第7話IONシリーズ外伝 『PERDITION 叡智の滅び』
暴力で押し付ける宗教のどこに自由がある、信仰がある、学問がある!
その日の午後も、ゆったりと麗しき女神パラスアテナは湯浴みをしていた。男ならば一目で恋情の虜にされ、女ですら感嘆の息を漏らすであろう美しい肢体を、バラの赤い花びらを浮かべた香り高い湯が伝う。濡れた白銀の長い髪の毛が白い背中にぴったりと這い、末端に行くにつれてそれらは乱れていた。
(ああ、何て事かしら)
だが、彼女の表情はどこかしら憂いを帯びていて、まるで息を吹きかけた鏡のように薄く曇っていた。
(今度即位した皇帝が、唯一神を奉じる者、それも強硬派だと言う噂が事実ならば、このアテナイを災いが襲うわ……この都市には、私達のような多神教の神々を信じる者が大勢いるのですもの……)
いえ、とそこで彼女は首を振る。湯の雫が、数滴、彼女から名残惜しげに飛び散った。
(このアテナイは学びの聖地。 いくら皇帝とて、学問の大切さは知っているはず。 無体な真似は、きっと……)
彼女はそれ以上その恐ろしい風聞について考えるのを止めて、今度は薄く微笑みを浮かべた。彼女は未知の探究者を愛した。学問を熱心に志す者を愛していた。その愛する者の一人が、昨日、まさに『天地がひっくり返る』発見をしたのだ。
『パラスアテナ様!』
うら若き天才、そして美しき乙女ハイパティアは頬を興奮で真っ赤に染めて、彼女に一巻の巻物を差し出したのだ。彼女は何だろうとそれを紐解いて、目を見張った。
『地動説』
今まではこの星を中心に宇宙世界があると信じられていた、それを覆す、新説であった。この星は太陽を中心に回っている星の一つに過ぎない。この星は不動の宇宙の中心では無く、動いている星なのだ。
あまりの事にパラスアテナは目まいがした。だが、このハイパティアが決して荒唐無稽な嘘を言う事などあり得ないと、それはハイパティアを幼い頃から知っている彼女が一番良く分かっている。
それに巻物には、荒唐無稽でない証拠に、ハイパティアが地動説を提唱するに至った過程がぎっしりと書かれていた。それらには全て、目を丸くするような斬新な論理と確固たる根拠があったのだ。
『ああ!』パラスアテナは、己がこのアテナイの守護神である事を心の底から嬉しく思った。これだから彼女は、学びの求道者を愛してやまないのだ!彼女はいつしか、感動のあまりにハイパティアを抱きしめていた。『これで私達は、また一つ、この世界に秘められた謎を解明し、真理を見出したのですわね!』
『ええ、ええ!』ハイパティアは満面の笑みで頷いた。
(ハイパティア、何と愛くるしい子。 まるで私の子のようだわ、いえ、私の子なのよ、だって私があの子の母親代わりなのですもの……)
そして彼女は、己の下腹部に手をやった。
(私は自力では命を産めない、けれど、私の愛する者達は叡智を愛し、生み出し、受け継いでいくのだわ)
――かつてこのアテナイは、ローマ帝国の偉大であった守護神サマエルにより学芸の聖地として作り変えられた。大バシレイオスと言う名高い歴史学者が、滅ぼされた学芸の聖地アレクサンドリアから必死に運び出した蔵書を編纂し、アテナイの大図書館に置いて後世に残した。それらを手掛かりに、学者達は叡智の梯子を高みへと昇り、昇っては弟子に渡して、それを何百年以上もの間、連綿と続けてきたのだ。それはまるで高い塔を作り上げるような地道な作業だった。
彼らは疑う事を正しい事だと、まず疑う事を疑ってからそう思う。迷信や思い込み、常識と言った代物こそが学問にとっては一番恐ろしい敵である事を、それから学ぶ。
