後日談前 ②
仰げば、豊かに茂る木々の隙間から落ちた光に触れ、網膜が明滅した。眩むより前に瞼を閉じ、そして開く。やわらかな蒼が視界に映る。緑の葉を透過した光の色だ。その色彩は灰哉の身体に蒼い影となって降り注いでいる。灰哉だけではない。木々も、土も、石段も、すべてが本来の色彩の上に蒼い
木と土の匂いが鼻につく。春の終わりと、夏の前触れのにおいだった。このにおいをこの場所で嗅ぐようになって、もう二年も経つ。
額から垂れる汗が睫に触れて、まばたきで散った。四月の終わりだというのに、まるで一足先に初夏が到来したかのような気候だった。その足早さに、自然、二年前の冬を思い出す。
厭な道だと、二年前から変わらずに思う。
山林を這うように伸びる急勾配の長い石段を登り切れば、人気の寂しい神社の鳥居に辿り着く。
石製の鳥居の根元に苔が
鳥居を潜り、気持ちの悪さが肌を伝うのを堪えながら、拝殿や本社と比べて真新しい小屋―――確か、社務所という建物に向かう。一歩ごと、靴の下で、砂利とも砂ともつかない石粒が音を立てる。
引き戸を開ける。その滑らかさに、一瞬、灰銀色の横顔が脳裏を過った。やろうと思えば何であれ熟す人間だ。建て付けの悪くなった戸の調整くらい、簡単にやってのけただろう。
「来たぞ」
「………」
声を放れば、奥からのそりと巫女装束の少女が顔を出した。
その表情を見て、灰哉は顔を顰めた。
予想も覚悟もしていたが、こうやって目の前に突き付けられるたび、最悪の気分というものを味わわせられる。
どこまでも、趣味が悪い。悪性というものが何かを実感させられる。
「……灰哉君」
その声には、縋るような
「どういうことなの」
「どういうもこういうも」
可能な限り感情を伏せたまま、気怠げに見えるように装って、肩を竦めて見せた。
巫女は―――敷浪紋加は想像通り、灰哉の対応に目を怒らせた。けれど堪えるように閉じる。火に触れたような速度と反応だ。
そのまま数秒ほど俯いたあと、彼女はまっすぐに灰哉の目を見詰めて、努めてなだらかな声を発した。
「なんで電話に出なかったのかって聞いてるの。電源切ってたでしょう、灰哉君」
敷浪の目を見詰め返して、灰哉は溜息を吐きそうになった。
誠実な目だ。そして相手を信じようとしている目だ。無理矢理に何かを信じようとするのではない、光の射した眼差しだった。
その誠実さゆえに、彼女は言葉を尽くし、灰哉を理解しようとしているのだ。そう理解させられる、心を開いた瞳だった。
それは、何処までも無意味な行為だと灰哉は知っている。
知っているから、当然、灰哉の内面は凪いでいく。哀れむことさえ、無意味だった。
「………、仕方が無いだろう。相手に気取られるわけにはいかなかったんだ」
「その相手って誰のこと?」
口調は咎めるように尖っていて、声の平坦さとの軋轢が耳に突く。
「人狼だよ。昨日警察が来たんだろう」
「そう。警察のこと、白雲から聞いたんだね。……ねえ、私、言ったよね。特定したら、きちんと依頼するって。貴方は確かに神使だけど、それ以前にただの学生なんだよ。戦うことを専門としているわけでも、そのための訓練を受けたこともないんだよ」
その声は、一言ごとに、湿り気と震えを帯び、そして増していく。
怒りからではないのは明らかだった。
彼女の表情は、初めから今に至っても、気遣う色だけが滲んでいる。
苦しげでありながら、仕方が無いことだと認めながら、己の咎を抱えながら。その上で、何もできない自分に怒り、呵責に苛まれ、そして灰哉を心配している。
巻き込んだ灰哉をこんな目に遭わせたと、今更に絶望している。
灰哉は不思議だった。彼女は、回数を重ねるごとに声の重みを増している。
その重みの所以を想像することはできる。
時間経過と共に、何もないという事実が敷浪に与えていたのは安堵だったに違いない。巻き込んだ相手に害意が降り掛かることはなく、ならばこのままずっと、自分は安穏とした日常を送り続けられるのではと―――そして昨夜、その夢想は粉々に砕かれた。
積み重なった安堵の分だけ、絶望と失望、綯い交ぜになった負責のような感情を増幅させ、敷波紋加を昂ぶらせている。そしてその昂ぶりは須く自傷に至っている。
その想像は、恐らく、そう的外れではない。だがそれでも矢張り、不思議だった。何故ならば、彼女は覚えていないのだ。だというのに、時折、記憶も重ねているのではと錯覚することさえある。
「……ねえ、灰哉君。あなたは、犯人を……」
どうしたの、という言葉は声にならないまま、彼女は項垂れた。
「殺した」
「―――っ」
だから、淡々と、求められるままに灰哉は答えた。
敷浪が目を見開く。金茶の光彩は水気を帯び、光を散らして揺れた。
