第6話IONシリーズ外伝 『DISSIPATION どこにも無い島』

 ――あれは、遠い日の夢。




 ヴェロニカは安い煙草を吸っている。夜の繁華街の一角で、彼女はそうやって時間を潰していた。派手なメイク、毒々しい格好。彼女はどこをどう見ても完全な『娼婦ビッチ』であった。

通りがかった若い男がにやにやしながら彼女に話しかける。

「よう、美人なお姉さん。 今夜はいくらだい?」

彼女は黙って指を四本立てた。

「高いな。 まあ美人だししょうがないか」

彼女は何も言わずに男と手を組んで、歩き出した。

 安い娼窟宿の一角で、彼女らはやる事をやった。それが終わると、男は煙草をくわえた。ヴェロニカは火を点けてやる。男は一服して、

「なあ姉さん。 アンタ、ポルノ映画に出てみないかい?」と言った。

「ポルノ映画? 何で?」とヴェロニカは不審そうな顔をする。

「アンタ美人だし、何か、こう、色気あるしさ。 何を隠そう、俺はしがないポルノ映画のスタジオの助監督だ。 その気になったら来てくれよ。 ああやって立ちんぼしているよりは、楽に金が稼げるぜ」男は自分の服をあさって、汚い名刺を取り出した。ヴェロニカは手渡されたそれを見る。

『エンディ映画製作所 助監督 テリー・ウィクリフ』、それからスタジオの住所が小さな地図で書かれていた。

「ふうん」とヴェロニカはあまりやる気が無さそうに呟いた。「その気になったら行ってみるわ」


 スタジオに彼女が現れたのは、テリーと出会ってから三日たった後だった。彼女は金が欲しかったし、その金のために男相手に毎晩街角に立っては股を開く生活に、少し飽きてもいた。

丁度、映画の製作の真っ最中で、スポットライトを当てられて、男と女が事をいたしている。テリーは監督の指示に従って動いていたが、彼女を見つけると駆け寄ってきた。

「おお、来てくれたじゃないか! 少しそこら辺で待っていてくれ、もうすぐ終わるからさ!」

「分かったわ」と彼女は言った。


 スタジオのオーナー兼監督の男は、スタンと名乗った。いかにも男女の行為を好みそうな、はげかけた中年の男だった。

「君がテリーの見つけてきた……ううむ確かに美人だ。 これなら売れる! ところで君の名前は?」

「ヴェロニカよ」と彼女は名乗った。

「じゃあヴェロニカ。 明日から早速映画に出てもらうが、良いかい?」

売春婦ビッチに言われてもね。 要はカメラの前でも『そう言う事』をすれば良いだけ、でしょう?」

「クールだねえ、ヴェロニカ」スタンは彼女の事が気に入ったらしい。「じゃあ、契約書を作成しようじゃないか」

「先に言っておくけれど、スナッフだけはお断りよ。 それ以外なら、大体の事はやるわ。 SMとか多人数とかも。 あまり好きじゃないけれど」

「ふむふむ、割り切っているね。 ところで……文字は読めるかな?」

「読めるわ」と彼女は淡々と答える。

「そうか」スタンはすっかり満足したようで、「どうやら君は売れそうだ。 君はどうもただの売春婦に見えない。 何だかねえ、変な言い方だけれど、育ちの良さと言うか、品性と言うものを持っている気がするんだ」

売春婦ビッチに言われてもね」と彼女はどうでも良さそうに繰り返した。


 彼女は映画に出た。その映画は、ポルノ映画にしては、珍しいくらいに売れた。スタンとテリーがほくほく顔でヴェロニカをちやほやするくらいに売れた。

「いやあ、おかげ様で借金が全部返せたよ。 黒字も黒字、大黒字だ!」

スタンは嬉々として彼女に報酬を払う。テリーはコーヒーをヴェロニカの前に運んできて置き、自慢げに、

「俺の眼は間違っていなかった。 だろ? ヴェロニカ」

「次は何をすれば良いの?」とヴェロニカはやや無気力気味に言った。

「決まっているじゃないか、続編をだね……」

と、スタンが言った時だった。

「済まないが、彼女を私にくれないか?」

爽やかな声に、スタンとテリーがさっと青ざめた。スタジオに若くてハンサムな男が入ってきた。服装からして、金持ちの。だが、だとしたら、何故二人はいきなり青ざめたのか?ヴェロニカが疑問に感じた時、その男はヴェロニカに近づいてきて、にこりと笑った。

「こんにちは、ヴェロニカさん。 私はガエターノと言う。 しがない実業家だ」

嘘だ。ヴェロニカはそれを見抜いた。顔は笑っていても、ガエターノの眼が笑っていない。まるで獲物を前にした獣のように、光っている。

「私に何の用?」

「映画ですっかり君に惚れてしまってね。 私の愛人になって欲しいのだ」

「……私、あまりそう言うの好きじゃない」

「そんなつれない態度を取られると、私は君を誘拐してしまいそうだ」とガエターノは笑顔、ただし笑っていない目で言った。「君の願いは何だって叶えてあげるよ。 それでも駄目かい?」

「……」

ヴェロニカはテリーとスタンをちらりと見た。二人とも怯えていた。

「そ、そうだよヴェロニカ」スタンが無理やり笑って言う。「彼は確かに君の願いを何だって叶えてくれる。 幸せになりたいなら、彼に付いていくべきだ」

「だ、だな!」テリーも同じように言った。「これは滅多に無い好機だぜ、ヴェロニカ!」

ヴェロニカは、「行くと私が言わなかったら、寄ってたかって言いなりにするつもりね」と思ったが、口には出さなかった。

 それでヴェロニカはガエターノに付いて行った。

意外にもガエターノは彼女を大事にしてくれた。欲しいと言ったものはどんな高級品でも買ってくれたし、行為を無理強いする事も無かった。特殊な性癖も無かった。てっきり暴力を振るわれるかもと思っていたヴェロニカの予想は、良い意味で裏切られた。だが、ヴェロニカがガエターノの恐ろしい正体に気付くのに時間はかからなかった。

――マフィア『エフトラ』の幹部。


 それは一人の馬鹿な女のおかげだった。その女が豪華な服で現れて、ガエターノに色仕掛けで迫ったのだ。側にヴェロニカがいたのにも関わらず。

「ねえガエターノ」と甘ったるい声でオッタヴィアははだけた胸元をちらつかせて言う、「おじい様が死んだら、私を次のエフトラのボスにしてくれるわよね?」

「ええ」とガエターノは穏やかに答える。だが、ヴェロニカにはその眼がいつものように笑っていないのに気付いていた。「オッタヴィア様のご命令とあらば、我らの誇りにかけて誓いましょう」

