第22章 隻腕鬼
「騙し討ちのような真似をしてすみませんでした
「……そうだったんですか。してやられましたな」
「こんな罠を張ったのは、沖庭さん、あなたが犯人だという確実な証拠がなかったのと、もうひとつは、あなたにお願いがあるからです。沖庭さん……自首して下さい」
「そう来ると思ってましたよ。いつから私が犯人だと?」
「間多良の骨がすり替えられたことが分かったときに、もしかしてとは思いましたが、決め手は最後になってでした。私たちは
「復元……そんなことが出来るのですか?」
「はい、機械に明るくない沖庭さんには分からなかったでしょうけれど、ああいった機械は小さなデータカードに使用記録が残されるので、それさえ無事なら他の機械を使って容易にデータの復元が出来るんです。私もそこまで詳しくはなかったんですけど」
「そうなんですか……では、もうご覧になられたのですね」
「はい、次晴さんのカーナビに最後に地点登録された場所。かなり林の奥でしたね。私たちも未踏の場所でした。隻腕鬼、いや、間多良
「……」
沖庭は無言で唇を噛みしめる。
「そして、あなたが次晴さんの車を壊した目的がそれだった。あなたはカーナビに登録されていた間多良の住処を知られたくなかった。次晴さんがそこを発見してカーナビに登録したのを知ったんですね。機械に詳しくないあなたはカーナビの地点登録を消去する方法が分からなかった。だからカーナビ自体を壊した。ですが、カーナビだけを壊したのでは、そこに何か犯人が知られたくない情報があると勘ぐられてしまいます。だから、あなたは車全体を壊すことでカーナビの破壊という目的を悟られまいとした。わざわざ車と次晴さんの死体を動かしたのは、少しでも
「そうです……」
「あなたは次晴さんが宝探しで林に入るのを忌々しく見ていたんですね。お宝はともかく、間多良の住処を発見されてしまうのではないかと。あの日、私と
「……あの日、喫茶店で
沖庭は一旦言葉を切ったが、意を決したように続ける。
「次晴様は、間多良の住処にあった絵に意見しました。『あんな下手くそで汚い絵』と。『あれで画家になれるわけないだろ』とも口にして笑いました。間多良があれをどんな思いで描き上げたかも知らないで、あの放蕩息子……それを聞いたら私の中で何かが弾けました。そしてそれは、間多良の秘密を守るためという理由、いや、言い訳で次に私の行動を起こさせました。次晴様を殺すしかないと……近くに落ちていた石を抱え上げ、次晴様の後ろから……」
次晴は後頭部を三回殴られていたと聞いた。
「気が付いたら次晴様は倒れていました。もう後戻りできない。こうなったら、次晴様も、次晴様も……」
「隻腕鬼が殺したように見せかけるしかない。そう思ったんですね」
息が詰まったように言いあぐねていた沖庭の言葉を理真が継ぐと、沖庭は震えるように首を縦に振った。
「次晴さんの左腕の切断に使った斧は、コートやかつらなどの一連の隻腕鬼変装セットと一緒に車のトランクに常備していた」
理真は沖庭が取り落とし、畳の上に転がったままの斧に目をやった。これが次晴の腕を切断し、車を壊した凶器。
「そして」理真は続ける。「次晴さんの車に死体を乗せて林道を下り、脇道に入り車を破壊して死体を転がし、歩いて別荘まで戻った。途中、浮浪者の二人が町へ降りてくるのが見えましたね。あなたは向こうに気付かれるより早く林の中に身を隠しやりすごした。殺害現場へ戻ると、殺害に使用した凶器と腕切断の台に使った木は林の中に捨てましたが、次晴さんの左腕だけは放置していくわけにはいかなかった。第一の死体の状況と合わせるためですね。第一の死体の左腕は発見されていない。次晴さんの死体も同じ状況にする必要があった。カムフラージュのため。第一の死体の左腕がみつからないのに、次晴さんの左腕が残されていたら変に思われますからね」
「……全て、お分かりなのですね……」
「……証拠があるわけではありません。私の推理を交えるしかないのですが。間多良の手術を執刀した医師に話を聞いて、もしかしてと思いました。第一の死体、左腕を切断されていた死体。あの死体は、間多良春頼ですね」
沖庭は、がくりと膝を付いた。理真は続ける。
「死体が発見される前日、あなたはひとりでこの別荘を訪れていた。定期的に手入れのためここを訪れていると話してくれたことがありましたね。そこで、見つけたんですね。間多良が別荘の庭で死んでいるのを。恐らく自然死だったのでしょう。死因も心不全だそうですから。死体を隠したり処分しなかったのは、そのときは急ぎの用事があったからですか。死体のような大きな物はどんなにうまく隠してもいずれ発見されてしまう。ただでさえこの一帯の林は次晴さんが宝探しで走り回っていますからね。
