第9話ASCENSION 夢幻の彼岸


お前が殺すのならば私は生かそう。

お前が滅ぼすのならば私が産み出そう。

お前が泣く時には私が抱きしめ、

お前の苦しみを私も背負おう。

だから。

だから、はじめよう。


【ACT〇】 長恨歌


 天にあるならばどうか比翼の鳥に、地にあるならばどうか連理の枝になりたい。

天地は永遠と言っても、いつかは限りがあるだろう。

――されど、この悲しみだけは。


「ねえ、ねえイノツェント!」ヘレナは馬鹿だからはしゃいで言う。「虹が出ているの!」

「ふーん」

俺はベッドに寝たまま、ぼんやりと窓から空を見上げた。

鮮やかな虹が、雨上りの空にくっきりと咲いていた。

「綺麗だね! 本当に綺麗! ねえイノツェント、どうして虹って綺麗なの?」

「俺の知った事かよ。 俺達オピスの民は、綺麗だとかそう言うものにゃ縁が無いんだよ。 いつだって礫と罵声を背中に浴び、魔族からですら忌み嫌われて。 そんな俺達に綺麗だとかそんなものが振り向いてくれる訳がねえだろうが」

そう言って俺は心臓の上に彫ってある小さな蛇の刺青を、何気なく撫でた。これがオピスの民の共通点であり、ささやかな唯一の自己主張なのだ。

「……そっか。 そうだよね。 私達は……生きている事すらみんなから嫌がられるんだよね。 今だって、聖教機構のお情けで、何とかここに住まわせてもらっている……」

ヘレナはしょげた。でも、次の瞬間、意外な事を言う。

「それでも、私は生きたいな。 ずっとイノツェントと一緒にいたい。 誰からもダメって言われても、誰からも死ねって言われても、私は、イノツェントと一緒にいたいの。 こうやって、いつまでも一緒に虹を見上げたい」

「うぜえ」

俺は呆れてしまった。コイツは本当の馬鹿だ。前から分かっていたけれどさ。

「うん、分かっている。 でもね、私は嘘は言っていないからね。 雨に打たれる冷たさも、食べるものの無いひもじさも、立ちっぱなしの街角で凍えるのも、全部知っている。 だけど、今、私は生きたい。 今の私は、生きたいの」

「馬鹿じゃねえの? 人間なんて生きたいっていくら言おうが、簡単に死ぬぞ。 俺は簡単に殺してきた」

傭兵稼業やってりゃ、そりゃ殺人数が成果で、報酬に繋がるから、簡単に殺せるようになる。人なんて血と糞尿を詰め込んだ肉袋だって、否が応でも理解する。戦場でそれを理解しないヤツは死ぬ。それだけだ。怯える女の涙も、抱きかかえられた赤ん坊の叫びも、老人の哀願も、男も女も老いも若きも、みんな銃声がかき消すんだ。

で、やがて、それが楽しいって気付く。殺人は結構楽しかったりする。

神様が禁じようが、法律が死刑だと定めようが、そう言う禁断の果実はいつだって耽美なんだ。それに俺は逆に神様に聞きたい。『殺人にしか生きている目的や楽しみを見いだせない人間がいた場合、その存在も罪なんですか?』ってな。

お前がそう創った癖に。

「うん。 それも分かっている。 簡単に死んでも、私は最期まで、ううん、私は、たとえ死んだって――」

そこまで言ってヘレナは静かになった。でもその横顔は、穏やかに微笑んでいた。

俺はまた起ってきたので、ヘレナを押し倒した。


 ……俺がヘレナを喰い殺す、二か月前の事だった。


【ACT一】 最終決戦直前


 ……もう、随分昔の事だ。

安酒場でやけ酒にその日も溺れていたら、隣でも同じように溺れている男がいた。

気分悪く酔っぱらっていたので、男に絡んだ。

「おいアル中、辛気臭い顔しやがって。 おかげで酒がまずくなった」

男は素直に謝り、だが血を吐くように言った。

「それは失礼した。 だが飲まずにいられるか!」

何の理由があるのだろう。気になった。

「お前も何があったんだ」

「上司や同僚といつも上手く行かない」

「何でだ」

「悉く意見が対立する。 今日は精神病棟に入って来いとまで言われた」

「奇遇だな、ワシもそう言われた」

「お前は――」と男は軍服姿の俺を見た。そして、「まさか、『軍隊一の変人オリエル』がお前なのか?」

「そうだ。 だがお前はどこの誰だ」

「私はグレゴワールと言う。 内務大臣補欠補佐官だ」

「平役人だな」

「そうだ。 だが、もうじき私は馘首されるだろうよ」

「ワシだって除隊処分がいつ下るか分からん」

それからは、異常なくらいに意気投合して、愚痴を肴に盛り上がった。

俺達のいる、この国クリスタニアは列強諸国最弱の国だった。それもそう、権力は全て貴族に握られ、国王はその言いなりで、しかも『あれは無理だろう』と言われている赤字国債が山ほどあったのだ。

「ワシに一度で良いから軍を指揮させろ」酔った俺は半泣きで言う。「勝つから。 今度こそ死なせないから」

「戦友が、死んだのか」

「馬鹿の所為で犬死だ。 馬鹿な指揮官があんな状況だったのに突撃命令を出した、だが戦況不利と見た途端にその指揮官が真っ先に逃げやがった! 戦友は必死に持ちこたえた。 だのに増援すらヤツは拒んだ! あの時増援を出していれば戦況は逆転していた! ワシは、単身突撃しようとして営倉にぶち込まれた。 出てきた頃にはもう手遅れだった。 葬式すら間に合わなかった」

「良いヤツだったんだな」

「ワシと同じで庶民の出だった。 貴族ばかりの士官学校でいつも二人一緒に馬鹿にされた。 だがアイツはワシを認めてくれた。 たった一人だけ認めてくれた。 ああ、本当に良いヤツだったよ! だが無能の馬鹿共に寄って集って殺された!」

「……」


「国王が変わったな。 気の毒だ」

「そうだな。 アルビオン軍が攻めて来ていて、他の戦争でも負け続けだと言うのに。 恐らくこの首都も三カ月後に陥落するだろうよ」

「何故三カ月と分かった?」

「何、アルビオンは完全無条件降伏をクリスタニアに要求している。 流石にこれは、貴族連中も受け入れられないだろう。 だからしばらくは持ちこたえる。 だが、どうせ時間の問題だ。 アルビオンの事だろう、抵抗されると分かった時から貴族の懐柔を始めているに違いない。 全主要貴族の懐柔にかかる時間が三カ月くらいだと判断した。 後は、王族が今次々と他国に逃げているのは知っているか?」

「……どうせそんな事だろうと思っていた」

「残るは国王ただ一人だ。 哀れで孤独な、あの小柄な青年国王だ。 彼だけは逃げないだろう」

「どうしてそう思った?」

「もうこの国は終わりだ。 そんな事は誰の目にも明らかだ。 王族すら逃げる、泥船だ。 既に国王がどこかの国に亡命の算段を立てているのなら、その国が何らかの干渉をしてくるだろう。 アルビオンのみにクリスタニアを奪わせるなんて、黙ってはいられないだろうからな。 だが全くそんな様子が見られないのだ。 だから恐らく、彼はこの国に殉じるつもりだろう」

「可哀相だな。 クリスタニアの連中は貴族も王族もダメ人間のクズばかりだとワシは思っていたが、最後にまともな人間が残っていたのか……」

「ああ」


三カ月後。

 「おい、約束通り、街は焼いたがアルビオン軍をずたぼろにしてきたぞ。 あれじゃあ、あと五年はアルビオン軍も動けんだろうな」

「そうか。 それは良かった。 クリスタニアンの市街を焼き払った件については、アルビオン軍の仕業と公布しよう。 それで早速だが、アルバイシンがゲルマニクスと手を組んでクリスタニアに宣戦布告してきたのだ。 逃げたクリスタニアの王族の一人を旗印に担ぎ上げて。 総勢五万の軍勢だ」

「アルビオンの敗北した隙を突いて、か……」

「これもどうにか防ぎたい。 出来れば賠償金も分捕れるだけ分捕りたい。 出来るか?」

「幸い自軍の被害は一〇〇名程度だから、動かせるのは九千強の兵だ。 情報次第だな。 しかし賠償金目当ての戦争なのか、まあ不愉快だが分かった。 ワシの命令で焼き払った首都市街を再建する金が確かに要るからな……」

「おい、その半分以上は軍紀違反者という事でお前が処刑したんだろうが」

「そんな事より、敵軍の情報は?」

「彼女が説明してくれる」

そこで出て来た人物を見て、俺はのけ反った。と言うのも、年齢不詳の絶世の美女だが、夫や愛人になった男が全て不審死していて、噂では毒殺したともっぱらのとんでもない女『毒殺貴婦人』マダム・マクレーンだったからだ。

「おおおおおい、グレゴワール、お前、よりにもよってこんなのと」

俺は戦場に立たされた時より震え上がった。だが睨まれて、

「国王陛下をたぶらかしかけたのを引き剥がして部下にした。 性的関係は無い」

そう言えばそうだった。この男、やたら貞操観念にうるさくて、俺が娼窟に行こうものなら殴り合いになったのだった……。

「あのぅ」『毒殺貴婦人』は言った。「ねえ、情報が欲しいんじゃなくってぇ?」

「端的に情報の説明を頼む」グレゴワールは言った。

出てきた情報に俺は仰天した。アルバイシンやゲルマニクスの軍議に潜入したってここまで露骨な情報は得られない、それほどの諜報内容だったのだ。

「ねえ、これでよろしくってぇ?」

「……分かった。 勝ってくる」

と言うか、これほどの情報を得ておきながら勝てなかったらその戦争指揮官は銃殺させるべきだ。

「頼んだぞ」とグレゴワールは頷いた。

ケツ毛を毟るように賠償金をふんだくって帰って来ると、また同類が増えていた。今度は何と、あの大金持ちのメディチ家の当主ユースタスと、有名な女詐欺師アナベラだった。

「なあグレゴワール」俺は言ってみる。「お前、変なのばっかり集めるなあ」

「俺もお前も人の事は言えんだろう」

「そりゃそうだ」

「俺はこれから変人奇人を集めて来る。 とにかく、俺の出来ない事が得意な変人奇人をな」

そこに、ひょこっと顔を出したのが、チビでハゲっぽい青年国王だった。

「グレゴワール、また勝ってくれたのですか!」

「ええ、ですが全ての戦功はこのオリエルとマダム・マクレーンにあります」

国王はいきなり膝を折っておいおいと泣き出した。俺達の方が仰天した。

「もう駄目だと思っていました、もう死ぬしかないと……でも、今や希望を抱いても良いのですね!」

「ええ、陛下」グレゴワールは国王を抱き起した。「どうぞご期待下さい」


誰かに期待される事が嬉しかった。

邪魔だと言われず、必要とされる事が楽しかった。

認められ、受け入れられ、周りが同類ばかりで違和感を覚える事も無く、仮に違和感を覚えたとしても、ずけずけとそれを言えた。

そしてそんな俺達をにこにこして見ている男がいた。

不揃いな連中を誰よりも大事にしてくれる男だった。

国王陛下、と呼ばれていた。

だが、その立場がたとえ乞食だろうと、俺達にしてみれば本当に大事な存在だった。

俺達の統率係のグレゴワールなんか、彼に完全に心酔しきっていて、国王侮辱罪は死刑だと決めようとしたくらいだったのだ。

それに、陛下は女好きな所が俺と同じで、中々気があった。

陛下は、欠点だらけの男だ。

駄目な男だ。

兵卒にしたら一分後に営倉にぶち込まねばならなかっただろう。

それでも、何故か、俺達は欠点まみれの陛下が好きだった。

そしてそんな陛下に従う同類が、同類とやっていける事が、好きだった。

だから殉じた。

殉じる、と言うか、処刑される時は、ついに定めが来たのだな、と思った。

この世界に永遠など無い。

だからこそ愉快で楽しい。

そして俺達は、この世界を十分に楽しんだ。

あの銃声が鳴り響いた時、俺達は終わったと思った。

だが世界がまだ俺達を必要としていた。

まあ、そうだろうな、あれだけ俺達の謳歌した世界が、唯一神を名乗る怪物に滅ぼされるとあっては、世界だってたまったもんじゃないだろう。

俺達が処刑された後に待っていたのは、亡き国王と王妃の土下座だった。

泣きすぎて何を謝っているのかさっぱり分からない国王を、あの時のようにグレゴワールは抱き起して、言った。

「これも運命でございます。 陛下、どうぞお泣きなさるな」

……結果として、俺達は国王クレーマンス七世のために生きて、そして死んだ。

だから、神なんぞよりも彼を信じている。

ダメ人間の最高成績合格者の彼を信じている。

その彼からこんな命令が出てしまったら、しょうがない。

「どうか、お願いします。 世界を滅ぼすなんて、いくら神でも許される所業では無い!」


 排泄物みたいな悪人を痛めつけるなら意味は分かるんだよ、まだ。

でも善良で敬虔な義人を痛めつけてどうすんのって話だ。

しかも全知全能の神が平然とそれを放置する、ってさ。

神を試すなと言うのなら、人だって試しちゃ駄目だろうが。

おまけに、その放置の原因と来たら不純極まりない、俺との賭けがきっかけだぜ?

