第2話

 食パンを一斤食べ終えたあとで、少し仮眠を取りなおした。

 朝の七時にまた目を覚まし、洗濯機をまわしている間に、二葉さん用のお弁当を作る。寝るまえに「冷たくて、あっさりした物が食べたい」って言ってたから、冷やし中華の麺を茹で、鳥ササミをうすくスライス。レタス・トマト・バジル、卵にきゅうりも食べやすい大きさに切ってサラダにし、つゆはチリペッパーにごまドレッシングを混ぜて、西洋風のつけ麺を作ってみた。

「うん、悪くないかな」

 でも結局「一味足りないわ」とか言って、オイスターソース辺りをかけるんだろうけど。

「――なんとなく、二葉さんの味覚回路が読めてくる自分がヤダなぁ……」

 つけ麺を冷蔵庫に入れたとき、ちょうど洗濯機が止まる音がした。今度は衣類や下着をまとめてベランダに運び、干していく。空はすこし曇っているけれど、天気予報では雨は降らないとのこと。

「――よし、と」

 今日は風がある。夏にしては涼しい方だ。

 私は自分の部屋に戻り、簡単に身支度を整える。持った鞄には、お父さんへの手紙を入れてある。また週末に会いに行くからねっていうことや、二葉さんとの生活の様子なんかを書いて送るのだ。

 ここには楽しいことだけ、綴ってある。

 ひどく痩せ、白髪も一気に増えたお父さんに会うのは、正直言ってつらい。

「なにがいけなかったのかな……」

 わからない。けど、たったひとつだけ、こころをしめつけるのは、


『――お母さんは、助けられたんじゃないの?

 あなたが。同じ場所にいた沙紀ちゃんだけが、私を救えたはずなのに――』


 フラッシュバックする。


『――〝ふらっしゅばっく?〟 

 なぁにそれ。ひどいわね。わたし、いま、ここにいるのに。』


 すぐ正面の壁から両手が伸びてきて、冷たい感触が首に巻きついた。


『――いるじゃない。ほら。ね。

 おかあさん、ここにいるじゃない。

 ここに。あなたのそばに。いるじゃない、ね?』


 首を、絞める。

 

『――ねぇ、沙紀ちゃん。みんな生きていれば、またいつか三人で暮らすことが出来たかもしれないね。

 家族として助け合って、笑い合って、過ごせたかもね――』


「……お母さん」

 それは、もう、叶わない夢だった。

 蝉がひと夏を超えて生きてゆけないように、お母さんも生き返りはしない。

 また、家族みんなで過ごそうなんて。叶う方法があるとすれば、それはきっと、この世界の出来事ではないんだろう。

『――そうよ。だから、はやくおいで。待ってるわ』

 両手の指先は、私を嘲笑うように遠のいた。


 外は暑かった。

 太陽は当たり前に昇っていて、日差しは当然のように厳しい。自転車を漕いでいるだけで、じわりと汗をかきはじめる。

「ふぅ…」

 住宅街にある、四角い筒のような細いビル。四階建て。

 高畑クリーンルームズ。

 私を含めて、合計五名の社員が働く小さな会社の一階部分は、ほぼ丸ごと駐車場のガレージになっている。社員の自家用車と、大型の車が一台ずつ。他にはスクーターが二台鎮座するように並んでる。私は空いた隙間に自転車を止めてから、奥の階段をあがった。

 二階の扉に着いたところで、鞄からカード型の社員証を取り出し胸にかける。読み取り機に当てると「ぴっ」と音がして、鍵がいつも通りに開いた。

「おはようございます」

「おっ、宮田、いいところに来たな」

 部屋に入って早速声をかけられる。受付用の机があるところに、窓口には最も向いてないと思われるおっさん、もとい信也さんがいた。

「おい宮田、今絶対よけいなこと考えたろ……」

「不適財適所なんじゃないかな、とは思いました」

「お前、本当に口が悪いよな」

 舌うちされた。

「三十分後に出られるか?」

「仕事ですね」

「あぁ。千客万来だ。喜べよ」

 後ろ手に扉を閉めながら、ちょっと苦笑を浮かべて頷いた。私たちに声が掛かるということは、この街にいる何処かの誰かが、誰にも気づかれずに亡くなっていた、というわけだから。

