第8話IONシリーズ外伝 『DOMINATION その男、覇王と呼ばれ』

仮面王ザ・マスクの謀殺に協力しろ」と言われた相手は、何と仮面王麾下の参謀長であった。

「君は正気なのか。 聖教機構最大軍閥の王を君のような若造が殺すのを、一体誰が手伝うと、」そこまで言いかけた参謀長ははっとした。

「お前こそ正気なのか。 今や無能王と化した老いぼれの尻ぬぐいをさせられて、それでもお前は参謀長なのか」

目。その男の目は獣のように獰猛に貪欲に光っていたからである。そして、この目を参謀長はかつて見たことがあった。

「……まるでかつての仮面王のような目つきをするのだな」

「かつての? そうだ、もはやかつてだ。 お前はそのかつての亡霊に囚われたままで良いのか。 それでお前は参謀長か。 それにお前は甘んじているのか」

声が出なかった。いや、出せなかった。まるで彼がこの二十歳そこそこの若造に尋問されているようだったのだ。そう、歴戦錬磨の参謀長がこの若造を恐れていた。それほどの、まるで灼熱と冷酷の両極端を同時に併せ持つ覇気をこの若造は放っていた。

「君は、い、一体、」

じわじわと吹き出る冷や汗を必死にこらえて、参謀長がそう訊ねると、

「俺が本当のヴィルヘルム・ヴァレンシュタインだ。 イザーク・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン」


 イザークの出自は世界勢力の一つ、聖教機構の中でも屈指に由緒正しかった。

母親は高位聖職者を何人も輩出したツァレンコ家に次ぐ聖職者の名門家系、キルヒシュラーガー家の一人娘ユスティニア、父親は軍人の中で知らぬ者はいない名家ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン家の当主で、しかも仮面王と謳われる狡猾な軍人であった。

だが、この二人は、ほぼ家柄で決まった結婚で、しかも同衾した回数が片手の指で計上できるほど険悪な仲であった。不仲極まりないこの仮面夫婦はイザークが生まれたと同時に決裂し、仮面王は外に妾を作ってそちらにのめり込んだ。

イザークに異母弟フランツが産まれるまでは、だから単に時間の問題だった。

ここまでなら、良家の恥部としてユスティニアもイザークも耐えられたであろう。

しかしイザークは生まれついて頭脳明晰、5歳の時には真正面から仮面王に食ってかかる度胸もあれば、腕っ節も強いのに意固地な所があって自分より弱い者に手を上げるのを極度に嫌うと言う、やけに大人びていて、可愛げのまるで無い子供であった。

おまけにユスティニアが、不仲な夫に対する腹いせにイザークを溺愛したため、仮面王は自然と、愚かで無邪気だが子供らしく可愛らしいフランツを贔屓するようになっていった。

イザークは気丈で美しい母親と、温厚篤実な母方の一族を愛していた。フランツの誕生を知ってからは、ユスティニアに対して、悪いことは言わない、イザークを連れて戻ってきなさいと離婚を勧める一族であった。

「お前をあんな男に嫁がせて本当に済まなかった」

泣きながら彼の祖父母は言う。

「私達は家柄だけで相手を見てしまった。 本当に大事なのは、相手と連れ添って幸せだと感じられる事なのに。 悪いことは言わない、イザークを連れて戻ってきなさい」

「けれど、小さな子供から父親を奪うなんて……」とユスティニアは黙る。

「不協和音の合奏曲を聞かせて子供を育てるよりは、和音でなくたって良い、真っ直ぐな旋律を聞かせて育てた方がどれほど子供のためになるか」

「僕は大丈夫です」とイザークは口を開いた。「僕はお母さんに付いて行きます。 お母さんが離婚したくなったら、すれば良いんです。 いくら不協和音を聞かされたって、何て事はありません」

「!」

ユスティニアははっとした。この時に彼女の中で離婚する決心が付いた。

 イザークが八歳の時、彼の両親は離婚した。

ユスティニアは実家にイザークを連れて戻った。そして、みるみるうちにイザークがよく笑うようになったのを知って、何故もっと早く離婚しなかったのかと己の愚かさを悔やんだ。彼女は己の見栄と意地で子供を犠牲にしていたのだ。

イザークが妹や弟が欲しいと思うようになったのは、その軍人が母親に好意をこっそりと抱いている事を知ってからであった。名前を、ヴァンズ・ルーグ。元々はキルヒシュラーガー家に出入りしていた商人の次男坊だった。いかにも軍人と言った風情の熊のような大男であったが、意外にも繊細な所があって、詩歌に詳しく、フルートの腕はプロ並みであった。

「ねえ、おじさん。 今日、学校で僕、オルフェウス・キタラについて習ったよ」

それは知らぬ者のいない大詩人であった。古代アテナイで活躍した天才詩人で、酒と詩と花をこよなく愛した。その最期は伝説的に、酔っ払って満開の花木によじ登り、一番美しい花を採ろうとした時に枝が折れたため……と語られている。

「ほう。 『花が散りゆく定めの由縁は』?」

「『その美しきにありや』!」

体格で言えば大熊と子熊ほどの差がある二人は、よくそうやってハイタッチするのだった。

 イザークは母親とヴァンズの恋にも気付いていた。今時珍しいくらいの純愛であった。イザークも強引なところが無いヴァンズが好きだったし、彼の祖父母も誠実で真面目なヴァンズを気に入っていた。

ただしイザークがいる、だから添い遂げるのはイザークがきちんと巣立ってから。

皮肉な事に、イザーク以外の全員はそう思っていたのだが、イザーク本人は『妹か弟が欲しい』と、ちっとも進展しない母親とヴァンズの恋に日々苛立っていた。

「ねえ、おじさん。 おじさんは馬鹿だね」

ある日イザークはついにむくれて、口を尖らせつつ言った。

「何で私が馬鹿なんだい?」

「だって馬鹿なんだもん」

「酷い事を言わないでおくれ。 一体どうしたんだい?」

「きっと素敵な合奏曲になるのに、何で演奏しようとしないの?」

「!」

ヴァンズにもやっと察しが付いた。

「い、いや、それは」

「どうせ僕がいるからとかそんなどうでも良い理由なんでしょ。 僕は妹か弟が欲しいのに」

子供の真っ直ぐな発言に、顔を赤らめるヴァンズ。そう言う男なのである。

「い、いや、ま、まずはだね、お許しをきちんと頂いてから」

「駄目だっておじいさま達が言ったら僕怒るもん。 怒って怒って、暴れてやるもん」

「それは駄目だよ!」

「おじさんの意気地無し!」と、イザークはヴァンズの膝の上で駄々をこねるのだった。


 イザークは一二歳の時、士官学校に一番の成績で入学した。恐ろしいほど優秀な生徒であった。あれが、仮面王の子だ。あれは、確実に次のヴィルヘルム・ヴァレンシュタインだろうな。教官らが密かに噂し合うほど、イザークは強かった。戦争のシミュレーション訓練で、初戦だったと言うのに歴戦錬磨の教官らを悉く撃破したのである。偶然、同じクラスにフランツもいたが、こちらは父親のコネ入学であり、しかも馬鹿みたいに甘やかされて育った所為で意気地も社会性も無く、気に入らないとすぐ癇癪を起こして暴れたため、教官らにとっても鼻つまみ者であった。