俺は嫉妬でこう言った、

「神様を信じているあの男の全ての所有物を奪い去れば、あの男だってすぐに信仰なんて捨てて、神様の顔へ向かって、神様を呪うでしょうよ」

そう、そして神様に気に入られているのは俺だけで良い。

こんなくだらない動機のためにあの男は散々に苦しんだ。思いっきり俺が苦しめた。

神様がそれを平然と看過した理由が、俺は後になって分かった。

この神は偽物だ。

偽物だから不完全な世界を創造構築し、無自覚な不完全さの塊の癖に唯一絶対の神として君臨している。

そもそもだ。

唯一絶対の神、ならば何でこう言う必要がある?

たかが多神教で崇拝されて自己を神と僭称する悪魔共と、己をこうやって比べる必要がどこにある?

『私は妬む神である、私の他に神はいない』

おかしいじゃないか。

異常じゃないか。

矛盾そのものじゃないか。

何でそれに俺達は気付かなかったのか。

答えは簡単だ。

馬鹿はすぐに宗教を信じて、信じる事で自らを盲目に貶める。信仰を捻じ曲げる。

でも大事なのって、道理から逸脱しない事、自分で思索し考える力を養う事、思想の値段が勇気で決まるのならば、行動の値段は覚悟で決まるのを忘れない事、大事なものを愛する事、そして、異物、他者を受け止められるだけの寛大さを常に持ち続ける事、そんな『当たり前』で『普通』の事柄じゃないのか?

神様に対してだって、『それは違う』と申し立てるくらいの、強さや覚悟が人にあったって悪くは無いんじゃないか?

本当の神様ならそれを笑って聞き入れるだろう。

だって人間が不完全な生き物だと、だが不完全ゆえに絶大な可能性を秘めている生き物だと、知っているからだ。

完全なものはそこで帰結する。

不完全性こそが進化を求める。

その過程でありとあらゆる罪過を犯そうと、取り返しのつかぬ悲劇を招こうと、よしんば惨劇と無意味の結末しか誕生させられなかったとしても、それでも、この進化の先にある何かを願って、人類の歴史や時間は刻まれてきたんじゃないのか?

知恵の実は食べたが生命の実は食べられなかった人類。

生きる事そのものが不完全の証明だ。死んでしまう命のどこが完全なんだ。

楽園を追放された人類の始祖。

二本の足でこの星の大地に立った時から、人類の不完全ゆえの進化は始まる。不完全ゆえに何かを求め続ける長い旅が始まったんだ。

なあ偽神。

かつての俺が崇めていた、唯一絶対神を僭称する化物。

アンタだって不完全なんだから、進化とその先を願う事が出来たはずなんだぜ。

だがアンタはそれに目を背けそれを拒絶した。

酷い話だ、俺みたいだ。

アンタはそれの代わりに、暴力と恐怖と贋宗教で全てを片付けようとしてきた。

俺のように。

でも、もう。

それが完璧に失敗だったって事、暴露されて全人類に晒される刻限が来たぜ。


 「何か、眠れないね」

ニナはそう言って、窓から夜景を見つめた。雨にぼやけた光が、夜の下で無数に煌めいている。

「……明日だもんね、姉さん」フィオナが彼女に寄り添った。

「うん、明日。 最終決戦とか言われても、多分、戦場に立たされるまでは、実感が出てこないよ。 だって、この星が滅びるとか言われたって……」

「……何で神様って生まれたのかな」

「分からないよ。 ただ……」

「……神様は神様だけじゃ存在できなかった。 私達みたいな、人間が必要だった。 変だよね、姉さん。 神様は神様だけで存在していれば、それで良いのに」

「うん……」

「かつて世界は完全だった。 物質でも無く、認識でも無く、言語すら超越した至高世界『プレローマ』に神々アイオーンはいた。 だが最高神プロパトールの深淵ビュトスを覗き込もうと『欲望パトス』を抱いたアイオーン・ソフィアが、その『欲望』の物質性により堕天した。 神々は彼女を救おうとした。 だが既に事態は手遅れだった。 神の堕落により物質世界が誕生してしまっていたのさ。 そこにソフィアは自ら幽閉された。 おまけに、『欲望』の成れの果て『アカモート』から出来損ないのヒルコを生み出していた。 ヤルダバオト=デミウルゴス。 不完全な神、即ちアルコーン偽神さ。 この偽神は物質世界を見渡して、己こそが唯一絶対の神だと思い込み、様々な世界を創造した。 だがこの神は矛盾に気付かなかった。 唯一絶対の神ならばそんな事をする必要がどこにある?って事にな。 何かに崇められなければ存在できない哀れで矮小な神だと己を自覚しなかったんだ。 そして正にそのために人類は生み出された。 だが人類にソフィアが『知恵の実』を食わせた。 アルコーンの中に有った、最後の『神性』を。 そして人類はこの神に対して反抗的になる。 激怒したこの神は、何度も人類を滅ぼそうとした。 だが神々が人類を守るために最初の救世主バルベーローを遣わし、そして次なる救世主ソーテールをも遣わした……」

「「I・C!?」」

双子が仰天していると、いつの間にか部屋に侵入していたI・Cが呟いた。

「アブラクサス、人間の癖にここまで知っていたとはな。 偽神の体に刻印されたお前の記憶、俺も認識したぜ」

「I・C、アンタ……」

ニナが驚いていると、I・Cはここではないどこか遠くを見つめて言った。

「夢幻の彼岸へ、俺達は渡らねばならないんだ。 夢は醒めた。 そして此岸に俺達がいる。 人類の長い旅、進化のその先を願う俺達が」

そして、完全に消えた。


 「我らが唯一絶対神よ」ガブリエルがひざまずき、慈悲を乞うた。「この星を滅ぼすと言うのは真でしょうか、真でしたら、どうかお止め下さい」

『……』彼らの神は、沈黙している。

「ねえ!」あまりにも沈黙しているので、たまりかねたハニエルが叫んだ。「神様! 何で私達まで殺すの!? 私達はいつだって神様のために生きて来た! なのに何で裏切るのよ!?」

「ハニエル、口が過ぎるぞ!」サンダルフォンが叱責した。「我らが唯一絶対神に対して無礼を働くと言うのなら、ただでは済まさん!」

「じゃあアンタは滅ぼされて上等なのね!」ハニエルが形相を歪めた。「私は嫌よ! 死ぬなんて御免だわ! こんな神様の所為でなんてね!」

『……』神が、薄目を開けて、ハニエルを見た。

次の瞬間ハニエルが蒸発した。床に大穴が空いた。大天使達は震撼した。

『お前達が勝利すれば』神の声が轟いた。『星を滅ぼすのは止めてやろう。 我を誰と心得る。 我は唯一絶対の神なるぞ……』

「はっ」メタトロンがこうべを垂れてひざまずくのに他の大天使も倣った。

「「我らが唯一絶対神よ、我ら大天使の勝利をどうぞご覧下さい」」


 あの光景、忘れる事など出来はしない。

帝都シャングリラ、竜の暴虐により壊滅。

『凶竜の禍』

美しくも遥かな歴史の重みを感じさせ、凛然と存在していた、女帝陛下のお膝元。

誇り高き帝国の、雅やかな帝都。

徹底的な、その帝都の凌辱。

エンヴェルが難を逃れたのは、他でも無い、妻を亡くしてからふさぎ込んだ彼の父を心配した叔父が、拠点の商都ジュナイナ・ガルダイアに招待して歓待しようとし、それにエンヴェルも同行していた、それだけだったのだ。

彼の姉兄は三人死んだ。親族はもっとだ。彼の父はそれ以来、全ての歯止めを無くしたように、明らかにおかしくなっていった。

破壊しつくされた建物、煙と火の手が上がっている、人々の悲痛な助けを求める声。

助けてくれ、俺の娘がこの下にいるんだ!

お願い、子供だけは、子供だけは!

何でこんな目に遭うんだ、俺達が一体何をした!?

エンヴェルは、友達を探した。帝都にいた、友達を必死に探した。

だが全て彼らの家は潰れて、燃えていた。

彼の叔父クセルクセスは部下が次々と運んでくる被害情報に形相を変えていた。

帝都は、ほぼ、『壊滅した』と言って良い。死者被害者の数さえまだ分からないのだ。帝宮のみが、かろうじて無事。

その原因は、竜の激突。

そう、いきなり狂って帝都を滅ぼそうとした弟ファーゾルトを止めるべく、兄ファフナーも竜に変身し、命尽きるまで必死に戦った、その結果がこれ。

兄を殺し帝都を蹂躙しつくしたファーゾルトは、どこかに飛び去ってしまった。

クセルクセスは臨時で枢密司主席となったジェラルディーンに向かって言った、

「……動機に心当たりはありますかな」

「全く。 全く、ありません」ファーゾルトの甥の彼にだって全く分からなかった。だって、ファーゾルトが殺したと思われる者の中には、ファーゾルトの妻も、ファーゾルトが親馬鹿呼ばわりされるほど溺愛していた子供も、仲の良い友人もいたのだ。彼は凡庸な帝国貴族で、だが両手に余るほどの幸せに囲まれて暮らしていた。それらをある日いきなり全破壊した動機など、見当たるはずもない。

まずジェラルディーンは帝国各地の軍支部に向かって、次のように臨時勅令を出した。

『帝国の危機なり。 帝都復興まで、死を覚悟して防備に当たれ』

「叔父上」幼いエンヴェルが、無表情で、テントの中に入って来た。「みんな、お家、潰れて、燃えていました」

「……」クセルクセスはかける言葉が無かった。彼とて愛娘とその乳母と庶子が行方不明なのだ。そして今、帝都は四方八方が炎上していて、その火災を必死でジュナイナ・ガルダイアの軍隊が消し止めている。

「叔父上、お水、どこですか」エンヴェルは言った。

「水の余剰はありません。 帝宮御苑の池の水を今、特別に使わせていただいている所です」

「じゃあ、そのお水、使います」

遠くで地響きが起きた。何事だとクセルクセスは血相を変えた。この惨事に重ねて、何が起きると言うのだ!?

「大変です!」部下が、消火に当たっていた軍隊の一人が駈け込んで来た。「御苑の水が、まるで生き物のように動いて、火を消し止めました! 帝都全域に水は広がり、ほぼ火災は鎮火したものと――!」

「「……」」

クセルクセスもジェラルディーンもエンヴェルを見た。エンヴェルは、クセルクセスに必死にすがり付いて言う、

「ねえ、みんな、助けて下さい!」

ジュナイナ・ガルダイア軍主動の徹夜の救助が始まった。怪我人の多さのあまりに、テントに入りきらず、露天に亡骸は転がさなければならないほどだった。弔う暇すら無かった。間もなくジュナイナ・ガルダイアや帝国各地からの救援物資が届いた。ジェラルディーンが勅令を出したのだ。

『帝国存亡の危機につき、直ちに物資を帝都へ輸送せよ』

そして人手も来た。主に帝都に家族や親族、知人がいた人々であった。彼らは遺体を弔い、あるいは怪我人の手当てや救助に参加した。

そして数日後にようやく、被害の甚大さが数となって分かった。

帝都居住の貴族及び平民の九割が死亡あるいは重傷、残りの一割はまだ軽度な怪我人。無事な人間は。特に被害が甚大なのは帝宮周囲、帝都の首都機能の最も大事な行政及び軍事機構の密集地帯であった。

女帝陛下の住まう帝宮だけは護ろうとしたファフナーとの、滅ぼそうとしたファーゾルトとの激突の余波の結末であった。

クセルクセスの家族の行方も分かった。娘達は怪我で済んだが、乳母であった愛人は死んだ。だが彼には弔う時間すら無かった。クセルクセスは救助隊の総指揮を執っていて、そして指揮を執るのが彼でなければ、大勢の人間が救助が間に合わず死んでいただろう。

そして、平穏に暮らしていた人々に、文字通り天から降り注いだ災難の、凄まじい恨みの矛先は、全てジェラルディーンに向かった。

『お前の叔父の所為で!』

『家族を返して!』

『お前が死ねば良かったんだ!』

ジェラルディーンは己の高貴さ、ただそれだけでこれに耐えた。

そしてやるべき事を全て成し遂げて、引退した。

彼の最晩年、エンヴェルを養子にもらった後、ジェラルディーンは一度だけ言った事がある、

「僕の叔父は、決して、あんな事をする人間ではありませんでした」

凶竜の禍から何年も経って、その原因が分かった。

大天使ミカエルの仕業。

エンヴェルは、決めている。

絶対に大天使ミカエルだけは許すまじと決意している。

彼から友達を奪い、親族や家族を奪い、そしてファーゾルトを乗っ取った大天使だけは、許してはならないのだ。

彼の耳には今でも聞こえている。

建物が燃えて崩れる音、悲鳴、断末魔、そして助けてと痛ましく叫ぶ声が!


