第4話 帰らんといけん

 

 大分空港の送迎ロビーには、私と律子の二人だけが残されていた。

 その日、みどりとその友達三人が、有休を利用して、グァムへ旅行に行く予定で、私はみどりを見送るために、空港まで来ていた。そして、律子も友人たちを見送るために、空港に来ていた。みんな友達同士なのだから当たり前だ。ここに二人きりでいることは決して偶然ではない。

 私は、律子がここへ来ることは知らなかった。しかし律子は、私がここへ必ず来て、みどりを見送った後は、一人になること知っていた。

 私たちのようなサービス業は世間の休みの日こそ稼ぎ時だ。従って従事している者の休日は皆、持ち場が重ならないように交代で平日に休むことになっていた。今日は、律子は出勤日だったはずだ。しかしわざわざ彼女は有給を取って友人たちを見送りに来たのだった。

 彼女が仕事を休んでまで友人たちを見送りに、こんな遠い空港までやって来たことの意図は? 女性心理に関して、あまりに稚拙だった私にそんなに深い意味などわかろうはずもなかった。 

 みどりたちを乗せたジャンボジェットが青い空高く消えて行った。それを送迎ロビーで並んで見送る私と律子。不意に律子が私の方を向く。

「これからどうするの?」

 躊躇いがちに目を伏せながら私に語りかけた。

「え? 帰るで。なんで?」

 そっけなく言う私。

「ふーん、そうなん」

 ちょっと怒ったように言う律子。

 

 そして、二人は、何事もなかったように別々に帰って行った。どうしてこの時、私はこんなにも鈍感だったのだろう。彼女がどれほどの決意を持ってこの場に居たのか、彼女がどれほどの勇気をふりしぼって私を誘ったのか。しかもわざわざ取り辛い休みまで取って。それをなぜわかってあげることができなかったのだろう。今は本当に済まない思いで一杯になる。


 それから半年ほどたって、私は再び律子と二人きりになる機会があった。なんとその機会を作ってくれたのは、誰でもないみどりだった。

 その当時、私は念願だった自動二輪大型の試験にようやく合格し、貯めていたお金で、ヤマハの750CCのバイクを購入して、休みの日には毎週のようにみどりを後ろに乗せてあちこち出かけていた。

 別府というロケーションは、バイク乗りに取っても、最高の場所だった。すぐ目の前にやまなみハイウェイの入り口があり、少し足を伸ばせば、九重や阿蘇へも容易に行くことができた。

 そのみどりが、私に律子を一度、バイクの後ろに乗せてやってほしいと言って来た。

 その理由を聞くと、律子が昔、高校生の頃に付き合っていた男性もバイク乗りで、気の毒なことに、その彼はバイクの事故で亡くなってしまったらしい。その彼が私ととてもよく似ているのだそうだ。昔付き合っていた律子の彼が亡くなったと言う話は、以前先輩か誰かから小耳に挟んだことはあった。けれども、その彼が、私に似ていると聞いたのは初耳だった。それを聞いて、彼女の私に対する態度に納得がいった。彼女は、私と、決して忘れることのできない思い出を重ねていたのだろう。

 私はすべてを悟って、みどりの頼みを受け入れることにした。この時点で浮ついた気持ちが私の中になかったとは言い切れない。けれど、なぜか、彼女に触れてはいけないような気がしていた。

 数日後、みどりとの約束通り、仕事が終わって律子と少しの間だけ二人きりになることが許された。夕暮れの別府の街を抜け、私と律子を乗せたバイクは、別府の奥座敷と呼ばれる湯布院へと向かっていた。

 季節は五月。新緑の香りをいっぱいに嗅いで、私たちはバイクと一体になる。律子は、何の躊躇もなく私の腰に手を回し、その豊かな胸を私の背中にぎゅっと押し付ける。私は背中に確かな膨らみを感じていた。しかしそれが正しいタンデムライディングのスタイルだ。

 単純にすごいと思った。普通の人は、バイクの後ろに乗ると、恐がってしがみ付くか、コーナーリングの傾斜に逆らおうとするのだが、律子は違った。まるで後ろに誰も乗っていないようだ。うまい。バイクに余程乗り慣れていなければこうは行かない。きっとその彼のことが本当に好きだったのだと走りながら思った。私は亡くなった彼氏ではないのだけれど、彼女は今、過去の思い出の中を旅しているに違いなかった。

 私たちは一時間ほど走って、とある喫茶店で休憩することにした。もうすっかり日が暮れて、あたりは真っ暗だった。

「もうこのまま、帰らないでおこうか?」 

「バカ!」

 私の冗談とも本気ともつかぬ軽口に、律子が顔を赤らめながら答える。いい雰囲気だった。私は本当にこの人を好きなのかもしれない。その時漠然とそんな予感がした。

「寒いね」

 五月の別府の夜は思ったよりも冷え込む。私はジャケットを一枚彼女に掛けてあげた。

「ありがとう、ねえ、天宮君。天宮君は、みどりのこと、ほんとに好きなん?」

「え?」

 いきなり核心に触れる質問だった。

「え? 好きやけど……」

 私は搾り出すように、こう言うしかなかった。

「そう。ならいいんよ……」

「そ、そういえば、いつかの空港の時以来やね。二人になるのって」

 私が話題を変えようとそう言うと、律子はすかさず言い返した。

「ああ、あの時ね、わたし、ほんとはね、待っちょったんよ。天宮君が来るの」

「え? 待ってた?」

「うん。なんであの後、誘ってくれんかったん? わたしすごく淋しかったんよ。前の約束覚えとらんの? デートしよっち。私、準備万端で行ったのに!」

「ええ? そうなの? ごめん! ほんとごめん!」

「ううん、気にせんで」

 律子は淋しそうに微笑んで言った。

「けど、良かった。デートせんで」

「どうして?」

「だって天宮君、みどりのことほんとに好きみたいやし。わたし、裏切らんで済んで良かったって思うちょるんよ」

 その言葉は、静かだった私の心に波紋を投げ掛け、海の底深くに眠っていた恐ろしく強い何かを呼び覚ました。そいつはあっという間に私を支配した。

「行こう!」

「え? もう帰るん?」

「いや。乗って」

 律子が後ろに乗るなり私は勢いよくバイクを走らせた。

「ねえ! どこ行きよるん?」

 律子が風切音に負けないぐらい大声で聞いたが、私はそれには答えず、左手で彼女の膝を軽く叩いた。

「ねえ、ダメで、もう遅くなるけん、そろそろ戻ろうえ」

 すぐ目の前に一軒のモーテルのネオンが見えた。私は躊躇わずそのゲートをくぐった。

「いけん、いけんちゃ。ほんとにダメで。帰らんといけん!」

 後ろのシートで律子の本当が私の背中を叩く。振り向くと、律子は泣いていた。私はもう何も言えず、今来た道を無言で引き返すほかはなかった。

 五月半ば。まだ少し肌寒い別府の夜だった。あたりには硫黄の匂いが仄かに漂っていた。 



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