エフトラ。その名はヴェロニカにも聞き覚えがあった。それは巨大マフィア組織だった。麻薬に金に売春にその他色々。ありとあらゆる悪事を働いて、悪銭を稼いでいる。しかしただのマフィアでは無い。エフトラは、ありとあらゆる国に金をばらまいているのだった。上手くやれば、国すら動かせる。それがエフトラの強みであり、恐ろしい所であった。金をばらまかれた国が自国内での麻薬取引を見逃すなんて話は、ざらにある事だった。そのために、世界的勢力である聖教機構ヴァルハルラ万魔殿パンテオンからは非常に危険視されている。特に聖教機構からはエフトラを潰してやろうと言う重圧が常にかかっていた。

 聖教機構。これは魔族と言う謎の力を振るう種族を、人間が治めるべくして設立された組織だった。逆に万魔殿は魔族が人間を治めるよう生み出された組織である。このため、両者は常に激突し、世界戦争を何百年と繰り広げていた。だが、両者の力は拮抗し、決着は付いていない。

「ガエターノ、私がボスになったら貴方にはたっぷり良い事をしてあげる」オッタヴィアは魅惑的な(少なくとも本人はそう思っている)笑みを浮かべて、それから初めてヴェロニカを見て言った。「あーら。 可哀想な子がまた一人。 今度はいつまで持つのやら」

きっとガエターノが私に飽きるまでの事を言っているのか。ヴェロニカはそう思ったのだが、オッタヴィアの眼があまりにも憐れんでいるので、不審に感じた。

「止めて下さい、オッタヴィア様」ガエターノは困った顔で両手を上げて、「今、私は彼女を幸せにしてあげているんです。 幸せにしてあげたいんです。 ですから……」

「ガエターノってば、本当に酷い男なんだから。 罪な男とは貴方の事を言うのよ」

オッタヴィアはそう言って帰って行った。

ヴェロニカは、口を開く。

「……ガエターノ。 貴方はやっぱり普通の人じゃあ無かったのね」

「隠していたかったんだがね」ガエターノは忌々しそうに首を振って、「私は君の恋人になりたかったんだ」

「売春婦を恋人にしたいだなんて、貴方は相当な変人ね」

「良いじゃあないか。 恋に上下の隔て無し、だよ」

「恋にだって隔てはあるのよ」ヴェロニカは自分に言い聞かせるように呟く、「絶対的で、致命的な」


 ガエターノは驚いていた。ヴェロニカが才女だったからである。彼女は、ただの売春婦ではありえないくらいの知識と教養を身に着けていた。

「どうして君みたいな教養を持った子が売春婦になったんだい?」

聞いてはならぬ事だと知りつつ、ついガエターノは訊ねてしまっていた。ヴェロニカが壁に飾ってあった絵画の作者を――今では世界的に有名な、若くして亡くなった画家だった――何気なく言い当てた時に。

「勘当されたの」とヴェロニカは言った。「その後は転落人生。 金が無くなった女は股を開くしかないのよ」

「……そうか」

「それより」と彼女は言った。「こんな絵を飾るなんて悪趣味ね」

「悪趣味……何が?」

「この絵。 あの画家が自分の情婦を痴情のもつれで殺した後に、衝動的にこれを描き上げて……その後に自殺したのよ」

「自殺、ね……」ガエターノは思った。そいつはぴったりだ、と。この瞬間に彼の殺意が結実した。「マフィアの端くれが、そんな可愛い事をすると思うかい?」

「!」

はっとガエターノを見たヴェロニカの首に、彼は蛇のように腕を巻きつけた。

「ぐ、が、ぁ……!?」

「私の趣味はね」とガエターノは優しく囁いた。「こうやって好きな女を散々可愛がった後に殺す事、なんだよ」

やられた。ヴェロニカはもう全てがお終いなのだと悟った。スタンとテリーが怯えたのも、オッタヴィアが私を憐れんだのも、全てはこれの所為だったのか。殺人性愛エロトフォノフィリア。彼女は聞いた事があった。相手もしくは自分を殺さないと興奮しない、異常性癖の一つを。今まさに彼女はそれの犠牲者になろうとしている。それなのに、彼女の頭に浮かんだのは、『もう生きるのにも疲れた』と言う投げやりな感想だった。

もう疲れた。休みたい。休んだら、きっと――あの人の側に行ける。

……あの人?

ヴェロニカはぎょっとした。

あの人にもう一度会いたい!

それはあまりにも赤裸々で、生々しくて、一途な絶叫だった。

いつも無気力で過ごしていた彼女から、何もかも奪い去った結果だった。

奪われて奪われて傷つけられて傷ついて痛めつけられて痛みすら感じられなくなって、それでも、それでもなお彼女の中に残った意志だった。

あの人に。

『ねえヴェロニカ』

あの人に。

『一緒に、この国から逃げよう。 付いてきてくれるかい?』

あの人に会いたい!

その瞬間だった。彼女は誰かの声をぼやける脳裏で聞いた。

『……契約しますか?』

誰?