全ては真理を見出すため、この世界の謎を一つ一つ解き明かすためなのだ。
(うふふ……)パラスアテナはゆっくりと立ち上がった。(そうよ。 私は、だから、彼らを庇護し、愛するのだわ。 この愛は、だって、真理によって更なる真理に近づく全ての者のためにあるのですもの)
アテナイの大図書館の館長ドミティアヌスは、奴隷のラダメスを連れて図書館の中を歩いている。彼は老人であったが、依然その目には若者のような好奇心と老熟した知性が同時にみなぎっていた。
「『地動説』、か」彼は返事は来ない事を知りつつも、思わずラダメスに話しかけていた。「私の娘は、学者の見本のような人間だ。 全く本当にしょうがない!」
しょうがない、とは言いつつも、その顔には笑みが浮かんでいる。彼は己の娘が己を超えた事を、心底から言祝ぐ男であった。
「……」ラダメスは無言で頷いた。主に対して無言と言う失礼な態度を取っているのではなく、彼は生まれついて喋る事が出来ないのだった。
「だがお前の手伝いにも礼を言わんといかんな。 ハイパティアは言っては悪いが、学問以外の事が一切出来ん。 化粧すら出来ん。 放っておけば風呂にすら入る事を忘れて学問に没頭してしまう。 ラダメス、どうかハイパティアをこれからも手伝ってやってくれ」
無言の了承。
「はは」ドミティアヌスは笑い声を、ついにこぼした。「お前は本当に信頼できる男だ、何せ口の堅さでは世界一だからな!」
その時、本棚の向こうから、若い学者が姿を見せた。見せるなり、彼はひざまずいて、ドミティアヌスに乞うた。
「おお、偉大なるドミティアヌス様、どうか麗しのハイパティアを私めに――!」
「ウルバヌスよ」ドミティアヌスは困った顔をした。「私の娘には結婚願望など、これっぽっちも無いのだよ。 娘は既に学問と結婚してしまった」
「そんな無慈悲な事をおっしゃらずに、どうか! 必ず彼女を幸せにしますから!」
「ウルバヌス、あの娘の幸せは学問を探究する事にあるのだよ。 それに、あの娘も私も、唯一神など奉じてはいないのだ。 確か一神教の教えでは、信者以外との結婚は認められていなかったはずだ。 あの娘を改宗させる事は不可能と言っても過言では無いぞ、何せあの娘は我らがパラスアテナ様を母親のように思っているからな」
「そんな……!」
「すまないが、早々にハイパティアを諦めた方がウルバヌスよ、君のためだ」
そう告げてドミティアヌスはラダメスを連れて行ってしまった。
「……」ウルバヌスは、その姿が見えなくなり、気配も感じられなくなってから、立ち上がった。そして凄まじい形相をして、「神罰で死ね、異端者共め! 必ず俺はあの女を我が物にしてやるぞ!」と呪詛を吐いた。
皇帝の玉座に腰掛ける新ローマ皇帝コンスタンティヌスに向けて、その妹カタリナは言った。
「神の敬虔なる信徒にして果敢な戦士たる兄上、あのいやらしい噂はお聞きになりましたか?」
コンスタンティヌスは傲岸に頷いた。
「我が妹よ、既に聞いている。 未だにアテナイにはびこる異端者どもの話だな。 私は軍を出動させ、軒並み異端者は公開処刑させようと思っている」
「まあ」と醜く、まだブタの方が愛嬌があるくらい太っている上に、狡猾さとずる賢さではローマ一と言っても過言では無いこの女は、目に涙をためて、わざとらしく言った。「どうぞ私めに彼奴らを改宗させ、敬虔なる神の信徒へ変える機会を下さいませ! 神は大変に慈悲深いお方でございます、異端者共へすら太陽の光をくれてやるほどに。 もしも私めの働きが叶わなければ、どうぞ後は兄上の思うがままにして下さいませ」