否が応でも、クラスメートだって度胸があって癇癪持ちでないイザークの方と親しくなる。特にイザークは、ディノ・トローンとは親友で、良き好敵手であった。イザークの次に優秀な生徒である。

「お前は紛れもなくヴィルヘルム・ヴァレンシュタインだな」

ディノはある日、そう言った。

「僕はそんなのより、お前の好敵手でいたいよ」

「へっ。 お前、ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインと言えば軍人の最高峰だぞ。 なのに、それより俺の好敵手でいたいってか?」

「うん。 だって、次のヴィルヘルム・ヴァレンシュタインは僕じゃないもの。 仮面王が生きている限り、フランツだ」

「あんな豚野郎がヴィルヘルム・ヴァレンシュタインかよ。 ふざけてやがる、世の中」

「僕は構わないよ。 あ、メリッサちゃんのお迎えは良いの?」

「やべ、もうそんな時間か」とディノは鞄を掴んで席を立った。

二人は学校を出て、近隣の小学校へ向かった。

「おにいちゃん!」

校門の内側でつまらなさそうに石ころを靴先でいじっていた少女が、二人を見つけて目を輝かせた。

「あのね、あのね、今日ね!」と嬉しそうに話し出す。

「うん、うん」と何故かイザークの方が笑顔でその話を聞いていて、ディノの方は呆れた顔をしていた。

「くっだらねえ女のお喋りなんかに付き合うなんて俺はゴメンだぜ」

「おにいちゃん!」とメリッサは怒った。

「僕は弟妹が欲しかったから」と、少し寂しそうにイザークは言った。

「じゃあやるよ」とディノはメリッサをイザークに押しつけた。「ほら」

「わーい!」と無邪気に喜んだのはメリッサで、困惑したのはイザークだった。

「お、おい、ディノ!」

「んだよ、妹欲しくないのか?」

「そうじゃなくて!」

「わたし、イザークおにいちゃん大好き! おにいちゃんきらーい!」

「俺だって嫌いだぜ!」

このお互いに連れ子同士の兄妹は仲が悪いのではない。仲が良いからこそこんな下らない喧嘩も出来るのである。

「イザークおにいちゃんやさしいの。 おにいちゃんみたいにいじわるしないの。 わたし、大きくなったらイザークおにいちゃんとけっこんするもんね!」

奇しくもこの言葉は十数年後に成就するが、この時には誰も、言った当人さえまともには信じていなかった。

「勝手にやってろ、ばーかばーか」

「あっかんべーだ!」

「イザーク君!」と鋭く太い声が上がったのはその時であった。彼らの側に車が急ブレーキをかけて止まった。窓が完全に開いて見えたヴァンズの顔はいつもの詩歌が好きなヴァンズの顔では無かった。厳つい軍人の顔をしていた。「一大事だ、乗ってくれ!」

「何だ? 誘拐ならもう少しマシな手を使えよ」とヴァンズの事を知らないディノがけんか腰で目をつり上げて言う。「それとも何だ、一大事とやらは?」

「イザーク君、彼は、」信用できるのか、とヴァンズに問われたイザークは即答した。

「はい、コイツは僕の親友です」

「では端的に。 ……仮面王が差し向けた軍隊により、キルヒシュラーガー一族が皆殺しにされた」とヴァンズは歯を食いしばる。

「「!!?」」

「君の元にも暗殺部隊が来るのは時間の問題だ。 すぐ乗ってくれ!」

「分かりました」

とイザークは車に乗りつつ、血相を変えているディノらに言った。

「僕の事は忘れてくれ。 さもないとお前もメリッサちゃんも危険だ」

「待てよ! 何でそんな、」ディノが呟く。「酷い事が平然と起きるんだよ!」

「全ては仮面王が、聖教機構最大軍閥の王として君臨しているからだ。 残虐な暴力を持つ彼は、絶大な権力も掌握している。 けれどイザーク君のご家族は、ご一族は! 権力よりも敬虔なその信仰心により、聖教機構で敬われていたに過ぎない!」

ヴァンズは、だからこそキルヒシュラーガー家の者を愛していた。だが愛など、暴力と権力の前ではこんなものに過ぎないのだ。踏みつぶされる一輪の花なのだ。

「おっさん、アンタ嘘ついているんだろ、イザークを誘拐するために酷い嘘を、」

ディノはイザークを、車を止めようと、ドアに触れようとした。

「良いかディノ」イザークはその手を掴んで、「僕がいなくなったからって、フランツに喧嘩は売るなよ、絶対にだ。 いつか僕が仮面王を打倒するまで、上手く生き残れよ!」

「い、イザーク!」ディノは悲痛な声を上げた。

「行くぞ!」とヴァンズはアクセルを踏んだ。

「「――イザーク!」」

そして愕然としているディノとメリッサを残して車は猛スピードで去って行った。


 「これから僕はどうなりますか」イザークはそう言ったものの、ついに涙があふれ出した。今朝、行ってきます!と元気よく彼が挨拶をした家族は、そして優しかったキルヒシュラーガー家のみんなはもうどこにもいないのだ。

「貧民街に連れて行く。 出来れば整形手術も受けさせたかったが、もう時間が無い」

ヴァンズは淡々と答えた。彼は己とユスティニアの関係が、周知のものである事をわきまえていた。その彼が、イザークを逃がした上で軍に生きて戻る事は出来ない。

「聖教機構治外法権である貧民街、そこで聖教機構に与せぬ者……マフィアの下っ端になれば良いのですね」

ヴァンズもついに泣きそうになった。この子は強く、勇敢で、賢い子だ。そして、彼の愛した女と同じ高貴さを持っている。ずっと、一緒にいてやりたかった。

「――ああ。 だが何があっても、何をされても忘れないでくれ。 君は、君こそが、ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインになるべき男だと言う事を!」

