最終章 故きを温ねて新しきを知る

「大丈夫? まだ匂いしない?」


 理真りまは犬か猫のように、くんくんと自分の体や髪の毛に鼻を寄せる。昨日、私も手伝って二人で髪からつま先まで体中洗いまくったのだ。


「大丈夫だって」

「頭皮も? 自分じゃ匂い嗅げないから、嗅いでみて」

「仕方ないな……」


 私は理真を抱き寄せるようにして髪の毛に顔を埋め、頭皮を嗅ぐ。くんくん。誰かに見られたら、あらぬ誤解を受けそうな格好だ。


「うん。シャンプーの匂いしかしないよ」

「本当に? もっとよく、てっぺんのほうも……」

安堂あんどうさん……おわっ!」


 部屋に入ってきた加藤かとう刑事が私と理真を見て仰け反る。


「あ、加藤さん! ち、違いますよ。これは、理真が臭くないか嗅いでただけで……」

「え? やっぱりまだ臭い?」

「ううん。大丈夫、大丈夫」


 私は突き飛ばすように理真を放した。実はまだ微かにガソリン臭がしたのは内緒だ。


「お、沖庭おきにわの供述通り、庭から次晴つぎはるのものと思われる左腕が掘り起こされました。沖庭の持っていた斧からも次晴の血痕が出たし。なにより本人が全面自供しています。これで送検準備は、ばっちりです」

「そうですか」理真も笑顔になる。「これで、心置きなく帰られるね」


 部屋の隅にまとめた荷物を見る。


「加藤さん、玲奈れいなちゃんと里中さとなかさんは?……」


 私は尋ねた。

 心置きはある。里中の出生の秘密を知った二人のことだ。


「昨夜、二人を集めて可南子かなこさんの口から打ち明けたそうですが、詳しいことは分かりません。個人的な問題ですから……」

「可南子さんは、何か罪に問われるんでしょうか?」

「それはまだ何とも……沖庭のことだけで手一杯なんですよ」

「そうですか……」


 加藤刑事は階下の片付けは終えたと言った。私たちも二階をきれいに片付けた。荷物を手にして部屋を出る。階段を降りきったところで、私はトイレに行くと行って先に加藤刑事と理真を外に出した。トイレのあとに台所に行く。戸棚を開け、沖庭がカレーを作った大鍋を見る。私ってセンチメンタルなのかな。

 理真は探偵だけあってさすがにクールだ。時々、後先考えないで突発的な行動をするときがあるけれど。私は少し時間を空けてから戸棚を閉じ、玄関を出た。

 荷物は全部理真が車に運び入れてくれていた。私が出たあと、加藤刑事が玄関に鍵を掛け、じゃあ行きましょうか、と覆面パトに乗り込む。私もすでに理真がハンドルを握っているR1の助手席へ。ゆっくりと動き出す二台の車。私は思った。トイレ、大きい方だと思われたかな……



 菊柳きくやなぎ家へ立ち寄り最後の挨拶を済ませた。出てきたのは源市げんいちひとりだけだった。可南子や玲奈たちのことは心配いらない、そう言ってはいたが、源市の表情からは深刻な陰が隠せていなかった。同時に源市は次晴が探していたお宝の真相を話してくれた。やはりあれは会社の運転資金としてすでに消えていたのだ。沽券に関わることのため、源市は父である先代社長源太郎げんたろうから固く口止めされていたという。


間多良まだらのことは、沖庭から聞いた……」源市は最後に言った。「あの時、私が本当のことを喋っていたら、警察に山狩りを強行させ間多良を保護していたら、今度の事件は起こらなかったのだな……」


 それについて理真が何か言葉を掛けることはなかった。間多良さんは最後には満足して亡くなったのだと思います。とだけ告げていた。それが理真の本心なのか、源市に対する慰めだったのかは分からない。

 私は、写真で見た、まだ身元不明とされていた第一の死体、間多良の死に顔を思い出した。穏やかな表情だった。



 理真の運転で北陸自動車道を北上する。うっすらと雲がかかる空。ラジオの天気予報では夕方から雨になるだろうという。また米山サービスエリアで昼ご飯食べていこうと計画を口にする理真。ほんと、サービスエリア好きだな。

