せめて、キスを

深里

第1話

 あいつが人間でないことには気づいていた。陶器のような白い肌にしても、美しいと認めるのに最早嫉妬や躊躇いさえ覚えないほど整った顔立ちにしても、寧ろ人間だと言い張られる方が胡散臭い。ずっとそう思っていたのが、あの日、インクを探して俺の机の抽斗を開けたあいつが白い顔を更に白くして身を強張らせたのを見たせいで、疑惑を確信に変えたのだ。

 抽斗には、前日に家から送られてきたロザリオが入っていた。信仰心は大して篤くない方だ。どうせ使わないから態と置いてきたのにと鬱陶しく思い邪慳に抽斗へと放り込んだのが、思いがけず役に立った訳だ。

 半年も同じ部屋に住み、よく襲われなかったものだとぞっとしたが、同室者を狙うのは自らの存在を明らかにする危険な行為なのかもしれない。とはいえ、あいつが休日や夜間にこの寮を離れた様子はないから、学校内で獲物を見つけているのは間違いない。いずれはこの身にも危険が及ぶかもしれないと、教会で銀のナイフを誂えて貰ったのが一週間前のこと。

 そして今、授業を終えて部屋に戻ると、そいつ──フィリが、旅支度の体で俺を待っていた。

「いつの間に教室を抜け出したんだ」

 俺は眉を顰めて訊ねた。フィリの席は教室の一番後ろだが、厳格なラテン語教師の目を盗んで出ていけたとは思えなかったのだ。

「最後、ほんの少し早く教室を出ただけだよ」

 フィリは肩を竦めた。更に一呼吸置くと、僕、出ていくよ、と呟くように言った。

「出ていく? どうして」

 俺の問いに、フィリは黙って首を振る。

「正体がばれたからか」

「違うよ」

「なら何故」

「……嫌われたくないから」

 俯く頬を壁に反射した西日が仄かに染めていた。いつもより少しだけ人間らしく見えるその顔が、やけに腹立たしかった。

「正体って何、とは訊かない訳か」

「今更、茶番だろ?」

「わかってるんなら、嫌われたくないなんて図々しいよな。吸血鬼を好きなやつなんていないぞ」

「それもそうだね。どのみち仕方ないのか」

「どのみちって、どういう意味だよ」

「それは……」

 何か言おうとして開いた口を、フィリはまた閉じた。正体を認めていながら、随分と歯切れが悪い。

「何だよ。何か言いたいことでもあるのか。好きで吸血鬼に生まれた訳じゃないとか、そういう言い訳か?」

「言い訳したら、聞いてくれるのかな」

 不意に微笑んで言うフィリに、俺は何故かたじろいだ。言い訳というのは、言葉のあやに過ぎない。だがフィリの目には、一筋の希望でも見つけたような微かな光が宿っていた。

「言ってみろよ。聞くだけは聞いてやる。半年、友達だったよしみでな」

「……友達か」

「おまえは俺を獲物としか思ってなかったかもしれないけど、俺はそう思ってたぜ」

「ありがとう。でも僕は……、確かに友達とは思っていなかった」

「だろうな」

「僕は、どんな血でも飲む訳じゃない。本当に愛した人間の血しか口にしないんだ。そんな相手、滅多に巡りあえるものじゃないけど、その一人の血だけで何百年も命が延びるんだよ」

「は?」

 俺は思わず声をあげた。突然、話題が逸れたようだ。

「何言ってるんだ、おまえ」

「だから言い訳だよ。ここを出ていく言い訳」

「言い訳って、俺は──」

「聞いてくれるっていったろ? 男を好きになったのは初めてだったんだ。だけどそんなの、受け入れられないだろ? 僕自身だって戸惑ってる。初めはこうして同じ部屋にいられるのが嬉しいだけだったけど、最近では自分が怖いんだ。だから出ていく」