『悪魔なんですけれど……魂と引き替えに私と契約すれば生かして差し上げますよ』

悪魔。それが何だ。私にはもう何も残っていない。奪えるものなら、奪ってみせろ。彼女はほとんど即答した。

するわ。

 「――ぐあッ!」

突然呼吸が出来るようになり、ヴェロニカは激しくせき込んだ。

「が、がはっ、かはっ……!」

空気がこれほど美味いものだとは知らなかった。彼女は少し落ち着いてからそう思った。それから、状況を見る。

ガエターノが胸を押さえてのた打ち回っていた。彼女はその背後に、ザクロを手にした女が立っているのを見る。

「貴方は……誰?」

『ええと。 私の名前はプロセルピナと言います。 貴方と契約した悪魔です。 ところで、その。 この人どうしましょう? 生かすも殺すも、貴方次第なんですが』

「コイツに何をしたの?」

『心臓を今押さえつけているんです。 心臓を握りつぶせば死にます。 それで、どうしますか?』

「殺してちょうだい」ヴェロニカは冷たく言い切った。「ううん、私が殺す」

『それじゃ、力を移行しますね』

ヴェロニカの手が、びく、びくと脈打つ熱い何かを感じた。ヴェロニカはそれに力を込める。ガエターノの苦悶の声が酷くなった。だが。

「――ふ、ふふふふ、あは、あはははははは!」

いきなり、けたたましく彼は笑い出した。

「何?」

ヴェロニカが不気味になって訊ねると、彼は青ざめた顔で、だが興奮した口調で言う、

「ヴェロニカ。 君は悪魔と契約していたのか! 素晴らしいぞ、素晴らしい! この力を使えば、私達はエフトラの頂点に立てる!」

「……」ヴェロニカは戸惑った。「私、達?」

「そうだ!」ガエターノは叫んだ、「私の計画と君の力があれば、それは可能だ!」

「……」ヴェロニカは手に込めた力をわずかに弱めた。ガエターノは必死に起き上がり、まだ青い顔で、

「悪魔によって人を殺したとしても、それは何ら罪には問われない。 何故なら悪魔を縛る法律は無いからだ。 いわば法外の殺人だ。 素晴らしい、素晴らしいぞ!」

「……死ぬのが怖くて気が狂った、と言う訳じゃ無さそうね」ヴェロニカは『力』を解放した。ガエターノの顔色がだんだんと良くなっていく。「それで、何人殺せば良いの?」

「三人だ」とガエターノは言った。「次期エフトラのドンの候補者は三人だ。 オッタヴィア、ジャンニ、そしてルクレツィオ。 だが殺すにも計画が必要だ。 いきなり殺しては何もかもが水泡に帰してしまう」

ガエターノは右手を差し出した。

「?」ヴェロニカは不審そうな顔をする。

「握手だ」ガエターノは言った。「君と私で同盟を結ぼうじゃあないか」

「そう」とヴェロニカは右手でそれを握った。


 「聞くけれど」とヴェロニカはプロセルピナに言った。「どうして悪魔が私に憑りつこうとしたの?」

『呼ばれたんですよ』とプロセルピナはザクロを食べつつ言った。彼女の好物はそれらしい。『魂の絶叫に』

「それは何?」

『ええと。 生きたいと言う絶叫、とでも言えば良いんでしょうね。 とにかく悪魔が異界から呼ばれるのは、それが聞こえた時です。 いつでも誰にでも聞こえる訳じゃない。 何かの波長が合った時にのみ聞こえる。 だからその出会いは、運命的な何か、なのでしょうけれど』

「ふうん。 悪魔がそもそも実在したなんて。 あんなのは大昔のおとぎ話だと思っていたわ」

『……照明が当てられなくなって忘れ去られただけですよ。 でも存在するものは存在するし、因縁は付いて廻る』プロセルピナは食べ終えたザクロをゴミ箱に入れた。『まあ、でも、私は貴方達が思っているほど悪魔らしくは無いですね。 そもそも大抵の悪魔は貴方達が思っているより人間臭いです。 魂を寄こせなんて言いますが、それは契約者が死んだ後のためになりますし』

「そう。 貴方の能力は一体どんなものなの?」

『物体透過能力、です。 例えば、人体に手を突っ込んで臓器を握りつぶせます。 でも……』

「何?」

『殺す時、罪悪感が半端ないんですよね……』

「じゃあ私にやらせて。 貴方は拳銃。 殺意を撃つのは私。 貴方に罪は無いわ」

『で、でも……貴方、人を殺してまで生きたいんですか?』

「……」ヴェロニカは少し黙ってから、「私はもうどうでも良いと思っていた。 正直、死んでも良いとすら考えていた、と思っていた。 でも、私の叫びが貴方を呼んだのだとしたら、私は本当は生きたいのよ。 そして今生きるためには、人殺しだってしなければならない。 弱い事は罪なのよ」


 ……久しぶりに懐かしい夢を見た。

「ヴェロニカ」とあの人が私を呼んでいる。優しい笑顔で。「ねえヴェロニカ。 君は今幸せかい?」

「幸せよ。 だって、貴方と一緒にいるんだもの」

あの人は言う。

「何で私達は結婚できないんだろうね。 好きな人を好きになって、たとえそれが平民であろうと貴族であろうと、何が悪いのか」

「……種族が違うから、よ。 きっと」

「種族……か。 確かに私達貴族は魔族で、君達は平民、すなわち人間だ。 でも、好きになってしまったんだ。 私は君を好きになってしまったんだ。 それの何がいけないんだい?」

ここで私は夢だと気づいて、泣きたくなった。

「もう私は二度と貴方に会えないわ。 


 目が覚めた。ヴェロニカはしばらくぼうっとしていたが、やがて起きてシャワーを浴び、化粧をして、化粧台の椅子に座り、葉巻をくわえて火を点けた。

その匂いがベッドルームに満ちる頃、ガエターノが起きた。

「――まずはルクレツィオからだ」

朝食を二人で取りながら、ガエターノは言った。

「ルクレツィオについて説明しよう。 この男が一番危険だ。 ヤツはドンが愛人に産ませた男だ。 次期ドンに最も近い男と言われている。 私も表向きはルクレツィオに従っている。 だがヤツは妙な所で紳士的でね。 私の性癖を忌み嫌っている」

「紳士じゃないわそれ。 ただ普通ノーマルなだけよ」

ガエターノは苦笑いを浮かべて、

「まあ、それで私はもうじき殺されるだろう、と言う所まで来ているんだ。 だから、殺し返してやる。 今度エフトラの幹部が集う祝賀会があるんだ。 ドン・コルレオーネの誕生日を祝う」

「それで?」

「君を私はその場で殺そうとするだろう」とガエターノはにやりと笑った。


 ルクレツィオは偉丈夫だった。いかにも次期マフィアの首領ドン、と言った風情で、堂々としていたし、同時に知性と残忍性を兼ね備えた目をしている男だった。

エフトラのドン・コルレオーネの誕生会に、ルクレツィオは数人のお供を連れて堂々と登場する。彼の子飼いの部下と、身辺警護の者達だった。ルクレツィオは丁寧に高座にいる彼の父親に挨拶をし、それから父親の側にいたオッタヴィアとジャンニを目で一度だけ威圧した。ドンの孫娘のオッタヴィアは悔しそうに唇を噛んでうつむき、ルクレツィオと同じく愛人の子であるジャンニはびくりと震えた。それからルクレツィオはヴェロニカを連れたガエターノの所にやって来て、いきなり言った。

「いい加減にしろ」

「何を、ですか?」ガエターノはわざとらしく困惑した顔をする。

「貴様のご高尚な趣味を、だ。 いくら貴様がドンに寵愛されていたとしても、貴様の趣味は悪質すぎる」ルクレツィオはガエターノに迫った。「貴様は一体何人やれば気が済むんだ?」

「さあ。 分かりません。 私はただ、変わった恋愛をしたいだけなんです」平然としらを切るガエターノに、

「外道が」ルクレツィオはそう言い捨てて、今度はヴェロニカを見た。「おい、女。 ……やはり中々の美人だな。 この男が嫌になったら、いつでも俺の所へ来い。 愛人の一人くらいにはしてやる」