「……はい」

「今だ!」とヴァンズは車を急停止させた。イザークは車から飛び降りた。

「花に永久はあらず」

「散るが必定と覚悟せよ!」

そうやってお互いに詩歌で別れを告げ、イザークはまっしぐらに貧民街の薄暗い裏路地に飛び込んでいった。その背後で、銃声が一つ、こだました。


 「イザークに逃げられた?」仮面王はその報告を聞くなり歯を剥いた。「誰が逃がした?」

「状況からして、ヴァンズ・ルーグ陸軍少尉であります」参謀は震えながら言った。「貧民街に止めてあった車の中で拳銃自殺しておりました」

「ふん、イザークは貧民街に逃げ込んだのか。 忌々しい。 無差別爆撃が聖教機構勢力圏内で行えないのに何とも腹が立つ」

「は、はっ」

「で、キルヒシュラーガー一族はイザーク以外、皆殺しにしたのだな?」

「はっ、館の使用人も含め、完遂しております」

「ならまあ良いだろう。 お坊ちゃま育ちのイザークが貧民街で生き残れるとも思えん。 良くて餓死だろうな」

そこに、

「パパー!」と肥満体のフランツがやって来た。「イザークを本当に殺してくれたの!?」

「ああ!」と途端に穏やかな雰囲気を仮面王は出して、「ちゃんと処分してやったよ。 これでもうお前を馬鹿にする愚者はいないはずだ」

「ありがとう、パパ!」とフランツは仮面王をハグして、「ボクね、ずっとずっとムカついていたんだ、ボクはちっとも悪くないのに、アイツがいる所為で先生に叱られてさ! でもこれでボク、もう怒られないよ! わーい!」

「はは、可愛いお前のおねだりだもの。 何だってパパは叶えてあげるよ」

たかが息子のおねだりで何十人も人を殺させたのか。その場にいた軍人達は全員震え上がった。これが『仮面王』ウンベルト・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインなのか!

「さ、今日は記念にママと一緒に美味しいご飯を食べようね、フランツ」猫なで声で仮面王は続ける。「学校の先生にも、もうフランツを怒らないようにパパが言っておくからね」

「うわーい、パパ大好き!」


 イザークはまず着ていた服を全て捨て、ゴミ溜めをあさって臭くてぼろ切れのような服の残骸を着た。着る過程で自分の顔も頭も汚した。それから貧民街の廃屋の軒下で膝を抱えてうずくまる。これからどうするべきかを考えていると、

「おい」と剣呑な声がかけられた。「お前はどこのどいつだ?」

イザークが顔を上げると、貧民街にしては妙に身なりの良い男が立っていた。

「家が燃えて無くなっちゃって、お父さんも、お母さんもどこか行っちゃって、僕、」とイザークが涙ながらに嘘を言うと、

「何だ新入りか」男は納得したように頷くと、「お前、寝る場所と食うものと服が欲しいよな? だったら俺の言う事を聞け」

「は、はい!」

「お前の名前は何だ」

「……イ、イヴァン、です」とイザークは答えた。本当はイザーク、いや、ヴァンズ、と言いたかった。

案の定男はマフィアの下っ端だった。貧民街の孤児を消耗品として、麻薬の移送や売買、人殺しの手先に使っていた。

一年経たない内にそこでもイザークはめきめきと頭角を現した。彼にはクソ度胸と腕っ節、決断の早さ、何より『生きる』と言う強い意志があったのだ。

「お前は本当に幸運だ」とマフィアの下っ端はご機嫌で言った。「ドンがお前を気に入ったみたいでな、俺ごと昇進させてくれるとさ」

「おめでとうございます」とイザークはまずそう言った。

「おうよ。 ……しかし何だろうな、お前の側に不用意に近付くと俺まで殺されそうな気分をいつも味わうんだが」

「はい?」

「いや、な、お前の周囲の空気だけ温度が凄まじく違うっつーのか。 焼けるように熱くて、その癖ドライアイスみたいに冷てえんだよ」

「僕はご覧の通りにただの人間ですけれど……」

「……だよな」と下っ端は首をひねるのだった。


 イザークが一七になった年だった。マフィアがヘマをやらかした。聖教機構幹部の一人と癒着していたのが運悪くマスコミに暴露されて、身内の恥に激怒した聖教機構により徹底的に潰されたのだ。

イザークも捕まって、少年刑務所に入れられた。イザークは大人しくしていた。何故なら、これで彼の目的に大きく近づけたからである。

「君は将来何になりたい」

更正プログラムの一環として、カウンセリングを受けている時、イザークはそう聞かれた。好機だ、と彼は思った。

「……俺、悪い事を沢山やった。 人も殺した。 だから、せめて、軍隊に入って戦いたい」

「ほう」とカウンセラーは目を細めた。中々前向きで良い答えだ。そう思った。「君は今何歳だね?」

「一七」

「ではここで一年、真面目にしっかりと暮らしなさい。 生活リズムや言葉遣いを整えるんだ。 体もしっかりと鍛えなさい。 そうして一八になったら、聖教機構だって喜んで君を入隊させてくれるだろう」

「おう」とイザークは殊勝に頷いた。「分かった」


 イザークは一八になって、軍隊に入った。入隊試験や検査項目で非常に優秀だった事、そして本人の希望もあって、聖教機構の軍閥で二番目に大きい軍閥、『悪王』シウ・ウェルキンゲトリクスの空軍に配属された。これはイザークにとって幸運だった。陸海軍を指揮する仮面王の軍閥に入れられたならば、彼は仮面王を恐れてまともに活躍できなかったであろう。

だが、彼はついに満を持して活躍の舞台に躍り出たのだ。

「化物だ」と戦闘機から降りた教官『グリーン・スネーク』が青い顔をして言った。イザークと対戦訓練をした結果である。「この私が、一瞬で背後を取られてロックオンされていた」

