第10話 夜のつぎには、朝が来る。

 夜とか朝とか死とか、そういう自然現象は誰にでも公平にやってくる。年寄りにでも赤ん坊にでも、金持ちにも貧乏人にも、すべての人間にやってくる。そうして、わたしには、そういった自然現象とは別に、ナポリターノくんがやってきた。

 ナポリターノくんとの出会いは立呑み屋だが、そのときのナポリターノくんは非常に幸運だった。なぜなら彼はわたしを探していたからだ。それも探しはじめてからまだ数日しかたっていなかったのだ。偶然とはいえ、おかしな立呑み屋でわたしと出会ったというのだから、まさにマンガのような出会いとしかない言いようがない。

 ナポリターノくんがわたしを探していたのは、じぶんが読んで感動した本の作者に会いたくて、できれば弟子入りしたいと思ったからだ。ナポリターノくんはわたしにそう言ったのだ。


 わたしはこの歳まで著作物を刊行したのは一冊しかない。「夏の裏のキ●タマ」というのがそうだ。一九八九年にS書房の親切な社長さんから勧められて百冊を自主出版した。青春が終わりかけた青年と青年よりも十歳年上の人妻との淡く、深い、けだもののような交わりとその顛末を書いたものだ。このふざけた題名はボリス・ヴィアンの「北京の秋」の題名の付け方を真似した。ところが、悪ふざけが過ぎて逆効果でしかなかった。わかりやすくいうと、もともとのつまらない内容をムチャクチャなタイトルのせいでさらに下品さに磨きがかかってしまったのだ。つまり箸にも棒にもかからない、まったく救いようのない、くだらない本なのである。たとえば、死んだときに故人の遺品として棺桶には絶対に入れてもらいたくはない本であり、できれば存在そのものを知らない方がいい、というたぐいのものである。ナポリターノくんにくわしく問いただしてみると、その本は一度英語に翻訳されたらしい。商業的には出版社の利益とはまったくむすびつかないその本がどうして翻訳されたのかはわたしにはさっぱりわからないが、英訳されたときのタイトルは


「THE SUMMER KNOWS」


 美しいタイトルだ。まったく美しい。訳者はこのような品位のある美しい単語をなぜ選べたのだろうか。そして、このタイトルはミッシェル・ルグランの有名は曲のタイトルでもある。パクリじゃないのか。誰が英訳したのか知らないが、それにしてもよりによってこのタイトルをパクることはないんじゃないか。美し過ぎる。

 その美しいタイトルのまま、こんどは英語から日本語に翻訳されたのだ。逆輸入車と同じだ。ちがうのは日本語に翻訳しなおした訳者の言葉の選び方がわたしよりも格段にすぐれていたことだ。そして、わたしは、本人の知らないところで、いつのまにか、英語で下書きをして日本語で清書する作家として、いわゆる「マニア」のあいだで一目置かれる存在とみなされていたのだ。


 もともとは冥途の土産にしてほしいと半分嫌がらせのつもりで知り合いの年寄り連中に贈った本なのだが、だからといって、あまりの下らなさに読んだ年寄りがつぎつぎと死んでしまうというようなしろものでもない。だから実害はないと踏んでいたが、しかし前途有望な若者が、こともあろうにその小説に感動してしまうのにはいささか気が引ける。何と言ってもまず人生の指針となるような話しではないのだ。書いた本人がいうのだからまちがいはない。若者のまちがいは早めに矯正してやるのが年長者のつとめだ。しかし、相手は子供ではないし、面倒くさいから、本人がじぶんで気がつくまでしばらくは待つことにした。




 ナポリターノくんがわたしに弟子入りをしてからいつの間にか数カ月がすぎた。わたしは弟子なぞ取らない。そう言っていたのだが、

「どんぐりころころの先生」と言われてから、妙な師弟関係ができてしまったようだ。


 ナポリターノくんの頭はかなりデカい。その頭のデカさに子供はびっくりして泣いてしまったことがある。小汚い川のふちにアゴのしゃくれた女がたたずんでいたときに連れていた子供を泣かしてしまった。嘘のようだが本当のことだ。

わたしは普段はその川を見に行くことはしないし、ましてやその川に泳いでいる鯉を洗いにして食ってやろうなんてことは思いつきもしない。が、そのアゴのしゃくれた女が子供の手を握ってじっと川面を見つめていたのを見て、ああ、こいつは今夜この鯉を洗いにして食いたいと思っているのだろうな、と思った。

ところで、アゴのしゃくれた女が連れていた子供が泣き出したのは、ナポリターノくんを連れて公園に向かって歩いていくときだった。わたしたちは缶ビールを公園で飲もうとしていた。その親子とわたしたちが川淵の小道ですれちがったそのとき、女の連れていた子供がいきなり泣き出した。子供は顔をあげて、目を見開いて、ナポリターノくんの頭を見て泣いていた。というよりも、ナポリターノくんの頭から目が離せなくなっていた。

 それを、あのバカ女、わたしたちが子供を嚇かしたと思って食ってかかって来たから、わたしは屁をかましてやった。わたしは貧乏である。貧乏で食うものやっとであり、食生活はかならずしも豊かであるとは言えない。が、どういうわけだか、屁だけは、いつも濃く、そして臭い。わたしの体内で発酵した気体はいつも限界近くまで凝縮されている。そして、その日は風がなかった。


風がなく

   肛門の

     肛門の

       肛門の

         肛門の

           肛門のヒダの


ヒダの一枚一枚がびちびちと震えているのがわかるほど長くしずかに音もなく放屁し、その濃密な臭気がわたしの体の周囲に漂っているときにそのバカ女が近寄ってきて、わたしの体に手を伸ばした。と、

「うっ」と言って唇が裏返るような顔をした。ただでさえアゴのしゃくれ具合が尋常ではない顔なのにチンパンジーのように唇を裏返したからわたしはその表情におどろいたが、そのバカ女は「う、う、う」と続けざまに呻いて子供の方に逃げて行った。かなり強烈な臭気だったらしい。目には涙が浮いていた。しかたがない。ざまあみろ。


 しかし、そんなことはどうでもいいことなのである。アゴのしゃくれたバカ女は屁をかませば逃げてしまうのでそれで済むが、ナポリターノくんの場合には屁をかましたくらいでは簡単にはわたしのもとを去ろうとはしない。不覚にも弟子入りを許してしまった手前、むらみやたらと破門するわけにもいかなくなり、いろいろと修行させてやらなければならないが、そもそも修行なんてものは人から言われてやるものでもないから、そのまま放っておくことにしている。いわゆる「放し飼い」だ。本人は、それで満足しているらしく、時々やってきてはなんだかわけのわからないことを言う。


 昼間の暑さもすこし一段落して夕暮れになると涼しい風が吹き、日中よりも過ごしやすくなった頃のことだった。ぎしぎしと音を立てる腐りかけの縁側に座って「鶴や」の田螺とわけぎのヌタを肴にビールを飲んでいた。縁側と言ってもネコもすれ違いできないほどの貧弱な縁側で、そこに座るのは危ないからやめろといつも妻に言われているが、好きな場所なのだから仕方がない。そこに座ってビールを飲むととても旨い。医者からは酒を飲んでも良い、とは言われていないが、酒を飲んではいかん、とも言われていない。飲んでも平気なのであるから飲んでしまう。

 ビールはサッポロの黒ラベルが気に入っている。ラベルの★が良い。田螺とわけぎのヌタを肴にラベルの★を時折眺めて飲むビールは格別である。と、そこに顔いっぱいに汗をだらだらかいたナポリターノくんがやってきた。ナポリターノくんはこの暑いのに長髪のままで、それをうしろで束ねている。外人の顔だか日本人の顔だか区別のつきにくい顔で、知らない人が見たらなんだか大層な人物に見えるようだ。見方によっては芸術家に見えなくもないが、かわいそうなことに頭が大きすぎる。何も知らない初対面の子供がその頭の大きさにおどろいて泣き出してしまうくらいだから、気の毒としか言いようがないのだ。頭が大きいのは本人がそうなるように願ったことではないのだから同情はするが、髪の毛を伸ばしてうしろで束ねるようなむさい真似は本人の責任だ。

 頭が大きいのだから顔も大きいのは当然で、その大きい顔いっぱいに汗をだらだらかいて上がりこんできたから、うけるほうはたまらない。また、その汗が臭い。汗のにおいだけだと、ナポリターノくんは外人のような気もする。日本人だと体臭がきつくなくて「水のような匂い」と言われているけど、若くして加齢臭を出すヤツもいるから、まあ、わかりにくい。そのにおいの塊がやってくるなり、どかどかと上がりこんでいきなり縁側にすわるものだから縁側の裏側のおかしなところからぎぎぎぃっと音がした。