彼女がこう言ったのは、アテナイが学問の聖地であるがゆえに、非常に富裕な都市であったからである。彼女は『改宗を拒んだ異端者共』から『皇帝のお墨付き』と言う正当な理由で財産を押収し、我がものにしようと企んでいたのだ。
そしてこの女には慈悲深さと言った高尚なものは無く、贅沢のし過ぎでぶくぶくに肥え太った体のような汚い金銭欲と、兄に勝るとも劣らない残忍性があった。だが、この女、上っ面だけは良いので、『女教皇』と周りからは尊称されている。
「おおカタリナ、お前は本当に
この光景を、窓に止まっていた一羽の鴉が見ていた。
その鴉は、誰にも聞こえぬ声で、人語で言った――。
『畜生、どいつもこいつも、あの救世主の言った事を滅茶苦茶にしやがって。 愛なんざどこにも無い。 だが……アテナイには行ってみよう。 もしかしたら、何かが見つかるかも知れない』
アテナイに激震が走った。
『我らが唯一絶対神に帰依せぬ者は、異端者として断罪、全財産を没収し、処刑する』
ローマ皇帝からのとんでもない勅令が来たのだ。
パラスアテナは真っ青になった。彼女が予想していた中でも『最悪の中の最悪』が、到来したのだ。それでも、賢い彼女は素早く己を崇める者を神殿に集めて、こう言った。
「帰依しなさい。 そして、一人でも多く生き延びなさい。 何よりも大切なのはこのアテナイの叡智を受け継いでいく事、決して私を崇める事ではありません」
「断固としてお断りします!」怒鳴ったのはドミティアヌスであった。「暴力で押し付ける宗教のどこに自由がある、信仰がある、学問がある! 私は老いぼれだ、今更処刑なぞを恐れる身でも無い! パラスアテナ様、私は貴方様に殉じます!」
「ドミティアヌスよ……!」パラスアテナは思わず涙した。
すると、宗教学者のクリピアヌスがはっとした顔で言った。
「いえ、ドミティアヌス様、何も我々は心の底からあんなふざけた宗教を信じ、パラスアテナ様への信仰を捨てる必要などありません。 簡単な事です、上辺だけの真似をすれば良いのです。 口だけで一神教の神への愛を唱え、教義を唱え、だが心の奥底ではパラスアテナ様を信じる、たったそれだけで良いのですよ! 幸いにして我々は弁論術も得意です。 善徳ゆえに口で嘘をつく事への罪悪感など、この際だ、捨てましょう! パラスアテナ様のご恩を思えば、あんな神への嘘偽り、大した事ではありません!
……私は宗教学者として、各地の宗教を研究してきましたが、あの唯一神の教義は明らかにおかしいのです。 そもそもです、唯一絶対の神の教えであるならば、こんな暴力に頼っての布教などしなくても、とうの昔に我々が信じていてもおかしくはないでしょう? それにあの神は言います、神を信じぬものは地獄に堕ちる、と。 ですが我々が知っているように、あの神がローマの神になる以前から、大変に高潔で鮮やかな美徳を持ち、死すら恐れぬ立派な人々は数多いらっしゃった。 では彼らも地獄に堕ちるのですか? それは、明らかにおかしくはありませんか? またあの神は言います、清貧で純粋無垢である事こそが正しいと。 これは大いなる間違いです。 何故なら生きるために、そして学問の書を買うのに金銭はどうしても要りますし、純粋無垢など言い換えればただの愚者であり無智である事と同じでしょう? でしたら、我々アテナイの学者は、全員地獄に堕ちる事が既に決まっているようなものです。 更にあの神は、魔族の方々を徹底的に差別します。 ローマで魔族がどんな目に遭っているか、知らぬ者はいないでしょう? 最低奴隷とされ、人食いの悪魔と呼ばれ、市民に不満が溜まるごとに
