第23章 探偵と犯罪者

 うっすらと雲がかかった空。陽光が降り注ぐでもなければ、ひと雨きそうな表情も見せない、のっぺりとした空の下。木々が乱立する林の奥深く。粗末な小屋の中にひとりの男が立っていた。入り口の扉は開かれたまま。外には男がここまで乗ってきたセダンが停めてある。


 男は静かな表情を浮かべながら小屋の中を見回す。季節外れの石油ストーブ、使い込まれた画材道具など、どれに対しても懐かしそうに目をやる。

 男の視線は古びたイーゼルに立て掛けられたカンバスで止まった。男はそれを長い時間眺めていた。まるで、古い友人と会話をしているような表情で。

 やがて、男は懐から金属製のライターを取り出すと親指で蓋を跳ね上げる。さらに親指を動かす動作をすると先端に小さな炎が灯った。小屋の外にはガソリンの匂いを放つ赤い携行缶が数個、無造作に投げ置かれている。ガソリンの匂いは男の足下に置いてあるバケツに半分ほど残った液体からも、小屋全体からも漂ってくる。男の衣服に見える光沢は生地本来のものではない。何かに濡れたようなその服からも……男は目を閉じ、手にした小さな炎をゆっくりと光沢を放つ背広の裾に近づけ……


沖庭おきにわさん」


 小屋の外からの声に、男、沖庭晋太郎しんたろうは目を見開き動きを止める。小屋の入り口には安堂理真あんどうりまが立っていた。


「……安堂様、どうして……」


 沖庭の言葉には答えないまま、理真は、つかつかと小屋に入ると、


「私が先輩方の事件から何も学んでいないとでも?」沖庭のすぐ隣で立ち止まって、「こんなことじゃないかと思いましたよ……」

「お止めにならないで下さい。どうか……」

「事件の最後、探偵に全てを見抜かれた犯人は、全てが始まった小屋に自らもろとも火を放つ。探偵や警察がそれに気付くも、時すでに遅し。燃え上がる炎をなす術なく見上げる一同。こんな、こんな結末しかなかったんですか……悔しそうに呟く探偵……やめましょう」

「……」

「探偵が犯人に推理を聞かせるのは、追い詰めるためじゃありません、救うためなんです。過去に多くの先輩探偵が、私がさっき言ったような悲しい結末を味わってきました。沖庭さん、かつて間多良まだらさんが左腕を失ったとき、その時に自分は死んだんだと言ったことがあったと教えてくれましたね。じゃあ、沖庭さん、あなたも一度死んだんです。昨夜、私と対決したときに。あなたは隻腕鬼は自分だったと言いました。だったら、その隻腕鬼は昨夜死んだんです」

「安堂様……」


 沖庭は目の前のカンバスに視線を戻し、


「……いえ、やはり駄目です。安堂様、あなたが過去の探偵の無念を繰り返したくないように、私も過去の事件の犯人の気持ちが痛いほど分かります。どうか、お願いです。私の最期のお願いです。離れて下さい。安堂様」

「沖庭さん、次晴つぎはるさんのことはどうなんですか」

「次晴様……」

「遊び歩いているばかりの放蕩息子など死んで当然だと? 両親の、康幸やすゆきさんと俊子としこさんの悲しみようはご覧になりましたよね。あなたが殺したんですよ。間多良さんの秘密と一緒に、その罪も罰も持って行こうというんですか。それはちょっと都合がよすぎるんじゃありませんか?」


 沖庭は黙る。痛いところを突かれたという表情をして。


「康幸様と俊子様には申し訳ないことをしました。償いの気持ちはもちろんあります、ですが……次晴様にはあの世でお詫びを申し上げます。もっとも、私が行くのは地獄で、次晴様とはお会いできないでしょうが」

「地獄も天国もありませんよ。あるのは人の世だけです。人が犯した罪は人の世でしか償えないんです。沖庭さん」


 それを聞いた沖庭は表情を硬くすると、理真に向かって一礼した。考えを改める意思はないという表明に見えた。それを見た理真は肩をすくめると、突然足下にあるバケツを手にして中身を頭から被った。


