第3話 厚さ3.8センチのデート

 みどりと勢いで結婚を前提にお付き合いをするようになったけれど、本当は、ここへ来た時から、気になる女性が一人いた。

 その人は、お客様の案内やガイドを主にしていた。この頃の呼び名でコンパニオン。今は少し違った負のイメージがあるためにレセプタントと言うらしい。気取っている。だがここではコンパニオン。やはりこの呼び方が一番しっくりくる。コンパニオンはこの水族館の華だ。女子社員は皆憧れていたし、男子社員は皆一様に鼻の下を伸ばしていた。

 彼女は長身で均整のとれたスタイル。小顔にショートカットの良く似合う美人だ。つまりは容姿端麗。私より一つ年上で、名前を川田律子といい、性格も姉御肌でまわりのみんなから信頼され、上司からも一目置かれた存在だった。あの夜、うちにシチューを作りに来てくれた四人の女性メンバーの一人で、みどりの一つ上の先輩だった。そう言えば、昼休みに休憩室で、シチューを作ってあげるよと言ったのは、誰でもない律子だったことを思い出した。

 こちらに来てひと月が過ぎ、ようやく宿直室住まいにも慣れて、無我夢中だった生活にも少しだけゆとりが生まれた。大阪から身一つでこちらにやって来た私は、所持品らしいものはほとんど持っていなかった。唯一の持ち物と言えば、乗って来た250CCのオートバイぐらいな物だった。あの頃の私は、バイクと魚でできていた、と言っても過言ではないだろう。

 五月、とても良く晴れた日の昼休み、じっとしていても汗ばむぐらいの陽気だ。普段ならば昼の休憩時間は、自分の机で昼食を摂ったり、本を読んだりと、館内で過ごすことが多かったのだが、その日は、暖かい春の陽光に呼び寄せられるように数人の社員たちが、薄暗く湿った館内から、屋外、建屋のすぐ裏側の別府湾に面した海岸縁へと休憩の場を移していた。護岸に寝そべって昼寝する者もいれば、短い時間でも、護岸から釣り糸を垂らして好きな釣りに興じる者もいた。結構型の良いカサゴやアイナメが釣れる。

 社員専用駐車場も裏口の海岸縁の護岸に沿ってあり、いつもずらっと社員の車が並んで停められていた。従業員の半数近くが車通勤だった。都会では考えられないが、ここにはそうせざるを得ない理由があった。

 観光地と言うこともあって日中こそバスの本数も多かったが、別府と大分を結ぶ国道10号線のちょうど真ん中辺りに位置していて、バスのない早朝や、夜間はまるで陸の孤島となる。早出や遅番で営業時間外に通勤する人に取っては自家用車が欠かせない。

 海沿いの駐車場には、たっぷりと塩分を含んだ海からの風が容赦なく吹き付ける。そしてそれはどんな高級車であろうと、あっという間に錆びさせてしまう。綺麗な状態を維持しようと思ったら、小まめな洗車とワックス掛けは必須だった。海辺の車の宿命だろう。

 その時私は、社員専用駐車場の片隅で、バイクのメンテナンスをしていた。せっかくの自慢のバイクが錆びだらけになるのは堪らない。


 「あの、すみません」

 不意に女性の声が背後から聞こえた。

 私は振り返ってその声がした方を見た。まだ入社してひと月、一緒に作業をする裏方の人なら兎も角、表にたくさんいる女子社員の顔と名前まではまだ把握していなかった。しかし彼女はそのスタイルの良さで一際目立った存在だったので、名前までは覚えていなかったが、その顔は良く知っていた。美人は得だ。

「あの、これ、開けてもらえませんか?」

そう言って彼女は液体ワックスのボトルを私に手渡そうとしていた。

「忙しいときにごめんなさい。ワックスが固まってしまって……」

「いや、いいよ。貸して」

 私はそう言ってそのボトルキャップを握り、ぎゅっと力を入れた。するとあっけなくキャップは回った。あまりにあっけなかったものだから、横にしていたボトルの口から液体ワックスがドボッと勢い良く飛び出して、私のズボンと長靴に大量に掛かってしまった。メンテナンス用のウエスですぐに拭き取ると、彼女は驚いて大きな声を出した。

「あっ! ご、ごめんなさい!」

「あ、いや、いいよ。作業着だし。平気平気、気にしないで」

「でも、シミになるけん」

「いや、ホントに大丈夫だから」

「やさしいんですね」

 そう言うと、彼女は、気まずそうに私の手からワックスのボトルとキャップを受け取り、自分の車のところまで何度も頭を下げながら戻って行った。真っ赤なシビック。彼女にとても良く似合っていた。そしてその向こうに黄色いダイハツシャレードとすぐ傍に一人の女性がいて、こちらの様子をずっと窺っていた。その時、それがみどりであると知る由もなかった。



             ※             ※   

    

 

 ある日、私は、大きな回遊水槽に潜って、週に一度の内部清掃作業をしていた。前述したように、この水槽は、造られてから結構長い年月が経っている。人工的に作られた潮流は長年に渡ってその機能の有効性を証明するがごとく、バックヤードに備えられた巨大な濾過槽と相まって、自然の海と同じように完全な生物的な浄化サイクルが出来上がっている。そのおかげで水質には何の問題もない。 けれども、客に見せると言う点に於いては少々見てくれがよろしくない。水槽の奥に設置された模造の岩礁や、青く塗られた壁面、もちろん窓ガラスにも緑色のコケが付着していた。それらを週に一度潜って一つずつ手で磨くのだ。

