第6話 後悔と言う名の亡霊


 森みどりとの婚約解消後、大阪に戻った私は、まったく違う女性と一度は結婚生活を送ったが、結局うまく行かずに別れてしまった。私と別れた妻の間にできた子は私が引き取って育てていた。仕事、育児、家事、と毎日が、目まぐるしく過ぎて行く。

 その日もいつもと変わらず、午後七時過ぎに仕事を終えて家路を急ぐ。スーパーで夕食の材料を買い、お腹をすかせた子供に早くご飯を作ってやらなければと大急ぎで家に戻る。 

 いつものようにポストを開けて、郵便物やチラシをガサッと取り出し、内容を確認する暇もなく、テーブルの上に放り投げて、慌てて食事の用意に取り掛かった。

 ひと通りの家事を終えると、時間はすでに午後九時半を回っていた。ほっと一息。ソファーに腰を下ろし、風呂が沸くまでの間、テーブルの上に放り出された郵便物に目を遣る。チラシやダイレクトメールに混じって見慣れない一通の封筒に目が留まった。そんな日常の中で、その手紙は、私を遠い昔に忘れられた非日常の世界に誘おうとしていた。

 これは?? 裏の差出人を見るとそこには懐かしい名前が書かれていた。私は期待と不安に胸を膨らませて慌てて封を切った。


   『大分生態水族館、創立四十周年記念、OB会開催のお知らせ』


 それはかつてその場所で働いたことのある方々への言うなれば、同窓会のお誘いであった。すぐに私の記憶は、あの若葉萌える緑の日々へと舞い戻る。……律子。

 開催日は十月三十日、場所は、大分市内の某ホテルにて。多忙を極める私に取って、大分はとても遠い場所だった。しかし、きっとこれが彼女に逢う最後のチャンスのように思えた。でも、彼女が来るという保証はどこにもない。

 二人の間には知らぬ間に過ぎ去った二十五年の歳月が立ちはだかっていた。来なくても当然のことだったし、彼女がまだ大分にいるかどうかすらわからない。ましてや、この同じ手紙が、律子の嫁ぎ先にまで届いているかどうかもわからない。けれどもなぜか確信にも近い予感がしていた。私にはわかる。彼女はきっと来る。

 締め切りぎりぎりまで、悩んだあげく、これは、神様がくれた最後のチャンスなんだと思って、出席にOを付け、備考欄には「お誘いいただいて感謝いたします」と心から気持ちを込めて書いて、ポストへ投函した。果たして、彼女は来るのだろうか。

 いよいよ待ちに待った平成二十四年十月三十日がやって来た。その日は金曜日で、本当は仕事が忙しかったが何とか午前中に片付けて、会社から直接空港に向かった。帰阪予定は明日の夕方。それまでヘルパーさんに子供の面倒は頼んで来たのでたぶん家の方は大丈夫だろう。

 しかし、ここへ来て、私はかなり弱気になっていた。たった三年半しか在籍していなかった私などが、創立四十周年記念式典などに出席してもいいものだろうか?

 いや、それよりも、知っている人が誰もいなくて、あなたは一体どなた? ではないのだろうか。まさかこんな私が、わざわざ大阪から飛行機に乗って参加するなんて誰も思わないだろう。親族の結婚式や告別式なら話もわかるが、四十年もの長い水族館の歴史の中の僅か三年半というほんの一コマしかいなかった人間が、わざわざ大阪から、高価な旅費と時間を掛けて出向くのだからやはりちょっと変だ。その思いは、大分が近付くに連れ私の中でどんどん膨れ上がって行った。

 

 午後三時五十分に飛行機は無事、大分空港に到着した。

とうとう来てしまった。過去を振り返る懐かしさよりも不安な思いでいっぱいだった。到着ゲートをくぐる。その場所は、かつて律子が私を出迎えてくれた場所だったはず。そんな大切な記憶さえもぼんやりと霧がかかったようだ。思い出というものは、いつしか脳の中で違ったものに塗り替えられて行くものなのだろう。とても曖昧だ。だから私はその場所を目の当たりにしてもあまり懐かしいとは思わなかった。

