後日談前 ①
藤露市のど真ん中には小高い丘がある。
そこが何という名称で、何という地名に属するのか、弌色は知らない。たぶん、弌色の周囲もあまり知らない。
ただ一様に“屋敷の丘”とだけ呼ばれている。
その通称の通り、丘の頂上には一軒の屋敷が建っている。煉瓦色の外壁をした大きく立派なその屋敷は、手入れの行き届いた広大な庭を抱えている。周囲を覆うのは、花木を利用した生け垣と古めかしくも鈍色を光らせる鉄扉だ。
壮観と讃えて良いそのさまは、初めて弌色がその屋敷を見たとき、拙い知識ながらに西洋の豪邸を連想させたほどだった。
そんな屋敷の周囲には、どころか丘の頂から裾野に至るまで、人工物は屋敷関連以外に一切無く、裾野からは広葉樹の森が年中黒々と広がっているのみだ。
その森には、街と丘を繋ぐ道が一本だけ通っている。
弌色は、週に一度か二度、この道を通っている。舗装されていない土の道で、自分以外の誰かと出会うことはほぼない。その道を通るのは、丘の上に用事のある者だけだからだ。
丘の上の屋敷に会いに行く人を、弌色は数えるほどしか知らない。
―――藤露市には噂話がいくつもある。
真夜中の獣。
幽霊喰らいの男。
朝焼けに現れる硝子の鳥。
山の庵から響く女の笑い声。
岩礁から伸びる真白い手の群れ。
最も古いものでは、丘には何かが住んでいる、という噂話だ。
その何かは、女の幽霊だったり、無理心中をした一家の亡霊、たくさんの妖怪の寄せ集め、はたまた奇妙な声を発する怪鳥だとかで一貫しない。或いは、真っ黒な蛇の影、だなんてことまで囁かれている。
「………」
「弌色、俺に言うことがあるんじゃないのか」
そんな豪奢な外観の屋敷、その一室は、外と同様に手入れが行き届いて立派な造りをしている。家具も調度品も年代物が殆どだが、どれも大切に手入れされているので一様に現役品だ。主人のことを考えれば、見る者が見れば垂涎もの品々なのだろう。弌色には物の価値は解らないが、家具はいずれもが丈夫だし、大概が“曰く”が染み込んでいるので、蓄積した執着だけは確かだろう。
飴色をした床材に敷かれた絨毯は、毛足が長く、座るとふわふわと触れた箇所を柔らかに支える。正座をし続けていても全く辛くない。
「……勝手に行動したからです」
「もっとはっきり、ちゃんと言ってくれないか?」
渋々とした内面を隠しきれない声は、しゃきりと切って捨てられた。
昨日と同じような出だしは、昨日より数段重苦しい空気で、初っぱなから潰されそうになっている。
「注意されたのを無視して犯人に接触しました。考えなしだったと思います、スミマセン」
「そうだな。これも理解していると思うが、あの後始末はお前一人じゃ絶対に無理だ。……まあ、お前なりの考えはあったんだろうが」
榎乃は、弌色の前に仁王立ちしていた。
昨夜のことだ。何時の間に聞き付けたのか、弌色が留守の間に、師匠から家に電話が掛かってきたのだ。そのことを帰宅直後に父親から聞かされた弌色は、すぐさまに電話を掛けた。当然のように事態を把握していた彼女は、弌色に明日の朝自分のところへ来ること、榎乃に対しては自分からも説明すること、父親にはうまく言っておくこと、その三つを告げた。
そして翌日、即ち今日。
重い足取りで来訪した弌色を、屋敷の前で待ち構えていた榎乃が引っ捕らえ、現在に至る。
榎乃の声は終始、どこまでも平静だった。怒鳴りつけることも、上から目線も、辟易とした
「だが俺が一番残念に感じているのは、何の相談もなかったことだ。せめてどうしたいかだけでも言って欲しかったよ」
最後の言葉は寂しげな色を伴ってこぼれ落ちた。
その事実に、弌色の額に冷や汗が滲む。
(激怒している……!)
普段からよく教師としての怒りを買っている分、理解しやすかった。平静を保ち切れていない。これは本気の怒りだ。
「………」
榎乃の言い分は理解できる。
彼が問題視しているのは、弌色が何も彼に相談せず、独断で動き続けているということだ。それも今回ばかりでなく、幾度も相談もせずに行動し、
彼の憤りは道理だ。怒るなとはとても言えないし、縛り上げられないだけまだ温情がある。
それでも、思うところはある。
もう誰にも言えず、誰にも理解されないけれど。譲ってしまえない
(まあ、理解されない以上語ることはないんだから、結局言えることは何もないわけで……。うーん、何時もの
根本を説明できないならば、弁明の余地は持ち得ない―――それが弌色の考えだ。故に、口を噤むしかない。
暗くなりそうな心持ちを、軽口で持ち直す。
「………。はあ。それじゃあ説教は終わりな。今ジョーンさんを呼んでくるから待ってろよ」
「え?」
あっさりと引かれたことに、思わず声を出してしまった。何せ、まだ始まって二分、三分ほどしか経っていない。
「? どうした?」
「いや……、その、もう少し長くなるかと思っていて……、話は終わり、なんですよね?」
「おう、そこの椅子で大人しくしとけよー」
からりと笑って、榎乃は奥の扉へと踵を返した。その笑みの端から彼の意図を感じ取って、あ、と弌色のくちびるが丸を描く。
すぐさまに取り繕ったが、声を聞き取ったらしい榎乃が不思議そうな顔をして振り返った。目尻の輪郭が僅かに崩れたのを自覚する。
「? 他に何かあるのか?」
「あー……。師匠にはゆっくりで大丈夫って伝えてくれると有り難いかなー、と」
「??」
意外そうな顔をしたあと、今度こそ榎乃は扉の向こう側へと去って行った。
重厚な造りの扉が閉じた音、そして足音が短い廊下を渡り終えた音を聞き終えてから、弌色は肩を下ろした。
この後を思えば、榎乃のちくりとした一刺しなどそよ風に思えるような、絶対零度が訪れる心積もりをしなければならない。それが一体何時になるのか、一体どのような制約になり得る課題なのかを考えて、弌色は重苦しい溜息を吐いた。
気遣われて宛がわれた猶予に甘んじて、目を閉じる。
流石に寝入りはしないし、そもそもこの数年、寝落ちたことはおろか長々と眠れた記憶も無い。それでも、目を瞑るだけで蓄積した疲労は充分に和らぐ。
窓の外で風がそよぐ音が聞こえた。
廊下の向こう側で、誰かが会話しているさざ波が届く。音として認識する前に、ぶれて、ほどけて消えた。
◇◇◇
扉を開いて、榎乃は目を細めた。廊下と部屋の光量の差異から、視覚が順応するまでに数秒を要したからだ。
なので最初に知覚したのは、気圧の変化によって榎乃を通り過ぎて廊下へと流れ出た、甘い香りだった。
次いで、窓際に立つ女性の輪郭を、それからその色彩を知覚する。赤みがかった黒髪を揺らして、女性がゆったりと振り返る。その手には白地のポットが握られており、側には繊細な花と蔦が彫刻された木製のテーブルワゴンが置かれていた。
「お疲れ様です、榎乃さん。お茶を煎れたところなのだけれど、ご一緒しません?」
「ありがとう御座います、ジョーンさん」
「ふふ、昨日から働き詰めだもの。そこのソファに座る?」
「いや、椅子でいい……。そのソファに尻が着いた時点で寝る……」
示された上等なソファから距離を取り、固い座面の椅子に腰を下ろす。
テーブルワゴンで運ばれた紅茶からは甘い花のにおいがした。夏を思わせる青いにおいだ。口を付けると、紅茶のぬくみと共に、うすい酸味を纏った紅茶独特の味わいが味蕾を通過する。爽やかな紅茶だ。眠気で引き延ばされた意識を丁度良く刺激する。
「おいしいですね……」
「そろそろ無理が利きにくくなってきてるんじゃない? 徹夜だなんて、身体を壊すわよ」
「骨身に沁みてます。……去年までは平気だったんだけどなあ」
「それが年を取るということなのよ、榎乃くん」
重みがある、という言葉は寸でのところで呑み込んだ。言い掛けたとうい事実に、秋葉は自身が相当に参っているのを自覚する。
「お話は終わったのね」