 エヴィドフ・ツォルネーギンは同性愛者だった。だが異常性癖であった。性行している間、相手を死ぬまで拷問するのが大好きなのだ。今までそれが大事にならなかったのは、哀れな被害者がもっぱら男娼で、死体を捨てておいても警察も本気で捜査はしなかったからと、その性癖を抑えられるだけ抑えておいて、爆発させるまでの期間が長かったからである。

だが、今の彼は目をわずかにぎらつかせていた。

あれほどの美青年、今後現れるかどうかはかなり怪しい。

先日、聖教機構に亡命した、クリスタニア王国のうら若き青年、ギー・ド・クロワズノワ。

その類まれなる、いや、人類史上にこれほどの麗人は彼以外存在しなかったとさえ思える天使のような美貌に、エヴィドフは抑えつけていた性癖が爆発しそうになるのを堪えられなかった。

幸い、現在のギー・ド・クロワズノワは、誰が保護したとしてもいつ自殺しかねないか分からないほどの酷い精神状態である。

無理も無い、国を追われ家族を殺され、平常でいられる方がおかしいのだ。

だったら俺が、とエヴィドフは邪に思った。殺してやろうじゃないか。

それで聖教機構幹部の彼は表向きの名目はギー・ド・クロワズノワの慰安と保護のため、ギーが保護されているサンタ・ルチア教会に向かったのである。

教会は厳かに静かで、だが、ギーのすすり泣くような声が聖堂の奥から聞こえた。

「ギー君、失礼する」

そう言って聖堂の扉を開けた瞬間、にやついていたエヴィドフが凍り付いた。

彼の政敵、聖教機構名うての軍人『覇王』イザーク・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインが泣きじゃくるギーを抱きしめて、その背中をさすっていたのである。

イザークの眼が、エヴィドフの姿を認めて、獣のように光った。一声で数万数十万の軍を指揮した、その声が放たれる。

「これはエヴィドフ。 生憎この若者は貴様のオモチャにするには勿体ないぞ?」

エヴィドフは必死に顔は取り繕ったが、手が震え出すので慌てて握りしめた。

「何の事でしょうかな、イザーク殿?」

「そのままの意味だ。 分からんのなら出て行け」

「……あ、貴方こそ、ギー君に何をするつもりなのですかな?」

「軍隊指揮官が志願兵を集って何が悪い。 この若造、オリエルの話が事実ならば、俺より余程優れた軍人だ」

決死の思いでエヴィドフは抗議した、それほど目の前の若者は奪われるには惜しい甘美な果実であったのである。

「彼は政治家です、軍人なんぞに貶める気か!」

ふん、とイザークが鼻先でせせら笑った。

殿、俺に一体何を言う?」

完全に絶句したエヴィドフの脇を、ギーを抱きかかえるようにしてイザークは通り過ぎた。

「俺の軍の諜報部はとても優秀なのだよ、エヴィドフ」

この日の夜、エヴィドフは自殺した。

イザークはギーを自分の館に連れて行った。彼には息子が二人いた。息子らに彼は言った。

「面倒を見てやれ、そして回復したら軍隊に入れろ。 多分お前達よりは余程使える軍人になるだろうよ」

次男の方はこの言葉に激怒した。目の前のやつれきった青年は、長年軍隊で鍛えられた己と比べたら、青白いモヤシと同じだったのである。それで彼はギーを無視した。

対して長男のアマデウスは違った。彼は軍隊にいても、腰抜けの役立たずだ、あれでヴァレンシュタイン家の長男か、あのイザークの息子かと散々に言われて、周囲のそんな声に委縮しきっていたのである。彼は自分と似て精神的に弱り切っているギーに親近感を抱いた。

彼はギーに本当に良くした。己の服を分けて、食事から何から手配させた。

徐々にギーは回復して行き、アマデウスと親しくなった。

その頃から、であった。アマデウスはこの青年と付き合っている内に、背中がぞっと冷える体験をするようになった。それは、万が一この青年と彼が敵対した場合を考えると、発生するものであった。

単に頭が良い、勉強が出来る、と言うものでは無いのだ。まるで全てを見通されているかのような、鋭い観察眼。アマデウスの靴に付いたわずかな泥でアマデウスが今日どこに行ったのかを見抜いた。大胆で狡猾な行動力。だが露骨にそれを指摘するのではなく、あの地方は今日は冷えただろうとさり気なく口にする。美しい戯言と邪悪な真実を同時に物語れる舌で、軽妙で愉快な詭弁と心臓をえぐり取るような豪傑な演説を使い分ける。何故それをと問い詰めたアマデウスに涼しい顔で、「たまたま天気予報を見ただけだよ」と言ってのける。戦略的思考は恐ろしく的確で、そして敵の致命的箇所を秒内に見抜く。「それよりアマデウス、熱い紅茶でも飲まないか、靴は後で磨けば良いぞ」と優雅に微笑む。寛大と残酷を共生させていて、残忍性に震えが来ると言うのに魅惑的でたまらない不可思議な人間性。「ああ、アマデウス、その茶葉はダメだ、異物が入っている。混入させた召使いはイザーク卿に既に引き渡したよ。ん?だってヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン家でこんな不祥事が起きたなど知られたくはないだろう?」

つまりは、単なる政治家にしておくも勿体ない、ただの学者でも物足りない、一介の軍人にしておくなど論外だ、かくなる上は未来の国家組織の元首にするしかない、と人類最高にして最強の騎士達『一二勇将』が嬉々として育てていた青年、それがギー・ド・クロワズノワであった。

アマデウスは恐る恐る軍隊に入らないか、と声をかけた。意外にも、すぐに承諾の返事が返って来た。

そしてアマデウスは、オルトラキ・ヴァウの戦場で度肝を抜かれる経験をする。

ギーを指揮官たる彼の参謀にした所までは、まだ普通だった。

普通の、聖教機構と万魔殿の膠着しているどこにでもある戦線の一つだった。

してからが問題だった。

三日後に敵の戦線崩壊、聖教機構、局地的勝利獲得。

ギーは言った、今仕掛ければ波状に周囲の戦線も崩壊できるが、どうする?

アマデウスは頷いた。

この頃には、彼は心底この男を敵にしなくて良かったと思っていた。

そして、オルトラキ・ヴァウ地方は聖教機構の完全支配下に入った。

帰還したアマデウス達をイザークは笑って出迎えた、そしてアマデウスに言った、

「どうだ、俺の言った通りだっただろう」

アマデウスは頷いた。

そして、この体験がアマデウスを変えた。

ギーを敵に回す事に比べたら、己があれほど恐れていた周囲からの風聞ごとき、ハエが煩いだけだ、恐れるには全く値しないものだった、と悟ったのである。

イザークが推薦して、ギーは聖教機構の幹部候補となった。その後は凄まじい勢いでギーは出世し、権力を獲得していった。それには及ばなかったが、着実にアマデウスも戦績を挙げて、あれはイザークの息子で間違いない、次のヴィルヘルム・ヴァレンシュタインに相応しい、と言われるようになっていった。

そう言う訳で、若い頃からギーとアマデウスは盟友であった。


そのギーが酒を飲みながら、アマデウスに語った事がある。

「私はあの人達に生かされた。 だから、いつかは誰かを生かしてやりたいのだ」

実は聖教機構と万魔殿で恒久和平条約を締結したいのだ、とアマデウスに打ち明けた際の言葉であった。そんな事が、この数百年間激突していた組織に可能なのか、と思わずアマデウスは驚いた。いや、この男ならきっと不可能では無いのだろう。だが、

「仮に貴方がそれに成功したとしよう。 だが、貴方の死後はどうなるのだ」

この偉大な男がいなくなった途端に、人類は手の平をひっくり返したように戦争の世界に戻さんとするだろう。それをこの男が予測していないとは思えない。

「すぐに戦争世界に戻るだろう。 だが私は私の全生涯をもって示したいのだ、全人類に全世界に歴史上に、平和な世界の実現は不可能ではないと、俺とアイツが握手できる、そんな世界は確実にあると言う事を!」

「……」

何と言う男だ。アマデウスは震えが来るような感動に満ち溢れた。そうだ。いくら歴史上から抹消されようと後世に都合の良い様に改変されようと、あったものはあったのだ。出来たものは出来たのだ。やるべき事はやり遂げたのだ。ほんの僅かで良い。決して不可能ではないのだと、心に希望を灯すのだ。

「……何が貴方をそこまで……」思わず問うた答えが、先ほどの言葉であった。


 雨が降っている。夢魔にうなされる夜の吐息のように降っている。絶望も希望もそこには無い。悲劇も喜劇も、善も悪も、夢も現も。ただ、全てが過ぎて行くだけである。

劫波アイオーンか」

I・Cは、ぽつりと、言葉が零れ落ちるように言った。

『永遠性を表す言葉がこの世界では主に「時間」に関するものだからね』

若い青年が、彼の背後に立っている。I・Cは窓辺に寄りかかって、滴る夜空を見ていた。

「下らねえ。 時間的永遠性なんかそれこそ『夢』だって事を俺は知っている。 愛だって夢の狭間に消え失せる。 きっと俺のこの不老不死の肉体だって、この宇宙が滅びりゃいい加減滅びるだろうさ。 だのにお前らは永遠を説く。 愛の中に永遠があると信じている。 何でそんなまやかしをほざく?」

『刹那の泡沫うたかたの中に永遠がある。 永遠とは瞬間的、『刹那』で『須臾』なのさ。 そしてそれらが無限に連鎖している。 河は数多の泡沫を産み、そして流れていく。 その流れの行きつく先……「海」を君達は進化の果てに望んでいる』

「海か。 水の根源、だな。 命の揺籃にして最高の致命毒」

『そう、君達は命の源に進化の果てに至ろうと願っている。 命の胎は等しく毒の杯だ。 それが物質の限界、君達の認識の限界。 だけどね、永遠であるものは完全であるがゆえに、進化も何も望まない。 過去も無ければ、今も未来も無い。 その完全ゆえに停滞した世界をソフィアが変えてしまった。 完全から不完全が誕生した、君にもこれの矛盾は分かるだろう? 。 ただそれが物質だったか否かの認識しか無かったんだ。 でもこの物質的不完全世界、認識が限界の世界を、我らの父プロパトールはお許しになった。 それが全世界の運命記録アカシック・レコードの定めだったからじゃない。 この世界に膨大な、それこそ全世界を爆発させんばかりの可能性があるとご存じだったからだ』

「……」

『だがその可能性は、時として悲劇や惨劇をもたらした。 特にこの世界の言語などは欠陥の塊だ、酷い時には可能性を激突させる。 ついには「神と呼ばれるもの」とその被創造物「人類」の激突まで、ね。 僕達救世主が来た理由は、その激突の緩衝材になる事だった。 僕の前に来たバルベーローは人類を滅亡から守って消えた。 愛は言葉を飛び越える。 時間も何も超越する。 君は一人じゃないと孤独を抱きしめる。 愛はバルベーローであり、そして僕ことソーテールだ。 僕らは滅びると言う事が無い。 何故なら、愛の根幹は時間でどうにかなるものでは無いからだ。 愛の根幹は神性、この世界での認識の最高の頂。 僕らの世界とこの世界をつなげる扉の鍵。 ああ、愛と言うこの世界の言語が良くない。 君を少し誤解させてしまった。 けれど類似語に中々良いものも無いのが実情でね』