 昔は空港から市内までホバークラフトが就航していたが、それもすでに廃止され、今ではバスかタクシー以外には公共交通機関はない。ここはまるで陸の孤島だ。市内行きのバスで約一時間かかる。 その一時間の間、私の中の不安はどんどん大きくなって、もうこのまま引き返そうかと何度も思った。

 バスは、別府市街地に入る手前で、「日出」という小さな漁師町を通った。日出と書いて、ひじと呼ぶ。私は先ほどから続いていた暗澹とした気持ちから、少し懐かしい思いに変わった。日出は、律子の実家がある町だ。この小さな田舎町で律子はずっと暮らしていたのだ。

 律子か……微笑む律子、元気な律子、泣いている律子、すべてが美しい思い出だ。そうか、やっとわかった。私の心を占拠している不安の本当の原因は――水族館四十年の歴史とか、たった在籍三年とか、私のことを知っている人がいるかとか、そんなことはただの問題のすり替えに過ぎない。違う、そうじゃない。

 律子が来るか来ないかもわからない。確かにそれは心配だった。しかしそれよりも、もし律子に逢えたとしても、私のことなど昔に出会った多くの知り合いのうちのたった一人で、特に会いたいとも思わないし、ひょっとしたらもう覚えてさえいないのかもしれない。

 彼女が来ていなければ、「ほらやっぱりね、残念でした」とあきらめるだけで済む。しかしもし会えたとしても、私の顔さえ、名前さえも忘れられていたら? それほど悲しいことはない。二十五年間の私一人の片思い。独りよがりもいいところだ。ほんとにバカみたいだ。

 私と不安な気持ちを乗せたままバスはどんどん目的地に近付く。まるで幸せの黄色いハンカチみたいだと思った。果たして私は、青空にはためく黄色いハンカチを見ることはできるのだろうか?

 いよいよ終点、大分駅前にバスは到着し、ここから会場のホテルまでは十五分ほど歩かなければならなかった。私はホテルに電話をして道順を聞き、足取りも重く歩き出した。 

 二十五年もの歳月が流れていると言うのに、この街はあまり変わっていない。駅前のパルコも、トキワデパートも、全部あの時のままだ。私の住む街より、ここはきっと、時がゆっくり流れているのだろう。街の賑わいもあの時とあまり変わらない。しかしそこにいる学生や、若者たちみんな、おそらくあの時、まだこの世に生まれていなかったのだと思うと不思議な気分だ。街は変わらなくても、中の人間たちは確実に世代交代している。

 記念式典の開会は午後五時三十分。今、すでに私の時計は五時四十分を回っていた。すでに十分遅刻。完全に気持ちが後ろ向きになっていた。気を取り直して慌てて走り出す。  

 ようやくホテル前の交差点に着く。緊張はピークに達し、駅からけっこうな距離を小走りで来たこともあって汗だくになっている。もう十月だと言うのにすごく暑かった。

 記念式典はホテル二階の大広間で催されていたが、私がホテルの玄関を入ると、丁度、一階ロビーで大勢の招待された客たちが集まって記念撮影しているところだった。遠巻きに見覚えのある懐かしい顔が何人かいる。軽く会釈を交し合う。どうやら向うも私のことを覚えていてくれているようで少し安心した。

 記念撮影の間も、その末席から私は一生懸命辺りをきょろきょろ見回して探したが、どうやら彼女はいないようだ。しかし知っている人が何人も見つかる。向うも懐かしそうに手を振る。ほんの少し、私の緊張が弛む。でも、肝心の律子はまだ見つからない。

