終章

エピローグ

 枕元の目覚まし時計が耳障りな電子音をまき散らす。

 午前六時三十分のお知らせだ。

 前後して、俺の右腕を枕にしていた一匹の猫が「う~」とひと声呻いて動きだし、人肌で暖まったベッドの中からもぞもぞと身体ごと抜け出していく。

 素肌で直接感じていた温もりがその重さごと消失することで、それまでまどろんでいた俺の意識もまた、ゆっくりと覚醒を開始した。

 シャワーの音が耳に届いた。

 それが終わってしばらくすると今度はキッチンのほうから、油で何かを揚げる音と、まな板と包丁とが衝突する軽快なリズム音が響いてくる。

 いつものように、「あいつ」が飯の準備を始めたのである。

 毎朝毎朝、ご苦労なことだ。

 俺としては、そこまで手の込んだ内容でなくても、軽く胃袋を満たせるメニューであればそれで文句はなかった。

 正直な話、買い置きのパンやインスタントラーメンでもいいくらいなのだ。

 もちろん、俺の意向は何度も「あいつ」に伝えてある。

 にもかかわらず、「あいつ」は頑なに「それは嫌だ」と主張してはばからない。

 夜が明けて最初の家事となる朝食の準備。

 そのことに手を抜くという行為は、自分の「美学」に反するのだそうだ。

 そうこうしているうちに、ぱたぱたという足音が俺の間近にまで迫ってきた。

 食事の準備が整ったのだろう。

 板の間とスリッパという組み合わせが織りなすそれは、寝起きの耳にはいささか不快だ。

「翔兄ぃ、朝だぞ。起きろ」

 どうにもこうにも違和感のぬぐえない口振りで、最近の「あいつ」は俺を起こす。

 だが、今日の俺はその程度では起きてやらない。

 大体において、今日という日は俺にとって貴重な休日たるサタデーなのだ。

 こんな早い時間にわざわざ起床する必然性もなければ義務もない。

 とは言え、「あいつ」もそう簡単には引き下がるまい。

 そんなことは、もうはるか以前から嫌というほどわかっていた。

 「あいつ」は、「料理が冷めちゃう」とか「食べてくれないと学校に行けない」とか言って、自分の都合を主張する。

 だが俺は、そんな「あいつ」を完全拒絶。

 ごろりと寝返りをうって背を向けた。

 こんな俺にだって、一応は「男の矜持」というものが存在する。

 なんでもかんでもこいつの言うとおりに管理されるのは、ひとりの男として真っ平ごめんだった。

 この時俺は、断固たる決意をもって、おのれが所持する「昼近くまで熟睡する権利」を行使しようと試みた。

「ほほう」

 「あいつ」の空気が一変するのを、布団の中で俺は察した。

 一瞬だけだが背筋が震え、嫌な予感が脳裏をよぎる。

「あくまでもボクの意向に逆らうというのなら──」

 おそらくは腰に手を当て半開きのじと目で俺を見下ろしているであろう「あいつ」は、次の瞬間、勢い良くこう宣告した。

「実力行使に及ぶまでだ!」

 言うが早いか俺の身体を覆っていた布団が一気にはぎ取られ、同時に滑り込んできた「あいつ」の両手が、俺の弱点をこれでもかというぐらいにくすぐった。

 それは、想像するだにおぞましい暴虐極まる拷問だった。

 国家憲法によって保障されているはずの基本的人権は完膚なきまで蹂躙され、俺は人目をはばからぬ奇声をあげて寝床から飛び上がった。

「なんて起こし方しやがる」

 振り向きざまに拳を振り上げ、頭頂から湯気を上げつつ俺は怒鳴った。

 荒々しく呼吸が乱れ、やむなくぜいぜいと肩で息をする羽目となる。

「おまえ、朝っぱらから俺を虐待して何が楽しい? ええ、言ってみろ!」

「昨日の夜はさんざんボクのことを虐待してくれたくせに、よく言うよ!」

 そうすぱっと切り返しながら、俺の眼前に仁王立ちするエプロン姿のこの娘、猿渡眞琴は不機嫌そうに頬を膨らませた。

 次いで、腕組みの姿勢を崩すことなく命令口調で言い放つ。

「文句はあとで聞いてあげるから、とりあえず翔兄ぃは、その汗臭い身体にシャワーしてきて。そして戻ったら、四の五の言わずにご飯を食べる。で、それが終わったら歯磨きとひげ剃り。わかった? わかったら三秒以内に返事。ひとつ、ふたつ、みっ──」