「おい、縁側を壊すなよ」

「先生はノロイって知っていますか?」

「静かに座らないと床が抜けてしまうのだ」

「はあ、でも、もう座ってしまいました」

「まあ、仕方がない。次から気をつけろ。で、何の用だ」

「その小さい入れ物に入っているのは食べ物ですか?」

「これは田螺とわけぎのヌタだ」

「タニシとは何ですか?」

「田んぼにいる巻貝だ」

「田んぼにいる巻貝」

「田んぼにいる主だから、田主、それがなまってタニシになった」

「本当ですか?」

「そう言っている人もいるってことだ」

「寄生虫とかいないのですか?」

「いるかもしれん。だから、十分火を通してから食べる」

「おいしいのですか?」

「人による。それより用はなんだ?」

「あ、そうだ。ノロイです。ノロイ」

「ノロイ?」

「そうです。ノロイです」

「ノロイって誰かに祟る、あの呪いか?」

「誰かが誰かを恨んで、恨まれた人に不幸が訪れるという、あの呪いです」

「誰かが誰かを恨むと呪いなのか?」

「いえ、そうではありませんが、先生はその呪いをご存じですか?」

「あの呪いもその呪いもどんな呪いか知らんが、ふつう一般的に言う呪いのことは知っているぞ」

「じゃあ、呪いのかけ方とか返し方とかもご存じですね」

「そんなこと、知らん」

「先生、ボク、呪われているのかもしれないんです」

「呪われている?」

「そうなんです。ボク、呪われてしまっているんです。先生、ボク、コワイです。助けてください」

「どうして呪われているって思うんだ?」

「だっておかしなことばかり起きるんです」

「何が」

「おかしなことばかり起きるんです。ボク、コワイです」

「どんなことだ?」

「いつもは三杯食べても平気なのに牛丼二杯でオナカ痛くなりました」

「それで?」

「それでって、先生、ソレ、ボクには信じられません」

「ほう、他にはないのか?」

「あります、あります」

「何だ?」

「ネコにオシッコかけられました」

「ネコがきみにオシッコをひっかけたのか?」

「そうです、そうです、ネコがボクにオシッコをひっかけたんです」

「そりゃ災難だったな」

「ネコのオシッコ、とても臭いです」

「気をつけないと、今度は動物園でトラにオシッコひっかけられるぞ」

「ソレ、とても困ります」

「それで、どうした?」

「だから、ボクそのネコ、追っかけました」

「捕まえたのか?」

「はい、捕まえました」

「すごいな。ノラネコをよくも捕まえることができたな」

「でも、たくさん引っ掻かれました」

「そうだろうな」

「そしたら、引っ掻かれたところから、バイキン、入りました」

「ああ、ノラネコの爪はバイキンだらけだからな」

「そうです。バイキンだらけです」

「医者には行ったのか?」

「まだ行っていません」

「なぜ行かない?」

「行けないからです」

「どうして?」

「お金、持っていません」

「まわりくどいな。医者に行く金を貸してほしいのか?」

「まあ、ある意味、そうです」

「おまえ、人をバカにしているのか?」

「滅相もありません。お金貸してください」

「悪いけど、金ならないよ」

「そんな殺生な」

「お、語彙が貧弱なくせに難しい言葉、知っているな」

「はい、鬼平犯科帳読んで、勉強しました」

「いくら鬼平読んでも金はないよ」

「そんな滅相もない」

「使い方は、ちょっと、おかしいな」

「でも、鬼平犯科帳にはよく出てきます」

「早く医者に診てもらうんだな。そのままにしておくと死んでしまうぞ」

「ボク、まだ、死にたくありません」

「じゃあ、早く医者に行け」

「お金、貸してください」

「呪いの話しはどうした?」

「あ、呪いには続きがあります。どうして呪いをかけられたのか、ボクには心当たりがあるのでございまする」

「おかしな日本語だな。まあ、いいや。心当たりとは何だ」

「はい、じつはですね、」

 ナポリターノくんの話しをまとめるとこんなことだ。

 数日前の夜、遅くなってから金も無いのに酒を飲みたくなった。だけど、どこで飲んでいいのかわからなかったので、駅前の小さな小料理屋に入った。カウンターしかない店で、カウンターのなかに立っていた和服姿の女将さんはきれいだった。客は誰もいなくてナポリターノくんひとりだけだった。瓶ビールをたのんでちびちびと飲んだ。しばらくすると雨が降ってきた。ナポリターノくんはもうすこし小料理屋にいたかった。なぜならもう少し女将さんの顔を眺めていたかったからだ。それにこの雨ならもう客は来ないだろうと思った。お誂えの雨だった。ナポリターノくんは女将さんを独占できる。ますますお誂え向きだ。なんだか気持ちが大きくなって飲んだことのない日本酒を冷やで頼んだ。鬼平犯科長のなかで長谷川平蔵がいつも「冷やでかまわぬ」と言っているのを真似して注文した。そのうち女将さんが暖簾を仕舞い出した。

「もう、今夜は終わりにします」

「じゃあ、ボクも帰ります」

「あら、まだいていいのよ」

「でも」

「あたしにつきあってよ。それとも、誰かお家で待っている人がいるの?」

「いえ、誰もいません」

「じゃあ、いいでしょ」

 どこかで観た映画のようなクサイやりとりがあったあと、映画のような男女関係のどろどろした展開になるのを期待していたけれど、実際にはそうはならなかった。いまから思えば映画みたいになった方が良かったのかもしれない。もしも女将さんが美人局だったら、まだそっちの方が良かった。お金で解決できる美人局の方が良かった。お金は貯めようと思えば貯められる。だけど、ナポリターノくんの命はひとつしかないからだ。その時、ナポリターノくんは雨に濡れてもその場から帰るべきで、女将さんと酒を飲んではいけなかったのだ。でも、そんな事になるとは思わないからデレデレと鼻の下を伸ばしていた。すべては後の祭りである。

 女将さんはカウンターに腰掛けているナポリターノくんの横に来て座った。至近距離である。暖簾も下ろしてある。店の中は二人だけだ。期待するな、という方が無理だ。だからナポリターノくんは大いに期待をしたのだ。嗚呼、ボクもあこがれの美人と仲良くなれる。それも和服の良く似合う純和風美人と『わりない仲』になれるのだ、と鬼平犯科帳に良く出てくるセリフが思い浮かんだ。無理もない事だ。自分の姉さんくらいの年齢の女性に誘われ、その和服美人と具体的に仲良くなれるのだから、そりゃあ天にも昇る気持ちになってしまうのは当然だ。ナポリターノくんはまだ童貞である。童貞の女体に対する想像力と執着力は異常に逞しく、そしてとほうもなく自分勝手である。それが目の前で和服を着てじぶんに話しかけているのだから、尚更著しく亢進してしまうのは自然の摂理である。ナポリターノくんはふるさとの母親の顔を思い浮かべてから、一気にその妄想を爆発させた。次から次へとまだ見ぬ女体の神秘が頭を出たり入ったりして、やがて天に昇ってしまった。一度天に昇ったからには出される酒は全部飲んだ。出される肴は全部食べた。勧められるのを断っては女将さんに申し訳ないと田舎者の意地で全て飲んで、全て食べた。天に昇っているので普通では無理な事も出来てしまったのだ。しかし、肉体は下界にいるから無理な事をすれば、それ相応に体には祟る。体には祟るが気持ちが天に昇っているのだから自分を見失っていて、祟りはどんどんたまる。若いからすぐには祟らないかもしれないが、祟ることは祟る。酒が祟ったのか食い物が祟ったのか、女将さんと小一時間ほど差しつ差されつしていたら、突然目が回ってきた。椅子にじっと腰掛けていることもできないくらい目が回って床に転げ落ちた。床が回って、天井も回って、ナポリターノくんの顔を覗きこんでいる女将さんの顔を回っていた。女将さんは冷たいハンドタオルでナポリターノくんの顔を優しく拭きながら、こう言った。

「思ったより効き目があるのね」

 ナポリターノくんは、はじめは女将さんが何を言っているのかわからなかった。が、しかし、次の言葉で愕然とした。

「毒を飲ませたのよ。でも、すぐには殺さないわ。呪いをかけてあげる。じっくり、じわじわ、苦しんでから死んでいくのよ」

 何だかわけがわからないけれど、この場からすぐに離れた方が良いことだけはすぐにわかった。仰向けのまま、玄関の方に這って逃げて行くとき、死にかけて逃げるネコを見るような目つきでナポリターノくんの様子をじっと見ていた女将さんのその美しい顔がみるみる変わっていった。目が吊りあがり、鼻がとんがってきて、左右に大きく裂けた口からはべろべろと長い舌が出てきた。それから突然唸るように叫んだ。

「うおお、うおお」

 その声はそれまでの鈴を転がすような美しい女将さんの声ではなくなっていた。地面の底から聞こえてくるような割れた声だった。目が回るから歩けません、なんてことは言っていられなくなった。目の前で女将さんが動物みたいに変わってしまったのだ。ナポリターノくんが後ずさりして背中が当たったところがちょうど店の入り口の引き戸だった。ナポリターノくんには、まだツキはのこっていた。その引き戸をがくがく震える手でやっと開けて店の外に出た。


「それで、どうしたのだ」

「外は雨でした。ボクは雨の中に仰向けのまま這って出ました」

「中にいた女将さんはどうした?」

「店の中で動物みたいに唸っていました」

「本当なのか?」

「え?」

「本当にそんなことがあるのか?」

「あります、あります、だって、ボク、死にそうになったんですから、本当にあります」

「どうやって帰ってきたんだ?」

「ボクが店を飛び出して道路の上でひっくり返っていたら通りかかった人がいたんです」

「その人が助けてくれたのか?」

「いえ、その人はボクを起こしてくれました。でも、助けてはくれませんでした」

「助けてくれなかったのか?」

「その人、ボクのことを、大丈夫か?って助け起こしてくれたんです」

「じゃあ、助けてくれたんじゃないか」

「けど、顔がありませんでした。本当に顔をなかったんです。で、ボクは慌てて走り出して、走り出してから、あ、走れると思ったから全速力で走って逃げました。だからずぶ濡れで帰れました」

「それじゃ小泉八雲の『むじな』じゃないか。まあ、いいや。走っているときに車に轢かれなくて良かったな」

「コイズミヤクモって知りません」

「まあ、今はいいさ。それで、呪いは?」

「だから、その時女将さんに呪いをかけられたと思うんです」

「じゃあ、今夜、その店に行ってみるか」

「え?」

「ふたりで行けば怖くないだろ?」

「もう行きたくないです」

「でも、行かないと呪いの正体がわからないぞ」

「あ~、行きたくありません」

「でも行くのだ」

「あれ、そういえば、奥さんがお見えになりませんが、お出かけですか?」

「実家に帰ってしまった」

「そうなんですか」

「そうなんだ。じゃあ、その呑み屋に行こう」


 わたしは、嫌がるナポリターノくんを連れてすぐにでかけた。ナポリターノくんには金は貸せないと言っておいたが、まるっきりのからっけつではないからその晩の飲み代はわたしが持つことになった。駅までは歩いて二十分くらいかかる。夕涼みをしていたから汗はひいていたのだが、駅が近くなったころにはやはり大汗をかいていた。涼しくなったとは言え、まだまだ暑い夜だった。歩きながらナポリターノくんは、いきなり

