞ。川嶋君で充分だ。若い人に暴力団のあしらい方を見せておくのも役に立つだろう。それにあの子はなかなか骨がありそうじゃないか。部長課長に楯突くところなんかなかなかだよ」

「いや、なかなかいいですよ。とにかく鉄砲玉みたいに真っ直ぐで突っ込みがいいんです。それだけに神戸みたいなところでは、よく見てないとちょっと危ないところがあるんですがね」

「はゝゝゝ、いいじゃないか。そんなときの尻拭い役に君達が居るんだから。部課長なんて、仕事のほとんどはそれだよ。仕事そのものは若い人のほうがよほどできるんだから」

 これには大塚も苦笑した。竹川は続けた。

「それに大塚君。今度の件はこっちの負けだよ」

「えっ、それじゃあ、本店からもう撤退の指示があったんですか?」

「いやそれはまだだ。だけど撤退を言ってくるのは時間の問題だな。樋渡社長と日下専務のコンビでGOなんて言ってくるはずないじゃないか」

「それは・・・・・・」

 大塚は口ごもった。大塚から見て、竹川常務は決断するときに絶対に身体をかわすことをしない男で、下から見ていて惚れ惚れするようなところがあるが、はらはらすることも少なくない。まるで川嶋颯太をそのまま年を取らせたようなところがある。しかしいくら惚れ惚れしても、大塚は最後まで竹川についていくのは危ないと思っていた。情けないとは思うが、自分にはそこまでのリスクはとれない。その意味では樋渡社長や日下専務にはそこまで部下を惹きつけるものはないが、おそらくこの会社では樋渡、日下タイプのほうが偉くなるのだろう。「樋渡社長と日下専務のコンビでGOなんて言ってくるはずないじゃないか」という竹川の発言には大塚も同感だったが、うっかりそれには乗れない。

 竹川には大塚の口ごもりの背景が手に取るように分かる。

「あはゝゝ、いいよいいよ。負けるにしても、当社にも少しは骨っぽいのがいるんだってところを見せておこうよ。それじゃ連中が来たら川嶋君と辻さんを支店長室に来させてくれ」

「はあ」

 大塚はなんと答えればいいのか分からなかった。


 夕方、本社の日下専務から社長決裁の結果が予想どおりの内容で竹川支店長に伝えられた。決済結果は竹川から大塚部長経由で木橋課長と川嶋颯太にも伝えられた。相前後して、竹川支店長の秘書から「明後日午後一時に赤木孝之弁護士と半井靖士氏が来社されますので、辻先生と川嶋主任とに同席していただきたいとのことです」と竹川の伝言が伝えられた。


「支店長が『樋渡社長と日下専務のコンビでGOなんて言ってくるはずない』って言ってたけど、そのとおりになったな。しかしまあ常識的な線だな」

 大塚は闘わないで済むことになったことにホッとしているようだった。しかし竹川支店長の指揮下で一戦交えるつもりだった颯太は、今や日の出の勢いと聞く日下専務がここにいたらぶん殴ってやりたい気分だった。

【 何が常識的だ! だけどあの専務じゃそう言うだろうな。】

 日下専務は颯太が前にいた本店企業損害部の担当役員でもあったから知っている。

【 当社グループのトップはどうして暴力団だ政治家だにこうも弱いんだろう? それにしても金融庁って一体なんなんだ。保険会社が暴力団や政治家から無理を言われても、筋を通せって言うのが金融庁の立場なんじゃないか? 暴力団や政治家の無理難題を民間用語に通訳するのが金融庁の仕事なのか? それにしてもやり方が宇田哲哉の高額生保引き受け強要の時と似ているなあ。両方とも震源地は官邸だ。半井靖士と宇田哲哉は単に従兄弟というだけでなく、同じ穴のむじななんじゃないだろうか? やはり、森田記者の言うとおり宇田哲哉の転落死は事故などではないんじゃないか? そして同じ穴の狢だとすると、半井は従兄弟の死になんらかの関係があるんじゃないか? ひょっとして・・・・・・。】


