第2話 迷惑なら帰るけど……

 生まれて初めての一人暮らし。しかし独りの平穏な生活も長くは続かなかった。と言っても、女性を連れ込んだとか、そう言ったいかがわしい意味ではない。結果的にはそうかもしれないが……

 引っ越した日の夜、職場の人たちがやって来て引越しお祝いパーティーをやってくれたが、その日以来、ちょくちょく数人の仲の良い女子たちがアルコール片手に遊びに来るようになった。何かしら料理を作ってくれたり、飲んで盛り上がったりして、ちょっとしたパーティー状態だ。それはまるであの賑やかな女子部屋がそのままうちにやって来たようだった。

 彼女たちからすれば、そこは格好の溜まり場的な部屋であったわけで、その証拠に私がいない時でも、数人の女子が、ポストの裏に隠してある鍵でドアを開けて勝手に上がってお菓子を食べながらテレビを見ていることもしばしばあった。

 「あ、おかえり、ごめん勝手に上らせてもらっちょるよー」と言う女子に対して、私がその気になれば何とかなってしまう状況であったにも関わらず、その当時の私は、まったくそんな気にはならず、都会育ちで世間知らずの坊やVS肉食系九州女子では勝負には成り得なかった。彼女たちからすれば「この子は大丈夫」だろう。

 けれども、独り家に帰った時に、部屋を明るく温めていてくれる人がいるということは嬉しいことだ。しかもそれが双方共に好意的な異性であれば尚更だ。だがまだ本当の淋しさを知らない私にはその有り難味すらわかっていなかった。

 女子が単独で来ない。いつも数名で来たということが、大きな意味を持つということを私は、まったく気付かなかった。その女性たちの暗黙の不文律は、その中の一人の女性によって破られるその日まで。

 その日、昼休みに、いつもの休憩室で、寝転がってテレビを見ていたとき、バラエティ番組でグルメ特集みたいなことをやっていた。テーマはおいしいビーフシチューの簡単レシピ。

 それを見て私は「ああ、おいしそうなシチュー。食べたいなあ」と言うと、その場に居た仲良しの先輩女子さんたちがすかさず「よし、じゃあ今夜はシチューを作りに行ってあげるよ」と、話はすぐに決まる。この時点で、部屋に若い女性が来ることよりも、シチューが食べられることを嬉しく思う私は、なんとお子様だったのだろう。

 その夜、約束通り、四人の若い女子たちが大きなスーパーの袋に材料とお酒を買い込んでやって来た。そして今夜のこのイベントをどこからか聞きつけて、先輩の独身男子社員Tさんもいっしょにやって来た。耳聡い。

 女子たちは、「何であんたが来るの?」とあからさまに顔に出しているところがすごい。そのT先輩は、私と違ってシチュー以外にもきっと別に目的がありそうだ! やっぱりそんなギラギラしたオーラがいっぱい出ているので、それで彼女が出来ない。自業自得。

 まあそれは置いておくとして、私は、子供の頃から、料理は自分でもよく作ったし、学生時代は居酒屋でアルバイトをしていたこともあって、本当はシチューなら、かなりうまく作る自信があった。しかし、朝早くから夜遅くまでフルタイムで働いた後に、ちまちま自分の食べる分だけを作るなんてとてもできない。ましてやシチューなど一人暮らしで作ることなどはない。それで大体の一人暮らしの男性がそうであるように、部屋に女子たちが来ない日は、外食したり、お弁当を買ったりして済ますことが多かった。だから、こうやって世話を焼きに来てくれることがすごく有り難かった。でも、それ以上でもそれ以下でもなく、ましてやその中の一人とそんなことになるなんて、夢にも思っていなかった。

 食べて飲んで楽しい時はあっという間に過ぎ、明日も朝から仕事なので日付が変わるころ、じゃあまた明日ね、ご馳走様と、みんなが帰った。その後、私はシャワーを浴びて浴室から出た時だった。 ピンポーン、とチャイム。

「はい。どなた?」

「ごめん、わたし。森です」

 インターホンから聞こえたのは、さっき帰った四人の中の一人で一番甲高い森みどりの声だった。 私は彼女が、何か忘れ物でもしたのかと慌ててドアを開ける。

「お話しがあるの」と、みどり嬢はたった一人で再び部屋に上がる。ここまで来ても鈍感な私は何も気付かない。なんと不甲斐ないことか。

「あのね、なんであたしがここに戻ったか……わかる?」

「え?? 」

「え? わからんの? なんでわからんの? あんた、なんでそんな鈍感なん?」

「…………」

「もう」呆!

