緋咲 幽華は怖いお化けの夢を見る

黒乃 猫介

第1話首切りのお化け

―私は怖いお化けの夢を見る。だが、決してお化けが見える訳ではない。


青い空。見渡す限りの田園風景。遠くに連なる山が見える。綺麗な景色である。しかし、かれこれ一時間も同じ景色を見ていると、流石に少し飽きてくる。

 荷物を持つ手が疲れてきた。更に、舗装されていない道路が体力を奪っていく。麦わら帽子を被っていても、直射日光はやはり熱い。駅からここまで歩いて来たが、もうそろそろ限界だ。お昼ご飯にしたいのだが、行けども行けども何もない。もう少し下調べをすれば良かった。目標の文献ばかり漁っていたので、現地の地理の事なんて頭の隅にさえなかった。

 仕方がないので誰かに飲食店の場所を聞く事にした。丁度、畑仕事をしているおばあちゃんを見つけたので声を掛ける。

「すいません、少しよろしいでしょうか?」

「うん?何だい?」

 おばあちゃんが私の方を向く。

「あらまあ、えらいべっぴんさんだねえ。どこから来たんだい?」

 気さくな方だった。しかし、こちらが質問する前に、質問をされてしまった。こうなると大抵話が長くなってしまう。困った事になった。私は一刻も早く休憩したいのだ。

「…東京の方から来ました」

 だが、すぐに話を打ち切れるほど口が達者ではないので、無難に答えを返すしかなかった。

「遠い所から、わざわざこんな田舎へようこそ。ここには、何にもないよ。観光するものなんて一切ない。本当に何しに来たんだい?」

「…仕事で来ました」

 嘘である。仕事と言うものは報酬を貰って、初めて仕事と言える。しかし、私のしている事は、特に何も貰えない。

 ならば、私のやっている事は一体何なんだろう?義務?使命?奉公?そんな立派なものではない。敢えて言うなら趣味である。

 しかし、私の目的地の事を考えると、趣味で来ましたと言うのは、不審者に思われるかもしれない。なので仕事と言うしかなかった。幸い、話を合わせてくれる身内がいるので、身分を証明する時は助けて貰える。

「お仕事でわざわざここまで…大変だねえ。で、なんであたしに声を掛けたんだい?」

 割と早く本題に戻ってくれた。お年寄りの話は長くなる事が多い。もっと長い時間このまま話続ける事を覚悟していたので助かった。

「…道を教えて貰えませんか?この民宿なんですが…」

 まずは、地図を取り出し宿の場所を聞く。実はこっちも困っていた。この道で合っていると思うのだが、行けども行けども到着しない。やはり、どこかで道を間違えたのかもしれない。

「ああ、藤崎ふじさきさんの所だね。それなら、今歩いてる道を真っすぐ4キロくらい進んだとこにあるね」

「…4キロ」

 道は間違えていなかった。間違えていたのは距離感だったようだ。どうやらまだ歩かねばならないようだ。

「…後、この辺の飲食店の場所を教えて頂けないでしょうか?そろそろ休憩したいのですが、それらしいお店が見つからなくて…」

「それなら藤崎ふじさきさんとこに行く途中に、『大吾郎だいごろう』ってラーメン屋があるよ。あそこのラーメンは絶品だよ」

「…ラーメン屋」

 いつもはカフェで軽食を取っている。出来ればここでもそんな食事を取りたかった。しかし、もうお腹が限界である。まさに、背に腹は代えられない。

 この諺は、元々内臓が傷つく可能性があるお腹を切られるくらいなら、背中を切られた方がマシという意味である。つまり、お腹の為である。今の私もお腹の為に拘りを犠牲にしている。今の状況にピッタリな諺だ。まあ、昔の人の生き死に関する事と、私の拘りを比べるのは、当時の人に失礼かもしれない。

「…絶品ですか…それは楽しみです。教えて頂きありがとうございました」

「どういたしまして。それより、あんた藤崎ふじさきさんとこ泊まるなら、しばらくこの村に居るんだろ?もしかしたらまた会うかもしれないし、名前を聞いてもいいかい?私は田淵たぶちって名前だよ」

 名乗られたからには、名乗り返すのが礼儀である。私はロングスカートの両端をちょこんと掴み、お辞儀をする。

「…緋咲ひざき 幽華ゆうかと申します」


しばらく進むと、ラーメン屋らしき建物が見えてきた。恐らくあれが「大吾郎だいごろう」だろう。古く、小さい、木製の建物であるが、どこかしら味のある雰囲気を感じる。

 戸を開き、中に入る。

「へい!らっしゃい!」

 少し歳を召されている店主が、元気よく出迎えてくれた。手書きのメニューとタペストリーが貼られた壁。角にはブラウン管のテレビが置いてある。外観と同じで店内も妙に古臭い。だが、これはこれで味がある。

 私はカウンター席に座り、メニューを見る。奥から店主の奥さんらしい人が現れ、お冷を置いてくれる。

「あら、よその人の方ですね、珍しい。私達のお店も有名になったのかしら」

 上品そうな方だった。どうやら店主以外の店員はこの人しかいないようだ。

「…田淵たぶちさんの紹介で来ました。仕事でこの村に来たんですが、親切にして貰って」

 私は引き続き目メニューを見ながら、言葉を返す。メニューには一つだけ、変わった名前のものがあった。この「豚のハナ」って品が気になる。明らかに重たそうではあるが、好奇心がそそられる。

「まあ、田淵たぶちさんが…あの人面倒見がいいからねえ。ご注文は決まりました?」

 店員さんの言葉が耳に入ってこない。それよりも、やはり「豚のハナ」が気になってしかたがない。素直に素朴な塩ラーメンを頼むか、「豚のハナ」を頼むか悩む。どうしたものか…「Curiosity killed the cat」好奇心は猫を殺すと言われている。これはイギリスの諺である。前提として「Cat has nine lives」、猫は9つの命を持っている。つまり猫は簡単には死なないという諺があり、そんな猫でも好奇心が原因で死んでしまうという意味である。過剰な好奇心は身を滅ぼす。確かにそうである。これを頼んだら私の胃が、おかしくなってしまうかもしれない。だが一方で好奇心旺盛と言う言葉は長所と捉える事が多い。未知のものに興味を抱く事は、新しい可能性を開く可能性もある。私も新たな可能性を切り開くべきではないのか?なにより、このまま頼まずに終わると、今晩気になって眠れないかもしれない。決めた。私は「豚のハナ」を注文する事にした。


 「豚のハナ」を注文したところ、店の人にかなり驚かれた。やはり、女性が頼むものではないらしい。しかし、ガイウス・ユリウス・カエサルも言っていた。賽は投げられたと。注文した結果はもう変わらない。振り向かずただ食すのみである。

 「豚のハナ」が出来るまで、少し時間が掛かると言われてしまった。なので、私はカバンから読みかけの本を取り出した。題名は「愚かに振り回された男」。話を要約すると、鏡で一度己を見るべき、という内容だ。


 あるところに一人の男が居ました。男の周りには愚か者しか居ませんでした。男はその愚か者に振り回され、己の能力を振るう事が出来ず、出世する事が出来ませんでした。しかし、その足を引っ張った愚か者達は瞬く間に出世の道を歩んでいきます。男はこの世の理不尽を呪いました。理不尽を呪い、己を評価しない会社を辞め、投資でお金を稼ぐ事にしました。男はある日、一人の女性に出会います。その人は周りの愚か者と違い、男を評価してくれました。男はその女性に好意を抱き、結婚するまでに至りました。しかし、その女性もまた愚か者でした。男の投資している内容を理解せず、一時的に無くなるお金を見て文句ばかり言ってきます。喧嘩が絶えなくなりました。男は女性と別れる決意をしました。男の元に残されたのは愚か者の女性が生んだ、愚かな息子だけでした。女性と別れた後、男は投資に没頭しました。しかし、上手くいきません。それは、愚か者の息子が居るからです。男は、何度躾けても言う事を聞かない愚かな息子に頭を悩ませていました。息子が居る限り、成功しないと考えます。なので、愚か者の息子を親戚に預け、男は海外へと渡航しました。これで男の足を引っ張る者はもう居ません。しかし、いつの間にか男の予算は尽きていました。男は橋の下で生活する事になりました。ある日、ふらふらと町中を歩いていると、街頭の大きなスクリーンのテレビで愚かな息子が活躍しているニュースが目に入りました。やはり、この世は理不尽だ。愚か者は成功し、賢き者は失墜する。男はそんな世を呪い、橋の下で飢えて死んでしまいます。ですが、話はここで終わらない。男以外の登場人物へ視点が移り、客観的に男の姿を見られます。もう、気づいている人も多いでしょう。愚か者は男の方でした。会社を務めている時は人の足を引っ張る事ばかり考え、自分の仕事は後回し。離職後も無駄な投資ばかりしていました。妻に逃げられ、息子を捨て海外に希望を求めたものの、つてもなく、ただ飢え死にしただけでした。それでも男は一度たりとも自分を愚かとは思いませんでした。それに少しでも気づいていれば良い人生を送れたかもしれません。

 今回私が出会う物語も、きっとそんなお話…


 遂にこの時が来てしまった。

「お待たせしました、豚のハナになります。ご注文は以上でよろしいでしょうか?それではごゆっくりどうぞ」

 目の前にどんぶりが置かれる。なるほど、確かに豚のハナだ。最初にメニューを見た時、私は豚の鼻だと思っていた。しかし、そうではなかった。鼻ではなく花だったのだ。円形に敷き詰められた8枚のチャーシュー、それがまるで花弁の様だった。その下にはガク片に見立てたメンマ。中心部分はネギとコーンともやしで作られていた。

 花粉を生成する部分をやくと言う。そのやくが薬味で作られているのだ。これは洒落が効いている。コーンともやしが薬味に当てはまるかは置いといて。カップラーメンの加薬かやくと書いてある袋に入っている場合もあるので、広義には含まれているのだろう。小さい頃この加薬を火薬だと思い込み、入れたら爆発するのではないかとびくびくしたのは、私だけじゃないと信じている。

 それはさておき、肉で作られた花など気持ちの悪いと思う人も多いかもしれない。しかし、肉を花に見立てる文化は日本に存在している。猪肉を牡丹、馬肉を桜と呼ぶ。よく、牡丹は花札が由来と聞くが、牡丹は蝶の札で、猪は萩である。花札由来を完全に否定はしないが、入れ替わった理由は私は聞いた事がない。それよりも、煮込むと脂身が縮れて牡丹の花の様になると言う説がある。私見ではこちらの方が信憑性が高い。桜肉も、桜の咲く季節が旬と言う説もあるが、馬肉を切った色が桜に似ているからと言う説もある。何故このような別の名前が付けられたのか?江戸時代の時、宗教的に堂々とこれらを食べられないので、隠語を使ったと言う生々しい説が有力である。理由はともかく、猪と馬には花の名前が付いてしまった。付いてしまったからには、それを利用する者が現れる。具体的に言えば、飲食店である。これらの肉がお店で出される時、花の形で盛り付けられる事がある。その姿はとても鮮やかで美しい。やはり、肉を花に見立てる事はおかしい事ではないのだ。