「へいへい、お姫さまには敵いません。言うとおりにしますですよ」

 こうして、理不尽極まりない俺の今日は始まりを迎えた。

 まったく、なんでこうなっちまったのかね。

 俺はこのひと回り以上年下の小娘に言われるがまま寝床から起き上がると、さも嫌そうに見える顔付きを意図的に貼り付けながら、ぼさぼさの頭髪を引っかき回した。


 ◆◆◆


 この俺、壬生翔一郎が眞琴とのバトルに敗北してから、もう数ヶ月が経過していた。

 秋が終わって、冬が過ぎ、春が訪れ、なんと来週からはゴールデンウィークに突入だ。

 時が経つのは本当に速いものだと改めて実感する。

 俺が実家を離れひとり暮らしを始めたのは、季節がまだ秋の色を濃厚に残していた十一月の初め頃であった。

 その決断について、特に深刻な理由があったというわけではない。

 ひと言で言えば気分転換。

 もう少し難しい言葉を使うなら、一度自分自身を見つめ直してみたかったから、とでも言えるだろうか。

 もちろん、眞琴と交わした「あの約束」を反故にするつもりなど毛頭なかった。

 ただし、あいつとの距離を少し置いて冷静に今後を考えてみたくなったことは事実だったから、「あの約束」が俺の決意を促したことまではあえて否定したりしない。

 俺が唐突に家を出るのを決めたことについて、俺の両親も、そして驚いたことに眞琴も特に意見を寄越したりはしなかった。

 おかげさまで、拍子抜けするほどの順調さをもって俺の引っ越しは完了した。

 引っ越し当日、もともと面倒が嫌いだった俺は荷造りから何からすべてを業者に任せ、ほとんど身体ひとつで新しい自分の城へと赴いた。

 比較的新しめの1DK賃貸。

 風呂とトイレも別々だし、洗濯機もちゃんと室内に設置できる。

 若干家賃は高めだが、俺のような独身貴族がひとり暮らしを満喫するには十分過ぎる物件だった。

 その日の夕方のことだった。

 呼び鈴が鳴り、誰だろうと疑問符を掲げた俺が玄関のドアを開けると、そこにはスーパーの買い物袋を下げた眞琴がにこにこしながら立っていた。

 「何しにきた?」と俺が尋ねる間もなく眞琴は俺の城へと上がり込み、興味深そうにくるりと視線を一周させる。

 そしてなんの前触れもなく、あまりにも唐突なタイミングでこう宣った。

「男の人のひとり暮らしだと外食とかできあいの総菜とかが多くなって栄養が偏るから、熟慮の結果、翔兄ぃの食事はボクが管理することになりましたのでご報告します」

「なんだって」

 俺は我が耳を疑った。

 思わず抗議の言葉を口にする。

「いつ、誰が、どこでそんなことを決めたんだ。俺は聞いてないぞ」

「いま、ボクが、ここで決めた。異論は許しません。以上」

 顔色ひとつ変えずそう言い放った眞琴は、あ然とする俺を置き去りにしたまま堂々とした足取りでキッチンへと向かい、部屋の主の許しも得ず、問答無用に調理を始めた。

 それはまさしく、予定していた気ままなひとり暮らしがその目論見を頓挫させられた瞬間にほかならないものだった。

 俺のために眞琴がこしらえてくれた夕食は、単純にして深遠なる「肉じゃが」という一品だった。

 隠し立てすることなく白状しよう。

 眞琴の作る「肉じゃが」は実に美味いのだ。

 正直、俺は金を払ってもいいくらいのレベルだと思ってる。

