終章 雨は上がる。晴天にならずとも

第一話

 目を開けるとそこにはお花畑が広がっていた。私の頭がお花畑という訳ではない。

 頬を抓ると……痛みを感じない。なるほど。これは夢か。びっくりした。

 きっと、もう一度目蓋を瞑り目を開けるとそこには……やっぱりお花畑。見渡す限り。

「あれ、おかしいな。さっきまでエリナさんの小屋にいた筈なんだけど……」

 アロマの最終的な工程をエリナさんの小屋で行ない、それを嗅いだ。そう私も。

 まさか、嗅いでしまったのが不味かったのだろうか。つまり、これがアロマの香能。

 これ程とは予想外だ。夢の世界に誘った挙句、戻れない片道切符とは。

「本当にどうしよう。これ、凄く不味いよね。やっぱり」

 ここがどういう世界なのか分からないが、このアロマはエリナさんの為に作られたものであり私は完全な異分子でしかない。エリナさんの祖母とも会った事もない。

 何故だろう。夢なのに冷汗が流れ始める。もしかして、私はこのまま眠り続けて起きられないのではないだろうか。肉体が朽ちるまでこのまま……。

 やめよう。縁起でもない事を考えるのは。大丈夫。きっと何とかなる筈だ。

「久し振りね。本当に大きくなって……あなたはやっぱり、あの子の娘なのね」

「なんで……あの人の話をするんですか。私はあんな人なんて!」

 どこからか言い争う声が聞こえてくる。その声がする方へと歩いて行くとエリナさんと一人の老婆の姿が目に飛び込んできた。エリナさんの祖母なのだろう。

 あれ、どういう事だろう。どうして、私とエリナさんが同じ夢の中にいるのだろう。

 まさかこれは現実? でも、二人が同じ夢を見るなんて考えられない。まさか、どこかで製法をやはり間違えてしまったのだろうか? 最後の仕上げの段階で……。

 そんな私の不安を他所にエリナさんとエリナさんの祖母の会話は続いて行く。

「ごめんなさいね。その事で私は貴女を随分と苦しめてしまって……。本当に人生とはままならないものね。何一つ、私は上手く行かなかった」

 エリナさんの祖母はそう呟くとエリナさんの頭をそっと撫でた。

「私は親として人としてあの子との接し方を間違えてしまった。魔女の秘術を継がなければならないという強迫観念と生まれて来た娘には才能が有り、自分が無能だという現実。その狭間で苦しんでいた娘に何か言葉をかけていれば変わったのかもしれないのに……」

 後悔先に立たず。私達はきっとその後悔を背負って前に進むしかないのだろう。

 マリンさんが私に言った事だってそうだ。「香料士が嫌い」その言葉の裏に存在するのは現実と理想という狭間で苦しんでいるマリンさんの必死の虚勢なのだろう。

 でも、誰だってそうやって自分に虚勢を張り続けられる程に強い訳ではない。

 それが弱さという訳でもない。ただ、皆が皆がむしゃらなのだ。純粋なのだ。

「だからね。私は嬉しかったの。あなたがその才能とは別の道を選ぼうとしてくれた事に。私が出す事が出来なかった答えをあなたが出してくれたんだって」

「違う。私は……私はそんなに立派な人間じゃないんだよ……。魔女になろうとしたのだってお母さんに褒めて欲しかったから! 森を飛び出したのだって、お母さんに会いたかったからなんだよ! 私なんて胸を張って誇れる人間じゃないんだよ!」