「ガエターノ様ほど私に優しくして下さる方はいないから……」

ヴェロニカはそう言って顔を赤らめた。

「哀れなものだ」ルクレツィオが心底そう思って言った時、ドンが口を開いた。威厳ある声が言う――。

「我が子供達よ。 家族達よ。 よくぞ集まってくれた。 今日は、ワシの後継者を決めたいと思う」

「「!」」

一同に衝撃が走った。だが、ドンは続ける。

「皆も知っていると思うが、今生きているワシの子と孫は合わせて三人。 ルクレツィオ、ジャンニ、オッタヴィアだ。 この中で最もワシの跡継ぎに相応しいのは……」

誰もが息を呑んで続きを待った。そして、ドンは言った。

誰もが絶句した、それを満足げに見渡してドンは、

「ワシの跡継ぎに最も相応しいのは、ガエターノだ。 ルクレツィオには卑怯さが足りぬ。 ジャンニには度胸が足りぬ。 オッタヴィアには賢さが足りぬ。 三人ともエフトラを支配するには器が足りぬ。 その点ガエターノは、まあ悪しき性癖があるのだが……その足らぬ三つ全てを兼ね備えている。 よってワシは、ガエターノを後継者とする」

沈黙が広がった。最悪の予想外の最低の予想外が起きたからだ。

「……」オッタヴィアとジャンニとルクレツィオは凄まじい目でガエターノを見ていた。

ガエターノは恭しくドンの足元にひざまずき、その靴にキスをした。

「ドンのご命令とあらば。 私は何なりと従いましょう」

血圧が上がりすぎたオッタヴィアが倒れた。ジャンニはいつの間にか失せていた。ルクレツィオだけが残って、ガエターノを殺意の眼で見ていた。

豪勢な料理が運ばれ、それを食べ終えるとダンスの時間がやって来た。ガエターノはヴェロニカと踊りながら、囁いた。

「大きな変更はあったが、計画は実行しよう。 このままでは間もなく私は殺されてしまう、ルクレツィオに」

「分かったわ」とヴェロニカは頷いて、トイレに行くふりをした。ガエターノはそれに付いていく。

二人が会場から出たと誰もが思った時だった。銃声。警護の者が血相を変えた。ざわめく人々。その中をかき分け、ヴェロニカが悲鳴を上げながら走ってきて、ルクレツィオに向かって、

「助けて、助けて下さい!」と叫んだ。

「何が起きたんだ!?」

「わ、私、殺される!」

彼女の後を追って、ガエターノが渋い顔をして、会場に入ってきた。

「貴様!」ルクレツィオは険しい顔で睨みつけた。「この下種野郎が!」

「ねえ、ヴェロニカ」とガエターノは甘い声を出した。「戻っておいでヴェロニカ」

「ひっ!」ヴェロニカは余計に怯えて、ルクレツィオの背後に隠れた。彼女を庇うように、ルクレツィオは前に出て、ガエターノを憎々しげに見た。

「調子に乗るな、ガエターノ」

「乗ってなどいませんよ。 彼女を返してもらえませんかね」

「断る」

そう言ってルクレツィオはヴェロニカの手を引き、会場から去って行った。

高級車に乗って、ルクレツィオは自宅に帰った。

「あの」とヴェロニカは言う。「ガエターノは一体どんな人なんですか?」

「ヤツはドンの愛人の連れ子だ。 ただの連れ子だったのに……!」

悔しそうにルクレツィオはうめいた。

……それから数日、彼と彼女は一緒に暮らした。たちまち彼は彼女に夢中になった。他の女とは違うのだ。他の女がそこら辺に転がっている小石なら、彼女はさん然と輝く宝石だった。体も、教養も、立ち振る舞いも、何もかもが違うのだ。彼女は、蠱惑的でありながらもうっとりするくらいに上品で、清楚に美しいのに妖艶なのだ。

「ああヴェロニカ!」ルクレツィオは彼女をむさぼりながら言う。「お前はアイツなんかに殺させなくて正解だった!」

そう言われても、物足りない。ヴェロニカの中にあるのは、退屈だった。ガエターノとの命がけの同盟の方が断然面白い。けれど今の彼女はただ、ルクレツィオのなすがままに任せた。彼女は愛されるのは嫌いでは無かったのだ。

「良い女だ!」ルクレツィオは噛みつくように囁く。「本当に殺させなくて良かった」

「ねえ、私の事、愛して下さる?」ヴェロニカは訊ねた。

「当たり前だ!」

「裏切ったりしない?」

「するものか!」

「……良かった」とヴェロニカは呟いた。そして快楽の渦の中に巻き込まれていった。


即座にルクレツィオは動いた。何と敵対していたはずのジャンニとオッタヴィアを説得し、自分の味方に引き入れたのだった。

「あの男だけは殺さねばならない!」

ルクレツィオはそう言ってテーブルに拳を叩きつけた。

「ど、同感なんだな」と肥りすぎのジャンニは頷いた。「ぼ、ボクはあんな野郎が自分の上に立つのかと思うと、ぞ、ぞっとしないんだな!」

「八つ裂きよ!」オッタヴィアは激怒していた。「あの野郎、私にあれだけ媚を売っておきながら! 手の平を返したかのように冷たくして!」

「……」それを聞きつつ、ヴェロニカは殊勝にうなだれている。

そんな彼女の口元に、わずかな笑みが浮かんでいたのを知っているのは、彼女に憑りついた悪魔プロセルピナだけだった。


その会見が終わって二人が帰った途端に、ガエターノがルクレツィオの館にやって来た。

「ヴェロニカを返して欲しいのですが」

「ふざけるな!」とルクレツィオは激怒した。「どうせ返せば殺すんだろう! そんなに人を殺したいなら傭兵にでもなれ!」

「違いますよ。 ヴェロニカを返していただければ、貴方を次期ドンにして差し上げます。 私にはその座を引き換えにしてでもヴェロニカがどうしても必要なのですよ」

信じられないガエターノの発言。ルクレツィオの顔に、驚きが浮かんだ。

「な……!?」

「さあ、どうします?」

ルクレツィオは迷った。迷ってしまった。迷った挙句言った、

「……き、貴様の言う事など信じられるか!」

そう言ってルクレツィオはヴェロニカをちらりと見た。そして、ぎょっとした。

「……そう。 そうなのね」

ヴェロニカが冷たい嘲笑を浮かべていたからである。

「私の事をあれほど愛しているとうそぶきながら、迷ったわね?」

慌てたルクレツィオは、必死に言い訳を考え出そうとした。

「ち、違うんだヴェロニカ、これは――!」

「貴方が裏切らなければ、私、こんな事をするつもりは無かったのに」

ヴェロニカの手に、あの、びく、びくと脈打つ、熱い命の、生きる肉の塊が握られる。

「さようなら、ルクレツィオ。 ――地獄で会いましょう?」

ぐしゃり。彼女はそれを握りつぶした。


 ルクレツィオが死んだ。これを聞いたオッタヴィアとジャンニは仰天した。彼女らは、だが、腐ってもマフィアであった。オッタヴィアは自分がドンのただ一人の孫である事を主張し、反ガエターノ派の幹部テレジアと組み、ガエターノに徹底抗戦を吹っかけた。ジャンニは反ガエターノ派の幹部ラウルにより担ぎ上げられた。