――あんな野蛮な連中にこそ学問が要ると言うのに、代わりに連中は宗教、それもおかしい迷信に凝り固まった宗教を必要とした! 間違っているのは連中の方だ!」
そうだそうだと次々と賛同の声が上がった。ドミティアヌスが、はらはらと涙をこぼしている美しき女神に向けて言った。
「……しばらくお姿をお隠し下さいませ、パラスアテナ様。 我々は、しばらく嘘つきになります。 嘘つきですから、あの神におべっかを使い、あの神の使徒共に媚び、貴方への悪口も言うでしょう。 連中の事です、我々が嘘を言っていないか確かめようと、貴方の神像を破壊させる事も我々にやらせるかも知れません。 ですが、我々の本心はこの通りです。 どうかそれをお忘れなく。 さあ、どうぞ急いで! 早く安全な場所へ、お隠れ下さい!」
「ええ!」
女神は、しっかりと、頷いた。
――だが、これを盗み聞きしている者がいた……。
アテナイに来たものの、カタリナは不満であった。と言うのも、予定と全く違って、『異端者共』が次から次へと、こぞって、
『私達が今まで間違っていました。 どうか洗礼を受けさせて下さい』
と彼女の従える教父の元へやって来るからであった。
これでは、金品がちっとも奪えないではないか。カタリナは日増しに不満が膨らんでいくので、苛々していた。
そこに、召使がとある者の来訪を告げた。普段ならばカタリナは身分を理由に会うのを拒んだであろう、だが召使がその者の来意を告げたために、顔に喜色を浮かべた。
「清く美しき唯一神のはしため、偉大なるローマ皇帝の御妹にして女教皇のカタリナ様。 私は神の信徒の一人、ウルバヌスと申します。 貴方様の下僕となって異端者共を断罪するために、ここに参りました」
「まあ!」ご機嫌でカタリナは言った。「それで、それは事実なのかしら?」
「ええ」とウルバヌスは頷いて、「連中はまだ邪教の女悪魔パラスアテナを信じています。 私はヤツの住処で連中が
「何と恐ろしくおぞましい! やはり異端者共は、悪魔の手先なのだわ! こうなったからには、皆、処刑しなければ――」
「いえいえカタリナ様、処刑だけでは生ぬるいのです。 我らが神に嘘をついた罪、それだけでは償えません。 まずは連中に、徹底的に神罰を与えねばなりません」
「まあ! では、どうやって?」カタリナはうきうきしていた。
ウルバヌスは、にやりと内心で笑って、
「まずは女悪魔パラスアテナをあぶり出し、一網打尽に異端者共を捕えましょう」
『おい』
と、いきなり声が聞こえたので、ハイパティアは何だろうと思った。
「?」
きょろきょろと周りを見る、だが積み上げられた巻物以外の何も無い。気のせいだろうか、と彼女が思った時である。
『上上上上! おい女、上を見ろ!』
言われた通りに見上げると、天井の梁に、一匹の鴉がとまっていた。
「あら」彼女は嫌そうな顔をして、「最近の押し売りったら、鴉まで使うのね!」
『違う!』
鴉は舞い降りてきて、彼女の目の前にとまった。
『俺様は「
ハイパティアは即答した、
「じゃあ出て行って下さるかしら? 研究の邪魔なんだけれど」
『……』
鴉はくちばしを開けたまま、固まった。たっぷりと固まってから、
『……おい。 普通はそこは迷うだろうがよ』
「私は権力にも、金にも、美にも、不老不死にも興味が無いの。 私が興味があるのは真理の探究・追及だけ。 良いから出て行って」
『……参ったな。 まあ良い、気が変わったらまた来てやる』
そして、鴉は姿をふっと消した。
「別に来なくっても私は何にも不自由しないんだけれど……」
ハイパティアは、それだけ言って、後はいつものように研究に没頭するのだった。