 一度こいつを口にしたなら、そんじょそこらのレストランでは同じメニューが食えなくなること請け合いだった。

 あろうことか、この時の俺はこいつが画策した深謀遠慮について、まったく気付くことができずにいた。

 いまから思えば、これがこいつの企んだ明白極まる侵略行為、その先駆けであったにもかかわらず、だ。

 知らず知らずのうちにその第一撃を被り、俺の胃袋はたちまちのうちにこの小娘の支配下へと転落した。

 振り返ってみて思うことがある。

 オンナがオトコを陥落させる最大の武器が「美味い手料理」であるという俗説は、限りなく真実に近いんじゃないだろうか。

 少なくとも、この俺はその俗説を否定できる立場にない。

 それだけは間違いなかった。

 その日を皮切りに、眞琴はほとんど毎日のようにこの部屋にやってきて、甲斐甲斐しく俺の面倒を見てくれるようになった。

 炊事だけに留まらず、掃除、洗濯、家計の管理まで。

 その立ち位置は、もはや「通い妻」と評しても構わないくらいだ。

 その滞在時間に比例して、室内にはあいつ自身の生活臭という奴もあからさまに浸透してくる。

 知らないうちに持ち込まれた眞琴専用の歯ブラシを洗面所で発見した俺は、はっきり言って困惑した。

 むろん、こいつがいろいろやってくれることで助かっているのは事実だから、と好きにさせておいた自分に責任があることぐらいは理解している。

 だがやはり、プライベート空間に年頃の娘があたりまえのように出入りするというこの状況に、大のオトコが適応するというのはなかなかに難しい。

 大体において、独身男性がひとり暮らしをしているはずの室内に女性用の縞々パンツが干してあるというこの光景は、いくらなんでもシュールに過ぎるのではなかろうか。

 じゃあどうすればいいのかという結論を出すこともなく漫然と時を過ごしていた俺に決定的な転機が訪れたのは、昨年も終わりに近付いたクリスマスイブの夜だった。

 それは、眞琴とふたり、商店街の福引きで当てた北海道旅行へと出かけたおりに起きた一連の出来事である。

 俺とあいつは、いわゆる「男女の一線」という奴を越えた。

 越えてしまった。

 もちろん、事実は事実だ。

 俺も大人のオトコとして、みっともない言いわけをするつもりは微塵もない。

 その日、ちょっとしたトラブルで本来泊まる予定だった旅館に入れず、緊急避難的に飛び込んだ郊外の安宿。

 その一室で眞琴の純潔を奪った俺は、しかし一時の熱が収まるにつれ強い罪悪感を覚えるようになっていた。

 上手く例えて言えないが、慎重に消費していたクリームの容器に思い切り指を突っ込んだ時の感触に似ているとでも言えようか。

 なんとも型どおりな、それでいて実にあからさまな自己嫌悪。

 その一切合切をきれいに払拭してくれたのは、またしてもこいつの存在そのものだった。

 情熱的な生の営みが終わり、シーツに潜って恥ずかしそうにはにかむこいつの頭を撫でているうちに、俺は心中に発生したもやもやが忽然と失せ消えていくのを感じた。

 同時に、「おまえには一生勝てないな」などと敗北宣言すらしてしまう。

 それを聞いた眞琴は飛びっ切りの笑顔とVサインで反応し、釣られた俺も思わず破顔一笑してみせた。

 こうして、俺と眞琴との付き合いは中途半端な「半同棲」から半の字が抜け、正式な「同棲生活」へと進化した。

 事実、センター試験が終わってからこの方、こいつは実家で夜を明かしてなどいない。