 やっぱり来ていないのかもしれない。無理もない。その時、聞き覚えのある甲高い声が後ろの方から聞こえた。その声は私の名前を呼んでいた。

「秀俊?」

 振り返ると、そこにはみどりがいた。 

「あんた、わざわざ大阪から来たんね?」

 その声はあの頃とあまり変わってはいない。しかしその顔にはしっかり二十五年の年月を感じさせる。あの時は二人とも二十四才。そして今は四十九才。もうあの時の倍の時間が流れたと言うことか。今、目の前にいるみどりと、私の思い出の中のみどりとのギャップに驚く。時の流れと言うものはなんと残酷なものか。無常だ。

「あんた、変わってねぇなぁ」

 みどりが、二十五年前のいつものペースで私に話しかける。

「あ、でも、よく見たら、あんた、顔に覇気がなくなっちょるね! どっか具合でも悪いんでねぇ?」

 変わってない! みどりだ。この喋り方、このペース、ちっとも変わっていない。変わったのは、顔が二十五年の歳月を経たと言うことだけで、やっぱりテンションは高いまま。一気に私の緊張が解ける。やっと私の顔に笑みが戻った。やっぱりこいつは憎めない奴だと思った。ありがとう、みどり。

「やあ、みどり、元気そうやね」

「みんな来ちょるんやで、向うにいるよ、リッちゃんも、かおりも、由香も、みんな来ちょるんや! ほんとはな、今日みんな来んっち言いよったんよ、けど、ヒデちゃんが来るって聞いたけん、じゃあ来ようやって言うことになったんよ。写真撮ったらみんなんとこ行こな」

 こんな私でもまだちゃんと覚えていてくれて、会いに来てくれたのかと思うと、私は泣きそうなほど嬉しかった。


 撮影が終わって、その当時、たった三年間だったけれど、とてもお世話になった先輩たち、二十五年前の知り合いたちが、みんな私にやさしく声を掛けてくれた。

「おお、天宮! よく来たなあ!」

「お前、大阪から来たんか? 遠いのによう来たよう来た!」

「おお、天宮君、元気しちょったか?」

 二十五年の空白はこの言葉たちがあっという間にどこかへ消し去った。誰もが皆私をちゃんと覚えていてくれた。ここへ来るまでの心配は杞憂に過ぎなかった。心から来てよかった。そう思える瞬間だった。

 そして、人波にもみくちゃにされながら、二階の会場へ急ぎ、名札の付いた席に座る。そこで私を待っていてくれたのは――

 濃紺のスーツ姿で二十五年経ってもそのスリムで均整のとれたスタイル。そしてあの美しいショートカットに、懐かしい笑顔。変わらない。思い出の中から抜け出して来たようだ。

「おかえり」

「ただいま……」

もうそれだけで何もいらない。すべてがこの瞬間にあった。たくさんの黄色いハンカチが、遠い青空にはためいていた。二十五年もの時が流れたなんて全然感じられなかった。まるで、つい昨日のことのように、何もかも鮮やかに蘇る。

 律子とは丸テーブルの隣同士の席だった。でもそれは偶然ではなかった。律子が会の幹事にわざわざ私と隣同士にしてくれるように交渉したらしい。この席まで私を案内してくれた幹事に律子は、「天宮君のエスコートは私に任して」と、元気良く答えていた。変わってない。二十五年経ってもこの姉御肌なところ。彼女の心遣いが身に沁みる。

「りっちゃん、変わらないね。昔のまんまだよ。元気そうやね」

「天宮君も、ちっとも変わらんね。今、どうしとるん?」

 それから私たちは、この二十五年にあった様々な出来事をゆっくり話し合った。お互い、いろいろなことがあった。彼女には、男の子が二人生まれて、上の子は今年でもう二十才になるという。今は夫婦と言っても、ほとんど形だけでもう愛と呼べるものはないらしい。 

 二人の子供が成人したら、離婚もありえると言うことだった。そんなものなのか、夫婦って。二十年もいっしょに暮らして来たはずなのに。それを聞いて少し淋しくなった。私の贖罪なのかもしれないが、彼女には幸せでいてもらいたかった。二十五年の歳月が、私たち二人の上に重く圧し掛かる。 そして、話が途切れたとき、ぽつりと律子が言った。