「先生、狐って怖いですか?」

「なんだ?いきなり」

「ボク、思い出したんです。この前読んだ鬼平犯科帳に『狐雨』っていうお話しがありました」

「それで?」

「昔、父親が何かの弾みで狐を刀で切り殺してしまったんです」

「ほう」

「で、その息子が大きくなって長谷川平蔵の部下の同心になり、どんどん手柄を立てるんですが、どうもおかしい、どうも盗賊とつながっている節があるんですね」

「同心が盗賊とつながっていたらダメだろ」

「そうなんですが、噂だけで証拠がないんです。そいつはうまいことやっていて、長谷川平蔵に直に問いだたされても開き直って尻尾を出さなかったんです。これには鬼平もお手上げでした」

「証拠がないんじゃねえ。いくら火付盗賊改方が荒っぽいって言っても無暗矢鱈にはお縄にはできないからねえ」

「そうです。だから鬼平も手が出せなかったんです」

「それが狐とどう関係があるんだ?」

「ある夕方、その同心が市中見回りから役宅に帰ってきた時のことです。なにやら態度がおかしい。非常に高飛車でいつも言う冗談も言わない。口調も改まっていて『長谷川平蔵はどこだ、平蔵を出せ』の一点張りです。役宅では『あの同心、気がふれた』と大騒ぎになるのですが、奥方様は落ち着き払って、平蔵は市中見回りからまだ帰ってきていませんと告げると、じゃあ待たせてもらう、と言いました。こういうときは女性の方が落ち着いているようです。客間に案内すると、床の間を背にあぐらをかいて座り込みました」

「ずいぶん話しが長いね。もうすぐ駅に着くよ」

「あ、本当だ」

「続きは酒を飲みながら聞いてやるよ」

 駅前は古くさいバス停がぽつんと立っているだけで、人の気配がなかった。駅舎にも人がいるんだかいないんだかわからない。駅前には商店が何軒かあるけれど、もうみんな店を閉めていた。客待ちのタクシーも一台もいなかった。

「駅前ってこんなに寂しかったっけ?」

「ボクが最初にこの駅を降りたときと同じですけど」

「そうか。で、例の小料理屋はどこだ?」

「こっちです」

 そう言ってから、怖がっていたわりにはどんどん先に歩いて行った。閉まっている商店と商店の間の狭い路地を入って、奥に奥にと進んでいくと人が住んでいないような古いアパートが出てきて、その前が空き地になっていた。その空き地を抜けると車が通れるような道に出て、その向こう側に赤ちょうちんが下がっていた。おかしなことに店の名前がどこにも見当たらなかった。

「本当にここか?」

「そうです」

「長いこと、このあたりに住んでいるけど、知らなかったな」

「ボクも迷って入り込んでしまったようです、この前」

「こんなところまで、よくまあ入り込んだな」

「何か紙が貼ってありますね。この前にはこんなの貼っていませんでした」

 ナポリターノくんがめざとく見つけた貼り紙にはこう書きつけてあった。


       《急集 アルバイト求む》


「急集って何ですか?」

「知らんな」

「アルバイトを募集しているんですかね」

「そうらしいな。勢いあまって、人手がほしい気持ちが先立ってしまったかんじだな。だけど、ふつうは急募って書く」

「急募ならボクも見たことがあります。でも、急集って言うフレーズは初めてです」

「わしも初めてだ。日本語を良く知らないバカが書いたんだろう」

「日本人でも日本語を知らない人がいるんですか?」

「そりゃ、たくさんいるな。君やわたし以上に日本語を知らないヤツはたくさんいるだろうな。だから、こんな貼り紙しているんだよ」

「信じられません」

「そんなのは相手にするな。それよりまあ、中に入ってみよう」

 わたしたちが店に入ったときにはすでに客が三人いた。三人とも常連みたいで、わたしたちのことをじろっと睨んだ。店は本当に狭かった。

「いらっしゃい」

 女将さんが言った。

「何にしますか?」

ナポリターノくんが言った通りにカウンターしかなかったので少し詰めてもらってやっと座る事ができた。

「外の貼り紙をみたんですが」

 ナポリターノくんがそう言うと

「アルバイトをしたいのかい?」

 人を試すような声で聞いてきた。

「え」

「だから、アルバイトをしたいんだろ?」

 決めつけて話しをしてくるので不愉快になり、ぶっきら棒に

「いや、違う。飲ませてもらう」

「ああ、そうだったんですか。てっきりアルバイトをしたいのかと思いましたよ。何にしましょう?」

 わたしたちは瓶ビールを注文し、お通しが出てきたから黙ってそれを食べた。お通しは田螺とわけぎのヌタだった。おかしい。さっき食っていたのとおなじだ。味もすこし変だったがわたしの好物がすぐに出てきたことが一番おかしい。まあ、偶然だとは思うが、それにしてはあまりうれしくはなかった。

「外のアルバイト募集の紙は女将さんが書いたのかい?」

 わたしがたずねると

「そうなんですよ。こんな小さい店でも人手が欲しくてね」

「繁盛している証拠ですな」

 わたしがお追従を言うと、女将さんはうれしそうに笑った。

「この前と同じか?」

 少し飲んだら落ち着いてきたのでナポリターノくんに話しかけた。

「違います」

「え?」

「この前と違ってます。お客さんがいます」

「そうではなくて、この前おまえが来た店に間違いはないな、という意味だ」

「あ、それなら間違いありません。同じ店です」

「この前食べた物を覚えているか?」

「玉子焼きや青とうがらしを炒めた物です」

「よし、同じ物を注文しろ」

「同じ物を、ですか?」

「そうだ。いいから注文するのだ」

 不思議そうな顔をしているナポリターノくんをどやしつけて同じ物を注文させた。店の壁を見ると昔の映画の大きなポスターがべたべたと貼ってあった。マニアが見たらそれを見ながら一晩飲み明かせそうな古い映画ばかりだった。が、良く見ると違っているところがあった。「燃えよ、ドラゴン」は「燃える、ドラゴン」になっていて「主演・ブルーズ・リー」と書いてあった。カーク・ダグラス主演の「スパルタカス」は「カーク・グダラス」の「スパルタカスク」と書いてあった。マリアンヌ・フェイスフルの革ジャン姿のポスターのタイトルは「あの腹にもういちど」だし、ヘンリー・フォンダの「怒りの葡萄」は「怒りの武道」だから、もう何がなんだかわからない。おまけに清涼飲料水のポスターは「ヌカッと爽やか、コラ・コーラ」だった。

ナニカがちがっている。

    ちがう。

   ちがう。

  ちがう。

三人の客はもうわたしたちにはかまわずに飲んでいた。しばらくしたらカウンターの上に注文した物が置かれた。

「う」

 ナポリターノくんがひとくち食べて絶句した。

「う」

 ひとくち食べてわたしも絶句した。まずい。近頃は食料事情が良くなってきたのであまりまずいものには出くわさないが、久しぶりに本当にまずい食い物を口にした。あまりにまずいから醤油をかけて食べた。そうしたら、さらにまずくなった。たいがいの物は醤油をかければ食べられるようになるのだが、これは違った。わたしはナポリターノくんの耳元でささやいた。

「酔っていたとは言え、おまえはこんな物をたくさん食ったのか?」

「いえ、違います。この前はもっとおいしかったです」

「ばか、声がでかい」

「あ」

「どうした?」

「女将さんが女将さんじゃあ、ありません」

「なに?」

「女将さんがあのときの女将さんじゃあないです」

「はあ?」

「あのときは玉子のようにつるりとしたきれいでほっそりとした女将さんでした。こんな関取みたいなごつくて顔が腫れ上がった女将さんじゃありませんでした」

「声がでかいってば」

 もう遅かった。カウンターの中で他の客と話しこんでいた女将さんがじろりとナポリターノくんをにらんだ。女将さんのただならぬ気配にそれまで女将さんと話し込んでいた客もいっしょになってナポリターノくんとわたしをにらんだ。

「お客さん、誰が関取みたいだって?」

 凄まれたナポリターノくんは、ある晴れた昼下がりに市場に売られていく子牛のような目をして、口をぱくぱくさせていた。店の中は静まりかえっていた。他のふたりの客も振り返って女将さんとわたしたちを見ていた。

「料理もまずいって言ってたねえ」

 売られていく子牛は自分の運命を知り観念しているのか、逃げ回ることはしないそうだ。逃げてもむだだということがわかっているらしい。ナポリターノくんもそんな目をして女将さんを見ていた。

「あんた、このにいさんの保護者かい?」

 女将さんがわたしに問い詰めてきた。たしかに関取に見える。がぶり寄りをされているようだった。

「保護者ではないな」

「ボクは先生の弟子です」

 と、横からナポリターノくんが言わなくてもいいことを言う。

「あんた、先生かい?このバカ出しマルのにいさんはあんたのお弟子さんかい。じゃあ、なおさら悪いや」

 どうして言わなくてもいいことを大きな声で言ってしまうのか、少しは考えてから話せ、と言いたいところだったが、その場はまず女将さんとの対決になってしまったからナポリターノくんへ説教は後回しだ。

「失礼した。日本語の語彙が極端に不足しているヤツでして。今夜は勘弁してくれ」

 わたしが女将さんに謝っていると、また横から言う。

「ボク、日本語、良く知っています。おいしいときはおいしいと言うし、まずいときにはまずいと言います。外に貼ってあるアルバイト募集の紙だっておかしい日本語です」

「なんだとぉ」

 女将さんが関取みたいな声で唸った。さらにナポリターノくんが続けて言ったのは、

「いやしくも料理を出してお客から金をとろうというのですから、食べられないのを出してはいけないです」

「言ったな、この毛唐!」

「毛唐ってなんですか?先生」

 ナポリターノくんが聞いてきたので

「毛唐っていうのは外国人を蔑んだ言い方だ。外国人の蔑称だな」

と答えた。

「そんなに酷い意味なんですか?」

「そうだ。ロシア人は露助、イタリア人はイタ公、フランス人はオカマ野郎と、国をきちんと区別して呼ぶときもある。毛唐はアメリカ人を呼ぶときにも使うが外国人を総称してそう呼ぶときが多い。どうやら君のことをアメリカ人と思っているらしい」