「ええ。後でジョーンさんからフォローしてやってください。相当参っているようですから。……厭な人間に頭ごなしに怒られたのも応えたでしょうし」
「その様子だと、説明も言い訳もなかったのね」
ジョーンが苦笑をこぼす。
表情に似合わず、声は明朗とした調子だ。その態度に、榎乃のほうこそ苦笑してしまう。
「あいつにとって、俺は信頼できない人間ですから。その上、信用もできない。……本当の意味で何の力添えもできない厭な人間に、何を語ったとしても無意味だと考えていたとしてもおかしくないですよ。……あいつは本当に大人ですよ」
「そんなことないと思うけど」
紅茶でくちびるを湿らせてから、やはり明朗な口調のままにジョーンは続けた。
「あの子、私にも何も言わないもの」
「貴女にもですか?」
意外な事実に、榎乃は瞬いた。
弌色は目の前の女性を何よりも強く信頼している、というのが榎乃の認識だ。
それは二人のやり取りや間合いの取り方、両者の間から発せられる空気から感じ取った事柄だ。弌色はジョーンに心を寄せているし、ジョーンは弌色を慈しんでいる。師弟として、これ以上無いほどに信頼を結んでいるのは、傍目から見ればよく解る。
であるから、彼女に自分の不安を打ち明けるくらいはしているのだと想像していたのだ。
実父さえ、あの少女には遠い存在であるのだから。
「ええ。あの子にとって、何もかもを打ち明けられるのはもうきょうだいくらいしかいないんでしょうね。父親にさえ、何も言えなくなっているようだから」
「昏喰さん、ですか」
声に苦みが交じったのを榎乃は自覚した。
昏喰淑朗。彼に対する複雑な感情を、当初から今に至るまで、榎乃は整理も割り切りもできていない。自覚できずとも、もしかすれば弌色の前でさえ、それが態度に滲んでいるのかもしれなかった。
だからこそ。
なればこそ、弌色は榎乃を信頼に値しないと判断しているのだろう。
「昨日の夕方頃に電話があったの、警察が自分のところにやってきたって。彼、
「………」
「昔からのことだったし、さして気にしていなかったようだけれど。でも、事件が起こってからはだいぶ気を揉んでいたのよ、彼。……警察が来て、すぐに連絡があったわ。子供たちが犯人を捕まえようとするんじゃないかって。やっぱり父親ね」
「………」
「あの子たち、すごく良い子よね。人のために行動できる。特に弌色は守ろうとする意識が強い。今までもそうだったように、今回もそうだった。……分かっているけど、歯痒いね」
その評価は、身内贔屓がやや交じっているものの、正当でもあった。
本人が自覚しているか否か、はたまた肯定するか否かは別として、弌色の行動理念は正に“守る”という一点に尽きる。
住人への仲間意識、土地への縄張り意識。藤露市という街への愛着。
人狼という種に根ざした本能の一端が強く発露した結果なのか。弌色にとって、守るという行動は当然の選択らしかった。恐らく、当人は意識すらしていまい。
学校で見ている限り、弱者と見做せばすぐに庇おうとする。だからか、弌色の姿を思い浮かべようとすれば、問題ごとについつい首を突っ込んでは解決に奔走している姿が自然と浮かんでくる。
その父親である男は、果たしてこの状況をどう捉えているのだろうか。
「………昏喰さんに、犯人について何か言いましたか」
「何も。私のほうも、人狼が犯人だと警察が睨んでいると伝えてくれたから、お礼を述べたくらいね」
「怪しんでませんでしたか、それ」
ジョーンの言葉は、彼に何も伝えていないということの証左、翻って、彼にジョーンは何も知らないと告げているに他ならない。
例え彼が楽観主義者であったとしても、それを鵜呑みにするとは思えない。
榎乃の指摘は、しかして笑顔で否定された。
「全然。びっくりするくらい人に心を預けられる人だもの。嘘だと思っても、それが最善だと判断すれば騙されてくれるくらいお人好し。榎乃君と一緒ね」
あんなことがあったのに、とは言わない。
魔女に目を付けられ、犯され、壊され、この街に閉じ込められることになっても尚、彼は人を信じられる人間だった。
真っ直ぐな賞賛に、榎乃は顔を歪めた。堪りかねての行いに、ジョーンは目を見開く。
「………」
「……、榎乃くん?」