彼は教官にこそなったものの、以前は聖教機構空軍最強のエースパイロットとして名を馳せていた。

「いえ、運が良かっただけです」とイザーク『パープル・エッグ』は答えた。

「パープル、戦場ではな、その運さえ味方に付けたヤツが最強と呼ばれるんだよ」

グリーンがそう言った時、同じ教官の『イエロー・バニー』が駆けてきた。

「おい新入り、やるじゃあないか! 今までグリーンを追い詰めたヤツなんていなかったんだぞ!」そう言って豪快に笑い、イザークの背中を叩く。

「……少年刑務所あがりと聞いて馬鹿にして悪かった」グリーンは水を飲みつつ、言った。「お前が敵じゃなくて本当に良かったよ……なあ」

「?」

グリーンの怯えたような声に、イザークはどうしたのだろうと思った。

「どうかされましたか?」

「お前、俺を殺そうとしただろう」

「訓練ですが、実戦に臨む覚悟でやりました」

「どうしたんだグリーン?」イエローも怪訝そうに、「殺るか殺られるかの模擬訓練なんだぜ? 殺る気満々だったお前が何を言ってんだ?」

「いや、な。 熱いような寒いような凄まじい空気にいきなり覆われて、とにかくお前に殺されると思ったんだ」

「はあ」とイザークは答えるしかない。イエローが呆れた声で、

「お前、それは風邪だぞ。 臆病風に吹かれて風邪引いたんだ。 全く」

だが、教官らはほぼ全員がグリーンと同じ体験をする。


 すぐにイザークは砲火入り乱れる前線で活躍した。

宿敵、万魔殿パンテオン。聖教機構と同じ世界勢力の一つで、そして聖教機構とは数百年間、世界戦争を続けている。

イザークは空軍基地から出撃し、必ず任務を完遂しては帰投した。どれほど困難な任務でも完遂した。そのために、破格の、空前絶後の勢いで勲章を貰い、昇進した。

ついに、悪王シウ・ウェルキンゲトリクスがイザークの噂を聞きつけて、視察にやって来た。


「お前、やったな!」と『ホワイト・キャット』が大喜びで食堂にいた同僚イザークの肩を叩く。「これでお前はまた昇進間違いなしだぜ!」

『ブラック・ビー』もわずかに微笑みつつ、「お前が俺達の上に立つなら、こんなに頼もしい事は無いさ」

他の仲間達も、イザークの事を我が事のように喜んでいる。最初はこんな若造の分際でと言う嫉妬や妨害もあったが、イザークに任務内外で助けられ、命を救われる内に、それは尊敬や友情へと変わっていったのだ。

「お前、たまにムチャクチャをやらかすが、そのムチャクチャのおかげで俺は助かった」『オレンジ・ギース』が懐かしそうに、「俺が万魔殿の前線近くで不時着しちまった時とかな!」

「「あれは傑作だったな!」」と仲間は大声で笑った。

「いやもう、あれはもう駄目だと誰もが思ったんだ」

「ああ、何より俺がもう終わりとだと思った」とオレンジが合いの手を入れる。

「だけどこの野郎、嵐のような対空砲火をかいくぐってさ!」

「言い訳が『地上で停止はしていませんから着陸ではありません』だぜ!」

「万魔殿の戦車のすぐ側を戦闘機で歩いてオレンジを拾ってよ! 言い訳がそれだぜ!」

「ありゃ命知らずじゃねえ、自殺行為だっての!」

「上が出撃停止処分一週間!って叫んだのはマジ気の毒だったな!」

「今思い出しても腹がよじれるぜ!」

その時だった。

「何、そんな事があったのかね?」と上品で穏やかな声が響いた。

「「!!!」」

誰もが言葉を失い、食堂の入り口を見た。『軍服を着た紳士』が立っていた。

だがその顔は誰もが知っていた。この顔を知っていない軍人がいるとするならば、それは、性格が余程の愚図か脳天気なのであろう。


『悪王』シウ・ウェルキンゲトリクス。

有能な軍人で、聖教機構軍においては第二に大きな軍閥に君臨している。階級は空軍大臣である。

だが、この男には大変な悪癖があった。

捕虜になった万魔殿兵士に、少しでも容姿が綺麗な者がいた場合、尋問と称して、徹底的になぶり倒すのである。最良で、廃人になるまでは。

だが味方には絶対に手を出さない。それだけはわきまえている。むしろ同好の士を集っては、一緒に愉しむ。ゆえに聖教機構の異端審問弾劾裁判にもかけられる事なく、悪王と恐れられるだけに済んでいる。

「それは大した度胸だ。 是非心ゆくまで話がしてみたい。 来てくれるかね?」

「はっ」とイザークは命令に従い、悪王の一行に後から続いた。仲間の心配そうな視線を背中で感じつつ。

「君についてあらかたの事は知っている」とシウ・ウェルキンゲトリクスはご機嫌で言った。「生まれは孤児、貧民街で育ち、マフィアの下っ端をやっての少年刑務所あがりとは言え、軍隊に入ってからは問題行動と呼べる程のものは全く起こしていない。 いやいや、それどころかこの私に興味を抱かせるほど大活躍しているじゃないか。 先程の軍紀に抵触寸前の問題行動だが、動機は大事な仲間を助けようとしたためだ。 私だったら不問にしている所だ」

「閣下、ありがとうございます」とイザークは丁寧に謝辞を述べた。

「だが」とシウ・ウェルキンゲトリクスはぞっとするような目つきでイザークを睨んだ。「貴様は一体どこの何者だ?」

「自分は、」イザークが疑問に思った時だった。彼は今まで、シウにとって甚大な問題行動など全く起こしていないのだ。何故睨まれるのだろうか?

「その目も、だ」シウが言った。「、のだな」

イザークが何か言おうとする前に、シウが続けて言った。

「この私の気配に気付いた途端、貴様は私を殺そうと思ったな? まあ気配を隠して接近したのはこちらの非だ、だが何だあの気配は。 業火と極寒が同時に襲ってくるようだった。 貴様は人間か?」

「自分はただの人間であります」イザークは答えた。今、下手に物怖じすれば、この男に喉笛を食いちぎられる事は分かっていた。

「おい若造」とシウはイザークに近寄り、その耳元で囁いた。「今まで私に睨まれて怯えなかったのはくらいなものなのだよ」

「……」イザークは、平然として言う。「閣下、いかがされました?」

「気に入った」シウは身を翻した。軽快に笑う声がした。「私の側近の一人に取りたててやろう。 今夜はお仲間達と盛大に別れを惜しみたまえ」


 イザークは昇進した。シウの側近の一人になった。変な側近であった。酷く参謀格の軍人や、それを指揮するシウをもどかしそうに見るのである。

「もっと昇進したいのか」と参謀の一人が呆れて聞いた。返事は、

「そうではないのです、ただ……」

「ただ、何だ?」

「非効率的だと判断しました」

「は?」

「トルトランシア前線南方からは手を引き、その分の戦力をスロキニア前線に投入すべきかと。 現状のままでは、空軍の戦力が非効率的に配分されていると判断しました」

「何を若造が言っている」と完全に呆れて参謀は立ち去った。

だが、作戦会議の時に、ふと思い出すのである。

『非効率的だと判断しました』

参謀は何気なく意見の一つとしてそれをシウに提案した。途端にシウが形相を変えたので、彼はしまったと己の軽率な行動を悔いた。

「……素晴らしい」

現状を把握するまで数秒を要した。だがシウが非常に満足げな、これ以上ない顔をしていたので、参謀はひと安心する。

「実際に試す価値のある作戦だ。 思い切って泥沼より酷いトルトランシアの南方は切り捨て、スロキニアに空軍主力部隊を配置しよう。 こちらの方が総合的に戦果の上がる可能性が大きい」