 昨日支店長以下の会議で闘う方針を決めたばかりなのに、僅か一日で陥落させられたのである。これでは労災病院の笹谷外科部長や木内外科看護師長に合わせる顔がない。中央火災が百八十度方向転換したことを彼らにどう説明すればいいのか・・・・・・。


      ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


 翌日、六月二十二日の午後一時、半井靖士は再び赤木弁護士を伴って現れた。

【 もうこれ以上失うものはない。】

 竹川は却ってさばさばした気持ちで二人を支店長室に迎えた。

「やあ、いらっしゃい。こちら、当社の顧問弁護士の辻先生・・・・・・あっそうか! お二人は辻さんにはもうお会いいただいたんでしたね。それと主任の川嶋にも・・・・・・。半井さんは『担当では埒が明かない』と平山事務所におっしゃったようですが、当社で一番よく仕事が分かっているのは担当者レベルなんで、担当者抜きでは何も決められないんですよ。私では分からないことだらけなんで同席させますよ」

 自分たちを、さぞかし硬い表情で迎えるのだろうと予想していた赤木は、竹川の無手勝流の対応に調子が狂った。

「いやいや結構ですよ。前回伺った時もなかなか手強いご担当者と思いましたので、今回は避けておきたかっただけですよ」

赤木はお愛想に颯太に軽く会釈したが、半井は颯太のほうを見もせずに口端の髭を僅かにピクッと下げて、さも若造を馬鹿にしているといった表情を浮かべた。半井は前回来社した時より日焼けしており、とても半月少し前に肋骨を二本折って手術まで受けた男には思えなかった。

「あはゝゝ、それで、弱いところから攻めようとして私に会いたいとおっしゃったんですか? いや正解ですよ。しかし参りましたね、警察の書類だけじゃなくて、大の男二人までどこかに隠せるような手品師相手じゃあ勝負になりません。完全にお手上げです。お支払いしましょう」

「オッ、そうですか。お噂には聞いておりましたが、さすがに支店長はご決断が速い」

「冗談じゃない。私などらちが明かない男の典型ですから、私にはそんな決断はできません。決断したのは本店ですよ。本店も、金融庁にペナルティーという人質を取られていちゃあ抵抗できんのでしょう。いや、どなたか知りませんが、いいところから攻めて来られますなあ。お支払いはします。しますが二つ条件があります」

「伺いましょう」

「一つは、免責の主張は取り下げますが、修理代についても、半井さんの治療費についても、通常のケースで当社がお認めできるリーズナブルな金額しかお支払いいたしませんのでご承知下さい。金額についてがたがたおっしゃるようであれば有責扱いは撤回します」

「おい、言わせておけば調子に乗りやがって、がたがたとはなんだ、がたがたとは」

 ひげの陰に隠れていた真っ赤な口が開いた。その二の腕を赤木が押さえた。

「私どもは何一つ無理は申し上げていないつもりですが、まあいいでしょう。それで? もう一つの条件はなんでしょう?」

「半井さんのご契約は今日付けで中途解約させていただきます。残る期間の保険料については日割りでお返し申し上げます」

「おいそれは失礼じゃないか? それじゃあまるで・・・・・・」

 また半井の二の腕を赤木が押さえた。

「いいでしょう、それじゃ神戸ヤマセに至急に連絡して修理にかからせて下さい」

「おい、先生、ちょっと待ってくれよ。俺は事故直後に、この失敬な会社が修理代の見積もりを神戸ヤマセにさせるって言うからそれには同意したけど、ヤマセで修理することなんかに同意した覚えはないぞ。冗談じゃない。ヤマセなんかにまともな修理ができるわけないじゃないか。俺は車をドイツに送って、メルセデスで直させるつもりなんだが、それは異存ないでしょうな、支店長さんよ」