 まあ、チャーシューなので、花弁が鮮やかな赤ではなく、茶色なのが残念である。しかし、キチンと花に見える。店主はとても豪快そうに見えるのだが、案外器用なのかもしれない。

 料理は味だけではなく目でも楽しむと言うが、見てるだけでは麺が伸びてしまう。そろそろ、戴くとしよう。店主に向かって手を合わせる。

「…いただきます」

 まずはレンゲでスープをすくう。どんぶりに髪が入らないように、かきあげながらスープを口へと運ぶ。コクが有り甘みを効かせた豚骨ベースのスープだった。濃い味ではあるが後味が良く、思ったよりもすっきりとしている。はっきり言って美味しかった。

 次に真ん中の薬味に手を出してみる。レンゲを箸に持ち替え、三種の薬味を同時に口に入れる。もやしのしゃきしゃき感、コーンの甘み、ネギの風味が口の中に広がる。スープとはまた違う旨みが脳へ伝わっていく。幸せである。

 そろそろ麺を食しにいこう。箸で掴み、ふーふーと息を吹きかける。そして一気にすする。コシのある細目の麺にスープが絡まり、上質な味を引き出している。自然と笑みがこぼれてしまう。

 さあ、メインディッシュのチャーシューを頂こう。ラーメンは余り食べないのだが、食べる時はチャーシューを最後に食べると決めている。楽しみは後に取っておくタイプなのだ。いざ、口に頬張る。甘い柔らかな塊が、舌先で溶けていく。天にも昇る心地である。これが後7枚もあるのだ。幸せの極致を見たのかもしれない。

 スープ、薬味、麺、チャーシュー、順々に口へと入れていく。箸が止まらない。大きなどんぶりに入っていたそれが、見る見るうちに無くなっていく。ついには全て平らげてしまった。

「…ごちそうさまでした」

 自分では小食のつもりだった。だが、そうではなかった。本当に美味しいものに出会えた時は、いくらでも胃の中に入る様だ。

「…お勘定お願いします」

 店員が奥から現れる。

「まあまあ、綺麗に平らげて…お嬢さんやるわねえ」

 驚かれた。当然である。私自身も驚いているのだから。


しばらくの間座っていたので、だいぶ疲労が抜けてきた。歩いていた時と比べ、心に余裕が出来てくる。ここらで、今調べている事を地元の人に聞いてみたいと思った。とりあえず、会計を終えた目の前の店員に話を振ってみる事にする。

「…すいません、お話しよろしいでしょうか?」

「はい、何でしょう?」

「…私は民俗学の教授、柳原やなぎはら 國江くにえのお手伝いをしている緋咲ひざき 幽華ゆうかと言います。この辺りで祀られている首切り様について聞きたいのですが…」

 民俗学の教授のお手伝い。これは本当の事である。目的そのものではないが、そのついでに行っている。柳原やなぎはら 國江くにえ、私の親代わりみたいな人だ。人から情報を得る時に、名前を使って良いと言われている。しかし、見返りに起こったことのレポートの提出を命じられている。面倒な事ではあるけれど、お陰で話がスムーズに進む。

「あら、貴女、学者さん?確かに、利発そうな見た目してるわね!あ、首切り様についてですか…」

 さて、新しい情報は聞けるのだろうか?ある程度の事は自分で調べている。

 首切り様。人から神へとなった存在だ。八百万を信仰する日本では、人が神様と呼ばれる事は珍しくない。信仰するもの、全てが神様なのだ。現代でも、野球の神様、サッカーの神様、漫画の神様等、神様と呼ばれる人がいる。まあ、その人達は祀られている訳ではないのだが。祀られている者で有名な偉人を例に出すと、三国志の関羽雲長がいる。中国の歴史の人物ではあるが、横浜にある関帝廟で祀られている。

 今まで例に挙げた人達は、その偉業により神様と呼ばれている。しかし、首切り様はその不吉な名前の通り、別の理由が有る。それは、天神様こと菅原道真公を神と祀った理由と同じものだ。道真公は左遷され、そのまま没し、朝廷を祟った。それを抑える為信仰の対象になった。首切り様も、ある理由から祟りをまき散らした。それを止める為に神へと祀られる事となった。すなわち、鎮魂である。


 時は江戸時代に遡る。この村には、心優しい青年が居ました。青年は村人が大好きでした。子供が泣いていたら、慰め、一緒に遊んであげた。困っている人が居たら、駆けつけ手を差し伸べた。怪我人が居れば、手当をし、代わりに仕事をしてあげた。青年は村人に愛された。村人は青年に何も返せない事を悲しんだ。しかし、青年は村人に感謝され、笑顔を向けてくれる。それだけで幸せだった。

 しかし、それを面白くないと思っていた者達が居た。村の荒くれ者達である。荒くれ者達は、ただでさえ村人に軽蔑され、肩身が狭かったのに、青年と比べられて余計に惨めな思いを味わいました。荒くれ者達はうんざりしていました。村人達の態度も、青年の人の好さも。荒くれ者達は、青年を罠に嵌める事にしました。まず、青年を呼び出した。今までの事を謝りたいので、村人達との仲介をお願いしたいと言いました。荒くれ者達も村人です。青年は荒くれ達も放っては置けませんでした。青年は荒くれ者達の言葉を信じ、二つ返事で承認しました。荒くれ者達は、了承してくれたお礼と言い、青年にお酒を飲ませます。たくさんのお酒を飲まされた青年は酔いつぶれてしまいます。その夜、荒くれ者達は行動を起こしました。

 翌日、村で老人一人と、子供二人、女性三人の死体が見つかります。しかも、女性には姦淫した後がありました。荒くれ者達は、青年が酔っぱらってやったと証言します。勿論、やったのは荒くれ者達です。最初は村人も信じていませんでした。しかし、荒くれ者達の仲間ではない一人の男が、青年がしている所を目撃したと証言しました。男は荒くれ者達の協力者でした。証言をする代わりに、荒くれ者達が行動を起こした夜、一緒に良い思いをさせて貰ったのです。青年には昨夜の記憶がありませんでした。協力者の男の証言により、自分がやったと思い込み、青年は犯人を名乗りました。

 その後、村人の態度は急変しました。青年を縄で縛り付け、蹴る殴るの暴行を加えました。蔑んだ目で見つめ、唾を吐きつけ、食事は家畜の餌を与えました。青年は自分がやった事を思えば仕方がないと納得していました。死んだ村人も、自分の大好きだった村人です。むしろ、自分自身を許す事が出来ないでいました。それでも、村人達との笑顔だった日々を思い出すと、少し寂しい気持ちが胸に広がりました。

 一方、荒くれ者達は、酔っぱらって暴れていた青年を止め、被害の拡大を防いだとし、村人達から英雄視されていました。荒くれ者達の生活は一変し、村人達に感謝される日々を送りました。荒くれ者達は天狗になりました。自分達は何をやっても許されると、そう思い込みます。そして、青年を自分達の手で処刑すると言い出しました。

 青年は村の広場に連れて来られました。広場には、村の人全員が集まりました。村人達は青年の惨めな姿を見て、大いに笑いました。そして、その笑った顔のまま、青年の死を望む言葉を叫びました。青年は自分が悪いのだと分かっていました。しかし、その村人の醜い姿を見て、胸が苦しくなります。これが自分の大好きだった人達の本性だったのかと、大いに悲しみました。

 荒くれ者達は青年の首を切り落とそうとします。しかし、村に刀などの切れ味の良いものは存在しませんでした。仕方がないので、余り切れ味の良くない農具で、青年の首を何度も打ち付け、切り離す事にしました。作業を開始する前に、荒くれ者達の代表格が、青年に耳打ちをしました。それは、あの夜起こった事の真実です。青年の顔は見る見る内に、絶望と驚嘆へと変わりました。荒くれ者達はその顔が見たかったのです。

 青年は心から優しさが消え、深い恨みの感情が沸き上がってきました。全てを仕込んだ荒くれ者達、欲望の為に自分を売った協力者の男、騙されて態度を一変させた醜い村人達。その全てを憎みました。首が胴から離れていく中、青年はこの場に居る全ての人に恨みの声をぶつけました。

「貴様らが私の首を切り落とすのなら、私も貴様らの首を切り落とす!その首を並べ、一つを選び、私の新たな首にしてくれよう!」

 今まさに死にかけている者に何が出来ようか。荒くれ者達も村人達もその言葉を放ち、侮蔑を込めて笑い倒しました。そうして、青年の首は、その広場でさらし首になりました。

 青年が処刑された後、村で奇妙な事件が起こりました。荒くれ者達の代表格の家に何者かが侵入し、荒くれ者達の代表格が殺されてしまいました。その遺体には首がなく、いくら探しても見つかる事はありませんでした。事件はまだまだ続きます。荒くれ者の一人が、暴れた馬に引かれ、転んだ所を、馬の蹄で首の部分を踏みつぶされ、首と胴が分かれる事件が起こりました。その首は馬に遠くまで蹴り飛ばされ、見つける事が出来ませんでした。別の荒くれ者は、クマに襲われ死んでしまいました。熊は何故か首を引きちぎり、持ち去ってしまいました。最後に残った荒くれ者は、他の荒くれの末路を知り、村から逃げようとしました。しかし、その途中、崖崩れに巻き込まれ死んでしまいます。これも見つかったのは胴の部分だけで、首はどこかに消えてしまいました。

 村人達はこれらの出来事を、青年の呪いだと思い始めました。これに恐怖したのが協力者の男です。男は全ての事実を村人達に話し、助けを求めました。村人達は自分達の過ちに気づきました。しかし、もう手遅れであった。翌朝、男は川辺で首なし死体として見つかりました。

 村人達は次の標的は自分達であると気づいていました。どうにかしようと考えるも、何も思いつきません。仕方がないので、隣村の歴史ある社の宮司にこの事を相談しました。宮司はすぐに村へと向かいます。村にはとても重く、深い邪気が溢れていました。青年の恨みはそれほどにも強かったのです。これは、人ではどうにもならないと悟りました。どうにかして、青年の気を治め、自分から呪う事を辞めさせる方法を考えます。宮司は青年を祀る事にしました。祭壇を作り、その中にちゃんと首のある青年を模した石像を置きました。村人達は、その石像に祈りと懺悔の念を送りました。首のある新たな肉体を得た青年は、邪気を治め元の優しい青年へと戻りました。首切りの事件はもう二度と起こりませんでした。優しさを取り戻した青年は村人を許し、信仰してくれる者に幸せを与えました。こうして、青年の像は首切り様と名付けられ、その後も村で祀られる事になったのです。