 初めてエリナさんの心の叫びを聞いた気がする。

 それと同時にその気持ちが痛い程に分かってしまう。きっと、私も同じだ。

 人はそれを原点と呼ぶのかも知れない。思い返してみれば理由なんて単純だ。

 誰かに褒めて欲しい。認めて欲しい。救いたい。全てが純粋な想いなのだ。

 間違いなんて一つもない。むしろ、誇っていい。

 誰もがその想いを持ち続ける事は出来ないのだから。

 それに、子供が親を恋しがるのは当たり前の事だ。恥ずかしい事ではない。

 だって、待ち続けるのは辛いから。だから、少しでも前に進もうとするのだ。

「理由なんてなんでもいい。私はエリナには自由に生きて欲しい。魔女として生きて欲しいとは思ってない。エリナはエリナの幸せを探していいの」

 自由。魔女。その言葉はきっと相反する言葉なのだろう。

 私にも母親がいたらこんな感じなのだろうか。私には肉親がいないから凄く羨ましい。

 ジュリアおばさんが偽物というつもりはない。ただ、どこかで本当を求めているのだろう。本物と偽物。その線引きすら曖昧で私には分からないのだけど。

「でも、私はお祖母ちゃんにいっぱいいっぱい酷いことした。勝手に森を飛び出して、一人にして、もしも私が森に残っていたらお祖母ちゃんだって死なずに済んだかも!」

「今更の話だよ。それに、孫の門出を喜ばない親はいない。それに、お相子だよ。私がエリナにしてしまった取り返しのつかない事に比べれば、ね」

 互いに負い目を感じ続けていた。でも、これできっと少しだけ荷が下りたと思いたい。

 なんで私がここにいるのか。もしかして、この光景を見る為だったのだろうか。

 アロマとはどういうものなのか。それがどういう意味なのか。それを身をもって知る為に。いや、考え過ぎか。それではまるでアロマに遺志が宿っているみたいではないか。

 きっと、偶然に違いない。そう思いたいのだが、どこか腑に落ちない。

 そんな事を考えていると、どこからかあのアロマの独特な香りが漂ってくる。

「エリナ。そろそろ時間みたいね。言いたい事、伝えたい事は山ほどあるけど――。この一言で十分か。あの薬草園の事は気にしなくていい。幸せになりなさい」

 時間は有限だ。それ故に全ての胸の内を語る事は出来ない。それを理解して貰う事も出来ない。しかし、その想いを一つの言葉に紡ぐ事は出来る。

 だからこそ、紡がれたその言葉は重い。その願いは尊いのだ。

 これで良かったのだろうか。そんな想いも込み上げて来てしまう。第三者である私には何が正しいのか、どうすればよかったのかなど分からない。

 全てはエリナさんの行動次第なのだ。だからだろう。

 私は次に発せられたエリナさんの言葉に驚きを隠せなかった。

「――それは約束できない」

 エリナさんは頭を撫でる祖母の手を払い除けると、涙を拭ってこう宣言する。

「私はあの薬草園が好きだから気にしないなんて出来ない。だから、ここに約束する。あの薬草園をお祖母ちゃんの作ったものよりも素敵にして見せる。私ね、友達が出来たんだ。ちっちゃくてドジで。でもね。凄く真直ぐで。純粋で」

「そう。安心した。外界から断絶された森に閉じ籠ろうとしていた訳ではないのね」

 どこかエリナさんの祖母は安心気にそう小さく呟くとこう続けた。

「なら、近郊の領主様のお屋敷を尋ねなさい。そこにいる庭師の老人がきっとあなたの力になってくれる筈よ。もしも、私を越えたいのならの話だけれど、ね」

 そうエリナさんの祖母がエリナさんに告げると同時に強い風が吹き込み、辺りに咲いていた花弁が舞い散った。その光景に驚き、私は思わず目蓋を瞑ってしまう。

 そして、目を開けると私は花畑の真ん中に立っていた。

 だが、辺りにはエリナさんがいない。それに加え、先程までの場所とは違う。

 私はここには見覚えがある。そう、あのお墓があった場所だ。

「前に会った時よりも小さくなったわね。って、そう。時の流れというのは早いか。あなた、あの子の娘なのかしら? 本当に何から何までそっくり。ちょっと背が足りないけど」

 お墓の前にいたのは先程までエリナさんとお話をしていたエリナさんの祖母だ。

 あれ、さっきアロマの効果が切れたと思っていただけにどうして目の前にエリナさんの祖母がいるのか理解が追い付かない。何より、エリナさんの祖母の言葉だ。

 私のお母さんの事を知っている? でも、どうして?

