リグレット・ノイズ
秋雨あきら
第1話
わたしは清掃の仕事をしている。
会社名は、所長の名字をとって『高畑クリーンルームズ』という。
仕事の依頼が入るのが不定期なため、基本は年中無休。さらに、今日が真夏日であろうとも、わたしは緑色の上下服を着用し、軍手、靴下を二重に履き、現地についてからはマスクとゴーグルを着けることもかかさない。
「――宮田、準備はいいか?」
「はい」
「よし、入るぞ」
信也さんが、アパートの大家さんから借りた鍵を差し込んだ。
開けるまえから感じていた匂いが、扉を開いた瞬間むわっと広がる。
その匂いを受けて、私はつい言ってしまった。
「これはもう、ダメですよね」
「無駄口叩くな」
振り返らず言って、信也さんは部屋に入っていく。その奥から来る死臭が鼻腔を通りぬけ、頭の中まで突き抜けるのを感じながら、私もその後に続いた。
夏は、一年の間でもっとも、お年寄りが亡くなる季節だと言われる。
日射病や熱中症を含め、ただでさえ食が細くなっているところに、些細な事が積み重なって、不幸が起きるのだ。
「凄まじい臭いですね」
「夏だからな。仕方ない」
一人暮らしだったりすると、遺体が数週間にわたって放置されることも珍しくない。そういったご遺体のほとんどは、異変を感じた周辺の人たちからの通報で発見されるケースが多い。しかしその時にはもう、部屋の中は確実にひどい有様と化している。
高畑クリーンルームズは、主にそんな部屋の清掃を請け負っている。
「――あそこか。宮田、UV貸してくれ。虫どもを散らす」
「はい」
大きな蛍光灯のような形をした『紫外線発射装置』を信也さんに渡す。スイッチを入れると、部屋の中で低い音が反響し、紫外線ビームを発射する。
ガサガサと音がした。
遺体から湧き出ていたゴキブリ、蛆、ノミ、ダニ、孵化した銀バエがまとめて、総じて不気味な音を立てて逃げていく。
「宮田、スプレー頼んだ」
「はい」
逃げ場のない部屋のすみ。
特製の殺虫兵器を構える私。振りかける。
ノズルから、消火器のような勢いで白い粉末が乱舞した。粉末を受けた害虫は瞬間的に痙攣し、バタバタと即死する。世の女子が真っ青になりそうな光景の中、私は無言、無表情でキリングマシーンよろしく、片っ端から粉末を浴びせた。
「…………」
最初こそ、身の毛がよだつどころか、気持ち悪さに胃液が逆流し、甘酸っぱいものを口を含んだまま失神しそうになったりもしたのだけど、
(慣れ、というのは怖いですよね)
仕事だからやらなきゃいけない。黙々と、淡々と手を動せばいい。頭をカラッポにして作業を進めれば、ある種の単純作業に等しい、なんとも言えない虚無感で満たされるだけだ。
よって、私は殺す。
ある意味、まったく罪の無い蛆虫どもを虐殺してゆく。
(……ナチスの軍人さんが、毒ガス部屋で大量のユダヤ人を殺害した時って、最終的にこんな気持ちだったのかもしれませんねぇ……)
諦念と、哀愁と、いけないと思いながらも感じる、恍惚感――いえ、それはともかく。
私物の少ない空間の先、六畳にも満たない部屋の奥。覗き窓から日光が射す先に、私たちの目指すご遺体は見つかった。
「心筋梗塞ですかね」
「かもな」
うつ伏せになり、左胸を抑えて亡くなっている、腐りかけたご遺体。
遺体の処理は警察や病院の人たちの領分だけど、部屋の後始末なんかは管轄外だ。そこで私たちのような汚れ役が必要になる。今日のように遺体を回収する直前、部屋の中に入り難い場合なども、連絡をもらえればこうして駆けつけ、掃除をする事もあるわけだ。
「床は一応フローリングだな。足下すべるから気ぃつけろ。触れると炎症起きてひどいことになるぞ」
「大丈夫です。もう十分経験しましたから」
「調子にのるな。新人は大抵、仕事に慣れてきた頃にミスをするもんだ」
相変わらず五月蠅い人だ。表面上では「はい」と返事をしておくけれど。
本格的な清掃をする前に、まずはドライアイスをぎっしり詰めた『棺』に、ご遺体を安置する必要がある。
「崩れることは無さそうだな。暑いから死後硬直の影響も無いか。宮田、おまえ腰のほう持て。大丈夫か、いけるか?」
「問題ありません」
「そうか。なら絶対に落とすなよ。いいな?」
「はい」
私たちはそれぞれ配置につき、中腰の体制になる。
「三つ数えたら持ちあげるぞ」