 それについて、哲朗さん眞琴父たちも俺の親どもも何も言ってはこなかった。

 察するに、ふたりの関係はお互いの実家において了承済みのことらしい。

 いやむしろ、こいつは最初からあのひとたち眞琴両親&俺両親によって企まれた陰謀だったんじゃなかろうかとすら思ってしまう。

 そう確信できる要素は随所にあった。

 ただし俺は、この「自ら迎え入れた結果」について少しも後悔していない。

 それだけは天地神明にかけて断言できた。


 ◆◆◆


 今朝の朝食は「味噌カツ定食」だった。

 白い御飯と汁ものに、味噌がかかった熱々の豚カツ+山盛りの千切りキャベツ。

 前日に下ごしらえはしてあったのだろうが、よくもまあこんな手間のかかる朝飯を準備する気になったもんだ、と呆れ半分で感心してみせる。

 もっとも、なんで眞琴が「こんなもの」をこしらえたのかはわかっている。

 願かけだ。

 ミッション味噌勝つカツという願いを語呂合わせにかけた料理であるらしい。

 眞琴曰く、これは「確実にご利益のある」メニューなのだそうだ。

 まあ実際のところ、この料理が試験当日などの勝負所で出された事例に関しては、俺もこいつも間違いなくいい結果を得られてはいる。

 眞琴は第一志望である地元の大学に受かったし、俺は四月から肩書きに役職が付き、正式に部下を持つ身となった。

 ただし、俺自身はゲンを担ぐことを否定しないまでも、同時に無意味なことであるとも思っていた。

 そんな行為に尽力するだけの暇があるなら、その労力をもっと現実的な方向に用いたほうが建設的だと信じるからだ。

 しかしそれでも、俺は眞琴の好意を無碍にすることなく、その「願い」とやらがたっぷりこもった味噌カツを味わいながら頬張った。

「美味しい?」

「八十五点だな」

 ときおり投げかけられてくる質問に、俺は短めの言葉だけを返した。

 それで十分だと俺は思っていたし、眞琴のほうも満足そうな表情を浮かべている。

 そういえば、このままごとみたいな同棲生活が始まってから、こいつはいまみたいに髪を下ろすことが多くなった。

 外出する時なんかは、動きやすさを重視してかいままでどおりのポニーテールにまとめるこいつだったが、少なくとも俺とふたりきりの時は、その縛めを解いてストレートロングの髪型に変えてくる。

 こいつ、こんなにオンナらしかったか?

 見た目の印象ががらりと変わるおかげで、いまでも戸惑いを隠せないことがある。

 調子が狂うことしばしばだった。

「翔兄ぃ」

 食事が終わり、テーブルに着いたまま新聞を広げる俺に向かって眞琴が告げた。

「今日、学校とバイトが終わったら、ボク、『ロスヴァイセ』のみんなと合流するから、八神街道には翔兄ぃひとりで行ってね」

「八神街道?」

 語尾を上げてこれに応じた俺に、すかさずこいつは噛み付いた。

「あ~、さては忘れてたな。今晩十一時スタートの八神街道最強決定戦。久し振りにリンさんが走るんだから、遅れちゃ駄目だぞ」

 「心配するな。忘れちゃいない」と紙面から顔を上げて弁明する俺であったが、眞琴は疑いを解いてくれない。

 「い~や、いまの口振りだと絶対に忘れていた。きっとそうだ」と恨みがましく断言すると、このお姫さまは俺に「時間に遅れたら一週間晩ご飯抜き」というきついお達しを賜られた。