「あの、私の母の事を知っているんですか? 私、記憶が無くて……」

 私には母の記憶がない。覚えている最初の顔が師匠なのだ。実の母親ではなく。

「あなたの記憶に関しては私からは何も言えないわ。けれど、あなたには親子二代に渡って色々と世話になってしまったわね。それに香料士、か。ミネルバを思い出すわ」

 お母さんもここに来ていたという事実に驚きを隠せない。もしかして、母もリンカーベル出身だったのだろうか? それに、師匠もこの場所を知っていた?

 もしかして、師匠はお母さんと旧友だったのだろうか?

 でも、それならばどうして誰も教えてくれないのだろう。分からない。なんで。

「ありがとう。エリナに手を差し伸べてくれて。あの子、無理をしちゃう所があるからこれから先も支えてくれると嬉しいのだけど……きっと、あの人に会うのも、ね」

 色々と聞きたい事があるのだが、もう時間もないのだろう。

 エリナさんの祖母が薄くなって行き、背後のお墓が透けて見え始める。

 私は自分の問いを飲み込むと、はっきりとした口調で微笑みながらこう言い切った。

「私なんかが何が出来るか分かりませんけど、ね。エリナさんは私なんかより凄い人だし、努力家で立派でカッコイイ人ですから」

 再び、強い風が吹き込み辺り一面を花弁が包み込む。

 幻想的な光景だ。もう二度とお目にかかれないかもしれないほどに。

 だからこそ、私は先程とは違い目蓋を閉じず、エリナさんの祖母を見詰めていた。

「そうね。私からお礼に一つだけ良い事を教えてあげる。もしも、母親を追いたいのなら香料士を続けなさい。そうすれば、いつかきっと辿り着く筈よ。貴女の求める答えに」

 その言葉と共に辺りは白い光に包まれる。そして、目を開けるとエリナさんの小屋に横たわっていた。頭が少しだけ痛むがその痛みが現実である事を告げている。

 握りしめた右手を覗き込むと、そこには先程の花畑に咲いていた花弁が一枚。だが、それもすぐにまるで溶けてなくなるかのように消えてしまった。

 あれがきっとアロマの香能。あの場所での出来事は全て現実だったのだろう。

 頭がまだクラクラするが立てないほどではない。私はゆっくりと立ちが上がろうとするのだが、どうやらまだ無理だったらしい。すぐに倒れ込みそうになってしまう。

 けれども、私が床へ再び倒れる事はなかった。エリナさんも私が目覚めた事に気付いたらしく、力一杯抱き締められたからだ。

 少しだけ痛いのだが、それ以上に胸の中で泣かれるという行為に少しだけ戸惑いを覚えてしまう。こんな経験初めてなのだ。それに盗み見してしまっていただけに何とも……。

 どれだけ時間が経っただろう。眠っていた時間が分からないだけに判断出来ない。

 エリナさんは泣き止むと顔を私の胸に埋めたまま小さな声でこう呟いた。

「お願いがあるんだけど、いいかな。少しだけ、背中を押して欲しいの」

 アロマを作る事までが香料士の仕事なのか。それとも、解決するまでが仕事なのか。

 香料士になって日が浅く、幼い私としてはどちらが正しいのか判断がつかない。でも、やっぱり私としてはエリナさんの友人として最後まで関わってあげたいと思う。

 そうする事によってようやく、新たな一歩が踏み出せると思うから。

「当然です。それで先に進めるなら私なんかで良ければいくらでも力になりますよ」

 私はそうやって胸に顔を埋めるエリナさんに微笑むとそっと頭を撫でた。

 周りの人間は皆が皆。強い人ばかりだと思っていた。

 でも、実際には何かを抱え、それに苦しみながらもずっと付き合っていくしかないのだ。

 そんな苦しみというなの十字架と向き合う為に私達のような香料士が必要なのだろう。

 今回の仕事を終えて香料士というものがどういう物なのか分かった気がした。

 それと同時に私は香料士になるという選択に間違いはなかったと確信も出来た。

「だって、私は香料士なんですから」

 そう小さな声で呟くと、エリナさんの手を取り彼女の世界の終わりへと案内する。

 森と平原の境界線。あの時、私とエリナさんがお別れをした場所。

 でも、今度は違う。ここから先に一歩踏み出すのだ。

 それを祝福するかのように狼さんが見送りに来ていた。

「私からは何も言わんよ。それがお前の決断ならそれを尊重するだけだ」

「ごめんなさい。色々と心配をかけてしまったみたいで……」

 エリナさんの言葉に狼さんは軽く毛繕いをし始める。

 気にしていないと言いたいのだろう。言葉にはしていないのだが。

「そうだ。レスティナ。渡すものがあった。我らとの友情の証だ」

 狼さんが私に手渡したのは古めかしい木の枝だった。

 ただ、なんだろう。どこか懐かしい。見覚えがあるというのだろうか?

 それに、手に持っていると身体が何かに包まれているようにも感じてしまう。

 不思議な枝だ。私の身長にもぴったりで杖にも利用出来る実用性もばっちりだ。

「良い杖ですね。旅なんかする時に便利なので助かります」

「喜んでくれたのならば良かった。まぁ、その杖を持つような人間は今はもう少ない。お前の師匠くらいだろうな。今もその杖を持っているのならの話だが」

 師匠もこの杖を持っていたのなら、狼さんみたいな存在と親しかったのだろうか。

 私は師匠が歩んだのと同じ道を歩もうとしているのだろうか?