「だったら黙れよ。 今の俺は憂鬱なんだ」

『明日、彼女が目にするであろうものを考えて、だろう?』

「……」

『それは君の考えだ。 君は、やや独善的に考えている』

「じゃあどうしろってんだよ!」I・Cは振り返って怒鳴った。「偽神の『可能性』を叩き潰す事にヘレナが傷つかないとでも思うのか!」

青年は、悲しそうに言った。

『君はその理由で、彼女を盲目にしてしまえば安心だと思っているのだろう。 だが、彼女は優しい腕で抱きしめる。 全てを、抱擁する。 死すら彼女の愛なのだよ』

「……俺は」

青年は首を横に振った。

『君は、これ以上彼女に甘えるべきでは無い』

「!」

『彼女は優しさゆえに今まで君の甘えを全て受け止めて来た。 君はそしてその甘えを愛情だと錯覚している。 魔王、目を覚ませ、そして彼女をも愛せ』


 マグダレニャンは目の前の重力車を見つめている。父が作って、彼女も一緒に乗った、楽しい思い出ばかりが詰まった車である。I・Cやランドルフも一度だけ護衛のためにこの車に乗った事があるのだが、『もう一度これに乗せられるくらいなら異端審問弾劾裁判で死刑にして下さいお願いします』と降りた途端に土下座して、結局二度と近づこうとさえしなかった。ノンブレーキのフルアクセルで音速に限りなく近い速さで道路を突っ走っただけなのに何と言う虚弱な精神だ、それでも精鋭の特務員なのか、と父が呆れかえったのにマグダレニャンも心底同意した思い出がある。

マグダレニャンは運転席に座ってみた。助手席からこの席に座っていた父を見つめていた、懐かしい過去が思い出される。

あの恋しい横顔をこれ以上穢させないために。

彼女の中で決意が鋭い刃となった。

私の意志で貴方を殺しますわ。

彼女は車を降りた。

車庫の出口に、ヨハンが立っていた。

「あらヨハン、こんな夜中にどうしましたの?」

「君こそ、妊娠中なのに無理をしたらいけないよ。 ……実を言うと第一次奇襲作戦がもうすぐ開始される。 それに伴い、遊撃精鋭部隊の招集がかかったんだ」

「!」

「僕も往く。 イリヤもだ。 僕らの攻撃目標はサンダルフォン。 だから、一言、君に謝ろうと思って」

君の父親と戦うしか無い事を、謝りたい。それを察したマグダレニャンはヨハンに駆け寄って、

「……死んだら許しませんわよ。 私は既に覚悟しています。 ですが貴方達が死んだら、絶対に許しませんわ!」

一瞬驚いた顔をしたヨハンだったが、すぐに、しっかりとマグダレニャンの手を握って、頷いた。


 そこはとても奇妙な光景であった。大天使達に因縁のある者やえりすぐりの強者を世界中から勢力を問わずにかき集めた所為だった。

普段ならばこの面々の内部で激闘が起きてもおかしくないのだが、今は非常時だったので、それは辛うじて抑えられていた。


「うわあ、睨みあうのは止めて!」ニナが思わず間に割って入った。アズチェーナはその背後でもう完全に縮み上がっている。「ジャンヌさんとベルトラン、眼が怖いよ! 本気で睨みあわないで!」

だがベルトランは、

「この魔女に僕は……!」

一方ジャンヌも、眼を赤く光らせて、

「いつだって焼き殺してやる」

『諦めろ、娘。 この二人を仲良しにしようなどと気苦労が溜まるだけだ』

「うん……」

悪魔のアスモデウスに慰められるニナだった。


『おう、ワシのひ孫! ワシのひ孫だけあって自慢のひ孫だ!』

対偽神軍総司令官オリエルがヨハンを見つけて、意気揚々と声をかけた。

「無神経で厚顔無恥で有名な人にいきなりひ孫とか自慢だとか言われても全く嬉しくないです」

だがヨハンは一撃でオリエルを沈めた。落ち込んでいるオリエルは、『中々言う小僧だ、見どころがある』と思ったグレゴワールに引きずられて行った。


「良いか、オットー」ロットバルドが無感情なオットーに、いつになく冷たい声をかけた。「ためらったら全てが台無しだ。 くどいようだが、分かっているな?」

「……ああ」オットーの乾ききっているのに妙に熱っぽい眼に、一瞬だけ何かの色がよぎった。

「よし、ならば良い」


「大将」エンヴェルの部下の一人が、こっそりと耳打ちした。「例のものですが、完成しました。 使われますか?」

「使う」とエンヴェルが答えた。

「……死ぬなよ」セルゲイが小声で言った。

「寂しん坊のお前を一人ぼっちには出来んぞ」

エンヴェルはセルゲイの背中を叩いた。

「……うるせえ」


『レット、大丈夫?』

「大丈夫、現在異常なしさ、エステバン」

『我ながら張り切って色々と機能を詰め込んじゃったけれど、使いこなせる?』

「どうだろうなあ。 元々僕は戦闘職じゃなかったしねえ。 ただ、僕は安易に死ねないからね。 安易に死んだらジョニーがどうなるか。 散々説教されたから、もう懲り懲りなんだ。 だから、必死に足掻いてみるよ」

『シャマイムの戦闘経験、入れようか?』

「自己犠牲は僕の性分じゃないよ」

『そりゃそうだ』

「じゃ、そろそろ時間みたいだ。 またね、エステバン」

『うん、またね、レット』


「ランドルフさん」その女は、漆黒の剣を手に不思議そうな、やや少女じみた顔をする。「どうか、しましたか?」

ランドルフは少しの間何も言わなかったが、すぐに苦笑して言った。

「イザベル、いや、何でも無いんだ。 どうも私は緊張しているようだ」

「それは……そうでしょうね。 大天使達が相手なのですから」

「そうだ。 君の方こそ大丈夫かい?」

「ええ。 少し怖いですが、すぐに消えるでしょう」

「無理はしない方が良いよ」

とランドルフは優しく言ってから、顔を壁の方に向けて、一度だけ、ぎい、と歯を噛んだ。だがそれも刹那、すぐに元の温和な紳士の顔に戻る。


 『で、アルトゥール、その輪っかがさっき言っていたアレか?』

落胆から回復したオリエルが、同類を見て、言った。同類アルトゥールはフラフープのような、大きな輪っかを掴んで興奮のあまりに飛び跳ねている。

『その通りだオリエル! これが長距離物質転送装置テレポーターだ!』

『まーた爆発するのか、どかーんと』

『するか! いいか、この天才アルトゥール様がこれの説明をしてやる! これはな、物質の長距離転送を可能とする装置だ! 万魔殿から引ったくった……ゲフンゲフン、万魔殿から借りた遺物「アリアドネの糸」を改造した発明品だ。 元のアリアドネの糸は付着した物質を安全に近距離転移する遺物だった。 だがこの天才にかかればこの通り、この輪をくぐった者は安全に遠距離を行き来できる! まあ現時点での問題は、転移点が二つしか指定できん所だがな!』

『つまり、一度使ったら、出口と入口が固定されてしまう、と』グレゴワールが険しい顔をした。『それは重大な問題だ。 大天使達には聖槍がある。 あれで出口の方を破壊されれば、その破壊力は同時にこちらの入口をも破壊するだろう。 当然、周辺に甚大な被害をもたらしつつ、だ。 だが聖骸布を展開する訳にも行かない。 こちらも戦えなくなってしまう。 どうするのだ?』

『精兵を送り込み次第、閉じるしか無いだろう』とアルトゥールは平然と言ってのけた。

『!』グレゴワールが瞬時に憤怒の形相を浮かべ、だが彼が怒鳴る前にオリエルが言った。

『アルトゥール、お前な、ワシの鉄則を忘れたとは言わせんぞ。 「軍紀違反者以外は何があっても助ける」、送り込んだ精兵が増援無きがゆえに全滅したらどうするのだ』

『うーむ……』アルトゥールはようやく困った顔をする。

そこに、名乗り出た者がいた。

「僕が門番をやる」

ヨハンだった。オリエルがワシのひ孫と言う前に彼は振り返って、

「イリヤ、聖王の攻撃は僕が食い止めるから、聖王を頼む」

「……勝算は?」イリヤはいつになく静かに訊ねた。

「彼が言っていた。 あの時に、彼が」ヨハンは答える。


……「『聖槍』のさー、あの破壊力の源って何なの?」青髪の男が、ヨハンやイリヤと遊びつつ、何気なく言った。「お前、ランドルフあんま虐めんなよ。 可哀相だろうが。 また入院させやがって……」

「精神力としか答えようが無いな。 破壊すると言う思念が凝縮されて発射され、そして実際に破壊する。 あれの唯一の盾となる『聖骸布』だが、あれは一切合財の攻撃を無力化する。 だから、俺の破壊思念も消されてしまうのだろうな。 後」聖王は目を吊り上げて、「あの馬鹿は私の可愛いマグダにまた色目を使ったんだ!」

「使うも何もお前の娘はまだ二歳じゃねえか! どこに色目を使うんだよ!」

「まだ二歳とは何だ、まだ二歳だと! もう二歳なんだぞ! 本当に可愛いんだ! 私の小さな天使なんだ! そのマグダに色目を使ったんだぞあの馬鹿は! 殺さなかっただけ、まだ慈悲があったと思え!」

「超弩級のアホだ……お前、親馬鹿の極みだな……娘が絡むと途端に馬鹿になっちまう……将来世界最悪のモンペになっている姿が克明に見えるぜ……」

「モンスターペアレントが何だ! 私のマグダを虐めたヤツは殺すだけだ」

「……駄目だこれは。 俺でもどうにもならん……こんなつもりじゃ無かったんだ、ごめんな、ランドルフよ……」


「そうか、オリハルコンは人の精神に呼応する。 唯一の盾になれるかも知れない、という事か」イリヤはそう言って、頷いた。

「ああ。 僕は、やる」ヨハンも頷き返して、「それで良いですか?」とオリエル達に確かめた。

『おう!』

ご機嫌なオリエルと、やや安どした顔のグレゴワールがそれを認めたのは、明白であった。


 長距離物質転送装置テレポーターが起動した。対偽神軍軍事拠点『ゾーエー』の緊急で築かれた城壁に、向こうが見えぬ黒い穴が空いた。

『排出支点の固定化開始……座標特定完了。 ロトのバベル・タワー間近に空いたぞ!』アルトゥールはそう言って穴から離れた。『さあ往け!』

「ああ、行くぜ、シャマイム!」I・Cがその穴に一番に飲み込まれた。

穴が向こう側の景色を映し出した。実際には何の建築資材で構築されたのかも分からぬ巨大な黄金の塔が、夜のさなかに異様に輝きつつ、そびえ立っていた。


【ACT二】最終決戦ファイナル・ジャッジメント


到天塔バーブ・イル』か。

オリエルは思う。

神ともあろう者が、何故己の所に人が至るのを恐れにゃならんのだ?

なるほど、どうやらそう言う事らしいな。

彼の全身がまるで獲物を前にした獣のように、気配を研ぎ澄ませ始めた。

老いぼれ参謀達が活き活きと彼に状況報告をする。オリエルは往時のように大声で指令を飛ばす。

『おい、死ぬまでこき使うと言っただろう! もっと働け!』

「「イエス・サー!」」にやりと一様に笑って、参謀達は我先に働いた。

既に死海や世界各地での軍事的覇権は彼らが掌握しつつあった。だが問題はここからだとオリエルらには分かっていた。人間の軍の倒し方ならオリエルらはいくらでも知っている。だが、彼らには『神』との戦い方など見当も付かないのだ。所詮、これは前戯で小競り合い、本戦はロトのバベル・タワーでの闘争である。

大天使と戦って勝たねば、いくら人間の軍に勝利したところで無意味だ。オリエルはその焦燥感に耐えた。時にはただ待つしかない戦もあると知っていたのだ。


 「来る」ヨハンは、暁闇の雨空を睨んだ。

門番たる彼は、一人後に残り、長距離物質転送装置の出口を死守していた。

『マスター、行きましょう!』彼の所持する銀の卵がそう言って、次の瞬間、彼は巨大な白銀の戦乙女達の内部で彼女達を指揮している。

『愚かなものだ』声が響いた。ヨハンの所持する通信端末から声が響いていた。『この聖槍の直撃に耐えられた人間などいないのに』

「あの人は言った。 聖槍を受けても立ち上がった者にしかマグダはやらないと。 だから僕は立ち上がる!」

『嘆かわしいな。 お前の声も意志も何もかも聖王には届きはしない! 私は大天使サンダルフォンだ。 滅べ、人間』

ヨハンは一言、断言した。

「断る」

ヨハンは迎撃態勢を取った。その時、声が――『接続』していたために漏れ聞こえた。

『む? イリヤか。 よくもまあここにたどり着いたものだ』


 イリヤは無人の塔を駆け上っていた。無人の、言うのは正確では無い。屍まみれの塔であった。かつてのイリヤの部下もその中に血まみれで転がっていた。その大半が往時の成りを留めておらず、巨大な獣のようなものに喰われた後があった。

『ミカエル』か『ラファエル』だな。I・Cが呆れたように言っていた。アイツら、最終決戦前に空腹じゃと思ったんだろう。共食いは美味いからなあ。

既にそのミカエルとラファエルとは交戦中だと言う通信が来ている。メタトロン、サンダルフォン、そしてガブリエルとハニエルだけがまだ見つかっていない。

『ガブリエル発見! バベル・タワーの頂点だ!』

レット・アーレツからの緊急通信。それとほぼ同時刻に、

『メタトロン発見。 中央指令室だ』万魔殿からの通信が来た。

どこだ。イリヤは想定しうる可能性の全てを挙げて考えた。どこにサンダルフォンはいる?