 これが、私の調べた首切り様の話である。正直、気持ちが悪いと思った。何故なら、最後に村人達が許されたからである。首切りを止めるまでは良いとして、村人達の行いを本当に許して良かったのだろうか?しかし、私が口を出せる事でもない。これは遥か昔に起こった話なのだ。


 話は現代へと戻る。店員さんから、私の問いに対する返事が返ってきた。

「…特に思いつく事はないわ。私にとって、あれは私より上の世代の人達が拝んでいる石造だから…ごめんなさい」

 まあ、地元にいるマイナーな神様の扱いなんてこんなものである。私の知りたい情報は持っていないかったようである。

「…最近何かあったと聞いたのですが…その出来事があったので調査に来たんですですけど…」

「そういえば…ご年配の方が、石像が壊れたとか言っていたような…もしかしたら、祭壇に行けば誰か拝んでるかもしれないわね。詳しい話しが聞けると思うわ」

「…分かりました、行ってみます」

 結局のところ、祭壇のある場所に行かなければこれ以上の情報は得られないようだ。宿に荷物を置いた後、すぐに向かうとしよう。ああ、また歩かねばならない。

 私は店主と店員さんに向かってお辞儀する。

「…ごちそうさまでした。美味しかったです」

「「ありがとうございます」」

 元気の良い返事が返ってきた。こうして私は「大吾郎だいごろう」をあとにした。


 しばらく歩いて、やっとのことで宿に着く。ゆっくり休みたいのだが、そうはいかない。手続きを済ませて、荷物を置き、すぐに外へと出た。首切り様の祭壇は村の端っこにある。ここからさらに2キロ歩かないといけない。往復4キロである。ぐずぐずしていたら日が暮れてしまう。私は急いで首切り様の祭壇へと向かった。


 首切り様の祭壇は崖を背に建てられていた。少し離れた所に階段が設置されていて、そこから降りて来たのだが、随分と足に負担が掛かってしまった。帰りはこれを登らなければならないと思うと憂鬱である。辺りを見渡す。大きな岩や尖った岩が転がっている。崖上から落ちてきたのだろうか?普通、祭壇は壊れる可能性を考えてこんな危険な場所に建てはしない。しかし、ここは青年の遺体が埋められた場所らしい。村人に蔑まれていた青年の墓ならば、こんな村端の危険な場所にあってもおかしくはない。危険な場所のはずなのに、祭壇に岩が当たった様子はない。まるで、何か不思議な力にでも守られている様に…

 崖上を見る。15メートル位はありそうだった。村は高所に存在し、このような崖がいくつかあるようだ。お年寄りが訪れる場所にしては危険な気がする。崖上には一応柵があるものの、体重を掛ければそのまま柵ごと落ちてしまいそうだった。これはよそ者のだからこその考えなのだろうか?住んでいる人には慣れていて、余り危険とは思っていないのかもしれない。しかし、何かあってからでは遅い。私が市役所にでも報告すれば、この辺を整備してくれるのだろうか?帰りにそうする事も念頭に入れておこう。

 一人のおばあちゃんが祭壇を拝んでいた。声を掛けてみる。

「…あの、すいません」

「おや、あんたは…」

 知っている人だった。道を教えてくれた田淵たぶちさんだった。


 とりあえずぺこりとお辞儀をする。

「…お陰さまで目的地に着きました。ありがとうございます」

「どういたしまして。それよりあんた学者さんなんだって?しかも、首切り様について調べているそうじゃない。言ってくれれば私が教えてあげたのに」

 もう伝わっているのか。田舎の情報網恐ろしや。

「…首切り様についてお詳しいんですか?」

「そりゃね、毎日拝みに来てるし。私はまだまだ健康でいたいからね」

 首切り様のご利益は、健康・病気平癒・不老長寿である。首切り様に祈る事で、あらゆるものから首を落とさないで貰える。そう言われている。首を落とさない、つまりは命を落とさないという事だ。そこから、発展し今のご利益が生まれた。お年寄りがよく訪れるのも、そう言った理由なのだろう。

「まあ、でも今の首切り様にその願いが届くのか分からないけどね…」

 田淵たぶちさんの声に張りがなくなっていく。どういう事か確かめる為に、祭壇の中身を覗く。その中には青年の石像があるはずだ。石像自体はあった。しかし、その


「数日前、お供え物を盗る罰当たりな奴がいたらしいんだよ。お供え物が全部無くなっていたよ。そいつがその時に、首切り様の足下を踏み壊してしまったみたいで、この通りだ。犯人は何を思ったのか首切り様の像をどこかに隠したみたいでね。大きい胴はすぐに見つかったけれど、首がまだ見つかっていないのさ」

 これが、今回起こった事の顛末のようだ。しかし、偶然にしても、これはとても

「あんた、首切り様の昔話は知っているかい?」

「…調べてきました」

「あらまあ、それじゃあ私の話す事がないじゃない。まあ、だったら分かるでしょ、今の状況」

 首切り様の首がない。青年が首を求めていた時と同じような状態だ。

「私は不安で不安でたまらないんだよ。村の知合いが夜中に妙な音を聞いたって言うし…」

「…妙な音?」

「何か重たい物が引きずられる音らしいよ。ズズッ…ズズッ…って。一人だけが言ってるなら空耳で済んだんだけどねえ。あいにく何人もの人が聞いてるんだよ。しかも、首切り様の首が無くなった日の夜から」

 それは確かに不気味である。まるで首切り様が自らの首を求めてさまよっているみたいだ…

「こんな年寄りでも、やっぱり怖いよ。お話し通りだと、首切り様は村の人の首を奪っていくだろうね。私はそんな死に方嫌だよ…と、おっと」

 田淵たぶちさんがふらつき倒れそうになる。私はとっさにその体を支える。

「…大丈夫ですか?」

「ごめんね…少し足を悪くしていてね…普段は大丈夫なんだけど、気落ちしている時に急にくる時があるんだよ…でも、今日はいつもよりちょっと…いや、かなり悪いみたいだね…」

 先も述べた通り、ここは足場が悪い。こんなところにふらついているおばあちゃんを置いていく訳にはいかない。まずはご家族に迎えに来てもらえるよううながしてみる。

「…田淵たぶちさん、携帯電話を持っていますか?」

「こんな年寄りが持っていると思うかい?」

 いえ、今の世の中、持っているお年寄りも増えてきています…持っていないのなら仕方がない。私の携帯を使って家族に連絡をしてもらおう。そう思い、私はポシェットに手を伸ばした。しかし、携帯が見つからない。しまった、急いで出て来たので、宿に置いてきたのかもしれない。

「…他に何かご家族に連絡が取れる物がありますか?」

「持ってないねえ」

 仕方ない、ご家族に迎えに来てもらう事は諦めるしかない。ならば、私に出来る提案は一つである。

「…田淵たぶちさん、家までお送りします」

「年寄り扱いするんじゃないよって言いたいところだけど、正直ありがたいよ。お願いしていいかい?」

「…もちろんです」

 こうして私は田淵たぶちさんの体を支え、家まで送る事にした。


 田淵たぶちさんを送る道先に、一組の親子が見えた。いや、親子なのだろうか?遠目だが、違うようにも見える。少年と大人の男性と言った方が適切かもしれない。

 どうやら二人は口論をしているようだ。しかし、距離が近づくにつれ、それが間違いだと気づいた。口論ではない、男性が一方的に怒鳴りつけている。男性はほとんど後ろ姿しか見えないのに、強い怒気を帯びているのが分かってしまう。それほどの剣幕だった。このまま見過ごして良いのだろうか?しかし、迷っている場合ではなかった。男性が少年をのだ。一回どころではない。何度も何度も蹴りつける。止めなければ!しかし、私とあの二人との間にはまだ距離がある。それに、私は田淵たぶちさんを支えている状態だ。それでも、少しづつ前に向かう。そうこうしている内に、男性は暴行をやめ、少年を置いてその場を去っていった。ひとまず暴行が収まって安心した。しかし、少年はその場にうずくまって泣いているようだ。早く少年の元へ向かわないと…

「そんなに急いでどうしたんだい?」

 田淵たぶちさんが私に話し掛ける。田淵たぶちさんは足の痛さか、ずっとうつむいていた。なので、前の方は見えていない。それに、もしかしたら耳が遠いのかもしれない。さっき起こった事に気づいていないようだ。

「…男性が少年に対して暴力を振るっていました」

「なんだって⁉」

 それを聞き、田淵たぶちさんは顔を上げて少年の方を向く。

「やっぱり坂巻さかまきさんの所かい…あいつ、またやったのかい…」

「…常習なんですか?」

 田淵たぶちさんが事情を話し始める。私はその話を聞きながら、少年の方へ歩き続ける。

「そうだよ、今回だけじゃないんだよ…あの二人は甥と叔父の関係でね。少し特殊な事情があるんだよ。あの子は母親がいないんだ。事故だってさ。母親が亡くなったのをきっかけに、父親の実家があるこの村に引っ越してきたんだよ。父親は、一人であの子を育てるのは難しいと考えたんだね。だから、実家に頼ったのさ。でもね、頼った母親、あの子にとってのおばあちゃんも一年経たない内に病気で亡くなってしまったんだよ。おじいちゃんの方ももう亡くなっていてねえ。残った家族はあの叔父、あの子の父親の弟だけだったのさ。父親は仕事で出張が多くてねえ。その間は、あの子をあの叔父に預けるしかなかったんだよ。だけどね、あの叔父は乱暴者でね、あの子と何かあるたびに暴力を振るうんだよ…」

 事情は分かった。しかし、あの暴力は見過ごす事が出来ない。余計なお世話と分かっているが、どうにかならないか聞いてみる。

「…誰も止めないんですか?特にあの子の父親は弟の暴力を止めるべきだと思います」

 少し踏み込み過ぎているかもしれない。しかし、聞かずにはいられなかった。

「もちろん止めてはいるよ。あの子の父親も何度も注意しているさ。でもね、それが余計にイラつかせているみたいでね、誰も見ていないところで暴力を振るっているみたいなんだよ…今みたいに、たまに誰かに目撃されているけどね…」