 「予想通りになって来たわね」と寝具の中でヴェロニカは言った。

「そうだ。 事態はもっと、もっと悪化するだろう」ガエターノは彼女を抱きしめてにやりと笑う。いつもの、目だけは笑っていない笑みで。「エフトラを目障りに感じていた連中が、この機会を逃すはずが無いのだから」

「……ガエターノ」と彼女はぽつりと口にした。「貴方がもしもルクレツィオだったら、あの時何て返事していた?」

「決まっているだろう。 『貴様は殺すしヴェロニカも渡さない』。 何を迷う必要があるんだい?」

「……やっぱり貴方は貴方ね」

ヴェロニカは何かがようやく腑に落ちた気がした。この男は真性の異常者だ。だが自分を絶対的に必要としている。それは愛などと言う仮想の仮装の理由ではなく、とても大きな利用価値が彼女にあるからだ。だから、裏切らない。そこに愛など要らない。たったそれだけだ。それだけだったのだ。

――そう。のだ。

なのに、彼女の胸はちくりと痛むのだった。

『ヴェロニカ! ヴェロニカを放せ! 私のヴェロニカを返せ!』

あの、懐かしい声がよみがえった時に。


 オッタヴィアとテレジアは真剣な顔で今後の対策を共に練りあげていた。当然部屋は二人きりで、館は万全の警備を敷いてある。

だが、外でざわめきが起こり、召使いの一人が血相を変えて駆け込んできた。

「大変です! 聖教機構が――!」

「聖教機構!? 何故!?」とテレジアが叫んだ。だが召使いを突き飛ばして武装した一団がなだれ込んできたため、顔色を変えた。

「麻薬密売、売春斡旋、並びに恐喝の容疑で貴様らを逮捕する!」

一団の一人がそう言った。

「証拠は!? 証拠はあるの!?」オッタヴィアは怒鳴った。

「匿名の密告だ。 さあ、大人しく来てもらおうか!」

やられた。彼女達は今更ながら後悔した。ガエターノは聖教機構をも利用して、彼女達を潰すつもりなのだ!聖教機構はエフトラの跡目相続問題に乗じて、エフトラを潰すつもりなのだろう。だが、この大敵すらもガエターノは利用した!何と言う男だ。何と卑劣な男なのか。聖教機構はエフトラを潰すためならば手段は選ばないだろう。それはつまり、逮捕された彼女達の命はもう無いと見なして良い。聖教機構の壮絶な『異端審問裁判』にかけられて、そして――処刑される。その末路を想像したオッタヴィアは真っ青になった。

「嫌よ!」オッタヴィアは激しく抵抗したが、力と数に負けて囚われた。「止めて! 私は何もしていない! 止めてったら!」

だが、彼女も連れて行かれた。テレジアの方は、捕まる寸前に己のこめかみに、こっそりと所持していた拳銃を押し当てて、そのまま引き金を引いた。


 プロセルピナは何だか憂うつそうな顔をしている。

『……あの』と彼女は言った。『人が死ぬんですよ?』

「そうね、死ぬわね」とヴェロニカは返した。ガエターノは今出かけている。ヴェロニカは酒と葉巻を寝台ベッドの上でのんでいた。

『何とも……思わないんですか?』

「思わないわね。 ただ、言えるのは」ヴェロニカは煙を吐き出して、酒のやり過ぎでしゃがれた声で言った。「彼女達は弱かったの。 弱いのは罪よ。 聖教機構の教えでは、弱い者こそ偉い、なんて書いてあるけれど、あれは大間違いよ。 弱い者は惨め。 弱い者は卑怯。 弱いから吠えるのよ。 そんな弱い者は全員死ねば良いの。 だってこの世界は残酷だから」

『そんな!』プロセルピナはザクロを取り落した。『そんなの、あんまりじゃないですか!』

「……貴方、それでも本当に悪魔なの?」ヴェロニカはあきれ気味に呟いた。

『だから、悪魔にも人間味はあるって言ったじゃないですか!』プロセルピナは叫んだ。『弱い人の何が悪いんですか!』

、と言う事もあるのよ」ヴェロニカはそう言ってから、遠い目をした。「正に私がそれだったわ」

『え……?』

「『帝国セントラル』は当然知っているわよね? 聖教機構、万魔殿に並ぶ世界的勢力の最後の一つ。 魔族が貴族として平民の人間達を統治する大国」

『ええ、それは知っていますが……』

「あの国にはね、厳しい掟があるの。 貴族と平民の恋愛はご法度なのよ。 でも馬鹿だった私は貴族と恋愛してしまった。 それで国外追放。 後は……好きでも何でもない男達相手に股開くしか生きる方法が無かった。 当然よ。 権力も金も無かったか弱い小娘が、身の程知らずの真似をやらかしたんだから。 当然の罰よ。 それで思い知ったの、弱いのは悪い事だって」

『……』

「さ、昔語りも酒も葉巻も程々にしないとね」と彼女は言って、起き上がった。「お帰りなさいガエターノ。 首尾は……その顔を見る限り上々ね?」

「ああ」ガエターノは微笑んだ。この男は良く微笑むが、いつも眼だけは笑わない。「オッタヴィア様が何と聖教機構に捕まってしまった。 ドンは大変なショックを受けて、倒れてしまった。 これは一大事だ!」