サンダルフォンの聖槍は『連中』の乾坤一擲の最強の兵器である。

だが弱点がある。

発動直後に次発を撃てない『連発性』に欠ける事、そして、発動目標を明確に視認、あるいは認識しなければ放てない事、である。やたらめったらに好き放題撃てる、のでは無いのだ。

とすれば、とイリヤはこの一つの可能性を掴んだ。

視界の良い、塔の頂点付近にいる。だがガブリエルが発見された事で、身を潜めている。

イリヤは雷槌ミョルニルを握った。電気信号を感知する事で、サンダルフォンの生体位置を探ろうと言うのだ。

突き止めた。あの人の生体反応が、この上の階からするのだ!

ミョルニルから迸った電流は高温のプラズマとなって、天井に大穴を空けた。そこにイリヤは飛びあがった。

いた!サンダルフォンだ!

優雅に椅子に腰かけて、イリヤには背を向け、外の光景を映す数多の大型モニターを見つめている。そのモニターのど真ん中に映っているのは、夜の闇の中でも白銀にまぶしいヨハンの戦乙女達だ!

だが、モニターの光に照らされる、そこ一帯の光景の方を見て、イリヤは完全に激昂した。

一匹の巨きな、いくつかの獣の形が混ざり合ったおぞましい姿の獣が、そこら中に転がる死体を喰っていたのだ。それは、彼の、かつての、部下達だった。

「見たまえイリヤ」とサンダルフォンが言った。「この男に哀れな小僧の願いなど届きはしない。 全てを浄化する聖槍で、滅ぼすのみだ」

「させん!」

サンダルフォンに襲い掛かろうとしたイリヤの前に、合成獣キマイラが立ちはだかり、吼えた。

「下らんな、やはり人間ごとき。 我らが唯一絶対神のお手にかかれば、どうせ人間ぐらいいくらでも創りだせるのだ。 一度全てを粛正し、そして――我ら大天使のみが最後のこの日を、我らが唯一絶対神の怒りを逃れれば良い」

イリヤの方など見もせずに、サンダルフォンは椅子から立ち上がった。

「さあ! 滅べ!」

イリヤは飛び退った、同時に彼のいた空間は獣のあぎとに薙ぎ払われている。

「聖王よ、目を覚ませ!」イリヤは叫んだ、あの優しかった男の人に届く事を願って、叫んだ。「ここに私はいる!」

「無駄だ無駄だ」サンダルフォンの体がまばゆい光を放った。「お前の祈りも何もかも、届きはしない!」

サンダルフォンに接近したくても、獣がことごとく邪魔をする。

そして――光は凝縮されて、凄まじいエネルギー塊となる。

「さあ死ね、小僧!」


聖槍、発射。


 ヨハンが天空から稲妻のように降って来た聖槍と激突した。聖槍は彗星のように尾を引き、本当に天かける槍のようだった。ヨハンは絶叫した。

「聖王、僕の声を聞け! 目を覚ませ!」

巨大な爆発が起き、それにヨハンは飲み込まれた。大地にクレーターが産まれて激震が走り、波がうねった。

その様子を司令室のメインモニターで見ていたオリエルらは、思わず目を覆った。それほどの光量だったのだ。

『何と言う……!』

ぐう、と歴戦不敗の男が呻く。

「戦乙女より全連絡途絶! 直撃により発生した甚大なエネルギー波により、こちらからの一切の接触及び通信の試みが出来ません!」

参謀の一人が、悲鳴を上げた。

『馬鹿者!』だがオリエルは怒鳴りつけた。『ワシのひ孫だ、これでくたばるなどあり得んわ! さあ目ん玉おっ広げて起きんか、ギー坊や!』

『……ああ』

その時、あの声が響いた。


「!?」サンダルフォンが形相を変えてモニターに詰め寄った。「な、何故、」

まだ、立っているのだ!?

戦乙女は盾と盾を構えていた腕を無残にも蒸発させられていた。聖槍直撃により受けた酷い熱量に、全身からじゅうじゅうと降り注ぐ雨が蒸気に変えられている。

それでも、立っていた。

大地の上に君臨していた。

その時、やっとイリヤが獣を仕留めた。

「貴様ぁッ! ――!?」

すぐにサンダルフォンを倒そうとした彼だったが、すぐにサンダルフォンの異変に気付く。

サンダルフォンの右腕が、いきなり奇妙な動きをしたのだ。それは素早くモニターを叩き、通信機器や通信の波長を全開放した。ヨハンの、呻きに近い声が、途切れがちに聞こえた。

『聖王、僕は、ここに、立っているぞ……! だから、』


目を覚ませ。


「……ああ。 こんなに感動的な目覚めは、本当に久しい……」


「聖王!」イリヤは叫んだ。

男が振り返った。

恋しいくらいに懐かしい、老いたあの男の人が、そこにいた。

「イリヤ、今すぐ退避しろ」

彼は微笑んで、言った。イリヤは戸惑う。

「聖王?」

だがその次の瞬間サンダルフォンが出てきて、絶叫した。

「貴様は何を考えているのだ、止めろ、それだけは止めろ!」

だがすぐに支配権は聖王により奪い返されて、

「ハニエルは偽神に抹殺された。 残るは、メタトロン、ミカエル、ガブリエル、ラファエル、そしてこのサンダルフォンだ。 このサンダルフォン以外は、自らが創造した『異世界セフィロト』に陣取っている。 世界を滅ぼさんとする神もだ。 大天使達は神を殺す際の重大な障壁となるだろう。 だから、このサンダルフォンは、せめて私が処断しよう」

「聖王……!」イリヤは聖王の意図を悟った。だから、一礼して、言った。

「どうか貴方に、神の祝福があらん事を!」

「ありがとう、イリヤ。 さあ行くんだ!」

イリヤは泣き出しそうな顔を見せまいと、去って行った。

「馬鹿、それだけは止めろ、止めろと言っている!」

「何をだ? 何を止めて欲しいのだ、大天使? 土下座して私の靴の裏を舐めようがもう遅いぞ。 散々私の娘を痛めつけてくれた外道貴様に、今更この私が慈悲を微塵たりとてくれてやるとでも思ったのか? 大体貴様はあのような低火力な破壊思念しか放てぬ下等な精神構造の癖に、よくも私を乗っ取ってくれたな?」

『お父様!?』モニターにマグダレニャンが映された。『お父様!』

今や聖王は、完全にサンダルフォンの強力な情報受信・発信能力を奪い取っていたのだ。

「そうだ、マグダ。 大きくなったねえ、私は嬉しい。 どうか、幸せに――」

『お父様! 私は――!』

貴方を殺せと、私の意志で命令した。

「良いんだよ。 私の可愛い孫まで殺せなどとほざく鬼畜は殺して上等なのだ。 それに、私は今、ようやく本来の私に戻れた……だから言おう、おめでとう、と」

『お父様!』マグダレニャンが目を潤ませた。『ありがとうござい、ました……』

「はは。 何も泣く必要なんか無いんだよマグダ。 これは私の、『聖王』の最後の務めなのだから」

「ば、馬鹿、お前は何を考えているのだ!」サンダルフォンが錯乱した半狂乱の断末魔を上げた。「一体何を考えているのだ!」

「実に簡単な事だ。 この私が、聖王とまで呼ばれたこの私がだ。 私の後継者達の手を私の血で汚させるような大失態を犯す訳が無いのだ」


『聖槍』発動。

最大威力まで出力を跳ね上げろ。


「そしてサンダルフォン、貴様はまだ致命的な勘違いをしているようだな」

「止めろ、人間、止めろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

「この私に負わせたあれほどの屈辱。 貴様らにびた一文たりとも叩き返さずに逝くと思ったか! さあ、私は我が人生にこの手で幕を下ろすのだ!」


 目標は、この俺だ!


直撃を受けたバベル・タワーが蒸発した。それは世界で最も偉大であった一人の男に相応しい最期を遂げさせると同時に、大天使をも一匹、葬り去った。

そして、バベル・タワーの中から混沌の虚空が姿を見せた。


雨は、まだ降っている。


そこは白い月が美しい雲上の夜世界であった。

「ここは」と言いかけたランドルフが、足元の雲海に淡い影が差したために天空を仰ぐ。

白銀の鎧、緑の翼を生やした大天使が月を背にして夜空に立っていた。

『異端者共がやって来ましたか』

「ここは、どこだ」万魔殿幹部アッシャーが冷静に訊ねた。

『セフィラー・イェソド。 この私、大天使ガブリエルの創造した「世界」ですよ』

「世界、だと?」同じく万魔殿幹部エウジェニアが眉根を寄せた。「貴様を発見したと同時に我々は総攻撃をかけたはずだが」

『ふふ、貴方達は罠にかかったのですよ。 ここは私の力が最大限に活かされる場所、そして直に貴様らの墓場となります』

「だったら何だと言うのだ」

イザベルが漆黒の剣を構えた。

『貴様らは死なねばならないのですよ。 我らが唯一絶対神は貴様ら背信の輩が皆殺しにされればあの地上世界を滅ぼさぬとおっしゃいました。 世界を滅ぼしたくなくば、直ちに自害なさい』

『ふうん、そして貴様らが支配する悪夢のような世界が始まるって訳か』レット・アーレツが言って、『どっちか選べと言われたら、人は僅かでも希望がある方を選ぶんだよ』

『虫けらのように矮小でゴミより利用価値の無い希望ですね』

「与太話はもう良い。 俺達は貴様を殺す」

アッシャーが、そう言った瞬間だった。

『――ふふふふ、あははははははは!』

いきなりけたたましくガブリエルが笑い出した。

『いつだって人類はそうだった。 下らぬ意志と希望とやらでいつも俺達に刃向った。 馬鹿だ馬鹿だ、この俺に、ソドムとゴモラを一夜かからず滅ぼしたこの俺に、数多の貴様ら魔族と人間に神の鉄槌を下してきたこの俺に、「殺す」だと? 憐れ過ぎて涙も出ない。 貴様らはここで死ね、惨めに憐れに無様に地べたでのたうち回って死ね!』

――言い終わるが早いか、無数の隕石が彼らに降り注いだ。


「『複動体同時狙撃!』」


だが、それらは全て『狙撃』されて消える。

「やるじゃあねえか」とアッシャーがレットに言った。「この俺の『複数眼モザイク・アイ』と視覚を結合させて隕石を全部撃墜するとはな」

『便利な目をお持ちですねえ』レットは荷電粒子砲を天空に向けていた。『複数の動体を同時に認識でき、かつそれに同時に対応できるなんて』

『なッ』とガブリエルが青ざめた。『馬鹿な!』

「行くぞ」

ランドルフが素早く動いた。イザベル、エウジェニアがそれに続く。

咄嗟に体をよじったガブリエルの右翼が大鎌に切断され、胴体を剣が貫き、両脚が食いちぎられた。

『ぐうああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!』

血しぶきと絶叫をぶちまけてガブリエルは地べたに派手に墜落した。

そこにとどめを刺そうとランドルフ達が駆け寄る――が、

『逃げろ!!!!!!!』

いきなりレットが悲鳴を上げた。

『つ、月が!』

咄嗟に天空を見上げたランドルフ達は信じられない光景を目にした。

月が、巨大化していくのである。

いや、違う。

月が彼ら目がけて墜ちてきているのだ!

あまりの事態に、ランドルフ達は青ざめた。

『ぎゃははははははははははは!』ガブリエルが再び天空に舞い上がった。『言っただろう、ここは俺の力が最大限に活かされる世界だと!』

月が、墜ちる。

逃げても逃れられず、攻撃しても破壊しきれない。

『もう遅いぞ、俺を殺そうがどうしようがこの月は貴様らを叩き潰す! 動き出した隕石は俺でも止められないからな!』

「そんな……!」エウジェニアががたがたと震え始めた。

これが大天使の力だと言うのか。

かつて世界を席巻した七体の化物、最悪にして最恐の化物達だと言うのか!

