第3話
その音と言葉は、手にした携帯電話から鳴っていた。
「映画館だぁ?」
信也さんが苦々しそうに言って電源を切る。すると、今度はどこからか優雅なBGMが流れ、広いリビングへの道をぼんやり照らし出していた。
「ど、どうすれば……」
信也さんの制服を掴み、引っ張る。
「どうもこうもねぇよ」
信也さんは言った。
「見てくぞ」
その言葉に一瞬、頭の中が真っ白になった。ガチガチと歯の根が合わなかったけど、どうにか言ってやった。
「バカじゃないの、脳みそ動いてますか?」
「お前、緊張すると内心がだだ漏れになるな。いいか。こういうのは大抵、相手を満足させてやりゃ収まるんだよ」
「だったら一人で見てください」
「そのつもりだ」
平然と言ってのけた。
「おい、そこの目玉。映画は俺が見てやるから、このガキは返せ。玄関開けろ」
「信也さん、なんて緊張感の無い……」
「なんだお前、もしかして怖いのか?」
「当たり前でしょう。この非常識空間が恐ろしくない女子はいません」
「そうか。よかったな」
「信也さん、今楽しんでますね?」
「あぁ。普段はクソ生意気な宮田がブルってんのが楽しくてたまらん」
「外道ですか」
――当、映画館デハ。
「ひぅ!」
また声が聞こえてきて、私はとっさに信也さんの広い背中に隠れる。いざとなれば盾ぐらいにはなるはずだ。
――現在、キャンペーンヲ行ッテオリマス。
正面に拡げられた暗幕に張り付いた目玉が、文字通り血走った眼で、ゆっくりと、天井を見上げた。
「キャンペーンってのは?」
信也さんが平然と聞く。
――是非、恋人同士デノ鑑賞ヲ、
「無視かよ。あと宮田が恋人かよ」
「私だって願い下げです」
「意見があって何よりだ」
ふん、と吐き捨て、信也さんは、私の腕を軽く引いた。
「大丈夫だ」
静かなその一言と共に。一歩、前に進む。
少しだけ、ずるい人だなって思う。
非現実が、私たちを取り囲んでいた。
首を吊った痕のある天井の下で、ゆったりとしたソファーに私たちは座って、スクリーンに映し出された映像を見ている。そんな私たちを、カーテンに張り付けられた目玉が見ている。異常だと思う。そして肝心の映画はといえば、正直とても安っぽかった。
「ふあぁ……」
「欠伸とは余裕だな」
「なんだか、神経が麻痺してきたので。急に退屈になってきました」
ストーリーはありきたりで、役者さんの演技もどこかわざとらしい。主演らしい女優さんに至っては顔だけだと思った。とにかくプロの人たちが作りあげたものではなく、素人が集まって作ったことが一目でわかる。
ただ、一人だけ。
綺羅星のように輝く女性がいた。友人役を演じる女優さん。けっして美人じゃない、どこにでもいそうな人だったけど、一つ一つの所作が流れるように自然で、上品だった。台詞を声に乗せた時の発音も耳に残った。
「――友人の奴が、いいな」
信也さんが囁くように、ぽつりと言った。私はちょっと驚いて、
「あぁいう女性がタイプなんですね」
怖くて重ねた掌を、少しだけ意識して、誤魔化すように囁きかえす。
「かもしれないな」
「えっ」
ただ、あまりに予想外な一声に、今度こそ驚いた。
無意識に手の甲へ爪を立てようとしたけれど、無粋なゴム手袋に邪魔される。
それから一時間もせずに。
退屈な映画がようやく終わった時、部屋に明かりが蘇った。
「終わったみたいだな」
信也さんが立ちあがる。呑気に大きく伸びなんかをした。
カーテンは開いていて、もう、どこにも目玉も手足も無い。冷房が消えたのか、急に夏の暑さも戻ってくる。
まるで悪い夢から醒めたように。終わってみれば、何も起きなかった。
「……これで、終わりですかね?」
「まだだ。これから、大事な一仕事が残ってるぞ」
「はい?」
そう言って信也さんは、パソコン椅子を引っ張ってきて、その上に立った。天井に刺さった鋲を思いきり、手前に引っ張る。
「な、なにしてるんですか?」
「天井裏、まだ掃除してねーだろ」
言った時、まるで仕掛けが開いたように。ばこっ、と。鋲のついた天井が取れた。同時に、嗅ぎ慣れた匂いが降りてきた。
*
結論を言えば。
その部屋にはもう一つ、ご遺体が残されていた。
腐った血汁のなか、爽やかなパステルカラーだったはずのワンピースは真っ黒に染まり、白骨化した四肢とのシンメトリーを描いていた。
首と胴体が離れていて、どう考えても自殺のはずは無かった。
「……警察が、念のため捜査をしていたというのも会得がいったな」
「恋の三角関係のもつれによる、殺人事件だったんですかね……」
「お前、やっぱ意外と太いよな」