 それなら別の対策もある。

「…警察に相談してはどうですか?」

 目撃談のある家庭内暴力なら、警察も動いてくれるはずだ。

「それも考えたよ。でもね、あの子の父親に止められてしまってねえ…」

「…どうしてなんですか?」

 身内に恥を作りたくないのだろうか?もし、そうな私はその父親を軽蔑する。しかし、田淵たぶちさんの口から返ってきた答えは別のものだった。

「出張の間、あの子が一人になってしまう事の方が怖いみたいだよ。あんな叔父でも、食事くらいは用意してくれるみたいでねえ…それに、いくら田舎でも小さい子を一人で居させたら、どんな危険な目に合うか分からないって…そう言われたら、引き下がるしかなくてね。私みたいな村の人があの子の世話を出来れば良いんだけどねえ…頼まれてもいないのに、そこまで出来る権限が私達二あるのかって考えるとね…」

 それでも、何か別の方法がないかと考えてしまう。それこそ、そんな権限なんて私にはないのかもしれないけれど…

「あの子の父親も出張のない仕事を探しているんだけどね、なかなか見つからないみたいなんだよ…今、私達に出来る事があるなら、暴力を振るっている所を見た時にそれを止める事と、あの子を手当して慰めるくらいかねえ…」

 歯がゆかった。例えば、今私があの子の父親の言葉を無視して警察に訴えかければ、一時的には解決出来るかもしれない。だが、父親の言う通り、あの子を一人にした為に危険な事に巻き込まれるかもしれない。それに、あの叔父もいつまでも警察に厄介になっている訳ではない。帰って来た時、より酷い事が起きるかもしれない。そうなったら私の責任である。私はずっとこの村に居る訳ではない。その責任を取れる保証すらないのだ。何かをする事こそ、無責任である場合も存在するのだ。だが、だからと言ってそれを何もしない良い訳にはしたくない。この村に居る間だけでも、解決策を模索しようと思う。

「さっきから、全然進んでないじゃない」

 人を一人支えて速度が出るほど私は鍛えてはいない。それどころか、疲労でペースが落ちていっている。

「…すいません、体力がなくて」

 はあはあと、息が切れる。足が重い。それでも、最初に少年を見たときより、距離は半分まで縮んでいる。それはつまり、あと倍の時間掛かると言う事になるが…

「…私が足手まといになってるね。私はここまででいいよ。あの子の所に行ってあげな」

「…でも」

 田淵たぶちさんはまだ顔を青くしている。

「大丈夫だよ。今居る場所は首切り様の所みたいに足場が悪い訳じゃないんだし。それに、これでも毎日この道を行き来してるんだよ」

「…それでも、私は田淵たぶちさんも放ってはいけません」

 大丈夫と言ってはいるが、明らかに空元気だ。足の具合がいつもより悪いとも言っていた。そんな人を置いてはいけない。

「あんたは優しいねえ…」

 その言葉は否定したかった。

「…優しくなんてありません。私はその人が悪いと思ったら、その人がどんな酷い目に合うか分かっていても、無感情に見捨てるような人間です」

 何度もそんな事をしてきた。無感情どころではない。気に入らない人間の末路を見て、嬉しいと思う事もたくさんある。そんな人間が優しいなんて言われてはいけない。

「それでも、私は優しいと思うよ。でもね、少し気が回らないみたいだね。急ぎ足で引きずられより、降ろして貰った方が楽だとは思わないかい」

「…あ」

 確かに気が回らない。冷静さを失っていたようだ。

「私はそこの木陰でちょっと休憩させて貰うよ。大丈夫、無理をしないよ。あんたがあの子を手当して慰めるまで待っててあげるからね。その後、ゆっくり送って貰うよ」

 私の思いを汲み取り、田淵たぶちさんが言葉を選ぶ。気遣われてしまった。本当なら、私が気遣わなければならないのに。しかし、その想いに答えねばならない。

「…ありがとうございます」

 私は田淵たぶちさん木陰に降ろし、少年の元へ駆けていった。


 少年が泣いていた。昔の事が頭に思い浮かぶ。

 泣いている子供…それを見ている私…

 しかし、いつの事だったか思い出せない。何か、とても重要な事のはずなのに…頭が痛い。思い出そうとすればするほど、その痛みは増していく。痛みが限界まで達した。それでも、思い出せない。とりあえず、今は置いておこう。まずは、目の前の少年に声を掛けなければ。

「…大丈夫?」

 少年がこちらを向く。

「…知らない人と話したらいけないって言われてました」

  思いがけない言葉が返ってきた。変質者扱いされてしまった。意気込んで来たのにこの体たらくである。昨今、どんな事情があろうとも、子供に話し掛ける大人は変質者扱いされる事が多い。まさか私がそうなるとは思わなかった。確かに、私とこの子では面識がない。はたから見たら怪しい人に見えるかもしれない。しかし、ここで引き下がるのは、田淵さんに申し訳ない。何とか手当てだけでもしなければ。

「…あ、あ、怪しい人じゃないわ!」

「知ってる!怪しい人はそう言うんだ!」

 確かにその通りだ。今のは私が悪い。さっきより印象が悪くなってしまった。どうしたらいいものか…?

「怪しい人にあったら、この紐を引っ張れって田淵たぶちのおばあちゃんに言われた…」

 少年はポケットから防犯ブザーを取り出す。それについている紐を引っ張れば大音量の電子音が鳴り響く。大抵の場合、それで相手が逃げ出していく。子供自ら変質者から身を守れる良い時代になったものだ。しかし、今はまずい。

「…ちょ、ちょっと待って!」

 少年はこのブザーを田淵たぶちさんから渡されたと言った。田淵たぶちさんとこの子がどの位親しいのか分からなかったのだが、どうやら物を渡せるくらいの間柄という事が分かった。ならば、田淵たぶちさんの事を話しに出せば信用して貰えるかもしれない。

「…おねえちゃんはね、その田淵たぶちのおばあちゃんに貴方の手当を頼まれたの」

「…本当?」

 今にもブザーの紐を引っ張りそうだった少年の指が止まる。後一歩だ。危ない危ない。

 幸い田淵たぶちさんはここから見える位置にいる。知り合いだという証明は簡単に出来るだろう。

「…ほら、あそこに田淵たぶちのおばあちゃんが居るでしょ」

 私は田淵さんが居る方向に顔を向ける。つられて少年もそちらの方を向いた。田淵たぶちさんは私達に手を振ってくれた。

「本当だ。田淵たぶちのおばあちゃんだ!」

 少年は嬉しそうな表情を作る。思った以上に田淵さんに懐いている様だ。そうなる程に、田淵たぶちさんはこの子を気にかけているのだろう。

「…私の事、信じてくれる?」

「うん、信じる!」

 良かった、誤解は解けた様だ。しかし、これだけで信じて貰えるのは少し危ない事なのかもしれない。ちょっとの間話をしただけでも、この子はとても素直な子だと分かる。素直、それは良い事である。だが、同時に騙されやすい性格の代名詞だ。やはり、この子を一人にするのは心配である。

 手当を開始する為、声を掛けようとして気付く。そういえば、私はこの子の名前を知らない。田淵さんに聞いておけば良かった。名前を知らないと、不便な時がある。ここは、素直に目の前の本人に聞いてみよう。

「…おねえちゃんは、緋咲ひざき 幽華ゆうかって言うの。貴方のお名前はなあに?」

坂巻さかまき 健太けんた!」


 健太けんた君の身体を改めて見る。目に見える範囲では、擦り傷が多い。恐らく、蹴られた時に倒れて出来たものだろう。今出来たであろう新しい傷以外にも、少し古い傷が見える。定期的にあの様な事が行われていると思うと、心が痛くなる。とりあえず、この擦り傷から治療する事にした。

 私はポシェットの中から、まだ口をつけていないペットボトルに入った水と、清潔なタオルと、絆創膏を取り出した。絆創膏は真ん中にガーゼのある昔のではなく、丸っこい新しい奴を持って来ている。

 どうして私は携帯を忘れているのに、この様なものは持って来ているのだろうか?。絆創膏に関しては、ポシェットに入れっぱなしだったからだろう。タオルと水に関しては、今は夏場だからだろう。どちらも夏の必需品である。携帯よりも優先度は高い。納得した。納得したが今はそんな事を考えている場合ではなかった。どうして私の思考は脱線が多いのだろうか?まあ、気性なんだろう。

「…少し染みるけど、我慢してね」

「うん」

 ペットボトルの蓋を開け、傷口に水をかける。そこに清潔なタオルを当て水気を取り、絆創膏を貼る。

 昔は、消毒をして、傷を乾かしかさぶたを作るのが擦り傷の治療法と言われていた。しかし、今はそれは間違いだとされている。人の皮膚には、表皮ぶどう球菌と言う常在菌が存在している。この菌は簡単に説明すると、皮膚を健康にしてくれる善玉菌である。消毒は確かに悪い菌も殺してくれるが、この善玉菌も殺菌し、発生し辛くしてしまう。結果、怪我が治りにくくなる。傷を乾燥するのも同じだ。先ほど説明した善玉菌は清潔で湿度が高いと繁殖し易い。つまり、傷口を乾燥させると善玉菌の元気が無くなってしまう。やはり、これも傷が治りにくくなってしまう。そして、かさぶたもこれに当たる。かさぶたは傷口を塞ぎ、痛みをなくしてくれるので一見有用に見えるかもしれないが、身体が傷を治す時に邪魔になってしまう。かさぶたは作らない方が傷が直りやすい。

 このような傷が治り難い状況を防ぐ為に、今行っている事をする必要がある。まずは、水で傷にいる細菌や老廃物を洗い流す。これで、皮膚の善玉菌が育ちやすい清潔で湿度が高い状況が作り出せる。だが、水気が多すぎるとその水分に雑菌が溜まる恐れがある。それに、絆創膏を張りにくい。その為、タオルで水気を取る。別にタオルではなくとも、水気が取れればなんでもいい。しかし、ここで使う水気を取る物は清潔な物でなくてはならない。でないと傷口が汚れ、水で洗い流した意味が無くなってしまう。最後に新型の絆創膏を張る。この絆創膏は、さっき説明した皮膚の善玉菌が育ちやすい清潔で湿度が高い状況を維持してくれる。結果、従来の物よりも怪我の治りがかなり早い。

 ならば、従来の絆創膏はいらないんじゃないかと思われる。しかし、残念ながらこの新型絆創膏は、従来の物より値段が高い。従来の物の方が傷の治りが遅いのだが、痛みは取ってくれる。値段が安く効果の低い従来の物と、値段が高く効果の高い新型と役割が分かれている。