 未熟だし、私には分からない事だらけだ。

 エリナさんの祖母が語っていた私のお母さんの事も気になってしまう。

 でも、今はエリナさんのお祖母ちゃんが言った通り、香料士を続けた先に答えがあると信じて頑張ってみようと思う。そして、いつか師匠に並べるように。

 私はそう自分に誓いを立てると杖を地面に立て、青空を仰いだ。

「私、香料士になれて良かったと思います。自分の未熟さも甘さも。それを受け入れて少しずつ、前に進んで行きます。だって、私は師匠の弟子なんですから」

 師匠が私の事を本当に弟子と思っているのか分からない。

 でも、私は師匠の弟子を名乗り、あの人の背中を追い続けようと再び決心した。

 初めてのアロマ作りは滅茶苦茶で何一つ自分の力では無理だった。今回の仕事を全うできたのは皆の力を借りる事が出来たからだ。

 それが間違っているというつもりはない。でも、正しいとも思えない。

 私にはまだ何一つとして分からないけれど、それでも前に一歩でも進めるように。少しずつではあるけれど、頑張ってみようと思う。

 にこやかにそう宣言して見せると、私はエリナさんの背中を押して星が煌めく草原を歩き始める。リンカーベルの領主様の庭園を目指して――。


 そして、月日が流れて三か月後。

 今日もまた、アトリエにエリナさんが訪ねて来ていた。

 当初は不帰の森にある薬草園とリンカーベルを行き来していたのだが、最近では私のアトリエにエリナさんが寝泊まりする事も増えて来たのだ。

 その所為か、アトリエの中にエリナさんの私物が増えつつある。小屋で見た魔女の知識によって書かれた古い本もその一つだ。

 その事からも彼女がここを拠点として利用する頻度の高さが見えるだろう。

「えっと、次のコロンの材料に必要な物が……えっと、ちょっと待って調べるから」

 とはいえ、エリナさんはただ遊びに来ている訳ではない。私が今月マリンさんから受けた依頼を達成する為、次のコロンに必要な材料を聞きに来てくれていたのだった。

「確か、これは前に調香してたのと同じだから――前回より量が増えるけど檸檬と辛草。それから、宿り木でしょう。はぁ、先月よりも受ける依頼が増えてない?」

 必要素材を度忘れして慌てる私にエリナさんはどこか呆れたようにそう言った。

「あはは……。檸檬と唐草のコロンが共に十八瓶。宿り木のコロンが十四瓶。計五十瓶」

「ちょ、ちょっと待って! それって大丈夫なの? 無理してるんじゃ……」

 少しだけ無理をしている。でも、これくらいなら大丈夫だ。

 台帳に記された前回の出荷量が三十五瓶。それに比べて十五瓶程度多い。

「大丈夫だよ。それに、早く支払いは済ませたいから」

 この間の出来事。まるで、昨日の事のように思い出せるアロマ作り。

 しかし、三ヶ月も前なのだがあの時にアロマを調香した際のツケが色々と溜まってしまっているのだ。主に領主様のお屋敷の庭園から分けて貰った物の代金が……。

 確かに庭師のお爺ちゃんは「別に気にしなくてもいい」と言っていたのだけど、その後でレナさんに領主様のサイン付きの請求書を手渡されてしまった。曰く、「こういう事に関してはしっかりと整理しておくべきだ」との事。

 確かにそうかもしれない。と思ってその時は請求書を受け取ったのだが、額を見た時には本当に目を丸くしてしまったのを覚えている。金貨と銀貨を間違えているのではないかと。せ、せめて銀貨と銅貨でもいい。

