帝都の片隅にある宿屋の主人

桐麻

読みきり短編

 アィビッド帝国帝都フロリナセンブル内の、貧民が住まう区域にも宿はある。

 その一つが、月の砂漠亭だ。

 小さな黒ずんだ木造家屋が隙間なく入り組んで建つため、日の射さない路地を歩かねばならず、その印象通りに泊り客などあまりない。

 その静かな軒を、くぐる男の姿があった。


「やあ砂漠亭の旦那。久方ぶりだね」


 魔術式道具を作製する工房からの使いとして訪れた職人は、宿の主人に声を掛けた。

 しかし、前の面会から大して期間が空いていたわけではない。この男はいつもそう呼びかけてくる。だから砂漠亭の主人も、困惑しつつ同じように答える。


「ああ、久しぶりだ」


 彼の働く工房は、魔術式道具の中でも主に符と呼ばれる簡易なものを作る。符は魔術式を書き込んだ手のひら大の紙片で、数種類の属性があり、短時間身を守るだとかの効果を発現させる一度きり使えるものだ。高価な、繰り返し使える魔術式道具とは違い、格は一段落ちるだろう。

 しかし彼の工房が多くの仕事を抱えているのには理由がある。

 魔術式の効果を発現させるのには、適した鉱石を精製し、それを用いて作成した液体により書かなくてはならない。

 いくつかある工房の内、精製釜の設置を国より認可された、数少ない施設の一つである。

 繰り返し使える魔術式道具の筆頭と言えば魔術式灯という、火の要らない明かりだ。魔術式の効果は原料を消費するため、繰り返し利用できると言えども無限のものではない。魔術式灯の需要が高い帝都では、原料を取引する方が主な仕事かもしれなかった。