「怖いって」

「血が欲しくなる」

「飲んで、命を延ばしたいのか」

「違うよ。そんなんじゃない。命なんて別に長くなくて構わないんだ。結局離れ離れになって、寂しいだけだもの」

「じゃあ、何故」

「何でだろう。たぶん……、ただ、好きだから」

「相手は──俺?」

「この状況で、君以外いないだろ」

 フィリは再び肩を竦める。

「吸血鬼の上に男が好きなんて、忌わしいばかりだよね。無理に血を奪っても、きっと悲しい思いが残るだけだ。だから楽しい友達の思い出だけのうちに去りたかったんだけど、ちょっと遅かったね」

 フィリは床に置いていたスーツケースを持つ。じゃあ、と小声で言って、右手を差し出した。

 俺は困惑し、黙ったままその手を見つめた。何か言うべきことがあるような気もしたが、何も思いつかない。いや、言うべきことなど別にないのだろう。こいつは忌むべき存在以外の何者でもないのだ。出ていくというのなら、そのまま出ていかせればいい。見送りの言葉など不要なはずだ。

「友達の証の握手くらいは、して貰いたいな」

 俺がじっとしているのを見て、フィリが悲しげに言う。殆ど頭の働いていない俺が反射的に右手を出すと、フィリもスーツケースを落とすように置き、両手で俺の手を握った。

 冷たい手だった。同室といっても、フィリの身体に触れたことは全くない。あるいはこの冷たさに気づかれないよう、フィリの方が気をつけていたのかもしれない。

 少しの間そのままでいた後、フィリは俺の手の甲を上に向けてしげしげと見つめ、殆ど聞こえないくらいの声で訊ねた。

「やっぱりさ……、せめてここに、キスしてもいいかな」

「何だって?」

 突然の言葉に俺は呆れた。昔の紳士が淑女にするようなキス。それが友情の証なのか?

「友達、なんだろ」

 冷たく言うと、フィリは諦めたように手を離した。そうだよね、と呟く。

「ごめん。じゃあ」

「待てよ」

 そのまま背を向けようとするフィリを引き留めたことに、俺は自分でも驚いていた。一体何をしようというのか。何がしたいのか。フィリが戸惑った目を俺に向けている。暫らく立ち尽くした後、俺はポケットから銀のナイフを取り出した。

「それ──」

 フィリの目が、怖れに満ちて見開かれていく。

「使わなきゃ気が済まないのかな。忌まわしい存在は、やっぱり見逃せない?」

「そうだな」

 俺は鞘から刃を出す。ナイフを左手に持ち替え、右手の甲に当てた。何するの、というフィリの声を無視して刃を滑らせると、赤い筋が甲を横切った。俺はそのまま、右手をフィリに差し出す。

「ほら」

「ほらって……、血が出てるよ」

「吸血鬼のくせに、血が怖いのか? キスしたいんだろ」

 フィリは酔ったような目で、傷から溢れていく血を見ていた。やがて両手で俺の手をとり、身を屈めて甲に唇を当てた。傷口から、血が吸われていく感触。浅い傷だし、血は大して出ないのだろう。舌が、僅かな血も惜しむように傷口を這う。手の冷たさに反し、フィリの唇と舌は温かだった。

 ほんの五分もしないうちに、フィリは俺から離れた。もういいのか、とも言いかねて俺は黙っている。唇を赤く染めたまま、フィリは再びスーツケースを手にした。

「君のこと、本当に好きだったよ」

「俺も──嫌いじゃなかったよ、おまえのこと」

「友達として、だよね」

「友達として、さ」

「さよなら」

「ああ」

 フィリは部屋から出ていった。やがて寮の前の道を馬車が走り去る音が聞こえる。まだ持ったままだったナイフを、俺は屑籠へと投げ捨てた。手の甲を見れば、傷口はあいつの唇の痕跡を残して僅かに濡れ、血はまだ止まらずにいた。

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せめて、キスを 深里 @misato

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