「あたしな、あんたのこと、好きなんや」

(え? 何だって? ちょっと待ってくれ!)

 突然のみどりの告白に私の頭は真っ白になった。

「あたしな、ほかの子たちに、あんたの彼女になるって、最初に宣言したんや。だから今夜は、ここに泊めてな」

ええ? ええ? 何、それ! 最初に言った者勝ち? しかし、なんて強引な。九州の女の子ってみんなこんな火のような性格なのか? これって逆夜這い? 唖然とした私にみどりはさらに迫る。

「天宮君、あたし、迷惑かな? 迷惑なら帰るけど」

「い、いや、迷惑だなんて……でも、うちの人、心配してない?」

「大丈夫よ。うちにも今夜は天宮君とこ泊まるけん、心配せんでなって言って来たから!」 

 ええ? 家にもすでに公認にしてるのか? もう完全に彼女のペースに引きずり込まれている。絶体絶命状態。こんなことで良いのか? 今までの過去からは想像もできない展開に心臓が口から飛び出しそうな勢いでドキドキしていた。

「あんた風呂に入っちょったん? 良か匂いがしよるね。私もシャワー貸してな?」

 そう言うと、さっさとバスルームに消えて行くみどりを唖然と見送る。

  

 こんな真夜中に女性を自分の部屋に入れると言うことの意味。こんな真夜中に女性が一人暮らしの男の部屋に靴を脱いで上がると言うこと意味。まったくもって理解していなかった。ここで女性が靴を脱ぐと言うのは下着を脱ぐのと同じぐらい大きな意味合いを持つ――は、後二十年ぐらいしてやっとわかった大人の事情。幼い子には難しすぎる。

「ドライヤー借りるで」

そう言うなり洗面所からブーンと髪を乾かす音。さすがに、いくら鈍感な私でもこれはそういうことか、と、にわかに合点がいった。ドラマとか映画とか本とか。フィクションの世界では知っていた。だが直面したのはもちろん人生初だった。

 暫くして、バスタオル一枚で体を隠したみどりが部屋に入って来た。

「あ、あの」

「どげんしたと?」

「ごめん、あの、初めてなんだ」

 私は正直に言うと、みどりはただでさえ大きな瞳をさらに大きく見開いて心底驚いた顔になった。

「え? そうなの? ウソ!」

「いや、マジで……」

「天宮君、大阪の大学出ちょるし、もっと……」

「それは誤解だ。大学生でもいろいろ。俺は理系で男ばかりの研究室に毎日篭りっきりだったから、ほとんど出会いとかなかった」

「そげなことってあるんや!」

「大学生ってみんな遊び人だと?」

「うん。大阪やし。都会やし」

「違うよ。そんなわけない」

 どうもこの片田舎の娘たちは、どこから吹き込まれたのか、都会の学生に酷いイメージを持っているようだ。最も今ではそこまで酷なことはないだろうが。

「ごめん。でも大丈夫やけん。心配せんでいいよ」

 みどりはそう言うと電気を消してバスタオルを外した。月が出ているのだろう。窓を背にして立つ彼女のくびれた輪郭が青白く浮かんでいた。私の中にそれまで感じたことのなかった激しい衝動が沸き起こる。二十二才男子。いたって健全。

 まるで襲い掛かるように強く抱しめて押し倒した。彼女の口から声が洩れる。

「待って、いけん」

 そう言うとバッグから何かを取り出した。用意周到。

「ごめん、俺」

「ええんよ。私が付けちゃるけん。横になって」

 みどりの言うままに私は彼女に身を任した。すると彼女は私の大切なところにやさしくキスをした。

「緊張してる? 落ち着いて。焦らんでいいけん。ゆっくりでいいけん」

「どうしてそんなことしてくれるの?」

「え? どうしてって、天宮君のこと愛しちょるけんよ」

 嬉しそうにそう言うと、みどりは私の上にゆっくり跨って、そして私たちは結ばれた。私は身も心も彼女にやさしく包まれて、そしてそこには彼女の温かい愛が溢れていた。私はでき得る限りの愛おしさを込めて彼女を抱いた。彼女の声が段々と大きくなる。