「はいはい」
「なんだその返事は。まぁいい。よし、いくぞ。――いち、にの、さんっ!」
「……っ!」
息を止めて、ご遺体を持ちあげる。同時にぼろぼろと、食べられた肉片が散った。
触れた肌は紙切れのように乾いている。水分が減った分、ひどく軽い。それでも落とさないよう注意して運び、両手足を畳んでから『棺』に安置して、ファスナーを閉めた。
「よし、手を合わせろ」
「はい」
信也さんと二人、まだ名前も知らない仏様に向かい黙とうする。
「OK。宮田、今度はコレもって外に出るぞ。いけるな?」
「大丈夫ですってば」
「入り口、ちょっと狭いからな、絶対ぶつけんなよ」
「はいはい」
私たちは、『棺』の両脇についた持ち手をそれぞれ掴み、部屋を出た。すでに人払いは済んでいるので、ひとまず廊下に置かせてもらう。『棺』の方も外装が工夫されていて、一見するだけだと旅行先で使う、トランクケースにしか見えない。
「ふぅ……」
八月の夕方。外はまだ暑い。
ただでさえ厚着をしているから、ご遺体を運び出しただけで汗をかいてしまった。用意していたスポーツドリンクを手にする。長いストローを直接咥え、両手は慎重に容器の底を持ち、井戸水でも吸いあげる勢いで飲み込んだ。
「宮田」
「なんですか?」
顔を合わせた信也さんも、当然汗だくだった。
「下にいる警官の兄ちゃんに連絡な。俺は家のなかを少し整理してくる」
「わかりました」
ストローから口を離し、言われた通り、一階まで降りた。
一階のエントランスには、げっそりした表情で待っている、まだ若い警察官の人がいた。長袖の制服を着て汗をかいていたけれど、顔は青ざめている。
「あぁ……。お仕事、ごくろうさまです……。亡くなられた方の身分証明できる物なども見つかりましたら、一応ご提出のほうを……」
「あ、今から中の掃除をしますので、もうちょっと待ってください。免許証やなにかの契約書が見つかりましたら、お手元の方に届けさせていただきますから。あと、救急隊の方が来られたら、上まで来るようお伝えくださいね」
「了解です……。あの、失礼ですが……」
「はい?」
「キミは、平気なの? 見たところ、相当若いよね……?」
「大丈夫です、仕事ですから」
「その仕事はバイトか何か? 年齢は?」
年下扱いされたのが分かって、私はちょっと〝むっ〟とした。
「私は十七歳ですけど。これでも一応、正式な社員なんですよ」
「十七歳? ……キミ、名前と学校名を教えてくれる?」
「名前ですか? 宮田沙紀って言います。高校は定時制に通ってますけど、あの」
「ご両親は? 今の仕事のことを知ってるの?」
「……」
失敗した。信也さんがこの場にいたら、後で「口が軽すぎる」とお小言を食らうに違いない。
「どうなの? ちゃんと許可はもらってるの?」
「えぇと……」
面倒なオトナに捕まったと思った時に、表から救急車のサイレン音が聞こえてきた。
「ではこれで、私は失礼いたします」
「あ」
スキを見て、逃げだした。
夜。
部屋の死臭をだいたい取り除いた私たちは、後日、また来ることを大家さんに告げて、マンションを後にした。
掃除の時に着ていた物は基本的に、全部ゴミ袋に入れて処分するのが決まりだ。
あらかじめ決めておいた公園の女子トイレで、予備の作業着に着替え、濡れタオルで全身を拭いた後、銭湯へ向かう。
湯船に浸かる前にくまなく全身を洗い、上がった後は、さらに別の作業着に着替える。外に出ると裏口の駐車場に回るまでもなく、すでに一台の自家用車が止まっていた。運転席には職場の上司である信也さんが乗っている。
「遅いぞ、宮田」
「信也さん……。あの」
「ん?」
車の扉の向こう。眉間に皺を寄せている信也さんの現状は――白シャツに、黒の短パンという、とってもリーズナブルかつ、夏のお手軽最強スタイルである。本人曰く「まだ中年じゃない」と言い張るけれど、しかしなんというか、その格好は、
「おっさん、ですよね」
「遅れてきての第一声がそれか」
「ふふ。女子高生が長風呂なのは常識です、とか言っておきます」
「男を必要以上に待たせる女は、総じて嫌われるぞ」
「短気な男性も、ですよ?」
私は軽口を返してから扉を開けた。後ろに手荷物を放りこんで前の助手席に乗り込む。車内はひんやり冷房が効いていて、まるで天国のようだった。