「あの、ホテルのこと、覚えちょる?」

「ああ、忘れるはずはない。今までも、これからも、ずっとだ」

「ありがとう。わたしもずっと、あの夜のこと、忘れられんちゃ」

 そのとき、律子は昔の顔だった。あの切ない夜、私の肩に額を押し付けて、静かに泣いていた、紛れもない、あのときの顔だった。

「わたし、誰にも言わんかったよ。もう天宮君には一生逢えんと思っちょった。きっと大阪で幸せに暮らしとるんやろっち思いよった。けど、違ごうた。なんで幸せになっとらんの? 幸せになってたら、今回逢ったら、もうそれでわたしの中できっちり区切りつけようと思いよったに。でも、こんなんやったら逢わんほうが良かったかもな」

 私はどれほど、律子の心が傷ついていたか、ようやくわかった。二十五年も経っているというのに。なんと愚かなことか!

 どんなに長く時が流れようとも、どんなに生活が変わろうとも、決して消すことができない思い出と、決して忘れることができない思い。そんな思いを胸に抱いたまま、彼女は必死で、変わろうとしたに違いない。一生懸命忘れようとしていたに違いない。私はどれほど自分がかわいい奴なんだ。結局自分のことしか考えられなかった。会えなければどうしよう、忘れられていたらどうしよう、だと? そこには二十五年の彼女の苦しみは微塵も入ってはいない。



               ※              ※



 記念式典が終わり、二次会が始まった。会場は和やかな雰囲気に包まれていた。参加している人々皆、その思いは遠い過去に馳せる中、私の心は浮かないままだ。

 皆ビール瓶片手にあちこちのテーブルを渡り歩いていた。もちろん人気者の律子も席を立ち、古い友人たちのところへ語らいに行ったようだ。私はひと通り知り合いの方々に挨拶をして、今は一人、席に戻って律子の帰りを待っていた。さっきの律子との会話がとてもひっかかっていたのだ。

「ひぃでちゃん!」

 いつのまにか、みどりが隣に座っていた。随分とアルコールが入っているようだ。昔は確か、あまり飲めなかったはずだ。飲まないとやっていられないような人生だったのか。

「あんたも飲みんさい」

 そう言って私にビールを勧めるが、私は昔から変わらず下戸のままだ。そしてみどりは、かなり酔っ払っていたのだろう。私に今まであったことを話し始めた。


 ――わたしなあ、死にかけたんや。

 

 森みどりもその後大変な人生を送っていた。彼女は私と別れてから、一度は結婚をしてみたものの、その夫というのが曲者だった。彼が興した会社が事業に失敗して経営難に陥り、その資金繰りのために他所から多額の融資を受けたが、なんとその旦那には外に女がいて、その浮気相手と一緒に借りた金を持ってどこかへ蒸発してしまった。

 運転資金はおろか、従業員の給料までも持ち逃げされてしまい、当然、会社は倒産。後に残されたものは、妻であるみどりと多額の借金のみ。みどりはその借金の連帯保証人になっていたために自己破産に追い込まれてしまった。二十年以上経った今も旦那の消息はわかっていない。おそらくもう二度と彼女の前に姿を現すことはないだろう。

 そしてさらなる悲劇が彼女を襲った。旦那が消えて暫くして妊娠していることがわかった。しかし運悪く子宮外妊娠であったために、中絶を余儀なくされ、あまつさえ、彼女自身の命まで危ぶまれた。かろうじて命は助かったけれど、彼女はたった一人で病院のベッドに横たわって生死の境を彷徨いながら、自分自身とその人生を嘆き悲しんだと言う。

 今はそこから必死で這い上がり、かつて私も世話になった彼女の両親と三人で静かに暮らしているらしい。


「秀ちゃん、あたし、あんたに会ったらどうしても謝らんといけんっち思いよったんや」

 みどりの顔からさっきまでのぐでんぐでんの酔いが消えた。

「あんたに謝らんと死んでも死に切れん。病院で死にかけよった時に、あんたを思いよった。すまん、ち思いよった。ああ、きっとバチが当たったんやと思いよった」

「どした?」

「……あたしな、知っちょったんよ」

「何を?」

「りっちゃんがあんたを好きやったこと、秀ちゃんもりっちゃんを好いちょったこと」

「えっ?」

「せめー町やけんな、そげな話はすぐに噂になる」

……そげな話! もしかしてばれていたのか?