「ええ、往復の輸送代をご自分で負担なさるのでしたら結構ですよ。それと輸送で何カ月かかるのか存じませんが、その間の代車費用などお支払いするつもりはありませんよ」

「そのとおり。それでよければ貴男あんたの好きなところで直せばいい」

 ピシッと言ったのは赤木弁護士だった。これには竹川も驚いた。弁護士とクライエンツの普通の関係では考えられないやりとりである。辻弁護士は二人のやりとりを興味津々しんしんに眺めていた。多分、組織内序列は赤木のほうが上なのだろう。半井は見事に膨れっ面になったが、ぶすっと押し黙った。

「それでは、この先の交渉はどうしましょう? 今日の様子を見ていると、当方はどうも私がやったほうがいいように思うんですが、御社は辻さんで宜しいでしょうか?」

 赤木が言った。

「いや、法律にのっとって処理できる話なら辻先生にお願いするところですが、これだけ法をねじ曲げた処理を、辻さんのような本物の弁護士さんにお願いするのは心苦しいから、こちらはこの川嶋君にやらせます」

 これには赤木もムッとした顔になったが、

「分かりました。それでは後の手続きは至急でお願いしますよ」

 と言うと立ち上がってドアに向かった。その背中に川嶋が言った。

「まず半井様の自動車保険の解約通知書を今日中に郵送させていただきますので、承認印を押してご返送下さい。お支払い手続きはそれをいただき次第至急に開始いたします」

 半井は振り返って川嶋をめつけたがそのまま何も言わずに赤木の後を追った。


半井靖士への保険金支払手続きは半井の自動車保険契約が解約された翌週初めから颯太と赤木弁護士の間で淡々と進められた。神戸ヤマセは、颯太からのゴーサインで直ちにベンツの修理に着手したが、いざ蓋を開けてみると、在庫がなくてドイツから取り寄せなければならない部品が出て来たりして、修理が完了するのは早くても一カ月以上先の七月末になることが分かった。このため最終的な修理代は、輸送費や代車費用も含めると三百五十万円を超える見込みになった。

その週の木曜、六月二十九日の朝、颯太は須磨警察から電話を受けた。用件はパトカーの修理代請求である。警察はどこをどう経由してか、あるいは赤城から直接かは分からないが、中央火災が保険金支払いに応じることになったと聞いてすぐに電話してきたようである。颯太は頭に来た。中央火災が飲酒運転扱いにしなかったということだから、理屈の上では、パトカーの修理代も自動車保険の対物賠償で支払えることにはなる。しかし颯太は、すっかり石橋になっている木橋課長には一切話さずに、独断で断固として支払いを拒否した。

「我々は間違いなく飲酒運転と思っているので賠償には応じられない。払えと言うなら事故調書を探して、そこに『飲酒』の記載がないことを示して欲しい。訴訟に持ち込むならどうぞやって下さい」

 と突っぱねたのである。県警はその後何も言ってこなかった。これ以上の深追いは藪蛇だと思ったのだろう。どのみちパトカーの修理代など税金で支払うのであって、県警職員の懐が痛むわけではない。最悪でも裏で積み立てた捜査報償費を使えばいいだけの話である。

 最後に残ったのは半井自身の搭乗者傷害保険の支払である。この保険は被保険者が実際に医療機関に入院あるいは通院した日数に一定金額を乗じて算出するので、半井の場合は神戸労災病院が必要と認めた入院日数と退院後の通院日数を中央火災が妥当と認定すれば支払額は自動的に決まる。幸いに半井もさすがに前週土曜に退院したという連絡が木内看護師長から入っていた。本来なら六月十日に退院できていたものが六月二十四日まで入院していたことになる。半井の契約では入院中の保険金日額は一万円だからこれだけで十四万円の余分な支払ではあるが、ベンツの修理代からすれば大海の一滴のような額である。

とにもかくにも保険金支払いの作業はほゞ川嶋颯太の手を離れた。


       ♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


【 高々数百万円の保険金ぐらい払ってやる。その代わりにもう少し痛い目に遭わせてやるからな】

 颯太は密かに新たな戦いを始めるつもりだった。神戸労災病院でも、半井は特別室使用代を踏み倒して退院している。その額は必要のない入院期間二週間だけでも三百五十万円である。木内看護師長は、「絶対このままごね得にはさせません」と言っている。