「ありがとうございます」と彼が完全に安堵した所で冷水が浴びせられる。

「あの若造、案の定好い事を言うじゃないか」

「!」

「私が単に寵愛したいだけで空軍のエースを側近にする訳が無いだろう」

そう言って、シウは青ざめて震えている参謀に言った。

「次の作戦会議にはあの若造も呼ぶように。 良いな?」


 空軍が戦果を一気に上げた事もあり、聖教機構幹部の最高幹部である『一三幹部』の次期候補にシウが挙がった。

「彼は大変に有能な軍人だ、我らと同じ一三幹部にしても良いかと」

一三幹部の一人であるルッチェロ・マスコーが言うと、

「だが彼は、その、が、少々ね……」

の一人、オスロ・シベアが渋い顔をした。

「それでも仮面王よりはマシですわ」と吐き捨てたのは同じく幹部のパルニティア・ラメーである。「聞きまして? あのデブの馬鹿息子に仮面王が何をさせているかを」

「仮面王……彼はキルヒシュラーガー家を滅ぼした頃からおかしくなってしまったな……彼にはもう一人、恐ろしく優秀な息子がいたのに……それ以来行方不明で……」

「いや、狂っているにも程がある。 あのデブの馬鹿息子に軍服が着られるはずが無いのだ」

「そもそも空軍がここまで目立つほどに、あの馬鹿息子に陸海軍が滅茶苦茶にされたのだ! 誰がそのデブを次期候補になどするか!」

「あのデブの馬鹿を次期候補に推薦する仮面王も仮面王だ、耄碌したのか!」

「……皆様、どうぞ冷静に。 取りあえず、次期候補はシウにいたしましょう。 ご異存は?」


 「閣下、いえ猊下、おめでとうございます」と参謀や側近達がシウが登場するなり、いっせいに頭を下げた。シウが聖教機構一三幹部候補となった事は既に有名であった。

「ありがとう、これも皆のおかげだ」シウは穏やかに微笑むと、「どうかこれからも力を貸してくれたまえ」

「「イエス・サー!」」

「では早速だが作戦会議だ。 実は海軍が大失態を犯した。 歴史的大敗北を喫して、あのブラエトリア海上要塞が陥落したのだよ」

ブラエトリア海上要塞。アッテリア海の制海権を聖教機構が握るための最重要拠点である。それゆえ常に超重武装・臨戦状態で防備されていたはずだが……?

「ブラエトリアの総司令官はフランツ」イザークは全身の血液が沸騰しかけたため、奥歯を噛みしめて抑えた。「仮面王のご令息だ。 実に出来たご令息で、敵機動部隊の来襲に腰を抜かし、司令部を連れて真っ先に逃亡したそうだ。 後は司令部がいない所為で……。 その奪還作戦が陸海軍で計画されている。 我々はその支援だ」

「……」イザークは肯いた。

「そうだ」とシウは思い出したように、「この修羅場に済まないが、新入りの紹介だ。 悪いが手短にお願いできるかね?」

「はい」と頷いて入ってきた人影にイザークは驚いた、だが顔にも態度にも出さなかった。

その青年は一礼して、「ディーン・トローンと申します。 ディノとお呼び下さい。 どうぞよろしく」

悪王め。イザークは再会の感動よりも先に、シウへの恨みが募った。

「詳しい経歴などは後で知らせる、まずは彼にもこの修羅場を味わってもらい、『軍隊』を教えよう」


 ディノ・トローン。恨みを脇に置いたイザークは泣きたくなった。彼にしてみれば、奪われた懐かしく恋しい『あの日々』の登場人物の一人である。だが、これも間違いなくシウの策略だ。シウは、確かめた上でイザークを意のままに支配したいのである。イザークが『イザーク・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』であるがゆえに!

「あのう」と作戦会議が終わってから、案の定ディノは話しかけてきた。「すみません、ちょっと」

「何だ?」

「話したい事があるのです」

「端的に頼めるか」

「……イザーク」ディノは懐かしそうに呟いた。「イザーク、だよな?」

「……違う」

全てが露呈した、とイザークは悟った。シウが満足げな顔で二人を見ていた。

「――失礼しました」とディノは下がったが、まだシウに気付いていない。

「君、少し話がしたい。 こちらに来てくれるかね?」とシウがイザークに命令した。


 「やはり」シウの顔は喜悦に歪んでさえいた。「君がイザークだった!」

「……」イザークは無言で、シウの部屋を見渡す。廃人と化した元万魔殿兵士が一匹裸で隅っこに座っている以外は、片付いていて、空軍大臣に相応しい立派な部屋であった。

「士官学校始まって以来の天才と呼ばれた、ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン! ある陸軍少尉が己が命と引き替えに貧民街へ逃がした、と言うのは事実だったのだね。 君が、君こそが、君だけが、あの耄碌した仮面王を殺害しその地位を奪取すべき男なのだよ」

「……クーデターを煽動されますか、悪王」

「軍人としてまともな男ならあのフランツより君の方を選ぶ。 それだけだ」

「……」

「フランツの悪行を知らないから君はそんな顔が出来るのだ。 私だって褒められた趣味では無いが、味方に対しては一度たりとも不当な事はしていない! 作戦会議に女を連れ込み、あの豚すら軽蔑する肥満体で軍服を着、おべっかが使えぬまともな軍人を片っ端から処刑し! それを全て父親は笑顔で看過しているのだ」

「……」

「何故私が詳しく知っているのかと言う顔だね。 空軍への『亡命者』がこの数年、絶えた事が無いからだよ。 そして私がいつも『亡命者』を匿っているがために、仮面王との仲はもはや最悪と言っても過言では無い。 いつ、聖教機構軍内部でクーデターが起きるか、本当に分からぬ状態なのだ」

「……」

「ふふ、君は本当に優秀な軍人だよ」

そこで、シウはイザークを舐めるような視線で見た。

「まあ、今夜はゆっくりあの青年と心ゆくまで話したまえ、特別に暇をやる」


 「イザーク」ディノは本当に嬉しそうにイザークと並んで歩く。「よく生きていたな! 本当に嬉しいぜ!」

「……」イザークの顔は浮かない。「ああ」

「どうした? シウに何か言われたのか?」

「……」

「……そう、か。 でも、今夜だけは飲もうぜ。 メリッサもお前が生きているって知ったら大喜びするさ」

「済まない、お前の家族を巻き込む訳には」

「親父もお袋も事故で、もういないんだ。 メリッサだけだ。 アイツはうるさい女じゃ無いから、大丈夫さ」

「……分かった」

二人は街に出て、セキュリティのしっかりしたマンションに着いた。

「ただいま」とディノはドアを開けて、「おい、お客さんだぞ」

「お帰りなさい、お兄ちゃん! え、誰だれー?」


 綺麗になった。イザークは驚いた。別れた時は幼い少女だった。けれど今は違う。本当に綺麗な『女』になっていた。はっとイザークの顔を見るなり息を呑み、

「中に! 早く入って!」

イザークは前から招かれ、後ろから押されてドアの中に入った。

「尾行は? されていない?」メリッサはリビングに二人が入るなり、訊ねる。

「大丈夫だ」

「ちゃんと『仮面』で化けた?」

「ああ、玄関の前まで化けてきた」

ここでディノはイザークと己の顔にそれぞれ手をやった。

二人の顔が、瞬時に別人の顔になってしまう。

これが魔族であるディノの能力、『仮面マスカレード』であった。魔族とは主に聖教機構や万魔殿で居住している、特殊能力を持った『亜人類』である。昔はともかく、現在では人間との差別もほぼ無く、人権もきちんと法律で保障されている。