「ガエターノ、貴方」とヴェロニカは慣れた態度でそれを流し、「ドンに恨みでもあるの?」

「……まあ、あると言えばある、かな?」ガエターノはベッドに腰掛けて、「私の母もドンの愛人だった、と言うのは知っているかい?」

「……何をされたの?」

「ドンは基本的には女好きだったけれどね、何と意外にも、少年愛ペドの気もあったのさ。 まあ、一度きりと言う事は興味本位だったのだろうけれど」

「カマ掘られたの、ガエターノ?」とヴェロニカは率直に訊く。

「思い出したくも無いが……そうだ。 縛られて泣き叫ぶ母の前でね。 それから母はおかしくなって、最期は自殺してしまった。 その第一発見者が私と言うおまけつきでね」

「それで恨んでいるの?」

「恨むなと言う方が無茶じゃあないかい?」

「それもそうね」

「おかしな話だが」ガエターノはわずかに目を細めて、「ぶらん、ぶらんと振り子のように揺れている母を見た時、私は何故か興奮したんだよ。 した。 私はあの時に私の中の何かが決定的に壊れてしまったのだと分かっている。 それから私が異常者になってしまった事も知っている。 でも、あの脳天を直撃するような、苦痛にも絶望にも似た激烈な衝撃がどうしても忘れられないんだ」

「あっそ」下らない。ヴェロニカはそう思って、「今まで何人殺したの?」

「自慰の回数を覚えているほど私は暇人じゃあなくてね」ガエターノは薄い笑いを浮かべてヴェロニカを見、「さてと今度はジャンニだ。 ジャンニ自体は何て事は無いが、後に付いているラウルが問題だ。 ラウルは賢い男だ。 オッタヴィア逮捕の知らせを受けて、もう私が背後で動いた事に気付いて、逆襲に出るだろう」

「どんな逆襲?」

「さあ、手段は倫理観を捨ててしまえばいくらでもあるからね」

「……」ヴェロニカは何も言わない。

「でも、既に手は打ってきた。 ヤツが動けば動くほど、まるで蜘蛛の巣に引っかかった羽虫のように追い詰められるだろう」


 ラウルは形相を歪めていた。

「オッタヴィアがやられたか……! 次は我々だ。 そんな事をさせてたまるか!」

「ら、ラウル」ジャンニはストレスのために過食し、余計に肥った体をぶるぶると揺らしている。「ぼ、ボクはどうすれば良いんだな?」

「……ご安心を」ラウルは、いずれこの男を頂点に立たせたら、自分が操って美味い思いをしようと思いつつ、そんな思惑は表にも出さずに言った。「ドンに直訴して参ります。 ガエターノが自分の孫娘を聖教機構に売ったと知れば、さすがにドンも必ずや激怒されて、ガエターノを処断なさるでしょう」

「そ、そうか。 それは、ほ、ほっとするんだな」

「ジャンニ様。 どうぞご安心を。 ガエターノごときに私は負けはしません!」

 ドンが入院している病院にラウルは馳せ参じた。そして、ドンに会おうとした――のだが。

「ドンはただ今面会謝絶中です」ボディーガードに止められた。「誰であろうと病院関係者でない限り、通すなとの事です」

「緊急事態なんだぞ!?」ラウルは大声を出した。

「面会謝絶です」

ラウルは追い払われた。

それでも諦めずに、ラウルは病院関係者に金を渡して成りすまし、ドンの病室に入った。

ドンは寝ていた。ラウルは何を最初に言うべきかわずかに考えて、それから口を開いた。

「起きて下さい、ドン、ガエターノの仕業です。 オッタヴィア様が聖教機構に囚われたのは!」

「……」ドンは目を薄く、弱々しく開けた。

「あんな異常者にエフトラを継がせてはなりません! ドン、どうかご再考を!」

「……ワシは」とドンは言った。「ガエターノを跡継ぎにすると言った。 本当は、だが、ワシの子、オッタヴィアの父ロドヴィーゴに継がせてやりたかった。 若くしてヤツが病気で死ぬとは思わなんだ……」

「ジャンニ様がいらっしゃいます!」ラウルは訴えた。「どうか、ドン、ガエターノだけは……!」

「……」ドンは目を閉じてしまった。

「ドン!」ラウルは必死の思いであった。ドンにすがり付き、「どうか――!」

銃声がいきなり響いた。何だと驚いたラウルは、己の胸に穴が空いているのを見て――それで、倒れて、死んだ。

「ガエターノは言った。 貴様らがオッタヴィアを売ったのだと。 そして自分を後継者として確固たる存在にするならば必ずオッタヴィアを救うと。 ……全くヤツは卑怯者だ。 だが、だからこそエフトラの主に相応しい」

拳銃を手にしたドンが目を開けて、冷えた声で言った。

「だが、今、ヤツは少し調子に乗りすぎている。 お灸をすえてやらねばならぬな」

そう言うとドンは起き上がり、何かを思案し始めた。


 ジャンニは食べていた。食べなければとても正気ではいられなかった。ラウルが帰って来ないのだ。いくら待っても待っても、戻って来ないのだ。不安と恐怖で彼は口に食べ物を詰め込んでいた。それは正に暴食であった。見る間に食卓に並べられたご馳走が消えていく。それに比例して、ジャンニの腹は丸く膨らんでいく。ぶよぶよとした黄色い脂肪が肥大していく。

「ジャンニ」と声がして、ジャンニは食べ物をわしづかみした手を止めて、振り返った。入院していたはずの己の父親が立っていた。「ジャンニ。 ちょっとこちらにおいで」

何だろう。そう思ったジャンニは、素直に従った。彼の頭がい骨には脳では無くて脂肪が詰まっていたのである。


 ドンが退院したその翌日、ガエターノはドンに呼び出された。宴の準備が出来ていて、特にガエターノの前に盛られた豪勢な肉料理は見事だった。

「ワシの退院祝いだ。 たっぷり食べるのだぞ、ガエターノ」

「ありがとうございます、ドン」とガエターノは毒殺に気を付けつつナイフとフォークで肉料理を切り分けた。その瞬間彼ははっとした。ジャンニがいない。ドンはこのような場に何故自分の息子を呼ばなかったのか?