【 女性の木内さんだって暴力団相手に戦うつもりになってるのに、俺がこのまま下りられる訳がない。】

熊本でお婆さん子として育った颯太のこの辺の感覚はジェンダー・フリーとはほど遠い。


【 しかし、どこから手を着けるか?】

 颯太は半井靖士という男には少なからず怪しい部分があると思っていた。半井靖士が宇田哲哉と顔立ちが似ているのは従兄弟同士だから分かるとしても、バックグラウンドに漂う臭いがあまりにも似ている。政治臭、暴力団臭である。颯太は半井と宇田を取り巻く一連の事件について、もう一度整理し直してみた。

 半井が以前勤めていた消費者金融リックの親会社、メトロ・コープは与党民自党のごく一部の者がグレー・ゾーン金利廃止を密かに検討し始めた段階で日本の消費者金融業から撤退を初め、損害を最小限に止めている。

 宇田がナンバーツーを勤めていた慧明塾と深い関係を持つ川崎組の企業舎弟、関西畜産は国内でBSEが発生した時にいち早く未検査国産牛肉を大量に買い集めて、後で焼却補助金制度で大儲けした企業である。いずれのケースでも遡っていくと最後は矢部すすむ総理に行き着くのである。

 その慧明塾ではナンバーワン光中忠義が急死したのに続いて宇田が事故死し、慧明塾の資金稼ぎに利用された挙げ句使い捨てにされたORIの清塚社長はどうも関西系暴力団に追われて逃げ回っていたようである。そして宇田哲哉の遺体確認のため霊安室に現れたのが半井靖士の妻であり、その半井靖士が関西畜産の子会社、関西ビジネス・サポートの居候的存在になっているのである。どう考えても半井靖士が従兄弟、宇田哲哉の変死に関係していないはずがないではないか。


 しかし、半井靖士が飲酒運転だったかどうかの追及は会社業務のうちだが、今颯太がやろうとしていることは会社業務とはなんの関係もないことである。そうだとすると、これから先は颯太独りの闘いを覚悟せざるを得ない。しかしそうはいっても、結果如何では、社長が下した有責処理の決定が公明正大なものであったかどうかを問うことになりかねない。そんなことになれば中央火災としては大変な醜聞である。しかもそれによって保険金を取り返しても、額はたかだか三、四百万円である。企業の論理からすれば、そんな馬鹿げた闘いは間尺に合わない。颯太自身もそう思う。

【 それじゃあ俺はなんのためのそんなにムキになってるんだ?】

 よく考えると、自分が本当に叩き潰したいのは半井靖士ではない気がする。半井ももちろん許せない奴だが、元々自分とはえんゆかりもない奴だ。所詮暴力団なんてそんなものだろう。違う。今度のことで自分が一番腹を立てている相手は、縁も縁もある奴らだ。大塚部長や木橋課長なんて毒にも薬にもならない下っ端管理職はどうでもいい。許せないのは、トップにまで上り詰めながらリスクが取れず、事勿れ主義だけでポストにしがみついている樋渡社長や日下専務のような奴らだ。自分や翔子はこの会社に誇りを持って仕事をしているのに、彼奴等はその会社に幻滅しかもたらさないではないか。それと辞めた後まで社内で悪臭を放っているのが清塚だ。と考えると、自分は社会悪に対する怒りだとか、格好好い正義感でいかっているのではなさそうな気がする。

【 いいじゃないか。個人的反感かなんか知らないが、俺は汚い奴は嫌いなんだ。それだけだ。だけど俺がやろうとしていることは、大塚部長や木橋課長などはどうでもいいとして、竹川支店長にまで迷惑をかけてしまうことになりかねない。支店長まで寝耳に水にしてしまっていいのか?】


 半井靖士への保険金支払いが一応手を離れた六月二十九日、金曜の朝、颯太は八時十分前に出勤すると、地下一階の車寄せの近くで、さも誰かと話しているように携帯を耳に当てていた。待つこと五分。トヨタのレクサスが表道路から滑り下りてきた。颯太は支店長の竹川荘郎まさおがいつも八時には出勤することを知っている。