 そんな規模の大きな工房で、常に様々な人々と会っていれば、気忙しいのだろう。この職人は、いつ同じ人間に会ったかなど覚えてないようである。

 もしくは、いつ同じ者に会っていようがいまいが気に掛けないことに決めたのだろうか。それで、久しぶりだと挨拶をするようになったとも考えられる。

 なるほど。理に叶っていると言えば、そうかもしれない。そう思えば主人も納得できた。

 お客さんの気分がどうのと、そんな気遣いが必要な商人ではないのだ。


「案内を頼みたい。明日からの旅だが今晩には集合だ」


 職人はいつものごとく突然ながら、依頼書と前金を置いて予定を告げると、さっさと帰っていった。




 砂漠亭の主人が出かける準備をしていると、妻が声をかけてくる。


「あちらさんも、いつも無理を言うわね」

「そのお陰で、こうして暮らしていけるんだ」


 妻は愚痴を言いたいのではなく、夫の身を案じているに過ぎなかった。

 それを彼も承知しているので、滅多なことを言うなと咎めることはしない。

 妻の方も、お得意様や夫の機嫌を損ねたいわけでもないので、その一言で気持ちを宥めているだけだ。


「留守を隣に言付けておく。何かあれば遠慮なく頼れ。あいつには飲み代の貸しがある」

「ええ、そうします」


 飲み代の貸しとだけ彼は言ったが、もっと荒事だ。

 信頼を得たのは、酒場で隣人が飲んでいたときに、柄の悪い者に絡まれたところに居合わせた。

 隣同士で知らない仲でもないから手助けしたのだが、それから勝手に気にかけてくれるようになった。


 貧民街の住人同士ではあるが、月の砂漠亭の主人は、あまり受け入れられているとは言いがたかった。

 理由は単純なことで、宿に『砂漠』と名付けたからだ。


 この国、アィビッド帝国は随分と長い間、砂漠の国々と対立してきた。

 その対立が国の歴史を形作っているというのも過言ではないだろう。

 敵対する国に関連する言葉をつけたのだから、ただの単語とは言えない。

 どこの出身かを明確にしたようなものだ。


 長い歴史の中で、初の停戦条約を結んだのは、ほんの十年ほど前のことだ。

 北で大異変と呼ぶようになった災害が起きたことで、周囲の安全を確かにしたかったのだろう。

 それまでは休戦しつつも、なるべく国同志は関わらないようにしてきただけで、不確かな関係でいた。


 そもそも砂漠の国々は、国と言いつつ昔ながらの民族で固まった暮らしを貫いている。

 隊商で暮らしてきた国だ。様々な国の価値観を知ってさえ何故あてのない暮らしを維持するのかと思うが、一々他の国に感化されていては、民は分散してしまっていただろう。


 もちろん数百年のうちに、周囲からの圧力で変わらざるを得なかったこともある。


 定住地を持たず、南は砂漠から北は草原地帯の広大な範囲を、移動しながら暮らしていた民だ。

 それは、遥かな昔に偉大なる者から恵みを賜った土地だといった伝承による。

 人は住まわせてもらっているだけだ。そう伝えられながら生きてきた。

 自然は自然のものであり、人の持ち物ではない。

 しかし、砂漠の民が移動の範囲としながらも我等のものではないと言えば、周囲の国は、所持しないならと住み着こうとしてきたのだ。


 その度に戦ってきた。

 しかし周囲の国々は、家や畑を作りそこに管理する民を置く。

 その周りは、守るように壁や砦を築く。


 自然が、あるがままではいられないのだ。


 長い戦いと商いの狭間で、難しい状況に追い込まれた砂漠の国々は、妥協策として拠点を築くことにした。

 小さな城塞都市だ。


 それらを荒野の中、隣国の国境を見張るように点在させることで、ようやく他国からの侵入を押し留めるに至った。


 土地に縛られる者達は、その価値観で解決せねば、彼らには理解できないのだ。

 砂漠の国々の者達は、商いに出かけた際に、彼ら自身の価値観を押し付けることは一切なかったというのに。

 それが、彼らの中に他者への強い不審を生み、周囲へは気難しい国と映っている。




 月の砂漠亭の主人は、砂漠の民でありながら、一箇所に留まって暮らしたいと考えた数少ない者だった。

 はじめは城塞都市での生活を考えはしたが、ほとんどの活動が警戒業務で、商いだけで暮らすことはできない。


 そのため決死の覚悟で砂漠を越えた。砂漠の移動には慣れているが、他国へ入ろうとすれば襲撃を受けるのではといった心配だった。

 苦労して辿りついたのが帝都だった。


 心配は杞憂に終わる。

 当時の帝国に入ることに大した制限はなかった。

 そもそも帝国側の商人も、情勢がどうだろうと行商に出ている。休戦して長かったこともあるのだろう。

 妻と二人だったこともあるし、行商も真実であったことのおかげだろうか。

 実際に駱駝に引かせた小さな幌付きの荷台には、国で作られた織物などの商品を乗せていた。

 割合にあっさりと滞在を許されたのだ。