 余談ではあるけれど、この新型絆創膏の代わりになる物がどの家庭にもある。それは、サランラップである。サランラップもまた清潔で湿度が高い状況を維持してくれる。なら、そもそも絆創膏なんていらないんじゃないかと思われるかもしれないが、そんな事はない。思った以上にサランラップは皮膚にくっ付かない。それに絆創膏よりも邪魔になる。そしてこれが一番の問題だが、この知識はあまり浸透していない。その状態で外を出歩くと、傷口にサランラップを巻いた変な人である。代わりにはなるのだが、大人しく絆創膏を張った方が有用なケースが多い。

 そんな事を考えていたら目に見える場所の手当が終わってしまった。後は服の下の怪我だ。しかし、ここで服を脱がすのは本当に変質者ではないだろうか?しかし、蹴られていた箇所は胴の部分だ。健太けんた君の様子から大丈夫そうに見えるが、場合によってはいますぐ病院に連れていかなければならない状態かもしれない。そこは見なくてはならない。警察に通報されたらその時はその時。私が少し嫌な思いをするだけだ。治療の方が優先である。

「…健太けんた君、服の下も手当するね。少しバンザイしててくれるかな?」

「うん」

 了承を得たので、健太君が来ているTシャツをまくる。服の下は思った以上に酷い状況だった。重い怪我はないのだが、とにかく青あざ多い。今日昨日でこんな状態にはならないだろう。それにしても、どうして青あざは服の下ばかりに出来ているのだろうか?すぐにその理由に思い至った。例えばの話、多少子供に擦り傷が多くても、そく虐待だとは思わない。わんぱくな子供だと思うのが普通の考えである。しかし、青あざが多くある場合、何かあると疑ってしまう。あの叔父はそれに気づいている。気づいているから、普段は服の下に隠れている胴の部分を攻撃の対象にしているのだ。だが、そんな小細工はすぐにばれる。このくらいの子はまだ父親とお風呂に入るだろう。それに今みたいな夏場なら、薄着になりがちだ。見ず知らずの他人でも気づく可能性がある。あの叔父は残忍ではあるが、余り思慮が深い人物ではないらしい。しかし、そんな小細工の為に、胴という内臓にダメージがいく可能性がある危険な場所に暴力を振るっている…私の中で沸々と怒りの感情が沸き上がっていく。

 今は手当に集中しよう。青あざの治療は、早い段階だとアイシングが良く、ある程度時間が経ったあとだと患部を温めると良いと言われている。つまり、段階によって真逆の治療方になる。しかし、私のような素人だと、どのあざがどの程度の段階なのか分からない。ここは大人しく塗り薬を使う。これもポシェットに入れっぱなしで良かった。

 青あざに効くのはヘパリン類似物質の入った塗り薬である。この塗り薬は穏やかで、副作用がほとんどないので安心である。

 私は健太けんた君に薬を塗りながら、ある事を考えていた。健太けんた君は叔父の事をどう思っているのか?あの暴力をどう思っているのか?虐待は受けた本人が虐待だと思っていないケースがある。その場合、被害を受けた側から証言が得られない場合もある。もし警察に頼らないといけなくなった場合、今説明したケースだと解決に時間が掛かる可能性が高い。そうなって欲しくはない。

 考えていても仕方がない。直接聞いてみる事にした。

「…ねえ、健太けんた君、君のおじさんの事教えてくれない?」

「…やだ。僕、大輔だいすけおじさんの事嫌い」

 あの、叔父は大輔だいすけと言う名前だったのか。そういえば、聞いていなかった。それにしても、良かった。とりあえず、健太けんた君君はあの叔父に良い感情は抱いていない様だ。

「…蹴ったりしてくるから?」

 やだと言われたが、話が続くよう誘導してみる。もう少し情報を貰っておきたい。

「うん。僕がね、痛い、痛いって言っても全然やめてくれない。僕もう嫌だよ…それに、色んな事を僕のせいにするんだ…」

「…どういう事?」

 暴力以外にも何かあるのか?

「ちょっと前にね、叔父さんが財布を失くしたんだ。叔父さん、僕が盗ったて言って叩くの。でも、僕そんなの知らない。それでも叔父さんは叩くの。財布はね、おじさんがいつも行ってるたばこの自動販売機の前に落ちてたんだって。それでも、叔父さんは僕がやったって言うんだ。僕が盗って自動販売機の前に置いたんだって。それをちゃんと村の人に説明しろって叩くんだ…」

 想像ではあるが、あの叔父はプライドが高いのだろう。財布を失くした事を自身の過失にしたくなかった。そして、それが自身の過失と知った時、それを恥とした。その恥を他人に知られたくはなかった。だから、それを健太けんた君のせいにした。村の人に説明させて、健太けんた君がやった事にしたかったのだろう。そうして自身のプライドを保とうとした。

「今日もね。首切り様はお前が壊したんだろうって言うんだ。かんとくふゆきとどけってのでおじさんが怒られるんだって。だから、早く村の人に謝れって蹴ってきた。僕、知らないのに」

 お供え物を盗って、物を壊し、それを隠そうとする。確かに子供がやりそうな事である。だが、健太けんた君はやっていないと言う。その言葉に嘘は見えなかった。しかし、あの叔父にはそうは見えなかったらしい。それとも、言葉通り自分が怒られる可能性が怖いのか、はたまた叩く口実が欲しかっただけなのか。結局のところ無実であろう健太けんた君が叩かれる結果となった。

「僕、叔父さんがいなくなっちゃえって思うんだ。でも、そんな事言っちゃいけないよってお父さんに言われちゃった…」

 確かにそれは危険な考えかもしれない。嫌悪を抱く相手に対して、その人物の消失を望む。子供がして欲しい思いではない。しかし、それもケースバイケース。度を過ぎていれば、そこに至っても私は良いと思っている。例えば、今回みたいな場合である。健太けんた君が望んでいるのなら、あの叔父ともう二度と会わないよう話を運ぶのもいいのかもしれない。虐待の事実があるのなら、それも難しい事ではないだろう。しかし、そうすると問題も出てくる。

「…それでも、叔父さんはご飯を作ってくれたり、お父さんが帰ってくるまで一緒に居てくれるんだよね?」

 田淵たぶちさんが言っていた、健太けんた君の世話を誰がするのかという問題だ。しかし、健太けんた君の口から発した言葉は思いがけないものだった。

 どういう事だ?じゃあ、健太けんた君はお父さんが出張している間どうやって生活しているのだ?

「ご飯はカップラーメンが置いてあるんだ。それを僕が作ってるの、偉いでしょ!叔父さんは毎日、ぱちんこって所に行かなきゃいけないんだって。だから、僕一人で留守番してるんだ。たまにお家にいる時もあるけど、その時はいつも僕を叩いて来る…ずっと、ぱちんこって所にいればいいのに…」

 頭が痛くなってくる。あの叔父は、健太けんた君の父親に頼まれていた事もしていなかった。だが、そうなると疑問が出てくる。どうして、健太けんた君の父親は叔父を警察に突き出すのを嫌がったのか?叔父が健太けんた君の世話をしていないなら、止める理由はないはずだ。もしかして、この事実を知らないのか?

「…健太けんた君、その事お父さんに言った」

「ううん。だって、この事をお父さんに言ったら、お父さん悲しい顔しちゃうんでしょ。叔父さんが言ってたよ。僕、お父さんの悲しい顔見たくないよ!」

 どす黒い感情が心に広がる。確かに、この事実を知れば、健太けんた君の父親は悲しむかもしれない。嘘は言っていない。だが、今起こっている事が続くのであれば、より悲しむ結果になるだろう。それは叔父も分かっているはずだ。だが、この言葉を言うと健太けんた君が自分のしている事を黙っている事も分かっていた。健太けんた君の父親への想いを利用したのだ。許される事ではなかった。

「…健太けんた君。この事は言っていい事なの。言ってすぐはお父さんは悲しい顔をするかもしれないわ。でも、最終的にお父さんが喜んでくれる結果になるはずよ。だから、お父さんにこの事を言ってあげて」

「本当?」

「…本当。おねえちゃんを信じて欲しい」

「分かった!おねえちゃんは僕を優しく手当してくれた!だから、僕おねえちゃんの事信じるよ!」

 良かった。まだ、健太けんた君を世話をしてくれる人間がいない問題が残っているが、少なくとも叔父の方はどうにか出来そうだ。今の話を健太けんた君の父親が聞いたのなら、きっとあの叔父から健太けんた君を引き離してくれる。解決には至っていないが、希望は見えてきた。

 話をしている内に、全ての青あざに薬を塗り終える事が出来た。私に出来る手当はここまでである。私は、薬の付いた指をハンカチで拭き、その手を健太けんた君の頭に置いた。よしよしと髪を撫でる。

「…痛みは少しずつ引いていくと思うわ。絆創膏は五日後にはがしてね。それ以上貼ってたら絆創膏の中にばい菌が入っちゃうから」

「分かった!おねえちゃん、手当してくれてありがとう!」

 最初に見た時は悲しそうな顔をしていたのに、今は笑顔を向けてくれる。この笑顔が見れただけで、手当をした甲斐がある。

「ねえ、おねえちゃん?」

「…なあに?」

「どうしておねえちゃんはこんなに優しくしてくれるの?」

 健太けんた君と私は会ったばかりである。これは、当然の疑問かもしれない。しかし、理由なんてない。泣いている子供がいた。それを助けたいと思う気持ちに理由が必要なのだろうか?しかし、それでは健太けんた君はきっと納得してくれない。なので、健太けんた君の事情を聞いた時、ある事が思い浮かんだ。それを理由として説明しようと思う。

「…私ね、田淵のおばあちゃんに健太けんた君のお母さんが居ないって事を聞いたの。その事を聞いた時、私と健太けんた君は似てると思ったの」

「似てる?」

「…私にはね、お父さんがいないの」


 緋咲ひざき 幽華ゆうかには父親がいない。ならば、普通の人は片親だと想像するだろう。しかし、私の母親は私を育てられる状態ではなかった。頼る親戚もいない。結果、お父さんと共に亡くなったおばあちゃんと仲が良かった柳原やなぎはら 國江くにえさんの所にお世話になる事になった。

「…私のお父さんはね、私が12歳の時に死んじゃったの。その時にお母さんは。だから私はその後、新しいお母さんに育てられたの」

「その人、叔父さんみたいな人?」

「…ううん、全然違うよ。むしろ優し過ぎるくらい。血の繋がっていない私を、本当の娘みたいに受け入れてくれたの。そこは健太けんた君と全然違ったね」

 國江くにえさんとは、私を引き取る前から面識があった。國江くにえさんはよくおばあちゃんを訪ねて家へ来た。その時に、良く遊んで貰っていた。私は國江くにえさんを姉のように慕っていた。だが、まさか母親になってくれるとは思わなかった。