 まぁ、そんな事はある筈もなかったのだけど……。

「まぁ、エリナさんが薬草を融通してくれているおかげで今月中には払い終わりそうです」

 もしも、エリナさんが薬草を融通してくれていなかったら二つ季節を跨ぐくらいまで働き詰めになっていただろう。本当に感謝してもしきれない。

 アロマ精製が金銭的にも非常に厳しいモノである事を身をもって知れた。

「本当ならその返済のお手伝いもしてあげたかったんだけど。ほら、あのアロマは私の為に作られた物なんだから。私も支払うのが筋ってものじゃない?」

「勝手に作って勝手に渡した物だし、それで料金を請求するのは流石に……」

 エリナさんはあれ以来、数日に一度は領主様の庭園に顔を出し、庭師のお爺ちゃんの仕事にダメ出したり、植物の最新の育成方法を学んだりと少しずつではあるが打ち解けようと努力しているようだ。

 領主様の庭の小屋に寝泊まりする話も出ていたのだが、エリナさんとしてもまだ庭師のお爺ちゃんとの距離の取り方に戸惑いがあるようで、それもまた私のアトリエへの寝泊まりの理由になっていた。

「ま、まぁ、レナから頂いた『お屋敷で働かないか』という話も断っちゃって定期的な収入源が全くないから……。お金を見るのも実は久々だったりするし」

 そう言えば、エリナさんは現在無職。薬草園で自給自足の生活を続けているらしい。

 たまにマリンさんから依頼された薬草を出荷したり、作製した薬を町で売ったりする事によって小銭は稼いでいるようだが、殆んどが無償のようなものらしい。

 実際にお金を使っているのも、ここでの食費。パンを買う代金くらいの物だ。

 一度、その事に対してどうして対価を貰わないのかと聞いた事があるのだが、それに対して返ってきた返答がまずは互いに理解して貰う為という事だった。

「魔女って言う存在への理解があればいいのだけど、豊穣の神イリスの教えと対立している部分も多いから……。なかなかにこうして外に出て関係を持つのは大変よ」

 私にはその対立している部分が何なのか見当もつかないのだが、確かにどんな職業も信用が第一だ。その土台を作る上でそういう考え方の違いは大きいのだろう。

「あはは。でも、薬草を融通してくれるだけでも大助かりです」

 いや本当に。この達成額のコロン作りとか材料費考えたらまず手が届かない。

「そう言って貰えると助かるわ。それじゃ、明日までには納品するからティナも頑張って。私の方も領主様の庭園で新たに栽培する事になった植物の土壌管理の仕事があるから……」

 収入がないのに庭園の土壌管理の仕事はあるんだ。そう思わなくもないがエリナさんの場合、庭園の仕事には収入ではなく知識や経験を求めている。

 本人の中では何ら問題はないようだ。なら、私が口を挿む問題ではない。

「あぁ、そう言えばあのジークって子は思っていたより使えるけど、まだまだだね。やる気だけは認めてるけどさ。私にも色々と教えて欲しいって頼み込んで来た時は驚いたわ」

「へー。ジークも頑張ってるんだ。庭師と薬草園の仕事って全く関係ないと思うんだけな」

 知っている名前が出たので流石に反応した。

 確かにエリナさんの知識の深さは私も知っているが、ジークの役に立つのだろうか?