 幸運が重なり、帝都へ着いたのは天の采配だといって主人は滞在を決めた。


 後に彼が知ったことだが、アィビッド帝国は商人が支える国である。

 商人の権利は、非常に優遇されていたのだ。

 一方的に売りつけに行くなど煙たがられるだけといって、取引にも積極的だった。商品や情報の鮮度に敏感だったこともある。

 物品や人の移動に寛容だったのだ。


 それを補うようにか、軍への力の注ぎようも並々ならない。

 かつて傭兵の国が中心となって帝国を束ねたというのも、商人らが奔放すぎたためだろうかなどと、砂漠亭の主人は考えた。

 ともかく、しばらく真面目に商いをしている内に滞在資格を得ることが叶い、暗く道の入り組んだ不利な立地ではあるが、小さいながらも宿を構えるに至ったのだった。


 場所が場所だけに、さして泊り客はない。

 商いをしている内に知り合った工房が、他の町から来た工房宛の客を、たまに紹介してくれる。

 そういったこともあるから、何かにつけて工場こうば街へと顔を出す。

 工房は、当然ながら魔術式符だけでなく、鍛冶関係など多岐にわたる。

 都なだけあって、地方の町から見学や取引のためと訪問客は多い。


 商人ら一般の泊り客達は、表通りや、そこから程近い場所の宿を選ぶ。

 しかし地方からの職人は商人ほどの予算を持たず、場所が悪かろうとも砂漠亭で満足してくれる者が多かった。

 だから砂漠亭の主人は、職人関係の客をあてにして営業がてら出かけていく日々を送っていたのである。


 とはいえ、それだけでは宿の維持だけで精一杯だ。

 他にも仕事の口はないかと訊ね歩いているうちに、臨時の依頼を受けるようになっていた。

 経歴を活かした、護衛を伴う砂漠の案内だ。

 今回は工房から直接の依頼だが、工場街の知り合い連中はそれぞれ懇意の商人がいる。そこから砂漠を渡る行商人へと紹介してもらっている。

 護衛仕事といえば砂漠に慣れた旅人も存在はするが、行商人の規模に対して多くはない。

 そこで、たまに思い出したように依頼があるのだ。


 依頼形式は旅人の護衛依頼と変わりないが、旅人組合ギルドを通さない。

 それは砂漠亭の主人が商人組合に属しているからである。

 商人組合と旅人組合は、民間で国々を渡ることを許されている二大組織だ。

 商人が形の有無にかかわらず物品を扱うなら、旅人は人材そのものを売りにしている。


 仮にも商人組合に属する主人だ。護衛の能力は、盗賊に襲われたときに自らの身を守る程度を求められているにすぎない。あくまでも案内が主な仕事だ。

 しかし歳による体力の低下はあれど、腕は鈍っていないつもりでいる。使い慣れた半月刀を確かめると、砂色の布で全身を覆い、宿を後にした。




 砂漠亭の主人は待ち合わせ場所へと向かいながら、浮き足立つ心について思いを馳せる。

 どこかで店を構えて落ち着きたいと思い、砂漠を出た。だからといって、子供の頃の生活によって育まれた感性が完全に消えることはない。


 それともこれは、脈々と受け継がれた血に思い起こされるものだろうか。

 砂漠に暮らす氏族の中に、これは一族の願いだと唱える者達がいた。

 一つ所に留まってはいられない、止むに止まれぬ事情なのだと。


 ときに、自身の中に湧き上がる思いは、それなのだろうかと考える。

 腰を据えて宿を構えて暮らすことも、心底に望んだことではあるし、満足もしているのは誓って言えることだ。


 それにも関わらず、こうして案内役を受けることにより、旅立ちたい衝動を宥めるのだ。

 元の砂漠の民に戻ることは、微塵も考えたことはない。

 戻れば後悔することだけは理解している。


 だからこれは、妥協策なのだろう。

 時おりでいいから、こうして砂漠の空気を吸う。

 それでまた、宿での静かな生活を続けられるのだ。


 やはり、恵まれた環境だと改めて思う。

 とうてい豊かな生活とは言えなくとも、こうした機会が得られるのだから、来た当事に幸先が良いと考えたのは正しかったのだろう。


 妻はなにも言わないが、恐らく自分と同じ想いがあるはずだ。戻ったら、食事にでも連れ出さなければなと、心に書きとめる。

 今までも戻るとそうしてきた。

 そして明らかに妻の機嫌が良くなるのを思い出すと、主人の顔に自然と笑みが浮かんだ。




 これまでのことから現在までの移ろいに、主人が静かに思いを馳せながら歩いているうちに、待ち合わせ場所へと到着していた。砂漠側の西門に近い城壁沿いに建ち並ぶ倉庫街の一角で、あちらこちらに商人や旅人の姿が見えるのは、変わらぬ光景だ。

 首を傾げたのは、目的の倉庫前には普段よりも多くの人間がいたためだ。護衛に雇われた旅人の数も多い。

 主人が仕事内容を気にしても仕方がない。気持ちを切り替えると、旅の主導をする顔なじみの行商人と挨拶を交わし、大きな幌馬車に乗り込んだ。明朝からの行動予定などを打ち合わせるためだ。