「お早うございます」

 レクサスのドアが開くのと颯太が携帯をパタンと閉じるのは一緒だった。

「やあお早う。おお、君か。どうだ、壁蝨だに共への支払は一段落したのか?」

「はい、当初見込みより更に百万ほど増えてしまいましたが一応終わりましたが・・・・・・」

「が?」

「はい。実はその件で支店長にお断りしておきたいことがありまして・・・・・・」

「・・・・・・ありまして、俺を待ち伏せしてたか?」

 あまりのお見通しに颯太は赤くなった。

「あはゝゝゝ。大塚や木橋には聞かせるわけにはいかない話があるんだろう。いいから来いよ。支店長室で聞こう」

「はい、ありがとうございます」

 颯太はこういう展開を期待して待っていたにも拘わらずいざその場面になったらどぎまぎした。入社六年目の社員にとって常務は雲の上の存在である。颯太も役員と差しで話したことなどもちろんない。颯太は昨夜この待ち伏せを決めて以来緊張しっぱなしなのに、支店長の竹川は面白がっているばかりである。

 支店長の後について役員フロア直行のエレベーターに乗り込んだ。最上階、二十五階のエレベーターホールで竹川を出迎えた秘書は、竹川の後ろから首一つ大きい若者が下りてきたのを見て驚いた。時々支店の中で見かけるから、社員であることは分かるが名前も知らない若者である。

「お早う。麦茶かなんか冷たいものを二杯頼む。身体がでかいんだからでかいグラスでくれよ」

 竹川は目を白黒させている秘書にそう言うと支店長室に入った。


「さあ、部課長に聞かせるわけにはいかない話ってのを聞かせろよ」

 竹川は脱いだ上着を支店長席の後ろのハンガーに掛けながら言った。

「はい。僕は今度の事件では初めから何か腑に落ちないものを感じてるんです。大体、今年の二月の車両入れ替えからして、普通の車両入れ替えにしては新旧車両の格差が大きすぎるんです。その上、前車は無事故割引三十%適用なのに、新車になった途端に続け様に飲酒運転をしてるんです。まあ、本店に言わせれば、今度のは飲酒運転じゃないそうですが・・・・・・。ちょっと話は飛びますが、僕の一年先輩で吉野翔子さんっていう総合職の女性がいまして、その人が今はつらつ生命に出向してるんです」

 颯太は、はつらつ生命が、昨年、金融庁からの圧力に屈して引き受けた二十億円の高額生保があったこと。その契約者の宇田哲哉という男が僅か三カ月で工事中のマンションから転落死していることを話した。

「その時も、どうも金融庁は官邸からの指示で動いたみたいなんですよ」

「何? それも矢部絡みの話なのか?」

「はい、その生保事件と、こんどの事件とはバックグラウンドが相当重なるんです。その上、なんとその生保契約者の宇田哲哉という男が半井靖士と従兄弟同士だってことが分かったんです」

「ほう。よくそんなことを突き止めたな。どうしてそんなことが分かったんだい?」

「はい。これです」

 颯太は支店長の前に前々週の週刊未来を開いて置いた。

「うん、この記事が何か関係あるのかね? おっ、これは清塚が絡んでる詐欺事件の話か!」

「はい、そうです。清塚は辞める直前、僕の上司だったんです。それで興味あってこの雑誌を見たんです。そうしたら・・・・・・この写真です。この清塚の後ろに立ってる男が半井靖士と似てるとお思いになりませんか?」

「うん。似てるといえば似てるかなあ。半井なのか?」

「いいえ。結果的には違ったんですが、あまり似てると思ったので、実は、僕はこの記事を見てすぐに週刊未来の編集部に電話して、この男が誰か聞いたんです」

「おお、週刊誌まで追っかけたか?」

 非管理職が会社業務に関係あることでマスコミにコンタクトすることは社内ルールで禁止である。竹川はニヤリとした。

「はい、済みませんでした。ルール違反は承知の上だったんですが、どうしても放って置けなかったんです。そうかといって暴力団や警察まで絡んでこじれている事故の件で週刊誌に問い合わせをしたいなんて言っても、石橋課長が・・・・・・」

