1話 たった一人のラビリンス

   1.


 五百年王国ユルトラの法、借金をしてその返済の義務を果たせないものは奴隷とされる。

 それは貴族も決して例外ではない。

 わたしの家はユルトラで五百年続く名門貴族である。

 ただし、もと。

 おりからの作物の不作、しかし領内の税をあげることを嫌った父さまはその補填をするため交易を開始した。

 けれどその父さまが急死したため家は交易に失敗、途方もない借金だけが残った。

 母さまは私財をすべて売り払い、最後には自らの命を絶って、わたしが奴隷に堕ちることから護った。

 こうして、生まれて十四年、ほとんど屋敷からでたことも無いわたしは、服一枚もたされて、一人街に放り出されたのである。

 わたしは感情のない瞳で前を見て呟いた。

「どうやって生きてゆけばいいのか、分からない」

 もともと表情のない娘だと言われていたけれど、ますますそれを失っていたと思う。

 流れ続けた冷たい涙は、わたしの表情をも凍らせてしまったのかもしれない。

 けれど、心は不安で一杯だった。

 なにも分からない。

 服を着る方法も、体を洗う方法も、わたしには分からないのだ。

 使用人達はなにもかもやってくれた。

 わたしに今わかることは、ただひとつ「なにも分からない」ということだけだった。

 あてどもなく街を彷徨う。まるで城にすむ令嬢のような服を着て不安げに歩く、その場に不釣り合いな女を無視できないのか、行き交う人はわたしを目で追う。

 ひとりひとりにわたしは会釈を返していった。

 ぎょっとする人、怪訝そうな瞳をする人、そそくさとその場を立ち去る人、ぎここちない笑みをかえす人、みなさまざまな反応をかえすけど、誰一人近寄ってくる人はいなかった。

 彼らを除いて。


 ひどく親しい感じで彼らはわたしに声をかけてきた。

 少しだらしなく着崩したシャツとズボン、腰には護身用の短い剣。

 大柄なリーダーっぽい人は頭を丸めており。

 小柄な人は髪を尖らせ。

 猫背の人は香油でパテのように髪を固めていた。

「どうしたの? こんな所ひとりで歩いて」

「なにか困った事があれば言ってくれよ」

「俺ら、ここらじゃちょっと、顔の知れた奴だからさ」

 はじめて声を掛けてくれた彼らに、わたしは素直に答える。

「あの、どうすれば生きてゆけるか、分からなくて」

 おかしな返事だったのか、彼らはお腹を抱えて。

「そりゃたいへんだ!」

 と、父さまに連れていってもらった歌劇の役者がするようなポーズをとった。

 そして面食らうわたしの手を握り、頭を丸めた人は、

「俺達に任せとけ!」

 頼もしく胸を叩いてくれたのだった。


「お前は売られたんだよ!」

「何処行った!」

「探せ!」

 わたしは背中に親切な人達の怒鳴り声を浴びながら、絡まった路地裏を走った。

「俺達は金を受け取ったんだ、お前が逃げちゃこっちに損が回ってくる!」

 彼らは、わたしに仕事を紹介してくれると云った。そして街の外れの小屋へ導いた。

 そうして中で腰の曲がった男からお金を受け取ると、あとはその人に聞けば大丈夫だからと云って姿を消した。流石にこの辺りでわたしも事態を呑み込み始める。

 腰の曲がった男は、わたしを奥の部屋へ連れて行くと、服を脱げと命令した。お前は明日競売に掛けられると云って。

 だから逃げた。

 すぐに。


 わたしは流れ出る涙をわたしは袖で拭いながら路地裏をひたすら走った。

「馬鹿だ、わたしは馬鹿だ」

 せっかく平民になれたのに、奴隷にされるとこだった。

 あんな奴らに騙されて。

 けど、今は泣いている時じゃない、あいつらから逃げないと、全てを失って手に入れたものを奪われる。

 でも相手は男。

 どうしようもなく体力の差は出てくる。

 すぐさま息は切れ、肺を焼くような感覚がわたしを襲う、呼吸に必要な空気に喉を嬲られるだけで痛みを感じる。

 わたしの足はまるで重りでも付いているかのように持ち上がってくれず、どんどん追いつかれてゆく。

 奴隷にされるのだけは駄目だ、死んでもそれだけは。

 わたしを平民にするために命を失った母さまは、そんな事を望んではいない。

 どんな事をしても逃げるんだ!