間多良は、最後に目撃されてから何十年も経っていることに加え、長年の林の中での生活で顔つきはすっかり変わっていたのでしょう。豊かな髭も人相を隠すのに貢献しました。もしも死体の顔を生前の間多良を知る人に見られても、それが間多良であると看破される可能性は低い。かつて愛し合った
沖庭は膝をついたまま黙って聞いている。理真の話は続く。
「あなたが間多良の骨を盗んだ理由もこれと関係します。もし、焼かれた間多良の骨を復元してみたら、間多良が本当に失った腕の長さが分かってしまいます。二つの死体の左腕の切断位置と実際の間多良の左腕切断位置が違うことを誰かが指摘したら、あなたの講じたトリックが看破されてしまうかもしれない。あの日、みんなでここに集まり間多良の骨を確認した日、沖庭さん、あなたは心中穏やかならぬものがあったでしょう。誰かが骨を合わせてみようと言い出すのではないかと。私もそこまでは頭が回らず、それが行われることはなかったのですが。しかし、いずれどうにかして間多良の骨を奪い取らなければならないと考えていた。沖庭さん、そのときは、骨の形状が看破されること、それしか危惧はなかったのですか? DNA鑑定については?」
「……そこまでは思い至りませんでした。私はそういった方面に明るくないのですが、火葬された骨からDNA鑑定が出来るのか、正直疑問に思っておりました。ですが今夜、安堂様がおっしゃったことを聞いて、何としても間多良の骨を全て回収しなければ、と……安堂様の巧妙な罠に引っかかってしまったというわけです」
理真は小さく頭を下げ、
「実は私も火葬された骨からDNAを取る細胞の抽出は無理と科捜研で初めて知りました。今夜の事も、もし、沖庭さんがそれを知っていたらここには来ないだろうと。博打でした。巧妙なんて言ってもらうようなやり方じゃなかったんです。警察では当然、第一の死体からDNA情報を得ている。火葬された間多良の骨のDNAが鑑定、照合され、第一の死体のものと一致したら、必然その正体が間多良であると分かってしまいます。話を戻しましょう。何とかして間多良の骨を奪う方法はないか。そこへ僥倖が射しました。
思い出す、あの沖庭カレー。絶妙な野菜の味付け、細切れにしてとろとろになるまで炒め上げられたタマネギ、細切れ肉は理真の好みだが、本当においしかった。あの中に、恐ろしい計画を遂行するための睡眠薬という調味料が加えられていたなんて……
「睡眠薬を常備していると、いつか話してくれましたよね。あの日も持ってきていたのですね。カレーを煮込む段になると私と由宇を台所から出して睡眠薬を混ぜた。その後の食事の時、あなたは自分はもう食事を済ませたと言っていましたが、実際には食べていなかった。睡眠薬入りのカレーを食べて自分が寝てしまったら何にもなりませんからね。睡眠薬入りカレーを皆に食べさせた理由、それはもう、間多良の骨を夜中にこっそり奪うためです。骨の入った箱は
そうだ、科捜研まで箱を持っていたのは私だが、重さが違うことは分からなかったにしても、中から音がしたため、その時点ですでに中身がすり替えられていたとは露とも思わなかった。
「さらに、外部からの侵入者の仕業に見せかけるため進入ルートの偽造も忘れませんでした。別荘裏に回り、ガムテープを使ってなるべく音がしないように窓ガラスを割ります。いくら睡眠薬で眠らせているとはいえ、ガラスを割る音は響きますからね。念を入れたのでしょう。ですが実際にそこから侵入することまでは行いませんでしたね。そこまでする必要はないと考えたのか、そのあとに控えた作業のため時間の節約を図ったのでしょうか。賊が侵入したわりには、外から持ち込まれ土や足跡などが屋内に一切残っていませんでした。
その夜、あなたの仕事はそれで終わりませんでした。睡眠薬を飲まされ、皆がぐっすり眠っているこの機に乗じてもうひとつの計略を遂行します。隻腕鬼の扮装をして住宅地に現れ誰かに目撃されるという仕事を。これを行った理由は警察による山狩りを阻止するためです。犯人と目されている隻腕鬼が町中で目撃されたら山狩りは中止、町中の捜索に切り替わることは確実ですからね。警察による山狩りが行われたら間多良の住処が発見されてしまう確率は非常に高いですから。今までは