月の綺麗な夜、ラダメスは笛を吹いていた。この男、身分こそ奴隷だが、非常に多才で、しかもどの才にも優れていた。おしである事をしょっちゅうドミティアヌスが惜しんだほどである。剣を振るわせれば敵う者は無く、笛を吹かせれば音楽の神が嫉妬するほどの音色を奏でる。文字を書かせれば非常に美麗な文体で、しかも見聞きした事は決して忘れない。性格は謙虚で、実直。
「お前がおしさえでなかったら、是非私の次の図書館長にしたかったよ」
とドミティアヌスがこぼすほど優秀であった。
「ラダメスは世界一口が堅い男だ、引き取って大正解だった」
よく、ドミティアヌスは図書館で目録を編纂しつつ、口癖のようにそう言っていた。
「まあお父様」ハイパティアがランプで照らしている巻物から顔を上げて、言った。「今、私、美しい月と星空が心に浮かびましたわ」
「ハイパティア、それはきっとラダメスがその光景を思い浮かべて笛を奏でているからだろう」
ドミティアヌスは、そう言って、壁にかけた『十字架』と、それから月光が鮮やかにさし込む窓から見える星空を見つめた。
彼らも表向きは一神教に帰依していた。
だが、内心は――。
「今頃はあの御方も、どこかでこの月を見ていらっしゃるだろうか」
ドミティアヌスは、ふと、呟いた。
彼も若い頃には若さゆえに『彼女』に恋をしたものだ。青春の、良き思い出である。それから十数年後、彼は、ハイパティアの母と本当の幸せを見つけた。だが彼の妻は若くして亡くなってしまった。けれど、良き思い出が優しい白い手をその時にそっと差し伸べてくれて、彼はハイパティアをここまで育てられた。
だから、彼は『彼女』にはただの信仰心だけでは無い、格別の思い入れがある。
「ええ、お父様、きっとこの同じ月を見ていらっしゃいますわ」
ハイパティアは頷いた。それから、耳を澄ませて、
「あら、今度は、海を駆け抜ける爽やかな潮風の香りが……」
ドミティアヌスも、微笑んで頷き、
「ああ。 ラダメスがそれを思い浮かべているからだろう」
だが、途端にラダメスは笛を止めて、剣を手にした。険しい顔で窓から外を睨む。
「「!!?」」
父娘は驚いた。
「どうしたのだ、ラダメス!?」
「!」ラダメスは何度も窓から外を指さした。「!」
ハイパティアも外を見ようと窓から顔を出した、途端に血相を変えて、
「お父様、何者かがやって来ますわ!」
松明の群れが彼らの館に近づいてくるのだ!ドミティアヌスは首を横に振った。
「何事だと言うのだ!? 私達は何一つ身に覚えが無いと言うのに……!」
間もなく、武装したローマの兵士達がやって来た、と召使が真っ青になって告げた。
「何かの誤解に違いない。 私が言って、説得して来よう!」ドミティアヌスはそう言って出て行った。ラダメスが付いて行こうとしたが、
「お前はハイパティアを守るのだ!」とドミティアヌスに止められた。
「何事ですかな、こんな夜分に」ドミティアヌスは兵士長に言った。「私はこのアテナイの大図書館の館長にして、神の敬虔なる信徒です。 兵士に押しかけられるような真似事など、何一つ――」
兵士長は嘲った声で、
「貴様が実は異端者であるとの密告があった。 貴様は異教徒でありながら、我らが神を信じていると嘘をついた虚偽罪で処罰されるだろう」
「馬鹿な! 違う、私は、」そこまで言った時、兵士達にドミティアヌスは襲われて、散々に暴行された上に、荒縄で縛られて連れて行かれた……。
ドミティアヌス、涜神罪で逮捕、処刑方法は――餓死刑。
ドミティアヌスと同じ立場の学者やパラスアテナの信者らは、真っ青になった。
これは大騒ぎにもなった、何しろアテナイの大図書館の館長が捕まったのだ!