「幸せです」
「そりゃ良かったな。……ほれ」
嫌味の一つか、お小言でも食らうかなと覚悟していたけれど、代わりに飛んできたのは、500mlのペットボトル、有名所のスポーツ飲料水だった。
「お疲れ」
無愛想そのものの顔で、信也さんが言う。
「暑かったろ、おまえよく頑張ったな」
「ありがとうございます」
「風呂あがりにも体乾くからな。飲んどけ」
「はい」
扉のロックを閉めてから、ペットボトルの蓋を開いた。口に含むと、すごく甘い。スポーツドリンクって、喉が渇いている時に飲むと美味しいから不思議だ。
「んじゃ、帰るぞ。シートベルトしろよ」
信也さんがサイドレバーを降ろし、アクセルを踏んだ。車がゆっくりと前に発進する。細い路地を抜け、広い通りに出る。
「俺は今から事務所に帰るが、宮田は今から高校出るだろ」
「いま何時ですか」
「七時二十三分」
「あ、じゃあダメです。今から行ってもほとんど出られませんから」
「なんでだ。補習だって四限まであるだろう。一コマでも出られるなら出とけ」
「いえその……。あの、私たちって、まだ結構〝匂ってる〟はずですよね」
「だろうな。今はお互い、嗅覚が麻痺しているから分からんが」
「はい。……えーと、ですので、あまり同年代の集まる場所には出向きたくないと言いますか」
「関係ねぇよ。そんなの」
ふん、と鼻で笑われてしまう。
「家まで送ってってやるから、制服に着替えて学校行け」
「……でも、ですね」
「異論は聞かんぞ」
異論て。おっさん臭い。
「なんか言いたそうだな」
「いえ、なにも」
「それなら学校行けよ。大体な、おまえを雇う条件の一つだったろ」
「学校はきちんと行きましょう。ですか」
「そうだ。あと〝三卒〟な」
三卒とは文字通り、三年通って卒業。の意味合いだ。私の通う定時制は授業のコマ数が多くないので、普通程度にサボっていると、割とあっさり留年できてしまう。そんな生徒は、この夏休みの間に顔を出し、特別補修制度とかいうもので単位を稼ぐのだった。で、哀しいことに、私もその一人だったりするわけでして。
「だいぶ取り戻したんだろう、単位」
「まぁ、大体は……」
「上出来だ。宮田、去年はバリバリひきこもってたからな」
「そこまで前衛的に閉じこもってた記憶はありません」
「茶化してんじゃねぇよ」
ウインカーを出し、車が曲がる。まっすぐ、私の住むマンションに向かっていた。
「俺だってな。定時の高校行ってた時は出席ちゃんとしてたぞ。土木作業した格好のまま直行してたけどな」
「どうだ、とばかりに言われましても」
「文句あんのかよ」
あります。大体それは「ちゃんとしてた」っていうんですか――、とは言えず。
「作業着のままで学校入れたんですか?」という程度に控えておく。
「まぁ、追い返されたりもしたけどな。授業は基本寝てるのが当たり前だったし」
「ダメダメじゃないですか」
「うるせぇな。それでも三卒したから上出来なんだよ」
「さすがですね」
私がすこし笑うと、信也さんはすごく嫌そうな顔をした。
赤信号にひっかかって車が止まると、「ふん」とか子供みたいにため息こぼして、忙しげにハンドルを指で叩いた。それから自分の胸ポケットを探る。
「ん」
不意に、なにかに気がついたように私を見た。
「いいですよ、吸っても」
私が車内の窓を開けると、信也さんは「吸わんから閉めろ」とだけ言った。私はその通りにした。
「タバコはこぼれた煙の方が有害らしいからな」
「へぇ。信也さんは博識なんですね」
「そろそろ怒るぞ」
「茶化してるつもりはありませんよ」
「お前、生意気だよな」
にらまれたので黙る。スポーツドリンクをちびちび啜る。
「……とにかく。おまえは俺と違って頭良く出来てんだ。きちんと授業うけとけ」
「勉強できたところで、今の仕事には役に立ちません」
「バカ言うな。おまえはずっと、ウチの事務所で仕事なんざしてないだろ」
突き放したように告げられた。言葉の棘は、意外と胸の奥まで刺さってしまう。
さくっ、と血がにじむ想いがした。
「あの……。私、お役に立っていませんか」
「は?」
直接、隣に座った人を見るのが心苦しくて、フロントミラーに映った顔を覗いた。
「あー、そういう意味じゃねぇよ。違ぇよ」
「じゃあ、どういう意味ですか」