話は前後しますが、第一の死体発見後、
沖庭は膝を起こし立ち上がった。
「……あいつが、間多良が病院から失踪して一ヶ月ほど経った頃、私は訪れた林の倉に間多良がいるのを見つけたのです。当時はまだあの付近も伐採が行われており木材加工工場もありましたから、頻繁にというほどでもありませんでしたが、定期的に訪れる機会は多かったのです。あいつは倉の壁に背中を預けて眠っていました。髪と髭は伸び放題、ぼろぼろになりすり切れた病院着、左腕を覆った包帯は汚れ、凝固した血がこびり付いていました。ひどい姿でした。驚いた私が声を掛けると、間多良は目を覚まし、私の顔を見ると泣き出しました。
ひとしきり落ち着くと、話してくれました。何が起きたのか。あいつは、間多良は、自分で自分の左腕を切断した。そう告げてきました……左手が思うように動かなくなっていたそうです。お嬢様を始め誰かと会うときは、それと悟られぬよう騙し騙し誤魔化していましたが、それも限界に来たと。医者にも行けなかったそうです。間多良のことは町の人間なら誰だって知っている。菊柳に婿入りするのが決まった男だと名前も顔も知れ渡っている。そんな人間が医者にかかれば話はたちまち広まってしまう。菊柳の婿はもう絵が描けない体だ、と。そんな話が巷間に登るのは耐えられない、絵で身を立てることを夢見ている間多良には。お嬢様や私たちの前では、いつものように変わりなく振る舞いながらも間多良の精神は追い詰められていました。
そんなときです、源市様から呼び出されたのは。休日の工場で源市様は間多良にこう言ったそうです。『お嬢様と一緒になるなら、絵は捨てろ』と。それは、筆を握れないことに絶望していた間多良にとって、とどめを刺されたようなものでした。激高した間多良は源市様にこう言ったそうです。自分の左腕はもう絵を描くことは出来ない、この利き腕はあんたにくれてやる、と……間多良は電動ノコギリを右手に持つと自らの左腕に叩きつけました。源市様は鬼気迫る間多良に臆したのか、一歩も動かなかったそうです」
「それから、源市さんは当時の家であったここ、現在の別荘へ行って救急車を呼んだ」
理真の言葉に沖庭は頷き、続ける。
「私は当然問い質しました。どうして勝手に病院からいなくなったのか、今まで何をしていたのかと。
手術が行われ入院した夜中、間多良は目を覚ましました。間多良には工場で源市様と言い合い逆上した瞬間からの記憶がなかったそうです。そして、体に言いようのない違和感を感じた。それは、自分の左腕が肘のすぐ上からなくなっていたことによるものでした。暗い病室の中、記憶が曖昧だったこともあり、間多良は最初、その違和感の正体が分からなかったと言いました。いや、暗くて何も見えないことを理由に、そんなことはない、と自分に言い聞かせて理性を保っていただけだったのかもしれません。
間多良はベッドを出ると、カーテンからわずかに射す月明かりを頼りに出入り口のドアまで歩きました。病室にはお嬢様が付き添いで眠っていたのですが全く気が付かなかったそうです。病室を出ると、なるべく暗がりを選んで廊下を歩き、とにかく帰ろうと思ったそうです。ドアノブを開ける際や階段を下りる手すり掴む時も、意識して右手ばかり使うようにしたと言います。非常灯などに照らされるときも、決して自分の左側には目をやらないようにしていたとも。間多良はもう思い出していたのでしょう、逆上した自分が何を手にしたか。それをどうしたか……
間多良が自分の体のことを知ったのは突然でした。最後の階段を降りきって廊下の角を曲がったときでした、不意に目の前に誰かが立ちはだかった。その人物は間多良と向かい合っており、右腕がなかったと。間多良が立ち止まると、その男も立ち止まったそうです。お分かりでしょう。鏡でした。間多良が見たのは、病院の廊下の壁に備え付けられた全身が写る大きな鏡だったのです。間多良は悲鳴も上げられないほどの恐怖に駆られて病院を抜け出し、この林まで帰ってきたそうです。今と違い、この辺りには深夜営業の店もなく、夜中ともなれば外を歩く人などいなかった時代です。間多良は誰にもその姿を見られることがなかったのでしょう。
それから間多良は林の倉や小屋を転々とし、小屋に備蓄されていた食料を失敬したり、木の実を口にしたりして生きながらえていました。もう誰にも顔を合わせる気にはならない。かといって死を選ぶ勇気もなかったと言いました。間多良は、小屋に来る作業員らの話を盗み聞きし、お嬢様が海外へ旅だったことを知りました。どうしたらいいのか、考えようとしても考える気持ちの余裕もなく、なるべく人の来なさそうな倉で疲れて眠っていた間多良と、私は再会したのです」