『見ろ! そして震撼しろ! これが神の力ガブリエルだ!』

「私達は、もう、死ぬしか無いのですか」

イザベルが、剣を手から落として呟いた。

その瞬間だった。

ランドルフの腹の中で何かが決まった。

それはとても重大で、そして恐ろしいくらい一途なものだった。

「レット! お前の最大速度はいくつだ?」

『ランドルフさん?』

轟くような力強い声にレット・アーレツは戸惑った。

『そ、そりゃあまあ、エステバンのヤツが化物改造したから、それなりには速度は出るけれど』

「ならば良い。 レット、万魔殿の連中を乗せて逃げろ、イザベルを連れて」

『え!?』

「諦めるなよ! 私も諦めはしない! 死んだってだ!」

『ランドルフさん、一体どう言うつもりなんですか!?』

「私はここで務めを果たす」とランドルフは言い切った。

そこには何の恐れも何の躊躇いも何の未練も無かった。

「おい!」アッシャーが声を荒げた。「死神、お前何を考えている!?」

「いえアッシャー、今は問い詰める時では無いわ!」エウジェニアが言った。「今は不愉快だけれど従いましょう!」

「ランドルフさん!?」イザベルがランドルフへと手を伸ばした。「まさか、貴方は、」

「この化物に引導を渡すには死神が最も適任だろう?」

そう言ってランドルフは不敵な、まるで全世界をたった一人で敵に回しても逆に挑発するかのような笑みをイザベルに向けた。

『おい万魔殿の方々、さっさとしてくれ!』レット・アーレツが叫ぶ。『イザベルを連れて僕に乗れ! 早く!』

「あッ!」

イザベルが両脇をアッシャーとエウジェニアにより拘束されて、レット・アーレツに連れ込まれた。

「ランドルフさん!」

悲痛な叫びに、ランドルフは相変わらずの笑みを浮かべたままで告げた。

「イザベル、さようならだ。 俺はお前を二度も死なせはしない」

急発進して飛び去るレット・アーレツを横目に、ランドルフは唖然としているガブリエルに、牙を剥いた。

「さあ大天使! 死神が相手だ、不足は無いぞ!」

『何、故』

何故だ、この絶望的な何の未来も無い状況で、何故この男は、まだ、抗おうとするのだ!?

「人とはそう言うものだ、いつだろうとどこだろうと生きている限り足掻いてきた! それが泥沼であったとしても! 地獄のど真ん中であったとしても! 人は生きている限り生ききるのだよ!」

『ひッ』ガブリエルは隕石を、ランドルフ目がけて必死に落とす、落とす、落とせる限り、慌てて落とした!

だがそれは、『過剰放出オーバードライブ』したランドルフの身体能力の前では全て躱される。

そしてランドルフは跳躍し、ガブリエルの眼前に舞い上がった。

血に飢えた大鎌が振りかざされて――、

「さあ、悪夢の世界へようこそ」

(神よ、)

ガブリエルは残った躰を細切れの肉片にされながら、思った。

(神よ、神よ、ああ、俺が信じたたった一人の神よ、俺を、助け、)

それが最後だった。

ガブリエルだったものは地べたに泥雨のように降り注いだ。


――ランドルフが、着地した。だが、よろめいて、横倒しにそのまま倒れた。

「う、ぐ……」

白い巨大な月が彼に迫って来る。

だが、もう彼には逃げる力も無いし泣き叫ぶ事も出来ない。

既に過剰放出の反動が始まっている。体はもう動かないし、意識はゆっくりと点滅を開始した。『セフィラー・イェソド』が静かに崩壊を始めているがランドルフにはそれは分からなかった。

(やれやれ)とランドルフは訪れた眠気のままに目を閉じた。色々な人の顔が、夢のように過ぎていく。(我ながら、破天荒な、人生、だったな。 だが、悪くは――)

そこでランドルフの意識は、穏やかで柔らかな闇の中にゆっくりと堕ちて行った。


ゾーエーは大騒ぎになっていた。

大天使各個撃破目標の遊撃部隊の一部とゾーエーの対偽神軍本営が、交信は出来るのにその位置座標が特定できないと言う怪現象に陥っていたのである。

つまり、状況確認は出来るのにどこにいるか分からないため、後続支援部隊が送り込めない、のだ。

『大天使の創造した異世界……』オリエルは険しい顔をした。『異界ゲヘナのようなものだな、特定の条件を満たした連中のみ侵入できた、別世界か』

「大天使もこちらを各個撃破するつもりだったのだな」マルクスが隻眼を吊り上げて、「そして、『この世界』が滅亡しても『異世界』に逃げ込んでいれば何と言う事も無い……連中の避難場所もであると言う訳か」

『死海の軍勢は避難場所を構築するための時間稼ぎでもあった』グレゴワールが忌々しげに、『だが「アレ」は何なのだ?』

そこでレミギウスが怒鳴った。アレとは、バベル・タワーの跡から出て来た『アレ』である。

「分からん! だがアレが出現してから急激な勢いで空気中の全物質濃度が低下している! まるでアレが空気を吸い込んでいるかのようだ! おまけにアレは全ての解析が出来ん! 電波も何も呑みこんでいるようだ!」

『いかんな』オリエルは位置座標が特定できている全遊撃部隊に撤退命令を下した。『嫌な予感しかしない。 戦略的撤退だ!』


『セフィラー・ティファレトへようこそ、と言ってやるか』

その竜は嘲笑たっぷりに彼らに向かって言った。

『いや、貴様らの墓穴と改名した方が良かっただろうか?』

「大天使ミカエル」エンヴェルが淡々と言った。「ここは何処ぞ?」

天国ヘヴンだ』と竜は言った。『ここが貴様らが祈り憧れ夢見た、天国なのだ!』

そこは歌声が響く世界であった。

そこには大勢の人間がそれぞれ白い台の上に立っていて、その誰もが白い衣をまとい、彩雲漂う天上を仰ぎ見て同じ歌を同じように歌っていた。

そしてそれ以外の何もしていなかった。

エンヴェル達に視線を向ける事も、竜に驚く事も、何も反応が無かった。

「貴様はこやつらに何をしたのじゃ?」

エンヴェルが訊ねると、

『はははははは! これが神の望む人類の姿なんだよ!』ミカエルが爆笑した。『ただ人類なんか我らが唯一絶対神に祈れば良いんだ。 無力に哀れに惨めに神だけに縋ってその乏しい命を繋ぎゃあ良いんだよ! 下手に脳みそで考えて小細工を弄するからお前達みたいな瀆神者バカが出てくるんだ。 だからこいつらからはラファエルが余計な脳みそを取っ払ってやったのさ! 見ろ、この天国の人類を。 何にも苦しみも悲しみも無く、永遠の命を得られ、ただ神を讃美するんだ。 どうだ、幸せそうだろう?』

「何て気持ち悪いの」帝国貴族のジャスミンが、顔を背けた。「戦争捕虜だってここまで悲惨では無いわ」

響く賛美歌は美しく荘厳で、完璧に虚ろだった。

「あッ!」エンヴェルの部下の一人が顔を真っ青にした。「親父、お袋!」

「どうしたのじゃ!?」エンヴェルが素早く問うと、

「凶竜の禍で死んだはずの俺の親が、そこにいるんです!」

それを皮切りに、次々に悲鳴が上がった。

彼らの弟や、兄、姉、親戚、親、親友、いずれも帝都壊滅寸前まで陥った大惨事の折に死んだはずの者が、『天国』にいて歌っているのである。

『何だお前ら、やはりコイツらの縁故か』ミカエルが翼を大きく広げて、『俺様が帝都を踏んづけてやった時、出てきた魂もかすめ取ってやったからなあ!』

それでもはや充分であった。エンヴェルの部下の数名が激高し、ミカエルに接近して攻撃した。エンヴェルの制止の声がとどろいた。だが、

天地無用カミニニタルハダレカ!』

接近した全員がまるで熟れた果実のように押し潰されて絶命した。

『ふん、ゴミ屑め。 神に抗うと言う事がどれほど恐れ多いか、貴様らの死を代償に教えてやる!』

竜が天空に飛翔した。

『さあ死ね、ゴミ屑共!』

エンヴェルは何も言わない代わりに美しい青色の宝珠を手の平に乗せ、それを握りつぶした。

ぽたり。

塩辛い水が、エンヴェルの手の平から滴る。

ぽたりぽたりぽたりどぷりどくどくどくどくぐばあああああああああああああああああああッ

それは一気に濁流となって辺りを濡らし、そして瞬く間に『海』になった。

塩満玉シオミツタマ」『風』に己や友軍を乗せて浮かべているジャスミンがぽつりと呟いた。「海を操るエンヴェルには最高の『遺物』だわ」

『海か! はははは! 懐かしいなあ! あの時はアエギュプトゥスの悪魔を踏みつぶしてやった! その目で見るが良い! 俺様が大天使だと言う事を!』

生まれたばかりの海が、真二つに割れた。

「だからどうしたのじゃ。 余はここで貴様を血祭りにし、帝国の無念を、屈辱を、恨みを叩き返すのじゃ」

ふわりとエンヴェルが空中に舞い上がった。足には不思議な形のサンダルを履いていた。『飛翔馬靴ペガサス・サンダル』である。

「ファーゾルト殿。 聞こえるか。 余はジェラルディーン殿の養子じゃった。ファーゾルト殿の恨み、現ド・ドラグーン家の当主である余が引き受けた」

びくりと竜が震えた。

『おお、頼む、今すぐに私を殺してくれ!』

『愚者が!』だがすぐにミカエルが体を奪い返す。『黙れ!』

そして竜は凄まじい速度でエンヴェルめがけて突撃した。

ひらり、とエンヴェルが回避すると同時に、ジャスミンの放った槍『ブリューナク』が竜の腹部に命中して爆発した。

『ぐおッ!』

竜が一瞬動きを止めた瞬間だった。

「「ぐっ!」」

周辺に凄まじい重力がのしかかった。下では海が歪み、何名もが重力壁にはじき飛ばされた。

『ふん! 俺様を誰だと思った。 俺様こそが大天使ミカエル、竜殺しドラゴンスレイヤーのミカエル様だぞ! 幾千幾万の貴様ら邪教の悪魔を重力で踏みつぶして殺してきたんだ! その俺様をこんな攻撃で倒せると思ったか!』

「おう」

とエンヴェルが答えていた。ミカエルの真上、上空に陣取って、である。

「海の動きで分かる。 ここならば常に重力は過剰にかかっていない。 いや、大天使ミカエルよ、お前も過剰な重力には体が耐えられぬのじゃろう? お前の上の空が、貴様の、死角ぞ」

そしてその手中には一槍がある。海水を圧縮させて出来た堅牢な槍であった。

『ぎぃゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!』

凄まじい断末魔が上がったのは、その槍が竜の頸部に命中して顎まで貫通した後であった。

同時に重力圧が解除されて、海が凄まじい勢いで渦を巻き始める。

『お、俺が、俺が、また、また、し、死ぬ、馬鹿な、そんな、馬鹿な』


『死ねや!』

血を吐くような絶叫が響いた。


『貴様は俺の子を俺の妻を俺の友を俺の同胞はらからを俺の愛し慕い崇めた「全て」を! 俺の「全て」を奪い殺し辱めたのだ! 死ね! 死ね! 死ねや!』

ファーゾルトの魂の叫びであった。

『俺は、正しい、強い、だから、何をしても、神、が』

『奪い殺し辱める神など神では無い! 死ねや! 死ね、この悪魔が!』

竜の体がゆっくりと渦潮の中へと堕ちていく。

『止め、や、め、おれ、しぬのは、こわ、い』

『安心しろ、お前だけは地獄の奥底まで私がこの手で引きずり込んでやる! 泣き叫べ、そして死にたくないと喚くが良い! 私が貴様を未来永劫に殺し続けてやる』

『かみ、さ、ま!』

『地獄で死ねや!』

それが最期だった。

竜の巨体が海に堕ちて飲み込まれた。

間も無く、海を、じんわりと奥底から広がる赤色が染め尽くした。


セフィラー・ネツァク。

そこは巨大な研究施設であった。

「な、何、これ……?」

そこに侵入したアズチェーナ達は、目の前の光景が一瞬、理解できなかった。

ぼんやりと朧に光っている、無数の巨大な培養槽。その中に、人間を泥人形にしてぶつけ合わせたような異形の生命体が数多揺らいでいるのである。

「これは……!」

ニナが形相を変えた。

「フィオナ、これって!」

彼女は真っ青になって震え始めた。

だが彼女の双子の妹フィオナはもっと重大なものを見つけていた。

「フー・シャー!?」

異形の生命体の一角を構成する人間だったものの顔が、彼女達の亡き同僚のそれだったのである。

「どう言う事ですか、これ!? フー・シャーさんはシボレテ・ヴィルスに感染して、やむを得ずシャマイムさんが射殺したはずじゃ……!」

アズチェーナまでがたがたと震えだした。

「……姉さん、私、怖い……!」

フィオナがニナに抱き付いた。

『……これは、大天使ラファエルの仕業だ』悪魔のアスモデウスが、無感情に言った。『ヤツしかこんな芸当は出来ん』

『その通りだアスモデウス。 何、強制執行部隊の一人に、撤退間際に彼のDNAを採取させただけだよ』

「「!」」

一同が素早く攻撃態勢に入った。視界の遠い果てに、白衣の青い翼の大天使が立っていた。その声がそこら中に設置された通信機器から聞こえる。

「おい大天使。 貴様らは一体いつからこんな外道じみた真似をしていたんだ」

ベルトランが訊ねると、

『数千年以上前からだが……うん?』ラファエルの様子がおかしくなった。『そうか! そうか! なるほど、道理で記憶を共有させた時に異常値が出た訳だ!』

「何をふざけた事を言っている」ジャンヌが、冷たく言い放つ。「逃げる算段でもしているのか」

『いやいや。 貴様らはここで私の実験素体になるのだよ。 そして実験しつくしたあかつきには、新世界の番人にでもなってもらおう。 どうだい?』

「「断る」」

誰もが拒絶した瞬間、ラファエルは狂ったように笑い出した。

『やはり人間とは下等生物だ、モルモットにも劣る! では』

黒光りする鋼鉄の柩が、ラファエルの背後に浮上した。ゆっくりと蓋を開けていく。

『この娘のように、私の実験素体になってもらおうか』


蓋が開いた中にいたそれは、棺の中、巨大な培養装置の中でがんじがらめにチューブや鎖で拘束された、片腕が義手の一人の少女であった。


「は、はははははははははは!」ラファエルの狂笑が轟いた。「どうだね、これが『魔女の女神アラディア』だ! 非常に優秀な研究素体で数多のデュナミス・エンジェルズ、ひいては『カマエル・シリーズ』をも誕生させたのだよ!」