「……あのな、深読みすんなよ。お前は役に立ってるよ。夏場でも怯まず仕事やってのけるぶん、それだけで貴重な戦力だ。けどな。ほら、お前は頭いいだろ。勉強できるタイプだろ」
「信也さんよりは出来ますね」
「うるせぇよ」
チッ、と舌うち。剣呑な視線がフロントミラー越しで重なりかける。
「……ちゃんと勉強できる奴はな、汚れ仕事をする必要なんざねぇんだよ。お前は勉強して、将来はもっといい環境で仕事して、たっぷり給料稼いで、後から『あの時はお世話になりました』つって、俺に寿司でも奢りゃいいんだよ。わかったか」
「わかりました」
そうかそうか。と頷く大人に向かって、余計なお世話を一つ。
「さすが、独身貴族は言う事が――あ、痛っ!」
「お前もう黙ってろ。本当に黙ってろ」
軽く裏拳で小突かれた後、信号が青に変わった。すこしだけ乱暴に車が発進する。
*
学力は大切だから勉強しなさい、とよく言われた。
勉強するほど可能性は広がる。それは正しく理に適った〝理論〟だと思うのだけど、この世界は常に理論通りには展開されない。
どれほど注意深く石橋を叩いて渡っても、避けられない落とし穴は存在する。
生真面目なお父さんが、交通事故を起こした時、それが分かった。
男の子が一人死んだのは、夏だった。
庭の木に止まっていたセミが悲鳴をあげて飛び立つほどに、私たち一家は罵られた。
『――違うのよ、あの人は、なにも悪くないの』
お母さんはプライドが高くて、融通の利かない人だった。だけどそのぶん、お父さんのことを誇りに思っていて、臆面もなく「あなた」なんて言っちゃう人だった。
だから、最後にあんなことになったのは、ある種、当然の帰結だった。
『――違うでしょう?』
お母さん。
『――私を追いつめたのは、沙紀ちゃんでしょう?』
違うよ、お母さん。
『――沙紀ちゃんも、周りが言うウソに騙されて、あの人が悪かったなんてことを信じたんでしょう』
だって、事実だよ。
夏の日に、お父さんの車が、男の子を一人、轢き殺しちゃったんだよ。
集めていた蝉の抜け殻が弾けたように広がって、その中に、男の子の死体がたゆたうように沈んでるのを見たよね。
『――だから、なに? どうして沙紀ちゃんまでお部屋にひきこもって、お母さんのことも無視して、ずっと眠ったフリなんかをしていたの?』
だって、皆が言うんだよ。人殺しの娘だって。
高校受験の夏でもあったから。みんな、ピリピリしていたことも、あった。
『――自分の娘に裏切られて、お母さんが、どんな気持ちだったと思うの』
お母さん。
『――どうして気がついてくれなかったの。三日間も、暑い夏の日に、同じ家に住んでいて、どうして私を放っておいたの。一体なにをしていたの』
どさっ、と音がした。
縄がちぎれる。自重に耐えきれなくなった体が畳のうえに落ちる。
限界まで見開かれた瞳が私を見ている。息の通らなかった口蓋から蛆が沸く。濁った体液が外側に染み出しはじめる。
『――どうして……。こんなになるまで放っておいたの……?』
虫の数は勢いを増し、身体は朽ちていく。
過去の私は、快適な冷房の効いた部屋にいた。一日中、なにをするわけでもなくまどろんで、「お腹すいたかも……」なんて呟いている。
世界が暑い。
蝉が鳴いている。
「…………」
あと、ちょっと年季の入った扇風機が、カタカタ音をたてて回っている。
身体を起こそうとしたけれど、暑くて、しんどくて、敵わない。ただ目を開けて、じっと天井だけを見つめた。
「…………」
次第に目が慣れてくる。記憶の断片が集まり形を成す。ここはあの家じゃない。あの家はもう私たちの物じゃない。
横になっていたベッドから起きて、枕元に置いていた携帯で時間を確かめた。
「……四時、かぁ」
朝の四時。
カツン、カツン、と足音が壁を抜けて聞こえてくる。
立ち止まり、鍵の差し込まれる音を感じた。私もまた、まっくらな部屋の床を進み廊下に出る。明かりをつけたのと同時に玄関があいた。
「――ただいま」
「二葉さん、おかえりなさい」
「ん、沙紀? 起きてたの?」
バタン、と扉が閉まる。
「うぅん。ちょっと、目が覚めちゃって」
「あ、そう」
お母さんの妹。私の叔母にあたる二葉さんは「疲れた疲れた」と言って、黒いヒールの靴を脱いだ。丈の短いスカートに、網模様のストッキング。ブローをかけた金髪を指で弄びながら、私の側まで歩いて来る。香水の匂いと、お酒の匂いがした。