沖庭は大きなため息をつき、顔をひと撫でしてから、
「私は何とかあいつの力になりたいと思った。私は、林にある中でもっとも奥深く、当時からもう使われてはいなかった小屋に間多良を住まわせました。少し歩けば小さい川があります。飲み水の確保と体を洗うのはそこで出来る。私は暇を見ては食料や衣服等を運び込みました。冬には石油ストーブや油を持ち込みました。間多良の部屋から回収した私物も持ち込みましたが、間多良はそれには特に興味を示さなかったようでした。しかし、捨てることもなく最後まで所有し続けていたのは、何かしら過去を懐かしむ気持ちがあったからではないでしょうか。ですが、画材道具だけは別でした。私はそれを間多良に見せたら、また絶望に襲われ突発的に死を選んでしまうのではないかと思い。画材道具だけは間多良に渡すことは出来ませんでした。
私は何度も間多良を説得しました。自分が生きていることを知らせて社会復帰しようと。しかし、間多良は頑として首を縦に振りませんでした。
私はそれとなく、源市様に間多良のことを訊いたことがございます。正確には、あの日、間多良が左腕を切断してしまった日、本当は何があったのかと。源市様は変わらず、あれはただの事故だったの一点張りでしたが、源市様も聞いていたはずです。間多良が絵を描けなくなったということを。源市様は悔いていたように思います。間多良から絵を奪おうとしたことを。知らなかったとはいえ、すでに満足に筆も握れなくなっていた間多良に追い打ちをかけるような残酷なことを言ってしまったことを。源市様なりに、間多良の名誉を守ろうとなさったのかもしれません。絵を描けなくなって逆上し、自分の利き腕を自ら切断した。間多良がそんな狂人のような真似をしたという事実から。
そんな中、お嬢様が帰国なされたのです。それを知らせても間多良の気持ちは変わりませんでした。ですが、少しだけ心境の変化が現れました。あいつは、もう一度絵を描きたいと言ったのです。それも、お嬢様の絵を。
私は画材道具を間多良に返しました。それを見た時の間多良の顔は忘れられません。間多良は右手で絵筆を握るのに苦労しましたが、元々左利きだったことは幸いでした。世の中は右利きの人間に合わせて作られているので、左利きの人間もある程度右手も使って生活せざるを得ません。右利きの人間が左手を使えるようにするのは至難の業ですが、逆はそこまでではない。しかし、日常生活で箸を使って食事が出来るのと、芸術性が求められる絵画を描く作業は同列に語ることは出来ません。拙いながらも間多良が絵画と呼べるものを描けるようになるには、長い時間が必要でした。訓練のため、住処を抜け出て風景を写生することもあったそうです。一度、その姿を誰かに見られたと言って、それからは外で絵を描くことはなくなりました。
やがて、お嬢様は
間多良は、お嬢様に対する個人的な想いはもうなくなったと私に言いました。そのうちに源市様は町に新しい家を建て、ここは別荘として使われるようになりました。玲奈様がお生まれになり、お嬢様とこの別荘の庭で遊ぶ姿など見たこともあったようで、あの子はお嬢様に似て美人に育つ、などと言って相好を崩したものです」
「……じゃあ、やっぱり巷で噂されていた隻腕鬼は……」
沖庭の話をじっと聞いていた理真が言うと、
「はい、間多良がその姿を目撃されたことにより生まれたのでしょう。簡単な家財道具を作ったり、冬に油を節約するため燃やす薪を刈りに斧を持って林を歩くこともありました。その姿に尾ひれが付いて噂が広まったのでしょう。誓って言いますが、間多良が人を襲うなどということは決してありませんでした」
理真は頷いた。
「間多良はよく言っていました。自分はあの日、左腕とともに死んだんだと。今ここにいるのは間多良春頼じゃない、恐ろしい怪人隻腕鬼だ、と言っては笑っていました。隻腕鬼の噂は作業員の会話を盗み聞きして、間多良の耳にも入っていました。そして、自分が生きていることは決して誰にも話さないでほしいと、自分が死んだら死体は人知れず処分して、自分の生きていた証であるこの小屋も燃やしてしまってほしいと言いました。私に恩義を感じていた間多良が、そんなやっかいごとを私に押しつけるとは思えず、私は、間多良は絵を描き終えたら小屋に火を放って自害するつもりなのではないかと考えていました。もちろん、その絵もろとも……
