5

彼と別れて、自分のアパートに戻ると、部屋の前に誰かが立っていた。


私は鞄から鍵を取り出した。「先生、警察を呼びましょうか」

「ご安心を」と、先生はポケットに手を入れたまま、着ていたコートを開く。「このコートの下はちゃんとスーツですよ」


「惜しいですねぇ」

「あのねえ…」

先生はしゅんと肩を落とすようなジェスチャーをした。


「ていうかなんで私の部屋知ってるんですか」私は鍵穴に鍵を突っ込む。


「んもう、在宅医療ですよぉ。マジでドクターストップをかけにきたのです。あと薬届けにね」

「在宅医療って、死語ですよ。お医者さんごっこの間違いでしょ?」

「そっちのほうが死語でしょ」


先生はコートのポケットから二つ折りに畳んだ封筒を取り出す。「はいこれ。朝昼晩、食後一錠ずつ。抗生物質も入ってますからね。忘れず飲んでくださいよ」

薬を受け取り、記載された説明書きを眺めた。「先生ひょっとして、保険証盗み見しました?」

「なんのことかなぁ」


そう言って先生はくるっと背を向けた。「さてさて…あなたに叫ばれる前にとんずらでもしましょうかねぇ。お代は後日いただきますので」


「石神先生」


私は無意識に彼を呼び止めた。先生は「ん?」と振り返る。


「ありがとうございます」


「…いえ。お大事に」


先生はそっと微笑むと、階段を降りて行った。




私は、先生ののんびりとした言動の中にある、残骸のような育ちの良さがとても大好きだ。

それに気づかれまいと何年も奮闘したせいなのか、先生の残した伏線めいた特別な感情を一つも掬っていない。


嫌味や、からかうような態度に隠された、自分の立場が眩むほどの過度なお節介や、眼鏡の奥の本当の表情。


先生が黙って空けてくれたその隣に、自分を預けることに不安を抱いている。

それは、恋愛が怖いからとか、不信感とかどうこうではない。目の前で消えそうなくらい、先生はやさしくてきれいだからだ。




「もうすぐ潰れるんですよねぇ。この病院」

先生は椅子にもたれたまま、伸びをしながら言った。


「えっ」

「よくある話ですよ。ウチみたいな小さな病院とか、独立してるところとか、大きいのに吸収されちゃうんですよ。もう地域に愛されるとか、どうでもいいんですよぉ」

「その後はどうなっちゃうんですか」私は、手にした紙コップを落とさないように両手で包み込んだ。

「夏南さんだって、仕事の依頼がなかったら、どうするんです?」先生は苦笑してコップを傾けた。「それと一緒」


「それは…自分で営業をかけたりとか?」

「営業だけ?」

「だけ?」

「コネとか」

「コネがないから営業するんでしょ。もう帰っていいですか?」

「待って待って待って」


先生はゴホンと咳ばらいをした。

「実は…コネじゃないけれど、知り合いの医師を介して、向こうの病院からお声がかかりましてね。少し場所は遠くなるんですけど」

「ああそう、よかったですね」

「急に返答が適当過ぎません?」

先生は椅子から立ち上がり、壁にかかっていたコルクボードを外した。


「今でもね、よく連絡くれるんです。過去の患者さんから」先生はボードから一枚の写真を剥がして、私に見せた。

「僕らの仕事って、人間の機能が悪くなっていく人と向き合っていくでしょ。でもほとんどの人が悪くなったまま、どこか別の病院に移ったりとか、そのまま悪いまま終わったりして。自分の非力を突きつけられて、その非力も次第になかったことになっていくっていうか」


先生と、その患者らしき中年の女性が、写真の中で笑っている。


「でも中には、良くなった人が、今度は患者じゃなくて、いち人間として僕に会いに来てくれる。医者は元気じゃない人と関わることのほうが多いから。唯一のやりがいですね」


「…そうですか」私はなんて答えればいいのか分からず、コップの中の液体に目線を反らした。


「今度の病院は何やら新しい医療に挑戦するとかなんとかで、僕はそこの歯車に過ぎないようです」と、先生はボードを元の位置に直した。


「歯車なら歯車でいいんじゃないですか」私は顔を上げた。「医者の倫理を脅かすような違法行為を正すチャンスなのでは?」


馬鹿、と私は心の中で自分をこづいた。そんな言葉を欲しいわけじゃない。


「え、僕何か粗相を?」

「薬代をツケ払いにしたり、診察と称して長時間ダラけていたりとか」


素直になれ私。離れないで欲しいとか、お世辞に思われてもいいから。


いつもなら何か軽口を叩くと思ったが、先生はただ眼鏡の奥で上品に微笑んでいるだけだった。

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