いや、まさか。

ガエターノはまじまじと山盛りの肉料理を見た。

まさか、そんな。

「どうしたのだガエターノ? 何故食べない?」

面白がっているようなドンの声に、ガエターノは全てを悟った。

……さすがはエフトラの現ドン。悪名高いドン・コルレオーネ、やる事がキチガイじみている。

しかし、ガエターノはいつものように微笑んだ。

「……いえ、あまりにも見事な料理なので、つい、見とれてしまいました。 ふ、ふ、ふ、お先に頂きますね」

ガエターノは切り分けた肉を、たっぷりと肉汁を滴らせるそれを、口の中に入れて噛んだ。


 ガエターノの帰りをヴェロニカは館の玄関で待っていた。彼の毒殺が彼女にとっても懸念だったのだ。しかし、ガエターノは、やがて無事に帰ってきた。

「お帰りなさい、ガエターノ。 ……何があったの?」

ガエターノは口元を押さえていて、顔色は白く、何も答えずにトイレへと駆け込んだ。ヴェロニカは追いかけて、げえげえと吐き戻しているガエターノの背中をさすった。

『な、何が、何があったんですか!?』プロセルピナはその有様に慌てふためいている。

「なぁに、マフィアの戦争が始まったのさ」

ガエターノは全てを吐いてしまうと、顔色も戻り、ふてぶてしく言った。

『戦争だなんて……まるで国みたいですね』

「マフィアも国も同じものだ。 ただそれが権力と暴力に統べられているかの違いだけさ。 恐ろしさでは国家もマフィアも変わらない。 国家は民をわざわざ肥らせてそこから搾取するだけ、悪質だがね。 ……要は共食いカニバリズムだ。 共食いなのさ。 ふ、ふ、ふ、笑える話だ」

「……ガエターノ」ヴェロニカは淡々と言った。「宣戦布告は何だったの?」

ガエターノはまた薄い笑いを口元に浮かべて、冷酷な目で、

「哀れなジャンニの生贄さ。 さあ、戦争が始まったからには私は徹底抗戦するぞ。 たとえ相手が誰だろうと! 叩き潰し前進しよう!」


 「……」

ヴェロニカは考えている。今では手を伸ばしても決して届かぬ、懐かしいあの頃の事を。

彼女は『帝国』で生まれ育った。平民の子だった。だが平民の中でも非常に裕福な家の子であった。彼女は長じてから大貴族の館に使える召使いになった。召使いと言っても、ほとんど館を切り盛りする執事のような、召使い達を主導する立場であった。

ヴェロニカはそこで大貴族の御曹司クセルクセスと出会って、恋に堕ちてしまった。二人とも若くて、そして無謀で、世間知らずだった。大した力も持っていない御曹司と、ただの人間の小娘が恋愛したらどうなるか、その末路を考えるほどの先見も無かった。恋は盲目と言うが、二人はまるでどす黒い闇夜の中を手をつないで歩くような有様だった。

帝国では平民と貴族の結婚を固く禁じている。だから二人はのぼせ上った挙句に帝国外に駆け落ちしようとして、そこを捕らわれた。

御曹司の父親は、厳格な男だった。父親は激怒して二人を引き裂き、ヴェロニカは帝国から追放され、御曹司は……どうなったのか分からない。

『――ヴェロニカ! ヴェロニカぁああああああああああああああああああああ!』

永遠に引き離されると知った時のあの人の絶叫が、今でも鮮明によみがえってしまう。忘れたくても忘れられないのだ。だって、まだ、ヴェロニカはあの人を愛しているから。

「ああ!」と彼女は深いため息をついた。それから無理やりに別の事を考える。

――今、聖教機構が動いている。聖教機構はエフトラを潰すべく、スパイを大勢放って動向を観察している。ガエターノはそれを逆に利用しようとしている。何の事は無い、自分に反対し敵対する者とドンを生贄に差し出して、自分達はエフトラの機構と金を持って逃げるつもりなのだ。そのために、ヴェロニカとガエターノは準備をしている。ヴェロニカとガエターノはスパイにドンにとって不利な情報をわざと掴ませて、聖教機構の圧力がドンの方にかかるようにしている。だが、ドンも動いていた。まるで蛇がお互いを食らって呑み込むように、ガエターノとドンの争いは続いている。

だが。ヴェロニカは思うのだ。本当にこのままで良いのか、と。


「……マフィアのままで良いのかしら。 このままじゃ永遠に聖教機構と争わねばならないわ」とヴェロニカは言った。

「それがどうしたんだい?」ガエターノが不思議そうな顔をする。

「……マフィアである限り、私達は聖教機構に永遠におびえ続けなければならない。 だったら、マフィアじゃなくなれば良いのよ。 聖教機構ですら手を出せない存在になってしまえば良いのよ」

「……具体的には君は何をしたいんだ?」ガエターノは訊ねた。

「エフトラを、革新したいの」ヴェロニカはじっとガエターノを見た。「ウトガルド島は知っているでしょう?」

「ああ。 『帝国』の所有する離島だろう? ちょうど聖教機構と万魔殿、そして帝国との勢力が拮抗する場所にある……」

「その島を買いたいの。 買って、誰にも手を出せない享楽と不夜城の島にしたいの」

「……」ガエターノの眼が光った。「詳しく聞かせてくれないかい?」


 ドンがガエターノを呼び出した。ついに来たか。ヴェロニカを連れてガエターノはドンの邸宅に向かう。

「ガエターノよ」とドン・コルレオーネはガエターノめがけて部下に銃口を向けてさせながら、言う。「貴様はどうやらワシが生きている内にエフトラを奪い取るつもりのようだな。 だが、そんな真似はさせん。 エフトラはワシのものだ!」

「どうされたのです、ドン。 私は貴方様からエフトラをいずれは……と約束されました。 何故今になって焦る必要がありますか!?」

ガエターノは心底心外なように顔色を変えた。

「貴様はエフトラを維持するために、ワシを聖教機構に売るつもりだろう? だから逆にワシも貴様を聖教機構に売ってやろう。 ワシの大恩を忘れた馬鹿者は処罰する!」

「――大恩?」ガエターノはいきなり嘲りの顔を浮かべた。「たった一〇歳のガキを止めてと泣き叫ぶその母親の前で犯し、自分の息子の肉をそのガキに食わせるガイキチに。 何の恩があると? 痴呆もほどほどにしろこの老いぼれ。 貴様は死ぬんだよ。 聖教機構に囚われてあの名高い異端審問裁判にかけられて! それが貴様の末路だ。 どうだ、貴様にはぴったりだろう?」

「ガエターノ、貴様!」ドンは激怒の顔をして指を鳴らした。部下が引き金を引こうとした。

――爆音が響いた。

「「!!?」」

だが騒音と悲鳴が迫ってくるにつれて、誰もが事態を悟った。

聖教機構だ。聖教機構が強襲してきたのだ!