「ボク、日本人です」

「おい、こら」

 わたしがナポリターノくんに説明していたら、女将さんが唸ってきた。

「おい、こら、悠長に何を毛唐に説明してやがんだ。もう帰っておくれ、お金はいらないよ」

「え」

「いいから帰れ。こんなに腹が立ったのは初めてだよ。あんたら二人、もう二度とここには来るな」

「え」

「さっさと帰れって言っているんだよ。ほら、ほら」

 そう言って女将さんはわたしたちに塩を投げつけてきた。これには流石のわたしも腹が立ったのでその場で立ち上がってここぞとばかりに特別に濃いすかしッ屁をかましてやった。

「さあ、帰るぞ。こんな店にはもうこれ以上はいられない。ほら、行くぞ」

 わたしはさっさと店を出た。ナポリターノくんも立ち上がって店を出ようとしたときに「う」と顔をしかめた。それから息を止めてわたしのあとに続いて店を出てきた。

「すぐに戸を閉めろ」

 わたしの言うとおりにナポリターノくんは店の戸を閉めた。

「さあ、帰ろう。こんな店、頼まれたって二度と来るか」

「先生、すごかったです」

「ああ、すごくまずかったな。あんなにまずいのは久しぶりだ」

「いえ、違います。すごいのは屁です。すごく臭かったです」

「おお、そうか、そりゃ良かった。すばやく戸を閉めた甲斐があったな。いまごろはわたしの屁の臭さでまいっているだろうな。今夜は特別に臭いのをしてやったぞ」

「本当に臭かったです。ボク、目に沁みました」

「そうか、心に沁みなくてなによりだったな。しかし、それくらいでなきゃあいつらには効かないからな」

「はあ」

 わたしたちは物陰に隠れて店の様子をうかがった。しばらくしたら店の引き戸が勢い良く開けられたけれど、誰かが飛び出してくる気配はなかった。そのおかしな小料理屋以外には行く所を決めていなかったので、いったん駅前まで出てそれからどこに行こうか決めることにした。

 ところが駅前から来た商店の間の細い路地がどこにあるのかがわからなくなった。古いアパートの前の小さな空き地には似たような路地がいくつもあって、どこから出てきたのか見当がつかなくなってしまったのだ。おそらくこの道だろうと見当をつけて、嫌がるナポリターノくんを先に行かせてその路地のひとつに入って行くと、暗くてくねくねと曲がりっぱなしで来るときに歩いてきたのとはまったく違う道だった。しかし、こんな奥まで歩いてきてしまったので今から引き返すと、もしかしたら店の常連客に出くわしてしまうかもしれないし、それに道のかなり先に灯りが見えたのでわたしたちは暗い路地をどんどん歩いくことにした。歩いているうちになんだかうしろから店の誰かが追いかけてくるような気がしてきてだんだん早足になり、わたしがナポリターノくんを追い抜くとナポリターノくんがわたしを追い抜き、最後はいい歳をした男二人が横並びで相手を押しのけ、あたりの物を手当たり次第蹴散らしながら狭くて暗い路地を走ることになった。何を蹴散らしているのかわからないが、夢中で走っているので、固い物が当たってもあまり痛さは感じなかった。うしろの方でゆっくりと何かが崩れる音がしていて、その音に足音が混じって聞こえて何かを思い出したがすぐに忘れた。それから「もしもし」と呼び止める声がした。

「なにか言ったか?」

「なにも言いません」

「じゃあ、なにか聞こえたか?」

「聞こえました」

「では、いまのは空耳ではないな?」

 息が切れていたが、となりで走っているナポリターノくんに聞いた。

「聞こえました」

 となりのナポリターノくんはぜえぜえ言いながら答えた。

「あれ、何だ?」

「わかりません」

「振り返って見てみろ」

「怖くてできません。コヨーテかもしれません」

「コヨーテがしゃべるか」

 すると「もしもし」がわたしたちの間から聞こえてきた。わたしたちはお互いの顔を見合わせる格好になって、叫び声を上げそうになったとき、狭くて暗い路地から広い道に、ぽんっ、と出ることができた。


 わたしたちが出た道は広くはなかったけれど、それでも自動車がすれ違いできるくらいの幅はあった。路地から出たところには電柱が立っていて、街灯が灯っていた。最近はほとんど見かけなくなった傘のかぶった白熱灯の街灯だった。照らす範囲は広くはないが、暗闇よりはずいぶんと良い。さっきから見えていたのはこの街灯の灯りだった。いい歳をしてかなり本気で走ったので、息が切れたまま、つぎに腰が痛くなってきた。わたしは膝に手を当てて座る場所を探した。

「先生、ここはどこですか?」

 若者は回復が早く、あたりをぐるぐると見回していた。だけど、ナポリターノくんではあたりを見てもどうせわからないのだから、わたしが見るしかなかった。

「先生、ここがどこなのか、ボクにはわかりません」

 少し落ち着いてきたのであたりを見回したが、初めてきたようなところだった。

「わからんな」

 道は左右に長く、道の脇には腰までの草が伸び放題になっていて、民家はあるが、どの家の窓から灯りが洩れてはいなかった。街灯の灯った電柱が一本立っているだけだった。

「人が住んでいそうな家が見当たらないな」

「はあ」

「駅の近くのはずなんだがな」

「でも、線路も見えません」

 夏の月がみょうに寒く見えた。

「さっきの店で映画のポスターを見たか?」

「え」

「壁にたくさん貼ってあっただろう」

「それは見ました」

「おかしくなかったか?」

「何がです?」

「気がつかなかったのか」

「何か変だったんですか?」

「すこしな」

「それが何か関係あるんですか?」

「駅前から少ししか離れていないのに、こんな寂しいところに出て、なんだかおかしいと思わないか?」

「はあ」

 一本しかない街灯の灯りの輪のなかで何かが動いた。

「あれ、なんだ?」

 動いているのはネコのようでもあり、ネコのようでもなかった。

「何でしょうね」

「見てこい」

「怖い。いやです」

「しっ、静かにしろ」

「え」

「何か聞えるぞ」

 その場でしゃがみこんで耳を澄ませていると、風のちいさく鳴る音や遠くの方で夜の蝉の鳴く声が聞えてきた。そのうち、いま出てきた路地の奥の方から何かがゆっくりとこちらにむかって歩いてくる音が聞えてきた。

「誰かが歩いてくる音ですね」

 ナポリターノくんはさすがにひそひそと話しかけてきた。

「そうだ。誰かが歩いてくる音だ」

「誰でしょうか」

「わからん。だけど、店から誰かが追っかけてきたわけではなさそうだ」

「どうして?」

「走って逃げたときに追いかけてこなかったじゃないか」

「そうですね」

 足音はだんだんはっきりと聞えてきた。

「怖いです」

「わしだって怖い」

「じゃあ、逃げましょう」

「そうしよう。南に逃げるのだ」

「どっちが南がわかりません」

「月と星を見て南の方角を推測するのだ」

「どうして南なんですか?」

「南に行けばいずれ線路にぶちあたる」

 月と星を見て、わたしは左側に走りだした。ナポリターノくんもあとを追いかけてきた。街灯の光の輪の中にいたネコのようなネコでないようなものもいっしょについてきた。

 路地よりは広い道幅のはずなのに路地を走っているような気になった。が、しかし不気味な足音からすこしでも遠くに離れるために道幅のことなんぞお構いなしにどんどん走った。どんどん走ったが、電柱が一本も立っていなかった。そういえば電線もない。おかしい。ここはどこだ、走っているところがわからなくなったので、わたしは立ち止まって、もう一度あたりを見回した。

「ナポリターノくん、おかしいぞ」

「おかしいって、さっきからおかしいことの連続ですけど」

「そうじゃない。電柱も電線もない」

「え」

「良く見ろ。何もないぞ」

「あ、本当だ。でも、さっき街灯がありましたけど」

「ああ、あったな」

「そこで街灯が灯っていましたけど」

「ああ、灯っていたな。でも、電線がないのだ。電線がないのに電気が点いていたんだ」

「どういうことですか」

「そんなの、知るか」

「あ」

「どうした?」

「また、あの足音が聞こえます」

 風のちいさく鳴る音や遠くの方で夜の蝉の鳴く声に混ざって、たしかにまたあの足音が聞こえた。

「先生、逃げましょう」

「こっちに近づいてきているな」

「だから逃げましょう」

「落ち着け。この先は街灯が一本もない」

「そうですね」

「おかしいだろう」

「おかしいです」

「だから、戻る」

「え」

「どこか物陰に隠れてあの足音のヤツをやり過ごしてから、街灯のところまで戻って路地に入る。それが一番確実だ」

「でも、足音が近づいてきます」

「だから隠れるんだ。声を出すな」

 わたしたちは近くに見つけた廃屋のような小屋の陰に隠れた。じっと息を殺していると足音が近づいてきて、やがて小屋の前まできたときに立ち止まった気配がした。耳の奥がずきずきして喉が乾いた。二呼吸したあと、また歩き出す足音がして、それは遠くに消えて行った。

「行ったようだな」

「誰だったんでしょうか」

「知らん。早く元の道に戻るんだ」

 わたしたちは遠くに見える街灯を目指して走った。街灯は消えそうな弱い灯りだったけれど、消えてはいなかった。

「よし、この路地を抜けるぞ」

 言うが早いがまたもや押し合いへし合いでさっきの路地に飛び込んだものだから、あたりかまわず蹴散らして走ることになった。ところが路地を抜けたところは、あの小料理屋の前の空き地のはずなのに、どういうわけか駅前に出た。

「先生、駅です」

「ああ、駅だな」

「戻れました」

「ああ、戻れました」

「良かったです」

 駅前はさっきと同じに人通りはなく、白々とした蛍光灯が駅のホームに見えた。同じだった。わたしたちが路地に入ったときと同じだった。違うのはもう三時間くらいたっていることだった。ホームに見える丸い大きな時計の時刻は十一時三十分を指していた。

「あの店にはどのくらいいたか憶えているか?」

「え~、三十分くらいですかね」

「そうだよな。まずいツマミを食ってすぐに追い出されたもんな」

「そうです。すごくまずかったです」

「そのあと、路地を走って、おかしな道に出て、また路地を走って、ここに戻ってきたんだよな」

「そうです」

「その間、どのくらい時間がかかった?」

「え。わからないけど、そんなにたっていないと思います」

「だけど、もう十一時半だぞ」

 ナポリターノくんはわたしが指差した駅のホームの時計を見て、

「あ、本当だ。おかしいです。信じられないです」

「そうだ。時間の経過具合がおかしい」

「どうしてでしょうか」

「そんなこと、わしにわかってたまるか」

「信じられません」

「だけど、この傷はなんだ」

 わたしの肘や膝が擦り剥けていたし、ナポリターノくんの肘や膝も擦り剥けていた。着ていたTシャツもあちこちが汚れていて、ところどころ小さく裂けていた。お互いの傷を見やって、薄ら寒い思いで駅前に立っていると、

「もしもし」

 と、さっきの、聞き覚えのある声が足元から聞こえた。背筋がぶるぶると寒くなり、見たくはなかったのに思わず声の聞こえてきた足元を見てしまった。

 そこには膝までの大きさの小人が立っていた。自分の足元にいままで一度も見たことのないモノが立っていて、それも自分と同じ言語を操りかつ知能も備えているのだとしたら、それはこの世のものではない。つまり、接触してはいけないモノなのだ。わたしは声も出なかった。

「もしもし」

 当然、返事などできないし、したくもなかった。動こうにも動けなくなっていた。動けないのは脳腫瘍のせいか。しかし、もう取り除いたはずだ。

「すみません。おどろかせて、すみません。でもあやしい者ではありません」

 ソイツは侍の姿をしていた。羽織と袴を着けて刀を二本差していた。不思議なことに、暗いのに細かいところまで見えた。遠くから踏み切りの警報が聞こえてきた。電車が駅に着けば誰かが降りてくるかもしれない、そうすればわけのわからない夜から逃げられるかもしれないと思っていたら

「わたしはコヤナギと言います。コヤナギヤスゴロウです」

 その途端にナポリターノくんが反応した。いきなりその場にしゃがみ込み、そのちいさい侍に親しげに話しかけたのだ。

「コヤナギさんですか。あのコヤナギさんですか」

 あのコヤナギさん、とはどういう意味なのか、もしかしたら面識があるか、しかしこんなちいさいヤツに面識があろうはずがない。

「同心のコヤナギさんですか?」

「いかにも。同心のコヤナギです」

 わけがわかろうはずはなかった。すでに対話は常人の域をとっくに外れているのだった。危害を加える様子もなさそうだったので、そのまま見ることにした。

「同心のコヤナギさん。お会いできて、ボク、うれしいです」

「恐縮です」

「先生、コヤナギさんです。同心のコヤナギヤスゴロウさんです」

「だれ?」

「だから、同心のコヤナギヤスゴロウさんです。ボクの好きな人です」

「いや、知らないな」

「ひどい」

 そこへコヤナギヤスゴロウと名乗る小さいのが挨拶をしてきた。

「おどろかせてしまい、申し訳ありません。わたしは長谷川長官の元でお役目を受けている同心のコヤナギと言います」

 ナポリターノくんは心得て話して様子だけれど、わたしは何のことだか一向に分からなかった。だけど、同心だけあって礼儀をわきまえていた。

「先生、鬼平です、鬼平」

「鬼平がどうした?」

「鬼平に出てくる、たくさんいる同心のお一人です」

「鬼平犯科帳のことか?」

「そうです、そうです」

 ナポリターノくんはやたらに興奮していた。

「鬼平犯科帳に出てくる同心のコヤナギさんです、この人」

「おまえ、あれは池波先生の小説じゃないか」

「そうです」

「そうですって、おまえ、その小説の登場人物は池波先生の作り出した人物だろ?」

「そうです」

「あのなあ、だから、コヤナギっていう同心も池波先生の創作した人物で実在はしないんだよ」

「でも、ここにいます」

 と、足元の小人を指差した。

「これは人間か?人間じゃないだろ。それにコヤナギっていう同心がどんな顔をしているのか見たわけじゃないから、わからないだろ」

「でも、この人はコヤナギさんです。ボク、直感しました」

「池波先生に叱られるぞ」

「でも、コヤナギさんに間違いありません。ご本人もそう言ってます」

「そりゃ、本人はそう言うさ」

 先ほどの踏み切りの警報が鳴り終わってからずいぶんと時間がたったが、駅に電車が到着した気配はなかった。ホームの屋根の上に月が丸く出ていた。

「わしは鬼平犯科帳を良く知らないから、コヤナギって言われても誰の事だかさっぱりわからない」

「当然です」

 足元のちいさいコヤナギ同心が言った。

「当然です。わたしのこの姿は仮の姿です。先ほどからお二人の頭の中を覗かせていただき、正義の味方でわかりやすくて安心していただける姿を選びました」

「それがその姿だと言うのか?」

「そうです。あなたが思い浮かべた姿はウルトラマンでした」

「ウルトラマン?」

「そうです。ウルトラマンでした。しかし、ウルトラマンは口が固定されていてうまくしゃべれません。ですから、若い人の頭の中に浮かんでいたコヤナギさんの姿を選びました」

「なんだか良くわからないね。面倒だからもう帰るか」

「さっきお飲みになったビールはイヌの小便です」

「え、イヌの小便?」

「そうです」

「わしらはあの店でイヌの小便を飲んでいたのか?」

「そうです」

「じゃあ、あのまずい食い物はなんだったんだ」

「それは・・・・・・」

「それは?」

「それは知らない方が良いと・・・・・・」

 足元のコヤナギ同心はいやに落ち着いて、続けて言った。

「アイツラは悪い奴らなんです」

「アイツラって?」

「お二人が入った小料理屋にいた奴らです」

「あの女将さんか?」

「いえ、あの女将さんと客の三人です」

「もういいや。ダメだ。帰ろう、ナポリターノくん」

 いつまでたっても電車は来る気配はなかった。それなのに、また踏切の警報が鳴りだした。わたしはナポリターノくんとコヤナギ同心を置いてさっさと歩きはじめた。見上げると月には薄い雲がかかっていた。ナポリターノくんが追いかけてきて、すがりついた。

「先生、待ってください。コヤナギさんの話しを聞きましょうよ」

「いやだよ」

「どうしてですか?」

「あんな小さいヤツの話しなんか聞けるか」

「そんな。コヤナギさんは信用できます」

「どうしてそれがわかる?」

「わかるからわかるんです」

 もうお話しにならない。そうしたらいきなりナポリターノくんがその場にしゃがみこんであたりかまわず大声で泣きはじめた。これにはわたしだけでなくコヤナギ同心もまいってしまい、

「こんなところで泣いてしまわれては困ります。人が寄ってきますよ。わたしもこの姿を見られては困るんです」

 さきほどまで落ち着いていたコヤナギ同心がおろおろとナポリターノくんの周りを歩きはじめた。わたしは泣いているナポリターノくんの肩にそっと手をあてて、

「わかった、わかった。もう泣くのはやめろ。話しを聞くから泣くのはやめろ」

 と言った。すると現金なもので、

「本当ですか」

 と、鼻を垂らして返事をした。

「ああ、本当だ。だけど、ここじゃ按配が悪いからわしの家に帰ろう。コヤナギさん、それでいいな」

「かまいません」

 とコヤナギ同心はしっかりした声で答えた。見てくれはおかしいがコヤナギ同心の方が生身の人間のナポリターノくんよりもよっぽどしっかりしている。

「じゃあ、そうするぞ。いいか、ナポリターノくん。途中でビールを買って帰ろう」

「はい」

 まったくナポリターノくんの面倒を見るのは骨が折れる。わたしとナポリターノくんのやりとりを見ていたコヤナギ同心は

「先生、大変ですね」 とわたしに言った。


 帰る途中にまだ開いている酒屋があったので★のついた缶ビールの大きいのを五~六本買った。わたしが金を払っている間もナポリターノくんがうしろでしゃくりあげているので、どうもわたしが青年をいじめたように思われたらしく、酒屋のオヤジが客であるわたしを睨みつけた。オヤジの目つきが不愉快だったのでわざと一万円札を出して釣銭をオヤジの目の前でゆっくりと数えてやった。コヤナギ同心はどこかに隠れて姿を見せなかった。

 しゃくりあげているナポリターノくんにビールを持たせて家に着くと灯りがついていなかった。妻が実家に帰っていたのを忘れていた。そうなると酒の肴がない。ありあわせで間に合わせるしかない。まあ、客が客だから何でもいいだろう。

「今夜は誰もいないから遠慮するな」

 デカイのと小さいのが部屋に上がり、とりあえずコップを三つ出してビールを飲んだ。肴は冷蔵庫にしまってあったチョコレートを出した。静かな中で飲んでも面白くないので高木元輝の「2001.07.06」というCDをかけた。酒を飲むときにはフリージャズを聴きながら飲むに限る。

「さて、じゃあ、コヤナギ同心のお話しを聞こう。ねえ、ナポリターノくん」

「その前にこのお札を玄関と雨戸に貼っていただけませんか」

 コヤナギ同心は小指のツメくらいの小さいお札を懐から何枚か取り出した。

「今夜だけ貼ってもらえれば大丈夫です。きっとアイツラがわたしたちの後をつけていたと思うので用心するに越したことはありません」

「外から貼った方がいいのかね」

「そうですね。外から貼ってください」

 ナポリターノくんに貼らせるとどこに貼るのかわからないから仕方がないので外に出てじぶんで貼った。貼り終わって家のなかに戻るとデカイのも小さいのも神妙な顔つきをして正座をして待っていた。高木元輝の深いサックスの音色が部屋の中に充満していた。深夜だったからボリュームは絞っていた。コヤナギ同心は静かに話しはじめた。