 乗り込んで、いつもと様子が違うとはっきりした。同行者に、黒い制服を着た男がいた。帝国軍の正規兵。そんな輩がわざわざ、しがない行商人の護衛をかってでることなどない。

 いつもより積荷も多く、狭い荷台の上で、商人は苦労して地図を広げると話し始めた。そのことで遮られたが、もの言いたげだった兵士の視線を、主人は捉えていた。


 道中に聞いた限りで知れたのは、大量の魔術式符を運んでいることだった。

 どうやらまた、北の大異変がもたらした精霊溜りなどという、厄介な現象が砂漠側へ出だしたらしい。

 精霊溜り自体は、飛び越えられる水たまり程度の大きさに過ぎないが、ぼんやりとした白い光だ。触れることはできない。

 しかし、その光は徐々に、全てを消滅させながら肥大化していく。そのため見つけ次第、符で散らす作業が必要なのだ。

 これだけの魔術式符を必要とするならば、大きなものが出たか、数が多いに違いない。


 不安なことではある。主人の脳裏に、それによって起きた出来事が甦った。

 過去には、大異変によって町が丸ごと消えたことよりも、それを知った民の行動の方が問題だった。

 頭の痛い話だが、それは帝国民だけの問題ではない。

 未知の不安の下にあった民の暴動を引き起こしたのは、これを機と見て国境を越え、なだれ込んできた者達のせいだった。

 魔術式道具の中には遠い場所まで声を届けられるものがあり、国や組合などの組織にのみ配布されているもので、非常時には他国へも報せを出す。それが裏目に出たのだ。


 砂漠の国々も手を取り合ってはいるが、帝国側ほどまとまってはいない。中には好戦的な国もある。

 北方に拠点を持つそれらの民族は、乗り込むや国境沿いの町を落とした。そして町からの避難者が東へ流れ、異変で北から逃げてきた者達とぶつかった。

 そんな話を、人の口に上る様々な噂や愚痴から知った。

 疑心暗鬼に陥った北方が、その後しばらく混乱していたとの話に、軍の動きなどを考えれば真実なのだろう。

 

 あの頃は帝都の空気もぴりぴりとしていたと思い出す。

 それ以前から信頼を得ていたお陰か、主人が砂漠の民だと知っていた都の住人から非難を受けることはなかった。あからさまな非難を受けなかったのは、周辺の住人からだけではあったのだが、そのことには感謝してもしきれない。

 ふと荷台から揺れる空を見上げれば、煌いているはずの星も翳って見える。故郷を出た晩と同じように。胸の内が冷え冷えとするのは、乾いた夜気を吸い込んだせいか、それとも――。




 砂漠亭の主人を含む一行が、砂漠を通る街道の側で野営中のことだ。

 焚火を囲う人の輪から外れるように端に座る主人へ、軍の男が歩み寄った。わざとらしいほどに、ゆっくりとだ。

 主人が砂漠出身ということに含むところがあると、その雰囲気は告げている。


「宿を営んでいるそうだな。なぜ、わざわざ砂漠亭などと名付けた」


 周囲の話し声は小さなものとなる。

 馴染みの商人は、いざとなれば口を挟もうと考えている態度だ。立ち上がろうとした商人に、主人は首を振って必要ないと伝え、遠くへと視線を移した。


「月の、砂漠亭だよ。軍人さん」


 冷たくも見える月の光が、砂の波を照らし出す。

 その光景を目に留め、主人は呟いた。


「どこかに定住したくてね。必死で砂漠を越えたとき、これを見た。忘れ難い光景だろう。そう思わないか」


 何の目印もない砂漠の中、自分だけが取り残されたような錯覚を覚えることもある。

 だが月と風は、まるで導くようにそこにある。


 主人の言わんとしていることに頷くように、皆は黙りこんだ。

 そして幻想的でありながら、どこか胸の痛くなる景色を眺めていた。

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