 知恵を使え。

 周りを見る。

 路地は狭く、ひと一人がやっと走れる幅。少し遠くから聞こえる馬車の音。そしておそらく路地を挟む建物に住む人の物だろう、残飯やら、異臭のする樽、箒なんかが散乱していた。

 生きてゆく知識は無くても、いま生み出す知恵はある。

 わたしは背後の三人を振り返った、話しかけてきた時の穏やかで親しげな表情を欠片ももたない、怒りと欲望、己の感情だけを塗りつけた彼らの表情。

 その手は間際まで迫っている、あと数歩も走ればわたしに届くだろう。

 だからわたしは、転ぶようにその場にしゃがみ込んだ。

 しゃがみ込むというより、石のようにうずくまる。

 すると彼らにとっては突然足の下に障害物ができあがり、それにつまずく先頭の一人。

「なッ」「テメ!」「お前ら!」

 前から順に捲くし立てるような声を上げ、見事に三人組みが転ぶ。

 わたしはその好機チャンスを逃さず、そのまま彼らの斜め下をくぐり抜け、反対側へ走り抜けた。

 そして分岐していた路地を途中で曲がる、さきほどこちらから馬車の軋む音が聞こえていたのだ。

 やっぱりだ! 見えた、路地裏の出口! あそこにさえ辿り着けば街灯を

管理する街灯点ての人や、衛兵がいるかもしれない。

「待ちやがれ、このアマ!」

 いけるこれなら間に合う! わたしはこのまま逃げ切れるそう思った。


 ――その時


「え――? ぇぁ・・・ぁあぁぁぁ・・っ!」

 突然だった、突然わたしは真上から土砂でも浴びたかのような衝撃を受けて、地面に打ち付けられた。そしてそのまま、まともな身動きがとれなくなる。

 しかし実際には土砂なんてどこにもない、なのに全身に何か重いものがのし掛かるような感覚を受ける。

 その絡まるような重みは幾重にもわたしを拘束し、骨を軋ませ、肉を押しつぶそうとした。

 水の中で動くような抵抗を受けながら、わたしは足元を振り返り、窮屈になった肺で喘ぎ・・・

「魔術師が、いるの?」

 そう呟いた。すると男が一歩前に出てわたしを睨みつける、

「ったくこのアマ、手間を掛けさせやがって」

 それは頭を丸めたリーダー格の男だった。

 彼は、彼の大きな体に似合わない小さな羊皮紙の巻物に手を充て、なにか念じるように、呻くようにそう云った。

「・・・数魔術?」

「当たりだ、やっぱりお前、貴族か?」

 わたしは彼の手元のスクロールを凝視しながら息を呑む。

 数魔術――それはこの世界の、音、幾何、星、数、これらを利用した魔術、その中でも最も単純にして難しいとされる数を使ったものだ、単純ながら単純だからこそ強力な力を発揮する。

「小娘、知っているなら分かるだろう、もう逃げても無駄だ、俺はお前を何度でも捕らえられる、大の男が数人掛りでお前に掴み掛かるような力でだ。その細腕でそれを振りほどけるか?」