 ちなみに、半ばこいつの管理下にある俺の財布には、ただいま野口英世が三人しか在籍しておられない。

 とてもではないが、この財力で一週間を食いつなぐのは不可能だった。

 「飢え死にさせるつもりかよ」と俺がぼやくと、眞琴は「遅れなければいいんだよ」と至極あたりまえの回答を寄越してみせた。

 やれやれ、とばかりに、俺は頭を左右に振ってこれに応えた。

 時間が過ぎ、長い髪の毛をポニーテールに束ねなおした眞琴が玄関先へと向かった。

 いつものことだが、こいつは本当に生きることそのものを楽しんでいるように見える。

 実に喜ばしい。

 自然と微笑みが浮かびあがってくるのを止められないほどだ。

 スニーカーの踵を直しながら眞琴が俺の名を呼んだのは、本当にいきなりのことだった。

 何事かとばかりにひょいと顔を上げた俺に向け、満面の笑みを浮かべながらこいつは、もの怖じひとつせずとんでもないことを口走った。

「翔兄ぃ。大好きだよ」

 突然の告白に、俺は仰天して目を丸くした。

 そういえば、これまで何度か聞いた気がするこの言葉も、こうはっきりと告げられたことは過去になかったような気がする。

「どうしたんだ、いったい?」

 ついどもりそうになる言葉尻を必死になって押さえ付け、俺は努めて冷静さを装った。

 残念ながら、こういった場合に対処する経験値を、俺はさほどに有していない。

 恥ずかしながら初心者に近いと断言してもいいだろう。

 だが、眞琴はそんな俺の動揺につけ込むような真似はしなかった。

 ただ、俺の疑問符に「言ってみただけ」とからかうように答えると、こんな質問を投げ返してきただけだった。

「翔兄ぃは、ボクのこと好き?」

 それに対する俺の回答は決まっていたが、それをまっすぐ口にすることだけはどうにもこうにもはばかられてならなかった。

 悔しさ半分で、つい憎まれ口を叩きそうになる。

 だから俺は、お茶を濁す台詞でこの場をしのぐことにした。

 目線を外し、俺は言い放った。

「朝っぱらからそんなこと言わせるな。恥ずかしい」

「素敵な返事をありがとう。翔兄ぃらしいね」

 俺の答えに幸せそうなはにかみで応じると、眞琴は元気良く「行ってきます」と宣言して玄関先をあとにした。


 ◆◆◆


 八神街道二十三時。

 かろうじて眞琴との約束を違えることなく、俺は街道の入り口、いわゆる「八神口」と呼ばれるあたりに到着していた。

 ひとたび日が沈めば急激に静まりかえってしまうこの場所にしては珍しく、今夜はかなりの人影が各所各所でたむろしているのがわかる。

 いまや八神の「女王クイーン」として君臨する三澤倫子さん──「青い閃光シャイニング・ザ・ブルー」の異名を奉られる彼女が走る大一番を見られるということで、普段からは考えられない数のギャラリーがこの地に押し寄せてきているからだった。

 ざっと見た限りだが、その人数は二、三十人に及ぶのではなかろうか。

 正直な話、うちの地元にこれほどの数寄者どもが存在したのかと思うと率直な感嘆さえ覚えるほどだ。

「あ、やっときた」

 ふらふらと視線を動かしながら周囲をさまよう俺の姿を発見し、眞琴が大きくひと声あげた。

 こっちこっちと両手を真上に振り上げながら、俺のことを名指しでもって呼びつける。

 見ると「ロスヴァイセ」の主要メンバーである山本加奈子さんと長瀬純さんも眞琴と一緒にいて、それぞれこちらに目を向けていた。

 それらに応えて、俺は軽く右手を挙げる。

「遅刻じゃないぞ。ちゃんと五分前には着いてるからな」

 彼女らのもとへ歩み寄った俺は、眞琴に対してそう第一声を放った。

 余計な疑いをかけられて美味い晩飯にありつく権利を剥奪されるのはごめんだったからだ。

 もっとも、眞琴自身はその件に関して何も言おうとはしなかった。

 代わりに声をかけてきたのは、「ロスヴァイセ」のリーダー格、山本さんだった。

「今日はよろしくお願いします」

 いつものように折り目正しい穏やかな態度で、彼女はゆっくりと腰を折った。

 育ちの良さが滲み出てうかがえる。

 はっきり言って走り屋らしからぬ物腰だと俺は思うが、同時に女性として実に好ましいありようだと感じるのも確かであった。

「三澤さんは?」

 手短に俺は尋ねた。

 チーム「ロスヴァイセ」のエースにして現在八神街道表コースのタイトルホルダーでもある三澤倫子さんは、文字どおり本日の主役だった。

 当然、同チームの仲間たちと行動をともにしていると思っていたところその姿が見えなかったので、つい反射的にそんな質問を飛ばしてしまったのだ。

「あのなら」

 少しお姉さんぶった言い回しで、山本さんは俺の質問に答えた。

「いまも戦いの準備に余念がありませんわ」

 それを聞かされた俺は、思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 おそらく三澤さんはすでに何本かの試走を行い、その結果をもとにタイヤの空気圧やダンパーの減衰力調整を実地で行っているのだろう。