「わた、わたし……っ」
「言っとくが、アレは人間じゃあない。警察に駆け込むならお門違いだ。害虫駆除に一々泣き喚くなよ」
今にも泣き崩れそうなさまだった。
崩れてしまいそうなのに。くちびるも、握りしめた指先も真っ白なのに。だというのに。
彼女の目は、未だにまっすぐと灰哉を捉えている。
顎を引く。奥歯を噛んで、口を閉ざす。
「かい、や、くんは……っ、なんとも思わないの?」
口を閉ざす。
「弌色と、あなたたちのお父さんと」
閉ざす。
「
「………」
顎を緩めた。解けたくちびるからは、堪えきれなかった溜息がこぼれ落ちる。それが一体どんな
「お前は―――いや、もういい」
「なにが、もういいの」
「……、本当、毎回毎回」
灰哉の目尻に、少しだけ寂しげな色が滲んだ。
灰哉にとって、彼女のその本質的な変化のなさは煩わしいものだ。同時に、自分が持ち得なかった善性なのだろうと考えさせられ、感傷めいた気分にさせられてしまう。その事実が、尚のこと苛立たしい。
「おい、悪趣味。いい加減にさっさと終わらせろ」
「悪趣味って」
ひどい、という声は、声として成立しなかった。
瞬く。
反転する。
彩色が真っ白に塗り変わって、消え去り―――
何か、今。とても心穏やかではいられない何かがあった、かのような―――その違和感も、呼気がひとつこぼれる前に掻き消えた。
「―――ええ、と」
戸惑いが、声だけではなく表情にまで滲んでいるという自覚がある。取り繕うこともできない、それほどまでに深い困惑だった。
何か、空白じみたものが内側に在る。否、在った。それが何なのかを理解できずに、できないまま掻き消える。だから、残された紋加はただ困惑するしかなくなる。
「……それじゃあ、この話はこれで終わりだな」
灰哉の声に、我に返る。
「え? ……ああ、そう。そうだね。それじゃあ、怪異は街の外に去ったって報告しておくから」
「………」
初の大仕事で緊張の糸が切れたのか、上の空になっていた。
たぶん、そういうことなのだろう。
遅まきながら回転し始めた思考を走らせる。為さなければならないことを確認して、灰哉の表情を窺った。相も変わらずどこか不機嫌そうな顔付きで、ならば彼は何時もと変わりは無いのだろう。
本当に、という疑念もまた、違和感もなく連れ去られた。それはあっという間の出来事で、だから今度は、空虚もそれに伴う戸惑いも生じようがない。
「あ、そう。それと……」
「………」
「灰哉君。今度、弌色に神社の清掃を手伝ってもらおうって……、?」
あれ、と首を傾げる。
その約束は果たして何時交わしたのかを、紋加は思い出すことができなかった。弌色との交流は、紋加にとって掛け替えのない
「今度、喫茶店に行くのか」
なんだっけ、と思う前にくちびるが動く。思考を飛び越えて感情が先走った。
「うん、喫茶店に……駅前にあるお店、紅茶をたくさんの種類、取り扱ってるの。それで、その……」
「俺は行かないぞ」
素早く尖った声に、解っている、という意味を込めて深々と頷いた。ここで同行するなどと発言したならば、紋加は目の前の人物が灰哉でないと断定するしかなくなる。
「うん。来て欲しいとは思ってないから大丈夫。私だって店先で大砲の乱れ打ちなんて暴挙、はしたなくてできないよ。そうじゃなくて、その、ね?」
「………」
はしたない、という単語で、灰哉が顔を歪めた。それを無視して話を続ける。
「弌色と、お土産を買おうと思ってるんだ。私はお母さんに。弌色はお父さんに。それでね、もう一つ必要だと思うんだよね」
「………」
「ね?」
「………」
「ね?」
「………、五百円、日持ちするのなら」
「うん! 家族みんなで食べられるようなアソートにするね。スパイスは大丈夫? 紅茶を使ったお菓子が多いんだけど、癖のないほうが」
「いい、いいから好きに選んでくれ。俺はそういうのは得意じゃないんだ」
「うん。弌色と一緒に選ぶね」
「何であいつの名を……あーもう、だからその微笑ましいって顔はやめてくれ」
とうとう灰哉は顔を覆った。年齢に見合わず、そして弱り切っているのにも関わらず、その仕草は随分と男らしい。
それは、彼がするとさまになっていた。愛らしい顔付きに反して、彼は男らしい仕草がとても似合っている。
紋加は笑った。
ずっと気を張っていて、何時もどこか苦しそうで、紋加や弌色と顔を合わせるたびに寂しさと苛立ちを滲ませる彼が、肩の力を抜いているのが嬉しくて、てらいなく紋加は笑う。
彼女の愛らしい笑声の裏で、真白い蛇もわらっていた。
魔狼と魔弾 各務 杳 @kazami
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