ドミティアヌスは老人であったのに、酷い事に、逆さ十字架にかけられて、死ぬまで放置される事になった。ハイパティアは泣いた。遠くから、父の姿を見て、泣いた。だが賢い彼女はいつまでも泣いてはいなかった。父を助けるために、必死に活動したのだ。
カタリナに、家にあった、ありったけの財産を持って行ったのも、その一つであった。だがこれは裏目に出た、と言うのもハイパティアは若くて美しかったのに、カタリナは醜かったのである。彼女はハイパティアに猛烈な嫉妬心を抱いた。そして、背教者の娘とハイパティアを散々になじって、ものだけ取り上げて追い払ったのだ。
彼女は泣きじゃくりながらラダメスの曳く馬車に乗って、館に帰った。
そして、必死に、父を助ける次の手段を考えるのだった。
おかしい、と誰もが思った。ドミティアヌスが生きているのである。日干しにされ、何日も飲まず食わずで放置されている老人が、何日経ってもまだ生きているのである。
まさか、とドミティアヌスの同志達は最も恐ろしい事を思った。
まさか。
まさか。
だが!
可能性としては、それしか無い!
「どうやら現れたようです、カタリナ様」ウルバヌスは言った。
「ふふふ、神の御名において、女悪魔をひっ捕らえなさい!」
カタリナはどう処刑するか、嬉々としながら、考えつつ、命令した。
真夜中。ドミティアヌスの逆さ十字架の元に、人影がうずくまっていた。
「お逃げ、下さい……」ドミティアヌスは、切れ切れの、弱り切った声で言った、「パラスアテナ、様……」
「ドミティアヌス。 私は、これ以上貴方が苦しむのに耐えられないのよ」
深いローブで顔を隠したその女性は、そう言って、ドミティアヌスの唇に触れた。ドミティアヌスに『命』が流れ込み、ドミティアヌスの死にかけていた目に、生彩が戻る。彼は必死に言った、
「おお、我らが女神、我らが庇護者、我らが理解者よ! どうかお逃げ下さい、連中がどうして私を狙ったのか、それは恐らく貴方をあぶりだすためです! 貴方をきっと、我々を選別する材料にするに違いない! きっとあの中に誰か裏切り者がいたのでしょう! 今すぐにお逃げ下さい!」
「お前が死ねば、その次が。 その次が死ねば、そのまた次が。 私が出てくるまで連中はこの酷い行いを続けるでしょう。 私は、それに耐えられない!」
女性のまとうローブに水滴がこぼれた。
「私は愛した。 私は何も産めない、だからこそ叡智を産み、受け継いで行く者達を愛した! でも、もう、それもお終い――」
彼女らの周りに、兵士達の気配がするのだ。
「私は死にたくなかった、
彼女はローブを脱いだ。美しき女神が姿を見せた。
彼女は、己の運命を甘受して、言った。
「さあ、捕えなさいな、私がパラスアテナ、このアテナイの守護神ですわ」
目の前の光景についに堪りかねて自供し、処刑された学者が、既に一〇〇名を超えた。
彼らが愛した麗しの女神が、彼らの目の前で、処刑台の上で、汚い兵士共に暴行されているのである。
女である事を侮辱され、兵士共の気紛れに目を抉られ、肉を削がれて……。
「止めてくれ!」また一人、そう絶叫して、処刑台の上に発作的に駆け上った学者がいた。クリピアヌスであった。「もう止めてくれ!」
これから彼を待つものが焚刑だとしても、彼はもうこれ以上この光景に耐えられなかったのである。
「おい、また出たぞ」
「捕まえて、焼いちまえ!」
兵士達は皆、下卑た笑みを浮かべ、数名が彼を捕まえて、連れて行った。
当然、ハイパティアも処刑台に駆け上ろうとした一人であった、だがラダメスが、彼女を必死に抑えて、館に連れ帰ったのだ。
「お願いラダメス、私も連れて行って! お父様だけじゃなくて、お母様もあんな目に――!」
門の前で倒れ伏して泣きじゃくる彼女に、駄目だ、とラダメスも赤い目をして首を横に振る。
そこに、やって来た男がいた。
「ハイパティア、私にどうか任せてくれないか」
ウルバヌスであった。
「私は幸い、カタリナ様と面識がある。 何とかお慈悲にすがれないか、やってみよう」
「!」ハイパティアの鋭い勘が、警鐘を打ち鳴らした。彼女は目を吊り上げて、「まさかウルバヌス、貴方が!?」
「いやいや、私は、敬虔なる神の信徒だから、邪教の悪魔を信じている連中がどうしても許せなかっただけだよ」
「貴様ッ!」
ハイパティアが我を忘れて掴みかかった、その彼女を素早く避けて、彼はへらへら笑いつつ言った。
「良いのかい? 君は助けたいんだろう? その好機を自ら手放して良いのかい?」
ぐっとハイパティアは堪えた。そして、言った。
「……何が、欲しいの?」
「私は君を愛しているんだ。 君が改宗し、そして私の妻になってくれれば、私は最大限に努力しよう。 悪い取引では無いだろう?」
「!」
ラダメスが歯を食いしばった。何が悪い取引では無いだろう、だ!