「ちゃんと、こうやって、な」

「そっか。 生きていて本当に良かった、イザーク……お兄ちゃん」

「……」イザークは黙っていた。珍しく彼は己の感情を持て余していた。初めてだったのだ。この感情の温度と感触は。

「さ、飯食おうぜ」とディノはキッチンに体の半分以上を突っ込み、「げ! メリッサ、お前またパプリカを!」

「お兄ちゃん、大人になってもまだパプリカが食べられないなんて恥ずかしいじゃない!」

「だからってこんな山盛りにしやがって!」彩り鮮やかな野菜サラダの皿を持ってディノがキッチンから出てくる。「お前はパプリカの幽霊か何かか!」

「はい文句言わないで食べる!」

「肉は?」ディノは諦めない。「肉だ!」

「全くもう! 今日だけだからね!」メリッサはエプロンを着て手を洗うと、手際よく冷蔵庫からハムを出して、薄くスライスし、香ばしくカリカリになるまでフライパンであぶった。

「はい、お酒のおつまみ。 今夜は三人で飲もう!」


 ディノもメリッサも、イザークの『空白期間』については何も聞かなかった。

代わりに、三人は昔の事を話した。

士官学校の敷地で一番高い木から競争で飛び降りて、教官から声の限りに怒鳴られた事。ワガママで臆病な癖に声だけ大きいフランツが大嫌いだった事。魔族の父親が人間の母親と再婚した時の事。メリッサを虐めていたクソガキ連中を二人でぶちのめした時の事。メリッサが初めて作ったお菓子で二人揃って腹を壊した事。ごめんね、あれ小麦粉の消費期限が切れていたの。女の子からお菓子を貰うなんて本当に嬉しくて食べたら凄い味がしたから何事かと思ったよ。コイツ料理上手になるまでテロ飯何度かやらかしたんだぜ!テロ飯?見た目は楽園中身は地獄って料理の事さ。す、凄いな。今はもう違うもん!ちゃんとした料理作っているもん!ま、失敗は誰にでもあるわな。そっか、あれから、もう……。

 ――イザークの頬を涙が伝った。シウに命令されずとも彼は仮面王を殺したくてたまらないのである。あの日、あの時、彼の愛した家族を奪った男への復讐を遂げたいのである。だが、現状の彼に何が出来よう?大した権力も権限も持たぬ青二才が聖教機構最大軍閥の王に何が出来る?力が痛々しいほどに欲しい。仮面王を打破しその上に君臨できる力が欲しい!力なき彼はただのシウの傀儡、それこそあの廃人になった元万魔殿兵士と同等だ。彼は聖教機構の全軍を支配し君臨し覇を唱えなければならない。それが出来て初めて、彼は彼のために自殺したヴァンズが最期に願いを託した『イザーク・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』たり得るのだ!

「イザーク」

彼はディノに抱きしめられ、メリッサにタオルを渡されていた。

「大丈夫だよ、私達はここにいるからね」

……この二人のためにも、

イザークは決断した。

無力な俺に手段を選ぶ権利など無い、ならば今は喜々として雌伏しよう。


 「どうやらその気になってくれたようだね」シウは紳士的に微笑んで言う。

「はい、猊下、どうかお力添えを」

「それは出来ない」シウは有能さを発揮する。「仮面王と私が正面対決すれば、それこそ聖教機構軍は真っ二つだ。 同士討ち、共食いが始まる。 だが……君の存在を大々的に公表する事で話はがらりと変わってくる」

「――」俺は今は傀儡だ。イザークは耐える。

「そう、君は仮面王の手から逃れ、実は私の所へしていた。 まずはこのを聖教機構内に公表する。 仮面王以外の一三幹部はどう思う? 彼らはまず疑うだろう、君の真贋を」

「証拠を……私が戦果を挙げれば良いのですね」

「その通りだ。 君にブラエトリア海上要塞の奪還作戦を一任する。 完遂したまえ」

「承知いたしました」イザークの目が、わずかに光った。


 「化物だ」とシウ麾下の参謀や側近達は全員がぞっとした。あのブラエトリア海上要塞に立てこもった万魔殿軍を制圧し、要塞を奪還するまでたったの四時間。下手をすればこの海上要塞の堅牢さと難攻さゆえに、奪還作戦も長期化するだろうと誰もが危惧していた可能性が四時間で破砕されたのだ。

この、二十歳そこそこの若造に。

一方、仮面王以外の一三幹部は狂喜した。

彼らの懸念と不安材料も同時に吹っ飛んだからである。

何もかも、総指揮を執ったのがこの男だからだ。

正統にヴィルヘルム・ヴァレンシュタインになるべき男、イザークだからだ!

「生きていたのか!」

「これは非常に喜ばしい。 これで、あのデブがヴィルヘルム・ヴァレンシュタインになりえないからだ」

「流石はヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン! この優秀さは世界屈指だ!」

「どうか皆様、イザーク君が次期ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインになれるよう、ご助力をお願い申し上げます」とシウは内心ほくそ笑んで、しかし外面は真摯に訴えた。「ご覧の通りに彼は素晴らしい軍隊指揮官です。 だが彼は非常に苦労を重ねて生きてきました。 私の所へ命からがら逃げてきた時には家族を奪われ、仮面王に怯え、やむを得ず氏素性を隠して……。 しかし、今や彼は立派に成人しました。 『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』に何ら遜色ない事は、皆様にもお分かり頂けたかと」

「シウ君、君も人が悪い」オスロ達は快活に笑って言う。「我々が最初から優秀な事で評判だった彼の味方にならないはずが無いだろうに!」

「まあまあ。 これで全ては大団円だ。 我ら一同、喜んで我先にイザーク君に味方しよう!」

「後の問題は、いかに仮面王を大人しくさせるか、ですわね」

「何、我々一三幹部がだけだ」

「確かに!」


 「パパの嘘つき!」豚よりも太っているフランツは泣きじゃくりながら喚いた。「何でアイツが生きているんだよ!」

「……」仮面王は何も言わない。

「ひどいよ、ひどいよ! またボクはアイツのせいでいじめられるんだ!」

「……」

「ボク、一三幹部の候補にもなれなかったし、何でボクだけこんなに酷い目に遭うの!? パパはボクの味方じゃないの!? いつだって助けてくれるんじゃなかったの!? ボク、もうパパなんか大嫌いだー! あーんあーん!」