その頃、とみに間多良の体調が悪くなり、まさか医者に診せるわけにもいかず、市販の薬でなんとか持たせているような状態が続きました。私は家の用事が忙しくなり、以前のように頻繁に間多良の住処を訪れることが出来なくなっていました。ですので生活用品の受け渡しなどは、私がひとりでここを訪れる際に間多良もここまで来て受け取る、という方法で行っていました。恐れていたのは、間多良が住処とここを往復している道中、急に体調を崩してしまうことでした。もしそのまま絶命するようなことになったら、その死体を私以外の誰かに発見されたら……それでなくとも、どこかから先代の骨董品の話を耳にした次晴様が林の中をうろつくようになっていたのです。私は十分用心するよう間多良に言いました。
そんなある日、私がここを訪れたあの日……私は発見しました。間多良が庭に倒れているのを。その日は間多良と落ち合う日だったのです。恐らく、先に到着していた間多良は突然体調を崩し……すでに手遅れでした。間多良に息はありませんでした。
恐れていたことが起こってしまいましたが、間多良が道中ではなくここで息を引き取ったというのは僥倖に思いました。しかし、その日私は間多良に物資を渡したらすぐに帰らねばならない予定でした。源市様と同行する、どうしても外せない用事があったためです。私は焦りました。お嬢様と玲奈様が二、三日後にここを訪れるとおっしゃっていたことも思い出しました。間多良の死体を処分する時間などない。せめて、せめて間多良の存在だけでも消し去らなければ……時間がない……そのための手段を思いついたとき、私は飛び上がるほど歓喜しました。私は納屋に斧がしまってあったことを思い出し、それを手に庭に戻りました。先ほど安堂様が推理なさった通りです。私は間多良を一介の名もなき被害者として葬ってしまう計画を立てました。斧を振りかざし人を襲う、恐ろしい隻腕鬼の被害者として。
そして翌日。コート、ズボン、靴、かつら、そして斧をあちこちで揃えました。皮肉なものです。間多良の存在を何とかして隠し通そうとしてきた私が、転じてこの事件の犯人をでっち上げるため隻腕鬼を誰かに目撃させる必要に迫られたのです。
私は、間多良は人を襲ったことなど決してなかったと言いましたが、人を襲う隻腕鬼は確かに存在したのです。間多良の左腕を切断するとき、長い付き合いの友人の遺体を蹂躙するというのに、私は笑っていたように思います。自分の考え出した一手に酔っていたのです。斧を頭上に構え、間多良の僅かに残る左二の腕に狙いを定めて斧を振り下ろした、あのとき。次晴様の後頭部に石を打ち下ろした、あのとき。そして、同じように次晴様の左腕を切断した、あのとき。私は鬼になっていたのです。隻腕鬼は、私でした」
それきり、沖庭は沈黙した。部屋に聞こえるのは、すすり泣きをする私の声だけだった。
「……間多良さんの二の腕と、次晴さんの腕は、どこに?」
ようやく理真が発したその問いに、
「……間多良のものは、帰る途中、川に投げ捨てました。二の腕程度の肉片はそれで始末できると思いましたから。肉は魚が食べ、骨はもう下流まで流されてしまっているでしょう。次晴様の左腕は家の庭仕事の合間に庭の隅に埋めました。消臭のための石灰と一緒に。掘り出せば証拠となるでしょう。車のトランクには隻腕鬼の衣装が一式入っています。私の部屋の押入には、すり替えた間多良の骨があります」
「……沖庭さん」
理真が沖庭へ向かって一歩踏み出しかけたそのとき、沖庭はその場に伏せ、畳に額を付けた。
「安堂様、江嶋様、どうかお願いです。あと一日、あと一日私に時間を下さい。明日、いや、もう日付が変わっていますから、本日の昼までに、必ず私は警察に出頭いたします。約束します。必ず。ですから、どうか、時間を下さい……どうか……」
沖庭は泣いていた。顔は伏せられて、涙声にもなっていなかったが、その手、その肩、その背中が泣いていた。
「……行こう、由宇」
理真は開け放たれたままの引き戸へ向かった。
「理真……」
私は少し逡巡した後、ゆっくりと理真の背中を追った。
「……ありがとうございます」
沖庭が何度も呟くその声は、理真が階段を降りる足音よりも小さかった。
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