「……」
ハイパティアは、ややあって、無言で頷いた。
病める時も健やかなる時も、死が二人を別つまで。
ハイパティアは寝具の中、うるさくいびきをかくウルバヌスの隣で、ずっとその言葉について考えていた。ウルバヌスはこの一週間、彼女を徹底的に束縛し、独占した。そして口癖のようにその言葉を言うのだ。
人はどうして二人になろうとするのだろう。一人で生きていく、それでも良いではないか。不完全に不完全を足しても、完全にはならないのに。
(私は、学問と結婚したつもりでいた。 それではいけなかったの?)
『おい』
はっと彼女は目線を窓に向けた。羽音も無く、あの鴉がいた。
『さあ、望みを言え、何だって俺様が叶えてやる。 だが……お前の親父と、あの女神は、もう駄目だ。 そこの男、約束を破って何にもしなかった。 二人とも、もう……』
「……」彼女は、しばらく黙っていた。涙は、既に枯れ果てていた。「何にも、もう、望みは無いわ」
『そうか。 また来るぜ』
鴉は姿を消した。
――大迫害の結果、アテナイから異教徒が逃げ去って姿を消し、あるいは完全に殺された。
代わりにたっぷりと貯まった金銀財宝に囲まれて、カタリナはご機嫌であった。
「これで神の家、修道院がいくつも建てられるわ!」
そして彼女は、皇帝である兄に成果を報告する手紙を、いそいそとしたためるのだった……。
ハイパティアは、ウルバヌスに激しく叱責され、なじられていたが、もはや一歩も引かなかった。
「地動説だと!? ふざけるな、神はこの星を中心に世界が回っているとおっしゃった!」
「いいえ、それは過ちです。 この星は動いている!」
ウルバヌスはそう言ったハイパティアを平手で打ち、髪の毛を掴んで引きずり倒した。
「……それは異端者の考え方だ。 ハイパティア、言え、地動説は誤りです、と」
「嫌よ!」ハイパティアは絶叫した。「私は学者よ、真理を誤りと言うなんて、絶対に!」
咄嗟にラダメスが割って入らねば、ハイパティアは激高したウルバヌスに縊り殺されていただろう。
わななきつつ、ウルバヌスは息を荒げながら、言った。
「カタリナ様に言おう、まだ異端者がアテナイに残っていたと! 私をたぶらかし、のうのうと生き延びていたと!」
ハイパティアは牢に入れられた。ラダメスだけが、おしと言う事で兵士達に馬鹿にされつつ、彼女に会う事が許された。ハイパティアは彼に小声で言った。
「貴方だけは、逃げなさい。 お父様の館の地下書庫のね、大バシレイオスの『ローマ総記』の第三巻を押すと、隠し財産のある部屋の扉が開きます。 それを持って、お逃げなさい」
ラダメスは激しく首を左右に振った。そして、笛を吹いた。ハイパティアは微笑んだ、
「ああ、貴方、私の事を、本当に、愛してくれていたのね。 ありがとう」
そこでラダメスは、笛がうるさい、と兵士達によって外に連れ出された……。
やがて、最後の夜が来た。たった一人の、夜が来た。
『よう』あの鴉が、いつの間にかハイパティアの前にいた。『さあハイパティア、望みを言え! 命が欲しいなら、永遠の命をくれてやるぞ!』
「私は、明日、焚刑にされるはず。 けれど、もう助かりたいとも思わない。 でも……」
彼女はそこで、噛み締めつつ、言った。
「私達が焼かれたように、私達がこれまで築き上げてきて、受け継いできた、あの大図書館の書物まで焼かれてしまうのは、嫌、絶対に嫌! ……あの中には一神教の教えとそぐわぬ内容の書物が沢山あるのよ。 ねえ『魔王』、貴方は何年生きるのかしら?」