「……」仮面王は黙って指を鳴らした。この光景を内心忌々しく見ていた暗殺部隊の隊長が、態度は従順に仮面王の足下に跪いた。

「ご用命は何でしょうか」

「殺せ」

「!」

そんな事をすれば!今度こそ聖教機構軍同士が相討ちしかねないではないか!いや、聖教機構一三幹部からも仮面王が糾弾されかねない!以前キルヒシュラーガー家を滅ぼした時も、相当白い目で見られたのだ。なのに今度の抹殺対象はその生き残りで、ブラエトリア海上要塞をあっと言う間に奪還した稀代の軍人にして時の人、イザーク――今や世間の同情と賞賛を一身に集める青年なのだ!

流石の暗殺部隊の隊長も青ざめる。

「何だ。 私の命令に逆らうのか」

「……い、いえ。 承知、いたしました」

「戦争になっても構わん。 あんなクソガキに誰がヴィルヘルム・ヴァレンシュタインを継がせるものか。 絶対に殺してこい」

もう駄目だ。その場に居合わせた軍人は皆、そう思った。仮面王は老いた。老いただけに止まらず、正常な判断力すら失い、狂った。

もはやここに座しているのは『仮面王』――聖教機構最大軍閥の王ではなく、その仮面を被った、老いぼれ狂人なのだ。


 「ディノ君、少し話がある」と作戦会議の後にシウがディノを呼び止めた。

「はい猊下、何でしょうか」

「ここでは少し話しにくい、こちらへ来てくれるかね」

「はっ」

それでシウの部屋に入ったディノは反射的にぎょっとした。部屋の隅にうずくまる廃人を目の当たりにしたのだ。

「大丈夫だとも」そのディノにシウは温厚な声で囁いた。「私は味方には断じてこのような真似はしない。 知っているだろう?」

「……ッ!」ディノの目つきが鋭くなった。「イザークに何をした?」

剣呑な声に、軽快にシウは笑って、

「――全く君らの友情と来たら命知らずだね。 君が思っているような事は一切していないよ。 繰り返すが私は味方には寛容なのだ。 特にイザーク君は素晴らしい逸材だ。 彼にこのような真似をするなど正気の沙汰ではない、とすら私は思っている」

「……」

「そう、正気の沙汰では無いのだ」シウが一気に凄まじい形相をした。「本題に移ろう。 ――仮面王がイザーク君へ暗殺部隊を放った。 何で私が知っているのか? その暗殺部隊の隊長が私の所へ亡命してきたのだよ。 勿論、可能な限り私は彼を守るつもりだ。 だが、万が一と言う場合もある。 そこで君に頼みたい」

「俺にイザークを庇って身代わりになれ、と?」

「いやいや、そこまでは頼まない。 イザーク君と同じく将来有望な君に友情のために死ねなどと頼むつもりは毛頭無い。 私はそこまで愚図でも残忍でも無いよ。 君にお願いしたいのは、何があろうと彼をこの空軍基地から外へ連れ出すな、と言う事だ。 私の目が届く範囲の外へ出さないようにして欲しいのだ。 さもなくば――いや、君ならば既に分かっているね」

「……了解しました」

「ところで君の家族は……メリッサ、と言う名の妹だけだったか」

「!!!!!」ディノの顔が瞬時に真っ青になった。

「諦めたまえ」シウは残念そうに頭を振った。「私の所に亡命者がやって来た時に判明したのだ、もはや手遅れだ。 だが君の心痛は分からないでもない。 休暇をやろう。 ゆっくり、休みたまえ」


 「何をされた!?」イザークは血相を変えて、シウの部屋からふらふらと亡霊のように出てきたディノの肩を掴んだ。「ディノ、おい、ディノ!」

「何も……されていないんだ。 俺は。 俺は!」そう叫ぶなりディノは頭を抱えて前のめりに倒れ込んだ。ぼたぼたと涙がこぼれた。「――あ、ああ、ああああああああああ!」

痛ましい叫びに、何事かと通路を行き来する軍人達がディノを見つめる。

「……。 ディノ、医療室に行こう」

イザークはディノを半分担ぐようにして彼を医療室へ連れて行った。

「俺の所為だ」鎮静剤を投与されても、ディノはがたがたと震え、うなされつつ何度も言った。「俺の、所為だ」

「……」イザークは場合によってはシウの胸ぐらを掴んで恫喝する覚悟も決めながら、今は親友が起きるのをじっと、カーテンに囲まれたベッドの側で待った。

「……イザーク」数時間後、ディノが目を覚ました。イザークの姿を認めると、苦笑する。「ありがとな」

「大丈夫だ。 何をされた?」

「俺は本当に何もされていないんだ。 なあ」とここでディノは酷く透明な目でイザークを見つめた。「メリッサの事、頼むよ。 なあ、お願いだから、頼むよ」

必死の勢いに押されて、イザークは頷いた。

「あ、ああ。 一体どうしたんだ、ディノ?」

ふっと、ディノは微笑んだ。心底から穏やかで、虚無的に。

「――今まで楽しかったぜ、イザーク。 じゃあな」

次の瞬間、ディノがイザークに襲いかかった。身体能力で人間を遙かに凌ぐ魔族のディノに不意打ちされて、イザークは何も出来ずに昏倒した……。


 イザークが目覚めた時、ディノが寝ていたベッドは空っぽだった。

「猊下はどちらだ!?」

「一三幹部の所だ、この事態の対応を協議しに――!」

「クソ、何て事だ!」

空軍基地が蜂の巣をつついたような大騒ぎになっている。

何事だ!?

イザークが驚いてカーテンを開けようとした時、

「その女性は!?」医療室にいる軍医の大声が聞こえた。

「基地の前に倒れていたんだ!」

「うっ、これは酷い――」

「ベッドに空きはあるか!?」

「はい、こちらへ!」

イザークはカーテンを開けた。散々に暴行されたのだろう、ボロ雑巾のようになったメリッサが、今まさに治療を受けている所だった。

「!!?」イザークが唖然とした時だった。

「あっ!」軍医がイザークの顔を見て、「ディノ君! 気が付いたか! 大変なんだ!」

「何が、大変なのですか」と言ったものの、もうイザークには大筋が分かっていた。

「イザーク君が仮面王に囚われて公開処刑されたんだよ! もう聖教機構は大騒ぎだ!」

俺が、ディノと呼ばれている。そして、ディノはここにいない。ズタボロにされたメリッサ。その前に、シウの部屋から狂乱した体たらくで出てきたディノ。

これらが示す答えは、ただ一つ、イザークにとっての『最悪』だった。

「……」

イザークはメリッサの傷だらけの手を握った。そしてメリッサに可能な限りに優しい声で、話りかけた。

「大好きだったんだ。 アイツは、君の事が」

意識の無いメリッサを、そして後に残して、イザークは医療室を出た。

その双眸を、獣のように光らせながら。


 貴様が生きている限り、俺は愛する人をことごとく殺され奪われ害されるきりだ。

 ならば仮面王、俺が貴様の仮面を暴いて地に塗れさせてやろう。

 お前が仮面の裏に隠していた全てを、俺が簒奪し略奪し強奪してやろう。

 その素顔を侮辱し罵倒し、その大したご威光を俺の手で破産させてやろう。

 ――当戦争は、反撃に移行する。


 仮面王麾下の参謀長はその日、久しぶりに外出許可が出たので街のカフェで一服していた。だが彼は久方ぶりの休日だと言うのに、ちっとも明るい気分では無かった。それもこれも、彼の上司が年老いていくにつれて残忍性は増していくのに、英明さは衰えていく一方だったからである。

特に、先の事件。世間の同情と賞賛を一身に集めていた上司のもう一人の優秀な息子を何のためらいも無く公開銃殺させた時など、彼はいずれ自分もこのように殺されるのではと恐れたくらいだった。

……元々、彼の上司は彼より優れた人間を絶対に認めない男であった。彼より優れた軍人を虐待し、退役させる事など日常茶飯事であった。勿論、殺された彼の息子は、明らかに彼より有能な軍人であった。そして勇敢でもあったのだろう、親友の妹を助けるために単身仮面王の本拠地に乗り込んできたのだ……。

そして、今は仮面王の背後で銃殺された姿のまま、ガラスの柩の中で磔にされている。

ああ、俺もそろそろ引退したい。出来るならば、生きたままで。

参謀長がカフェのテラスで柔らかな日光を浴びつつ、己が人生の憂鬱さに耐えかねて俯いた時だった。

足音が聞こえて、顔を上げた彼の前でその青年は彼の真正面の席に堂々と腰掛けた。

「おい」そして参謀長は唐突にとんでもない発言を耳にする。「仮面王の謀殺に協力しろ」


 『仮面王』ウンベルト・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインはご機嫌であった。

これで彼の政敵シウも当分は動けない上に、何よりも彼にとっての最大の脅威を消す事に成功したのだから。無論、一三幹部からの非難は凄まじかったが、銃口を突きつければ誰もが黙った。

フランツにも、そろそろ嫁を見つけてやらねば。

彼はそんな事を真剣に考えている。元帥たる彼の居室の窓に、仮面で覆った己の顔を写して。

その時、軍靴の規則正しい音が遠くから聞こえた。急に彼は肌寒く、そして焼かれるように熱く感じた。

いかんな、風邪か。

それにしても、誰だ?

音は、段々と彼の方へ向かってくる。そして彼の居室の前で止まった。

ああ、これは俺の参謀だな、どうせシウが諦めずにまだ動いていると言う知らせを――。

次の瞬間、扉が蹴破られて、かつてイザークを釣るための餌にした少女の兄が登場する。

「フン」だが仮面王は傲岸に嗤っただけだった。「親友の仇討ちか。 愚かな」

彼はそう言って巨大な机の上のベルを鳴らした。これですぐに警護兵が駆けつける――はずなのに、いつまで経っても誰も来ない!

? 違うな、これはだ」

青年はその間にガラスの柩の中で冷却保存されていた銃殺死体を解放している。

「貴様、な、何をするつもりだ!?」

仮面王は後ずさった。

「この顔を忘れたか」

青年は死体の手を己の頬にそっと触れさせた。――直後、青年の顔は、仮面王にとって最大の脅威の在りし日の顔となる。

「何だと!!!!?」

「黙って跪け」

仮面王は思いきり蹴られて無様に絨毯の上に倒れた。

その顔面に容赦ない蹴りがぶち込まれて仮面王は思わず悲鳴を上げた。

何度目かの蹴りで、血まみれの仮面が、ついに外れた。

その素顔はただの、何の恐れるに足らない血まみれの老人の、骨と皮だけの面であった。怯えている所為で、余計に貧相に見えた。

「な、何だ貴様は! この仮面王にこんな真似をしてただで済むとでも、」

虚勢だった。誰がどう見ても、強くて未来ある青年に、惨めな老いぼれがキャンキャンと戯れ言を喚いているだけだった。

「『仮面王』ウンベルト・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン」青年は丁寧に答えてやった。「これは俺が指揮する軍事蜂起クーデターだ。 貴様を殺して貴様の全てを奪う」

「!!!」

青年は仮面王の眉間に銃口を突きつけた。そして力強く宣言した。

「イザーク。 !」

――そして銃声が高らかに鳴り響いた。


 このわずか数年後、シウはクリスタニア王国の、いや世界最強の軍隊指揮官オリエルと交戦した結果、敗死する。

イザークはシウの後も継ぎ、若くして聖教機構の重鎮となった。

名実共に聖教機構軍に君臨した彼は、いつしか『覇王』と呼ばれるようになる。

シウを撃破したオリエルにすら一目も二目も置かれたイザークではあったが、彼が生涯一度も勝てなかった相手がいる。


 ある日彼が久しぶりに戦線から家に帰ることが出来た時、出迎えた妻の顔は深刻そのものだった。どうしたんだ、何があった、イザークが驚いて訊ねる前に妻は言った。

「ねえ、聞いて。 貴方よりも大事な人が出来てしまったのよ」

イザークが腰を抜かした、衝撃が大きすぎてとても立ってはいられなかったのだ。

「お願いだから、貴方もその人に会って欲しいの」

イザークは子犬のように震えつつも頷いた。すると妻は彼の手を引っ張って、

「その人なんだけれど、今はここにいるのよ」

と微笑んで己の腹にその手を当てた。

酷い事にこの時のイザークの顔たるや実に見物だったと妻は後になっても笑うのである。

「まあ、『覇王』が腰を抜かすなんて。 言いふらされたくなかったら、今日は美味しいディナーをおごってちょうだいな」

何て策士だとイザークは片手で頭を掻いた。俺がいくら軍隊指揮官として強かろうが、この女に勝てるとはこの先も到底思わないことだな。

「ああ、分かったよ、メリッサ」

完全降伏の白旗を揚げてイザークは立ち上がり、妻を抱きしめた。


END

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ION外伝 2626 @evi2016

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