 颯太は慌てて言い直そうとしたが遅かった。

「あはゝゝゝ。いいよいいよ。木橋君が裏では石橋と呼ばれているってことぐらいは俺も知ってるよ。若い人達は上手いことを言うね。実際よく見てるよ。そりゃあ石橋に相談したってOK言うはずがないもんな。いいから先を聞かせろよ」

「はあ、そうしましたら、予想どおりではあるんですが、週刊誌の記者から、僕がなんでこの男のことを調べようとしているのか言わないとこの男の正体は教えないと言われちゃいまして、それで半井事件の触りだけ話したんです。そうしましたら、記者が言いますには、この男は慧明塾ってインチキコンサルタントのナンバーツーの宇田哲哉って男で、去年の六月に建設中のビルから転落死してるって言うんです。つまりはつらつ生命が引き受けた二十億生保の男だったんですよ。ですからこの男が半井じゃないことは間違いないんですが、なんと宇田哲哉が転落死した後、遺体を本人と確認したのが宇田の妻と、宇田の従兄弟の妻、半井由美だったことが分かったんです」

「なるほど、それでその宇田哲哉と半井靖士が従兄弟だって分かったんだな?」

「はい、そうです」

「それで、はつらつ生命は払っちゃってるのか?」

「はい。はつらつの損害部は保険金を供託して争おうとしたらしいんですが、川喜多副社長から『警察が事故だって断定したんだからさっさと支払え』と言われて払わざるを得なかったって話なんです」

「ふーん。此方こっちはたかだか数百万円だけど、はつらつは二十億だろう。信じられない奴らだな」

「奴ら」というのは多分はつらつ生命のトップのことだろう。颯太は同感の相槌を打ちたいのを我慢した。竹川は暫く黙って颯太の顔を見ていたが、

「大塚君が君のことを『鉄砲玉みたいに突っ込みがいい』って言ってたけど、確かにそうだな。しかし、遺体確認に妻が行くのは当たり前としても、それにいて行ってやったのが従兄弟の妻っていうのも面白いな。普通、女二人で行く場所じゃないだろう。なんで従兄弟の半井靖士自身が行かなかったんだ? 亭主は従兄弟同士でも嫁同士なんて元は赤の他人だろう」

 と言った。 

「そうですね。言われてみればそのとおりだけど、そこまでは考えませんでした」

「うん、まあ半井がどうしても行けなかったから女房に行かせたってこともあり得るが・・・・・・それで? 半井が宇田という不審死した男の従兄弟だってことまでは分かった」

「はい、それだけだったらあまり不思議もないんですが・・・・・・」

 颯太は、半井靖士と宇田哲哉のバックグラウンドに共通する政治臭、暴力団臭のことを話した。竹川は再び暫く黙って颯太の顔を見た後で言った。 

「川嶋君。つまり君は宇田哲哉は事故死じゃなくて殺されたんで、それに半井が関係してるんじゃないかと疑ってるわけか?」

「はい。全然自信はないんですが、それしか全体を説明する図式が思い浮かばないんです。慧明塾ではトップの光中忠義が急死してわずか一週間ほどでナンバーツーの宇田哲哉が事故死しています。週刊未来では二人とも殺されたんじゃないかと疑っているんです。この二人は矢部事務所に繋がっています。そして使い捨てになった清塚は、なまじっか悪の構図を垣間見かいまみたために関西系暴力団に追い回されたんです。

「そして、矢部事務所に貢いでいたもう一つの企業、メトロコープ系消費者金融のリックに勤めていた半井は宇田の事故死のあと神戸に来て、川崎組の企業舎弟に厄介になっているんです。その半井の妻が宇田の遺体確認に行ってるんですよ。僕には、半井が直接の下手人じゃないにしても宇田殺しに嚙んでいるとしか思えないんです」