「もう少し音楽のボリュームを下げてもらえますか」

 わたしは言われたとおりにさらに音量を絞った。

「ことの始まりはこのナポリターノさんです」

「え、ボクですか」

「そうです。あなたはあの小料理屋の前を通りかかりましたね」

「通りました。普段と違う道を通ってみようと思って、わざわざ狭い道に入りました」

 ナポリターノくんはなんだか恐縮していた。

「そのときに踏んでしまったのです」

「え?」

「あちら側に通じる門の扉を開ける石を踏んでしまったのです」

 突然家全体がミシミシと鳴り出した。それがしばらく続いて急に止んだと思ったらまたミシミシ鳴り出した。天井を見上げると埃がぱらぱらと落ちてきてビールの入っているコップに落ちた。天井から下げている蛍光灯が細かく揺れてコップのビールがきらりきらりとした。ナポリターノくんは腰を浮かして青い顔をしていた。

「来ました」

 コヤナギ同心は落ち着いて言った。

「大丈夫です。脅かしているだけです。家の中にいれば安全です。こうやって家鳴りをさせてなんとか外に出そうとしているのです。ですが、さきほどお札を貼ってもらったので安全です」

「怖いです。ニホン、怖いです」

「大丈夫だって、コヤナギ同心が言っているだろ。落ち着け」

「でも、当てになりません」

「おまえ、さっき、コヤナギ同心は信用できるって言ったばかりじゃないか」

「あれは言葉のイキオイです」

 コヤナギ同心もさすがに呆れて、

「まあ、今晩一晩だけのことですからね。この場合は酔い潰して寝かした方が得策ですね。夜中に目を覚まして外に出て行ってしまったらすべてが水の泡ですから」

「わしもそう思う。よし、コイツを酔い潰してから、コヤナギ同心の話しをじっくり聞くとするか」

「そうしましょう」

「二人で何をこそこそ話しているんですか?」

「いや、なに、君の踏んだ石のことさ」

 わたしはコヤナギ同心といっしょにナポリターノくんにどんどんビールを飲ませた。ところが、怖さが先に立っているから普段はあっという間に酔って寝てしまうナポリターノくんがまったく酔い潰れない。バカの一念というのは恐ろしいもので、二人がかりでビールを飲ませてもまったく平気だった。それどころかランランと目を輝かせて鼻の穴を大きく開いて深呼吸を続けている。それは酔っても潰れないぞ、という意思表示にちがいないとわたしは受け取った。つまり、わたしへの挑戦である。ならば、こちらも受けて立ちましょう。潰しましょう。台所の流しの下から一升瓶を出して、コップに残っているビールを無理矢理飲みきらせて、そこに日本酒をなみなみと注いでやった。そして、ナポリターノくんにストローを差し出して、こう言ってやった。

「知らないようだから教えてやろう。これは日本の伝統作法のひとつだ。特別に伝授するから今この場で覚えなさい」

「はあ」

「このストローを使ってコップの日本酒を飲むのだ。金がなくて貧乏なときに昔から日本人はみなこうやって酒を味わいながら飲んだのだ。よいな。飲んでみろ」

「はあ」

 ナポリターノくんは素直であるから、言われたとおりにストローで日本酒を飲んだ。試してみればわかるが、この飲み方は日本酒の味が思ったよりも引き立ち、案外旨く飲めるのである。日本酒の味わいが舌のうえにさっと広がるのだ。下戸の味覚に合うかどうかはわからなかったけれど、どうやらナポリターノくんの味覚には合ったようだった。

「先生、これは旨いです」

「そうか、そうか」

「これを考えついたムカシのニホン人、エライです」

「そうか、そうか、良かったな。まだまだあるぞ。遠慮しないでどんどん飲め」

「ありがとうございます。ボク、うれしいです」

 およそ十分くらいたった頃、ナポリターノくんはいきなり畳の上に突っ伏してそのままイビキをかいて眠ってしまった。

「コヤナギ同心、これでもう大丈夫だ。さあ、話してくれ」

 わたしたちはあらためて日本酒を飲み始めた。コヤナギ同心は小さいので文字通り舐めるように飲んだ。台風のときのようにまたミシミシと家鳴りがした。

「アイツラはこの世の者ではありません」

 コヤナギ同心の声はその小さな体から思いもよらないほど太い声を出した。わたしはちびちびと日本酒を飲んだ。

「この世の者ではなく、またあの世の者でもないのです。ちょうど、その中間にいる者どもです。かく言うわたしもそうです。この世の者ではありません。だからナポリターノさんの意識を借りてこの姿をしています。実体がないのです」

 わたしは日本酒を飲みながらコヤナギ同心に聞いた。

「だけど、今はわたしの前にいるし、こうして話しをしているじゃないか。それに家だってミシミシ鳴っているぞ」

「実体を伴っているように見せかけているだけです。先生とナポリターノさんにはわたしが小さなサムライの格好に見えていると思いますが、お二人がおなじ姿のわたしを見ているわけではありません」

「え? どういうことだ?」

「お二人に見えるわたしの姿はおなじサムライでも違って見えているということなんです」

「わからんね」

「ナポリターノさんにはナポリターノさんの思い描いているサムライの姿で見えている、ということなんです」

「それがわかるのか?」

「わかります」

「ナポリターノがどんなサムライの姿を思い描いているのか、それを知りたいのう」

「わかりました。こんな姿です」

 コヤナギ同心はぶるっと身震いしたかと思うと隈取りの入った歌舞伎役者のような顔になりチョンマゲは頭の上に高く立ち紫色の布が巻いてあり、羽織は鳥の羽のように大きく袴は松の廊下を歩く殿様みたいにだらだらと長く伸びていた。刀は左右に二本ずつ差してあり、背中にも刀を背負っていた。

「これがそうか」

「そうです」

「出鱈目だな」

「そうです。まるっきりの出鱈目です。まあ、知っているようで全然ご存じないかたですね」

 その間も家はミシミシと鳴っていた。

「しかし、家鳴りがこう続くと崩れやしないかね」

「大丈夫です。これは錯覚です。本当は揺れていません。実際にこんなに揺れていたら隣の家の人も気が付きますよ。これは錯覚でアイツラが脅かしているだけなんです。慌てて外に飛び出してきたところを襲いかかってきます」

「どうなるんだ?」

「わたしも見たことがないのでわかりません」

「むう、ともかく出ないことにしよう。ところで、これからどうすればいいのかね」

「これは今夜だけです。今夜だけやり過ごせれば明日の夜からは何もおきません」

「そもそもはナポリターノくんなのか?」

「そうです。スイッチを踏んでしまったのです。どうしてそのスイッチが人間の住んでいるところに出てきてしまったのかはわかりません。何かのはずみで出てしまったんでしょう。それをナポリターノさんが踏んでしまったのです」

「それで呪いをかけられたのか?」

「ああ、あの小料理屋で女将さんが急に顔つきが変わったことですか?」

「そのように言っていたが」

「あれは呪いでも何でもありません。スイッチを踏まれてしまったので悔しくてナポリターノさんをからかったんです」

「ソイツらは一体何だ?」

「わかりやすく言うと、いわゆるムジナです。他に言葉がないからムジナと言うしかないのですが、昔から人間を化かして面白がっているヤツラなんです。ナポリターノさんなんかは格好の餌食でしたね。『人を呪わば穴二つ』と言うように、他人を呪えば、その呪いはじぶんにも返ってきます。だから、だれかを呪うなんて恐ろしいことは滅多にしません。そもそもそんな簡単にはできません」

「ああ、そのサムライの姿を見ていると発狂しそうになるから元の姿に戻ってくれないか」

 コヤナギ同心はにっこりと頷いて元の同心の姿に戻った。

「助かりました。ナポリターノさんの思い描いているサムライの姿を維持するのは難しいですからねえ。この姿の方が楽です」

「しかし、出鱈目な姿にも程があるよなあ」

「本当ですね」

「だけど、今晩一晩だけやり過ごせば、ほんとうに明日からは大丈夫なのか?」

「大丈夫ですよ」

「なんだか心配だな。ナポリターノくんもしばらくはいっしょにいた方がいいなあ」

「ご心配なら、そうしてください。アイツラは悪い奴らですが実体が無いから手出しはできないんですよ。それに一晩脅かしても平気でいる人間にはもう興味を持たなくなるんです」

「そんなもんかね」

「そんなもんです。ナポリターノさんのように慌ててうろうろしていると、そこをつけこまれるんです。そういう人は命の危険にさらされます。ですから、先生がナポリターノさんを酔いつぶしたのは正解です。ナポリターノさんみたいな人が一番危ないのです」

「一番鶏が鳴いたからもう夜明けかと思って外に出たら真っ暗だった、っていうアレか」

「そうです。そのアレです」

「アレだと、外に出た途端に八つ裂きにされてしまったことになっていなかったか?」

「呪いとおなじで、そう思い込んでいるだけです。そう思い込んでいるのでショック死してしまったんです。八つ裂きなんてできる訳がありません」

「そうかね」

「そうです。呪いだって、呪う方は必死になってやってますけど、呪われる相手は、じぶんが呪われていることをぜんぜん知らなければ、まったく効果はありません。呪いは、お前のことをこれほど憎んでいるんだぞって相手に知らしめて、相手がそれに驚いて、はじめて効果が出るんです。けっこう手間隙がかかって、それはそれで面倒なんですよ」

「単なる思い込みなのか」

「そうです」

「じゃあ、今あなたが目の前にいるのも錯覚か?」

「半分はそうです。でも、半分は違います」

「ますますわからんね」

「見ていることは事実です。でも、本当は見えていません」

「さっぱりわからん」

「つまり、見えていると思っている同心の姿は目が見ているのではなく脳が見ているのです」

「はあ」

「つまり、脳がだまされているんです。わたしはここにいて、こうやって話してはいますが、写真には写りません。わたしの声を録音しようとしても録音できません。それは物理的な被写体として存在しないし、空気を震わせて声を発しているわけではないからです。直接先生の脳がわたしを見て、わたしの声を聞いているのです」

「じゃあ、やっぱり見えているんじゃないか」

「いえ、見えていません。声も聞こえていませんよ。でも、見えるし聞こえる。こんなことは今まで経験がなかったはずです。でも、感じ取ってはいる。だから脳が困ってわたしの姿は見えることにしてわたしの声は聞こえることにしているのです。そうすれば脳は困らずにお酒を飲めます」


 つまり、


                脳脳脳脳脳脳

                ??????

             脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳

            脳脳脳◎脳脳脳脳脳脳脳脳脳

           脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳

          脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳

               脳脳脳脳脳脳脳脳

                  首首首首首

                  首首首首首

                  首首首首首


「つまり、脳から腫瘍を取ったからかね。血のめぐりが良くなったから、見えないものが見えるようになったとか」

「そうかもしれないですね」

「わたしの脳が見ているのか」

「アイツラの存在が感じられるのもおなじことなんです。アイツラは先生の脳が困ってヤケクソになるのを待っているんです」

「科学的だな」

「実に科学的です」

「なんだかアホらしくなってきたよ」

「それが正しい反応だと思いますよ」

 家鳴りは相変わらず続いていた。ナポリターノくんはGO!GO!とイビキをかいて眠っている。

「じゃあ、今このときに外へ出て何かをされてもそれはすべて錯覚だから害はないと思ってもいいのか」

「それはダメです。もうすでに『夜明け前に外に出ると危険だ』と認識していますから、今外に出ると大変なことになります。今晩だけは我慢してください」

「あ、そう」

「はい」

「アイツラもあなたも妖怪なの?」

「まあ、そんなようなものですね」

「いいヤツ対悪いヤツ?」

「そこまではっきりとはしていませんが、近い線ですね」

「ということは、これから対決とかするの?」

「対決ですか?」

「そうだよ。マンガとか小説ではそういう展開になるじゃないか。たとえば、妖怪大戦争とかさ」

「まあ、それはマンガとか小説だからですよ」

「え」

「お話しだからそういう展開にしているんです。実際にはそんなことはありません。すこし懲らしめてやるだけです。軍隊で言えば、かなりゆるめのミリタリー・ポリスっていうところですね」

「じゃあ、事件とかないの?」

「なにもありません」

「そりゃつまらん。さっきから座って酒飲んで話していて、その間に家鳴りがして時々天井から埃が落ちてくるだけじゃないか」

「そうですね」

「そうですね、じゃなくてさ。説明ばかりでつまんないって言っているんだよ。なにか怖い展開とかにならないのかね」

「たとえば?」

「不思議な影が障子に映って、それが昔死んだ女だとかさあ」

「あ、そういうのはありえますね。それは人間が絡んでいる場合ですけど。人間が恨みに思っていることが具現化することはありえますが、それはわたしたちの受け持ち範囲ではないのです」

「受け持ち範囲?」

「そうです。受け持ち範囲というのがあって、さきほどからお話ししているようにわたしたちはそもそも実体を持っておりません。接している人の意識の力を借りてあたかもいるように姿を現しているだけです。ところが、人間は・・・・・・」

「うん、うん」

 と、話しこんでいたら、いきなり天井から雷が鳴る大きな音がして電柱を五~六本束ねたような馬鹿でかい足が天井を踏み抜いてきた。天井を踏み抜いた後、床も踏み抜いた。床の上に置いてあった一升瓶やコップやらがどこかにすっ飛んで行った。


                           足足足足足   ↓↓

                           足足足足足   ↓↓

                           足足足足足   ↓↓

                           足足足足足   ↓↓

                           足足左足足   ↓↓

                           足足足足足足足 ↓↓


 手を伸ばせば届きそうなところにある毛むくじゃらのその足はしばらくじっと動かないでいたが、やがてするすると天井に引っ込んで行った。わたしは突然のことにびっくりし心臓の鼓動が耳の奥でずきずきと鳴っているのがわかった。

「いまのはなんもないです」

 コヤナギ同心が落ち着いて話し始めた。天井から床まで抜けてしまっているのに何でもないとは何事だ。わたしはその言葉に腹が立ってきた。

「今のはなんだ?」

「なんでもないです」

「天井と床が抜けてなんでもないなんてことはないだろ」

「でも、なんでもないんです。ほら、良く見てください」

 コヤナギ同心は大きな穴の開いた床をぽんぽんと軽く叩くと、床の大きな穴があっという間になくなった。床の穴がふさがった、というのではなくて、穴がなくなったのだ。

「天井もおなじです」

 見上げると天井にも穴はなかった。大きな足が落ちてくる前とおなじでどこも踏み抜かれてはいなかった。蛍光灯が少し揺れているだけだった。

「なんでもないんです」

 はっと我に返って目の前を見ると、大きな足にすっ飛ばされたはずの一升瓶とコップが何事もなかったようにそこにあった。その近くでナポリターノくんがいびきをかいていた。足が踏み抜いてくる前とまったく変わりがなかった。わたしは言葉が出せなかった。たしかに雷の鳴る音がして馬鹿でかい足が天井から落ちてきて床を踏み抜いたはずなのに、踏み抜かれた床には穴なぞ開いてはいなかった。すっ飛んだはずの一升瓶もコップも元の通りにある。

「なんだ? 今の」

「うまく説明できませんが、なんでもないんです」

「おまえ、これがなんでもないというのはおかしいだろう」

「うまく説明できませんけど・・・・・・」

「いいから説明しろ」

「でも、さっき、話しばかりで事件がないからつまらないとおっしゃっていたし・・・・・・」

「いいから言え」

「そうですかぁ・・・・・・」

 コヤナギ同心はしぶしぶ話しはじめた。

「今のは、じつは、わたしのイタズラでして」

「え」

「なにかおもしろい展開はないか、と言われていたし、それにどうもわたしの言っていることが信じてもらえていないご様子だったので・・・・・・」

「それで?」

「それで実体にない者がどのようなことをして現実味を持ち、それが見ている者にどのような効果を及ぼし、あるいは影響を与えるかを、ですね・・・・・・」

「影響を与えるか、をなんだ?」

「影響を与えるか、を実験してみました」

「わたしで試してみた、というわけか」

「はい」

「つまり、呪いとか妖怪とかそういう類をいくら説明してもわからないから、実際に体験させてやれ、と、そういうことか」

「百聞は一見に如かず、というヤツです」

「すると、今の馬鹿でかい足はわたしの目が見たのではなく、脳が見たのか?」

「正確に言うと、脳で感じ取った、というところです」

「それを試したのだな」

「そうです」

「大胆だな」

「昔からそう言われます」

「どのくらい昔からだ」

「平安時代より少し前あたりから」

「平安時代?」

「最初に安倍晴明に言われました」

「安倍晴明!」

「その次は前田慶次郎利益です」

「すごいね」

「先生が三人目です」

「ほう、こりゃ光栄だ」

 こうなったらもう日本酒を飲むより他になかった。家鳴りはしていても、もうおかまいなしだ。

「信じてもらえましたか?」

「こうまで面白いことをやられちゃったんじゃあ、信じないわけにはいかないだろう」

「ありがとうございます」

「で、この後はどうすればいいのだ?」

「今晩は家から出ないようにしていただければいいのです。それだけです。それだけでもう明日の晩からはなんの心配もいりません」

「ナポリターノくんにもなにも起きないのか?」

「ええ、今晩この家で過ごすことができれば大丈夫です」

「それより、安倍晴明と前田慶次郎利益の話しを聞かせてくれ」

「お安い御用です。ですが、かなり昔のことですのでよく憶えておりませんが」

「憶えているかぎりで良い」

 家鳴りは相変わらず続いていて、ときどき天井からは埃がぱらぱらと落ちてきた。横ではナポリターノくんはいびきをかいて眠っている。しかし、錯覚なのだ。眠っているナポリターノくんは実在者ではあるが、ついさっき天井から落ちてきた馬鹿でかい足は錯覚だ。脳が感じただけなのだ。だから、今、天井から落ちてくる埃も脳がそう感じているから埃なのだ。というと、それを埃だと思わなければ埃ではなくなるという理屈になるから、ためしにやってみたら埃は埃でなくなった。

「おい、コヤナギ同心。埃が埃でなくなったぞ」

「なんでしょうか?」

「錯覚だ、錯覚だ、と言うから、コップに落ちてくる埃も錯覚だと思うことにしたらコップの中からは埃が消えたぞ」

「え」

「ほら、見てみろ、さっきまで浮いていた埃がきれいになくなっている」

「あ、本当だ」

「これが錯覚というものなのか」

「お話ししただけでそういうことができるようになったお人は初めてですよ」

「安倍晴明もできなかったのか?」

「十日ばかりかかりましたよ」

「前田慶次郎利益はどのくらいかかった?」

「安倍晴明の二倍はかかりました」

「そうなのか」

「先生はこの道の天才です」

「そうか、そうか」

「だけど、お金とか名声には、この道は縁がありません」

「そうなのか」

「お金が貯まったり勇名になるとその力は消えてしまいます」

「ふたりともそうだったのか」

「そうでした。前田慶次郎利益は早い時期にそのことに気がついたようで、欲張りはしませんでした。でも有名にはなってしまったので、結局隠居してしまいました。誰かのためにその力を使うのなら、消えてしまうことはありません」

「難しいな。こんな力をどうやって誰かにために使うんだ」

「難しいです。ふたりとも悩んでいました」

「そりゃあ悩むよなあ」

 わたしはコップ酒をぐいっと飲んだ。ミシミシと鳴り続ける家のなかで小人みたいなコヤナギ同心と差し向かいで酒を飲んでいるヤツなんて日本では他に誰もいないだろうなと思うと、こういうのも悪くはない気がした。飲んでいるうちにだんだんと眠くなり、我慢しきれずにごろっと横になった。

 牡丹灯篭ではインチキの鶏の声やニセモノの朝日にだまされて戸を開けてしまったが、今はどこにでも時計があるのでだまされるなんてことはない。だいたいテレビ番組を見ればおおざっぱな時刻はわかる。電話の時報もあるし、ラジオもあるし、どこででも時刻を表示している。だからニセモノの朝日にだまされることもないし、心配なら最後は自分の腹時計だ。いや、腹時計が一番心配だ。なぜなら関取の女将さんから逃げ出した後の時間がいやに速くたっている。そうだ、だから、一番危ないのは腹時計だ。寝付く前にそんなことをぼんやり考えていたら外で鶏の鳴く声がした。鶏が朝を告げる声だ。しばらく聞いているとしつこく何回も鳴く。薄目を開けてみるとコヤナギ同心が少し腰を浮かして座って心配そうにじっとわたしを見ていた。サムライが腰を浮かして座るのはすぐに立ち上がるためだ。どうやら酔って戸を開けてしまうのではないかと心配しているようだった。

