第5話 その部屋には宇宙があった

 

 あの別府の夜の公認デートから、一年半が過ぎようとしていた。九月下旬。私は遅い夏季休暇を終えて、大阪から大分空港に降り立とうとしていた。本当なら後一日、大阪にいるはずだった。だが予定を一日早く切り上げて大分へ戻った。私が一日早く大分に戻ることは、私ともう一人を除いて、誰も知らない。

 空港の到着ゲートを抜け、一階のロビーに降りると、そこで私を待っていたのは、この事実を知るもう一人。律子だ。

 私は大阪にいる間に、意を決して律子に電話を掛けた。予定よりも一日早く大分に戻るから、逢ってくれないかと。最初は私の申し出に躊躇い、その日は仕事だし、それはできないと律子は言った。だがあの別府の夜以来、呼び起こしたあの恐ろしく強いものは、行き場を失ったまま心の中で彷徨っていた。

 どうしても諦めることのできなかった私は何度も頼み込んだ。その熱意に根負けしたのか、最後は呆れたように「もう、しゃあねえなあ」と彼女を言わしめた。もちろんこのことは絶対に誰にも秘密にしてほしいと言う条件で。当然だ。これが“女を口説く”と言う行為だと当時の私にはわからない。

 電話を切った後、背徳感に襲われた。たぶん律子もそうだったはずだが、それよりも私は律子に、いや、本心は律子のあの均整の取れた体に、良い香りのする黒髪に、そしてあの別府の夜、背中に感じた確かな胸の膨らみに思いを馳せていた。つまりはどうしようもなく欲望の赴くまま。

 

 ロビーで私を待つ律子は、ショートカットのきれいな黒髪に端正な顔立ち、ワインレッドのコンシャスなワンピースに身を包み、165センチのスリムなスタイルと相まってまるでファッション誌から抜け出して来たように見える。一際目を引く存在だった。さすがに水族館の看板コンパニオンだけのことはある。こんなにきれいな女性に迎えに来てもらって私はとても光栄に思えた。多少、目立ちすぎるのが不安材料ではあったのだが。

「おかえり」律子がにっこり微笑む。

「た、ただいま。ごめんな、わざわざ来てくれて、ありがとう」

 少し照れ臭く私は挨拶を交わした。

「ううん、いいんよ。 わたしもね、ほんとはずっと逢いたかったけん。それよりみどり、大丈夫なん?」

 心配そうに律子が尋ねる。

「うん、明日の朝、船でこっちに着くって言ってあるから」

「天宮君、バイクは?」

「さっき、飛行機に乗る前に、大阪南港で関西汽船に預けて来たよ。今夜のフェリーで、明日の朝、別府観光港に着くことになってるから、バイクだけ。だから明日の朝、港まで送ってくれん?」

「うん、いいよ、でも計画的やぁ、天宮君、あんた悪りぃ人やな!」

 そう言った律子の顔は、にやにやしている。律子のはきはきした大分訛りが耳に心地よい。どうやら怒ってはいないようで私は安心した。

「お腹すいたね。ご飯食べに行く?」

 私は律子の顔色を伺いつつ尋ねた。

「いいで、けど、わたしの知ってるとこはダメで。誰が見ちょるかわからんけん。バレたら後で恐いけんな」

「うん、じゃあお弁当でも買って、どこかで食べよう」

「ここも危ないっちゃ。早く車へ」

「リッちゃん、まるで芸能人みたいやな」

「地元やけんな。前に知事選のウグイス嬢とかしとったし。芸能人じゃねえけど、わたしのこと知っちょる人が大勢いるっちゃ。ほら後ろの案内カウンターの人とかも」

「ええっ! そらあかん」

 私は自分の認識の甘さを恥じた。そして二人は、空港の売店で弁当を買って辺りの人目を気にしながら、駐車場に止めてある律子の赤いシビックへと急いだ。


「どこ行く?」

 車に乗るや否や、二人同時に尋ねた。

「天宮君、明日の朝まで、時間あるん?」

「うん、あるよ……」

 車はまだ動かない。小雨が降っていた。瞬き一つせずに目の前のフロントガラスに付く雨粒をじっと見つめる律子。その横顔は何か強い決意を秘めているようだ。

 それから少しの空白の時間が流れ、私は胸にずっとしまい込んでいたものを吐き出すように言った。

「どこでもいいけど、二人きりになれるとこへ行きたい」 

「ホテル!」

 律子は私の方を向き、間髪入れずにぶっきら棒に答えた。冗談とも本気とも付かぬことを、はっきりと言う。彼女の竹を割ったような性格が、きっとそうさせるのだろうが、こうはっきり言われると逆に私のほうが叱られているようで動揺してしまう。私はうろたえてつい口走ってしまった。