「知り合いにサンフラワーで働きよる人がおってな、あの朝、あんたのバイクだけフェリーに載ってたこと見てたんと。あれ、本人がおらんて不思議に思いよったと」

 あの当時、確か、別府では私の買ったバイクはたった二台しか売れてないとバイク屋のおやじさんが自慢げに言っていた。当時としては随分と高価な物だった。その二台の内の一台はうちが売ったんだと自慢していた。

「怖い顔せんでよかよ。元はあたしが悪いんやけん。あたしが邪魔したんやけん」

 私は何も言えなかった。みどりの目が涙で潤んで来るのがわかった。

「ずっとな、りっちゃんはあんたのこと見ちょったんや。あんたよくお昼にバイクのとこにおったじゃろ? あんたがバイクをあたりよる時に、その度にりっちゃんはずっとあんたを見ちょったんや。自分の車を拭くふりしてな。あたし、思った。りっちゃん、あんたのこと、ほんとに好きなんやって。すぐわかった。ある日の昼休み、りっちゃんがあんたんとこへ何か頼みに行ったじゃろ?」

「頼みに?」

「あんたがしらしんけんバイク磨きよる時に行ったじゃろ?」

「あ、もしかしてワックス? 硬いから蓋開けてほしいって持って来た時かな」

「そうっちゃ。それ見てな、あたし、ああ、とうとう行ったんや、って思った」

「あれってもしかして……」

「あんた鈍感やったけん、そげなこともわかりよらん。けどな、あんたを好いちょったのはりっちゃんだけじゃねえで、もちろんあたしもや」

 みどりの瞳からとうとう一筋、涙がこぼれ落ちた。

「あたしな、そんとき、どうしようもなく腹が立った。自分でもすげー妬みやってわかったけど、自分の気持ち、どうしても止められんかった。こんままではりっちゃんにあんた取らるるって絶対思った」

 嫉妬? だからあの夜うちに来たのか。

「あんたを好いちょったのは本当っちゃ。嘘なんかじゃねえで。けど、りっちゃんへの嫉妬が後押ししたこともほんとっちゃ。じゃけ、皆に宣言までした。あんたと付き合うって」

 嫉妬は人を狂わせる。時としてとんでもない行動を起こさせる。

「けどな、あんたがりっちゃんを思いよったのもあたし知っちょった。なのにあたしは、あの時もな、あんたを試したんや」

「あの時?」

「一回だけバイクに乗せた時や」

「ああ」

「あんたを信じられんかった。りっちゃんも信じられんかった……自分もな、自分も信じられんかった。きっともう戻らんような気がした。けど、あんたはちゃんと帰って来た。あたし、最低じゃろ? 思わん?」

「いや、思わないよ」

「ほんと? 恨みよらん? あたし、そんなあんたを裏切ったんや。待てんかった。あんただけでなくて、あんたの母ちゃんも、あたしの母ちゃんも父ちゃんも、祝福してくれたりっちゃんさえもな、みんなみんなあたし、裏切ってしもうたんや」 

 そう言うなり、彼女は私の手を強く握り、ひとしきり泣いた。

「ごめんなあ、ごめんなあ」と何度も言いながら泣いた。



             ※             ※



 会の最初に声を掛けて来たみどりは、昔と何も変わらず元気だった。その表側はどんなに明るく立ち振る舞っていても裏側は他人にはわからない。人と言うものはわからない。

 私を取り巻く女性は、もしかしたらみんな不幸になるのではないだろうか。自分自身がまるで不幸製造マシンのように思えて来た。

 飲み会の途中で、それぞれがアドレスの交換をして、最後にみんなに握手を交し合い、またの再会を誓い合って、日付が変わるころ、ようやく、会もお開きとなった。

 会は大成功だったようだ。私は結局、一人でホテルの部屋に戻り、シャワーを浴びて一人、ベッドに横たわった。砂を噛むような淋しさだけが残る。そのホテルの部屋は、かなり豪華で広く、シングルなのに、不必要にでかいセミダブルのベッドがやけに冷たく感じられた。

