小説教育

穴田丘呼

走るべき青年

  前略


 まず書面にて失礼させていただくことをお許し願いたい。小生のゆき届かぬ対応は、小生の不徳のいたす所とご理解いただきたく存じます。

 さて、本題に入りましょう。この度

、小生に対する、ご厚意は受けかねるものがございます。といいますのも、現在小生の在職しております、カルチャーセンターの方が多忙を極め、小生としては身動きがとれかねる、というわけであります。といってこのまま貴方のご厚意を無駄にするわけにはゆきません。小生の代役としてすいしたい人物が一人いるのです。若輩ではありますが、小生をしのぐ鑑識眼にあふれ、文才においても小生を凌駕するものと信じて疑われません。何分若輩者ですから世に問うべき作品も残してはおりませんが、貴方の主催される選考委員会には適役かと存じます。なお、彼の世の評価には頼りなさを感じられるなら、小生の名を彼の代わりにご使用になっても問題はなかろうかと存じます。


          草々


 ぼくがアトラスマガジン社に入って、2週間目のある朝、ボスはどう思ったかぼくを自室まで来るようにと確かにそうのたまった。ぼくはいつもの原稿を届ける得意の俊足で編集長室へと入っていった。ボスはいつもにあらず、やさしい笑顔をのぞかせ、君にやってもらいたい仕事があるという。ぼくはなんなりとさもあらんことばを発すると、ボスはおもむろに原稿の束をぼくに渡した。ボスはぼくにさっそく信州に向けて飛ぶようにとのご依頼だった。さる文学賞にのわたしの代理として行ってくれという。ぼくはいつもの出足を忘れ、それはあまりにも重責だと、それにぼく以外にもっとふさわしい人が、といいかけたとたん、ボスはぼくのしゃべるのを止めて君が最適であるとそう力説するのだ。そもそも代理人など立てず、自ら行けばいいものをとぼくは思ったけれど、ボスはぼくの質問の先を行って、私は取材旅行に行かねばならんのだといった。なるほどそれなら誰かが行かねばならない。それがぼくであったとしてもなんの不思議があるだろう。

 ぼくはボスにいわれたとおり、アトラスマガジン社を誰にもあわずに飛び出そうとした時、原稿用紙や書類、それに列車の切符の入ったアトラスマガジン社特製の封筒を忘れたのに気がついた。ぼくは急いで引き返し、編集長室に飛び込もうとするのを、まるで猫でもつかむみたいにぼくの襟首をつまんだご婦人がいた。ぼくよりも十や二十上の女性だ。とににかくぼくよりもずっと長い間、アトラスマガジン社に勤めている女性。体全身が耳でできているような女性だったのたが、それを知ったのはずっと先のことだ。

 彼女はぼくの襟首をつかむと、そいつをぎゅっとねじってぼくをまわれ右とやった。ぼくは彼女の表情やら、彼女の発するいとも単純な質問から彼女が何を求めているかいちはやく悟った。

「ぼくは編集長に代理で信州に行くことになったんです」

 それだけで十分だった。ぼくはその後に、重要な書類を忘れて云々といい添えようと努めたが彼女は自分の目的に向かって進んで行った。

 ぼくはノックをするのも忘れ、編集長室に飛び込むと、ひと言いって書類を脇にかかえた。それからまた急いをつけて飛び出したのだが、ボスはごく若いご婦人の手をとって話し込んでいて、ぼくには全く気がつかぬ風だった。全身耳女とはくらべられるものではないが、これまた全身乳牛といった感じの女性で、あの胸で圧殺されることを考えると、襟首をつかまれるくらいなんでもないものだと思わずにはおれなかった。

 ぼくは家に帰って身支度をととのえた。母にはこれこれこういうわけで信州に行くのだというと、酔い止めの薬と腹巻を持って行けといった。ぼくは二十を過ぎた人間は、腹巻も酔い止めもいらないといってことわって、スパゲッティーミートソースを食べてぼくは家を飛び出した。