『もう数千年は生きてきている。 これからも多分並大抵の事じゃ死ねないだろうなあ』
「そう、それなら、一つ、お願いがあるわ」
ハイパティアは穏やかに言った。
「あの図書館の本を、どうか、人目に付かない場所に隠して、そして、いつか、いつか、真理を人々が求めるようになった時代に、叡智を何よりも愛する者が生まれた時、その誰かに渡してほしいの。 お願い出来るかしら?」
『……最期まで、お前、学者だなあ』鴉は頷いた。『良いぜ、世界の支配者にしろとかより、余程まともなお願いだ。 叶えてやる』
ハイパティアは奴隷の格好で牢から連れ出された。彼女が死に至る道を歩かされると、詰め寄せた群衆から罵声とつぶてが飛んだ。
焚刑にされて息絶える寸前に、彼女は、絶叫する。
「それでもこの星は、動いている!」
……ハイパティアの亡骸を更に辱めようと群衆が押し寄せた時だった。
天空から、ばあっと金貨や財宝が降ってきた。群衆がそちらに気を取られた、その瞬間に、巨大な一匹の獣がハイパティアの亡骸を奪って逃げた。
獣は、亡骸を静かな場所に埋葬すると、ラダメスの姿に変わった。
「!」
声なき絶叫を上げては、血の涙を流して、彼はあの笛を地に何度も打ち付けた。
笛は壊れた。だが構わない。もうこの笛の音の意味を理解してくれる人は、いないのだ!
彼は剣を抜いた。彼の掌の上に、変身種の命の中心である『核』が浮上する。それを叩き切って、どう、と彼はハイパティアの亡骸と、土を隔てて倒れ合わさった。
(好きだったのです)
(愛していました)
(貴方の幸せが私の幸せでした)
(新たな発見をした時の、貴方の嬉しそうな横顔が、本当に、愛おしかった)
(どうか、死後も、お側に――いさせて、下さ……)
(……)
ハイパティアを焼き殺した直後の事だった。
アテナイの大図書館から、煙が上がり、あっと言う間にそれは猛炎となって図書館を覆い尽くした。
――かつての『叡智の館』の火葬光景を見つめながら、鴉はぽつりと一人ごちる、
『人間なんざ、所詮こんなものさ』
――数千年後。
『聖王』は『魔王』が語ったある女学者の物語を聞いていた。
「……そうか」と『聖王』は目を閉じた。「魔王、お前が今でもその書物を持っているのか?」
「ああ」と『魔王』は頷く。「持っている。 全部喰ったからな。 俺は山羊じゃねえってのにさ、約束だからしょうがねえんだけれど」
「では電子化して、公表しよう」と『聖王』は目を開けた。
「良いのか? 今でもやばい本がかなりあるんだぜ? 公開したら、今までの歴史観だの世界観だのが根幹からひっくり返るような代物だって山ほどあるんだ」
「良い。 全責任は私が持つ。 我々は、過去のあらゆる歴史を受け止めて、そして見つめ直さねばならないのだ。 それが今を生きると言う事なのだろうと私は思っている」
「ふーん。 ところで聖王、真理って何だと思う?」
「疑い、考え、そして認識する事だ」
そう言って『聖王』は、
「彼女はお前にそれを託した、それは、きっと、彼女達の愛した叡智のためだったのだろう。 叡智は滅びない。 滅んでも滅んでも、いつか必ず、蘇る」
きっぱりと、そう言った。
END
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