 

 午前一時。なんだか酷く疲れていたのになかなか眠ることが出来ずにいた。その時突然携帯が鳴った。ディスプレイは、先ほど登録したばかりの「川田律子・携帯」となっていた。

「はい、もしもし、天宮です」

「遅くにごめんな、今いい?」

「うん、いいよ。どうしたの?」 

「ううん、どうもせん。さっき、わたしなんか天宮君に嫌な思いさせたかも知れんと思って」

「あ、いや、気にしてないよ。りっちゃんも、気にしなくていいから」

「あ、うん、あのね、もし迷惑じゃなかったら、今からそっち行っていい?」

「え? あ、ああ、いいよ。けど、旦那さん家にいるんじゃないの?」

「ううん、今夜はかおりのとこ泊まるって言って来たけん」

「……わかった。部屋は、505号だから」

「わかった、十五分ぐらいで行きます」


 二十五年の時を超えて万感の思いは叶うのだろうか? お互いにきっと傷つく、いや、傷がさらに深くなる。だから逢ってはいけないと、心の中のもう一人の私が忠告する。それに彼女は人妻だ。これはいけないことだ。それはわかっている。けれどもやっとだ。あの薄汚れた宇宙の小部屋から二十五年も待った。私の気持ちは薄れるどころかますます大きくなっていた。律子への心からの思いが本当に今夜達成できるかもしれない。

 私は年甲斐もなくとても興奮していた。それは後から強烈な自己嫌悪の刃となって、きっと自分に返って来ることは予想がついていたが、兎に角、律子に再び逢える、たった二人きりで、この密室で逢えるのだという嬉しさが、何者にも勝っていた。

 落ち着かない十五分が経過する頃、待ち焦がれた部屋のチャイムが鳴った。私は急いでドアを開けると、そこには、なんと、律子と、みどりの二人が立っているではないか! 

 それは、話が違う! またみどりに嵌められた!

「どうしても、みどりが、天宮君とこ行こうって言うんや」 

 とても申し訳なさそうに律子が言った。

「ヒデちゃん、さっきはごめんな」

 みどりは心に溜まっていた物を吐き出したせいか、あのいつもと変わらない調子に戻っていた。少し安心したけれど、律子からの電話に興奮して喜んだ私が甘かった。二十五年前と状況は違えども、やはり、障壁となるものは、そこか! という感じがした。

しかし、あのシチューの夜、初めてみどりが家にやって来たときは、一人だったが、あのような会話の後だけに、さすがに、今夜は一人では来られなかったようだ。しかも、二人ともかなりできあがっているように見える。

私の困惑した心をまるで読まれたかのごとく、みどりが言った。

「わたし、迷惑やったら帰るけん、言うてね」

どこかで聞いたような台詞だ。

「あ、いや、こっちも一人で淋しかったから、来てくれて嬉しいよ」

「ありがとね」

 みどりはとても淋しそうに微笑んだ。目尻の皺が痛々しい。私はまた、中途半端なことを言う。この曖昧さが今まで数々の悲劇をもたらしているのに、どうしようもない。自分のことなのに人は変わらないものだと思った。

 二人は、私の明日の予定や、仕事のことや、まったく以って今はどうでもいいような話をして、気が付くと、みどり一人ベッドで眠っていた。聞けば、夕べもファミレスで夜勤業務のため寝ていないという。彼女はその身の不幸を跳ね返そうと、精一杯頑張っている。みどり一人を大分に残して、大阪に帰った私にその責任の一旦があるような気がしてならなかった。

 あの大分最後の日、空港の出発ロビーで大阪に帰る私にすがり付いてまるで子供のように声を出して泣いていたみどり。そのことを律子に言うと彼女はぼそっと言った。

「女はな、淋しがりやけん、誰かの温もりがなかったら生きられんちゃ。みどりのこと、責めたらいけんよ」

 いつも元気に振舞うみどりが誰よりも淋しがりやであることを私はよく知っていた。ベッドで疲れきって眠るみどりは年老いてとても小さく見えた。私にとっての律子が二十五年の思いを持ち続けている女性であるように、みどりにとっての私はどういう存在だったのだろう? ここへ来たいと言ったみどりの気持ちを考えると涙が出そうになった。

 ベッドで一人鼾をかいて眠るみどりを傍目に見ながら私と律子は小さな声で語り合った。

「天宮君、ほんとにあんた変わらんね、あ、こればっかり言っちょるな。わたしはすっかりおばさんになってがっかりしたじゃろ?」

「いや、りっちゃんこそ、まだまだほんとにきれいだと思う」

 そのとき私はお世辞ではなく、心からそう思っていた。そして律子は、ちらりとみどりの方を見て、さらに声を押し殺して私に言った。

「ね、天宮君。もしかしたら、今日わたしとデートしよっち思いよった?」

 その顔に浮かべた悪戯な微笑みは、二十五年前と何一つ変わらない。私は少しほっとして、まだ、チャンスがないわけではないのだと思った。その私の心を察知したのか、先に釘を打たれてしまった。

「残念やけど、今回は無理っちゃ、また今度な」

「明日、ちょっとでも時間取れないの?」

 それでも私は食い下がる。

「明日、あ、もう今日か。何時の便て言っとった?」

「十六時十五分発」

「やっぱり、無理よ。わたし明日、仕事終わるの四時なんよ。ごめんな」

「うん、仕方ない。またいつかな。りっちゃんに逢えて良かった。俺のこと覚えててくれただけで嬉しかったよ」

 その顔があまりに残念そうに見えたのか、律子はやさしく私の手を握って、こんな話をしてくれた。

「わたしな、中学生の頃に父ちゃんが病気で亡くなったんよ。それで、母ちゃんがわたしを一人で育てよったんやけど、高校になって、ある日、うちに帰りよったら、知らん男の人がうちに来ちょって、母ちゃんとキスしよったんよ。わたしそれ見て、すげーショックでな、後から母ちゃんに思いっきり、そんなん不潔やわ! って言ったことあったんやけど、そんときの母ちゃん、淋しそうな顔して、あんたも大人になったらわかるって言いよったんよ。天宮君、わたし、今は、母ちゃんのその気持ち、痛いほどわかる。母ちゃんにすごく残酷なこと言うてしまったと思うて、今は反省しよる」

 これはまた意味深なことを言う。男と女なんて、そんな簡単に割り切れるものじゃない。それは、私もよくわかっているつもりだったが、しかし、律子らしい話だと思った。

 相変わらずみどりはよく眠っている。私は先ほどからずっと律子のやわらかい手を握ったままだった。二人とももう何も喋らず、大分の不思議な夜は更けて行く。


 ふと目覚めると、もうそこに律子の姿はなかった。あの宇宙のあったモーテルの夜も、気が付くと律子はいなかったが、あの時とは違って、バスルームにもその姿はなく、どうやら今回は私とみどりをここに残したまま、一人で先に出て行ってしまったようだ。

 窓の外は、白み始めていた。もうすぐ新しい一日が始まる。しかし、私の心は重かった。

 ベッドではまだみどりが眠っていた。よく眠るみどりを見ていると、なんとも言えない淋しい思いがする。

 その時、私の携帯にメール着信を知らせるメロディーが流れた。慌てて、手紙のマークをタップすると、「6:10 川田律子携帯」の表示。


「よく眠ってるようだったので、起こさずに先に出ました。今日は朝から仕事なので帰ります。これでもまだ主婦なので。心から天宮君に会えて良かったと思います。結局、天宮君とは何もなかったね。でもわたしは、これで良かったような気がしています。あのホテルの夜も、何もしなかったから、こうしてまた会いたいと思うようになったんじゃないかな。思い出はきれいなほうがいいよ。いつまでも忘れずに待っていられるから。