 ぼくは十一時くらいの白馬行きに乗り込むと、夕方には目的地に着いていた。ぼくはその間に、数編の小説を読み終えた。それからボスの書面通りに駅で電話をした。バスで白樺湖まで行くと迎えの人がぼくを待っていてくれた。ぼくはその後をついてバンガローに向かったのだが、ぼくを呼ぶのに先生といったのには驚いた。それにもうひとつ、バンガローの周りには山羊や羊がノソノソと歩き回り、バンガローの横の小さな小屋には、七面鳥がギャーギャー騒いでいたのにはさすがのぼくもあきれてしまった。

 この辺は夏だというのに肌寒く、腹巻を持ってこなかったぼくはよほどのバカ者か間抜けとしか思われなかった。湖は湖らしい静けさを持っていたけれど、どいつもこいつもぼくにはうっとおしい限りだ。ぼくは夕食を選考委員の面々の顔合わせみたいなのと一緒に終えると、部屋に帰ってさっそく感想文の作成にかかった。ぼくも代理だとはいえ選考委員の一人なのだ。七面鳥は辺りはもう真っ暗だというのに、時々、ギャーギャーとなきやがった。それでもぼくは必死の思いで感想文をまとめ、どれが良いか悪いか決めてしまった。そうしてフカフカのベッドに飛び込もうとしたやさき、木のドアがボコボコとなった。

 ぼくが寝巻き姿でぼんやりしていると、ひときわでかい七面鳥のギャーギャーやるのが聞こえた。それから一人の男がドアから顔をのぞかせた。

「いいかな?」

 とその男はいったので「いいです」とぼくはいった。手にワインのボトルを下げていた。

「どうです、一杯やりませんか」

 その男はそういった。選考委員の男だ。白髪の混じった短髪。テカテカとした赤ら顔。ギョロッとした眼。ぼくより十センチはその男の身長は低いが、ぼくよりも三十年は年が上なのだ。ぼくとその男はワインを飲みながら三十分は何か話をした。その内容はほとんど覚えてないが、何だかもごもごした口調で、この小説は大先生の推薦なのだからね、ということをしきりにいっていたような気がする。もごもご話したわりにはキーキー声で、ああいうのを酒で焼けた声というのだろう。

 ぼくは朝、七面鳥にたたき起こされると、洗面所に行って顔を洗うことにした。鏡を見るとぼくの顔中に赤い斑点のようなものができていて、寝巻きをめくって胸の辺りをのぞいてみるとやはり赤い斑点がいくつもあった。それだけならまだしも、吐き気がひどく、何度もゲーゲーとやって、やっとの思いで顔を水にひたすと、今度は水が氷のように冷たかったので、ぼくはおもわず、七面鳥のようにギャーという悲鳴を上げてしまった。

 ぼくは身づくろいをなんとか終えると、カバンに原稿と感想を書いたのを詰め込んで選考会場へといそいそと向かった。カバンは原稿ではちきれんばかりなので、きっちりしめることもできず腕に抱えて行くことにした。ぼくはタバコをふかし、小さな水の流れを踏み越え、小汚い羊や山羊たちのいる土手ぞいを散歩気分で歩いて行った。するとメエーメエーだのといって羊や山羊たちがぼくの足元に転がり出てきて、まったくぼくを恋している、というのは本当で、ぼくがかがんだら最後、ぼくのカバンから一枚二枚と原稿を食べ始めた。ぼくは初めにはそいつの口から原稿をふんだくったのだが、ちぎれた原稿をしたう心にぼくは打ち勝つことができなかった。ぼくは手に持った原稿を山羊にやった。そいつのうまそうに食っている様子を見ているとなんだかたまらなくなって、ぼくは残らず原稿を山羊どもに食わしてやった。選考会場についた頃には、僕のカバンは空っぽだった。

 ぼくは選考の間じゅう、ただだまって座っていた。ぼくは何もいうことはなかった。選考は満場一致で、夕べの大先生のご信託の作品に決まった。ぼくのいいたいこと全ては、今頃、山羊どものはらわたにある。

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