「…でも、新しいお母さんは忙しい人で良く一人で留守番してた。まあ、その時は私はもう中学生だったから、やっぱり健太けんた君と全然違ったね。それでも、やっぱり一人は嫌だった…」

 その後、私が高校生の時に國江くにえさんは結婚をする。それ以降は一人で居る事は余りなくなった。しかし、一人で留守番していた時は、寂しかったのもまた事実である。

「…お父さんがいなくなった時、おばあちゃんもいなくなったの。凄く怖い事があった。だから、その時は一人が凄く怖かった」

「何があったの?」

「…

 そう、分からないのだ。あの時私はそれを見ていたはずなのに。

「…凄く、とても凄く怖い事があった事は覚えているの。でも、全然思い出せない。怖くても、思い出さなきゃいけない出来事。だけど、何も頭に浮かばない」

 お父さんとおばあちゃんが亡くなった時、常識では考えられない事が起こった。そのはずだ。警察も死因を調べた。しかし、結局亡くなった原因を突き止める事が出来なかった。

 医者からは何らかのショックな事があり、私はその時の記憶を忘れてしまったと診断された。。だって、これは。でも、記憶がない。忘れてはならない事の記憶がないのだ。だから私はそれを探す事にした。

「…だからね、おねえちゃんはその記憶を探しているの。を体験出来れば思い出すかもしれない。そう思って、旅をしているの」

「おねえちゃん、旅人さんなの?」

「…そんなかっこいい者じゃないけどね。結局、何回か体験しても記憶は戻らなかったの。もしかしたらそれきっかけでは思い出せない事なのかもしれない。だけど、その体験の中で私に出来る事があったの。それが、色んな人に感謝される事に繋がった。それにやりがいを感じてしまったの。だからね、私は旅を続けてる。その体験を求める事そのものが趣味になっちゃったの。だから私は旅人じゃない、趣味で全国を回る放浪者って感じかな」

 そう考えると、変質者扱いされるのも仕方がない事なのかもしれない。

「なんか、かっこいい!」

 かっこいいのだろうか?しかし、その純粋な目で見つめてくる尊敬の念を、否定するのも心が痛む。ならば、そういう事にした方が良いのだろう。

「あ、もうそろそろ帰らないといけない時間だ」

 辺りを見る。もう日は夕焼けとなっていた。確かに子供は帰らなければいけない時間である。しかし、このまま帰してしまって良いのだろうか?

「…帰ったら、叔父さんが居るんじゃないの?」

「ううん、居ないよ。叔父さんのみってのに行って遅くまで帰んないんだ。帰ってきてもそのままお昼まで寝ちゃうから、叩かれないよ」

 それはそれで問題ではあるが、一応暴力に見舞われる事はないようだ。

「…お父さんはいつ帰ってくるの?」

「明日のお昼!すごく楽しみ!」

 ならば、明日には大体の事が解決しているだろう。少しの間、私の元で保護する事も考えていたが、その必要はないようだ。

「おねえちゃん、ばいばい」

 そう言って健太けんた君は家へと帰っていく。

「…ばいばい」

 私は手を振り、その背中を見送った。さあ、田淵たぶちさんの所へ戻ろう。


 私は、田淵たぶちさんを送る間、健太けんた君が話してくれたことを田淵たぶちさんに伝えた。

「そんな事になってたのかい…もっとちゃんと話を聞いておけばよかったよ…」

 足の痛みで陰鬱そうな田淵たぶちさんの表情が、より一層暗くなる。

「…田淵たぶちさんが責任を感じる事ではないですよ。結局の所、全ての原因はあの叔父にあるんですから」

 だが、それもここまでだ。明日になれば、あの叔父が隠していた全てが白日の下に晒される。

「それにしてもあの子を首切り様の事件の犯人って疑っていたとはねえ……」

「…田淵たぶちさんも健太けんた君を信じているんですね」

「それはもちろん。でもね、明確に違うって言える理由もあるんだよ」

 どのような理由なんだろうか?首切り様の事件は、先も語った通り、子供が犯人だと思う流れは自然だと感じる。それでも、はっきりと違うと言い切れる理由が健太けんた君にはあるのだ。

「首切り様の胴は、村で見つけられたんだよ。つまりね、あの大きな石像を、崖上まで運んだって事だよ。子供にそんな事出来はしないよ」

「…あ」

 首切り様の胴は、私の腰くらいの大きさだった。細身ではあったけれど、成人女性の腰まである石像は思っている以上に重いだろう。子供に持てるとは思えない。というより、崖上に持っていくのは成人男性でも、なかなか骨が折れるはずだ。ある程度の筋力がなければ難しいだろう。これだけで、犯人が絞れそうである。

 「それにね、盗まれたお供え物はお酒なんだよ。子供がなんで盗る必要があるんだい?」

 健太けんた君どころか、子供が犯人から外れてしまった。ならば、誰がこのような子供っぽい事をしでかしたのか?思慮が足りず、石像を運べそうな人。そのような人物に一人心当たりがある。そして、

「あ、この家だよ。ここまで本当にありがとうね」

「…いえ、私も田淵たぶちさんに色々教えて頂き助かりました。その恩返しが出来て良かったです」

 私は、田淵たぶちさん玄関先まで連れていく。田淵たぶちさんは玄関先の石段に座り、こちらの方を向いた。

「ねえ、あんた。あの子をこのまま一人にしてしまって良いと思うかい」

「…それは」

 そうだ、その問題が残っていた。しかし、私にはどうしたらいいのか考えつかなかった。しかし、田淵たぶちさんはその解決方法を提示してくれた。

「私、あの子の父親と話してみるよ。村の人であの子を世話できないかってね。向こうから自分の子供を世話してくれなんて、厚かましい事言える訳なかったんだよ。私達から提案しないといけなかったのさ。気づくのが遅かったねえ」

「…いえ、今からでも遅くはないと思います」

 そうなれば一番良いだろう。そして、田淵たぶちさんなら、きっと 健太けんた君の父親を説得してくれる。もう、健太けんた君は大丈夫なのかもしれない。

「…それでは、そろそろ失礼します」

 そう言って私は宿へと歩き始める。そろそろ日が完全に落ちてしまう。

「色々助かったよ!ありがとうねー」

 そう言って田淵たぶちさんは私に手を振り、見送ってくれた。健太けんた君の事は、後はこの人に任せて大丈夫だろう。私は私で、自分の目的を果たすことにしよう。


 宿に帰る道の中、私は思考を巡らせる。首切り様に状況を聞いた時、私は求める事がこの村で起こると感じた。しかし、それを体験するにはある人物を探さねばならない。その人物はもう、当たりを付けている。

「おい、そこのあんた!ちょっと面貸せや!」

 そんな事を思っていたら、ちょうどその人物に声を掛けられた。健太けんた君の叔父である。探す手間が省けた。

「お前さん、あのガキとなんか話してたな!おかしな事考えてねえだろうな!」

 健太けんた君の叔父は私に向かって怒鳴り散らしてくる。しかし、私にはその声が届かない。私は最初に見たとき、遠目で見えなかった健太けんた君の叔父の顔を見る。良かった、ちゃんと

「警察に通報でもしてみろ!ただじゃすまさねえからな!」

「…大丈夫です、私はこれ以上関わる事ありませんから」

 何故なら、その必要がない。

「本当だろうな⁉」

「…ええ。元々私はこの村の者ではありません。貴方とも、

 そう、もう二度と会う事はない。この男には生えている。両目に1本ずつ。口内と舌先に1本づつ。頬に1本、鼻先に1本、こめかみに1本、額に1本。合計8本、。この数は、もう

「それならいいんだがな!たく、偽善者が!気分が悪い」

 そう言って、健太けんた君の叔父は去って行った。

 田淵たぶちさんは私の事を優しいと言ってくれた。しかし、やはりそんな事はない。あの叔父にこれから起こる事を考えると、私は嬉しくてたまらなかった。


 私は脱衣所で服を脱ぎ、お風呂場への扉を開いた。民宿のお風呂は狭いイメージがあったのだが、この宿のお風呂は少し広めである。これはのびのびと出来そうだ。すぐに身体を洗い、湯船へと入った。今日は歩いてばかりだったので、お風呂の温かさが骨身に沁みる。両指を絡め、手のひらを裏返し、腕を真上に伸ばす。

「…ん~!」

 全身の凝りがほぐれるような心地になる。ああ、幸せ。

 それにしても、晩御飯は美味しかった。今さっきの事なので鮮明に思い出すことが出来る。つやつやとした白米。ネギと麩が入った暖かいお味噌汁。ナスとキュウリのお漬物。さやいんげんの胡麻和え。ウドとミョウガと大葉とオクラとかぼちゃとエビの天ぷら。身がふっくらとしていたヤマメの塩焼き。今思い出しても頬がとろけ落ちそうだ。

 いや、そんな事を考えている場合ではなかった。私は彼岸花の生えた者とい出会ったのだ。あの彼岸花は私にしか見えないものだ。いや、正確には私以外にもいたが、今はもういない。あの彼岸花を見た夜、私はとある夢を見る。8本の彼岸花、これは相当の深みを見る事になる。だから、覚悟を決めなくてはならない。

 リラックスするのもこれで終わりだ。私はお風呂から上がる事にした。


 今日泊まる部屋は、落ち着いた雰囲気の広めの和室だった。そこに布団が敷いてある。まだ、22時にもなっていないが、もう眠気が限界だった。疲れていたのもあるが、彼岸花の生えた者を見た夜は、早めに眠気が訪れる。私はその欲求に逆らわず、床に就く事にした。布団の中に入ると、すぐに意識が遠のいてきた。


 私の見る彼岸花は、予知であり、警告であり、橋渡しであった。あれは彼岸と此岸が繋がる凶兆。あれは向こう側への門口。そして、あれは私の望みを叶えるもの。

―今から私は怖いお化けの夢を見る。


 そして、私の意識は彼岸花が咲いた者へと移りゆく。


 飲み過ぎた。頭が痛い。俺は倒れる様に布団へと寝転んだ。

 イライラする。それもこれもあの女の所為だ。見ず知らずのガキを助けるなんてどうかしてる。余計な事を。そのせいで、俺の立場が危うく成りかけた。あの女がガキを警察や病院に連れて行っていたら、全ての事がバレる所だった。どうやらあの女にその気はないようだ。焦らせやがる。ちゃんと釘も刺しておいたし、もう大丈夫だろ。

 あの場所は見通しがいい。あのままガキを放置しとくと、面倒な事になるかもしれない。そう思って戻った甲斐があった。

 それにしてもあの偽善、イライラする。あんな価値のないガキを助けても意味がないだろ。せいぜいあの女が満足するだけだ。その満足感の為に、俺が危うくなった。あのガキよりよっぽど価値のある俺が危うくなったのだ。愚かにも程がある。あの女は良い事をしたつもりだろう。だが、全くの真逆の事をしていたのだ。これが愚かと言わず何と言う。

 イライラする。このイライラの所為で何時もより酒を飲み過ぎた。もう、ほとんど金がない。まあ、いい。どうせ兄貴からふんだくれる。あのガキを世話してんだ。俺にはその権利がある。なんで兄貴は出し渋るのんだ?ガキの世話に必要って言って、やっと金をくれる。訳が分からない。もう少し、常識ってものを考えて欲しい。兄貴も愚か者だ。

ああ、そろそろ眠くなってきた。それじゃあ、寝るとするか。そう、思ったのだが、外から何か音が聞こえてくる。

 ズズッ…ズズッ…

 またか。何か重い物を引きずる音。誰のイタズラだ。首切り様の首が無くなってから毎日だ。恐怖心を煽って、犯人をあぶり出す為か?迷惑な話だ。眠れやしない。あのガキが犯人と名乗りでてれば、俺の安眠が邪魔される事はなかったのに。

 ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…

 今日は何時もよりしつこい。文句を言ってやろうか?しかし、毎日毎日夜中に重い物を引きずっている奴だ。まともではない。このままやり過ごした方が無難じゃないか?

 ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…

 うるさい。一体どんな奴がやっているのか?首切り様なんて年寄りしか大事にしていないぞ。ここまでするなんておかしい。そもそも、年寄りがあの石像を持てるとは思わない。本当に誰がやっているのか?

 首切り様本人だったりしてな…

 俺は、背筋が寒くなるのを感じた。いや、まさか。そんな事ある訳がない。馬鹿な事を考えたな。どうやら酒を飲み過ぎたようだ。早く寝てしまわないと。

 ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…

 無視だ。こんな音、無視して寝てしまおう。

 ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…

 おかしい。この音どんどん。いや、なんで俺の所に近づいているんだ?犯人はあのガキだって言っているだろ。なのになんで俺の元に?

 ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…

 音はもうすぐ近くまで来ている。もう、壁の向こう側だ。どっか行け!俺は関係ない!頼むからどっか行ってくれ!

 ズドンッ!

 大きな音がした。今までとは全く違う音だ。その音が

 息が苦しい。痛いくらいに心臓が鳴っている。気配を感じる。隣に。怖い。正直、見たくない。見たくはないが、そのまま隣に得体のしれない物がある状況を放っておく方が、よほど怖い。俺は意を決して、横を向いた。

 そこには

 なんでだよ!なんでここにこんな物があるんだ!俺はちゃんと戸締りしたぞ!ここにこれが入ってこれるはずがない!どうして首切り様の胴がここにあるんだ!

 ズズズッ…

 動いた⁉

 首切り様の胴は、まるで俺を覗き込む様に、身体を斜めに傾けた。どうなっていやがる⁉どうして支えるものがないのに、その状態で立っていられるんだ⁉

 本来、首切り様の顔が有る位置が目の前にある。駄目だ、目を逸らせない。今、首切り様に目はないのに、逸らせないのだ。

 ク ビ ヲ カ エ セ

 不思議な光景だった。首切り様から声は出ていない。当然だ。今、首切り様には口がないのだから。だが、分かる。首切り様の言葉が分かる。テレパシーとかではない。文字が浮き出ている。本来、首がある位置に、文字が浮き出ている。

 ク ビ ヲ カ エ セ

 再び文字が浮き出てきた。何を言っているんだ⁉俺に言っても仕方がない事じゃないか!

「俺じゃない!あのガキがやったんだ!俺じゃなくてガキの所へ行けよ!」

 ク ビ ヲ カ エ セ !

「やっていないと言っているだろ!しつこいぞ!」

 ク ビ ヲ カ エ セ !

「だから俺じゃないって!あれは夢なんだ!酔っぱらって見た夢なんだよ!」

 思い出す。酒が足らなくて、お供え物を貰おうとしたら首切り様を倒してしまった事を。いいじゃないか、お供え物を貰ったって!神様にあげた物だろ⁉いない奴にあげた物なんて俺が貰ってもいいじゃないか⁉いや、首切り様はいたのか…いや、そうじゃない。首切り様の首を折ったのも、ガキのせいにする為石像を運んだのも、夢なんだ!あの時酷く酔っぱらっていた!だから全部夢なんだ!

 ああ、そうか…これも酔っぱらって見た夢なのか…なら、安心だ。

 そう思って、そのまま寝てしまおうと思った。だが、出来なかった。首を絞められる感覚が襲ってきた。痛い!苦しい!これは、夢なんかじゃない!

 ク ビ ヲ カ エ セ ‼

「だから俺じゃねえって言ってんだろおおおおお!」

 精一杯叫び、首切り様の胴を掴んだ。首を絞められる感覚が無くなった。なんだ、こんな石像外に投げ出せば良かったのだ。どうだ、これでもまだ首を返せと要求するのか?だが、首切り様は、今までと全く違う反応を示した。

 ク ビ ヲ カ エ ク ビ ヲ ク ビ ヲ エ セ ク ビ ク ビ ク ビ ク ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ ビ

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ‼」

 首切り様の断面から、文字が溢れてくる。石像自体も、小刻みに震えている。なんだ⁉おかしくなったのか⁉

 ゴポッ…ゴポゴポッ…

 なんだ?何の音だ?文字が溢れている断面を見た。そこから文字だけではなく、赤い液体が溢れてきた。

「ひぃぃ!ひぃぃ!ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ‼」

 赤い、紅い、真っ赤な液体だった。それはまるで血の様だった。俺はそれに当たらないよう後ろに下がる。液体はドンドン溢れ、床に広がっていく。この液体はやばい!触れてはいけない!本能がそう告げている!逃げなければ!この石像から逃げなければ!

 そう思い、俺は外へと駆けて行った。


 あれは一体なんなんだ!いや、分かっている。首切り様だ。首切り様の伝説は本当だったのだ。逃げなければ。捕まったら終わりだ。このままだと、俺は…!

 なんでこんな事になってしまったのか?分かり切っている。何もかも、あのガキが悪い。俺が仕事を見つけられないのも、パチンコで勝てないのもあのガキのせいだ。あんな価値のないガキの世話をするストレスのせいだ。じゃないとおかしいだろ、能力の有る俺がこんな目に合うなんて。だから余計にストレスが溜まる。酒を飲まずにはいられなくなる。止まらなくなる。だから、お供え物にも手を出してしまったんだ。そもそも、あのガキがさっさと認めていたら良かったのに。そうすれば、ガキがやった事になった。今、追いかけられたのはガキになっていたはずだ!やっぱり、あのガキが悪いんだ!

 ガキだけじゃない。村の奴らは節穴なのか?首切り様の首なら、胴のすぐ近くにあったじゃねーか!あいつらが首を見つけていればこんな事にはならなかった!俺が命の危機にさらされる事なんてなかったのに!

 理不尽だ!俺はこんな目に合う様な事はしていない!全部、俺以外の奴らが悪いんだ!

 ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…

「あああ、あああああああああ!」

 やばい。追いかけてくる。さっきからこの音から全然遠ざかっていない。

 ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…

 やめろ!来るな!俺の所に来るんじゃねえ!

 ズズッ…ズズッ…ズズッ…ズズッ…

 逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!

 走った。必死になって走り続けた。そしてようやく音が聞こえなくなった。

 良かった、撒いた様だ。俺は安堵し、その場に座り込んだ。

 ベチャッ…

 何だ?地面を見る。足元には、あの赤い液体が広がっていた。

「ああああああああああああああああああああああああああ‼」

 やばい!触ってしまった!どうなるか分からない!いや、それもやばいが、この液体があるって事は首切り様が近くにいるって事だ!

 ゴポッ…ゴポポッ…

 足元の液体から気泡が浮いて来る。その場所を見る。液体が徐々に何かの形を成していく。その姿は首切り様の胴そのものだった。

 グ ビ ヲ ガ エ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ゼ ‼

「うあああああああああああああああああああああああああ‼」

 駆けだすしかなかった。しかし、もう辺りはもう全てあの赤い液体で覆われていた。しかも、その液体のあらゆる所から気泡が浮いている。俺は一体どこへ逃げればいいんだ⁉いや、そもそも…

 世界はあの液体しかなかった。辺りも世闇ではなく、赤く染まっている。ここはもう、俺の知っている世界ではない。走り続けていた足が止まる。ああ、俺はもう駄目なんだ。そう思ってしまった。そしてその場にへたり込んだ。

 何か違和感を感じる。そう、思って自分の身体を見た。俺の身体からも赤い液体が溢れていた。

「ぐがっ、がががががががががが」

 感覚がおかしい。まるで別のモノへと作り替えられているみたいだ。目が見えなくなる。目からも赤い液体が溢れて来たのだ。苦しい!苦しい‼俺はその場でのたうち回る。ぐるぐるぐるぐるのたうち回る。そして突然、重力の感覚がなくなった。落ちている。それだけは分かる。このままだと俺は地面にぶつかる。そうなれば、俺はもう終わりだ。いや、もういい。こんなにも苦しいのなら、こんなにも怖いのなら、もう楽になろう。落下したのち、俺の首は何か尖がった物にぶつかった。こうして、俺の首と胴は分かたれる。それが俺の最後の記憶だった。


 彼岸花が咲いていた男は死んだ。だが、私の意識はそのままだった。男が死んだ後、首切り様は男の首を自分の上に乗せた。

 チ ガ ウ コ レ ジ ャ ナ イ

 コ ン ナ ソ マ ツ ナ ク ビ ハ ホ シ ク ナ イ

 そう文字を紡いで、首切り様は男の首を捨てた。

 ク ビ ハ ヒ ツ ヒ ツ ヨ ウ ダ

 ダ ガ カ ワ リ ガ ナ イ

 ナ ラ バ

 ワ レ ヲ オ ト シ メ タ ム ラ ビ ト カ ラ ウ バ イ ト ロ ウ ‼

 この文字が浮いた映像を最後に、私は目を覚ました。


 このままではいけない!首切り様は優しい青年の心になど戻っていなかった。あれは、当時の村の人が勝手にそう思っただけだった。事実は違う。自分の首が戻ってきて、ひとまず満足しただけなのだ。恨みは今だ消えていない。このままでは、無関係な今の村人が犠牲になってしまう。それを防ぐ方法は一つしかない。私は起きて、外出の準備をする。ある人物を探さなくてはならない。