ベルトランの顔に、驚愕と激怒と絶望が入り乱れた。

「な、んで、コルネーリアが、生きて」

彼が異端審問官だった時の後輩は、彼が死んだ後に発生した戦で行方不明になったと、それでなくてもこの数百年の間に亡くなったものだと、

「何、『魔女を殺した者は魔女の魂を得て魔女になる』、そう、この魔女殺しの娘は魔女の魂と言う魂の予備ストックがあったのだよ! だから一度死んでも蘇ったのだ」

そしてラファエルは手元のコンソールを軽く叩いた。

デュナミス・エンジェルズの出来損ない、異形の生命体達がそれで目覚め、同時に餌を見つけて、培養槽の中で唸った。

「貴様はコルネーリアに何をした」ベルトランは、冷酷に訊ねる。

「ありとあらゆる実験をね。 そしてついには我らが『唯一絶対神』の蘇生にも成功した! まあ、死ななければ良かったから解剖だの臓器の摘出だのはしょっちゅうやったがね」

『なるほど。 貴様はその娘に我のサラにした事以上の所業をやったのだな!』

アスモデウスが、吼えた。

「おい」ジャンヌが言った。「特別に協力してやる。 ヤツらを倒すぞ」

「分かっているわよ!」ニナとフィオナが身構える。

「ふ、フー・シャーさんの仇です!」アズチェーナも同じた。

「否!」だがベルトランだけはこう言った。「僕はヤツを殺しコルネーリアを助ける!」

「仕方ないな」ジャンヌは目を閉じた。

ラファエルの手が触れると、装置は蒸気と共にコルネーリアや異形の生命体をむき出しにした。

「許してなどやらない」アズチェーナの目が赤く輝いている。「フー・シャーさんが何をした。 真面目に働いてお子さんが産まれるのを本当に楽しみにしていた。 家族の楽しい団らんをぶち壊す連中は例外なく『悪』だ!」

セフィラー・ネツァクが揺れた。揺れはどんどんと激しくなり――そして壁と言う壁、天井と言う天井、床と言う床をぶち破って樹木が怒涛のようにのた打ち回った。

だがそれらはラファエルに触れる前に木端微塵にされ、その衝撃波をくらったアズチェーナが遥か後方に吹き飛ばされて一撃で戦闘不能に陥った。

「――ぐあッ!」

アズチェーナ!とニナが駆け寄ったが、あまりの出血量と身体の損傷度に絶句する。彼女が魔族でなかったらこれは即死していた。咄嗟に応急手当をし、ニナはラファエルらを睨み付けた。

『魔女は殺せ』少女はそれだけを、それだけを呟いている。『魔女は殺せ』

「コルネーリア!!!!!!!!!!!!」ベルトランは絶叫した。「僕はここだ、ここにいる!」

『……あ』少女の顔にうつろな笑みが浮かんだ。『ベルトランさん、あのね、』


私、貴方を殺した魔女を殺しますから


「避けろ!」とベルトランを蹴とばしたジャンヌがいなければ、ベルトランは衝撃波の直撃により粉砕されていただろう。それは彼らに襲いかかろうとしていた異形達をもただの肉片に変えてしまう。

「……何、この攻撃力」フィオナが呟く。「これじゃ……どうやって近付くの?」

「フィオナ、伏せて!」とニナが妹を押し倒した。

その直後、彼女らのいた空間を『滅茶苦茶』に衝撃波が貫いて、全てを砕いた。

「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」ラファエルが狂ったように笑っている。「やはりこの実験素体は使えるなァ! 雑魚だ、雑魚だ! 聖槍には劣るが十分に破壊力がある!」

だが、少女は泣いている。涙がぼたぼたと床に落ちている。

『あ……いや……ベルトランさん……わた、し……』

「黙れやモルモット。 そうだな、あの男のクローンくらいなら作ってやっても良いぞ? 勿論、肉骨を断片にまで砕いてからだ!」

『いや……いや……いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!』

一瞬だけ抵抗した様子を見せた少女だったが、ラファエルの手がその頭に触れた途端に、涙は止まる。

『魔女は殺せ』

「……コルネーリア……!」ベルトランが歯噛みした。せめて近付ければ!

『おい異端審問官、ラファエルの両手を切断しろ。 ヤツの「神の手」は最大の武器にして弱点だ。 両手を切断さえしてしまえば、ラファエルはただの化け物だ。 あの小娘を助ける手段もあるだろう』悪魔が言った。

「だがどうやって接近するんだ!」

「「ベルトラン!」」ニナとフィオナの双子がベルトランを見て頷いた。

「やるよ、フィオナ!」

「……うん、姉さん」

彼女達の手が、金属的な光を放った。そして彼女達はその手を床面に押し当てた。

――ドゴン

遠くで大きな音が響いた。

ドゴン、ガゴン、ベキ、ゴシャ、グシャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!

――セフィラー・ネツァクが崩壊を始めた。

「何だこれは!?」

ラファエルが手を壁に押し当てて、

「チッ、貴様ら、このセフィラー・ネツァクを砂に変えるつもりか! させん、させんぞ!」

ラファエルの触れたところからセフィラー・ネツァクが再生を始める。

崩壊と再生、その力が拮抗している。この隙をベルトラン達は見逃さなかった。

「――!」

ベルトランが『糸』を張り巡らせた。そしてその糸を足場にとんでもない速さでコルネーリアへの接近を試みる。同時にジャンヌも天井を疾駆して、ラファエルの方へと走っている。

『魔女は殺せ』

ベルトランが衝撃波の余波に吹き飛ばされかけて、糸に着地した。そしてまた糸を張り巡らせる。

「あの手を使うぞ!」ジャンヌが叫んだ。

『目くらましだな』アスモデウスが頷いた。

コルネーリアの前方の空間が濃霧で覆い尽くされて、視界がいきなり悪くなった。

『魔女は殺せ』

だが、コルネーリアは目の前の霧をことごとく吹き飛ばした。

「ふん、雑魚の浅知恵、この私に通用などしない!」ラファエルが嘲り、そして片手をコルネーリアの頭部に当てた。コルネーリアの義手が『砲』へと瞬時に変形する。そして、撃った。

「「チィッ!」」

あとわずかだ。あとわずかなんだ!霧ごと衝撃波に吹き飛ばされたベルトランと、回避したもののこれ以上の接近は危険だと判断したジャンヌが舌打ちした。

「おい、どうする、異端審問官」

「もう少しなんだ! もう少しで僕の『糸』は彼女に届くんだ!」

「もう少しか」ジャンヌは少し元異端審問官を見つめていたが、「じゃあ、届かせてやる」と無感情に言った。

「ああ、やれ!」とベルトランは左腕を横に突き出した。

直後ジャンヌのサーベルがベルトランの左腕を切断した。そして、ジャンヌは渾身の力でその左腕を前方へと蹴り飛ばした。それはコルネーリアの手前で落ちる。

「……可哀相に。 貴様らはついに気が狂ったのだな」

ラファエルの憐みの眼差しを、二つの強い意志を持った目が睨み返した。

「気が狂った?」

「とんでもない話だ」

「これでやっと」

「僕の糸は届いた!」

ラファエルが気付いた時にはもう手遅れだった。

切断された左腕がぴくりと動いた。左腕には糸が絡みついていたのだ。糸で操られたその左腕が、素早く糸を操って、ついに『砲』とラファエルの両腕を見事に切断した。

「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

ラファエルが素っ頓狂な悲鳴を上げた。

「腕が、腕が、私の『神の手』が!!!!!!!!!!!」

ベルトランは切断された左腕を右手の『糸』で遠隔操作し、ようやく――、

「……コルネーリア、ごめんよ」

コルネーリアを抱きしめる事が出来た。

『ベルトラン、さん? あのね、私、』

貴方の事、ずっと、好きだったんです。

「……僕もだ」

数百年越しの告白であった。


『さあて、と』悪魔が意気揚々と出血が止まらないラファエルの前方に出現して、嗤った。『こうして再会するのは数千年ぶりだな、ラファエル?』

「あ、あ、」ラファエルの顔が青ざめているのは、出血の所為だけでは無い。

『数千年前の、俺はただサラの悲鳴と哀願を聞く事だけしか出来なかった。 絶望と激怒と苦痛に気が狂いそうだった。 ……にサラは自殺した。 そして俺はソロモンの宮殿造りに酷使されて、何とか逃げたものの一度は死んだ』

「あれは! 俺の所為じゃない! 神が、そう、神が、」

俺達を嘲笑っていた神か』

「違う、俺は、違うんだ、データを、データを集めるために、」

『今更何だ、ぐだぐだと煩い。 黙って死ね』

悪魔の腕がラファエルの喉に絡みついた。

「あ、が」ラファエルの体が宙に浮く。「ご、げ、え!」

骨の砕ける音、肉が引きちぎられる音。ジャンヌが片眉を上げたが、何もそれ以上はしなかった。青い羽根が飛び散った。

『俺はこの瞬間を数千年間待ち焦がれていた!』

ラファエルの首が引きちぎられた。

地に落ちたラファエルの頭を踏み潰して、悪魔はようやく清々しく笑った。

「終わったのか」とジャンヌは言った。

『ああ。 これでやっと始められる』

「何をだ」

アスモデウスは微笑んだ。

、だ』

「そんなものは数百年前から知っている」と不愛想にジャンヌは答えた。


セフィラー・ケテル。

白亜の大神殿は既に血にまみれ、死体の山で埋め尽くされていた。

「……随分と残忍な男になったものだな、オットー」

く、く、と低く笑いながらメタトロンはまるで誘うように囁いた。

「俺が洗脳したがためにお前に刃向った同胞を、何の躊躇いも無く殺傷するとは」

「……」オットーは無言である。メタトロンの言葉など心底どうでも良さそうだった。

「知ってはいるだろうが、お前達に増援は来ないのだぞ。 そして単騎で俺に勝てる相手では無いのだ、お前は!」

「……」

「怖いか? 後悔しているか? 懺悔の時間だぞ? だが既に遅い! 貴様はのた打ち回って泣き叫んで失禁して死んでいくのだ」

「……」

「そもそもたかが魔族の分際で、この大天使メタトロンを打倒しようなどと考えるのが大罪の始まりであったな」

「……」

オットーはまだ黙っている。だが、その時、

「う、うう……」と小さな呻き声がした。

「!」オットーがしゃがみこんで、血まみれで倒れているロットバルドに触れた。意識を、取り戻していた。

「……オットー……」か細い声は、ほとんど断末魔だった。必死に何かを伝えようと、喘いでいた。それでオットーはロットバルドを抱き起こした。


――どすり。


「!」

オットーが、崩れた。胸に短剣が柄まで突き刺さっていた。代わりにロットバルドがよろよろと起き上っていた。

「……か、カール」ロットバルドは必死に、まるで母親の愛を求める子供の様にメタトロンに近づく。「カール、カール……!」

「よくぞやった、ロットバルド」メタトロンは穏やかに微笑みながらロットバルドの熱い抱擁を受け入れた。「お前は特別に生かしてやろう」

「は?」ぎゅうっとメタトロンに抱き着いている相手が、酷く冷たい声を出した。「何をたわ言を。 貴様はここで死ぬのだよ、私と共に! 大天使!」

「!?」

誕生して数千年、メタトロンは初めてぞっとした。恐怖と言うものを知った。

何故ならロットバルドの背後で何かが立ち上がる気配がし、そして己は回避行動を取るために動きたくても、ロットバルドに抱きしめられている所為でろくに動けないのだ。

そして。

そして、ロットバルドを抹消して今動いたとしても、もはや、間に合わない!