「二葉さん。ごはんとお風呂、どっちにします?」
「水飲みたいから退いて」
「はい」
私が横に退くのと同時、二葉さんが重ね着していたコートを抜いだ。そのまま両手をあげて、胸のところが大きく開いたワンピースも脱ぎ棄てる。スカートも脱ぎ、私はそれらを拾う。
「二葉さん。夏だからって、下着姿はどうかと思います」
「うるさい居候。文句あるなら出てけ」
「……すぐそれ言うんだから……」
「なにか言った?」
「いいえ」
私は顔を向けず、近くにある洗濯カゴの中へ衣服を放りこむ。振りかえれば、冷蔵庫から取り出したペットボトルへ、直に口をつけている二葉さんが映る。
「あっ。私も飲むんだから口つけないでって、いつも言ってるのに」
「うるさい居候。文句あるなら出てけ」
「えぇ。絶対出ていきますからご安心を。あと、冷蔵庫の中にある肉じゃがとお味噌汁、食べるなら今日中にしてください。夏場は痛むの速いですからね」
「わかった、ありがと」
いきなり素直になられても困る。しかもまた唐突に「ごはんよりパン食べよ」とか言って、食パンをトースターに突っ込む気まぐれぶりだ。
「私、ちょっと屈辱です」
「なんで。べつにいいじゃない。食パンと肉じゃが一緒に食べたって」
「……一緒に? パンだけ食べるわけではなくて?」
「食パンをなめるな」
「意味がわかりません」
いわゆる指向の不一致というやつ、かも。
「あー、ジャムがないぢゃ~ん。味噌汁に落として食べたかったのにー」
「なんでお味噌汁に……。ジャムならパンでしょう」
二葉さんの悪食は筋金入りだ。せっかく美味しい物を作っても台無しにされてしまう。しかも下着姿のまま、ふらふら歩きながら摘み食いするから最悪だ。
もちろん彼氏なんていない。美人だけど、それも当然だと思う。
「ねぇ沙紀、マヨネーズどこ?」
「それを何に使う気ですか」
「肉じゃがにかけて食べる気だ」
「やめてください。あと下着女に発言権はありませんので、まずはシャツ着て、ズボン履いてきなさいってば」
「うるさいなぁもう」
二葉さんは露骨に面倒くさそうな顔をして「ふく、ふく」と呟きながら、自分の部屋へ戻っていった。まったく、ダメな大人だ。
まだ明け方とも呼べない時間に、私たちは朝ご飯を食べていた。
「沙紀、あんたちょっと匂うんじゃない」
「そうですか」
女子にとって、割と致命的に想われる一言だけど、パンの表面にマーガリンを塗りながら適当に流した。
「お風呂入ってないの?」
「いえ、学校帰ってからも、ちゃんと入りました」
「本当に?」
「はい」
二葉さんが、七味唐辛子入りのお味噌汁を啜りながら、細い眉を寄せる。私は平然とした態度を装いながら、焼いたトーストを一齧りした。
「ところで、仕事のほうはどうなの」
「問題ありません。上手くいってます」
「ふぅん。プライドたけーですこと」
「なんですか、それ」
「べつに。高校生らしくて良いんじゃない?」
ぱか、と肉じゃがのお芋を切りわけて、小馬鹿にされる。反論しようと口を開いたら、
「清掃の仕事、だったわよね?」
「そうですよ」
「なるほど。じゃあ昨日は、よっぽど汚い部屋を掃除してきたのね?」
「……それ、は」
私の仕事先は、二葉さんや学校には〝普通の〟清掃業者ですよと伝えている。実際に高畑クリーンルームズは、普通に引っ越したあとの部屋掃除なんかもやっている。
「沙紀、アンタやましい事やってんじゃないでしょうね。もしくは、やらされてるとか」
「やってませんっ、ちゃんと規定の仕事内容で、お互い同意の上でやってますからっ」
「あぁそう。じゃあそれを建前に、私には言えないことがあるわけだ」
「っ!」
図星を突かれ、思わず目を逸らしてしまう。
ただ、依頼があれば別途料金で〝ちょっとワケありの部屋も掃除しますよ〟というだけのことだ。大家さんの許可を得て部屋に入るわけだから法的にも問題ない。
「まぁいいわ。基本はあんたがやってることに、あたしは口出さないって決めてるし。さっさと頭金揃えて出ていくのよ」
「わかってます」
私だって同じ気持ちだ。早く、自由になりたい。
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