「我慢、せんでいいよ」

 彼女がそう言うや否や私は果てた。その瞬間に彼女は自分の口を両手で押さえた。

「どうしたの?」

 私は驚いて彼女の方を見る。

「もう、声が……出る」

 少し怒ったようにはにかみながら彼女が言った。女の性と言うものは、自分の声を抑制できないほど強い快楽を感じるものなのだと、その時私は初めて知った。

「今度思いっ切り声出せるとこへ行こう」

「ほんと? 嬉しい。約束やけんな」

 そう言うとみどりは私の胸に顔を埋めて暫く甘えていたけれど、やがて満足気に寝息を立て始めた。素っ裸で女性とこうやって毛布にくるまって寝ている。私はそれがまるで遠い世界の出来事のように感じられた。


 これをきっかけにして、私と森みどりの交際は始まった。セックスから始まる愛もある?

いや、それは愛ではなく情欲だ。だが、体の結びつきから始まった関係が本当は一番厄介なのではないだろうか。永遠の誓いすら刹那の快楽の前では色褪せてしまう。その時の私にはそんな深いことなど微塵もわかろうはずもなく、ただただ、とろけるような快楽の虜となって正常な判断さえできなくなっていた。そういえば、男にとってセックスはゴールで女にとってはスタートだと、昔、聞いたことがあったが、この展開はまさにそうなのだろう。初めから真実の愛などきっとなかったのではないだろうか。

 冷静に考えてみると、はっきり言って私は、その時点では、みどりを異性として見ていなかったし、当然、愛してはいなかった。「迷惑なら帰る」と彼女が言った時に、懸命な男性ならばきっときちんとそのように伝えていただろう。

私は昔から、こういう押し切られ型の恋愛が多い。それはきっと私の性格が、優柔不断で狡猾なのだろう。だからはっきり物を言えない。いつもコソコソ逃げ回ってばかりだ。  

それで後から何倍にもなってそのツケが回って来る。この後の人生に於いても、それはこれでもかと言わんばかりに私自身に返って来ることになるのに。まだまだ夜明けは遠い。


 次の日、社内の女子の間では、もうすでに私には「みどりの彼氏」という肩書きが付与されていた。こういう噂はあっという間に広がるものだ。そうなると、今までのように女子たちと戯れたりじゃれ合ったりはできなくなってしまった。当然だ。

 いつもの女子部屋に入ろうとすると、「あんた、みどりのおらん時はひとりでここ来たらダメで」と門前払いされ、またあるいは、誰かの手でも握ろうものなら(下心などは毛頭ない!)「いけん、みどりに怒らるる!」と一蹴されるようになってしまった。女子同士の結束は固い! 鈍感な私は、皆の突然の変わり身に訳もわからず戸惑うばかり。

 よもや私の額に『売約済み。森みどり様 御成約感謝』の見えない赤札が張られていたことなどわかろうはずもない。お子様(もしかしたらペット?)から男に進化したのは私の方なのに。いつまでたっても中身はお子様だった。

 二、三日もしたら、女子だけではなく、水族館中に有名になってしまった。上司からも「天宮、お前、みどりと結婚するんか?」などと言われる始末。男女の関係=結婚、の図式はこの頃の地方ではまだまだ健在だった。私は事の重大さをまったく理解していない。若気の至りでは済まされない。

 そんなわけで私とみどりの関係は公認となった。そうなると話は早い。一ヵ月もしないうちに、みどりは私のマンションに転がり込んで来て、あれよあれよと言う間に二人の同棲生活が始まった。

 私はいったい、どこにいるのだろう。自分を見失いそうになっていた。こんなことで良いのだろうか? 一人になると、そんな不安が私の脳裏を横切る。しかし、みどりといっしょにいると、彼女の甘い肉の誘惑には勝てない。この頃の私といったら、覚えたばかりのセックスの快楽に情け無いぐらいに溺れていた。ドロドロ。まるで盛りの付いた猫のようだった。つまりは無責任。