「――でも信也さんは、昨日掃除した部屋をもう一度洗いなおして、大家さんに報告する予定だったのでは?」

 私たちの仕事は、単純に部屋の清掃をするだけに留まらない。特に急死や突然死されたご遺体は(変な話かもしれないけれど)死ぬ為の準備が満足にできていなかった訳だ。

 部屋の中には、金銭的な物品や、他人に見られたくない物、見られては困るような物がたくさん残されている。そういった物をきちんと集めて整理して、大家さんや、警察へ(ご遺族の方がいらしたらそちらにも)報告して、それで初めて仕事をこなしたと言える。

 そして今日の私は基本的にお留守番で、信也さんはもう一人の社員さんと、あの部屋で遺品整理の作業をする予定だった、のだけど。

「――鈴坂の奴が体調悪いって連絡してきてな。まぁ、あの部屋はあらかた清掃終わったし、後は所長が事後処理を含めて、一人で片づけるっつって出てったわ」

「あら。鈴坂さんは夏風邪ですか?」

「いやなんか、性質の悪い〝悪霊〟に一晩付きまとわれてたらしい。で、今さっき家に帰ったと」

 信也さんが大真面目な顔で言った。私も普通に頷いた。

「運が悪かったですね」

「あぁ。霊感の強い奴は大変だな。近く通っただけで引き寄せるからな」

 今更ながら一つだけ補足しておくと、高畑クリーンルームズの所長を含めた五名は、大なり小なり〝霊感持ち〟という共通点がある。

 私と信也さんはほぼゼロなのだけど、話題に出た鈴坂さんと、所長である高畑さんは、幽霊たちからファンクラブを作られるほどには霊感強い。そして、

「――ちょっとやめてよね。昼間っから非科学的な話題で盛り上がるのは」

 紅い髪の毛を伸ばした女性が、手にお盆を持ってやってくる。

「幽霊なんて、この世にはいないのよ」

 髑髏マークの黒シャツに、膝上までしかない破れたデニム。両耳には十字架のシルバーピアスで、両手の中指には杯模様を彫った銀の指輪。そんな派手な外見とは裏腹に、一級簿記を始めとした様々な資格を持つ彼女こそ、当事務所の敏腕会計士である、御影鏡子さんだ。

「はい、果汁入りのミネラルウォーター。塩もちょっとだけ入れてあるからね。一息には飲まないで」

「ありがとうございます、鏡子さん」

 そっと口付ける。思っていた以上に喉が渇いていたみたいで、少し酸味の利いた味わいが心地よかった。チラリと彼女の足下を見ると、いつものように影がゆらめいている。

〝おいしい?〟

「美味しいです。鏡子さん」

「うん。沙紀ちゃんも夏バテには気をつけるのよ。ただでさえ、クソ暑い中をクソ暑い格好して作業するんだから。絶対に塩分はかかさないこと」

「はい」

「もし倒れたら、信也に慰謝料請求していいからね。資料作るの手伝ってあげる」

「なに勝手なこと言ってんだ。それより月末の清算はやく出せよ」

「今やってるわよ。それより信也」

 どこか、弟を叱るお姉さんのような鏡子さん。

「現場に行くのは、あんた一人でいいでしょ。沙紀ちゃんは置いていきなさい」

「なんでだよ」

「昨日の今日だからよ。脳筋のあんたとは違うんだから、ちゃんと労わってあげないと逃げられるわよ」

 ねぇ、と顔を向けられる。影がまた揺らめいた。

〝にげる?〟

「逃げませんよ、鏡子さん」

「でも」

「体の方なら大丈夫ですから。それに、いざとなったら信也さんがサポートしてくれますし、ね?」

「まぁな」

 信也さんも水を飲みながら答える。

「お前は役に立つからな。それに今度の現場はそこまでひどくないぞ。遺体はもう、警察に引き取られた後だしな」

「あれ、病院じゃないんですか」

「自殺だったらしい」

 信也さんは言った。

 それは、自然死ではない、ということ。

「一応、事件性が無いかどうか、警察が解剖のために引き取ったんだと」

「遺書は無かったの?」

「そういうのは特になかったそうだ。詳しくは知らんが、死んだ奴はずいぶんなボンボンだったらしくてな」

 ボンボンて。死語だけに? 