「……この場で言うのもアレかとは思うんですが」
「?」
「俺の初恋は椿さんなんです」
その言葉に、ジョーンの表情が硬直した。
視線が彷徨い、くちびるは言葉を拾い損ねたように震えた。心なしか、褐色の肌も少しばかり血の気が薄い。
数秒ののち、取り繕った表情と声で、彼女は榎乃に向き合った。
「………えっと。………ご、ごめんなさい」
「………結構前にだけど、一回言ったんですけどね。覚えてないですよね。そりゃ他人の恋路なんて興味ないわなぁ……」
再度、ジョーンの表情が凍る。
記憶を漁ろうとし、そして失敗したのだろう。一度顔を伏せて、殊更に明るい声を発した。
「そ、そういえば! 市外で亡くなられていた方の身元は分かったんですか?」
あからさまな方向転換に敢えて乗っかる。榎乃としても、昏喰の話題から脱するのが目的で初恋を話したのだ。何より、話題の中心が事件へと移行するのは、本来の段取り通りでもあった。
やや目を伏せる。
予定通りの打ち合わせとはいえども、気の沈む内容だった。
「……警官でしたよ。少なくとも二週間近く行方不明だったらしいです。恐らく、彼がこの街での最初の被害者だったんでしょうね」
「じゃあ、やっぱりその方が招いたんでしょうか」
疑問に対し、首肯で返す。
発見したのは境界線の際に在る山林の中だった。
小高い地形に放置されていた遺体は、無残そのものだった。獣の蹂躙を受けた肉体は、腐敗の上に動物や昆虫に荒らされていた。例え早期に発見できていたとしても二目と見られない有り様であったのは確実で、人間としての尊厳は何処にも存在していなかった。
発見したときの衝撃は、今も榎乃の肌にまざまざと残っている。
制服の残骸と警察手帳がなければ、身元を調べるのはおろか、人間であるかさえも判別できなかっただろう。
「でしょうね。あと敬語は結構ですから。沁みますから。泣きそうになるんで」
「あっ。いえ、日本語を覚える時に敬語から勉強したから咄嗟に……何でもない、何でもないから話を戻そうか。うん。一昨日見付けた、亡くなられていた男性は警官だった、そして彼が恐らくは招いた人物だった、というのは確定事項と見做していいかしら」
「その方向で裏取りしましょうか。俺のほうから霹玲さんに協力してもらえるよう頼みます」
「ありがとう」
ジョーンの顔がやや生ぬるい表情へと変わる。
霹玲と彼女との関係性が微妙である、というのは榎乃も知るところであったから申し出たのだが、想像以上の反応だった。もしかすると榎乃の想像以上に入り組んでいるのかもしれない。
相手のくちびるが動くのを見取って、傾聴を選ぶ。
「……とはいえ、仕掛けられたものじゃあなく、偶然が重なった結果、という気がするけれど。単なる所感なんだけどね?」
「
竜の直感というだけでも中々の重みだが、彼女の場合は更に結界の要石という魔術要素が絡んでくる。この
榎乃は紅茶に口づけた。やや時間を置いたために、最初よりもやや生ぬるくなっている。
ふ、と思い付きが口を突いた。
前々から気にはしていたが、契約の関係上で強く踏み込めない対象もまた、この事件に絡んでいた。
「今回は、結局神使が対処したんですよね」
「ええ。でも不思議よね。神使が誰か分からないなんて。これが土地神の力なのかしら?」
「見ても忘れる……少なくとも、俺はそうだったようですし。貴女はこの屋敷から出られない以上、出会うことがないでしょうから解りませんが。まあ無理に暴く必要性はないんですが」
「そうね。それはそうと」
そこで一端、言葉が句切られる。軽く伏せられた目には、僅かならず苦悩が滲んでいた。
「明日来る予定の調査員はどうしよう……」
「あー……。取り敢えず、電話で打ち合わせして、弌色の関与は消してもらって……警察が動いてる以上、
「問題は、死体が残ってるかだけど……」
「………幻獣とはいえ、憑依型ですし、たぶん、なんとか……?」
互いに頭を抱えつつ、要点を纏めていく。
急ピッチで話し合われる内容は、しかし突き詰めるほど更に頭を抱える事態に陥った。
結局、
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