「フーム。面白そうな筋書きだがまだ半分だな。それで君はどうしたいんだ?」

「はい。僕は宇田が転落死した時に半井靖士がどこにいたのか知りたいんです。半井は去年の九月に関西ビジネス・サポートに入ったことになっていますが、宇田の事故の時にはまだリックにいたのかどうかを含めて、リック時代の半井靖士を洗ってみたいんです」

「うん、なんで半井本人でなくて内儀かみさんに霊安室に行かせたかだな」

「はいそういうことです。でもそんなことを僕一人でできるはずはないんで、調べようと思ったら、週刊未来と組むしかないんじゃないかと思うんですが、そうすると、結果如何でははつらつ生命の二十億円支払事件や、当社の飲酒運転支払事件も表沙汰になる可能性があるんです」

 竹川は暫く考えてから颯太に尋ねた。

「川嶋君は今の話を僕の他には誰かにしたかね?」

「はあ、はつらつ生命の吉野翔子さんには宇田哲哉のことを尋ねるために半井のことはある程度話していますが、大塚部長や石橋課長には・・・・・・」

 颯太はまた言い違えてしまった。

「それじゃあ石橋達には話してないんだな?」

「はい、済みません。木橋課長にこんな話をしたら卒倒しちゃいます。それにそんなことを調べても、半井の事故を有責処理にするか無責処理にするかということとは関係ないんで、余計なことをお耳に入れるまでもないと思ったんです」

「うん、そうかも知れんな・・・・・・」

 竹川はまた暫く黙って颯太の顔を見ていたが、

「問題はそこなんだよな。今の話には大いに興味があるし、叩けるものなら叩きたいが、それは江戸の敵を長崎で討とうってもんで、今度の事故とは全く関係ないことなんだよな。だから今から半井のバックグラウンドを洗うってことは会社業務とは関係ない話だ。会社業務でないとすると、俺がやっていいの悪いのっていう話じゃない。君が闘うと言うならあくまでも個人として闘うんだな。

「と言うと俺が逃げてるように思われるかも知れないが、逃げてるんじゃなくて、俺も支店長としてじゃなくて個人として君に手伝うってことだ。だから、もし何かおかしなことになった場合には『会社には関係なく個人としてやったことだ』と言って責任を取るつもりでやれってことだ。俺も、君の話を聞いたのに『めろ』と言わなかったことについては俺のレベルで責任を取る」

「分かりました」

「おい、分かったって、『俺は知らん』と言ってるんじゃないからな。支店長としての俺じゃなくて個人としての俺は蚊帳の外にするなよ。俺はこんな面白そうな話からは絶対に下りないからな」

「分かりました。支店長、ありがとうございます」

「馬鹿。支店長じゃないって。竹川個人だって。それで竹川がOKと言うに当たっては条件が二つある。一つは絶対に危険なことはしないこと。さっきの君の話だと、週刊誌は、宇田って男の転落死は事故じゃないって言ってるんだろう? そして君は半井がその殺人に関係してると思ってるんだろう。もしそれが当たってるとすれば、君が調べようとしていることは非常に危険なことだってことだよな。君も俺もあまり君子じゃなさそうだけど、危うきには近寄らないでおこうじゃないか」

「分かりました。充分用心してかかります」

「うん、頼むな。それが一つと、もう一つは進捗しんちょく状況を都度俺に報告すること。会社業務じゃないから石橋君や大塚君の耳には入れなくていいが、俺は蚊帳の外にされるのは好きじゃないからな。それで俺の携帯の番号と個人メールのアドレスを教えとくから、状況に変化があったときや緊急の場合はいつでも連絡してくれ。いいな?」

 颯太は竹川支店長の携帯番号とメールアドレスを自分の携帯にインプットすると感謝一杯、勇気百倍で支店長室を出た。しかし、颯太にはまだどこからどう手を着ければよいか当てはなかった。

                「証拠隠滅」上巻 了


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