夢幻邂逅

歌峰由子

第1話


 正樹には五つ歳の離れた兄がいた。兄の名は玲。正樹と玲は腹違いだった。

 二人の家は代々の商家で、現当主である父親は現在大手流通企業のオーナーだ。その最初の妻、つまり玲の母親は若くして亡くなり、その後妻に入ったのが正樹の母親である。

 兄は、玲は美しい人だった。五歳年上の彼は正樹にとって兄であり、両親の代わりでもあった。仕事に忙殺されて顔もろくに合わせられない父親と、家庭に興味の無い母親の間に生まれ、それでも孤独を感じずにいられたのは玲が居たからだ。

 先妻――玲の母親は線の細い美女だったという。それを受け継ぎ、玲も漆黒に染め上げた正絹のような黒髪、透き通る白磁の肌を持つ、すらりとした四肢の美しい少年だった。正樹の名を呼んで微笑み、頭を撫でてくれた兄の手の少し低めの温度を今でも正樹は良く覚えている。

 正樹は、高校卒業と同時に失踪した玲の行方を三年間追い続けてきた。何の痕跡も無く、何処へ行ったか全く分からない兄を、家は既に亡き者として扱っていた。もともと母親を亡くし後ろ盾もなく、家の中で煙たがられていた玲の行方を本気で探す者などいない。むしろ「誰かが殺したのだろう」と言って探る正樹を止めようとする者までいた。



 そっと正樹は目を開けた。正面には太い木格子。その奥には一段上がって畳の座敷がある。いわゆる座敷牢だ。

 正樹に背を向けて座っていた人影が振り返る。さやり、と長く畳を流れる黒髪がそれに引かれて動いた。

「……まさき、か?」

 信じられない。そんな響きを含ませて、懐かしい声が正樹の名を呼んだ。その背景には、障子戸に切り取られた明るい庭の風景。こんな山奥にあるはずの無い、美しい庭園が、懐かしい日の思い出のように光っている。ひらひらと、いくつも優雅に蝶が舞う。一匹が座敷に入って、輝く鱗粉を正樹の前で散らした。木格子に触れた途端、その蝶が炎に包まれ消える。

 木格子には幾つもの霊符が貼ってあった。玲を閉じ込めるためのものだ。

「兄上……! ようやくお会いできました」

 震える声で焦がれた相手を呼んだ。

「お前、どうやって……」

 恐る恐ると言った風情で、白い練り絹の単衣姿の玲が正樹に近づく。牢の木格子越しに、およそ六年ぶりに正樹と玲は視線を合わせた。正樹は格子の向こうに手を伸ばす。格子に触れれば傷付くという、玲の白く細い手を握った。

「正樹。もう知っているだろう。私は人では……お前と一緒に居て良いモノではないんだよ」

 柳眉を寄せ、切れ長の目を細めて玲が言葉を紡ぐ。優しく、その名に相応しい美しい声だ。いいえ、と正樹は首を振った。

「関係ありません。私は、兄上が居ない世界など」

 正樹の世界は、兄が全てだった。閉鎖的な家の中、幼い正樹を庇い、守り、労わってくれたのは兄だけだった。十五の時に彼を失って後、正樹の世界に色彩などない。

 手首をそっと離し、指を絡め合う。しかし、ぐらりと視界がぶれた。時間だ。

「兄上。また、必ずまた参ります。どうか……」

 そこで正樹の意識は途切れた。



 玲の父親は商家の長男、そして母は、白蛇精だった。

 白蛇は弁財天の使いとされ、家に置けば商売繁盛、財運を約束すると言われる。その蛇を娶り、一気に大企業にのし上がったのが玲の父親だった。だが蛇は情が深く執着心が強い。浮気をする夫を妬心に駆られて取り殺そうとした玲の母親は、父の頼んだ修験者に調伏されてこの世を去った。

 当然、その蛇精への恐怖は玲へも向く。絶対機密とされた母親の死の真相も、知る者は知っている。玲を恐れ、憎んだ後妻――つまり正樹の母親の依頼により、玲の母親を調伏した修験者の手で、玲自身も山奥の牢へと封じられた。それから、六年がたつ。

 一体どうやって方法を見つけ出したのか。

 正樹は毎日のように、生霊の姿でこの牢を訪う。

 こんな真似をしていては、正樹自身の寿命を削る。最初はそう諭し正樹を拒んでいた玲だったが、次第にその姿を心待ちにするようになっていた。

「……いや。本当は最初から嬉しかったんだ……」

 俯き、呟く声は自嘲に満ちている。大切な、大切な弟。大人たちに冷遇され、義母に憎まれ、父に恐れられた玲にとって、純粋無垢に慕ってくる正樹こそが生きる支えそのものだった。玲にとって、正樹は世界の全てだった。――だが、だからこそ、玲はここに封じられることを甘んじて受け入れた。

 このままでは、きっと自分は正樹を殺す。

 そんな確信が玲にはあった。蛇の執着。自分にとって正樹が全てであるように、正樹に自分一人を見ていて欲しい。それは、兄が弟に抱いて良い欲求ではないことくらい、十八歳の玲にも分かることだった。

 この腕の中に正樹を囲い込んで、そこから少しも出したくない。

 その両目をこの手のひらで覆って、耳元で囁き続ける。彼の世界が、自分だけであるように。

 その手を放してしまえば、この手で作った正樹を囲う夜が明けてしまえば、玲の世界は終わる。

 愛おしくて、愛おしくて、殺してしまいたい。

 死んで欲しいのではないのだ。喪ってしまえば全てを失くす。

 ただ、この手で殺すことで全てを手に入れたい。

 その異常な想いを自覚したとき、自分はこの世界に居て良い存在ではないのだと悟った。

「兄上」

 今日も正樹がやって来る。その玲を呼ばわる声音に、正樹もまたこの袋小路のどん詰まりまで来てしまった想いを、共にしてくれているのではないかと期待する。

 隔てる格子。それがあるから出来る邂逅。決して、もう二度と直に触れることは許されない相手。格子の向こうだからこそ。

「正樹……」

 今日もその姿に手を伸ばす。弟の手が玲の頬を、唇を撫ぜた。

「いつか、必ず。必ず私が兄上を解放して差し上げます」

 その必死の言葉にゆるく首を振る。いいや、良いんだよ。

 ――この牢獄の中こそ、私のユートピアだ。


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Twitter フリーワンライ企画(#深夜の真剣文字書き60分一本勝負)参加作。

使用お題:「格子の向こう」「この夜が明けたら」「袋小路」「ユートピア」

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