「死体だけは、見慣れましたから」
「あぁ。慣れるよな」
さてこれから、警察にご厄介になる女性がいるわけだけど、そこは私たちが立ち入るべき領分じゃないので関わらない。
もっと露骨に言ってしまえば、お金にならないからどうでもいい。
「実際、探偵するよりな。清掃とか後始末屋の方が、実入りがいいんだぞ」
「なんで知ってるんですか」
「正義の味方は金にはならん。常識だ。警察組織も、国民の税金がなければ成り立たないぞ、あんな無茶な縦割り組織」
大人は汚い。
役割分担をしようと建前を作り、面倒事は押し付けあうものだ。だから私たちは、
「探偵の真似事なんてしないでいい。俺らは国家権力に口出しとくだけでいいんだよ。――えぇ、はい。死体が一つ見つかりましてね」
正常に繋がった携帯電話を用いて、信也さんは警察に連絡を入れた。実に落ち着いた口調で、淡々としたものだった。引きあげる際に連絡を取った大家さん相手にも「また、ご用命があるようでしたらウチに連絡をください」と一言入れておくのも忘れない。
「よし、後は警察に任せて。とりあえず、今日は帰るか。金一封出るといいな」
「はぁ……」
大人は汚く図々しく、本当に逞しいなと思った瞬間だった。
――それから、一ヶ月と少し。
季節が初秋になった頃、あの部屋の天井の清掃依頼が入った。たぶん、色々と厄介なことが重なって、今更になって連絡が来たのだろう。
私と信也さんは少し涼しくなりはじめた季節の中で、変わらない重装備を施して現場に向かった。夕刻近くに会社を出て、予定通り、清掃は夜中に終わった。
「よし、上がるか」
「はい」
今回は既に警察の手が入っているから、遺品関連の処置はしなくていい。
一回掃除をしたきりで、終わり。
「宮田、換気用に明けた窓、閉めといてくれ」
「はい」
私はあの部屋に入る。物はほとんど回収されていて、新築のようにスッキリとしていた。
『沙紀ちゃん』
後ろで、扉が静かに音を立てて閉まる。
今度こそ、肌寒くなりはじめた風が身に触れる。
『――まだ、コッチに来てくれないの? わたしは一人ぼっちだわ。あの人は檻のなかに閉じ込められて、沙紀ちゃんの気持ちもまだ、あの夏に取り残されてる』
「……」
窓の側、すぐそこに、優しげな微笑を浮かべるお母さんが見えた。
首に縄をつけている。顔の色は青黒い。
綺麗で、上品で、大人なのにすこし我儘だけど、私の自慢のお母さん。
『沙紀ちゃんは、あの人によく似て、優しい子だものね。こんなお仕事をしているのも、贖罪をしているつもりなんでしょう?』
「違うよ、お母さん」
逃げられる場所はなかった。
ミィン、ミィンと、夏にだけ聞こえるはずの音が、こだまする。
セミは、どうして地上に出ようと思ったのだろう。どうして地中深くに、眠ったままでいられなかったのだろう。
『――それはね、沙紀ちゃん。見つけて欲しかったからよ。暗くて、冷たい土のなかは、どんなに心安らぐ場所でも孤独で寂しいところなの。一人で眠りに落ちていくのは、恐ろしくてたまらない』
「……お母さんも、さびしい……?」
『えぇ、とても寂しいわ』
両手が私の首にまわされる。
正面にある顔は、仮初の明かりをうけて、嬉しげに輝いた。
『大丈夫、とても苦しいけど、大丈夫よ。すぐに、楽になれるからね』
「……あはは」
私は笑う。
「お母さん、死んでも変わってないね」
『……?』
「自殺したのは、お母さんの勝手だよ。私には関係ないよ。――離して」
首にかけられた手を払いのける。
「『どうして?』って顔をされても仕方ないんだよ、お母さん。この仕事をしているのは、私がただ納得したいだけだから。自分が生きていて、なにかをしているんだっていうことを確かめたいだけだから。
それにね。贖罪をするなんて立派な事は考えてないよ。今の私にはお金が必要で、他の人が忌み嫌うこの仕事ができてお金になるからやる、っていうだけ」
『――――そう』
お母さんが哀しそうな顔をする。
そんなお母さんの背中を両手に抱いて、笑う。
「大丈夫だよ。私もいつか、必ず死んでしまうから。それまで待ってて」
『―――――――――』
声が遠ざかる。聞こえなくなる。感触が曖昧になる。
私の背にも、おぼろげな指先が回されて、
「ごめんね」
言葉が音になって聞こえる。
それが最期。私のお母さんは、どこか遠くへ消えていた。
リグレット・ノイズ 秋雨あきら @shimaris515
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