 どちらをとっても、お手軽な割にかなりの効果が期待できる基本的なセッティングメニューのひとつだ。

 間もなくバトルが始まるというのに、その直前になるまで勝つための努力を惜しまないとは。

 あれほどの腕と実績とを誇りながら、それでもなお自らにいっさいの妥協を許さない三澤さんの姿勢に、俺はもう畏敬の念を抱くことしかできなかった。

 今宵、彼女と戦う不幸な対戦者に対し、心の底から同情したくなってくる。

 やれやれ。

 やはり本気の度合いが断然違う。

 いささか時期尚早だったかな、などといまさらながらに感じた俺は、自嘲気味に頭をかいた。

 当の三澤さんが俺の前に現れたのは、まさにその瞬間の出来事だった。

「壬生さん、そろそろよろしいですか?」

 単刀直入に彼女は言った。

 その双眸が溢れんばかりの精気に満ちて、燃えるような光を爛々と放っている。

 軽く肩を落とした俺はあきらめ顔で頷きつつ、「いつでもどうぞ」と素直に答えた。

 そう、これからこの女性ひとと競り合うことになる哀れな走り屋とは、何を隠そうこの俺のことなのだった。

 伝説の走り屋。

 八神の魔術師。

 「ミッドナイトウルブス」のミブロー。

 まあ、好き勝手な名前で呼んでくれて構わないが、俺なんぞしょせんは時代遅れのロートルだ。

 その復帰戦がまさかこんな大騒ぎになるなどとは直前になるまで想像もしていなかったから、本音を言うと若干の戸惑いがあるのも事実だった。

 大仰に掲げられた「八神街道最強決定戦」なんて看板は、俺に対する過大評価もいいところだと思ってる。

 しかし、だからといってこの状況を軽く受け流すつもりもまた毛頭なかった。

 大胆に手袋を投げ付けてきた非礼な挑戦者は全力でもって叩き潰す。

 それこそが走り屋にとって最低限の礼儀なのだと、俺は心の底から信じていた。

 八神街道表コースのスタート地点。

 その信号機のたもとに停まる三澤さんの「MR-S」と並べるように、俺は自身の愛車をゆっくりと進めた。

 ド派手なバイナルがボディ全体を埋め尽くした、ある意味、見てくれのクルマではある。

 スバルGRB「インプレッサWRX・STI」

 スバルが三菱自動車ランエボとの熾烈な性能競争の果てに市場へと投入したファイブドアハッチバックのモンスターだ。

 そのボンネット下に収められたEJ-20水平対向エンジンは、カタログスペックで三百八馬力という常識外れの出力を発揮する。

 今年に入り、何事にも中途半端な自分を象徴していた「レガシィB4」を手放した俺が新しく手に入れた相棒こそこいつだった。

 むろんノーマルではない。

 派手なバイナルでわかるとおり、俺の「インプレッサ」は、JAFが公認する最高峰競技のひとつ、「全日本ジムカーナ」で実際に使用されたコンペティションモデルの一台なのだ。

 アフターパーツで手を加えられた二.二リッター化ボアアップエンジンはノーマルのそれを上回るパワーを発揮するだろうし、足回りや駆動系にも競技車両としての徹底的な勝利へのこだわりが込められている。

 俺はこいつを手に入れた時、俺との対戦を熱望する三澤さんに、わざわざ断りを入れにいっていた。

 公正を期するためだ。

 いかに徹底したチューニングを施してあるとはいえ、やはり個人所有の「MR-S」と専門家がきっちりと作り込んだ「インプレッサWRX」とでは戦闘力の根本が違い過ぎる。

 しかし、彼女はそんな俺を気遣うような素振りを見せつつ、むしろ不敵な笑いを浮かべながらこう応えたのだった。

「あなたに全力を尽くしていただかないと、戦いを挑む意味がありませんから」

 その時に見た三澤さんの表情を思い出し、ひとたび腹を括ったオンナというのは実に怖いものなのだと俺は改めて思った。

 眞琴にしろ三澤さんにしろ、まったくどうしてこう俺の周りのオンナどもは──ひとりのオトコとして、肝心なところで腰の引ける自分自身を嘲笑いたくなる。

 並列する二台の前に山本さんが立った。

 その右手が上がり、詠みあげられた数字とともに折られた指が一本ずつ開かれていく。

 発進までのカウントダウンが始まった。

 観衆全体が息を飲むのが「インプレッサ」の運転席からでもはっきりとわかった。

 久しく感じたことのない心地良い緊張感が、俺の臓腑をