ミスティ・ミステスタ

逢瀬悠迂

第1話


 プロローグ




 人間と、幻精(ミストラル)という別々の種族が共生して暮らすフォルラスという世界があった。

 フォルラスで二つの種族が協力して生みだす霊幻(シリエス)。それは、この世界の力そのものとされた。

 火を、水を、雷を、風を、土を、音を、空を、光を、闇を、心を、愛を、それともっとたくさんのものを操る魔法のような力。その源を、幻精は作りだし。人間は幻精のために自分の心身を差し出した。

 霊幻が生まれることで、彼らは飛躍的に文明を築けるようになった。

 一方で、人間と幻精を害なす者も文明と隣り合わせに存在していた。

 彼らを魔精(メジュラス)と人間は名付けた。

 獣の形や異型を象った魔精達は人間を、幻精を食らう。どこからともなく現れて、彼らの住まう村を襲う。そんな魔精に、人間達もまた霊幻を用いて対抗した。


 魔精は悪だ。討ち滅ぼすことに躊躇することはない。

 人々は口ぐちに言う。それが例え生まれたばかりの幼精であっても関係無く、ただひたすらに殺せ、と。


 魔精は森や樹海の奥深くに住む。それを狩猟者と呼ばれる、特に霊幻を扱う力の強い者達が森へと自ら入り、狩ることもあった。もちろん戦いに敗れ、魔精に食われる者も多く居た。

 しかしある時、こんな噂が森の麓にある小さき村、トゥトイオでまことしやかに囁かれはじめた。

『木々の生い茂った森の奥深くから、魔精のものとは思えない透き通った歌が聞こえてくる。その歌を聞いたものは、不思議とどんな目にあっても生きて帰ることができる』


 歌の正体は、人間が森林に住んでいる、あるいはあれは人間をおびき寄せるための魔霊の声だ、はぐれ霊幻が助けを求めて唄っている、神殿に祭られた幻獣のお声である――など、さまざまな憶測が飛び交った。

 しかし結局は誰もその真実を確かめられることなく……都市伝説の一つとして、時間の流れと共に消えていくのだった。




     1




「返せっ! 返せよっ!」

 トゥトイオの村にある、唯一の霊幻学校の屋上に、幼げのある男の子の声が響いていた。

 白い石造りで象る学び舎の一番高い場所、開かれた広場のようになっているスペースには年齢12,3辺りと見受けられる少年が四人立っていた。そのうち一人の少年が、何か小物のようなものを天高く掲げていて、それをもう一人の少年――どうやら先ほどの声は彼のものらしい――が奪おうと何度もジャンプして手を伸ばしていた。が、彼の手が伸びるたび小物を掲げている少年は意地悪な笑みを浮かべながらするりと上手くかわしたり、高めの身長を活かして取らせないようにしていた。残りの二人は、小物を持っている少年の後ろに並んで、同じくニタニタと笑っている。

「取れるものなら取ってみろよ! ほら!」

 そう言いつつも、さらに手を高く上げる。取らせるつもりは無さそうだった。

「大体、イリトにこんな高そうなもんが似合うわけないだろ、誰から貰ったんだよっ」

 後ろで見ている少年のうち、やや小太りな方がそうなじる。

「うっ、うるさい。それは母さんの形見の指輪なんだっ!」

「かあさん、だって~! ひゃひゃ、まだママに甘えたいのかよぉ!」

「こいつ、親二人ともいねーもんな! だからこれ持って家でママ~、ママ~って言ってるんだぜ~!」

「うっわ、だっせえ!」

「黙れってば!」

 イリト、と呼ばれた少年が怒りの矛先を後ろの二人に向け、小太りの少年――オーリに掴みかかる。

「うわっ!」

「母さんのことを悪く言うな! このっ!」

 イリトは小さい体を精一杯つかって、一回りも二回りも体の大きいオーリの襟をがくがくと揺さぶる。

「お、おいグレイラ! なんとかしてくれ!」

 同じ年齢の平均よりだいぶ大きな体躯に似合わない、あわてふためいた声で指輪を持っている少年を呼んだ。チ、と舌打ちをしてグレイラは叫ぶ。

「クロームッ!」

 すると、どこからか黒く丸い、ボールのようなものが飛び出してきた。ちょうど少年達の顔ほどの大きさのそれは、グレイラの肩口で止まり、羽根のようなものを広げる。見てくれはコウモリとそっくりだ。それと同時に、グレイラの指先に黒い光が灯りだす。

「ハッ!」

 直後、片手で銃のようにして打ち出した黒い光は、イリトの背中に直撃した。

「あぐっ!」

 衝撃を直に受け、イリトは硬い屋上の床の上に倒れ込む。その背中に、グレイラとオーリの嘲笑が追い打ちのように突き刺さった。

「フン……」

「ははっ、ざまあねえ」

「くっ、卑怯だぞ。霊幻を使うなんて」

 イリトは背中をさすりながら立ち上がる。それをさらに侮蔑するような視線を向け、グレイラは答えた。

「卑怯? 使えるものを使うことのどこが悪いんだ? お前も使えばいいじゃないか。そうすれば僕から指輪を奪えるだろ?」

 グレイラの口先には先ほどと同じ、悪意のある笑みが浮かんでいた。オーリと、そのトーリもまた表情を同じくしている。一方イリトはというと、威勢無く口ごもった。

「ぼ、僕は」

「あぁ~、そうだったそうだった。回路閉鎖症のイリト君は可哀想なことに、霊幻が使えなかったんだよなぁ~。いやあ、残念残念」

「くっ……」

 イリトは唇を噛みしめた。グレイラの言っていることは、疑いようのない事実だったからだ。

 回路閉鎖症。

 フォルラスに生きる者なら一定の年齢、12歳に達して条件さえ満たせば誰しもが霊幻を使うことができ、自由な行使を認められる。ただ一つの例外を除いて。

 イリトもグレイラも、同じ学年の仲間達は皆、条件を満たしていた。しかしイリトだけが、霊幻の恩恵を受けられずに居た。それがグレイラの言った、回路閉鎖症という生まれつきの病。

 命を蝕むことは一切ないが、霊幻に関する全ての力を使えない。何万人に一人の確率ではあったが、その病気によってイリトはグレイラ達によって事あるごとにいじめを受けていたのだった。

「悔しかったらお前も霊幻を使えるようになってみろよ、そしたらこれは返してやる。それまでは僕が使ってやるから有りがたいと思えよ」

「なっ! なんだよそれ――」

 再びイリトが、今度はグレイラの体めがけて掴みかかろうとした、その時。

「ごらぁーーっ!」

「「ぎゃあっ!」」

 怒気の利いた少女の声と共に、イリトとグレイラ達を分かつように突然横から拳大の火球が飛んできて、床の上に突き刺さった。床はびくともしなかったが、火球は爆発すると同時に大きな音を立て、一瞬屋上が煙に包まれる。

 煙が晴れると、火球が着弾した場所には……燃えるようなオレンジ色の髪をした、しかし少年達よりも背丈のだいぶ小さい女の子が立っていて、上目遣いで睨みを利かせていた。

「ル、ルゥリイ!?」

「ち……『直進の火精(ストレイト・スフィア)』か。僕らに何の用だよ」

 声を上げたのはイリトで、悪態をついたのはグレイラだ。

「何の用、ですって? あんたたち、またイリトに何かしてたんでしょ! まったく、懲りない悪ガキ共ね!」

「別に~? ただちょっと、遊んであげてただけさ」

「クロームを使ってイリトに攻撃してたところ、ばっちり見てたわよ。授業以外でみだらに霊幻を使うな、って教えられてないのかしら?」

 ルゥリイの言葉に、グレイラの周りで翼をはためかせているコウモリのような物体――クロームが、申し訳なさそうに右往左往する。

「クロームを責めてるわけじゃないの。あなたはグレイラに力を貸してるだけだからね……っていうかそろそろ元に戻ったら?」

 ポン、と軽い音を響かせてクロームの姿が消える。代わりに、グレイラの隣にルゥリイよりもさらに一回りほど背の低い、腰まで黒髪を垂らした女の子が現れた。長い前髪で片方の目が隠れていて、『影』のような印象がある。

「……すみませン。るぅリイ」

「ちっ。そんなうやうやしくする必要はねーよ、お前は俺にだけ従ってりゃいいんだ」

「ひイ。すみませン。すみませン。ますター」

 変な所にイントネーションを付ける独特な話し方で、グレイラに向かってぺこぺことしている。従者そのもの、といった様子だった。

「とにかく! もうあんた達イリトにちょっかい出すのをやめなさい! 今度やったらその時は首長に言いつけるからね!」

「ふん、やれるものならやってみろよ。おい、オーリ! トーリ! 帰るぞ、興が冷めた」

「ま、待ってよ! 母さんの指輪返してよ!」

「あぁ、これか。――そんなに欲しいなら返してやる、よッ!」

 グレイラが腕を振りかぶり、あさっての方向に指輪を放り投げる。屋上から見える、村を閉ざす森林。その森の中へ、指輪は飛んで行った。

「あっ!」

 悲鳴のような声がイリトから漏れる。が、遠く離れた木々へと呑みこまれていく指輪をただ見送るだけで、どうすることもできなかった。

「こらあ! グレイラ!」

 ルゥリイが怒声を飛ばすが、グレイラ達三人は、足早に階下へと繋がる階段へ逃げていった。

 

 時刻は少し巻き戻り、昼下がり。

「プリントは行き渡ったかな? 足りない人は、前の机に置いてあるから取りに来てくれよ~」

 大きな丸眼鏡を掛け、ぼさぼさで白髪交じりの髪に、そこかしこに皺の寄った白衣を着たこのクラスの男性教師――ネイト先生がプリントを片手に教室を見渡しながらそう言った。

 教室のいちばん後ろ、教卓から向かって右奥の席に座るイリトの手元にも、先生の持っているものと同じものが配られている。そこには、

 『霊幻契約の儀について』

 と、大きく見出しが書かれ、そこに日付やら概要やらの説明と、名前を書くための枠が設けられていた。クラスの誰しもが隣の席や前後同士で和気あいあいとそのことについて話し合っている。ただ一人、イリトを除いて。

 霊幻契約――。

 全員が十二歳を迎えたこの霊幻学校六年生のクラスでは、毎年季節が半分ほど過ぎた時期に、契約の儀が行われる。

 この世界において協力関係にある人間と幻精、各一人ずつが盟約を誓い、人間は霊幻のための体を、幻精は霊幻のための力を貸し、バディとして共に生きていくための契約だ。

 人間同士でいう結婚式に近しいイベントであるこの儀式は、十二歳を迎えた子供にとって何よりも大きく、一人前として認められるためのものでもあった。

 学校のクラスでは完全に分離されるものの、子供時代から人間と幻精は日ごろの生活を共にしている。その中で、バディとなる幻精はその中でも特に親しかったり、あるいはグレイラとクロームのように、家族ぐるみで主従契約を最初から結んでいたりする者と結ぶことが多い。そんな一大イベントに皆が沸き立っているのだ。

 しかしイリトは、対照的に溜め息をついていた。プリントを机の上に置いたまま、鉛筆を持つことすらしていなかった。

 回路閉鎖症。

 それがイリトの溜め息の原因であり、バディ候補となる幻精の居ない原因であり、そしてクラスから浮き、必然的にいじめられる原因であった。

 人間は幻精から力を貰い、自身の体を電気の通り道のように、いわゆる回路として霊幻力を巡らせて霊幻を行使する。

 しかしイリトのようにごくまれに、生まれつき霊幻の巡る回路が何らかの原因で閉じてしまっている者も存在する。原因は不明で、この持病を持った人間は例外なく、霊幻を使うことができない。不治の病ではなく、成長とともに治癒していくこともあるが、子供のうちに治る者は少なく、すなわちバディとの契約を経ることなく、幻精と疎遠になっていく。

 イリトはその例とは異なり、ルゥリイやクロームを始めそれなりに多くの幻精と知りあってはいるものの、やはりバディともなると、幻精にとっては人間における結婚と近しいこともあって、イリトと契約の儀を結ぼうとする幻精は居なかった。霊幻の使えない人間と契約することは、自分達にとってのアイデンティティの半分が消失してしまうことと同一だからだ。だからこそ、

 ――霊幻を使うことのできない僕と契約してくれる物好きな幻精なんて、居るはずがない。

 そんな負の感情がどこまでもループしていき、暗雲とした感情をイリトの心に落とす。

 そんな気持ちに便乗するように、冷やかしにきたのか、イリトの席の周りにいじめっ子主犯格のグレイラと、その金魚のフンもとい側近のオーリとトーリがうすら笑いを浮かべながらやってきた。

「よう、イリト。そんなに怖い顔してどうしたんだよ。まさか、バディが居ないなんてこと、ないよなぁ? 契約の儀は来週だぜ?」

 そうだそうだ、と側近の二人が後を追う。

 そんなのしったこっちゃない、自分には関係ない。うるさいからどっかへ行ってくれ、とばかりにイリトはプリントをくしゃっと丸めると、そっぽを向いた。

「おい、心配してやってんのになんだよその態度。こっち向けよ」

 グレイラの手がイリトの襟を掴み、襟に巻き込まれてイリトが首から下げている母の形見である指輪がちゃり、と音を立てる。

「ん? なんだこれ」

「っ、離せよ!」

 イリトがグレイラの手を振りほどく。と、指輪を吊るしている藁製の紐が運悪くグレイラの指に引っ掛かり、ぶちっと音を立てて切れてしまった。

「あっ!」

「へえ……お前こんなのつけてんだ」

「返せよ! それ、僕のだぞ!」

 勢いよく立ちあがったはずみで、イリトの椅子が倒れる。その音と、イリトの声に気付いた先生がやってきた。

「こら。今は相談する時間で、遊ぶ時間じゃありません。グレイラ君もあまり自分の席を離れないで」

 とグレイラを窘め、小声でイリトの耳に、

「イリト君の気持ちは分かります。でもあんまりグレイラ君達のことは気にしないように。彼はちょっと、勝気なところがありますからね。君は君のままで、良いんですから」

 と優しく囁いた。

 唯一このクラスにおいて心を許しているとも言える先生にそう言われると、イリトも矛を収めざるを得ない。「ハイ」と短く返事をして椅子を戻し、座り直すと自分の席に戻ったグレイラが声を出さずに口だけ動かしてにやりと笑った。

「後で返してやる。だから放課後、屋上に来いよ」



 その結果がこれだった。結局、指輪は返してもらっていない。

 どうしよう。指輪は森の中へと入ってしまった。村から森への入口はたくさんあるけれど、子供が入ろうとすれば、番人に止められる。そうじゃなくても、森には魔精がウヨウヨしている。僕みたいな、霊幻が使えない人間一人だけじゃ、餌が足を生やして獣の群れの前で正座しているのと同じじゃないか。

 イリトはうなだれながらそう思う。横でルウリィが気遣う言葉を掛けてくれているけれど、半分くらいは耳に入ってこなかった。

「ね、元気だして。またあいつらが来ても、お姉ちゃんがやっつけてあげるから」

「うん……」

 問題はそこじゃないんだけどな。

 イリトは自分がいじめられるのは構わないと思っていた。いじめられるのはいじめられる要素があるからだ。もし霊幻が自由に使えれば、そう簡単にグレイラも手を出してこないに違いない。そう、原因は自分自身にあるのだ。

「それと、そろそろ契約の儀があるんでしょ? バディの子、見つかりそう?」

「まだだよ。……それに、ルゥリイも分かってるだろ、僕なんかと、契約してくれる幻精なんて居ないって」

「こら。そういうこと言ってるからダメなの! それに、間に合わなかったら私がイリトのバディになるっていう方法だって残ってるんだから……そんなに焦らないで」

 イリトの塞ぎがちな声を制するように、前に立ち塞がってルゥルイが見つめる。嘘を言っているような瞳には見えなかったし、事実この問答をイリトとルゥリイは何度もしていた。しかし、その言葉は段々と海の底に深く突き刺さる碇のように重く、イリトの心に突き刺さるようになっていた。

「それは、ルゥリイに悪いから……」

 ルゥリイはイリトを弟のように扱い、親代わりに見守ってくれている。が、グレイラにストレイト・スフィアと呼ばれた通り、村ではかなり名の通る幻精の一人でもあった。特に火の霊幻については右に出るどころか足元に及ぶ者すらいないほどで、人間の回路、すなわちバディを使わずとも強力な霊幻が扱える。それはそれでイリトとは好相性にも思えるが、より強い霊幻を使うことを目指して努力を惜しんでいないことをイリトは知っていた。だからこそ、ルゥリイの邪魔にはなりたくなかった。

「私のことは気にしなくてもいいの。ね、それに閉鎖症だっていつかは治るんだから、そんなに悲観しないで」

「うん……考えて、みるよ」

 もう何度言ったか分からない、ごまかしの言葉でそれきり、イリトは会話を打ち切った。

 

「――ただいま」

 学校の校門でルゥリイに別れを告げて家に帰ってくると、いつものように自分の声が何もない部屋中に反響して、そしてイリトへと帰ってきた。

 イリトには父も、母も居ない。

 イリトの父は村で有数の狩猟者だった。土と水を始めとする自然属性の霊幻を扱うのが得意で、高い背とごつごつした顔に似合わず盆栽とガーデニングが好きだった。しかしイリトが学校に入る少し前に、森で大量発生した大型の魔精と戦い、村を救って死んだ。と聞いている。その死は凄惨なものだったらしく遺体が家に戻らず、葬式でイリトは父の死に顔を見ることができなかった。

 病弱だった母は、回路閉鎖症を抱えるイリトを毎日のように励まし続けた。だが病魔には勝てず、やはり若くして死んだ。イリトは一人になった。

 ルゥリイと知り合ったのはその頃だ。幼い時から幻精のホープだったルゥリイは父と懇意だったため、母が無くなった時にイリトの世話役を買って出たのだ。

 そんなルゥリイも今年で十八になる。背丈こそイリトより小さいが、成長が十二歳を境に止まる幻精だからこそだ。見た目もあいまって歳の近い姉弟という感覚だが、いつまでもイリトが甘えていられる年齢ではない。

 ルゥリイもバディを見つけないといけない。僕に構ってる暇なんて本当は無いんだ。

「どうすればいいのかな、父さん……」

 電球一つだけの微かな灯りに照らされた、机の上にある写真入れの中の父は何も答えない。

 机にうつ伏せになっていると、段々と意識が曖昧になっていく。

 だめだ、明日の授業の予習をしないと……、それに指輪のことも……どうしよう……、村の狩猟者の人に頼もうか、でも……。

 眠っている場合じゃないのに、視界に黒い霧が立ち込めてきて、それはいつの間にか、イリトを夢の世界へと誘っていった。

 

 暗い暗い闇の中。

 グレイラと、その取り巻きの二人の顔が出現する。なんだか歪んでいて、それこそイリトが教科書の写真で見た、魔精にそっくりだった。

 グレイラ達が笑っている。それも下卑た、ゲラゲラという忌々しい声を上げて。

「どうした? 使えるものなら使ってみろよ! 霊幻をさ!」

「ゲヒヒ、ヒヒ、ろ、ろくでなし、だ」

「救世主だった父親の子供がお前みたいな出来損ないで、さぞかし天国のお父君も嘆いてらっしゃるだろうさ。……なぁ? 出来損ない」

 デキソコナイ。

 ロクデナシ。

 そこに、担任のネイト先生の顔が続いて現れる。こちらは普段通り、優しい顔をしていた。慈しみのある表情でいつもイリトの悩みを聞いてくれるし、聞かなくても相談に乗ってくれる、イリトが学校で一番好きな先生だ。ところが、

「イリト君。君は、そんなに僕の生徒であることが嫌いなのですか」

 哀しそうな表情。

 違う。そんなことないよ、先生。

 イリトは夢の中で声を出そうとするが、何故か喉がきゅっと絞られたように締まって、声が出ない。

「そう……嫌いなのですね……だから、努力をしようとしない」

 違うよ。違うよ。

「自分が頑張ろうと思えばどんな境遇も変わるんです。君はいつも自分で塞ぎこんで、ルゥリイさんに負担を掛けることでごまかそうとしている。君は悪い子だ。君なんか――そう、いなくなってしまえばいいのに」

 イナクナッテシマエバイイノニ。

 言い終わった先生の顔は、グレイラ達と共にすぅっと消えて行った。イリトは夢の中でほっとする。

 これは夢だから、嘘なんだ。先生はこんな酷いことを言う人じゃない。

 次に現れたのはルゥリイだった。今度は顔だけじゃなくて、小さい体全身が暗闇に浮き出ている。

 ――ル、ルゥリイ?

「ひどいよ、イリトはさ」

 何? どうしたの?

「イリトがもうちょっと頑張ってくれたらさ、私も良いバディを見つけられたのに。私の夢、知ってる? この村だけじゃなくて、もっと広いところで、最強の幻精になること。強いバディと組んで、自分の力を試したい。でも、イリトが居るから……私はここから離れられない。仕方ないよね、イリトだもん」

 ご、ごめん……。でも、その、僕……。

「いいよ。安心して。私はイリトの味方だから。……でも、もし私のお願いを聞いてくれるならさぁ――――死んでくれたら、嬉しいかなぁ」


「ウワァ――――!」

 がば、と顔を上げる。そこは自宅の、机の上だった。

 体中、汗で濡れている。机まで汗の雫が垂れていた。

 心臓がドッドッ、と音を立てて唸っている。頭の中がごちゃごちゃぐるぐる、止まれ止まれと命令しても無視されかき混ぜられる。

 しばらく虚空を見つめていて、ようやくその動悸も静まってきた。壁の時計に目をやる。あと一時間もすれば空が少しずつ色めいてくる、そんな微妙な時間帯だった。

 窓を閉めていたせいで暑苦しい。さっきの夢のせいでまだ汗が噴き出してくる。今ならきっと外は涼しいだろう――と、イリトは家から出ることにした。

 予想通り外は風が吹いていて、あっという間にイリトの熱を奪っていった。それとともに、夢の内容をじわじわと思い起こしてしまう。

 グレイラ達はいつも通りだったけれど、先生とルゥリイに言われたことは嘘だと思いつつも、ぐらぐらと心を揺さぶられる感覚がまだ残っている。

 言葉には出さないだけで、本当は二人も――。もしかすると父さんや母さんまでも、そう思っていたのかも、しれない。

 はぁ、と溜め息をついて庭のベンチに腰かけた。悪い方に物を考え続けるのもイリトの悪い癖だった。そういう時はよく父に怒られて、その後このベンチに二人で座って、父は無骨な手でイリトの頭を撫でてくれた。

「あれ……?」

 と、しばらく座って夜の村を眺めていると、奇妙な違和感に気付いた。

 魔精達が住みかとする森。その入口で、普段は強固に守っている門番。それが居ない。

 ――休憩でもしているんだろうか。

 そこで、指輪のことをふと思い出した。昼間にグレイラに取られ、投げ捨てられたそれは、誰かの手に渡っていなければまだ森の中にある。

 門番は居ない。夜なら、魔精も寝静まっている。取りに行ける条件は揃っていた。

 でも、回路閉鎖症の僕が、霊幻も持たずに森の中に入って、もし起きている魔精に出会ったら……? きっと、ほぼ間違いなく、襲われる。

 小型か幼精なら逃げられる可能性はあるけれども、それ以外に襲われたらそこには死しか無い。

 父の言葉が記憶を辿って蘇る。

「森は良いぞ。確かに危険がいっぱいだが、それさえ理解していればこんなに素敵な世界は無い。村にはない楽しい非常識が、歩くたびに生まれるんだ。それにこの間面白いものを父さん、見つけてな。イリトがもう少し立派になったら連れていってやろう」

 けど……もし、一人で森の中に入って、帰ってこれたら?

 学校の中で、僕の力を示せる武勇伝の一つにはなるかもしれない。そうすれば、ルゥリイも安心してバディを見つけられるし、もしかすると、僕にもバディになってくれる幻精が現れるかも。

 傍から考えれば非常に愚かな選択肢にも見えたが、今のイリトにはもう森の入口しか視界に映っていなかった。

「……よし」

 それでも手ぶらで森へ入るほど冷静さを欠いていたわけではなかったようで、家に戻ると魔精用の護身ナイフと水筒、腕時計、コンパス、懐中電灯などを詰めたリュックを背負って戻ってきた。もちろん家を出る前に、父親の写真に「いってきます」を言うことも忘れない。

 ――行こう。霊幻が使えなくたって、一人で何かできるってことを、示すんだ。





     2



 夜明け前の森は、イリトが想像していたよりも鬱蒼としていて、風に草木が揺れて音を立てるだけで体が縮みあがるほどだった。

 それでも一度森に入った以上、ここでのこのこと帰るわけにはいかなかった。さすがにもう門番も休憩を終えているだろうし、そうなれば見つかって怒られる上に、そのことをまたグレイラ達に笑われるだろう。

 いくじなしで、ろくでなし、と。

 それだけは死んでも嫌だった。いや、本音を言えば死ぬ方が嫌だけど、それと同じくらい嫌だという意思があった。

 足を先に進めるたび、ぴりぴりとした感触がイリトを締め付ける。いつしか、鞘に納めていたナイフを握りしめて、体の前で構えながら歩いている。

 指輪を放り投げられたのが森の中とはいえ、グレイラの腕の力はたかがしれている。そんなに深くには入っていかなかったのをイリトは覚えていた。近くに水辺が広がっていることも。

 しかしどうも先ほどから身を縮めて緊張しすぎているせいか、自分の足が思ったよりも早く先へ、先へと進んでいることには気づいていなかった。

 段々と掻き分ける草木の量が増えて行く。もう人間の通ったと思われる道では無いところを歩いていた。それでもやはり、そのことを深く考えてはいないようだ。

 と……前だけを見てずんずん進んでいると。

 ザァッ、と森全体が揺れるような突風が吹いた。

 イリトはワッ! と声を上げ、思わず尻もちをつく。そこでようやく、

 ――森って、こんなに暗かったっけ……? いつの間に、こんな深くに?

 と、冷静な思考が戻ってくる。途端に、今まで緊張でごまかしていた恐怖感がぞわぞわぞわ、とイリトの体中に流れ込んできた。

 木々に隠れて見えない空が、心に闇を落とす。周りから聞こえてくる際限の無い風の音が、言いようの無い不安を煽る。360度全ての方角から、魔精に狙われているような感覚に陥る。

 これは、ひょっとしてやばいんじゃ……。

 思わず、来た道を振り返る。しかしそこに村の姿は無い。直進しながらも木をよけるために蛇行を繰り返した結果、もはや今自分がどこにいるかも分からなくなってしまったのだった。

 地面に付いた腰が動かない。立ち上がることができない。

 ガァァッ。

 遠くで魔精のものか、よくわからないものの声が木霊した。震えが止まらなくなり、目には大粒の涙が溜まっていた。

「ま、魔精……から、逃げなく、ちゃ」

 口には出せるが、体が言う事を聞かない。震えたまま座り込むイリトをお構いなしに、ザザザザッと、確実に何かが近づいてくる音がする。続いて、咆哮。

 助けて、誰か……! ルゥリイ、先生……!

 耳を塞いで体を小さく縮め、獲物を探しているであろう魔精が早くこの近くから去ってくれないかと願う。すると――


 ラ……ラ、ルールゥ……。

 遠くからはっきりと聞こえる、澄んだ歌声。

 イリトは耳から手を外す。歌が聞こえた瞬間、辺りでざわざわと鳴っていた草木の音も、邪悪なリズムを運ぶ風も、魔精の咆哮も……ぴたりと止んでいた。

 不思議と、体の震えも止まっている。涙は溜まったままだったが、立ち上がることができた。

 落ち着いた気持ちを取り戻し、辺りを見回してみる。誰も居ない。

 しかしなんというか、悪い気配に満ちていた森が、イリトにはとても心地の良い、言って見れば神聖な空間に変わってしまったように思えた。空耳ではない、確かにあの歌声が、何か起こしたんだ、とイリトは思った。

 しばらく立ち尽くしてみる。と、

 ルールリ、ルーラ、ティティエララ――。

 先ほどと同じ歌声。

 よく耳を澄まして見れば、幼い少女に似た声のようにも思えた。少なくとも、魔精はこんな声を発しない。イリトのように迷った子供か、あるいは幻精か、それともイリトがまだ見たことのない、幻獣の声か――。

 よく分からなかったが、歌を聞いていると体の底から、元気が沸いて出てくるような気がした。絶望だけが支配していた心に、希望の光が差し込んでくる。気付いた時には、声のする方へと走り出していた。

 猛然と草木を掻き分ける。今まで出したことのないスピードで走っていることにイリトは気付いていない。

 誰か、もし人間か幻精だったら、村に無事帰れるかもしれない。歌が止む前に見つけないと!

 やがて草木の群れが途切れ、広場のようになっている大きなスペースに出た。奥には湖が広がっていて、歌声はすぐ近くから聞こえていた。イリトはきょろきょろしながら目を凝らす。

 ふと、歌が止んだ。

 イリトは、湖の端にある、灰色の大きな石へと歩きながら近づいた。そこから聞こえていたような気がしたからだ。

「あっ…………!」

 大きな石の蔭になっている部分に回り込むとそこには、銀色の長い髪をした少女が地面に腰を降ろしていて、大きな瞳を丸くしながらイリトを見ていた。

 薄手の白いワンピースからは透き通るような綺麗な肌が覗いている。神さまが輪郭から作ったかのように整えられた顔、湖の色と同じ、濁りの無い水色の瞳。そして、腰まで降りた、銀細工のような光沢を放っている髪。その全てが美しく、イリトは思わず感嘆の溜め息を漏らした。

 一方少女はというと……顔、肩からお腹。一度肩に戻って腕から手の先。そして膝。足。イリトのことを上から順々に、くまなく眺めた。

「え、えっと……」

 その間、少女が口を開くことはない。困惑したイリトも何を話せばいいのか分からず、しばらく「えっとー」だの、「そのー」だのと言葉が出てこない。ここが危険な森だということは、とうに頭の中から消え去っていた。

「君は、だれ」

 幼く可愛い、という感想しか抱かない容姿からは少しかけ離れた第一声だった。語尾が変なところがクロームっぽいな、と思いつつも、少し警戒されてるのかな、と感じる。

「ぼ……僕の名前は、イリト。村から来たんだ。君は、幻精……だよね、ここで何してるの? 森は危ないよ」

 諭すようなイリトの口調にしかし、少女は歯牙にもかけない表情をして答えた。

「そう。危ない。だから早く帰った方がいい」

「い、いやだから……君はどこから来たの? もしかして、同じ村? ちょっと出口が分かんなくなっちゃったけど、もしよかったら一緒に帰ろう?」

「帰る? なんで?」

「え、だって、ここに居ると魔精が襲ってくるかもしれないよ。あともう少ししたら夜も明けて、森も明るくなっちゃう。魔精も起きてくるだろうし、そしたら食べられちゃう」

 イリトの言っていることがまったく分からない、と少女は顔を横に捻る。

「食べられないよ?」

 その顔は、魔精が自分にとって敵ではない、と主張しているようだった。むしろ、イリトの方が間違っている、かのように。

「食べられない。あの子達は私の歌が好きだから」

 歌――。そうだ、さっき聞こえてきたあの歌だ。でも、あの子達が歌が好き? まさか、魔精のことか? この子は、魔精のために歌っているんだろうか。幻精なのに。

「それじゃあ君、ずっと森に住んでるの?」

 少女はこくりと小さく頷き、即答した。

「そう」

 ありえない話だった。イリトの村では言葉を覚えたての子供の頃に、物の数え方よりも先に魔精と、森の話を聞かされる。毎晩のように眠る時も、何か悪いことをして怒られる時にも。「良い子にしてないと、森に連れていかれて魔精に食べられるぞ」と。

 もちろん冒険者など、屈強な力を持った人達なら森に出入りするが、それでも何日も森に入るということはしない。そんなことをした人間は……村に帰ってこれないから。

 イリトが目を白黒とさせて頭の中で整理の付きようが無いことを一生懸命こねくり回しているのを見て、少女はさらに続けた。

「でも、あなたみたいな子供が森に入ってきたのは初めて。最近大人の人間がよく入りこんでくるのは見ているけど……なぜ?」

 なぜ。

 なんでだっけ、と数秒の間逡巡してようやく、森にわざわざ危険を冒してまで入った理由を思い出した。

「あっ! 指輪!」

「指輪?」

「そう、昨日の昼間、この森に僕の指輪が投げ捨てられちゃって。大事なものだから探しに来てたんだ……」

 とは言ったものの、探していたことが頭にあったのは森に入ってほんの数十歩くらいまでだった。恐怖に抵抗することですぐに頭がいっぱいになり、すっかり忘れていた。当然ながら、ここまでの道筋で指輪があったかどうかも分からない。

 しかし少女は、ああ、と合点がいった顔付きをした後に、着ている白いワンピースのポケットから何かを取り出すと、

「これじゃないの?」

 それをイリトに手渡した。貰ったのは指輪だった。目に近づけて見てみる。

「……あぁっ! これだ! 母さんの指輪!」

 確かに昨日、グレイラに投げられた指輪だった。

 イリトが声を上げるのを見て、少女は初めて、薄く微笑んだ。

「よかったね」

「うん、ありがとう!」

 とその時、遠くから鐘のなる音が聞こえた。

 この音色は日の出を知らせる、村の鐘だ――。日の出の時刻は、魔精の動き始める時刻。森が景色を変え、もっと危険なものに様変わりする時刻。

 はっとした表情を浮かべるイリトに、少女は声を掛けた。

「村に帰りたいんでしょう?」

「あ、あー……そうなんだけど……。実は、迷っちゃって。ずっとここに住んでるなら君も村の方向、分かんないよね……どうしよう」

「あっち」

「へ?」

「村は、あそこ」

 少女の指し示す先――湖の反対側の、さらに奥には木々が生い茂っていたが、その隙間からはイリトの村のシンボルである、時計台の鐘がはっきりと見えていた。

「え、え、どういうこと?」

 あれだけ長い時間、森を歩き回ったはずなのに、歩いてものの数分で着きそうな距離に村が見えるなんて。

 実は森を彷徨っている間、湖を中心としてぐるりと一周してきただけの話なのだが、イリトがそれに気付くはずもない。

 イリト自身もそれはそれでまぁいいか、と難しく考えるのはやめることにした。

 それに、さっき鐘の音も聞いた。まもなく朝がやってくる。早く戻らないと、大勢の村人に見つかって大変なことになるし、魔精に出くわす確率も高くなる。

「それじゃあ、僕、行くよ。ありがとう、君のおかげで助かった」

「ん」

 少女に別れを告げて踵を返したところで、何を思ったのか少女へと振り返り、イリトは尋ねた。

「えっとさ……また、ここに来ても良い、かな」

 少女はびっくりしたように瞳を大きく見開いた。

「また来る? なんで?」

「や、その、君が嫌ならいいんだけど! その、多分君の歌のおかげで魔精に襲われないで済んだと思うし……指輪のことも、今度お礼がしたいな、って思って……だめかな」

 少女はかなり長く、迷っていた。

 ダメなら仕方ないよね――とイリトが諦めかける頃になってようやく、

「……ん。いいよ」

 細々とそう言った。歓迎していないというよりは、後ろめたさがあるような声のトーンだった。そしてそのあとすぐに、今度はしっかりとした口調で付けくわえる。

「でも一つだけ約束して。私のことは誰にも言わないで。この場所のことも話さない。あと、来る時はあなた一人で来ること」

「う、うん!」

 イリトは何度も首を縦に振った。また会いに来ても良いんだ、という嬉しさが思わず顔にも表れる。

「ん。じゃあ、もう迷わないでね」

 少女の言葉を背に、イリトはリュックを背負い直して、村の見える方角へと急いだ。一度だけ、湖の方を振り返ったけれど……その時はもう、少女の姿は見えなかった。


 

 この後、村に無事帰り着いて……イリトは重大なミスをしていたことに気が付いた。


 ――少女の名前を聞き忘れてきてしまった。











     3




 森から無事帰還したとはいえ、イリトの日常に変化を及ぼすことはなかった。

 なぜなら、森のことを言ってしまえば……間接的にあの少女のことを話すことになる。他言無用。そう言われたからには、絶対守らないといけない。そう、ヤクソクはゼッタイだ。

 なのでイリトは相変わらず休み時間にグレイラにからかわれ、放課後にもからかわれ、ルゥリイが駆け付け、クロームが平謝りする……そんな日が続いた。

 ただ一つだけ変わったところと言えば、授業中でもちらちらと森を見るようになったことだろうか。村と、少女の居た湖は近い。さすがに学校の中から湖は見えないけれども、それでも今日あの子は何をしているのだろう、また歌っているのかな、などと勝手に空想を膨らますことが増えた。おかげで温厚なネイト先生にも怒られて一度だけ廊下に立たされた。それでも少女の事を考えると、憂鬱な学校のことも未だ見つからないバディのことも忘れて、少しだけ元気になれた。

 次はいつあの場所へ行こう。ああ、楽しみでしかたないな。

 そうやってまた窓の外を見つめるのだ。


 その日は意外に早く訪れた。

 いつもは門番が目を光らせていて、どうにもこうにも森に入るのは厳しい……と諦めていたのだが、どうやら夜明けの数時間ほど前になると門番が休憩のためずっと不在であることを突き止めた。なにせ村の住人は夜中に出歩かない。人が居ないのだから警備する必要が無いのだ。無論、その穴を付いた人間がここに一名居るのだが……。


 少女に教えてもらった帰り道のおかげで、イリトは湖へものの数分で辿りつくことができた。魔精が怖かったのでナイフ等の準備はしてきたが、気配の一つもしなかった。

「また来たの?」

 イリトの気配に気づいた少女は、石の上に腰かけたまま、悪戯っぽい顔をして少しだけ冷たく言った。

「え、えーと……来ちゃいけなかった、かな」

 少し喜んでくれるかな、と思っていたイリトは予想外の反応に体を縮めて目をしょぼしょぼとさせる。それを見た少女は、

「んんふ、そうじゃないよ。イリトって面白いね」

 と悪戯な表情を深めて微笑んだ。


 前回聞き出せなかった少女の名前は、エヴエルと言った。

 エヴエルは一日の大半をこの湖の近くで過ごし、魔精ともとくに諍いを起こすことなく暮らしているのだという。むしろ、仲良しなのだという。イリトには想像もつかない。

 村の方が安全じゃない? と聞くと、

「……人間はあんまり好きじゃない。怒るし、喧嘩するし……怖い」

 と目を伏せがちにしょんぼりと言った。

 ――エヴエルは、普通の幻精とはちょっと違うんだな。

 それはイリト自身にもあてはまることだった。同じ人間なのに、霊幻が使えない。親も居ない。そういう意味においては、エヴエルと同じように他とは隔たれた存在。だからこそ、自然とこの言葉が口から飛び出た。

「じゃあ僕達、ちょっとだけ似てるかもね」

 エヴエルはぽかんと口を開ける。

「似てる……? 私と?」

「うん。僕は、同じ人間からすらもどっちかっていうと、嫌われてるし。他の人間には使えて当たり前の霊幻がさ、使えないんだ。もちろんそうじゃない優しい人も居るけど……いじめられるし、霊幻の授業じゃ怒られるし……」

「ふぅん……そうなんだ」


 それからもイリトとエヴエルは色々な話をした。

 イリトは学校の話、ルゥリイやクロームの話。

 エヴエルは昼間の森の話、歌っている歌の意味。

 まだ知りあって間もないのにも関わらず、イリトは今までに経験したことの無い暖かさをエヴエルから感じていた。

 しかしそんな楽しい時間も、夜明けの鐘が鳴る頃には終わりを迎える。

 この時間を、これ限りで終わりにはしたくない。

 もっともっと、続けたい。

「ねえ、そのさ。これからも僕、エヴエルに会いに来たい。エヴエルと話してると、とっても楽しいんだ」

 リュックを背中にからって、エヴエルと一緒に座っていた石から立ち上がるとイリトはそう言った。エヴエルは足をぷらぷらとさせながら、

「ん……。私も、イリトとお話するのは嫌いじゃないよ」

 とぶっきらぼうながらも、微笑みながら答える。

「本当? 良かった。……あのさ、僕達、友達に……なれないかな?」

「トモダチ……?」

「うん。僕はこの間エヴエルに助けられたし、もしエヴエルが困ったことがあった時、助けたい。だから、友達になってほしいんだ」

 ズボンのポケットをごそごそ、と探る。今日このために持ってきたもの。

「これ、この間のお礼。友情の印として、受け取ってくれないかな」

 イリトの手から出てきたのは、エヴエルの髪と同じ色をした、銀色に光る金属製の指輪だった。元々は父親のもの。学校から泣いて帰ってきたイリトに、元気をくれる印として父があげたものだ。家の机の引き出しに眠っていたそれを、引っ張り出して一生懸命磨いた指輪は、新品のように月の灯りを受けて光っていた。

 手のひらに乗せられたモノとイリトの顔を交互に見やり、目をぱちぱちとする。

「友達……友達。私とイリトが……友達」

 と呟いて、

「私なんかで、いいの?」

 困ったような顔。

「エヴエルは『なんか』じゃないよ。歌も姿も綺麗だし、何も取り柄の無い僕と比べたら……」

「ううん、イリトはいいひとだよ。いままで私を見た大人の人間達はみんな怖い顔して、大きな声で怒鳴りつけて……そうしない人は一人しかいなかった。その一人のひとに、イリトは似てるかも」

「そうなの? じゃあそんな大人が来たら、僕が守ってあげる。霊幻は使えないけど、こう見えても泣き真似とか、うまいんだ」

「泣きまねって。ふふ、なにそれ」

「本当だよ、ここでやってあげようか」

「ん……やらなくていい、ふふっ、もう……」

 こうして、イリトにとっては初めての、友達と言える友達ができた。

 そしてそれは森の少女にとっても――。


 イリトとエヴエルが『友達』になってから、イリトが森に入る頻度は増していった。

 学校に行っている間も、今日は何の話をしようかとか、何かおみやげをもっていこうかなとか、そんなことばかりを考えていて、もはや学校の方がどうでもよかった。

 その話をしたところエヴエルに怒られてそっぽを向かれてしまったので、さすがに授業だけはちゃんと頑張ることにした。テストの成績が少しだけ上がったが、バディのことはもうすっかりなにも考えていなかった。いや、他のこと全部、考えていなかった。

 そんなイリトに対してルゥリイは、

「ねえイリト! 最近どうしたの? 学校で話しかけても上の空だし。もしかしてまたグレイラ達に何かされたんじゃ……」

 と家までやってきて心配した。

「そんなんじゃないよ。いや、確かに何回か上履き隠されたけど……クロームが見つけてきてくれたし。最近毎日学校に行くのが楽しいんだ」

 学校が終われば、少し仮眠を取って、エヴエルに会いに行けるから。

「そう……? それなら良いんだけど……。もし困ってたらちゃんと言うのよ? 私はイリトの、お姉ちゃんなんだから」

「大丈夫、なにも問題ないよ」



 そんな日常が何度か続いたある日。

 この日もまた、夜明け前に村を抜け出して湖へとイリトは向かっていた。

 今朝の空はいつもよりも重く澱んでいる。雨がいつ降ってもおかしくないほど一面が厚い雲で覆われていて、イリトも雨着をリュックに詰めてきていた。

 おまけに少しだけ霧も出ている。森にちょっと入ると、奥に湖が見えてくるはずなのだが、霧のせいかそれが見えなかった。

 魔精の、気配がする……?

 一歩一歩、先に進むにつれイリトはそう感じた。

 イリトが湖に行く時間帯、エヴエルは必ずあの歌を唄っている。そのせいか、魔精の気配もほとんどしたことが無かった。咆哮も、魔精が走る音も聞こえないが、一歩奥に進むたびにひしひしとした緊張感が森に張りつめているのが分かる。

 何より、どれだけ近づいてもエヴエルの歌が聞こえない。エヴエルは、眠ってるんだろうか。

 少しだけ心配な気持ちが強まる。声を上げて呼んでみよう、と思ったがエヴエルとの『約束』を思い出し、ぐっと口を噤んだ。すると、

 ゴルルルルァッ!

 獣の咆哮。イリトの全身の毛が一瞬で逆立ちになる。体に電撃が走ったように、硬直して動けなくなる。

 しかし、声のした方向を見て、その硬直はすぐに解けた。

 ――エヴエルが危ない!

 魔精の気配も気にしないで、とにかく走る。イリトが想像していたよりもずっと、自分の足は遅かった。

「エヴエルッ!」

 湖を囲む広場に出ると、そこはいつもの、エヴエルの歌う暖かい空間の姿を微塵も残していなかった。

 エヴエルお気に入りの大きな石の上で、エヴエルが膝を付いて苦しそうに座り込んでいる。その周りに、見慣れない黒いモノが蠢いていた。

 中型の、魔精だ……!

 イリトは息を呑む。犬の形に似た、けれど本来のそれよりもずっと大きく禍々しいモノ。それが、三匹。エヴエルを囲んで、明らかに敵意を剥き出しにしている。イリトの方には見向きもせず、ただ狩人が獲物を狙っているかの如く、静かに狙いを定めていた。

「……っ」

 エヴエルがイリトの方をちらりと見る。視線で来ちゃダメ、と送ってきた。

 そんなこと、できるわけないだろ!

 しかし、イリトの手元にはポケットに入れた護衛用の小さなナイフしかない。中型の魔物に使うには心元なさすぎた。こんな時、霊幻が使えれば! とイリトは歯噛みする。

 だが、そうこうしている間にもじりじりと、犬の形をした魔精がエヴエルを追い詰めていく。震えるエヴエルの瞳には、涙が浮かんでいた。そう、ついこの間、イリトが森で迷子になっていた時のように。

 助けなくちゃ。

 でもどうすればいい? 何をすればいい? 僕は無力な人間なのに?

 イリトの頭の中でエヴエルの声が反響する。

 ワタシトイリトハ、トモダチダヨネ――。

 気付いた時にはもう、ナイフを片手に走りだしていた。どうなるかなんて考えもせずにただ、一番近くの魔精の背中に飛びこんだ。

 グサッ――! 感触だけは、十分だった。助走を付けて全体重を乗せた、無警戒な背中への攻撃はイリトが思っていた以上の威力を発揮した。たまらず、刺された一匹は咆哮し、後ろ脚でイリトを薙ぎ払う。

「うぐっ!」

 後ろに倒れて尻もちを付いたイリトを、怪我を負っていない二匹の魔精が、ギラギラと光る目で、牙を剥き出しにして睨んでいた。俺達の狩りをよくも邪魔してくれたな――とそう言っているようだった。

 一方、エヴエルからは完全に魔精のマークが外れてくれた。間髪入れず、イリトは叫ぶ。

「逃げてッ!」

 エヴエルは口を開いて、何か言おうとした。が、イリトが強い目つきでエヴエルの方を見ると、イリトとは反対側にたどたどしい足取りで離れて行った。

 残されたのは、イリトと手負いの一匹を含めた魔精三匹。さすがに傷を負った魔精は背中から黒い血を流して蠢いているだけだったが、残りの二匹はガッチリとイリトを逃がさないようロックオンしていて、背中を見せて逃げ出そうものなら、すぐに食いつかれてしまうだろう。

 だが、状況はもはや絶望的だった。

 ナイフは魔精の背中に残してきたまま。武器はもうない。

 くどいようだが霊幻なんてものはアテにできない。

 今にもイリトの首に噛みついてきそうな魔精は、牙の間から悪臭のする涎を垂らしている。打つ手なし。覚悟を決めるほか、無かった。

 ここまでか……。

 胸の内で、諦めを固める。しかし後悔はしていなかった。

 初めて自分の力で作ることができた大切な友達を、助けることができた。父さんも母さんも……多分、天国で会ったら笑って許してくれるよね……。

 思いながら、目を閉じる。なるべく、魔精の牙を見たまま死にたくはなかった。

 ガルルゥッ!

 魔精が轟いた。目を強く瞑る。

 一秒、二秒、三秒……。いつまで待っても、衝撃が来ない。それとも、もう死んでしまったのだろうか?

 恐る恐る瞳を開けてみると、そこはまだ森の中だった。ただ、異常に明るい。真昼間でもまだ足りないくらいだ。よくよく見れば、魔精の前に眩い光の柱が天に昇るようにして立っていた。明るさの原因はこれのようだ。――でも、誰が?

「イリト、こっち!」

 ぐい、と背中を引っ張られるがまま、イリトは立ちあがって後ろに退避する。そこには、

「エヴエル!?」

 ついさっきイリトが逃がした、エヴエルの姿があった。

「な、なんで……」

 イリトの疑問は、途中でエヴエルに制された。

「ん、話はあと! こいつら、まだ、動く」

 はっとして、魔精の方を振り向くと、光の柱を前に動けなくなっているだけで、魔精はまだ呻いていた。しかも、段々と柱の明るさが薄れていく。

「でででで、でもどうすれば?」

「手を……前にかざして」

「こ、こう?」

「そう。そのまま左手を伸ばしたまま、右手を貸して」

 言われたままに、イリトは右手をエヴエルに差しだす。それを、エヴエルはぎゅっと握りしめた。

「!?」

「じっと、してて」

 手を通じて、エヴエルの緊張がイリトにも伝わる。体勢的にも密着するような格好になって、イリトはどぎまぎした。

 やがて、目の前の光が完全に消失する。とともに、魔精の呻き声も増した。

「エヴエル!」

「もうちょっとだから!」

 何がもうちょっとなのか――と疑念を抱きつつも、エヴエルに身を任せる。すると徐々に……手の先に力が溢れ、それが体へと入って来るように感じた。

「私が合図したら、左手におもいきり、力を込めて」

「う……うん」

 魔精が首を震わせる。イリトを睨んで、吠える。牙を剥きだす。そして――飛びだしてくる。

「今!」

 魔精がほんの目と鼻の先に迫るのを見ながら、エヴエルの声に合わせてとにかく手に力を込めた。と共に、体中がカッと……熱くなるのを感じた。

 何かが自分の手から飛び出して行く、そんな感覚がしたのと同時。

 ピカッ――――。

 空から星が落ちてきたようだった。眩しくて、とても目を開けてなんかいられなかった。目を閉じていても眩しいと感じるくらいに。

 その光は、森から音も奪い去っていた。イリトの耳には何も入ってこない。感じるのは、右手で繋いだ、エヴエルの暖かさだけ。

 どれほどの時間が経っただろう。

 イリトがゆっくりと瞼を上げると、先ほどまで唸りを上げイリトに食いつこうとしていた魔精がぐったりと倒れている。尻尾一つ、動かない。

「倒した……のか?」

 その問いに答える者は居ない。ただ静寂だけが返ってきた。

 試しに近づいてみる。どの魔精も、前足をだらんとして口を閉じ、呼吸すらも感じられない。死んでいる……ように思えた。

「エヴエル、あの光はいったい――」

 尋ねようとして振り返り、エヴエルの表情を見たイリトの言葉が途中で止まる。

 額から幾筋もの汗を流し、とても辛そうに目が訴えかけていた。半開きの小さな口から苦しそうな呼吸音が僅かに漏れている。それでも、イリトの右手だけはしっかりと握っていた。

「ど、どうしたのエヴエル! 大丈夫!?」

 ぐらぐらしているエヴエルの体を支えてやる。イリトの方を見てはいるものの、焦点があっていないようだった。

「だい、じょうぶ……少し、疲れた……だけ……」

 前に歩こうとする。と、足元の小さな小さな石に躓き、大きくよろめいた。

「エヴエル!」

 倒れる寸前でエヴエルを抱き寄せ、顔を覗き込む。喋るのも辛そうだ。瞳が閉じかけたり開いたりするが、目の前にいるイリトを認識できているのかも怪しい。

 どうしよう、このままじゃ……。

 理由は分からなくても、イリトは直感的にエヴエルの命が危ない、と悟った。少なくともこのままにしておけば、大変なことに繋がる可能性は高い。

 でもどうすればいいのか分からない。第一に休ませなければならないことは理解できたが、ここは森の中。いくらエヴエルにとって魔精が敵でないと聞いていても、さっきの惨状を目にすればそれを完全に信用するわけにはいかなかった。となれば、選択肢は一つしかない。

「エヴエル……君は人間が好きじゃないって言ってたけど……ごめん。僕にはこれしか思いつかないから」

 そう言って、エヴエルの膝の裏と背中を支えて、持ちあげた。

 ――軽い。まるでわたぐもみたいだ。

「少し揺れるけど、村までの辛抱だから」

 エヴエルは小さく頷く。それを見て、もう一度しっかりとエヴエルを抱くと、村の見える方向へ――一目散に駆けだした。

 

 *


「バカな……取り逃がしただと!」

 暗がりから、声が聞こえる。まだそれほど歳を取っていない、男の声だ。

「ちぃ、まだそれほど遠くには行ってないはずだ。探せ! どうせあいつの逃げる場所などない、追放の烙印を押された者なのだからな」

 一人言が続く。

「ようやく足取りを掴んだと思えば寸前のところで逃がすとは。誰だ? 邪魔しやがった奴は――――ん? この足跡はまだ若いな。しかも小さい。子供が森に入り込んだのか? いや、さすがにそれは無いだろうが……あの獣は冒険者共に敏感だ、そういう可能性も無くはない。……まぁいい。あいつは災厄の獣。逃げ込んだ先には必ず不幸が訪れる。仮に拾われたとしても、そうなれば嫌でも放り出す、さ。ククッ」

 さく、さくと草木を踏みしめる音。

 それに続いて、ウォーン、と獣の声が木霊していた。


 *


 イリトの家に着き、ベッドに寝かせると、すぐにエヴエルは眠ってしまった。

 額に手を乗せる。そんなに熱くはない。

 汗を濡れたタオルで拭いてやると、少し楽になったらしく、軽い寝息が聞こえてきた。

 ベッドに横たわるエヴエル。その華奢な体躯と、あどけない寝顔を見ているだけで、イリトの顔はほころんでしまう。

「……んぅ」

 不意に、エヴエルの喉から声が漏れた。表情に変化はない。大丈夫、苦しんではいないみたいだ。寝返りをうったせいで、彼女の背中が見える。薄手のワンピースに汗をかいたせいで、白い肌が透けている。目のやり場に困り、机に掛かっていたタオルケットを掛けてあげた。

 ――こんな小さな身体をしているのに。森で一人ぼっちで、暮らしている彼女。

 魔精を退ける歌を持ち、そして魔精を倒す光の霊幻を使ってみせた彼女。あの霊幻は間違いなく最高レベルのものだ。

 彼女は一体、何物なんだろう?

 何かとてつもないものを秘めた、自分とは真逆のような存在。

 でも……僕の大切な友達。

 

 鐘が鳴る。村の日の出を知らせる鐘だ。

 その鐘に――二つの寝息が、重なっていた。







     4




 瞼を持ちあげる。窓から入ってきた太陽の光がまぶしい。――朝だ。

 イリトは立ち上がって背伸びをする。妙に腰が痛い。床に膝を着いたままベッドにうつ伏せの状態で寝ていたようだ。

 ふと、思い出す。

 ……そうだ、昨日はエヴエルのことをずっと見ていたら、いつの間にか眠っちゃったんだ。そういえば、エヴエルは……?

 自分のベッドに寝かせたエヴエルの姿が無かった。シーツには誰かが寝ていた皺の跡が残っている。朝になって森に帰っちゃったんだろうか?

 すると、声がした。

「あ、イリト。おきた?」

 振り返る。そこにはいつも通りの、エヴエルが居た。ほっと胸を撫で下ろす。

「うん。おはよう、エヴエル。早いんだね」

「イリトが、ねぼすけ」

 エヴエルがふふ、とほほ笑む。

 時計を見た。今日が学校なら、完全に遅刻している時間だった。

「ごめんごめん、もう体は大丈夫なの?」

「ん。心配ない。霊幻使いすぎちゃっただけだから」

 そう言われて、再び昨晩のことが頭をよぎった。最高レベルの、光の霊幻。

 あれはどうやったの? とか、君は何者なの? とか、聞きたいことは山ほどあったけれど、理性と好奇心が頭の中で戦って、ギリギリ理性が勝った。そういうことはあんまり強引に聞かない方がいいと思ったからだった。

 そして代わりに出てきた言葉は、

「もう森に帰るの?」

 それに対してエヴエルは、困ったような顔をして何度か口を開きかけては閉じて、ようやく、

「ん……そう、しないといけない。私が村にずっと居ると、あんまり良くないから」

「良くないって? やっぱり、エヴエルは人間が嫌いだから?」

「ううん、そうじゃない、けど……」

「でも、森に戻ったらまたあの魔精達が襲ってくるかもしれないよ。少し落ち着くまではここに居た方が安全かもしれないし……」

 本音半分、その他に建前が半分だった。

 気持ちの奥底に、エヴエルを村に留めることができたら、もっと一緒に居られる時間が増えるという思春期のやや邪な思いがあったからだ。

「ん……でも、私がここに居るとイリトが困る、かも」

「そんなことないよ! だって僕達は友達でしょ?」

 友達、という言葉にエヴエルの俯いていた顔が上がる。

「……いいの?」

「良いに決まってるよ! エヴエルが居てくれたら、僕も楽しいし」

「楽しい……ホント?」

「もちろん! だってエヴエルは僕の話も笑って聞いてくれるし、エヴエルのお話も楽しいよ。そ、それにエヴエルは可愛いし……できることなら森にずっと住みたいくらい」

 可愛い。

 それを聞いたエヴエルの顔がぽっ、と赤くなる。そして首を振って、否定。

「か、可愛くなんか……ない。私は人間にも疎まれてるし……醜い」

「そんなことないよ。酷い人はそんなこと言ったのかもしれないけど、僕はエヴエルのこと、好きだよ」

 さらっと。口に出して言った。

「す、すす好きって……」

 赤くなっていたエヴエルの頬がさらに赤くなる。その頬を両手で覆い隠して、口をぱくぱくさせているのを見て、イリトは慌てて付け加えた。

「あ、も、もちろん友達として、ってことだよ! エヴエルに僕なんか、釣り合わないよね、はは」

「そ、そういうこと……。うぅ、イリトは、女たらし。ん……」

 また俯いてしまう。指と指の隙間から見える頬は、まだ桃の色をしていた。

 そして長い沈黙。先に破ったのはエヴエルだった。

「ん、私もイリトの事、友達として好き。一緒に居たい。――でも森の湖のことも大事。あそこは私の全てだから……。だからちょっとの間だけ、この村に居ることにする」

「本当? ありがとうエヴエル!」

 泊めるのは自分のはずなのに、隠していた本音が漏れているのには気づかないイリトだった。


 村に居る、とは言ったものの、エヴエルは積極的に家から出るのを嫌がった。せめて近くに住んでいるルゥリイにくらいは紹介したかったイリトだったが、エヴエルが嫌なら仕方ないね、と早々に諦めた。

 昼も夜も、二人は一緒に食事を作って一緒に食べた。森に居る時は短いと一時間も話せなかったが、同じ屋根の下で暮らすことで必然的にその機会も増える。

 家の中で笑い声が途絶えることはなく、こんなのは母さんが天国に行ってから久しぶりだな、とイリトは思った。


 その日の夜――。

 月も高く昇り、一日の終わりの刻。

「え、えっとそれじゃあエヴエルはこっちのベッドを使ってね」

 イリトの家にはもう何年も、イリトしか住んでいない。時々ルゥリイが訪ねてくることも、ここ最近は無くなっていた。故に、備え付けの布団なんか無いし、いつもイリトが使っているベッド一つしかない。必然的に、エヴエルにベッドを奨めることになる。

「ん、分かった」

 新品のタオルケットと枕カバーをエヴエルに渡して、そして自分の使い古したタオルケットをベッドから取って、リビングの小さなソファに行こうとする。他に寝られる場所が無いからだ。ところが、

「イリト? なんでそっちで寝ようとしてるの?」

 と、エヴエルから少し拗ねたような声で言われる。

「なんでって……ベッドはエヴエルのものだから、僕はこっちで寝ようかなって。あ、気にしなくていいよ、昔からよく眠れない日はこっちで寝てたんだ」

「そんなのだめ。ここはイリトの家なんだから、イリトがベッドを使って」

「だ、だめだよ! 女の子にソファなんて使わせたら、天国の父さんに怒られちゃう! それにエヴエルはお客さんなんだから、本当に気にしなくていいって」

「むぅー……」

 エヴエルは不満そうだった。そして何かを思いついたのか、立ちあがってイリトの袖を掴む。

「? どうしたの?」

「じゃあ……」

 エヴエルの目線が斜め下に逸れる。頬が染まり、言いにくそうにぼそっと、小声で呟く。

「一緒なら、問題ない、はず」

「――っ」

 イリトの顔も真っ赤に染まった。いやむしろ、エヴエル以上に真っ赤だ。

 一緒なら問題ない――それはつまり、狭いベッドの上で、ほぼ密着状態になるということ……しかもエヴエルの方から言ってきた、ということが、イリトの心臓を極限まで暴れさせた。

「だ、だめなら私がソファーで寝る、から」

 タオルケットで半分顔を隠しながら、イリトの横を通り過ぎようとする。その手を、思わず取った。

 イリトの中で、理性と本音が殴り合いをしていた。子供同士の、友達としての仲良さから、少しだけ大人の領域に踏み込んだ行為。つまりこれはそういうことなのだ。もちろん、紳士的であることは大事だ。その一方で、子供心ながらに、もっとエヴエルと触れあいたい気持ちが、朝の時よりももっと、大きくなっていた。そして、

「わ、分かった。エヴエルが良いなら――一緒に」

 本能が理性を叩きのめした。

 

 静寂の夜に、何度も衣擦れの官能的な響きが重なる。

 イリトは部屋側、エヴエルは窓側に、背中合わせで横になっているが、子供用の小さなベッドである。できるだけ触れあわないようにしていても、ちょっと動いただけで背中同士が触れる。イリトの背中にエヴエルの柔らかい肌が触れるたび、イリトの心臓は鼓動を増した。

 やがて、小さな寝息が一つ分聞こえてくる。

「エヴエル……寝たの?」

 返事は帰ってこない。代わりに、すぅ……すぅ……と空気の音がイリトの耳に届く。

 イリトも目を瞑り、一生懸命夢の世界に入ろうとする。が、ドッドッと騒ぐ胸がそれを邪魔してまるで眠れる気がしなかった。

 いっそのこと、エヴエルが寝ている今のうちに、こっそりソファへと移動してしまおうか……と、そう考えた。

 ――よし、とにかく一度仕切り直しをしよう。落ち着いて、深呼吸をして、邪な考えを捨てるんだ。

 そっと、エヴエルを起こさないように慎重に……ベッドを抜けようとした。

 しかしいざ体を起こそうとしたところで、変な感触に気付いた。体が動かない。

 お腹の方に顔だけ動かしてみる。背中から、二本の腕が生えていた。……もちろん物理的に新しく腕が生えてきたわけではなく、エヴエルの腕だ。

「えっ、エヴエル!?」

 またもや返事は無し。寝返りをうった時に、イリトの方に体が向いてしまったようだった。試しに抵抗してはみるものの、意外とエヴエルの抱きしめる力は強く、無駄に終わった。

 足と足が絡み、背中を通じてエヴエルの優しい鼓動が伝わってくる。耳元に直接、微かな寝息が掛かる。美しい銀の髪が頬を撫でてこそばゆい。さらに、女の子特有の香りが周りに密着して、イリトの頭ははちきれそうになった。

「んぅ……」

 エヴエルの口から漏れた声と共に、抱きしめられていた腕が移動する。お腹から胸、顔、そして頭。

 首筋に息。頬と頬が触れる。

「ふふっ……」

 夢の中のエヴエルは大層楽しそうな顔をしている。限界ギリギリの頭で、どんな夢を見ているんだろう、とイリトは思う。

 森のことだろうか。それとももしかして、僕?

 そんな妄想を膨らませているうち、いつしかイリトも背中をエヴエルに預け、同じ世界へと誘われていった。


 朝になってイリトが目を覚ますと、やはりエヴエルの方が先に起きていたようで、ベッドに姿はなかった。それでもまだ、背中に昨晩の感触が残っている。

 触れた肌の柔らかさ、暖かさ。

 思い出すだけで、少し胸が高鳴る。

 少し経って、イリトが起きたことに気付いたエヴエルが、少し気恥ずかしそうな仕草をしながらやってきた。

「ん……おはよう、イリト」

「お、おはようエヴエル」

 脳裏に焼きついた、昨日の出来事がイリトの言葉を少しだけ詰まらせた。エヴエルの顔を直視するとなんだか恥ずかしい。そんな気がした。

「今日からまた、学校……でしょ?」

「うん。昼過ぎには終わると思うけど、エヴエルはどうする?」

「私はここにいる……かな。あんまり人目に付いちゃうと、ね」

「そっか。分かった、できるだけ急いで帰ってくるよ。よかったら、お昼は一緒に作ろうか」

 一緒、という部分でエヴエルの頬が赤みを増した。

「ん、一緒……。私、待ってる。――それじゃあ朝ご飯にしよ、もう出来てるの」

「えっ、もう? うわぁ、おいしそうだ」

 イリトがリビングに移動すると、エヴエルが一人で作ったらしい朝食が、テーブルに所せましと並んでいた。野菜と卵の色合いがとても食欲をそそる、手際よく作られたことが安易に想像できるものだった。


 朝食を終えると、登校するにはちょうど良い時間になる。

「じゃあ行ってくるよ」

 学校用の鞄を持ち、家を出ようとすると、エヴエルに止められた。

「ちょっと待ってイリト、こっち向いて」

「ん? どうしたの?」

「洋服の襟が曲がってる。あとここに毛玉が付いてるよ」

「あはは……ごめんごめん」

 立ったまま、エヴエルに佇まいを直してもらう。記憶に微かに残る、森へ出かける父とその父のずぼらな容姿を母が文句を言いながら丁寧に直している姿をふと、思い出した。

「ん、できた。いってらっしゃい」

「行ってきます、エヴエル」


 イリトが学校に着くとすぐに、ルゥリイとばったりと鉢合わせた。ここのところ少し疎遠になりかけていたから、何故か久しく感じた。

「あっ、おはようルゥリイ」

「おはよう。……なんだかすごく久しぶりな感じがするわね。それにしても、なーんか鼻の穴が膨らんでる感じがするんだけど。イリト、お姉ちゃんの居ないところで変なことしてないでしょうね?」

 キツい目線で睨まれる。

「し、してないよ! これっぽっちも!」

 とはいいながらも、目が泳いでいる。頭の中には当然ながら、エヴエルの顔が浮かんでいた。秘密裏に森に忍び込んでいたことも誰にも話してないのだ。ルゥリイにも話せない。

「ほんとーう? 怪しいわね……まぁ、グレイラ達に何かされてないなら別に良いけどね。それと、もう『契約の儀』は目と鼻の先でしょ? 目星は付いてるの?」

 あっ、と口を開ける。イリトの頭の中からすっかり抜け落ちていた。

「すっかり忘れてた――あ、でも進展はあった……と思う……けど……」

 もしかしたらエヴエルが――。そんな気持ちになる。

 そんな曖昧な答えでも、ルゥリイにとっては喜ばしいことだったらしい。途端に太陽と遜色ないほどの明るい笑顔が弾け、イリトを矢継ぎ早にまくしたてる。

「ほ、本当!? やるじゃない! ね、ねえ。どこの子? どんな幻精? 可愛い子? それとも男の子? 今度紹介して!」

「わぁっ、なんでそんなにルゥリイが興味津津なのさ! 関係ないだろ!」

「ねぇ! ねぇねぇねぇ! いいから教えなさいよ~もう!」

「痛いっ! 痛いから叩かないでって!」

 その後、ルゥリイの猛攻が止んだのは、授業開始のベルが鳴ってからだった。

 教室に入るといつものようにオーリとトーリになじられたが、イリトは相手にしなかった。一人じゃないという安心感がイリトを強気にさせ、グレイラが欠席していることもあって彼らも戸惑ったように手出しを止めた。

 なんて平和な日常なんだろう――。

 つまらない科目も、今日だけは清々しい気分で受けられた。こんな日々がずっと続くといいな……と思いながら、授業中に出されたプリントを解いていた時だった。 

 カン、カン、カン――。

 唐突に、村の鐘の音が鳴った。

「鐘……? どうして」

 普通、村の鐘は日の出と日の入り時しか鳴らされない。ただそれともう一つ、例外で鳴らされる時があった。魔精が村に、入り込んできた時。

 それでも小型魔精が迷い込んだだけでは倒す方が早いから、鐘が鳴ることはない。つまり、中型以上の、すぐには倒せないタイプの魔精が入り込んだということだった。

 鐘が静まると同時、学校の外が急に騒がしくなる。銃が何度も放たれる音、大人たちの叫び声。霊幻が何かに当たり、弾ける音――。

 そして、窓際に居たクラスメイトのうちの一人が、悲鳴を上げる。

「魔精が! 外にたくさん! 先生!」

 咳を切ったように窓際以外の席の生徒が外を確認しようと一斉に立ち上がり、窓へと殺到する。教壇に居た先生も、もちろんイリトも。

「な、なんだよあれ……」

「いやあああああああ!」

「みなさん落ちついて、窓から身を乗り出さないで! そこ、他の人を押さない!」

 教室から見える村の様子は、いつもの平和な村とは一変していた。

 広場には一匹どころではなく、両手を合わせても到底数えられないくらいの中型の魔精が入り込んでいて、村のそこかしこで大人の霊幻使いが戦闘を繰り広げている。家屋の何個かは被害を受けたのか、形が歪んでいたり、煙を上げていたりするものもある。ただ、今のところ倒れている人や幻精は居ないようだった。

 しかし、森へと続く入口からは次々と魔精が溢れ出てくる様子が窺い知れた。このままだと、学校の中に魔精が入って来る可能性もある。そしてなにより、

 家に置いて来たエヴエルが危ない!

「あっ、イリト君! どこへ行くんです! 外は危険ですよ!」

 背中に振りかかった先生の言葉を無視して、イリトは外へと走った。イリトの家はそんなに頑丈ではない。中型の魔精に突進されでもすれば、ドアが突き破られてエヴエルに危険が及ぶ。

 幸い学校の出入口に魔精は居なかった。見つからないように、建物の影を縫うようにして家へと戻る。家と学校の道のりはそんなに遠くないのに、今この時は、何キロも離れた場所まで走っているように感じた。

 そうして、何事もなく無事に家に辿りついた。一つ深呼吸を置き、勢いよくドアを開ける。

「エヴエル、無事!?」

「い、イリト……?」

 良かった、無事だった。

 ほっと胸を撫で下ろす。しかしそれもつかの間、エヴエルはとんでもないことを口に出した。

「イリト、お願い。私と一緒に外に出て」

「へっ?」

 一瞬何を言っているのか、意味が分からなかった。外に出る? 外には魔精がたくさん動き回っているのに?

「だ、だめだよ。外に出たら、魔精に襲われちゃう」

「でも! このままじゃもっと大変なことになるかも」

「そんなこと言ったって、僕らじゃどうにもならないよ……大人の霊幻使い達に任せないと……」

 それに、自分は霊幻が使えないのだ。戦力にはならないし、エヴエルは幻精だからある程度の霊幻は使えるだろうけれど、そのエヴエルを守りきれる保証はできない。それに、前回魔精に襲われた時に、エヴエルは倒れてしまった。それが心配だった。しかし、

「ん……お願い。ねぇ、私を信じて。イリトは……私のトモダチ、でしょ?」

 エヴエルの目尻にぽつり、と水晶のような小さな球が浮かぶ。

「と、友達だよ! 当然さ!」

「……ごめん。イリトを危ない目に合わせようとしてるのは分かってる。でも、多分この村の人達だけじゃ、あの魔精は倒せないの」

「ど、どういうこと?」

 ちょっとドアを開けるね、と言ってエヴエルはほんの少しだけ、ドアを開けた。隙間から魔精が誰かに飛びかかっているのが見える。

「イリトは魔精をこの間見たでしょ?」

 うん、と頷く。

「普通の魔精は、霊幻を使えば倒せるの。けど、あの魔精達の尻尾には……何がついてるか、見える?」

「金色の輪っかみたいなの……? 確かにあんなの、教科書じゃ見たこと無いけど。この間の魔精には付いてた、かな?」

「あれは、誰かに霊幻で従わされてる魔精に付く『従属のリング』なの。あれが付いた魔精は、魔精だけを倒しても霊幻を使った人が生きてると消えるだけで死なないの。本体はリングだから」

「そんなの、初めて聞いたけど……」

 授業でも習った覚えはなかった。

「――一部の幻精にだけに伝わってる、禁忌術だから。普通の人は知らないはず。とにかく、あれを倒すにはリングを直接、それもちゃんとした属性の霊幻を使わないとだめ。村に使える人が居ればいいけど、多分居ない」

「もしかして、エヴエルはそれ、使えるの……?」

 こくり、と頷いた。

「で、でもそれが本当だとして、エヴエルの回路は誰がするの? 僕は、回路閉鎖症だから無理だよ……?」

「違う」

 はっきり、エヴエルが否定する。

「イリトは本当は、回路閉鎖症なんかじゃない。この間私を助けにきてくれた時、イリトと手を繋いで使ったあの流星弾(スターダスト)は、イリトの回路を使ったんだよ」

 記憶がよみがえる。中型の魔精を三匹も、しかも一瞬で、一発でしとめた大きな光。確かにあの時、体には熱く流れてくるものを感じたけれど、それが霊幻だなんて思っていなかった。

「嘘だ……」

 あの凄まじい力が、僕のものだって? 今まで霊幻を使ったことすらないのに? 信じられるわけがない。

「話は信じてくれなくてもいい。けど……ん、今は力を貸してほしいの。お願い!」

 エヴエルの見つめる瞳の中で、イリトの顔が揺れ動く。同様に、心もゆらゆら、揺らぐ。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。村は大変な目に合っているし、急にそんなことを言われても――――。その中で、唯一揺らがないものがあった。

 そうだ、僕はエヴエルの友達だ。友達が信じなくてどうする。

「……分かった。何ができるか分かんないけど、僕はエヴエルのこと、信じるよ」



 二人が外に出たときには、状況は一変していた。

 学校の上から見た景色では膠着状態にあったはずの戦闘。それが、大きく数を増やした魔精によって、明らかに村の霊幻使い達は押されていた。

 広場の周辺には何人か、血を流して倒れているバディ達も居る。学校の周りには何匹も魔精が取り囲み、ドアを突き破ろうと何度も突進を繰り返していた。二階の、イリトのクラスの窓には不安そうなクラスメートの顔が並んでいる。その中に、いじめっ子のグレイラ達も居た。

「エヴエル、どうすればいい?」

「ん……この魔精達の中には、『リーダー』になる個体が存在してるはず。その魔精のリングを壊せれば、自然と他の魔精も消えるようになってるの。そしてリーダーは、大体他の個体に守られるような場所に居るから……一番魔精の集まってるところまで行く。そこで、この間使った霊幻と同じものを使うの。途中で他の魔精に襲われた時も一緒。右手は私の手を握ってて。左手だけで霊幻を放出するの」

「こう?」

 イリトが言われた通りにすると、エヴエルは頷いた。

「ん」

「よし……分かった」

 とは言ったものの、改めて村を見渡すと大量の魔精が暴れているのが見える。もちろんこんな光景は今まで見たことが無い。遠くから彼らが暴れているのを見るだけで、足がすくんだ。

「大丈夫? イリト」

 エヴエルが心配そうに上目遣いで見上げてきた。そうだ――こんなに小さいエヴエルでさえ、頑張ろうとしてる。僕だけが逃げるわけにはいかない……と、気持ちを入れ直した。

「さすがにちょっと怖いけど、でも……エヴエルが居るから。僕は逃げない」

「ん……行こう!」

 イリトの右手を握ったエヴエルが走りだす。それに合わせて、イリトもついていく。

 魔精の大半は、イリト達に見向きもしなかった。他の幻霊使い達と交戦しているか、学校のような大きな施設に群がっているかのどちらかだ。

 しかし村の中心部に近づいていくと、それまで倉庫を漁っていた一匹の魔精がイリトに気付き、牙を光らせて猛進してきた。

「き、来たよエヴエル!」

「イリト、できるだけ引きつけて!」

 走る足を止めずに、迫りくる魔精から逃げ続ける。そして数メートルほどまでに距離が縮まると、魔精はイリトに向かって飛び込んできた!

「いくよっ!」

 合図と共にイリトは足を止めて魔精へと振り返り、手のひらを思い切り、前へと突き出した。

「スターダスト!」

 エヴエルが叫ぶ。その直後、イリトの突き出した手から、球状の大きな光の塊が飛びだした。それは直線的に進み、口を大きく開けていた魔精の顔に、直撃する。

 グルワァァァ……。

 その威力は凄まじかった。魔精は唸り声を上げながら十メートル以上も、土を抉りつつ吹き飛ばされる。そして、吹き飛んだその地点でばたりと倒れ、その姿が霧状になっていく。尻尾のリングが真っ二つに割れているのが、かろうじてイリトの目で確認できた。

「すごいや……」

 消えゆく魔精と、自分の手のひらを交互に見やる。信じられない、という表情を浮かべて。

「ね、使えたでしょ? 霊幻。私は嘘をつかないよ」

 隣でエヴエルが笑っている。

「なんで、こんな……?」

「ん、イリトはそれだけすごいってことだよ。さぁ、次に行こうっ」

 村の中心――鐘に続いて二番目に村のシンボルとなっている大噴水がある広場に近づくにつれ、魔精の数は段々と多くなっていった。

 その分、戦っている村の霊幻使いともすれ違う。そのうちの何人かは、見たことのない銀髪の少女に目を奪われる。

「なんだ、あの幻精……。あんな子、村に居たのか?」

「隣に居るバディ、まだ子供じゃないか! おい坊主、こんなところまで来るとあぶねえぞ!」

 警告の声に、すいません、と頭を下げながらも足は止めない。

 魔精が寄って来る度にイリトの手は眩く光り、圧倒的な霊幻の力でねじ伏せていく。いつの間にか、戦闘の最前線に立っていた。

「居た……!」

 噴水を守るかのように、中型の魔精が十匹程度、陣を作っている。その中心に――ひときわ大きく、体毛から禍々しい黒い霧を纏わせた魔精が立っていた。左右に揺れる五本の尻尾……その真ん中に、金色のリングが光っている。

 グルルル……と、明らかに中型の魔精の唸りがイリト達に敵意を向けた。何か動きがあるものならすぐに飛びかかってきそうだ。

「数が多いな……」

 やみくもに飛び込めば、霊幻が発動する前にやられてしまうかもしれない。エヴエルもそれが分かっているのか、じっと魔精を見つめている。

 睨みあいが続き、やがてじりじりと、魔精達は左右に広がり始めた。

 ――囲もうとしてるのか。

 背を向けるわけにはいかない。魔精が歩を進めるのに合わせて、後退しようとした。直後、

 ガルルウッ!

 咆哮と共に、目の前の一匹が飛び出してくる。合わせて、エヴエルから熱い力が流れ込んできて、

「スタートレール!」

 イリトの手から迸る閃光。空中に居た魔精は当然、逃げられない。リングもろとも光に貫かれて、叫びながら消えていった。

 それを、魔精達の方も分かっていたのだろう。味方がやられたのと同時に、今度は複数で飛びかかってきた。

 間に合わない!

 イリトの目の前に牙と爪が迫る。力の強い霊幻は連発できない。握られた右手に力が籠る。せめて、エヴエルだけは僕が守らないと――。

「――ブラスト、バーンッ!」

 覚悟を決めたのと同時、懐かしい声と共に灼熱の息吹と耳をつんざくような轟音がイリトの世界を支配した。魔精の牙は飛んでこない。濛々とした煙が視界に広がり、何も見えない。感じるのは右手の感触だけ。

「……っ、こっち」

 その右手が引っ張られた。そのままエヴエルに引っ張られていくと、急に視界が開けた。煙を抜けたようだ。

「イリト、大丈夫!?」

「ルゥリイ!」

 ああ、やっぱりさっきの霊幻はルゥリイが助けてくれたのか、とオレンジ色の髪を見てイリトはほっとする。手を繋いでいるエヴエルも無事だ。

「もう、びっくりするじゃない! 村に魔精が溢れてたから、私も応援に来てたけどこいつら倒しても倒しても次から次へと湧いてくるし、学校の方が騒がしいと思ったらイリトが見たこともない可愛い女の子連れて霊幻まで打ってるしもう訳わかんない! 説明しなさい! お姉ちゃん命令よ!」

「あ、う、うん……その~……」

「待って」

 答えに窮するイリトと、イリトを指差すルゥリイの間にエヴエルが割って入る。

「まだ終わってない。『リーダー』が生きてる」

「リーダーって? あのでかいやつのこと?」

 煙が晴れる。中型の魔精が円を描くように倒れていた。ルゥリイの霊幻はやっぱりすごかったんだ、とイリトが息を呑む。

 しかし、『リーダー』はびくともしていなかった。それどころか、黒い霧を纏う量を増やし、牙を剥き出しにして、完全な臨戦態勢に入っていた。

「こいつは……ちょっとヤバそうね」

 戦闘経験の多いルゥリイが不安な顔を浮かべている。一方エヴエルは素知らぬ顔で前へと出る。

「ちょ、ちょっとあなた! 危ないって――きゃあ!」

 『リーダー』の咆哮が轟いた。その衝撃だけで、イリト達の後ろに積んであった木箱が音を立てて崩れた。それでも、エヴエルの顔色はまるで変わらない。

「イリト」

 エヴエルが後ろを振り返って、手を差し出してくる。その手を、

「うん」

 迷うことなくイリトは握った。

 力が満ちてくる。体の中に、エヴエルの力が。熱い……けれども優しい力の流れが。

 ギャオオオオオオオォ!

 二度目の咆哮。耳が痺れる。全身の毛が逆立つ。

 『リーダー』が、飛びかかってきた。やはり大きい。遠く離れていたのに、一飛びしただけでもう目の前に迫っている。だが、イリトの心は不思議と暖かい安心感に包まれていた。手を伸ばす。回路が結ばれた瞬間、エヴエルと繋がる。

「「スターダスト!」」


 *


「ただいまー」

「た、ただいま……」

 日も暮れ、月の昇った夜。魔精を倒した後紆余曲折あって、ようやく二人は家に戻ってこれた。

 疲れからかイリトもエヴエルも、どっ、とソファに腰を落とした。

「それにしても今日はすごかったね、エヴエル」

「ん……大変、だった。いっぱい囲まれた」

 リーダーの魔精を倒した後、村を襲っていた全ての魔精は糸が切れた操り人形のように突如として動かなくなり、やがて光の粒となり消えていった。エヴエルが、イリトに説明していた通りだ。

 一方で、村中を大騒ぎに陥れた魔精を、他の有名な霊幻使いのバディ達を凌いで倒してしまった幼い子供達に、誰しもが注目した。

 霊幻使いのホープ達は口を揃えて、

「まだこんなに若いのにあんな強力な霊幻を……? 信じられない!」

「ね、幻精の君。名前をなんて言うの? エヴエル? ぜひうちのギルドに来てくれないか! うちはたくさんの幻精が所属してるギルドでね――」

「お……君はたしかイリトとか言った……親父さんにはよくお世話になっていたよ! 回路閉鎖症って聞いてたけど、克服したんだなぁ! 学校を卒業したら父親と同じ冒険者を目指すのかい?」

 と、二人を褒め称え、特にエヴエルの正体については誰もが知りたがった。

 イリトをよく知るクラスメート達はというと、

「へぇ……イリトってこんなすごかったんだな。見直したよ」

「うんうん、いつも仲間はずれにしてて、ごめんねー?」

 一方でグレイラ達は相変わらずで、

「チッ。良い気になりやがって! 気色悪いんだよ、一体いくら払ってこんな子連れてきたんだ? なぁ、教えろよ?」

 といちゃもんを付けてきた。さすがに多勢に無勢で、他のクラスメートから睨まれるとどこかへ行ってしまったが。

 そしてルゥリイもまた、例外ではなかった。

「ふ~ん。なるほどねえ、イリトが今朝言ってた子ってこの子のことね?」

「う、うん……」

「可愛いじゃない! やけちゃうなぁ、髪の色も綺麗な銀色だし……ねぇあなた、これって染めてないわよね? 地毛?」

「ん……そ、そうよ」

「いいなぁ……あ、私はルゥリイって言うの。イリトのお姉ちゃんみたいなものかな。よろしくね!」

「イリトの……。ん、私はエヴエル……よろしく」

 エヴエルの髪を遠慮なく触りに行くルゥリイに、少しエヴエルは遠慮がちにしていた。

「それにイリトも、霊幻使えるようになってたのね。良かったじゃない、彼女のおかげ?」

「それがよく分からないんだ。エヴエルが、僕はもともと閉鎖症なんかじゃなかったって。実際、エヴエルの霊幻が体に入って来るのが分かって、今まではそんなことなかったのに……」

「へぇ~、そういうこともあるのね……。まぁとにかく、これでイリトも霊幻使いの仲間入りなんだから、きっとこれからすごいことになるわよ。色んなところから勧誘が来るんじゃないかしら」

 ルゥリイは自分の事でないのに、瞳をキラキラと輝かせてイリトにギルドのことや、冒険者、狩人……など、霊幻使いの就く仕事について日が暮れるまで語っていた。

 エヴエルもエヴエルで他の幻精達に見つかるたび会話に捕まり、そのせいで帰るのが遅くなったのだ。


「で、どうする? エヴエル。まだお風呂も沸かしてないからすぐには入れないけど、いつもみたいに先に入る?」

 同じ屋根の下どころか同じ寝室で一夜を共にした昨日は、イリトがお湯を沸かしてエヴエルを先に入れてあげていた。当然ながら一緒に入るわけにもいかないので、その間にイリトは晩御飯の準備だったり、ベッドに新しい寝具を入れたりしていた。エヴエルが上がってから、イリトは少し冷めたお湯に浸かるのだ。

「ん、昨日は私が先だったから。イリトが今日は先に使って」

「いいの? お湯が少し冷たくなるけど」

「大丈夫。森だとお湯じゃなくて水浴びだけだから」

 そういえばそうだった――と、森でのアクシデントを思い出す。水に濡れた肌色の肢体が唐突に浮かび、頭を振るって艶めかしい想像を振り捨てた。

「了解。でもできるだけ早く上がるようにするよ」

 と言伝を残して手早く自分の着替えを棚から取り出すと、イリトは風呂場へ入って行った。

 風呂――と言っても別の場所で沸かしたお湯を人が入れるほどの大きさの桶に溜めた浴槽と、後は体と頭を洗うための狭いスペースに小さな椅子があるだけの簡素なものだ。鏡はあるがイリトは頭を洗う時に目をずっと瞑る癖があるためほとんど使わない。

 風呂桶から小さな桶でお湯を取り体を少し流してから、体を洗うために椅子に座る。

 すると鏡越しに、風呂を仕切る布に影が映っているのが見えた。

「エヴエル? どうかしたの?」

 何か探し物でもしているのかな、そう思ってイリトは特に気にすることなく石鹸に手を掛けた。

 シャッ、と音がした。石鹸を手にしたまま振り向く。開かれた風呂場の仕切り布。そこに、タオル一枚を見に纏ったエヴエルが立っていた。

「ちょっ――エヴエルッ?」

「あ、あんまり見ないで……恥ずかしい、から」

 白い肌が上気して桃色付いている。タオルで体を隠しているとはいっても、露出している肩や腕、首筋……それだけで、イリトの顔は心臓は飛びあがりそうになった。

「ご、ごめん!」

 体の向きを元に戻して、なんとか難を逃れる。それでも簡単に鼓動は元には戻らない。

 何か探しにきたにしては様子がおかしすぎる。それにタオル一枚だなんて――。

「ん……入る、ね」

 ぺた、ぺたとエヴエルの足音。それはイリトの背後で止まった。

「ど、どうしたの?」

 下を向いて、なるべくエヴエルを意識しないようにしながら声を出す。

「背中……流そうと、思って」

 エヴエルの声も震えていた。タオルを抑える手は固く結ばれていた。

「いいいいいいよ! 僕、自分でできるから!」

「だ……だめ……」

 ぺた。エヴエルの手が背中に触れる。

「石鹸……貸して……」

 か細い声で言われる。エヴエルも相当に緊張しているのだという雰囲気が、ひしひしと伝わってきた。俯いていたイリトだったが、

 ――もうどうにでもなれ!

 と開き直って、実際には手が震えていたが、石鹸と、洗う用のタオルを後ろへ差しだした。

 やや間を置いて、濡れたタオルが押しつけられる感触がする。ごし。ごしごし。

 弱すぎも強すぎもしない絶妙さで上から下、左から右……無言の空気の中で、タオルだけが動き続けた。

 イリトがふと顔を上げた。鏡にエヴエルの、艶のある肌と雫に濡れた髪が映っている。

 やっぱり、綺麗だな……。

 それに気付いたエヴエルと、ばっちり視線が合う。合ってしまう。

「――っ! み、見ちゃだめって言った……」

「あっ、ごめん……!」

 再度、俯いた。ざばー、と背中にお湯を流される。

 背中の次は頭を洗うんだろうか。それとも、お腹までエヴエルは洗おうとするんだろうか。そんなドキドキと、期待を半分で待っていると、

「あれ?」

 いつの間にかエヴエルは、浴槽から居なくなっていた。

「い、一体何だったんだろう……」


 イリトがお風呂から上がると、その当のエヴエルは身を隠すようにベッドでタオルケットを被って丸くなっていた。寝るには窮屈すぎる体勢なので、どうやら寝てはいないようだ。飛び出した両足も時折ぱたぱたと動いている。

 それを見て、可愛いな、とイリトは思う。

「エヴエル、寝た?」

 すると、ちょっと拗ねたような声が返ってくる。

「…………寝てる。だから話しかけてもむだ」

「寝てないよね?」

「寝てる」

 仕方がないなぁ、とイリトは吹きだした。いつもは落ち着きがあって、クールな面の多いエヴエルが強情になっているのが珍しく思えたのだ。 

「お風呂のお湯、暖かいの入れ直してるから入ってきていいよ。僕もさっきのこと、忘れるからさ」

「…………うぅう」

 唸っているような声が小さく漏れてきた。

「びっくりはしたよ。けど、僕は思ってた以上にエヴエルと仲良くなれてたんだなって、嬉しくなったんだ。ありがとう」

 タオルケットの山が左右に揺れ動いた。

 沈黙に被せるように、イリトの言葉が続く。

「僕はさ……今まで、自分なんて生きててもどうしようもない、意味の無い人間だって思ってたんだ。霊幻も使えないし、それ以外でも特に秀でてない。勇気だってない。今日だって、エヴエルの方が魔精に立ち向かおうとしてた。そんな僕に、ここまでしてくれた人はエヴエルが初めてだよ」

 自分には~がない。

 自分はだめだ。

 それは今まで、自分の心だけに響かせてきた。それを、他の存在に打ち明ける。それすらも『初めて』だった。初めての響きは、タオルケットを通り抜けて、エヴエルの心に届いていく。響いていく。

「だからさ……これからも、もし森に帰ったとしても……ずっと友達で居て欲しい。もちろんエヴエルが僕を友達だって……思ってくれてたら、の話だけどね。じゃあ、おやすみ。今日はちゃんとベッド使ってね」

 返事はなかった。

 ただ、タオルケットがもぞもぞとだけ、動いた。


 *


 イリトがソファで寝静まり、エヴエルが風呂場から戻ってベッドで再び丸くなり……村の電灯のほとんどが消えた時刻。

 村の中で、唯一灯りのついた建物があった。村長の家だ。

 窓は閉め切られ、カーテンも閉められて、さらにはドアの前には厳重な警備を施すべく、三人もの警備兵が立っている。ドアの隙間から、微かな話し声が聞こえてくる……。


「夜分遅くに御面会を許して頂き光栄でございます。村長」

「なに……気にするでない。いつも、というわけにはいかんが村の有事があった後じゃ、『魔精が入りこんでいる』などという話、にわかには信じがたいが聞かぬわけにもいくまい。昨昼は幼き霊幻使い達の活躍で村は救われた。しかし二度同じことが起こった時、またあの子らの力を借りなければ撃退できないのでは、村の存亡は危うい。普通の霊幻では倒せない魔精……対策を練らねばならぬし」

「そのことなのです。私が秘密裏に調べた結果、あの魔精はその昔、村で禁忌とされたはずの特殊な霊幻で従属させた、操ることの可能な魔精という線が非常に強いのです」

「なんじゃと! 人間が魔精を……」

「いえ、正確には人間にはそのような術は使えないはずなのです。魔に魅入られた、魔に近い者……すなわち魔精そのものか、魔精と交わった人間でなければ」

「良く知っておるな……もっと詳しく聞かせい」

「ありがとうございます。魔精を呼ぶためには、近くに魔精を呼ぶ為の術者も必要なのでございます。このことは我が家に伝わる文献にも書かれており……すなわち、昼の騒ぎの犯人は、村の中に必ず居た、ということでございます」

「なんと……! では村人に交わった者が?」

「かもしれません。もしくは、魔精が人間に化けていたか」

「ぬう……いずれにしても、人間の姿をした魔の者というわけか。待て、ということは未だに村に潜伏しておる可能性があるのか!?」

「恐らく。――そして私にはその目星が付いております」

「誠か? 虚言ではなかろうな?」

「ご安心ください。我が家の秘法の、伝聞ともう一つにそれを打ち破る霊幻の術が伝わっております。それを使えば、間違いなく魔精の仮の姿を打ち破ることができるかと」

「ふむ……して、そのものの名は?」




     5




 古ぼけた家の中、小さなベッドの上で、少女が一人、このまま永遠に眠り続けるかのような静けさを、しかし幸福そうな顔を浮かべて、朝の眠りの生みをさまよっていた。

 うつぶせの姿勢で、タオルケットを白い小さな手でぎゅっと握りしめて。つやつやの唇が少しだけ開いている。微かな寝息がそこから聞こえる。

 少女――エヴエルは、そんな眠りの真ん中で、ふいにゆっくりと寝がえりをうった。体が、ぴくりと震える。そっと……目を開く。時の氷が柔らかく溶けて、世界の色彩が彼女に取り戻される。

 その近くのソファーには、少女と同じくらいの体躯の、少年。こちらは寝苦しそうに、体を丸めていた。少女が、エヴエルが、少年――イリトに近づく。静かな足音で、水面を泳ぐ水鳥のように。

 額に触れる。寝顔をわずかに隠していた前髪が横に流れて、まだあどけない顔が現れる。

 それを見て、愛おしい表情を、浮かべた。


 はっと、ソファーから起き上がる。寝る前には掛けていなかったはずの、タオルケットが背中からずり落ちる。エヴエルが掛けたものだ。ふと感じる、喪失感。

 ベッドを見る。居ない。

 ソファから転がり落ちそうになりながら、起き上がる。どたばたという音にびっくりしたのか、意外と近くに居たその探し人が玄関から顔を出した。

「あっ、おはようイリト。今日は早いね」

 エヴエルの目は少し周りが腫れているように思えた。微笑んでいるが、それも万全な時と比べるとやや陰って見える。それでも、まだ存在を確認できたことにイリトは胸を撫で下ろした。

「エヴエル……良かった、もう森に帰っちゃったのかと……それとも、今朝、出るのかな」

 エヴエルがこの村に居られるのは少しの間だけだと、最初に来た時に約束している。

 湖に戻らなければならないから、と。それを鑑みれば、もうエヴエルが滞在できる余裕は幾ばくも無いと、イリトにも薄々感じ始めていた。今玄関に居るのは、そういうことなんじゃないかと、思った。しかしエヴエルは首を振って、微笑む。

「ん、大丈夫。最後まで、一緒に居るから」

「最後……? どういうこと?」

 そのとき、家の外から鈍い足音が聞こえてきた。普通の村人のものではない、何か重厚めいたものだ。それも一人二人ではなく、もっと多数。するとエヴエルは急に表情を哀しそうなものに変えて、イリトに聞こえないように、ぽつりと零した。

「――ん……遅かった、かな」

 エヴエルの表情が急に哀しそうなものに変わる。ぽつりと零した言葉はイリトには聞こえなかった。

「誰だろうね? こんな朝から」

 イリトは寝室の窓のカーテンをそっと引き、できた隙間から外を覗いてみる。不吉な黒い帽子を被った男達が家の庭からドアに掛けて、ずらーっと並んでいる様子が見えた。

「…………? 知らない人、だなぁ。なんかいやな感じ。何してるんだろう」

 心配をかけさせまいと、イリトはエヴエルに見えないようにカーテンをすぐに閉めた。が、何か悟ったように、エヴエルはドアの前へと歩いていく。

「エヴエル……?」

「ごめんね、イリト」

 辛そうな表情の中に、精一杯頑張って作った微笑みが浮かんだ。

 ドンドン。力任せにドアが叩かれる。イリトの体がびくっ、と跳ねあがった。

「ヴェイラー・イリト! イリトは居るか!」

 明らかに、歓迎されているような口調ではない。開けようかどうか迷ったか、先にエヴエルが開けてしまった。

「イリト……お? おや、君は」

「言わなくても分かってる。私を、捕まえにきたんでしょう?」

 え――。

 イリトの体が、固まる。

 ドアの外に待機していたのは、上下を重装備で固めた大人達と、その後ろに全身を黒で固めたお役人だった。ドアが開いたことが予想外だったのか、エヴエルが出てきたことが予想外だったのか、彼らは一様に声を詰まらせ、体をのけぞらせていた。

 最初に硬直が解けたのは、なにやら丸めた紙のようなものを手に持った、エヴエルの目の前に居た長い髭のおじさんだった。

「ふむ、覚悟はできていたのだな、化物め。分かっているのなら話は早い。裁判に出廷してもらうぞ」

 エヴエルの手が掴まれる。

「ちょ、ちょっと! いきなり来て、何を言ってるんですか! エヴエルも、どういうこと? 僕には意味が分からないよ!」

 目の前には知らない大人達。エヴエルを、連れて行こうとしている。

 エヴエルも、まるで最初から分かっていたみたいに、抵抗しようとしない――。

「イリト君。彼女だけでなく君にも、もちろん出廷してもらう。……これが逮捕状だ。魔精召喚の罪ならびに、村への不法侵入、その他六つの罪でエヴエルを逮捕する、とな」

 イリトの前に、丸められていた紙が広げられる。

 逮捕状。そこにエヴエルの名前と、逮捕の理由。ご丁寧に右下にはこれが公式な紙だということを知らせる大きな判子が押してあった。村長のサインまである。

 それを見た途端、イリトの体は中身が全部空っぽになってしまったのではないかというほどの空虚に覆われた。村のお役人が、続けて何かを言っている。でもそれも、耳に入らない。世界の音が、うわんうわんと唸って聞こえる。

 コノヒトタチハ、ナニヲイッテルンダ?

 エヴエルガツレテイカレル――?

 イリトの体を抑えつけていた理性が吹き飛んだ。ドアから飛び出す。エヴエルを掴んでいる、自分よりも幾周りも大きい役人に体ごと飛びこんで行く。役人の顔が歪んだ。

 けど、そこまでだった。横から平手打ちが、大人の本気の平手が、子供のイリトの顔を目がけて飛んでくる。

 視界がぼやけた。意識が遠くなる。体が横に靡く。



 気がつくと、知らない場所に居た。茶色の、綺麗な木目の天井が視界に入る。お腹には質の良い毛布が掛かっている。

「ここは……」

 辺りを見渡した。誰も居ない。

 どうやらベッドに寝かされていたようだ。

「そうだっ! エヴエルは!?」

 毛布を跳ねのけベッドを飛び降り、ドアに走る。鍵は掛かっていなかった。部屋を出ると、高級そうな赤い絨毯が廊下をずっと流れていて、左右には他の部屋の入口が並んでいる……。

 ここは、村の偉い人が集まる施設だ。直感でそう感じた。

 村に一つだけある、役所や警察署、裁判所、消防署全部をまとめた場所。こんな豪華な設備、そこ以外にあり得ない。つまり、急に押し掛けてきた役人に連れて行かれたエヴエルもたぶん、ここにいる。

 しかしなにぶん巨大すぎた。

 どこから探したものか、と困惑していると、どこからかひときわ大きな声がした。大人の怒鳴り声だ。続けて、上の方からドタドタと床を踏み鳴らす音がする。

 上だ。上にエヴエルが囚われているんだ。

 廊下を走り、上の階に繋がる階段をみつけた。昇る。また走る。すると、一つの部屋の前だけ、守衛のように立っている人が居た。イリトが近づくと、守衛の方から話しかけてきた。

「おっと、君は誰だい? ここは今大事な裁判をやっているところなんだけど……迷子かな?」

「いえ、その……この中に居るのって、エヴエルって子ですか」

「そうだけど、なんで知ってるの?」

「僕、シュッテイするようにって朝言われたんです。でも倒れちゃって、さっきまで下の階で寝てて……。入れてもらえないですか?」

「ああなんだ、そういうことか! 多分大丈夫だと思うよ、でもあんまり音立てないように静かに入ってね。もう始まってるから」

 守衛は素直に鍵を開けてくれた。イリトは言われた通り静かに、中へと入った。そこには、


「ではこれより、被告の尋問に入る。一応言っておくが、被告に黙秘権は与えられない。裁判官の質問には全て答えること」

「……はい」

 部屋の中心に立っているエヴエル。そしてその正面に一人、左右のテーブルに二人ずつの大人が座っている。エヴエルの近くには武装した、森の門番のような人が立っていて、イリトはそれらの場よりさらに後ろ、何十人もの村人が固唾を呑んで見守っている――いわゆる傍聴席というのだろうか、そのような場所に居た。

 雰囲気が異様だった。皆、エヴエルに好意を持っているようには感じられない。イリトを除く全員が……彼女を、敵意を持って見ていた。

 裁判。これからエヴエルが……裁かれるのだ。

 やめろ、と。今すぐエヴエルを離せ、と。大声で叫びたかった。しかしそれが現実になることはなく、粛々と裁判は進む。

「汝、エヴエルは……自らが魔精だということを認めるか?」

 耳を疑う。エヴエルは幻精だ。そんなわけない。だが、

「認める」

 確かにエヴエルが、そう言った。

「汝、エヴエルは……未知の霊幻を用いて魔精を指揮し、村を襲わせたことを認めるか?」

「それは、違う。私じゃない」

 今度は否定した。しかしそれをよしとしない空気が漂う。

「嘘はいけない」

「ん……嘘じゃ、ない」

「では汝以外の誰が行ったと?」

「従属の霊幻を使える誰かが居る。でも、私じゃない」

 ダンッ!

「嘘を付くな!」

 エヴエルから向かって左の席に座っていたお役人が、突然立ち上がってテーブルを叩き大声で叫んだ。と同時に、傍聴席の村人も立ち上がる。そうだそうだ、嘘を付くな! と、何重にも声が重なる。

 なんなんだ、これ。

 こんなの……ただの糾弾でしかないじゃないか。エヴエルが何を言っても、誰も最初から賛同しようなんて思ってない。

「静粛に! では次の問いを行う。汝は村人の一人、ヴェイラー・イリトをかどわかし、騙し、自らを幻精と騙って家にかくまわせていた。認めるか?」

「ちが……」

「――それは違うっ!」

 傍聴席、裁判長……部屋の全ての目線が、イリトに集まる。今まで喉の先でつっかえていた言葉の分まで、叫んだ。

「僕はエヴエルに騙されてなんかない! あなた達の言ってる事はおかしい! エヴエルが魔精だって!? どこからどうみても幻精じゃないか! 濡れ衣だ!」

「イリト……」

 部屋中がシン、と静まりかえる。叫び終わってもまだ、イリトの胸の内は熱いものが滾っていた。

 静寂の中で、誰かが席を立つ音がした。コツ、コツと足音が響く。

「せ、先生……?」

 イリトの前に現れたのは、いつもイリトのクラスで教鞭を取り、イリトが少なからず信頼を寄せるネイト先生その人だった。傍聴席に居たらしい。

「イリト君。たしか君は参考人として呼ばれてたんだったね。でも裁判で発言するときはちゃんと手を上げて裁判長に許可を求めないといけないよ」

 眼鏡の中で先生の優しい目がイリトに安心感を与えた。

 良かった、先生が居てくれればエヴエルの無実を訴えられる……!

 そう、思った。しかし、思わぬ言葉が続けられる。

「それに君は騙されてるんだ。きっとこの魔精に、幻惑の術でも掛けられているんだろう」

「ちが、違うよ先生。僕は術になんか……」

「大丈夫、すぐに目が覚めるからな。裁判長、提出していた件の霊幻使用許可を願います」

 先生の言葉に裁判長がウム、と短く頷くと、先生は傍聴席から部屋の真ん中に居るエヴエルの前へと向かう。

 先生は何を言ってるんだろう。助けてくれるんじゃなかったのか――?

「さて、魔精・エヴエル……年貢の納め時だ。私の清く正しい生徒を欺いていたその本当の容姿を暴いてやろう!」

 高らかに叫んだ先生が、片手を天に掲げた。挙げた手に霊幻が収束していく。それを見て、今までおとなしくしていたエヴエルが暴れ始めた。

「っ……! ま、待って! それはやめて!」

 ガチャガチャと虚しく手錠の音が響く。証言台から逃げようとしたエヴエルの両腕を番人が捕まえて、背中でガッチリと拘束される。

 なにしてるんだよ、エヴエルになにするんだよ先生!

 心の叫びは届かない。

 高らかな霊幻の詠唱が響く。

「真実の姿を見せよ――ミストブレイク!」

「イヤ! イリトに見せたくない! 嫌! いやああぁあああああ!」

 エヴエルの悲鳴が響き渡る。と共に、先生の手から飛び出した光がエヴエルを囲み、眩く発光する。イリトは立ちつくしたまま目を瞑った。

 光が収まる。エヴエルが頭を抱えて座り込んでいた。

 その姿を見た傍聴席の村人達が、部屋の全員が、そしてイリトまでもが……息を呑む。

 銀色の髪と同調した、キツネのようにピンと伸びた白い耳。

 ワンピースの下から飛び出した、先の太い二本の白い尻尾。

 それは、彼女が普通ではない――そう決定づけるのに十分だった。

「み、耳だ……」

「それに尻尾も二本生えてるぞ……!」

「なんと禍々しい……」

 口ぐちに投げられる言葉に、さらにエヴエルの体は縮こまり、嗚咽が漏れた。

 イリトもまた同じく、困惑の表情を浮かべる。浮かべるしかなくなっている。

「え、エヴエル……その耳は……?」

 先生が傍聴席との敷居まで歩いてくる。優しい表情、優しい目で、イリトをあくまでも慰めるように、囁く。

「イリト君。これが現実だということだ。あの魔精は、自らが獣の化身であることを隠して君に擦り寄っていたんだよ」

「そんな……」

 自然と、足が傍聴席の前へと向かう。エヴエルと、目が合う。

「エヴエル……君は、幻精じゃなかったの……?」

 違う。

 僕はこんなことを言いたいんじゃない。

 エヴエルに掛ける言葉はこんなんじゃない――。

 でも、出てこない。その姿に困惑を、疑心を……持ってしまっている自分が居た。

 そして、そんなイリトを見たエヴエルの瞳が、黒ずんでいく。

「ん……ん……騙すつもりはなかった……。いつか言わなきゃって、思ってた。でも、イリトがこんな私でも優しく接してくれるから……甘えてた。どんな姿をしてても人間とは混じり合えないのに、いつのまにかそれを忘れてた。ごめんね……イリト」

 エヴエルガメジュラスダッタ。

 トモダチダトオモッテタノニ。

 肩から力が抜けていく。傍聴席へと戻ってきた先生が肩を優しく叩いた手が、異様に冷たく感じる。

「では、審議に入る! 魔精・エヴエルを有罪とする旨に異議のある者!」

 静まり返った傍聴席。もはや誰も手を上げない。コンコン、と槌を叩く音。宣言される……されてしまう。

「判決、有罪。被告を、村から永久追放の刑に処する!」


 *


「…………」

 暗い天井を見上げる。石壁でできたそれは、隙間から雫を垂らしては床に落とし、ぴちゃ、ぴちゃと音を響かせる。端っこには主人の居なくなったクモの巣が張っている。まるでこの部屋は僕の心だな、と思う。

 裁判の直後、すぐにエヴエルは村を追放され森へと帰っていった。イリトはそのエヴエルに深く関わっていたとして、三日間、こうして地下牢で謹慎することになった。ただし、希望すれば監視付きで外には出られるし、ご飯も水も十分に貰える。それでも、ずっとこうして背中を丸め、外に出ることはない日々が二日続いた。エヴエルの居ない村を見たくなかったからだ。

 エヴエル。

 エヴエル――。

 僕の、初めて家族以外に心を許した友達。

 森で出会い、僕のつまらない日々に光を差しこんでくれた不思議な少女。

「僕は……馬鹿だッ……」

 思えばエヴエルは村の人間と積極的に関わりたがらなかった。それは嫌いというよりも、嫌われるのを避ける方に近かった。

 本当は、家に留まらせるべきじゃなかった。ほとんど自分の我がままを押しつけて、エヴエルを自分に縛り付けた結果、こういうことが起きた。

 もっともそれは、ただの言い訳だった。そんなことよりも、エヴエルを信じてあげられなかったことを後悔した。今思えば、彼女が魔精か幻精かなんて、関係なかったのだ。エヴエルはエヴエルだ。

 エヴエルが魔精を呼び付けたことも本当だなんて思ってはいない。だって、あの時の彼女は本当に、村を守ろうと必死になっていたから。

 ただ居てくれるだけでよかった。会いにいけるだけでよかった。

 そんな存在を、失ってしまった。傷つけて……しまった。

 せめてあの場で、もっと自分が勇気を持てていたら。

 先生の言葉を振り切ってでも、エヴエルに言葉を掛けてあげられたら。

 もしかしたら、未来は変わっていたのかもしれなかったのに。

 きっとエヴエルはこのまま、自分のことを忘れてまた森で暮らしていくんだろう。

 僕もまた一人に戻って、ゆくゆくは誰か幻精とバディを組むこともあるかもしれない。でもそれはきっと、エヴエルが居た頃と比べると随分と色褪せた未来だな、と思った。

「はぁ……」

 溜め息だけが部屋の中に積もる。石壁でできた地下牢には顔も通らないほどの小さい窓しか無い。明るさから、今が夜だということしか分からない。せめて森の様子が分からないかと、壁につま先立ちになって窓へ首を伸ばしてみた。と……

「!?」

 首を引っ込める。同時に、べちっ! という窓に何かが叩きつけられた音。見ると、黒い物体が窓に張り付いて、ずるずると落ちていくところだった。

 何か見覚えのある物体。イリトは何度かジャンプしながら窓の鍵を外すと、急いで窓を開けた。物体は翼をはためかせて、地下牢の中に入ってくる。

「クローム……?」

 物体はぱたた、と何度かイリトの周りを回って、足元に着地する。ぽん、と軽い音。

「はイ。ごきげんよウ、でス……いりト」

 相変わらずの幻精にしても低い背丈の女の子が現れる。その額にはかなりの量の汗が浮かんでいた。

「どうしたの? ここ、看守の人に許可を貰わないと立ち入り禁止だけど」

「るぅりイに頼まれていりトの様子を見にきましタ。でもそれよりも、ここに来る途中におじさん達が大変なことを言ってたのデ」

「大変なこと……?」

「森に狩人を派遣しテ、魔精を撲滅するっテ……エヴエルがその一番の狙いだって話してテ……」

 撲滅。心臓が、飛び跳ねる。

「何だって!? それ、本当?」

 こくんこくん、とクロームの顔が縦に揺れる。

 狩人は、村の中でも攻撃に特化した霊幻使いを集めた討伐専門のチームの呼称だった。強力な魔精を華麗なチームプレイでなぎ倒し、時には泥棒や強盗の捕縛に手を貸す事もある。子供達の間ではちょっとした憧れのような存在でもあった。一方で暗い噂も絶えず、人知れず捕らえた者を残虐な手段で処刑している、とも言われていた。その彼らがエヴエルを捜索する。エヴエルが捕まったらどうなるか、悪い想像が膨らむ。

 助けに行かなくちゃ――。一瞬、そう思った。だが、

「あ……でも僕は……」

 地下牢にはあと一日入ってないといけない。夜が二回明けた後に行動を起こしても、もう遅いだろう。

 それに、エヴエルを失ったイリトにとって、今の自分の体は、エヴエルと出会う前の何もできないいじめられっこのイリトと同じように思えた。

 無力な自分に何ができると言うのか。

「いりト?」

 クロームの黒い瞳がイリトを吸い込むように見つめている。

「僕は……僕には……無理だよ……」

 壁を背に、ずるずると体が落ちる。自然と、膝を抱え込んで背中が丸くなる。

 それは両親を亡くして、味方を無くして、家で孤独に泣き震えていた昔と、一緒だった。

 そんなイリトに、冷たい声が振りかかった。

「……そうですカ。分かりましタ」

 見損なった。

 せっかく危険を冒してまで報せに来たのに。情けない――。

 そう、言われているように感じた。

 ……良いんだ。

 これが僕の運命だから。

 嫌われて、見捨てられて、愛されることはない……それが僕の、運命。

 エヴエルは自分を恨むだろう。自分と関わったばかりに、命を狙われるのだから。

 そうして自らを責め苛んで、何時間かが経っただろうか。

 小窓から見える空の闇が薄くなってきた。

 森の門番が休憩する時間だな、と思い浮かべる。森に通っていた日々が懐かしい。

 もっとも――今の自分には関係ないのだけれど。

 コツ、コツと音が聞こえてきた。地下牢の見回りが来るには早すぎる。しかも、足音にしてはやけに大きい。靴が床を叩くというよりむしろ、小型の槌で壁を叩いているような感覚。

 そんな音にもイリトは無関心だった。目が虚ろに、中空を彷徨っている――。と……

 ガッシャアアァァ!

 音と共に、イリトの居た牢の側面にあたる石壁がガラガラと瓦礫になって崩れていった。当然、穴が空いて外が丸見えになる。さすがにこれにはイリトも目を丸くして驚いた。

 な、何だ――?

 崩れた石壁が起こした灰色の煙が収まらないうちに、誰か入ってきた。小さいシルエットと、さらに小さなシルエット。

「イリト! 助けに来たわよ!」

「ル、ルゥリイ!」

 そして、その横にはさきほども見た、クロームだ。

「……な、なんで? っていうか何してるのさ! これって犯罪でしょ!」

 壊れた石壁を指差し、イリトは叫びながらも声の音量は落とす。一方のルゥリイは知らん顔だ。

「ふん、不当な理由で地下牢に閉じ込めておく方が悪いのよっ。さ、行くわよ」

 ルゥリイの手が、イリトに差し伸べられる。

「行くって……どこに?」

「決まってるでしょ! 森に行くのよ! それ以外にある?」

「森って……だって、そこには狩人、が」

「だからよ。エヴエルちゃんを、助けに行きたいんでしょ?」

 クロームにも言われたことをもう一度聞かされて、心が沈む。

「行けるなら行ってるよ……。でも僕一人じゃどうしようも……」

「私も一緒に行くって言ってるの!」

「……本気で言ってるの?」

「本気じゃなきゃ壁ぶっこわしてまでここに来ないわよ! あーもー、とにかくここに居たら兵士が来ちゃう! クローム、あとはよろしく!」

「はイ。まかせロー。でス」

 クロームの瞳が怪しく光る。ばっちり、イリトと目が合う。

 髪がわさわさ靡いて、クロームの体を囲む。頭から脚まで覆われ、

「……ミラープディング」

 下から徐々に髪がはらりはらり、剥がれていく。剥がれた後に現れてきたのは、クロームのものではなく、イリトそっくりの姿形をしていた。

「ここで私ガ、身代わりになっておきまス。後のことはるぅりイにまかせましタ」

「うん! お願いね!」

「ちょ、ちょっとルゥリ……わぁあ!」

 小さい体躯のどこにあるのかという力でイリトの服を引っ張り、無理矢理イリトは地下牢の外に出された。まだ外には月が昇っているものの、暗さはさほど感じない。夜明けはそう遠くないようだ。

「ねぇ、ルゥリイってば!」

「何よもう、今更行かない、なんてナシだからね!」

「そうは言ってないけどさ……」

「むぅー!」

 しかめっ面。イリトの頬を両側からつねりあげた。

「いたたたた! 痛いって!」

「このへたれ! 軟弱物! 一つだけ聞くから答えなさい、エヴエルちゃんのこと、好きっ!?」

 イリトの頭の中が真っ白になった。

 エヴエルが好きかどうか。もちろん、友達……ではなく、異性としての意味でどうかと聞いているのだ。

 頭でぼんやり思ったことはある。けれど、口に出してその想いを出したことは無い。

 考える。想う。森で酷い目に逢っているかもしれないエヴエルの事を頭に浮かべる。

「好き……かも、しれない」

「中途半端じゃなくてしっかりと言いなさい」

「……好き、だよ。僕はエヴエルのことが好きだ」

 ルゥリイが溜め息を漏らす。

「その言葉、伝えた?」

 首を振る。

「じゃあ、好きって、言いにいきましょ? このままじゃ、一生その想い、伝えられなくなるわよ。それでもいいの?」

「よ……よくない」

「それでよし。もう、行きたくないなんて言わないわよね」

 ルゥリイの瞳がいつもよりも激しく、オレンジ色に燃えていた。その目に、ノー、とは言えなかった。




 久しぶりに入る森は、雰囲気も様子も、まるで異なっていた。

 異なる存在である人間達を拒絶するような……森自身が、入ってくるなと言っているようにすら、感じる。

 心がきゅっと締め付けられそうになるのを、なんとかイリトは踏ん張っていた。それはエヴエルを探し求める本能と、隣にルゥリイという心強い存在が居ることの両方だろうか。

 その当のルゥリイも、不安そうな表情を浮かべている。

 それでも一歩、また一歩と足を踏み出し、森の奥へと歩を進めていた。エヴエルのいつも居た、湖までさほど遠くないことは分かっている。

 ふと、声がした。歌ではない。低く呻くような、しかし魔精のものではない、人間の声。

 二人は顔を見合わせる。頷くと、今までよりも慎重に先に進んだ。と……

「うぅ、うぅ……」

 すぐ近くで先ほどの声がする。心なしか生臭いような、獣の気配のするような臭いが充満していた。ゆっくり、近づく。

「うっ……!」

 声を上げたのはイリトだ。ルゥリイは、声にならない悲鳴を、両手で抑えこんでいる。

 それは、人のようなものだった。元、人だった……という方が正確かもしれない。

 うつ伏せになっているそいつは、背中を両断しようかというほどの大きな引っかき傷があり、そこから黒ずんだ赤い血が、今もどくどくと流れ出している。両腕は見るも無残に引き裂かれ、完全に本体とは千切れてしまっている。近くに、持っていたと思われる霊幻増幅用の杖が落ちている。魔精と戦って敗れた霊幻使い……それも、狩人だった。

 虫の息の狩人の首が動く。まだ生きている。イリトとルゥリイは近寄った。

「お、めえ……ら……きを……つけ……」

 それだけ言って、狩人の首が傾く。事切れたようだった。

「ひっ……」

「死ん、だ……?」

 イリトもルゥリイも、驚きを隠せない。いつの間にか、ルゥリイがイリトの袖を掴んで後ろに隠れるようにしていた。

 森の魔精が狩人を襲ったのだろうか。よく見れば、森のさらに奥の方にも血でところどころ濡れている箇所がある。この狩人のものか、それとも他に襲われた人が居るのか。

「ルゥリイ……先に行こう」

「う……うん」

 魔精に襲われる恐怖感は、ある。狩人に出くわす心配もある。それよりも、イリトは自分がなにかただならない事態に遭遇しているような、そんな悪寒を感じていた。

 そしてもちろん、エヴエルも。

 先に行きたいという気がはやる。段々と早足になる。

 湖に近づくたび、血だまりの量が増えていった。まるで夜のうちに赤い雨が降って、それが水たまりになったような、少なくとも普通見ることは無い量の血。

「エヴエルッ!」

 茂みを抜けた。もう何度も訪れている慣れ親しんだ湖。しかしそこにはもう、イリトの思い描いていた可憐で清浄なイメージは欠片ほども残されていなかった。

「…………!」

 ルゥリイが息を飲む。

 倒れている人、人。幻精。そのどの体にも例外なく、赤い染みが遠くからでも見て分かる。

 惨状。一言で表わすならこれ以上的確な言葉はなかった。

「嘘……なんで、こんな……」

 ルゥリイが声を漏らす。二人で倒れている人を一人ずつ、確認していった。その誰も、動かなかった。ただ、流れる血からは暖かさが少しだけ感じられる。

 この人達が魔精に襲われたのは、ついさっきだ――そう、イリトは思った。その瞬間。

 びりびりびりっ! と、身の毛が全部逆立つような感覚に襲われた。

 ガァァァァ……。

 二人の体が固まる。

 見たことも無いような大きさだった。そいつは、生き物としてのカテゴリーを圧倒していた。

 一軒家が立っているのではないかと見紛うほど身の丈の大きい、超大型の――魔精。

 突如現れたそれの牙には、赤い液体やら服の切れ端やらがくっついたままだ。

 ここに居る狩人達は、こいつがやったのか――!

 固く緊張したままのイリトだったが、あることに気付いた。

 大型の魔精の尻尾。金色に輝く、見覚えのあるリングが光っていた。

「リング……あれは、確か」

 エヴエルが言っていた、服従させる霊幻で生みだされた魔精に付くリング。倒す為には、特殊な霊幻じゃなければダメだというものの証。

「くっ……こんな図体の大きい魔精、見たことないわ……! でも、やらないと……イリト、行くわよ!」

「えっ、ちょ、ちょっとルゥリイ、待って!」

「? どうしたのよ」

 二人を値踏みするように睨んで動かない魔精を前に、攻撃しに行こうとするルゥリイを、イリトは必死で止めた。

「攻撃しちゃだめだ! あいつには、普通の霊幻は効かない!」

「え、どういうことよ……?」

「エヴエルが言ってたんだ。あのリングが付いてる、操られた魔精は倒しても復活するって。だから攻撃してもこっちが消耗するだけだ」

「そんなこと言ったって……じゃあ、どうすれば……」

 魔精の喉がグルル、と鳴った。イリトと目が合う。どうやらイリトに狙いを定めたようだ。

「ねぇっ、イリト!」

 最初の印象は、思ったより素早い、だった。家のような図体をしているのに、獣のように早い。あっと言う間にイリトは射程圏内に入ってしまった。

「――っ!」

 避けようと思う。思うだけで、体が動かない。

「だめええええっ!」

 叫び声が聞こえた。

 牙がイリトの眼前に迫り、その体を食い破らんとする寸前で――ぴたり、と魔精は動きを止めた。

「…………?」

 目と鼻の先、とはこういうことを言うのだろう、イリトの視界は魔精の顔で埋まっている。大きな目がぎょろり、と睨んでいる。猛烈な鼻息が顔に掛かる。

 ずんずん、と大きな足音を立てて魔精が後退した。そして急に敵意を無くしたように、魔精が平伏の姿勢を取る。まるでイリトが従えているかのようだ。

 た、助かった……?

 遅れて、全身から汗が噴き出す。息も自然と荒くなる。

 でも何故急に止まったんだ――? おとなしくなった魔精を眺めながら、首を傾げる。

 その答えは、すぐ近くにあった。

「どうしたんだいイリト君。だめじゃないか、こんなところまではいってきちゃ。森は魔精が住む危険なところだって――授業で教えなかったかな?」

「せんせ――――っ!?」

 魔精の後ろから、ネイト先生が現れる。……その脇に、エヴエルを連れていた。

「エヴエル!」

 飛び出そうとした。

「イリト、きちゃだめっ!」

 途端、おとなしくしていた魔精が臨戦態勢に入り、ギロリとイリトを睨んだ。そこから少しでも動けば、食いついてやる……とばかりに。

「なんで……先生が……エヴエルと……?」

「なんで? おかしなことを言うね。この子は怖い怖い魔精だって、裁判でちゃんと証明しただろう? そして私も狩人の一メンバーとして、この子を捕らえた。何一つ矛盾は無いだろう?」

「そう……ですけど」

 確かに、言っていることには矛盾は無かった。

 しかし一番大きな問題が残っている。

「じゃあこの、大きな魔精は……?」

 辺りに散らばっている狩人達を食らったのは、この魔精に違いない。そして先生も狩人の一員だと言う。なら、魔精は先生を狙うはずだ。しかし、先生の服には傷どころか、皺ひとつ寄っていないように見えた。特に争った形跡は無い。

「さぁ、知らないね。さっき彼女の叫び声で君を襲うところを見たところ、彼女が服従させてるんだろう。きっと、追って来た狩人の仲間達も可哀想なことにやられてしまったんだと思うよ。もっとも、最後のところで私に捕まったと」

「エヴエルはそんなこと……人を殺したりなんかしない! そうだよね……エヴエル?」

 イリトの目がエヴエルを捉える。怯えた小動物のような目で何かを訴えかけようとしている様子が窺えた。

「わ、わたしじゃな――」

「お前は黙っていろ!」

「きゃあ!」

 バシッと、先生の平手がエヴエルを打った。華奢なエヴエルの体がふらついて、倒れる。駆け寄りたくなったが、魔精が睨みを利かせているせいでイリトは前に出ることができなかった。

「クク……まぁいいさ。あんまり嘘ばかりつくのも、心情に合わないものだからね。種明かしをしてやろうじゃないか」

 先生が何か、霊幻を唱える。イリトとルゥリイは、何もできないままそれを見つめていた。

 すると、イリトの目の前に居た魔精が、先生の方にくるりと向きを変え、平伏する姿勢を取った。目を瞑り、先生に対する敵意は感じられない。さらに、先生はその魔精に近づくと、あろうことか頭を撫でた。

「よしよし。黄泉にお帰り」

 一撫で、二撫で。魔精に抵抗する素振りは見えない。

 そしてその直後、魔精が黒い光に包まれる。金色のリングが相反するように明るく輝き、割れる。魔精の姿が薄くなっていき……やがて完全に消滅した。

「なぁっ……!」

 ルゥリイが声を上げた。イリトも口を半開きにして、顔を驚愕の表情に染めている。

「フフ。驚いたかい? それはそうだろうね、魔精を操るのも、魔精を消すのも、見るのは初めてだろう?」

「操るって……じゃあもしかして、この人達も、先生が……?」

 周りで事切れている狩人達。先生が魔精を操ったということは――。

「アッハッハ! そうだよ、私がやった。もし君達がここにやってこなければ、全て彼女のせいってことになる手はずだったんだけどなぁ……。まぁいいや、どうせ結末は変わらないしね。彼らは役に立ってくれたよ。村長にちょっとあることないこと吹き込んだだけで、全部信じたように手を貸してくれてさ。おかげさまでこの広い森の中で、どこに居るのかも分からない彼女がすぐに見つかった。さすがは有能だよね……もう聞こえてないみたいだけど」

 死体に、一瞥をする。利用してやった。殺してやった。そんな感情だけが伝わってくる、悪意の目だった。

「ひ、酷い……」

 ルゥリイが前に出る。もう魔精は居ないから、すぐに牙を剥かれることもない。先生が魔精を服従できる霊幻を使えるとなると、消して見せたくらいだから呼び出すことも可能なのだろう。それに警戒をしつつ、イリトもルゥリイに並んだ。

「おや、あの魔精を見てもまだ怯まないのかな? 意外とヴェイラーの血は争えないのかもね」

 ヴェイラー。イリトの名字。今は亡き両親から受け継いだもの。

「僕の名字が、どうかしたんですか」

「いいや? 私は君の父親をよく知っているからね。有能な冒険者として、森を知りつくして……そして、知りすぎた故に殺された、愚かな男だった……。君もまた、同じ運命を辿ると思うとね」

「父さんのことを悪く言うのはやめてください。父さんは、森で魔精と戦って、勇敢に死んだんだ」

 イリトが先生を睨みつける。しかし、先生は逆に、大笑いをしてみせた。

「可笑しいなぁ、まったく。本当にあのヴェイラーが、ただの魔精と戦って負けると、君は本当に信じているんだね……。いやはや、あの時も私は死ぬかと思ったよ。まさか大型の魔精を三匹も呼んで、それを全部片付けちゃうんだからね……。まぁ、さすがの彼も駆逐できる霊幻は持っていなかったから、最後には私に殺されたけど」

 高笑いが響く。

 殺した? 先生が、父さんを?

「そ、そんなのは嘘だ。追い詰められて、適当なことを言ってるだけだ! ……それに、エヴエルをどうするつもりですか」

「おやおや。本当に君は愚かだなぁ。追い詰められて? さっき彼女が止めてくれなかったら、死んでたのに? まぁいい、そろそろ子供の戯言に付きあうのも飽きたんでね――というか、そろそろ日が出てしまう。そしたら契約の儀が台無しじゃないか」

 そう言って、先生はエヴエルの腕を無理やり引っ張りながら、奥の……いつも、エヴエルが居た岩へと歩いていこうとした。

「ま、待て!」

 先生が振り向く。学校で見せていた優しい面影は、もはや欠片も無かった。

「チ。うぜえんだよガキが――」

 霊幻を唱える。土から犬の形をした、黒い魔精が二匹現れた。さきほどの魔精と比べれば、かなり大きさで劣るもののやはり迫力はある。尻尾には、金のリングが光っている。

「ルゥリイ!」

「まかせときなさい!」

 倒せはしない。でも、怯ませることさえできれば――先生にさえ、届けばいい。

 横に並んだルゥリイの指先がちょん、と触れた。それだけで、燃え上がる炎のような、太陽が自分の体の中に入り込んだような熱が全身に回る。

「バースト!」

 炎の霊幻の中でもかなり下位の、単調な爆発を起こすだけのもの。それでも、ルゥリイの凄まじい霊幻量は、イリトの手から飛び出すと大きな火炎球になり、片方の魔精にモロに当たった。

 もちろん中型の魔精がそれだけで終わるはずがない。怯まずに、なおも直進してくる。

「もういっかい!」

 今度は、二個。立て続けに。

 霊幻を扱う経験が不足しているイリトは、ほとんど初心者だ。二個のうち、一個はあさっての方向へ飛んでいき、草を燃やした。それでも一個は命中し、後退させる。

 ルゥリイの方を見る。イリトとは対照的に、魔精が寸前まで迫っていた。が、何もしない。動かない。

「ルゥリイ!」

 牙が迫る――

「……消し飛べっ!」

 寸前、魔精の額に手。そこから、真っ赤な光が漏れだしていく。そして、爆発。

 ガアアッ!

 魔精が吹き飛んだ。

「私がこんなチンケな奴に負けるわけないでしょ」

「あは、は……そうだよね」

「気を抜かないで。次、一気に畳みかけるわよ」

 正面を見据える。イリトの方に襲ってきていた魔精がまだ、戦意を保っている。

 再び触れる手。今度は、もっと大きい力。

「いっけえ!」

「インスフィア!」

 炎弾が何十にも降り注いで、逃げる間なく魔精を襲う。

 そのほとんどをまともに受けて、残った魔精も倒れた。先生とエヴエルへの道が開く。

「今だ!」

 先生はエヴエルの腕を掴んだまま、岩の上に立って何かをしていた。戦闘には目もくれていなかったらしい、注意が逸れている。

 行ける――と、思った。

「近づくな!」

 先生が……振り向いた。エヴエルの、華奢な首を腕でしっかりと固め、自分の胸に抱き寄せる。

「エヴエルを離せよ!」

「フン……どこまでも邪魔なガキめ……。そもそも森から連れだしたのもお前だったな……回路閉鎖症だからと、舐めていたのが仇になったか。ともかく、それ以上近づいてみろ。この子の命がどうなってもいいならな……」

 言って、ポケットから小さなナイフを取り出した。それを、エヴエルの首筋に。

「イリト……」

「だ、大丈夫。僕が……助けるから……。友達を助けるのは……友達の……役目だから!」

 先生の、色を失った唇が開かれる。くっ、くっ……と肩を震わせ、笑う。

「おままごとはそれくらいにしてもらおう。もうじき儀式の朝が明ける。そうだ、どうせならお前達にも見せてやろう。幻獣との、契約の儀をな!」

 ルゥリイは呆れたように首を振る。

「幻獣って幻の存在じゃなかったの? そんなの居る訳ないでしょ……」

 幻獣。誰も見たことが無い、空想上だけの存在。

 教科書の中だけで語られる……人間、幻精、魔精その他、全ての生ける者の上に立つ、神聖な存在。

 それを、先生はあたかも当然という顔で口にした。

「何を言う。居るじゃないか、お前達の目の前……そして私の手の中に」

「えっ……?」

 エヴエルを見た。頭の上の耳が、恥ずかしそうにぴこぴこと動いている。

「なんだ、本当に知らなかったのだな。友達が聞いて呆れる。彼女は幻精でも魔精でも無い――この世界の幻霊を統べる神とも呼べる存在、幻獣の……末裔なのだよ!」

「……まっさかぁ」

 先生は黙って笑っていた。顔つきにも声にも雰囲気までもが、自信に満ちている。

 ナイフを前に動くことができないイリトを尻目に、時間は過ぎていく。

 そしてほどなく迎えた……夜明け。

 太陽の最初の光一筋が漏れた、その瞬間。

 先生とエヴエルの足元の岩が光り出す。エヴエルの霊幻と同じ、星の瞬く色――

「イリト……ッ」

 泣きだしそうなエヴエルの顔。その直後、先生とその腕に抱かれたエヴエルの姿は、降って湧いた光の柱に全身を呑みこまれた。

「エヴエル――ッ!」

「イリト、だめ! 近づいたら霊幻に巻き込まれちゃ……きゃっ!」

 地面が悲鳴を上げている。

 夜明け直後とは思えない明るさ。

 天へと、光が昇って行っている。

 否。光ではなく、霊幻――だ。

 大量の霊幻が地面から沸き出し、螺旋を描いて龍が天へと昇るようにぐるぐるぐるぐる、巡って、巡って、そして、

 パチン――音を立てて、弾けて、消えた。

 何十分にも思えた異様な光景が終わると、世界は元の時間を、色彩を、音を取り戻す。薄暗い森が戻って来る。

 そして岩があった場所には――。

「エヴエルッ……!」

 横たわる銀髪の少女。ふさふさの尻尾が、元気なく垂れている。息つく暇も無く、イリトは駆け寄った。

「イリ……ト……」

「エヴエル、体は大丈夫!? 何か酷いこと、されなかった!? ごめん……僕、僕、助けようと思って……でも、僕いくじなしだから……遅く、なって」

 イリトの瞳から大粒の涙が零れ、顔をとめどなく濡らしていく。嗚咽も混じって、段々と何を言っているのか、分からなくなっている。

 それでも、エヴエルは力なく首を振った。

「ん……イリト、わたし、うれしい……。こんな格好に、なっても、イリトがともだち、って言ってくれたから……」

「格好とか関係ないよ! エヴエルが幻精じゃなくったって、幻獣でも、魔精でも人間でも関係無い。だって僕らは、友達……でしょ?」

「ん……そう、だった。ごめん」

 かすかな微笑みにも、辛さが混じっているように見える。体も震えている。

「ねぇ、水差すようで悪いんだけど……、先生ってどこに行ったの?」

 ルゥリイが後ろから声を掛けてきた。言われてみれば、光が晴れたあと先生の姿はすっかり見えなくなっていた。

 はっ、とエヴエルが何かに気づいたように体を起こそうとする。

「無理しちゃだめだよエヴエル!」

「でも……とめない、と……。さっきの契約の儀で、私の力、あのひとに半分取られちゃった。普通の人間が無理して幻獣の力を使うと……大変なことになる」

「大変なこと、って」

「たぶん、村とか森が、なくなる」

「はあ!?」

 ルゥリイが驚きのあまり飛びあがった。

「幻獣の霊幻は……ちょっとだけでもすごい力を持ってる。私はまだ小さいからそれでも弱いほうだけど……でも、人間の許容できる範囲なんて余裕で超えてる……。ん、霊幻が暴走する……間違い、ない」

 暴走。

 イリトは頭の中で、授業で習ったことを思い出す。

 人間、幻精……霊幻を操る者は全て、霊幻を貯められる器をもっている。その限界値を大きく超えた霊幻を無理に外から摂取した時に起こる。

 人格は破壊され、体も壊れる。心は凶悪になり、人生が終わる。

 だから軽い気持ちで霊幻を手に入れるための薬なんかに手を出しちゃいけないよ――他でもない、先生が言っていたことだった。

 止めないといけない。エヴエルの森も、僕達の村も、守らないといけない。

 と――、どこからか不気味に歪んだ、魔精のような人間のような声。

「フハハハハハハハハハハハッ! 素晴らしい……素晴らしいぞ……ッ! これが、幻獣の霊幻ッ! 伝説の力ッ! 確かに言い伝えに違わない……! フハ、フハ、フハハハハハハハ!」

「あ、あそこ!」

 指差したのはルゥリイだった。湖の、中心部。

「えっ……浮いてる……?」

 それだけではない。見たこともない、禍々しい角が頭部から生え、今まで着ていた服は上半身がまるまる破けて、筋肉の盛りあがって赤みが増した胸筋と腹筋がせり出している。なにより、魔精と同じ、黒いオーラが全身から浮き出ていた。

「ククク……アァ……力が溢れる――」

 ドンッ! 水面に霊幻を込めた力が放たれた。それだけで、

「きゃああああ!」

 高々と水柱が立ちあがり、イリト達に押し寄せる。一番背の低いルゥリイは一番の被害を受けた。

「先生、もうやめてください!」

 湖の正面。幻獣化した先生が、イリトを睨みつける。

「チ……ウルせえガキだゼ……その面、益々ヴェイラーに似てイラつく……アァソウダ、マズお前からコロしてやろウ」

 先生が腕を振り上げる。その手に、おぞましいほどの霊幻が集まっていく様子が、イリトにも見えた。

「ブラストバーンッ!」

 ルゥリイの声が聞こえた直後、イリトの目の前で、水の弾と炎の爆発が相殺して耳をつんざくほどの爆音を起こした。体中がびりびりと痺れる。

「オマエは……マッタク、メンドウな幻精までイヤガる」

 ルゥリイが助けてくれたのだと理解するまで数秒、掛かった。イリトには先生が幻霊を使うタイミングすら、見えなかった――。

 ルゥリイがイリトに耳打ちする。

「イリトは下がってて。ここは私がなんとかする」

「無茶だよ! 僕も一緒に」

「何言ってんの! あんたにはエヴエルちゃんが居るでしょっ! いいから聞いて。もう分かってると思うけど、あいつの今持ってる霊幻力は私が十人束になっても敵わないほど、大きい。まだ霊幻が体に適応してないからあの程度で済んでるけど、本気出されたらさっきの一撃で森が吹き飛んでるわよ。それにイリトみたいな初心者が加わっても、絶望的な差は変わらないの」

「そんな……じゃあ、どうすればいいのさ?」

「あいつに対抗するには同じことをするしかない。エヴエルちゃんと契約の儀を済ませなさい」

「えっ……」

 明らかな困惑が浮かぶ。

 幻精だと思っていた頃のエヴエルと、確かに契約を結べれば……と思ったことはあった。

 しかし、さっき先生とエヴエルの契約の儀を見たばかりだ。そしてその結果が、暴走。

 尻ごみするのも無理はない。そんなイリトに、ルゥリイが詰め寄った。

「エヴエルちゃんのこと、好きなんでしょ! 心配しないで、あいつの契約は、一方的に相手を服従させるやりかたで霊幻を召喚しただけの、一方的なもの。だから暴走してる。でも、ちゃんと手順を踏んで、お互いが契りを結ぶ正式な契約ならああはならないわ。普通の幻精との契約でも起こることだから――とにかく、私に任せて。時間だけは稼いでみせる」

「で、でも」

「男でしょ、しっかりしなさい! それに、あんまり『直進の火精(ストレイト・スフィア)』を舐めないでよねっ!」

 ルゥリイの周りに炎が巻き上がる。小さな身体を取り巻くように髪色と同じ、オレンジ色の龍が舞っているようだった。

「……すごい」

「さぁ、行くわよ――」

 先生とルゥリイの戦闘が、始まる。

 水面を這うように、多方向から火球が飛ぶ。水面に浮かぶ先生は、水の壁を何枚も作りだしてはそれを相殺していく。ルゥリイが一方的に攻める展開になっていた。先生はそれをただただ、守るだけに徹している。

 ――僕も、僕のできることを……。

 岩場に置いてきてしまったエヴエルの下に駆け寄ると、顔色はだいぶましになっていた。イリトが助け起こす。

「ありがと……イリト」

「大丈夫? 立てる?」

「ん」

 立ち上がる。

 眼前では戦闘が続いている。ちょうど、先生の放った氷の矢が、ルゥリイの足元に突き立ったところだった。

「あの人……止めないと」

 ふらつく。背中を抱きとめた。

「だめだよ、こんな体じゃ……」

「でも、私の力を持った人だから。幻精じゃ、勝てない。私じゃないと……幻獣の力が無いと……倒せない」

 やっぱり、リングの付いた魔精のように特別な力が必要なのか。

 ルゥリイに言われた言葉が、イリトの頭の中に響く。そして、

「じゃあ、僕と……契約、結んでくれないかな、エヴエル」

 エヴエルが目を見開いた。

「嫌かもしれないけど……でも、友達としてこんな体のエヴエルを先生と戦わせられない。その代わり……僕が、戦うから」

「イリトと……契、約?」

「うん。勝てるかどうか分かんないけど、それならエヴエルが戦わなくてもいいから。僕が先生と、戦うよ」

「だ、だめ……っ! 私と契約なんかしたら、イリトが人間に戻れなくなる」

「――どういうこと?」

「あの人はただ霊幻だけで暴走してるんじゃないの。人間の体が、幻獣の体に変わろうとしてるから……幻獣になろうとしてる途中なの。それが例え奪われたものじゃなくて正式な契約でも……イリトはきっと、幻獣になっちゃう」

 幻獣――。人間には無い、角や耳が生え、体そのものが人間ではなくなってしまう。

 そしてそれはもう戻れないのだという。

 それでも、イリトは首を横に振った。そして、笑う。

「構わないよ。むしろエヴエルに近づけるなら嬉しいことだと思う」

「だめ……だよ……そんな――あっ」

 イリトがエヴエルを抱き寄せる。顔と顔が近づく。

「僕はエヴエルを守りたい。大切……なんだよ……。失いたく、ないんだ……。僕を、僕っていう人間として認めてくれた初めての人だから――ううん、違う……そう、愛しいんだ。君が」

「ん……そんな……」

 エヴエルの頬が染まる。イリトから顔を逸らすように首を動かそうとするけれど、イリトに抱かれているのであまり意味がなかった。そして、

「分かっ、た……。イリトの、言う通りに、する」


「ぐ、うっ!」

 先生の放った霊幻がルゥリイを完全に捉えた。小さな身体が吹き飛ばされて、地面に背中を強く打ちつけられる。

「クク……ナカナカニオモシロカッタゾ。最強ノミストラル……名前ダケハオボエテオイテヤロウ――サァ、死ネ!」

 闇の力を纏った霊幻がルゥリイ目がけて飛来した。仰向けに倒れているルゥリイに避ける術は無い。直撃した、かのように思えた。

「ルゥリイ――!」

 光の筋が走った。流星のように飛んできたその光は、黒弾となった霊幻を押し返し、弾き返した。巻き起こった衝撃波に、ルゥリイは思わず目を瞑る。

「大丈夫? ルゥリイ」

「……イリト? って――!」

 イリトの頭部には、エヴエルと同じようなピンと尖った、狐のような耳が飛び出ていた。髪と同じ、黒い耳。違うところと言えば、尻尾は無いことだろうか。

 顔つきもだいぶ異なっている。いつもの草食系というか、ふわふわとした悪く言えば軟弱物のようだったイリトが、今は猟犬のように見える。ピンと眉毛が伸び、目つきがキリリとしたものへと変わっている。

「契約……したの?」

「うん。これはその証」

 頭の上の耳を触って示す。

 エヴエルは戦闘から離れさせるため、湖から遠いところで休ませていた。幻獣の姿になったイリトを見た先生の顔が、一変した。

「オマエ――ヴェイラーの息子……マサカ――」

「先生、もうやめてください!」

 呼吸するたびに、エヴエルの霊幻が体の中で増幅していくように感じた。これが、幻獣の力。ちょっとでも使い方を誤ると、危険なものに変わってしまう。それがイリトにはよく理解できた。

「ヴェイラァアアア! オマエハイツモウゥゥアアアア!」

 黒弾。それも、何十ではきかないほど多くの数が、棒立ちのイリトとルゥリイに襲い掛かる。ほとんど不意打ちだった。それに対して、

「え、えいっ」

 自分の前に光の壁を展開。薄い膜ながら、全ての黒弾をはじいた。

「ユルサヌ……ユルサヌ……!」

 先生の手から黒い触手のようなものが大量に生えて、迫る。

 左、右、中央。壁で防ぐのはどうあがいても不可能だ。ルゥリイが身を縮め込ませた。

「スタートレール!」

 イリトの声に呼応して左手から伸びた星の光が触手を一刀両断して突き進む。触手の全て断ち切り、さらに先生の本体にまで届いた。

「ヌヲッ!?」

 胸元を掠め、細く、赤い一筋が滲む。

 追撃の手を緩めない。

 イリトの意思を沿うように、霊幻が付いてきてくれる。エヴエルがすぐ隣に居るように感じる。

「スターダストッ!」

 星が降る。

 光の束が、闇を纏った先生に降り注ぐ。

 背中に突き立つ。足を穿つ。赤い血が、体中から噴き出して湖の中心が紅に染まっていく。

「グゥォォオオオオオオ……」

 魔精の轟く響き。

 墜ちていく。水面に浮かんでいた先生の体が、沈んでいく。

「やったか……?」

 一つ息をつき、気持ちを緩めた。それが命取りとも知らずに。

「――シュミテルンゲイト」

 地の奥深くから湧き出てくるような低い声。一瞬だけ、イリトの視界が黒に覆われた。

「う、うわぁああああ!」

 何かに体を引っ張られる感覚。

 気づけばイリトは、湖の中心部へと引き寄せられていた。頭上に、先生の顔がある。体には何重にも黒い触手が巻き付いていて、右手が少し動くことを除いて、完全に拘束されてしまった。

「グフフォ……。最後ニユダンシタナ、ヴェイラー。タトエワダシガ消滅シテモ、オマエダケハ生きて返さヌ……!」

「かは……っ」

 ぎり、ぎり……と触手が締め付けてくる。霊幻は体の中に溜まっているのに、霊幻を使うための左手が動かないせいで放出することができない。故に、抵抗する術がもう残されていなかった。ただ必死に、動く右手を触手に伸ばして、触手を外そうともがくだけ。

 一転して、大ピンチになってしまった。

「無駄だ無駄ダァ、サァ――私ト共ニ死ネ……ッ ヴェイラーの血モ、これデ終わりダ……」

 頭上で禍々しい、黒とも紫とも取れない塊が大きくなっていく。それに、先生の頭も体も、呑みこまれていった。されど触手は拘束を解かない。

「イリト……!」「イリトーッ!」

 エヴエルとルゥリイの悲鳴が遠くから聞こえた。

 塊が迫る。もがく。鼻先に塊の先端が触れた。

 抵抗するイリトをあざ笑うかのようにゆっくりゆっくり、侵蝕したそれはついに――イリトの体を、呑んだ。


 *


「森への侵入、地下牢脱走――これらの罪をもって、被告人ヴェイラー・イリトを村より永久追放処分とする」

 イリトがエヴエルを一時森に残して、ルゥリイと村へ帰還した翌日。いきなり裁判所へと連行され、そこで永久追放を告げられることになった。クロームがイリトの代わりに化けていたものの、結局見つかってしまったらしい。

 狩人を殺したのは先生で、幻獣の力を得て暴走した先生を止めるために森に居た――そうルゥリイが証言したものの、最終的に地下牢を脱走したことに変わりはない上に、村中、狩人を殺しまわって森に入ったという根も葉も無い噂が駆け巡っていたこともあって、まるで聞き入れてはもらえなかった。イリトにとって、ルゥリイが処分されなかったことだけが唯一の救いだろうか。

 しかしその決定に、イリトは一切抵抗することを示さなかった。両親が残してくれた家はルゥリイに任せ、早々に村を出た。ルゥリイは最後まで反発していたものの、

「森には、エヴエルが居るから」

 その一言だけで黙ってしまった。

 元々そういうつもりだったわけではないのだが、決まってしまったのなら仕方ない。お言葉に甘えて、エヴエルと二人水入らずで森で暮らすことにした。


 ではあの時、何故触手の拘束の中で先生の最後の霊幻からイリトが生き残ることができたのか――?

 確かにイリトは塊に呑まれた。だがそれは頭だけで、まだ霊幻を放出するための腕は、塊の外にあった。もっとも、左手は触手に包まれていたのだが――。

 イリトは今まで、契約の儀をしてこなかった。だからこそ、右手でエヴエルやルゥリイの手に直に触れ、有機的に霊幻を得ていた。左手で霊幻を使う癖が付いていた。

 元々霊幻使いは、両手両足、それ以外にも体のどこか先端一部分を、回路の『放出側』に使う。個人差はあるが大抵利き手、すごく稀な例で、利き足だったり、膝になったりする。だがあくまでも一部分。二つ以上の回路が存在すると霊幻がその分岐地点で滞り、放出できなくなってしまうのだ。それをイリトも授業で知っていた。

 ダブルブル。

 回路閉鎖症ではなく、イリトの本当の病名。左手と右手、複数の回路を持つが故に、今まで霊幻が使えなかった。それが、幻獣の持つ、体を変化させる特殊な霊幻によって解放されたのだった。それに気付かなかったばかりに、左腕だけが自分の霊幻の生命線なんだと、あの状況で信じ込んでしまった。塊に頭を呑みこまれ、思考が停止した故に起きた、自由な右手での霊幻放出。それがイリトを救った起死回生の一部始終だ。


 こうしてイリトは無事に、森に居る。

 その隣には、狐耳と尻尾を生やした、銀髪の女の子。

 目の前には、慣れ親しんだ岩……ではなく、幻獣の祠。イリトがずっとただの岩だと思っていたものは幻獣を祀る、とても霊幻あらたかなものだった。そして、父親の遺骨も中に納められていると、エヴエルから聞いた。生前、イリトの父親であるヴェイラー・ハマスはエヴエルがイリトより以前に唯一、心を許していた人間だったのだという。

 エヴエルは幻獣の末裔として、禁忌術を含む多大な霊幻力を有していた。しかし人間に簡単にそれが扱えてしまうと、悪意により文明が危機に陥ってしまう。だからこそエヴエルは人間を忌避した。それでも彼女の存在を文献から嗅ぎつけ、自分達の物にしようとする存在も居た。ネイト先生の一族が、それだ。

 父親はネイト先生を含む一族が生み出す魔精の召喚獣から村を守ると共に、まだ年端もいかないエヴエルを守るため、戦って死んだのだ。

 そんな父の墓前で手を合わせて、報告する。

「父さん、僕……父さんの仇を討ったよ。もちろん一人だけの力じゃないけど……今横にいる、エヴエル。よく知ってるでしょ? 僕の、大切な友達。村は追放されちゃったけど、家はルゥリイがきっと、守ってくれるから。僕は僕の大事な物を守って行こうと思う」

 祠を離れると、エヴエルが顔を赤くしていた。

「ん……そんな、面と向かって言われると……恥ずか、しい」

 イリトはそんなエヴエルを、目を細めてじっと見た。エヴエルは、恥ずかしそうに目を逸らす。

 それが愛おしく思えて、抱きしめようと……腕を伸ばそうとしてやめた。代わりに、柔らかそうな頬に触れる。ぷに、と優しい感触がする。

 なにするの、とエヴエルが怒る。イリトは気にしない。

「でも僕、さっき父さんに言ってないことがまだあるんだ」

「な、なに……?」

 風が緩やかに吹きつける。エヴエルの銀色の髪を揺らして、去って行く。

「僕は、エヴエルが好きだ。友達としてだけじゃなくて――恋人として」

 するとエヴエルはますますそっぽを向いた。イリトに見えている耳たぶが、真っ赤になっていた。

 やがて震える、小さな声。

「ん……私も、イリトが……好き」

 そして付け加える。……こいびととして、と。

「エヴエル。僕、決めたんだ」

 と、そっぽを向いたエヴエルの顔を……自分の方に向かせた。水晶のような瞳の端に、うっすらとゆらゆらゆれる珠。染めた頬。目が合う。イリトは、微笑む。

 二人の顔がゆっくりと近づいていく。

 エヴエルもそっと、瞳を閉じた。

「僕は、君を守るよ――いつまでも、どんなことがあっても」

 互いの唇がそっと触れた。

 時間が止まっていた。動く物は動きを止め、音立てるものは静まった。

「ん……! 私も、守るよ。大好きなこの場所と、大好きな人を」

 それはまるで幻獣と元・人間が触れあう禁忌のようで。

 それでいて――美しい。

 小さな二人の、大きな盟約。

 そんな永遠の契りを祝福するかのように……もう一度、風が通り抜けて行った。




 エピローグ


 ある時、こんな噂が森の麓にある小さき村、トゥトイオでまことしやかに囁かれはじめた。

『木々の生い茂った森の奥深くから、魔精のものとは思えない透き通った歌が聞こえてくる。その歌を聞いたものは、不思議とどんな目にあっても生きて帰ることができる』


 歌の正体は、人間が森林に住んでいる、あるいはあれは人間をおびき寄せるための魔霊の声だ、はぐれ霊幻が助けを求めて唄っている、神殿に祭られた幻獣のお声である――など、さまざまな憶測が飛び交った。

 ただ一つだけ、共通していることと言えば、

『少女と少年、二人の歌声がする』

 と言う事だった。

 いまだに誰もその真実を確かめられることはない。それでも伝説の一つとして、時間の流れに乗って、今日も森に歌は響き続けるのだった――。

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ミスティ・ミステスタ 逢瀬悠迂 @littelsia

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