 夕べ、久しぶりに天宮君の手を握って、わたしドキドキしました。こんなおばさんになったわたしでもまだときめくことがあるんやって思ってすごく嬉しかった。けどたぶん、もう天宮君と会うことはないと思います。仕事と子育て頑張ってね。ありがとう。あなたのことは一生忘れません。みどりには、仕事が早いけん先に帰るって言っておいて下さい。  

ではお元気で。すっかりおばさんになってしまった律子より」


 みごとに振られてしまった。でもなぜかとても清清しい気分だった。まあ仕方がない。無理もないな。彼女は彼女なりに、毎日を忙しく、一生懸命生きているのだから。

 私が知っているのは、二十五年前の律子と夕べの律子でしかない。二人の間にはそれ以外なにもないように見えて、しかし実際には二十五年の時間が横たわっていた。それはお互いの人生の歴史だ。無理もない。そいつは如何ともしがたい事実だから。

 そして、私はもう彼女の中の思い出なのだろう。古いアルバムの中の思い出のひとコマなのだろう……。そう思うと、悲しくて、泣けて来た。

 私は心から彼女を好きだったのに。なぜもっと貪欲に、強引になれなかったのだろう。自分のエゴを通せばよかったのに、昔、彼女に出逢ったとき、あの、回遊水槽のガラス越しの告白の時から、自分の心を偽らずに素直に出すべきだった。

 私の心が弱かったために、今まで多くの人に悲しい思いをさせて来た。自分の決断力のなさが、諸悪の根源のような気がしてならない。

 すべてを受け入れることは善ではない。たとえ、そのときは恨まれようと、嫌われようと、時には拒むことも、人を傷つけることも必要だ。一見やさしさに見えるその言葉は、自分が嫌われたり、恨まれたりしたくないが為の、保身から出た、偽善的な思いやり以外の何ものでもない。それは決してやさしさとは言わない。



             ※                ※    




 曇り空。帰りのバスの車窓から見える別府湾。少しぼやけた大きな銀盤のような海にたくさんの海鳥が群れ飛んでいた。海はずっと変わらずそこにあった。

 結局、私は、いったい何をしたいがために来たんだろう。二十五年前の思いを達成するために、わざわざこんなに遠いところまでやって来たのか? もし、夕べ、みどりがいなかったら、きっと、律子を抱いていただろう。あの宇宙のある部屋で今も漂っている後悔と言う名の亡霊を成仏させるためだけにやって来たような気がして、自分がすごく嫌な人間に思えて来た。

 いや、しかし、本当に律子を抱きたかっただけではないと思う。もし、律子が独身だったなら大阪に連れて行きたかった。その思いは真実だった。だから、律子の言うように、何も無くてよかったのかもしれない。今でも、彼女を連れて帰りたいと言う気持ちに偽りはないのだから。

 そして私は、悲しみを堪えながら、律子への最後のメールを書いた。


「もっと早くに君に逢いたかったよ。君はちっとも変わらない。あの日のあのホテルのままだ。二十五年の時を飛び越えて一瞬で昔に戻ったみたいだ。あの頃の僕は気が付かなかった。今、やっとわかった。誰よりも君を愛していたよ。どうか、お幸せに。たぶんもう逢えないかもしれないけれど、ずっと君のことは忘れません。今でも君が大好きです。心からお礼を言います。ありがとう。からだに気をつけて、お元気で。二十五年掛けてやっとわかったおバカな秀俊より 」


 泣きながら私は返信のボタンを押した。そして私は、二十五年間の思いに終止符を打った。さよなら、律子。またいつの日か。きっと愛は、縁を超えると信じている。                          




                       その部屋には宇宙があった    完

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その部屋には宇宙があった 天野秀作 @amachan1101

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