「あ、でも……せんよ。それでもいい?」

なんて狡猾なもの言いだろう。しかし彼女はそんな私の狡猾さなどお構いなしにまるで男のようにはっきりと答えた。

「いいで」

“せんよ”は、本当は、私が私自身にこれを公言することによる逃げ道の確保だった。それはみどりやみどりの家族の信頼を裏切らないという私の真摯な思いでは決してない。信頼を裏切ると言うことから生まれる自己嫌悪から逃れたいという、あくまでも自分ことばかりを考えた、ズルイ考えだ。つまりは罪の言い逃れ。

 本当は、律子としたくてたまらなかったのに……だが実際は、私の軟弱かつ卑屈な理性が、本能から湧き上がる欲望に勝てるのか不安だった。おそらく、この時、私は律子のことを本気で愛し始めていたのだろう。

 しかし、この頃の私は人を好きになるということがどう言うことなのかまだよくわかっていなかった。原始的な感情を後付された知恵で理解しようとすること自体が無理だ。もう完全に律子に心囚われている、それこそが恋であると言うことに、私はまだ頭でごちゃごちゃと言い訳を考えていた。



               ※             ※



 国道沿いの古びたモーテル。私たち二人を乗せた車は逃げ込むように入って行った。今ではもうあまり見かけることのない車用の暖簾をくぐる。部屋の前の駐車スペースに車を停めた。コンテナを改造して並べただけのホテルと呼ぶにはあまりに粗末な造りだ。

 そのまま部屋に入ると、すぐにフロントから電話が掛かって来た。休憩か泊まりかを尋ねる電話だった。さっと電話に出たのは、律子の方。本当はこういう場合は男が出て応対するのだろうが、律子は私の逡巡を見逃さなかった。

 いかんせん子供じみた私には不慣れな場所だった。ドアを開け、中に入ったとたんに煙草臭さが鼻を突いた。湿り気を帯びて淀んだ空気。薄暗い照明。よく見ると、その部屋には宇宙があった。壁や天井に、惑星やたくさんの星々が描かれている。どうやら、宇宙を模した部屋のようだ。なんて陳腐なのだろう。お世辞にもいい趣味とは言い難い。昭和の臭いがプンプンする部屋だ。

「泊まります」

 一言、律子が答えて、注意事項を聞き、すぐに電話を切った。

 そしてお互い、どちらから共なく自然に寄り添い、何も言わずに、そのまま強く抱き合ってキスをした。長く長く、永遠のように長く、抱き合ったまま二人は動かない。

 絡み合う舌と舌。彼女の腰に回した私の手は、背中のファスナーを探っていた。ほんの一瞬の喘ぎの後、彼女は私の手を止めて「待って、いけん……」と小さく呟くように言った。その声で現実に引き戻されるまで私は甘美な夢に酔いしれていた。今だけは、ずっとこのままでいたかった。

「シャワー浴びて来るけん待って」

 私は喉がとても渇いていたので、お茶でも何でもいいから、何か飲み物が欲しかった。

「暑いな」私は独り言のように呟いた。

「あ、エアコン入れてないけんや」

 そう言って律子がすぐにエアコンのスイッチを入れる。良く見ると二人とも、額に汗が浮かんでいる。外は雨。もうすぐ十月だと言うのに、とても蒸し暑い夜だった。なるほど、律子がシャワーを、と言うわけだ。若い私にはまだまだデリカシーが足りない。女性に対する配慮に欠ける。だが湧き上がる情欲の前では、そんな余裕などあるはずもない。意識は、律子のあの白くやわらかな肌への渇望に飲み込まれてしまいそうだった。律子の甘い髪の匂いや胸元から湧き立つ汗の匂いすら、私の体の奥底よりほとばしる欲望の炎に油を注ぐ。

 エアコンが効いて、少し涼しくなると、気持ちが落ち着いて来たのか先ほどのあの激しい抱擁が恥ずかしくなった。律子も少し照れくさそうに顔を赤らめている。

 そのとき、私は二十四才、律子は私よりも一つ年上の二十五才、二人ともまだまだ若くてとても純粋だったのだ。本能に任せて体を合わせることはできても、精神までお互い寄りそうまでにはまだ至らない。でもそれでいい。

 律子が浴室に消えた後、私はあまりに喉が渇いていたので備え付けの冷蔵庫を開けた。そこにはビールとポカリスエットしか入っていなかった。ビールという雰囲気ではなかったのでポカリを飲もうと思ったが、生憎、ポカリは一本しか入っておらず、浴室から出てくる律子を待たなければならなかった。