「大丈夫だよ。酔ってはいても軽率なことはしないよ」

「そうですか」

「ああ、だんだん眠くなってきたよ」

「そうですか」

「今、何時かね」

「まだ三時くらいだと思いますよ。この家には時計がないですね」

「ああ、必要なかったんでね、時計はないんだよ。テレビをつけようか」

「あ、それは止めた方がいいと思います」

「どうして」

「テレビの画面から家の中に入ってくるかもしれませんから」

「すると、電話もダメか」

「止めた方がいいと思います」

「そうか。あの鶏の声、ニセモノだろ」

「よくわかりましたね」

「わかるさ、近所に鶏なんかいないからな。大体、鶏の鳴き声で朝が来たのを知るというのは、今じゃ誰もそんなことはしない」

「では、何で朝が来たことを知るのですか」

「もう朝は来ないんだよ」

「え。でも夜が明ければ朝になるんじゃ」

「そうじゃないんだよ。今の時代の朝がどんなものか、もう少ししたらわかるさ。鶏の鳴き声で朝が来たのを知るなんてことはもうできないんだよ。朝は来ることは来る。だけど、コヤナギ同心、あんた方が知っている朝はもう来ないってことだ」

 コヤナギ同心は黙ってわたしの話を聞いていた。わたしはイビキをかいてい眠っているナポリターノくんを横目で見て、

「だいたい百五十年くらい前から、あんたが知っている朝はなくなってしまったんだ。さっきからしつこく鶏の鳴き声の真似をしているヤツにも教えてやった方がいいんじゃないか。近所迷惑だ」

「そうなんですか」

「そうだよ。だから、いくら鶏の鳴き声を真似しても無駄なんだ。誰もひっかかりゃあしないよ。さっきの路地を抜けた道に出たときも街灯がひとつあったよね」

「そうでしたね。見ました」

「あれはどういう意味だかわかるか。今の時代には本当の夜はもう探しても見つからないんだよ。本当の夜とはあんた方が長い間親しんできた夜のことだよ。その夜がもうないんだ。あんた方の知っている夜はもうないんだから、あんた方の知っている朝ももう来る事はないんだよ」

 わたしはどうしたわけか興奮してしゃべっていた。

「わかりました」

 素直にそう言うと、コヤナギ同心はするするっと畳の隙間に消えて行った。しばらくすると、それまでミシミシと鳴っていた家鳴りが突然止んだ。わたしはナポリターノくんの寝顔を見てから座りなおしてコップの酒を飲んだ。わたしの家でまったく安心しきって眠っているこの青年を見ているうち、いったいどんな思いを抱いてこのわたしを訪ねて来たのか不思議になった。ナポリターノくんがわたしの本を目にしたのは偶然だ。どこの本屋で見つけたのかは知らないが本を手に取ったとしても買うとは限らない。慎重な性格の人間だったら、まず買わないだろう。買ったとしても家に持って帰ったときにはその本のことなぞ忘れてしまうのが関の山だ。ところが、ナポリターノくんは買った。まったく無名のわたしの本を買ったのだ。物好きである。しかも、読んだのだ。読んで感銘を受けたというのだから信じられない。自分の書いた本を読んでくれて、しかも感銘を受け、あまつさえ、はるばる訪ねて来たのだから、これはもう作者冥利に尽きる。有り難いことだ。でも、不思議だ。その不思議なヤツが不思議なスイッチを踏んでしまい、コヤナギ同心が出てきて、たった今までミシミシと家鳴りがしていたのだから、考えてみれば面白い。その原因がイビキをかいて眠っているのだから愉快である。わたしは、ナポリターノくんの寝顔を肴に飲んでいた。

「ニヤニヤしてどうしたんですか」

 いつの間にかコヤナギ同心が戻ってきてわたしの顔を覗きこんで、言った。

「先生、何か楽しいことがありましたか」

「家鳴りが止んだけど、どうしたんだ」

「それでニヤニヤしていたんですか」

「そうじゃないさ。で、家鳴りはどうしたのだ」

「先生の言われたとおり、外のヤツラに説明してきました。そうしたら、あちこちから集まってきましてねえ、会議を始めちゃったんですよ」

「会議」

「そうです。アイツラのなかには物知りのヤツもいますからね。ソイツを呼んで先生の言うことが本当かどうか確かめようじゃないかってことになりまして。その物知りを呼んできました」

「誰だ、それ」

「縄文時代よりも前からいるらしい者です。ソレを呼びました」

「縄文時代よりも前というのがスゴイね」

「で、その物知りに聞いたところ、先生の言うことが本当だとわかりまして・・・・・・」

「そうか」

「そうなんです。先生の言うことは本当だとわかり、探しに行くことになりました」

「なにを探しに行くことにしたの?」

「夜と朝です」

「はあ」

「わたしたちの知っている夜と朝を探しに行こう、と言うことになりました」

「引き揚げるのか」

「そうです」

「そうか。何だか少し寂しいな」

「はあ」

 外からは誰かの足音が聞こえてきた。通勤で駅に行く人の足音なのか、しばらくしたら子供の声も聞こえてきた。いつの間にか高木元輝の演奏は終わっていた。

「じゃあ、もう雨戸を開けてもいいのかね」

 コヤナギ同心は顔を赤くして返事をしなかった。

「結局、朝まで飲んでしまったな。どうした、黙ったままで。具合でも悪いのかね」

「いえ、そうではありません。先生、まだ雨戸を開けてはいけません。まだ開けないでください」

「どうして。もう夜が明けたんだろう」

「違います。まだです。夜明けはまだなんです」

「でも、外で人の声がしたぞ」

「あれはインチキです」

「インチキ?」

「そうです。先生はもう鶏の鳴き声で朝が来たのを知るなんてことはないと仰いました」

「ああ。そう言った」

「で、わたしはそれを伝えました。それで鶏の鳴き声の代わりになるものを考えました」

「それが外の足音なのか」

「そうです」

「いつも聞いているのと同じだったぞ。子供の声もした」

「でも、インチキなんです。昔の人が鶏の鳴き声にだまされたように、今生きている人は外を歩く人の足音や声にだまされるのです」

「じゃあ、あれはインチキなのか」

「そうです」

「それなら、なぜわたしに教える」

「線香を一本持ってきました」

「線香?」

「はい。これの先に火をつけてください。この線香が燃え尽きるまでは雨戸を開けてはいけません」

「どうして」

「先生は時間の感覚がすでに麻痺しています。正しい時刻がわからなくなっているのです。それはわたしたちの力のせいです。お詫びにこの線香を使って時間を計ってください。この線香が時計代わりです」

「わたしたち?」

「そうです。結局、わたしも向こう側の者なんですよ。先生はわたしの話しを聞いてくださいました。ですので、こうやってお伝えしています。さあ、はやくしてください」

 わたしは言われたとおりに線香に火をつけて仏壇に供えた。振り向くとコヤナギ同心は「さよなら」と言ってするするっと畳のすきまに消えて行った。


 妻に起こされて目が覚めた。玄関も雨戸も開けて家の風通しが良くなっていた。妻は予告なしに実家から戻っていた。

「閉め切っていて暑くなかったですか?」

「今、何時だ?」

「もうお昼近いですよ」

 わたしはいつの間にか眠ってしまったらしい。ナポリターノくんはまだイビキをかいて眠っている。妻が畳の上に散らかっている空き缶やらを片付けているとき、

「あなた方、夜通しこれを飲んでいたの?」

 妻はわたしの目の前に転がっている瓶をじっと見つめて言った。

「ああ、二人で飲んだ」

「あれまあ。これ、お酢ですよ」

 その瓶は妻の言うとおり「酢」の瓶だった。じゃあ、わたしたちはお酢を飲んで酔っ払っていたのか。

「お酢は健康に良いっていうけどねえ、物好きですねえ」

「そうか」

「そうですよ」

「次からは気をつけるよ。ナポリターノくんも起こしてやってくれ」

 着ていたシャツは汗まみれになっていた。また夏の一日が始まった。




 三日ほどしてナポリターノくんがやって来た。

「先生、教えてほしいことがあります」

「なんだね?」

「『疒』に『知る』と書いて『痴』ですよね」

「そうだ」

「『疒』に『寺』と書いて『痔』ですよね」

「そうだね」

「じゃあ、『疒』に『汁』と書くと、なんて読みますか?」

「そんな字は見たことないねえ」

「そうですか。では、この写真を見てください」

「なんの写真だ?」

「急集っていう貼り紙の写真です」

「ああ、あれか。君、写真に撮っていたのか? あんまり見たかないねえ。『疒』に『汁』と、どんな関係があるのかね?」

「関係ないです。スマホで撮影しておいたんですが、でも、なんだか字がぼやけていくような気がするんですけど」

「そういわれれば、そうかね」

「あのお店はどうなりましたかねえ」

「また行ったのか」

「いえ。行ってません。あの晩、ボク、途中で眠っちゃいましたよね」

「ああ、眠っていたね」

「でも、遠くの方から『あの呪いは無効です』というのが聞こえてきたんですが、良く憶えていません」

「ああ、それなら無効になったんじゃないの」

「無効でいいんですか?」

「ああ、無効でいさ」

「やっぱりそうか。じつは、あの晩から体の調子がすごく良いんです。ネコに引っ掻かれたキズもキレイに治っていました。やっぱり無効だったんですね」

「よかったな」

「よかったです。先生、また飲みに行きましょう、別の店に」

 わたしは、ふと、ナポリターノくんからはまだ『狐雨』の続きを聞いていないことを思い出した。そうして、ナポリターノくんが読んだというわたしの小説も読ませてもらおう。わたしたちが、ダメなのか、ダメでないのかは、まだ判定できないが、平和であることにはちがいない。そういえば、騒動のあいだ、いちども痔が出ていなかった。いま気がついた。もしかしたら、プレミアムつきの平和がおとずれるかもしれない。良いことである、良いことである。


                                 ―了―

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ナポリターノくんと、わたし Dexter Gordon 2016 @DexterGordon2016

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