 朝早く宿を出たのだが、目的の人物を見つけたのはお昼前であった。

「あんた!大変だよ!」

 田淵たぶちさんが私に声を掛けてくれた。

で、あの叔父の首なし死体が見つかったんだって!」

「…本当ですか⁉」

 私はわざとらしいほど驚いてみせた。本当はもう、知っている。昨日、夢で見てたからだ。それにしても、あの叔父が落ちた場所は首切り様の祭壇だった様だ。走っている内に、あんなところまで来ていたのか。いや、誘われたのだ。首切り様に。

「今、警察が来ているよ。事故だってさ。でも、あれはそういうのじゃない。伝説の通りだよ…このままだと私も…」

 それを防ぐ為に、私は田淵たぶちさんを探していたのだ。田淵たぶちさんならきっと知っている、私が知りたい情報を。私はその知りたい事を田淵たぶちさんに聞いてみた。

「首切り様の胴が見つかった場所ってどこか分かりますか?」


 あれからひと月と少しの時間が経った。あの後すぐに私は東京へ戻った。しかし、今再び村を訪れている。

 首切り様の祭壇へ続く道は、綺麗に舗装されていた。岩や石はもう全く見当たらない。柵もしっかりした物へと変わっており、落下防止用のネットも取り付けてある。当然だ。人死にが出たのだから。

 階段を下りると、そこには首切り様を拝んでいる人が居た。田淵たぶちさんだ。

「おや、あんたかい。久しぶりだねえ」

「…こんにちは、お久しぶりです。あれからどうですか?」

 軽く会釈をして、話を聞く体制に移る。

「首なし死体なんて嫌な事件はあったけど、あれから良い事ばかり起きてるよ。どれもこれも、きっとあんたが首切り様の頭を見つけてくれたからかねえ。あれ、良く見つけたね」

「…バラバラに隠すなんて面倒な事しないと思ったんです。だから、胴のあった場所の周りを探してみたんです」

 本当は違う。あの夢を見た時、私はあの叔父と意識が繋がっていた。いや、繋がっていたというより、一方的に覗いていたと言うのが正しいか。あの叔父は、胴の近くに頭を隠したと頭に思い浮かべていた。だから、その通りに探しただけである。

「犯人は、やっぱりあいつなのかねえ」

「…おそらく」

 いや、間違いない。夢の中ではそう自白していた。しかし、最後までそれを認めようとしなかった。それどころか、周りのせいにし続けていた。自分の過失を認め、素直に謝り、胴と頭を隠したりしなければ、こんな事にはならなかっただろうに。

「やっぱり、そうだったんだねえ。悪い事はするもんじゃないね…」

「…あの事故の前に気づいていたんですか?」

「なんとなくね。でも、あんなんでも村の者だよ。信じたい気持ちもあったんだよ…」

 あれから聞いた話だが、田淵たぶちさんは多くの人に感謝されている様だ。その面倒見のいい性格か、たくさんの村人を助けているらしい。その行いと、あの叔父でさえ信じたい気持ちがあった田淵たぶちさんを、首切り様の話の青年と重ねてしまう。もしかしたら、首切り様も生前こんな人だったのかもしれない。首切り様は村人に見捨てられてしまった。しかし、田淵たぶちさんはそうはならないだろう。荒くれはもう、退治されてしまったのだから。

「そんな暗い話題を話してもしょうがないよ。ほら、修理された首切り様の石像だよ。最近の技術は凄いねえ。折れた跡なんて見えやしない」

 そう言われたので祭壇を覗く。そこにはすっかり綺麗になった首切り様の石像があった。これを写真に撮って帰ったら、國江くにえさんは喜ぶだろう。しかし、あの恐ろしさを知った後だと、余り首切り様を怒らせるような事はしたくない。写真くらいは許して貰えるかもしれないが、そんな冒険はしたくはない。

「引きずる音も、もうしなくなったらしいよ。首切り様のお怒りも沈んだみたいだねえ」

 やはり、首があれば満足な様だ。それで大人しくなるのは、やはり元が優しい青年だからなのだろうか?

「それにね、私の足も治ったんだよ。首切り様のご利益が効いたんだねえ」

 あの首切り様がそんな事をしてくれるのだろうか?私が夢で見た首切り様は、決してそんな事をする様な神様ではなかった。しかし、私が見たのはあくまで一面である。信心深く、自分に祈りを捧げる人には案外優しいのかもしれない。

「…あの、健太けんた君はどうなりましたか?」

「ああ、あの子ならすっかり明るくなったよ。今、私や村の人で世話をしてるんだけど、凄く楽しくやっているよ。それに、あの子の父親も新しい仕事先が見つかったみたいでねえ。出張もなくなるみたいだよ。かなり必死に探していてたねえ。そりゃ、事故とはいえ実の弟が亡くなった場所に、息子を一人で置いて置きたくはないだろうからね」

 良かった。これで健太けんた君はもう大丈夫だろう。これで、この村に残した悔いは無くなった。

「良かったら、会ってあげなよ。あの子も会いたがっていたよ」

「…ええ、そうします。それでは、そろそろ失礼します」

「おや、もう行くのかい。縁があったらまた会おうね」

 こうして私は田淵たぶちさんと別れた。私はもうこの村に立ち寄る用事はない。もしかしたら、これが今生の別れかもしれない。でも、それでは寂しい。田淵たぶちさんも言っている。縁があったらまた会うかもしれない。だから、私が手を振りながら口に出す言葉は、別れの言葉ではない。

「…また。どこかで」


 健太けんた君は村の人達と遊んでいた。私は村の人に会釈をし、健太けんた君の方へ向かった。

「…お久しぶり、健太けんた君」

「あ、風来坊のおねえちゃんだ!」

 風来坊。どこでそんな言葉を覚えたのだろうか?しかし、あながち間違っていないのが困る。

「…あれから、どう?」

「毎日がすっごく楽しいよ!村の人も優しいし、叔父さんはもういないし!」

「…そう、良かったね」

 余りにも嬉しそうに話すので、こちらもつい笑顔になってしまう。そんな嬉しそうな健太けんた君の顔が少し曇った。どうしたのだろうか?

「僕、おねえちゃんに聞きたい事があるんだ」

「…なあに?」

「僕ね、叔父さんがいなくなって、凄く嬉しかったんだ。でも、村のみんなはそんな事を言っちゃ駄目って言うんだ。その理由も教えてくれないんだ…おねえちゃんは、分かるの?」

 健太けんた君の気持ちは分かる。私も正直清々した。そもそも私はあの叔父を見捨てた人間だ。これについてどうこう言う資格はないのだろう。だが、健太けんた君には、そんな人間にはなって欲しくなかった。これは、ただの私のわがまま。私なりに理由を説明して納得してもらおう。

「…健太けんた君、どんな悪い事をした人でも、死んだ後は悼み、尊ばなければならないの。これはね、何もその人の為だけにする行為じゃないのよ。その行為をする人は、自分が死んだ後も悼み、尊んで貰える。した行為って全て自分に返ってくるの、それが良い事でも悪い事でもね」

 だから、私はいつか悪い事が返ってくる。私が記憶を取り戻した時、一体どんな末路が待っているのだろうか?

「難しい…」

「…そうだね、ちょっと難しかったかな?他にもこんな理由があるの。悼み、尊ばれない死者は、この世に未練を残し、お化けとして出てきちゃう。健太けんた君はお化けに会いたい?」

「会いたくない!だって怖いもん!」

「…ふふふ、そうね。お化けって怖いもんね。本当に…そう、本当に怖い…なら、ちゃんと叔父さんも悼み、尊ばれないとね」

「どうすればいいの?」

「…叔父さんの悪口を言わないで、お墓参りの時に拝んであげる。基本的にはそれでいいの。健太けんた君出来る?」

「出来る!」

 あの叔父は首切り様があの世界に置いていった。だから、お化けとして出る事は本当はない。でも、これで健太けんた君は真っ当な道へ進んでくれるかもしれない。まあ、そう願っておこう。

「あ、お父さんだ!」

 健太けんた君の向いた方を見ると、優しそうな人が立っていた。あれが、健太けんた君のお父さんの様だ。

「僕、行かないと!これからお父さんにファミレスに連れてって貰えるんだ!おねえちゃん、またね!」

 そう言って健太けんた君は手を振りながら父親の元へ駆けて行った。

「…またね」

 私も手を振り返す。

 お父さんか…自分の父親の事を思い出し、少し寂しい気持ちが胸に広がった。


「…と言うのが今回の顛末です」

 私は帰りのバスを待っている最中、國江くにえさんに今回の事を報告していた。

「ふむ、今回の怪異譚は幽華ゆうかが遭遇した物と同種だと思うのだが、何か思い出した事はあるか?」

「…確かに似ているかもしれません。ですが、何も思い出す事が出来ませんでした」

「…そうか」

 古くから居た神と言う点では同じかもしれない。それでも、今回の夢では記憶に何の反応もなかった。しかし、

「…ただ、泣いている子供を見た時、何か記憶が揺さぶられた気がします。何がきっかけになるか分からないですね」

 あの時、少しだけ記憶が戻りかけた。泣いている子供と言う新たなキーワードを手に入れる事が出来た。

「収穫があったなら、まあ良かったよ。でも、記憶を戻すにはもっと体験が必要なんだろ。次の幽霊の情報でも聞くか?」

 國江くにえさんが発した言葉の中に、見逃せない単語があった。

「…違います。幽霊ではありません」

「ああ、そうだったな。すまんすまん」

「…私の見る夢は、幽霊だけに収まりません。妖怪だったり神様だったり化け物だったりします。それらを全てひっくるめて…」

って言うんだろ。お前もこだわるなあ」

 まあ、それにはちょっとした理由がある。ちょっとした事ではあるが大事なことだ。だから私はあのような輩をと言う。

「まあ、いいや。情報は後で送っておくよ。それより、たまには家に顔出せよ。お母さん、ちょっと寂しい思いしてんだぞ」

「…そういう國江くにえさんは家に帰っているんですか?」

「ん、ああ、まあ。一週間に一日くらいは…」

「…信行のぶゆきさんと折江おりえちゃんが可哀想ですよ」

「大丈夫、私達の家族愛はそんなものでは揺るがないさ」

「…家庭崩壊しても知りませんよ」

 その後他愛もない会話をして、電話を切った。私にはもう、父親がいない。しかし、私の事を想ってくれる新しい家族がいる。だから、これからも前を見て進んで行ける。メールの着信がなる。國江くにえさんの情報が届いた様だ。

 さあ、新たな夢を見に行こう。

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緋咲 幽華は怖いお化けの夢を見る 黒乃 猫介 @kurono-nekosuke

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