「ガエターノ、貴様!」

ドンが真っ青になって怒鳴った。

「聖教機構は実に優しいんですよ」ガエターノはドンを見下した目で言った。「刃向う者には死を。 恭順する者には永遠の幸福を約束してくれる。 ……さあて、さようならの時間です、ドン。 いずれ地獄でまたお会いしましょう」

そう言ってガエターノはヴェロニカを連れて立ち去った。

ドンは逃げようとしたが、無理な話だった。神を信じろとの教義を振りかざす、悪魔のような聖教機構が、そんな愛くるしいへまをやってくれるはずも無かった。


 「ねえヴェロニカ」

ガエターノの邸宅で、彼はヴェロニカを抱きつつ言う。

「どうも私は心底君を気に入ってしまったらしい。 君は、多分、私の母に似ているんだ」

「マザコンね」とヴェロニカは冷めた声で言った。ガエターノは苦笑して、しかし、珍しくその眼は笑っていた。

「男はいつまで経っても母親に呪縛される生き物なのさ。 それより、帝国との使者の面会がもうすぐだ。 君も一緒に会ってくれるね?」

「ええ、構わないわ」


 エフトラは表向きは聖教機構により解体された。だが、その莫大な資産と組織そのものは残っている。ガエターノが維持している。ガエターノは聖教機構にこう言ったのだ、

「我々はマフィアを辞めて合法的な存在になりたいのです。 ご協力して頂けないでしょうか?」

聖教機構は驚いた。まさかマフィアがそんな事を言い出すとは予想していなかったのである。だが、聖教機構は己に恭順する者には優しかった。神の教えにあるのである、『同朋には愛を、敵には死を』と。だが聖教機構は半分疑心を持って彼らの動向を観察していた。いつでも潰せるぞ、と言う無言の重圧がガエターノ達にかかっていた。

 ガエターノはそんな中、帝国に話を持ちかけた。ウトガルド島を売ってくれと言う話である。帝国は最初渋ったが、即金で言い値通りの金をガエターノが出すと言ったので渋々承諾した。その契約の調印に、これからヴェロニカを連れてガエターノは出向くのである。

調印場所は彼らの目当てであるウトガルド島だった。二人は大型客船に揺られてそこへ向かった。

「……?」ヴェロニカは不意に吐き気を感じて、トイレに向かって吐いた。「な、何!?」

船酔い、では無い。彼女は船酔いしない方だったし、海は荒れていない。むしろ凪いでいる。

『あ!』プロセルピナが手を打った。『おめでたですよ!』

「……」彼女は自分のお腹に手をやった。「私、が……」

彼女はそれから、鏡に映る己の顔を見た。その顔は今までの彼女がそうだと感じてきたものとは全く違うものに見えた。


二人がウトガルド島に着いてから、ほんの少し待たせただけで、帝国の使者も現れる。

それが誰か目にした瞬間、ヴェロニカは思わず息を呑んだ。

「申し訳ない、遅れてしまって」

そう言った男は、間違いなく、彼女の愛したあの人――クセルクセス・イレナエウスだったのだ。

「いえいえ、こちらも今しがた着いたばかりです」ガエターノはにこやかに言って、クセルクセスに着席を勧めた。

「?」

席に三人が着いた後、クセルクセスは不思議そうな顔をした。

「そちらの女性はどなたですか?」

「ああ、私の秘書です。 私はどうも物忘れが酷くて、彼女無しには仕事が出来ないのですよ」

この時の彼女は、さすがに毒々しいいつもの姿ではなく、真面目な格好をしていた。それで、クセルクセスはそうなのだろうとガエターノの言葉を疑わなかった。

「そうでしたか。 ――では、始めましょうか」

気付かなかった!

ヴェロニカは必死に表情を歪めまいと努力した。

……そうだ。当然だ。彼はあの時から何も変わっていないのに、彼女の今の有様と来たら――!彼女はもう変わってしまったのだ。堕落して、汚れて、醜くなり。手を血で染めた。あの頃の、クセルクセスの腕の中で笑っていた、美しくも愚かで純粋だった彼女ではもう無いのだ!あまりにも彼女は変わってしまった!気付かれなくて当然だ。

彼を愛す資格などもはや彼女は持っていなかった。

ヴェロニカは、爪が食い込み血が出るまで手を握りしめた。

正式に調印して、離島も含めた全ウトガルド島の売買契約は無事締結された。

「それでは、御機嫌よう」とクセルクセスは席を立ちあがり、ガエターノと握手して、帰って行った。ガエターノも帰ろうとして、

「どうしたんだいヴェロニカ? 変な顔をして」

ヴェロニカはふっと笑った。

「……妊娠、したみたい」


 ヴェロニカは、どうもつわりで気分が優れないので一人にしてくれとガエターノに言った。ガエターノは彼女の妊娠を心から喜んでそうした。

一等客室で、たった一人きりになった彼女は、枕に顔を埋めて、声を押し殺して泣いた。悲しくて恨めしくて、ありとあらゆる感情が混ざって涙になり、あふれてこぼれ落ちた。何よりも愛していたあの人は、もう、愛せないのだ。

――あれは、遠い日の夢だったのだ。

『……貴方にも、涙があったんですね……』

ぽつりと呟いたプロセルピナに、ヴェロニカはきっぱりと言った。

「最後の涙よ」


 ウトガルド島が享楽と快楽の人工島に改造され、世界一のマネーロンダリングの拠点となったのは、それから間もない頃の事だった。ウトガルド島はどこの勢力にも与しない。ただ、金だけがここでは価値あるものであり、金さえあればどんな欲望でも満たす事が出来る。賭博と快楽とが入り乱れ、いつも目をぎらぎらと光らせた人間や魔族がひと時のこの世の天国を味わうために――それが奈落の綱渡りだとも知らずに――やって来る。そこは、正しく、『どこにも無いウトガルド島』であった。


 ガエターノが亡くなったのは、それから何十年後の事だったか。病死だった。難病にかかり、まるで彼がかつてしてきた事の報いを受けるかのように、散々に苦しんで死んだ。

「まあ、私には相応しい死に方だろうさ」ガエターノは最期にそう言った。

彼の子供が後を継いだ時、ヴェロニカはプロセルピナに頼んだ。

「私が死んだ後、代々のこの島の王に憑りついて欲しいの。 お願いできるかしら」

『……』プロセルピナはしばらく考えてから、微笑んで頷いた。『貴方達の血塗られた歴史とこれからの歴史、この目で見てみるのも悪くはありませんね』


 ――その、悪魔が語った長い物語を一人の少年が聞いていた。

「それで、それからヴェロニカはどうなったの?」

『孫が出来たら安心したのか、死んじゃいました。 長生きでしたよ』

「そっか。 良かった」と少年はほっとした顔をする。

『それにしても、貴方達は不思議ですねえ』と悪魔は言った。『本当に貴方達はお互いを信頼し合っている。 これが友情と言うものでしょうか』

「アイツは良いヤツだよ」少年は言った。「アイツは僕だけは裏切らない。 本当に良いヤツだよ。 僕はアイツが好きだ」

『ふふふふふ』と悪魔は笑った。『私はプロセルピナ。 ウトガルド島王に代々受け継がれる力。 よろしくお願いしますね』


                           END

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