『私の能力ですか? 攻撃回避能力ですよ。 でもろくに使った事は無いですね。 私がもっぱら使うのは、ここ、頭ですから』

乗っ取った大帝の過去の記憶が、その刹那、脳裏をよぎった。

仮に、刺す瞬間に回避能力を駆使して、肝心の臓器に全くの損傷を与えず、ただ肉だけを刺し通したとしたら。

そして、今や、その回避能力を一切使う気が無いとしたら。

直後、メタトロンはロットバルドごと、刺殺されていた。

「がああ、ああ!」血反吐を吐き、メタトロンは同時に断末魔を上げていた。「な、ぜ、」

ロットバルドは笑っていた。心底嬉しそうに、笑っていた。勝利者の笑みであった。メタトロンごと、胸部を大剣に刺し貫かれていても。

「戻るのだ! 私の愛した貴方へ! 私が愛したあの貴方へ!」

死がどうした。苦痛がどうした。それがと言うのだ。この愛の前では!

「なぜ、ひとは、愛、など、に」

それが限界であった。大剣が抜かれた瞬間に、メタトロンは絶命した。

どさり、と二人は倒れた。

ロットバルドは、目だけ何とか動かして、ただ一人この場に立っている男の姿を見た。

オットーの燃え飢えているような目には、まだ憎悪があった。殺してもまだ殺し足りない、激しい情動があった。死体を切り刻み踏み潰しても、まだ終わらないであろう。

「      」

何か言葉を言いたかった。何かを伝えたかった。だが、もうロットバルドの命は尽きようとしている。

おきて、ください

ロットバルドは最後の力で、目の前の、愛しい人の顔に触れた。

おきて、あの子を、おねがいします


オットーは死体を破壊しようと、大剣を振り上げた。だが、気配を感じて、飛び退った。

「まだ生きていたか」忌々しさに反吐が出そうになる。ならば死ぬまで切り刻む。

「……」死体が、青い血を吹き出しつつ起き上がった。オットーに背を向けて、ロットバルドの死に顔にそっと触れた。「……ごめんなあロットバルド、分かっているだろうけれど、俺、一度寝ちゃうと爆睡しちゃうんだよ」

「!!!!!!!!」

オットーは驚愕した。

「でも、分かったから、ちゃんと伝わったから、心配すんな」

大帝が、大剣をかざし、振り返った。

「さあ来い!」大帝は致命傷を負っているとは思えぬ、大咆哮をとどろかせた。「オットー、俺を超えて見せろ!」

オットーは、眼を閉じ、すぐに開けた。青い目だった。

そして一気に、迫った。

二人は交錯した。

……やがて、世界をぐらつかせそうなくらいに楽しそうな笑い声が、静かに辺りを満たした。

「は、はは……!」大剣が、折れて、落ちた。「そうだ、オットー、それで、良い。 ……じゃあな、俺も、先に、いく」

どさりと、大帝が斃れた。

勝った。

俺は、戦い抜いて、その果てにたどり着いた。

オットーはそれを知った。

そこには――。


何も無かった


何も無かった!

酔いしれるような勝利感はおろか、愛する女も尊敬すべき人も仲間も友も宿敵さえも、何も無かったのだ!

だが、彼にはまだすべき事があった。

『万魔殿の統制』

彼にしか出来ない事であった。

彼だけに許された事であった。

彼は、孤独な権力者になったのだ。

オットーは吼えた。大神殿を揺るがすほどに咆哮した。

そこが、彼のたどり着いた『果て』であった。


なあ神様、偽者の神様。

本当の神様って何だと思う?

どんな存在だと思う?

何をすると思う?

何を思考し何を望み何を意図していると思う?

……ふざけるな、か。

俺はいつになく真面目な話をしているんだがな。

だが、偽者の神様、アンタについてなら俺は確信をもってこう言える。

アンタは一人ぼっちだった。

産まれてすぐに母親に捨てられて、その代償に物質世界を創造しなければならないほど寂しかったんだろ。

アンタが人類を創ったのだってそうだ、アンタを人類に崇めさせようとしたのだってそうだ、アンタは結局は寂しかったんだよ。

誰かに抱きしめて欲しかったんだよ。

寂しくて寂しくてたまらなくて、だから己を囲んでくれる玩具が欲しくて世界を創造し、人類を創造し、色んなものを創っては壊し、壊しては創った。

――人類が、己に叛逆するのをアンタが断じて許さなかったのはそう言う理由だろ?

そりゃそうだ、玩具が叛逆なんてしたらアンタの望んだ世界が狂っちまう。

だがなー、その玩具はついに己の不完全さゆえの可能性でアンタを超えて、その先へ行こうとしているんだよ。

アンタはこの星に幽閉されちまったからもう分からんのだろうが、世界は呆れるほど広いんだ。

世界ってのは残忍なくらいに大きいんだよ。

それでも人類はそこに行こうとしている。

まるで大海に漕ぎ出す一艘の小舟みたいに、な。

道化だろう?愚かしさと言い無謀さと言い。

だが道化の方がアンタより真実を分かっているんだ。

『人類は不完全だ』って事をな。

さあ、紛い物の神様。

かかって来いよ、これが最初で最後のだ。

アンタは俺が憎い。

俺はアンタが邪魔だ。

これ以上戦う理由なんてどこにある?

――さあ来い、ヤルダバオト・デミウルゴス!


I・Cの体が軽く吹っ飛んだ。吹っ飛んで巨大な空洞を突っ切って壁に激突する。ガラガラと瓦礫が落ちた。

まるで子宮の中のような、不思議な温もりと広さを持った空洞であった。

そこに、巨大な機械仕掛けの体を持った偽神とI・Cだけがいるのである。

「あー……」

I・Cが瓦礫の中から起き上がる。

「駄目駄目、全然駄目。 ヤルダバオト・デミウルゴス、俺に物理攻撃が効かねえ事くらい分かってんだろうが。 それとも」

I・Cの体が溶けた。そして、次の瞬間混沌の闇が急騰した。

「――『サタン』発動、Ver.『遍く神々』」

混沌の闇から人が飛び出してくる。今まで彼が『喰った』魔神達が我先に偽神へと襲いかかったのだ。怒涛、津波の様であった。

『我らが昔年の積年の恨み! その身で思い知れ!』

巨大な爆発と閃光が無数に舞い散った。

――偽神のボディには傷一つ付いていない。

「やれやれ、アンタもか。 こりゃ泥仕合になりそうだ」

I・Cが軽くそう言って、魔神達の先頭に立った。

『……』

神が薄目を開けた。

直撃を受けた魔神達が跡形もなく消し飛ばされる。

『我が目は破邪の光を放ち、口よりは滅びの風を吐き、』

「で?」

I・Cは、無傷で立っていた。

「だから、それで?」

『――我が怒りは死の怒りなり!』

I・Cに集中砲火が浴びせられた。

I・Cの体が光の渦に巻き込まれて消えた。

「――『サタン』発動、Ver.『魔王』」

だが、圧倒的であったその光が、喰われていく。

「きゃっはははー!」

そして現れたのは、黒い六対の翼を生やした少女の姿の魔王であった。

魔王の右手に凄まじい熱量が集中していく。次元が歪むようなエネルギーであった。

「前略カミサマへ。 頂戴したエネルギー、そっくりそのまま返却しまーす!」

君臨していた偽神の体が吹き飛ばされた。巨大で耳障りな金属音を立てて、ぐしゃりと壊れる。そこを魔王は挑発した。

「おい、この程度でへたばるなよ。 折角俺が本気出したんだ、そっちも本気出せ」

『……』

金属の体から光輪を背負った威厳ある『神』が登場する。

『滅べ!』

それが目を開いた瞬間、空洞が暗黒に飲み込まれた。次元が、破壊されたのだ。

どすりと無礼な音が響いた。『神』の頭上に魔王が胡坐をかいていた。

「何やってんのカミサマ? 次元間跳躍くらい俺でも出来るって」

『浄化!』

空洞の全てをまばゆい光が覆い尽くした。


その時にバベル・タワーに『聖槍』が最大級の破壊力でぶち込まれ、全ては光に飲みつくされた。


『……』

バベル・タワーの底で飼っていた暗黒『アバドン』が代わりに全てを覆いつくし、その中に偽神はいた。

『……』

「ふうん、これがアバドンか」

その前方には魔王が浮上している。

『……』

偽神が攻撃しようとした時だった。

「カミサマ。 攻撃というものはを言うんだぜ」

偽神の頭部がはじけ飛んだ。否、一瞬で偽神の体が断片にまで砕かれて散った。

「想念で攻撃……『神罰』って本当に便利だなあ?」

偽神の体は即座に元に戻る。だが、初めて偽神は怒りに歪んだ顔をしていた。

『……』

「おいおいカミサマ、十八番オハコを取られたからってそう怒るなよ。 Q:神罰って何でしょうか? A:カミサマを罰する事です。 だろ?」

魔王――魔の王。万魔の王。神に抗う全ての者の王。神を嘲る者。神を殺す者。

『……』

偽神が超時空跳躍をした。

「――逃げんじゃねえ!」

魔王が顔をしかめて、その後を追う。

偽神と魔王は歴史を遡った。激突と回避を繰り返し、その余波で歴史を滅茶苦茶にしつつも『天地開闢』までたどり着く。

偽神の体はもうずたぼろであった。ついに本性を見せていた。

その本性は、まだ産まれてもいない胎児であった。

『我は神なり! 唯一絶対の神なり! かつてはアザトースと呼ばれYHVHと呼ばれ崇められ畏怖されし唯一の神なるぞ!』

「……」魔王は、ただ悲しそうな目で偽神を見つめていた。「そうか、アンタ、全部無かった事にしようとするのか。 またアンタだけに戻ろうとするのか」

『我は神なり! この世界全てが我のものなり!』

だが、魔王は止めなかった。ただ悲しそうな顔で、『彼女』を見ていた。

『!?』偽神は驚いた。と言うのも――、

「もう、一人ぼっちで泣かなくて良いの」

優しい腕に抱きしめられたからである。

「……ヘレナ」魔王が、呟いた。

偽神が勝ち誇った顔をして、世界を『終焉』させようとした。

『我は神なり、常に勝利と共にあり!』

魔王は何も出来なかった。

「せめて」ヘレナは泣いていた。「せめて、」



偽神の鼓動が止まった。そして、遠い未来からアバドンが偽神を呼び、飲み込んだ。ふわふわと偽神は時空の狭間を漂い、消えて行った。

アバドンは創造主を飲み込んだために、消えた。

「あ」

あまりにも悲痛な絶叫が響いた。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


! ! !」

ヘレナが慟哭していた。世界中の悲しみを叫ぶかのように泣いていた。

「……泣くなよ、ヘレナ、もう泣かないでくれ。 たったの一人ぼっちで 泣かないでくれ」

I・Cが彼女を抱きしめても、彼女の悲しみは止まらなかった。止められるはずが無いのだ。彼女はどうしようもなく悲しいのだから。

「世界なんて終わってしまえば良いんだ! こんな世界なんか、こんな世界なんて!」

「お前が終わらせたいのは世界じゃなくてお前自身だろう……もう、止めろよ」

「黙れ、お前が何を言う! お前が、お前が何を言うんだ!!!!!!!!!」

「お前が世界を滅ぼすのを望むなら、俺が始めるさ。

お前が悲しむのなら俺が抱きしめるさ。

だから、もう、一人で泣くな。

――お前の悲しみが、未来永劫続くものだとしても」

「……」ヘレナは声もなく泣きじゃくっている。

「俺は維持する、全てを維持する」

魔王の姿がゆっくりと変わっていく。

「新たなこの世界の全てを。 ずっとお前の手を握りしめて、さ」

黒い翼が光り輝き、そして黒い魔王そのものが光り始めた。

「……勝手にしろ」

ヘレナは、それだけ、言った。魔王は頷いた。

「……ああ、そうする」


今や光の御子ヘレル・ベン・サハルとなった彼は叫んだ。


創めるぞ!

この世界を!

俺は、この世界を。

二度と滅ぼさぬと、お前に誓う。


……遥か遠い世界で、降り続いていた雨が止んだ。

間もなく、朝焼けの空に、目にも鮮やかな虹がかかった。

それは美しい天地を繋ぐ橋のようであり、

そしてもはやそれらを滅ぼさぬと誓約した証のようでもあった。





ION本編 END

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ION 2626 @evi2016

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