 片手にスポンジ、もう一方の手には落とした汚れを吸引するバキュームホース。磨いては吸い、磨いては吸いの繰り返し。背後で一メートルを越えるブリやシマアジなどの巨大回遊魚の群れが、私のことなどどこ吹く風と、悠々と通り過ぎる。広い華やかな水槽の中での随分と地道な作業だった。

 水槽のヌシのような巨大クエは、「ん? ここは俺様の縄張りやぞ! 若造のくせにお前なんやねん!」と威圧的に私を睨む。私は心の中で「悪いな、クエ君、ちょっとそこ掃除させてくれるかなあ」と呟く。水槽のヌシはまだ何か言いたげに渋々お気に入りの場を移動。そして私はヌシが不在の排水溝付近に溜まったゴミを取り除いていたその時だった。

 ピンポンパンポーン、館内アナウンスを知らせるチャイムが鳴った。

「館内のお客様にご案内申し上げます。間もなく、○時×△分より、一階、大回遊水槽に於きまして、マリンガールによる魚の餌付けショーが始まります。どうぞ一階回遊水槽にお集まり下さいませ」

 水中でもちゃんと音は聞こえる。不思議なものだ。人間の耳は良く出来ている。私のいるちょうど裏側で餌付けショーをやるようだ。そう言えば、今朝、みどりは出掛けに、○時頃からショーをやるとかやらないとか言っていた。ということは今、この水槽の裏側にみどりがいるのか。

 季節は春。水温はまだ冷たい。ウェットスーツを着ていても長時間居るには辛いというのに、彼女は露出度の高い水着一枚で潜っているのか。

 しかし私は、その冷たい水に耐える水着姿の彼女よりも、もう日課のようになった朝の交わりを思い出していた。その女がこの水槽に居る。こんな大きな水族館の魚たちが舞い踊るこの水槽にその女が居る。彼女と私は、濃厚なスープのような海水で繋がっている。そう思うととても猥雑な気分になった。私はウェットスーツの締め付けを感じていた。

 その時、ふと窓の外の通路を見た。回遊水槽は大きい。餌付けショーを見ようとやって来た客たちは、ショーが水槽のどこでやっているのかわからない。その客たちを誘導するために、ショーの前後、数名のコンパニオンたちが水槽の周囲に立つ。私のいる水槽からは薄暗い照明のせいで良く見えなかったが、そのコンパニオンが客を連れて水槽に近づいて来てはっきりとわかった。案内係は川田律子だった。

 小さな子供たちが、ウェットスーツに身を固めた私を見て、嬉しそうに手を振っている。 その横に、律子が子供たちに寄り添いながら、私の方を指さしている。たぶん、今、私のやっている作業を、子供たちに説明しているのだろう。

 私は得意気に、自分の水中マスクを指差して注目させ、次にマスクの中を海水で満たす。裸眼にひんやりとした海水の冷たさを感じる。そして、ゆっくりと鼻から息を吐いて、吐息がマスク内の海水を徐々に押し出して行く様を見せた。マスククリアー。潜水技術の基本中の基本だ。だが水の中なのに水が排除されていく様子にきっと不思議な手品でもしたように見えたのだろう。子供たちも、律子も手を叩いて喜んだ。水族館でこんな光景はあまりお目にかかれない。子供たちは、珍しい光景が見られて満足気だ。喜んでいただけたなら幸い。

 お客たちを案内した後、再び律子が一人で私の前に戻って来た。私は彼女に気付かず、巨大クエと話をしていた。

 水槽の主は私に言った。

「おお、なんや、もう掃除、終わったんか? そっち戻ってもええんか?」

 まるで私が巨大クエと睨めっこをしているように見えたのか、ふと外を見ると律子が口を開けて笑っていた。しまった。見られていたのか! 

 私が硝子越しににっこり微笑むと、律子もにっこり微笑みながら私に何かを伝えようとしている。厚さ3.8センチもあるアクリル硝子のあちらとこちら。もちろん言葉は聞こえない。私は、硝子越しに指で、? マークを書いた。すると、律子は自分で自分の唇を指差した。ゆっくりと何か喋ろうとしていようだ。もちろん読唇術の技能など私にはない。何だろうと思って、律子の口元に目を凝らした。可愛いピンクの唇はゆっくり動く。

 「……ス……キ……ス……キ……スキ、スキ、好き、好き」

 彼女は私を指差しながら何度も口を動かした。え? それって? こんなところで、告白? まさか! 信じられない。水中で固まった私に彼女は少し恥ずかしそうに微笑む。

 我に返った私は、慌てて咥えていたレギュレターのマウスピースを外して彼女を指差しながらゆっくり大きく口を動かす。

「オ、レ、モ」

そして私は、指で硝子にゆっくりと「デ、ー、ト、し、て」と書いた。すかさず、彼女もうんうんと頷きながら、ゆっくり大きく「O、K」と書いた。

 こうして厚さ3.8センチの硝子越しの告白タイムは終わった。その時、嬉しさいっぱいの私の後ろを泳ぐ魚たちのスピードが突然速くなった。裏側でみどりの餌付けショーが始まったのだ。

 私は持ち場に戻って行く律子の後姿を呆然と眺めていた。


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