第9話 現代は寛大

 これは、俺が消える間際に見た幻想だ。

『なぜあなたは過去ではなく、無に帰ろうとするの』

 あのいつものやかましい声だ。だが、その声色はいつもと違って湿っぽかった。

「それが帰る場所だからだ」

『なにもわからない世界でそんなことを明言できるのはなぜ? 証明してみせてよ!』

 ついにこの時が来てしまった。最初の約束だった。

 この世界において確かなことを証明せよ。

「そんな話もあったな。我が身をもって証明とさせてくれないか」

『いや! あなたは私に見せてくれるって言ったわ、確かなものを!』

 声が潤んでいるのがわかる。

「……わかった。正確性の証明、目の前で行うことを約束しよう」

 約束と、その言葉が出てきた瞬間に声が落ち着く。

『仕切り直しましょう。

 まずは……。そう、この世界のどこが正確なのか教えて』

「たまわった。

 まずは誤解を解いておこう。君は存在値を燃料のようなものだと考えているようだが、それは正確ではない。この世界においてあまりに希少となってしまった存在値が強い力に引き寄せられているのだ」

『同じ言葉を使っていてもわからないものね』

「そこだ。俺と君との間に言葉はない。音として知覚はしているが、我々の伝達手段は思考だ。いつか言っていたな『あなたには依代がないのだから』と」

『こんなに近くにいても正確に伝わらないのね』

「一心同体であっても完全には伝わらないのはなぜか? そこに存在値が伴っていないからだ」

『ふーん、存在値は正確さを担保するものね。わかった、それで?』

「俺は存在池を探し、それを開放すればこの世界が確固たる姿を確立できると考えた。だが、ついさきほどの捜査官とのやり取りで確信した」

『存在池の開放は聞いたわ。でも、それを覆すほどの情報が本当に得られたの?』

「灰の存在だ。これについても君は教えてくれなかった」

『知ってると思ってたんだもの。属性崩壊の産物でしょ。私が生まれた頃にはすでに存在していたわ』

「そのせいか……。まあいい。

 灰は接したものの存在値を奪って無に還す。奪う過程で灰自身も姿を変え見る者を惑わす。世界を覆い尽くした灰は、この世界をひどく不安定なものにした」

『だったら灰をどうにかすればいいじゃない。あなたが消える必要はないはずよ』

「それを話す前にもうひとつ、はっきりさせなければならないことがある。

 単語殺し捜査官はなにがしたかったのか? 意味を殺す灰を、元の世界に戻すためだ」

『灰は別世界から来たの?』

「そこは仮説であって断定はできない。問題は俺が何者であるかだ」

『あなたは私の父さんよ。これだけは絶対、正確にわかる』

「そうだね。君の正体は君の父さんに任せよう……。

 俺は、君に存在値をもらって生まれた過去人で、原材料は灰といったところか。君の表現を借りるならば俺にとって君は母親ということになるな。どこか気恥ずかしさを感じるが、よろしく頼むよ」

『え……。でも、あなたは過去の記憶もある、人格もある。それは私からは生まれないはずよ』

「それはおそらく本物だろう。そうでなければこの結論にたどりつけなかった。

 そうだな……。意識共有にひとつ訪ねよう。君は今何歳だ?」

 声が答えたのは思っていた通りのものだった。

「俺がここに来た年齢と同じだ。おそらく誕生時から数えても同じだろう。君が心の底から助けを求めた結果、同調率の良い同い年の俺が呼び出されたのだろう」

『過去から来たってことは、あなたが消えたら過去のあなたはどうなるの?』

「俺は同調した過去から来た複製人格だ。灰をコピー用紙としたお取り寄せ資料だ。必要ならまた呼び出せばいいし、原本は素知らぬ顔で過去に生きてるだろうさ」

『そんなのわからないじゃない!』

「この世界で確実なことをひとつ挙げておこう。過去も未来も、現在と同じ軸には存在しない。時間軸なんてないのさ。それぞれ並列に存在しているんだ」

『その根拠は?』

「未来人は未来から来れなかったから、あの姿しかとれなかった。移動距離と時間を相殺することで、未来を擬似的に表現したんだ。現在にね」

『灰はなぜ姿を変えるの』

「それはわからないが、少なくとも俺は君を助けるために、だろうね。あと未来人に関しては過去人である俺を支える半存在、あるいは未来を変えたいと望む誰かの意思かもしれない」

『そんな……。灰が人の願いを叶えるなんて』

「捜査官がなぜ取り締まり対象を選別するか、そもそもなぜ捜査などということをするのか。灰を無に還す力があるのならば、無差別でよいのではないだろうか」

『何か意味があるの?』

「彼は単語殺人に名前をつけるのさえ嫌がっていたから、そこに意味を付与することもまた嫌がるだろう。けれど、説明のために言うならば、単語殺しとは生れ出づる意味ある灰たちの争いだ。

 彼は灰を新世界の創造材料だと認めているんだよ」

『だったら、あなただって消える必要はないはずよ。逃げないで、私の約束から』

「俺がこの世界にいられない理由はふたつ。

 ひとつ、俺は無害な灰を一人殺してしまった。いずれわかることだ、死んだ不死者に対する贖罪とさせてもらおう。

 そしてもうひとつ、俺の代わりに俺の存在を確立してくれる人がいる。ついでに君も自分の存在を証明してもらうといい」

『待って! まだ聞きたいことが山ほどあるの!』



 いつからだろう。俺は忘れてしまっていた。娘の存在にこんなに近くにいるのに気づかなかった。

 誰かを勇気づけ、応援してやろうなんて思ったのはいつ以来だろう。

 属性崩壊が起こってから世界は虹色の灰に包まれた。始めはオーロラみたいだなんてのんきなことを言っていた。

 それがどうだろう。今や目を閉じられ、耳を塞がれ、言葉も通じない。知覚が何も役に立たなくなったこの世界で、俺は唯一平常心を保っていられた。

 なぜか知っているような、いつか体験したような。そんな錯覚が俺を襲った。

 かろうじて言葉の通じる身内を励ましたりしたものだ。言葉が通じなくとも身振り手振り、「終わらない悪夢はない」とか「明けない夜はない」なんてことを伝えたつもりだ。

 だが、いつ終わるのかわからない悪夢は更に深度を増していった。

 人々は姿をより醜悪に変え、言葉の通じる者も減っていった。気づいたころには姿さえ見えれば、それだけで奇跡というほどに乖離していった。

 誰も俺の言葉なんか待っていない。

 俺の体も変化してヒトガタの影になってしまった。そのかわり、どこへでもすぐに行けた。

 それも一時の楽しみだった。この世界にはどこまで行っても俺の存在を認めてくれる者がいないのだと証明されてしまったのだから。世界に未来と過去はない。現在のすべてを知れば悪魔の証明さえ可能だった。

 暗闇に身を落とす。誰も見えない世界で、そこだけが自分の姿をはっきりと認識させてくれるから。

 そこへ、光が差した。



 俺は泣きじゃくる少女に声をかけた。俺に残った最後の応援の心だった。

 少女は振り返り、俺の存在を認めると、不機嫌そうにしながら俺についてくるよう指し示した。

 指し示すとともに発した言葉の意味はわからなかったが、時間はまだいくらでもある。これから理解していけばいいのだ。

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未来の未完成世界 しぐ @hayoshite

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