 彼の言葉と共にわたしに掛かっていた重みが徐々に霧散してゆく。

 わたしは楽になった肺に、急いで空気を取り込んだせいで咳き込みながら・・・路地裏の出口を眺めた。

「あと・・・少しなのに」

 彼がどのようなアルゴリズムを使っているのかわからない、ただおそらくこれは重力を操った物だ、重力を操ることは容易ではない、彼の腕は確かなようだ。

「さすがアニキっす、ドロップアウトとはいえ魔術師」

 猫背の男がわたしに向かって鼻で笑ったあと、鼠の顔のような笑顔をリーダー格に向ける。

 リーダー格もまんざらではないらしく、

「馬鹿やろうドロップアウトは余計だ」

 などといいながら猫背の男の肩を叩いていた。

 そして這いつくばるわたしに向き直り、

「小娘、無駄な抵抗をするな。俺は重力を四倍にもできる、これほどの重力を備えもなしに突然受けることに人間の体は耐えられん、よくて失神、最悪命はないぞ」

 そう云って、左手に持った羊皮紙を右手の甲で二度叩いた。

 わたしは重力が霧散したのを感じ、俯き加減にそこに座った。

 こちらの観念した様子を見て、リーダー格がゆっくり近づいてくる。

 わたしは地面を無表情に見つめて動かない。

「さあ、帰るぞ」

 彼が右手を伸ばした瞬間だった。わたしは転げるように伸ばされた手の反対側を駆け抜け、後方に出る。

「こ――このアマまだ!」

 弾けるように突進したわたしを見た彼が、再び羊皮紙で数魔術を使おうと左手を上げるがそこにはもうなにもない。

「な!」

 頭を丸めたリーダー格が、自分の手とこちらを交互に見比べる。

 わたしは相手から奪った羊皮紙を広げ、その中央に手を充て演算を開始した。

 するとその様子をみた猫背の男がこちらに跳び掛ってきたが、

「このアマ! スクロールを返せ!」

「重力増加!」

 わたしが叫ぶと、足元にまで伝わる衝撃と共に、猫背の男が地面に貼り付けにされた。

「ぎぁっ!」っと、潰された鼠のような声を挙げて地面の上で縦一文字になる猫背の男。

「こ・・・こいつ・・・この小娘!」

「あなた達は間違った」

 わたしは最後の交渉に入る。

「わたしを貴族の令嬢であると予測しながら、目の前で魔術を使った」

 この時代――識字率が低く、書物の増刷が手作業のこの時代。知識とは途方もなく高価である。

 誰もが使っているような日常の知識はともかく(わたしには圧倒的にこれが足りないのだけれど・・・)それが非日常で、かつ利用価値のある知識なほど高価になってゆく。

 魔術という知識はその中でも、とびきりだ。

 選ばれた魔術師の弟子か、よほど裕福な者でなければ、触れることすらできない価値がある。

 眼の前の彼はおそらく前者の選ばれた弟子であろう、

 そして、わたしは後者、よほど裕福なものだ。

 ――元ではあるが。


 同時に、


「わたしを逃して、要求はそれだけ」

「俺の武器を奪っていい気になっているのかもしれないが、それだけで逃げきれると思うなよ、第一さっきも言っただろう、俺達は金を受け取った、このままお前に逃げられちゃ俺達に損が回ってくる」

 わたしの左手にある羊皮紙を狙い、リーダー格の男が地面を擦るように、ゆっくり近づいてくる。

「なら、わたしの提示できるあなたたちの利益を云う」

「ほう」

 それを聞いた羊皮紙を狙っていた男が、わずかに眉を上げながら、わたしに訊ねる。

「そんなものがあるのか、言ってみろ」

「あなたたちの命」

「はっ」

 彼はそれを聞いた瞬間、吹き出した。

 わたしは構わず続ける。

「わたしの自由と、そちらの受ける損害を、あなたたちの命で買い取りたい」

 リーダー格の男がさらに歩を進め手の平をわたしに向けながら云った。

「お前がいくら魔術を使えようと、こっちは三人、そいつは高度な重力魔術のスクロールだ、この全員を押さえつけられるだけの範囲をお前が囲めるとは思えねえ、お前みたいな小娘が俺達の命を奪えると言って信じるとでも」

 彼が地面を駆ける。

「うごかないで、うごけば力任せにやるしかなくなる!」

 わたしは羊皮紙に手を充て高速で演算してゆく、わたしの周囲に纏われる青い魔力の光。

 その光は形を手に入れ、数を示すルーンや演算記号に変わってゆく。

「――コ、コイツ! 周囲の魔力をどれ程燃やしているんだ!」

 光り、魔術を使う際に魔術師が発する光は、その行使される魔術の強大さ、魔術師自身の力の大きさを端的に表わす。

 そしてわたしの放った光は、頭を丸めた彼を慄おののかせるに十分であったようだ。

 でも、わたしが本気を出すとこれでは終わらない。

 光は歪みだし、数字や記号の体裁をなさなくなり、

「・・・おい・・・なんだ? この禍々しい・・・計算?」

 青かった光りが、やがて緑や黒、赤を含んで光りだし、歪み、滲み、瘴気を孕むようにあたりを浸食してゆく。

 わたしの纏っていた魔法陣、それがもう概念も、摂理すら失った、ただの真実の奔流と成り果てる。

 魔術のわかるリーダー格はとうに足を止めてしまったが、わからないもう一人の小柄な男が止まらない。

「ごめんなさいもう手加減ができない!」

 お願いだから生きていて!

 わたしは念じながら魔術を放つ。


「――重力――倍加!」


 そのとき、街を揺らすような、辺りの建物が揺れて共鳴しあうような音が響いた。

 その数瞬あと、俯くわたしの後頭部に、建物の間に張られていた洗濯物を吊るす紐がゆっくりと落ちてきた。

 わたしは荒い息をついて顔をあげる。

 みれば傍に三人組みの姿は無く、暗夜のなか眼を凝らすと、わたしの視線のずっと前方、路地裏の出口を抜け、大通り向かいの壁の下に彼らは一塊になって倒れていた。

 それをみてわたしは慌てる、とっくに重力は解除しているのに彼らが動かない――

 わたしが彼らに駆け寄って、その息を確かめると・・・

 よかったちゃんと息をしている。

「あの、これはお返しします」

 わたしは一番上で呻いているリーダー格さんの手にスクロールを握らせて、いそいで近くにいるはずの街灯点ての人に衛兵を呼んでもらうために走った。

 おそらくもう大丈夫だろう。

 わたしは魔術を出会わせてくれた母に、学ばせてくれた父に感謝した。

 裕福で魔術に出会えたわたしだが、それを学べたのは。


 選ばれたから、だった。

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魔法つかいのマテマティカ @hironobu

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