 それからとんとん拍子に話は進み、半年も経つ頃には、今度は私がお気に入りだった別府のマンションを引き払って、みどりの実家へ転がり込むことになった。両親も、いずれはいっしょになるだろうから、無駄な家賃を払うより、うちに来なさいと勧めてくれて、それは親としても、家に娘が居る方が安心でもあるからと言うことだった。

 もう今や完全にがんじがらめ。私はすでにどう足掻いてもここからは逃れられない運命だった。しかし、そのときの私と来たら、そういった責任感も将来に対する不安もまったく持ち合わせておらず、何も考えずに、何気なく生きていた。本能の赴くままに。今思えば、本当に子供だったと思う。

 幸いなことに、子供だけはできなかった。勢いに任せて避妊もせずに体を合わせていたし、もうみどりもそれを拒むこともなくなっていた。いや、逆に出来たら出来たでそのまま籍を入れれば良いと、どこかで考えていたに違いない。麻雀で言うならすでにテンパイ。後は私の振込み待ちの状態だった。幸か不幸か、振込み(妊娠)だけはしなかったと言うことだろう。 

 ここまでみどりと付き合っても、やはり私は彼女を心から愛せなかった。今でもそれは申し訳なく思っている。けれど、決して彼女を騙していたわけではない。それまで人を心から愛したことなどなかった私には、恋愛とは、こんなものなのだと、わかったような気でいた。そのうちきっと、まるで魔法のように、何も無いところから、情欲という種を蒔いていれば、愛がそのうち芽を出すとでも思っていたのかもしれない。

 あくまでそれは、愛ではなく情。その二つが合わさってようやく愛情は育まれる。今ならわかる。本当に、未来永劫、いっしょに居たいと思う相手には、最初に出会った時から、ちゃんと愛の種はある。それを人は「縁」と呼ぶのかもしれない。それは、私たちが、生まれるずっと以前からきっと決まっているのだと思う。

 けれども私は、みどりの私に向けられた愛を裏切ることはできないと思っていた。みどりに対しても、彼女のご両親に対しても、その信頼に答える事が、私の努めであると考えていた。今思えば相当に無理をしていたに違いない。

 私の母は、親の作った借金のためにその身を売ってまで大変な苦労を強いられて来た。幼い頃よりそれを間近にずっと見続けて来た私は、人の信頼を裏切ることは万死に値すると心に深く刻み込まれて育った。それは自分の意思を押し殺してでも果たさなければならない。

その年の夏に、大阪から母が、みどりのご両親に挨拶にやって来た。ご両親の希望は、男の子がいない森家に何とか私を養子として貰えないかということだったらしいけれど、うちも母と私の二人しかおらず、私がいなくなれば、母は一人になってしまう。うちの名前を継ぐ親戚もいないため、私が家を出れば当然我が家は私の代で途絶えてしまう。それは土台無理な相談だった。

 終始和やかな雰囲気で会は進んだが、その話題に移ったとたんに母の表情が変わった。

「養子縁組と言うなら、このお話しはなかったことにして下さい。お断りします」

母ははっきりと言った。それまで穏やかだった部屋の空気がいきなり凍りついた。このような席で、ここまで挑戦的に物を言える母を見て、正直私は圧倒されていた。こんなにはっきり物を言える人から、なぜ私のような優柔不断な子供が生まれたのだろう。私は不思議でならなかった。

 毅然とした母の勢いに呑まれてしまったみどりのご両親はすっかり意気消沈して、先の申し出をあっさり取り下げて、どうぞ娘を貰って下さいと逆に頭を下げるに至った。  

これでますます、愛していない女性を嫁に貰わなければならない状況となってしまったがもう後には引けない。個人のレベルを遥かに超えてしまった。お昼の世俗的なテレビ番組を見て、何も考えることなく、ただビーフシチューが食べたいと呟いた一言が、ここまで人生に大きな影響を及ぼすとは思ってもみなかった。まったく神様の意向は計り知れないものだ。

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