『…………』

 睨まれる前に視線を逸らす。

「――それで? その金持ちっ子は、どんな感じで死んでたワケ?」

「首吊りだ」

 その音を聞いて、手足の血管が一気に冷えた。

 ぎゅっ、と心臓が縮まって、普通に息ができなくなる。

「さっきも言ったが回収は終わってる。俺らがするのは掃除だけだ」

「……それなら、問題ありませんね」

 私は努めて普通であることを装った。

「よし、じゃあ奥の部屋で着替えて来い。すぐに出るぞ」

「はい」


 *


 私たちが向かった先は、地元では高級住宅街で知られるエリアだ。物件も四十階を超える高層マンションの最上階だった。

「こんなところに住める人が、自殺したりするんですね」

「不思議だよな」

「おいくつぐらいだったんでしょう」

「大家の話では、二十そこそこの男だったらしい」

 あらかじめ、大家さんから聞いておいたオートロックの番号を入力し、玄関を超える。エレベーターの前に掃除道具を積んで往復し、目的の部屋に入った。

「広いですね」

「広いな」

 私たちは、実に庶民的な感想を述べていた。

 リビングだけで、私と二葉さんが住んでいるマンションの部屋を足してもまだ広い。大きな液晶テレビに、テーブルに、ソファー。ワイングラスの棚なんかもあり、映画鑑賞用なのか、専用の暗幕や機材なども置いてある。詳しくない私はただ漠然と思った。

「どれも高そうですね」

「いい趣味してやがんな。宮田、アレ貸せ」

「はい」

 紫外線装置を、ぽんと手渡す。

 価値あるもので満たされた空間に、黒ずんだ床の染み。

 銀ハエの羽音がうるさいぐらい、無数に重なっている。私は洗面所に入り、バケツに水を汲み、特製の洗浄液を注入した。その間も、ハエがこっちに飛んでくる。手で追い払い、信也さんのところに戻る。

(……あそこで死んだんだ)

 天井には、映画の暗幕を吊るすための鋲がある。

 そこに縄を通して、首を吊った。

 普段は映画を見ながら、食事をしていただろう場所で、死んだ。

 側には不自然に転がった回転式の事務椅子が見える。アレを足場にして、その上に立って、蹴り飛ばして――

「換気するか。宮田、他の部屋の窓も開けてきてくれ」

「……あ、はい」

 言われた通り、隣の私室に移動した。


 そこは元住人の私室だったのか、高そうなパソコンデスクとベッドがあった。他には本棚があるぐらいで、清潔で整然としていた。部屋の四隅に、うっすらと埃が見えるぐらいだ。

 デスクの上には、至るところにポストイットや、千切ったメモ用紙が張り付けられていた。細かなスケジュールらしき内容がびっしり記されている。

 近くに在る本棚には、いかにも難しそうな辞書や、専門書らしい本に加え、赤と青色のファイルが綺麗に並ぶ。

(……生真面目な人だったんでしょうね)

 優等生を地でいく性格で、ご実家の方も、きっと随分と裕福で。

 順風満帆な人生。今までも、この先も。

 埒もあかないことを考える私は、ふと、この机には椅子がないなと気がついた。

(――普段から使い慣れたものを、足場にしたんでしょうね……)

 お母さんもそうだったから。

「…………」

 悪い考えを捨てるように首を振る。と、もう一つ気がついた。四角いフレーム立てが後ろ向きに倒れている。

 手に取ってみた。若い男女が映っていた。

 どこか、室内で撮ったものだろうか。

 髪の長い女性と、それなりのイケメンさんが映っている。女性の方は、まるで影絵のようにまっ黒で、眼と口元のところにだけ青白い穴が開いて、こっちを見てる。


 ――〝これからも、ずっと一緒にいようねって約束したよね〟


 影が笑う。写真の映像にノイズが生じる。巻き戻りをするように、キュラキュラと音が連鎖して、影が持ち上がっていく。


 ――〝吊られた女〟。天井に潜んで、貴方のこと見てる。


 そういえばこの写真、なんとなく、覚えがある。

 こんな光景をついさっきも見た気がする。

 再生。天井に鋲が突き刺してある部屋の存在。

 ノイズ。


 ――貴方のこと見てる。貴方のこと見てる。貴方のこと見てるあなたのことみてるアナタノコトミテルずっと一緒にイヨウネッテヤクソクシタヨネ。


 フレームが、カタカタと音を立てて縦に揺れる。

「約束したよね」

 ガラスに細い亀裂が入り、まっかな血が噴き出た。荒縄が蛇のように揺らめき、吊り下がった影を楽しげに揺らす。


 ――きった。わたし。だって。あなた、きって、くれないから。

 ――きった。わたし。だって。しんじてたのに。だから。


 ――くび、きった。


 鮮血が散る。

 首が跳ね飛んだ内から、別のドス黒い顔をした、別の女性の顔が現れる。

 ニッコリ微笑む目と口は真っ赤だ。


「これでもう、どこにもいかない。ね? 