「安堂様!」


 その行動に完全に虚を突かれたのか沖庭は、さらに理真に背後を取られるのを許してしまった。理真は沖庭に密着し、背中から沖庭の体に両手を回す。


「じゃあ、いいです。推理で犯人を追い詰めて死なせた探偵なんて言われるくらいなら、私もこのまま沖庭さんと運命を共にします。どうぞ」


 しばらく固まっていた沖庭だったが、観念したような表情を浮かべると、震える手でライターの蓋を閉じ炎を完全にかき消した。そして、理真が差し出した手にそれを預ける。理真がそっと沖庭から体を離し、二人はゆっくりと小屋から出てきた。

 それを見た私たちも姿を隠していた草むらから立ち上がり、二人のもとに歩いて行った。


「相変わらず無茶するわね、理真」

「肝を冷やしたぜ。丸柴まるしば刑事が腕を掴まなきゃ、飛びだして行ってたところだった」


 私の隣の丸柴、桑原くわばら両刑事は、やれやれ、という表情で歩く。私たちに気が付いた沖庭は一礼し、振り向いて理真にも一礼する。

 桑原刑事は木の陰に隠していた覆面パトを回してくるため、その場を離れる。理真は沖庭に向かって、


「沖庭さん、最後の謎が解けましたよ」

「最後の、謎?」

里中さとなかさんと玲奈れいなちゃんのアリバイのことです。あの日、あなたが次晴さんを手にかけた日、二人はお忍びでデートをしていたんです。可南子かなこさんに知られることを恐れた二人は申し合わせてアリバイを作った。玲奈ちゃんも、里中さんも、玲奈ちゃんの友達も白状しました。ついでに言えば、第一の、間多良さんだったわけですが、その死体を発見したとき、玲奈ちゃんが真っ先に家に上がったのも、数日前に里中さんと別荘でこっそり会っていたからだそうです。玲奈ちゃんは里中さんから、その時、居間に自分のハンカチを忘れてきたかもしれないと聞いており、それを回収するため、別荘に到着するなり一番に居間へ行ったというわけです」

「そうだったのですか……」

「それと、もうひとつ。これは今朝になってようやく判明したことなのですが……可南子さんが玲奈ちゃんと里中さんの付き合いを認めない理由……」

「本当ですか? その理由が分かったと?」

「……沖庭さん。里中まことさんは、可南子さんと間多良さんの子供なんです」

「何ですって!」


 沖庭は大きく目を見開いた。


「そうなんです。可南子さんが二人の結婚を認めないのも当然です。玲奈ちゃんと里中さんは、異父兄妹なのですから」

「い、一体いつ、お嬢様が里中様をご出産されたと……まさか……」

「ええ。間多良さんの失踪後、海外へ行った、その渡航先で出産したんです、里中さんを」

「なんという……」

「可南子さんは間多良さんの失踪後、妊娠に気付きました。そのまま産んでは父親が間多良さんだと分かってしまう。可南子さんは、間多良さんの左腕を切断したのが源市げんいちさんだと信じていたらしいんです。可南子さんは、間多良さんとの間に出来た子供を使って源市さんに復讐することを考えました」

「復讐……そ、それは……」

「はい。生まれてきた子供を他人に預け、その家の子供として育ててもらい菊柳興産へ入社させる。そして社長の座に就かせる。源市さんがあんな目に遭わせた、と可南子さんは信じていたわけですけど、間多良さんの血を引く人間を社長に就かせる。可南子さんは、もう間多良さんのことは諦めていたといいます。プライドの高い間多良さんが利き腕を失って生きていられるはずはない、ひっそりと命を絶ったと考えていたそうです。間多良さんとの子供を会社の重要ポストに就けるため、自分が助けてやらなければならない。そのためには早い段階で正式に社長夫人となって社内に万全の体制を整えておかねばならない。可南子さんがすぐに光一こういちさんとの結婚を決意したのは、そういった理由があったそうです」


 沖庭は神妙な表情で理真の話を聞いていた。


「ですが」沖庭の心配を察したように理真は、「可南子さんの、光一さん、そして玲奈ちゃんに対する愛情は本物ですよ。最初は可南子さんも、光一さんとの縁談を利用するくらいの気持ちだったのかもしれません。ですが、付き合いを深めるうち、光一さんに心を惹かれていったといいます。間多良さんとのこと、その悲しみも受け入れてくれたといいます。その光一さんとの間にできた子供の玲奈ちゃんも、かわいくないはずがありません。ですが、可南子さんに復讐計画を止める気はありませんでした。自分には夫も子供もいる。決して誰にも打ち明ける気はないけれども、自分の中だけで分かっていればいい。この会社のトップは間多良さんの子供だと」

「それでは、里中様の実家というのは……」

「可南子さんが個人的にお願いしたそうです。里中さんの実家は山形県のホームセンターに務める社員の家です。菊柳きくやなぎ興産から商品を仕入れていて、可南子さんも懇意にしていました。そこの夫婦は子供が出来ない体だと可南子さんが知り、この計画を立て、話を持ちかけたそうです。私と由宇は山形の里中さんの実家に行き、ご両親に問い質しました。頑として否定されてしまいましたけれど」


 理真と山形に行ったときのことを思い出す。誠は絶対にうちの子です、と言い張る里中夫妻。その態度は最後まで覆らなかったが、里中が異父兄妹である玲奈と結婚を考えていると教えた直後には、明らかに戸惑いの表情を見せた。そして、今朝になって理真に電話があったのだ。真実を話す、と。同時に可南子からもすべてを告白された。里中夫妻とじっくり話して決めたのだろう。


「ちなみに、玲奈ちゃんと里中さん同様、可南子さんのあの日のアリバイも不明瞭でした。外で里中夫妻と電話をしていたんです。里中さんと玲奈ちゃんのことについて相談するつもりだったそうです。そんな話、家では出来ませんからね。珍しく自分で車を運転して出たもの、そういう理由です。でも結局二人のことは話せず、世間話に終始してしまったそうです。可南子さんにとっては全くの計算外だったのでしょうね。首尾良く里中さんを会社に入れたはいいが、玲奈ちゃんと恋仲になってしまうなんて」

「玲奈様と里中様は、そのことは……」


 理真は首を横に振り、


「まだです。可南子さんの口から、じきに伝えられるでしょう」

「……そうですか……」沖庭の表情は憑き物が落ちたようになっていた。「里中様が、間多良の息子……」

「さあ、行こうか」


 とっくに車を回してあった桑原刑事が沖庭を促した。沖庭は最後に理真と私に一礼してから、桑原刑事とともに後部座席に乗り込んだ。丸柴刑事は運転席へ乗り込みハンドルを握る。


「沖庭さんの車は私たちが運転していくから」と理真。

「お願いね」


 丸柴刑事の言葉を残して、三人を乗せた覆面パトは狭い道を抜け、木々の間に消えていった。


「さて、と」理真は大きく伸びをして、「とりあえず、お風呂入りたい」


 ガソリンで湿った髪をぎゅっと絞る。ぽたぽたと落ちる滴が地面を濡らす。


「それであの高級セダンに乗るの?」


 私はガソリンの匂いをぷんぷんさせた理真の頭からつま先まで見回した。


「だって、しょうがないじゃん。沖庭さんだって覆面に乗ったよ」

「あれは警察車両だから……歩いて帰れば?」

「何だとこのやろう」

「後先考えずに行動起こすから……そうだ、せめて服は脱いでここに捨てて裸で乗れば? 少しはシートの汚れも抑えられる」

「変態か。やってもいいけど、じゃあ公平を期すため由宇も裸になって車運転してよ」

「それこそ変態じゃねーか! 何で私まで脱ぐ必要がある!」


 結局理真は堂々と助手席に乗り込み、私の運転で別荘まで帰り着いた。もちろん服は着たままで。

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