 私は一人でベッドに腰掛け、天井や壁の陳腐な星々の絵をまんじりともせずに見上げていた。そこにはべったりと塗り込められた青をバックに木星、土星などの太陽系の惑星が順番もへったくれもなく無秩序に並んでいた。なんて下手糞な絵だろう。子供向けの図鑑の挿絵の方がまだましだ。その星々に何の意味があるのか。私の耳には律子の白い肌に降り注ぐお湯の音だけが聞こえていた。喉が渇く。

 ようやくバスルームのドアが開き、白いバスローブを纏った律子が私の前に現れた。

「覗いてたんじゃねえ?」

 にやにやしながら聞く律子。

「ないない!」

しかし、私は覗いてこそいなかったけれど、壁の陳腐な惑星の向こうにお湯が律子の真っ白い肌を流れ落ちる様をずっと想像していた。それを律子に見透かされたようで私は思わず語気を強めてしまった。

「冗談っちゃ。そげな真剣な顔せんでもよかよ。けどいっしょに入っても良かったのに」

 律子には冗談を言う余裕があるようだ。いや、あながち冗談ではなかったのかも。しかしその律子のやさしい言葉が、いきり立つ私の気持ちを少し落ち着かせたようだ。

「冷蔵庫見たらこれ一本しかなかった」

 そう言って私はポカリスエットの青いスチール缶を髪を揉み律子に見せた。

「飲む?」と聞くと、彼女が「うん」と答えたので、本当は喉が渇いて死にそうだったけれど彼女にその缶を渡した。

「いいの?」と彼女が聞いた。

 私は目いっぱい痩せ我慢して「いいよ」と答えた。

 そしておいしそうに、ゴクゴクとポカリを飲む律子を見ていたらすごく欲しそうに見えたのだろう。律子は微笑みながら私の方を見て「あげるけん、ちょっと待ってな」と言って、ポカリを口に含むと、すばやく私を抱き寄せてその唇を私の唇に重ねた。

 とてもやわらかい律子の唇の間から、グレープフルーツの香りのする、甘く冷たい液体が、すーっと私の口の中に流れ込み、渇いた喉を潤した。私はこの時のポカリの味を一生忘れることはないだろう。

 今度は、私が彼女の手から、缶を受け取って口いっぱいに含み、そして、律子の口を私の口で塞ぎ、ゆっくりと舌でその液体を彼女の口の中に送り込んだ。彼女の喉がゴクリと音を立てた。そのまま律子の舌と私の舌が静かに絡み合う。二人とも目を閉じたままで。

 頭の中は真っ白だった。二人はそのままベッドに倒れ込んで、激しく抱きしめ合い、強く頬ずりをして、何度もキスをした。

「電気消してくれん?」

 律子が小さな声で言った。私は、はっと我に返ってすぐに照明を薄暗くすると、天井の星を模したイルミネーションが輝き出した。彼女はベッドの上でからだを起こし、反対側を向いてバスローブを静かに脱ぎ捨てた。薄暗い灯りの中で、ショッキングなまでに、白く美しい律子の背中が私の目を奪う。

 ああ、なんてきれいなんだろう。こんなに美しい背中を見たことがない。まるで天使のようだった。それに比べて私はなんて薄汚いことだろう。その背中は、あまりの清純さゆえ、先ほどまでの興奮は急速にどこかへ行ってしまって、代わりに強烈な自己嫌悪が私を襲った。この美しいものを汚してはいけない。そんな気がした。

 律子は、そのままシーツに潜り込んで私の方を見ていた。まるで早くおいでよと言うような目で。 私もいっしょにシーツに入ったが、先ほどの勢いはもうなかった。爆発しそうなぐらい、私の欲望は膨れ上がっていたのだけれど、どうしても素直にその欲求に従えずにいた。

 私はもう一度、律子を強く抱きしめ、そして、彼女のみごとな胸に顔を埋めてみた。なんて柔らかな胸なんだろう。なんてやさしい胸なんだろう。私は気が狂いそうになっていた。いったいどうすればいいのだろう。しかしこれは私なんかが壊してはいけない。さらにその思いが募る。

 長い間、私は律子の胸に顔を埋めて、打ち震えていた。ずっと大昔から、ここでこうすることが決まっていたような気がした。ああ、でもこれ以上はもう進めない。

 すると律子はやさしく私の頭を撫でて信じられない一言を言った。

「天宮君、無理せんでええよ。みどりのこと、気になっちょるんやろ?」

 違う! 違うんだ、私は何もできない、こんなに近くにあるのに、こんなに求めて止まなかったものなのに、けれど、できない。私はとても汚い人間なんだよ。

 でも、私の口から出た言葉は、違った。


「うん、ごめんな、せんって言ったから。約束したから……」

「ええよ、気にせんで」 


 そして、再びやさしい抱擁の後、少しの間が開いて律子が意を決したようにこう言った。

「…………でも、もし、私がしてって言ったら?」

「ごめん、やっぱり、約束やから」

 私は 鳩尾の辺りにきりきりと痛みを感じていた。

「りっちゃんは、こんな俺を、どう思う?」

 彼女の目を見ずに私は尋ねた。

「男らしいと思います」

 毅然とした声で、彼女が言った。

違う、違うんだ。私は本当に卑屈で最低な男だ。闇が私の心を未だ支配したまま、二人の時間だけがどんどん過ぎ行く。


 

             ※                ※



 どうやら眠っていたらしい。天井に粗末な星がまたたいていた。気が付くと、隣にいたはずの律子はいなかった。浴室の方からシャワーの音が聞こえる。しばらくして、浴室のドアが開いて全裸の律子が部屋に入って来た。薄暗い中に、みごとに均整のとれた美しい律子のからだがぼんやりと見える。

 私は寝たふりをしていた。全裸のままシーツにもぐり込んで、私の右腕にすがるように抱きつく律子。そして、私の右肩にそっと口づけして、小さな声で「今だけは、このままでいさせてな」と囁いた。

 私が目を覚ましていることは、律子にはきっとわかっていたのだと思う。私の右肘が、律子の豊満な胸の隙間に密着している。私の全神経は右腕に集中して、そのやわらかで温かい膨らみや、やさしい乳首を確実に捉えている。洗いたての髪や、石鹸の甘い匂いがさらに私をいざなう。興奮は頂点に達していた。もうこれ以上は、耐えられない、すぐにでも荒々しく彼女を抱きたかった。

 しかし、私の右肩に何か温かいものを感じる。律子は静かに泣いていた。右肩を濡らすのは、彼女の熱い涙だった。律子は本当に私のことを好きだった。それなのに私は……

 急速に私の興奮が収まるのがわかった。そして私はやさしく彼女の頭を左手で撫でながらやっと言うことができた。

「ごめんな」

「ええんよ、気にせんでな。わたしこそごめん。ありがとね」

 そのまま私と彼女は何もせずに抱き合ったまま早い朝を迎えた。天井の星灯りはもう見えない。今もあの部屋の宇宙の中で私の心は彷徨ったままだ。おそらく、死ぬまで。

 あれからどんどん時だけが経つけれど、思い出の中の律子は色褪せるどころか、その面影をますます明瞭な姿に変えて行く。今ならわかる、私は彼女を本当に愛していたのだと。けれどもあの頃の若い私にはそれが狂おしいほどの愛だとはまだ気付かなかった。

 たとえ何年経とうがもう一度、律子に逢いたい。今は心からそう思う。もしも、輪廻というものがあるとすれば、きっと私の運命の人は律子なのではないのだろうか。今回は、二人のラインが一瞬だけ交差するだけなのかも知れないが、この後、生まれ変わるとすれば、ちゃんと二人のラインが一つに重なるようになるまで、律子とは何度でも巡り合うような気がする。

 その翌年、私の母が病で倒れて入院を余儀なくされた。たった一人の身内である私は、不本意ながら水族館を辞めて大阪に戻ることになった。

 律子は、周りの勧めで見合いをし、それなりの相手と結婚して、幸せな家庭を築くことになる。そして、なんと皮肉なことか、婚約していたみどりとは一年の遠距離恋愛の果てに、どうやら大分に新しい男を見つけたらしく、私はあっさりと振られてしまった。

 もし、母が病に倒れていなければ、私は大分でみどりと結婚していたのだろう。その時は、律子との関係はいったいどんなふうになっていたのだろう。もしかしたら、もっと悲しい結果が待っていたかもしれない。もしかしたら、みどりではなく、律子と結ばれていたのかもしれない。今となっては想像の世界でしかないことだ。


 あれから何度も季節はめぐり、あっという間に二十五年の歳月が流れた。

最近になって、私はよく律子の夢を見る。夢の中では、私も律子変わらずあの時のままだ。若々しい。あの部屋の宇宙はまだあるのだろうか? 今となってはあの粗末な天井の星々の灯りさえとても懐かしく思い出される。

 現実ではもう二度と逢うことはないと思っていた。やさしく切ない思い出をずっと抱いたまま、私も律子も、静かに年を重ねて行く。それも悪くはない。そういうことの積み重ねが、きっと人生と言うものなんだろう。そんな風に思えるようになって来た。

 緑色の葉っぱが、秋になれば、色付き、そして静かに散って行くように、燃える様な律子への思いも、やがて、いい色に落ち着いて、そして静かに消え行くのだろう。それが自然というものだ。

 でも神様は素晴らしいプレゼントを用意してくれていた。それは……


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