 記憶が正しければ、ジークは庭師になる為にあそこで働いているわけで――。

「うん。同じ植物を扱うにしても薬草園の薬草と庭園の花々では全く違うものだし、知識なんてなくて当たり前と思っていたけど意外と基本は抑えていたのよね。まぁ、本で読んだ程度の知識で実際にそれをやってみたとまではいかなかったようだけど」

「ふーん。ジークが薬草の知識をね……」

 本当にどうしてジークは薬草の知識なんて欲しているのやら。ただ庭師になりたい。というだけにしては、少しばかり手を広げ過ぎじゃないか。と思えて仕方がない。

 もし仮に何かしら理由があるとしたら、例えば『誰かの役に立つため』とかか。

 けどそもそも薬草の知識が大量に必要なのは、エリナさんみたいな魔女か、マリンさんのような商売人。あとは私のような香料士くらいで非常に限られた範囲である。

 まさか、――エリナさんに一目ぼれした?

 だから頑張って短期間で基本知識を身に着けた。と。なるほど、筋は通っている気がする。つまりジークにもいよいよ春が来たという事か。だとしたら頑張れジーク。

 エリナさんへの恋を応援するかはまた別の話だけど、玉砕しても骨くらいは拾うよ。

 まあ、すぐに埋めるけどね。化けて出てこられても困るから。

「じゃあ、そろそろ私も薬草園に戻ってコロンの材料を調達するからあなたも根を詰め過ぎないようにね。アロマ作りの時も相当無理してたって聞いたわよ? 今は仕事もないんだから休める時に休んでおきなさい。わかったかしら?」

「は、はい……。善処します」

 私のその返答に不満なのか、少しだけエリナさんに疑いの目を向けられた。

 しかし、諦めたのか小さな溜息を吐くと勝手にエリナさんは何かを納得する。

「よろしい。――ティナ。、ね」

「うん、また明日。エリナさん!」

 私はアトリエを後にするエリナさんを追って外に出て、その背中が見えなくなるまで見つめた。途中で振り返り、手を振ってくれたエリナさんに大きく手を振った。

「さて……、と」

 確かに久し振りに空いた時間だ。コロン作りも材料が無ければする事がない。

 どうしようか。と考えて、私は無言で手帳を取り出した。

 ページを開き、そこにインクで書かれた文字を声を出して読み上げる。

「『汝、香料士なれど未だ香料士に在らず』――」

 香料士としてこのリンカーベルに戻ってきたその日、マリンさんによってそこにはそう記された。そして今、そこにはマリンさんの筆跡とは違う筆跡で、こう続きがあった。

「――『その迷いと未熟さを胸に前へ進め』!」

 後半は私が書き足したものだ。

 誰もが失敗を恐れ、自らが傷付く事を恐れている。

 それでも、手を差し伸べる事。前へ進む事で誰かを救える。

 私がエリナさんにしたように。師匠が私にしてくれたように。

 香料士になって私は季節を跨ぐ事もしていない。それでも、多くの事を知った。多くの壁にぶつかった。これだけの短い期間でだ。

 きっと、これから先も壁にぶつかり続けるのだろう。

 そこで諦めなければ活路が切り開ける。私はこの言葉をそういう意味に捉えた。

 長いようで短い期間。地味に忙しくて、充実していた。毎日、アトリエに篭りっぱなしで香料士になったんだなって……。そう言えば、ジュリアおばさんの手伝いを最後にしたのも随分と前になってしまっていたのか。

「……そうだ! 久し振りにジュリアおばさんの手伝いをしよう!」

 思い立ったが吉日である。私は叫ぶようにそう言葉にした。

 そして久しぶりに、ジュリアおばさんの居酒屋へと黄金の穂が風に揺れる畑の間を全速力で駆け出したのだった――。

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香料士~幼き職人と深き森の魔女~ 浅田湊 @asadaminato

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