 お前も、こっちにおいで。〝まだ足りない〟の」


「え、っ、と、あれ…………?」

 私は写真立てを手放した。詮索は無意味だ。この男女がどこの誰であろうと関係は無い。私にできることは何もない。

 それから、なんでだろう。なんで私、こんなに震えてるんだろう。歯の根がつけあわなくて、ガチガチ鳴ってる。今って夏だよね。

「――暑いわね、今日も、とっても暑いわね」

 部屋の窓が、ギィッと音を立てて開いた。暑い、はずの夏の風が流れ込む。

「おいで」

「…………」

 言われた通り、窓から少しだけ身を乗り出した。青空を流れていく雲をほんの少し眺めてから、地面を見おろす。

 そっちもまた、ずっと、はてしなく遠い。

(……なんだろう……?)

 なにか、頭がぼーっとする。暑い? 寒い?

 水色のカーテンが誘うように揺れ動いている。おいで、と笑うように踊ってる。

「おい宮田」

「!」

 私は思いきり身を引いた。同時に、どんっ、と何かが背中にぶつかる。

「きゃっ!?」

「いて」

 驚き振り返った先に、信也さんがいた。眉根を寄せて不機嫌な顔をしている。

「なにしやがる」

「すっ、すいませんっ、あ、あの、その……っ」

「謝るのはいい。それより宮田、一度出るぞ」

「……え?」

「勘だが、ヤバイ感じがする。所長か鈴坂を連れて出直しだ」

 真剣な顔をして言った。私もまた頷きだけを返す。

 部屋を出る直前、おそるおそる、さっきのフレームを覗き込めば、どこか、こことは別の避暑地らしき場所で撮ったらしい二人の男女が映っていた。


 ――〝約束したのに!! 信じてたのに!! 私だけだって!!〟

 

 その女性の〝顔〟の部分は、黒い油性マジックが何かで、ぐちゃぐちゃに塗り潰されていた。ガラスが割れて、外側のフレームが力いっぱい投げ飛ばされたように歪みはじめる。

「クソが!!」

 一目散に玄関まで向かう。信也さんが扉に手をかけ、しばらく鍵をいじった後で乱暴に扉を蹴りつけた。

「あー、クソ。ダメだ。開かんわ」

「え」

「こいつは割りに合わん仕事だな。おら、おでましたぞ」

 おでましって、何が。と言いかけたその時だ。

 

  バタンッ! ドサッ!


 背後から音がした。さっきの部屋に通じる扉が閉まったんだろうか。いや、そうじゃない。何かが、落ちてきた?


  ギャリギャリギャリギャリッ!!


 滅茶苦茶に絹を引き裂くような音がして、いきなり周りが暗くなる。ぴっ、ぴっと電子音がして、コォー……と妙に涼しい風が流れはじめる。

「……し、信也さぁん……」

「なんだお前、泣きそうな顔して。初めてか、こういうの?」

「もう少し言葉を選びましょうよ!! デリケート皆無ですか! あぁ、何か来てる! 部屋の奥から何かこっちに来てる気配がすごいです!!」

「よーし。それじゃ、いち、にの、さん。で振り返るか」

「いやあああーー!」

 いち、にの、さん。

 生唾を飲んで振り返る。暗くなった理由は、窓に、広げられた暗幕がひっかかっていたからだ。壁にとりつけられたエアコンが動作している。どうして勝手に、と思ってよく見れば…………、

「ひっ!」

 人間の生白い、手と、足。が、

 暗幕の四隅を掴み、両左右から伸ばしている。その中央には血走った目玉。血濡れた暗幕にぴったり、張り付いている。


 ――主演女優の。あのヒトだけの。見て。見て。この世界の私を見て。

 他に何もいらないわ。


 …………カシャカシャカシャカシャカシャ……。


 なにか、機械の音が耳に届く。

「し、信也さんっ!」

「大丈夫だ、落ちつけ。とりあえず所長を呼ぼう」

「なんでまだガラケーなんです!? ダサッ!」

「落ち着け。突っ込むところが違うぞ」

 信也さんが携帯を取りだすと、いきなり「ブーーッ!」と警告のような音が出た。


 ――映画館デハ、ケイタイ電話ノ電源ハ、オ切リ下サイ。


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