 ラジオからは、今月のパワーナンバーと称したいち押し曲が流れる。理真はその曲に乗ってハンドルの上で指を叩いたりしているが、私の心はこの空模様同様、晴れなかった。玲奈と里中のことが気になってしょうがないのだ。真実を知らされた二人の驚きようはどんなだったのだろうか。二人はこれから、どんな選択をするのだろう……私はそれを理真に話した。それは二人と可南子さんが考えることだから、外野がいちいち口出しすることじゃない、そんなふうに返された。ふん、相変わらずクールなことで。


「……由宇ゆう


 軽くシートを倒して左手に望む日本海の海原を眺めていた私に、理真が小さく声を掛けてきた。


「何?」振り向くと理真は青い顔をしていた。ただならぬ気配にシートを起こす。「何? まだ何かあるの?」

「……連載原稿の締切、今日だった……」

「……」

「もう絶対延ばしてもらえないよ。由宇、どうしよう……」今にも泣き出しそうな顔になる。

「どうしようったって……」


 ラジオからはパワーナンバーが軽快に響く。ハイトーンな歌手の歌声は、最後まであきらめなければ奇跡はおこるさ、という内容の歌詞を歌っていた。



 急遽、途中のインターチェンジを降りてネット接続環境のある喫茶店を探し、ノートパソコンを抱えて躍り込んだ。お昼ご飯はサービスエリアでなく、ここのサンドイッチを食べることになる。理真が普段、こんなので腹がふくれるか! と、歯牙にも掛けていない、お洒落なサンドイッチを。



「よし、送信、と」


 理真は持ち込んだパソコンで完成させた原稿を編集者にメールで送った。作家、安堂理真の首は阻止限界点ギリギリで何とか繋がった。


「ふー、危なかったね」理真は額の汗を拭く動作をして、「いや、でもさ、もし私が原稿用紙に肉筆で書く派だったらさ、絶対間に合わなかったよ。今書き上げて郵送なんて。電子原稿だからこそ出来た芸当だよ、これは。文明の利器バンザイ」


 理真はサンドイッチをぱくつきながらご満悦だ。結構おいしい、などと言って結局三パックも食べた。その原稿だが、私もサンドイッチを食べながらちらちら見ていたが、かなりの頻度で書いたそばから少し戻って書き直すのを繰り返していたぞ。繰り返しになるが、魂の一筆宣言はどうした。


「また編集の人から言われるよ。先生、事件の捜査してる暇があったら原稿進めて下さい、って」

「まあまあ。でも、この連載、最後の展開が見えたよ」

「本当? いつもみたいに行き当たりばったりじゃないんだ」

「失礼だな君は……」

「というか、この主人公二人は最後死んじゃうんじゃ?」

「それはやめ。定番の悲劇が読みたきゃ、過去の定番作品を読めばいいんだよ。いちいち現代の作家が同じようなものを書く必要はない。新機軸を求めていかなければ」

「大変だね作家って。それだと、時代が進むにつれ、書くものがどんどんなくなっていくよね?」

「そんなことないでしょ。時代は進歩してるのよ。シェイクスピアの話の中にパソコンや携帯電話は出てこないでしょ? 現代の作家には、過去の作家のような誰も手を付けていない広大な平原はもう残されていない。ビルや建物で埋め尽くされた町を縫うようにネタを拾って書いていかないといけないけれど、人類の進歩と共に会得した知恵が、技術がある。それを取り入れていけば、書くものがなくなるなんてことは、ない」

「大きく出たね。で、最後、二人は死なないでどうなるの?」

「それは読んでのお楽しみ」

「何だよ。結局何も考えてないんじゃん……」


 ふふ、と理真は笑ったが、私の心の中にある雲は少し晴れた気がした。理真の連載小説の主人公、光太郎こうたろう百合恵ゆりえは、結ばれる以外の、二人が幸せになる道を探し出すに違いない。


「さあ、帰ろうか」理真は携帯電話で編集者にメールの着信を確認してから、パソコンを閉じて立ち上がった。「高速乗って最初のサービスエリアで何か食べていこう」

「まだ食べるの? ……そうだ、帰ったら私、夕飯にカレー作るよ」

「いいね! じゃあ、サービスエリアはやめよう」

「当然、細切れ肉だね」

「うん、で、タマネギは小さく刻んで、トロトロになるまで炒めてね」

「……わかった!」


 私と理真は喫茶店を出た。

 天気予報は外れだ。陽光に切り裂かれるように雲は小さくなり。青い空が私たちを迎えてくれた。

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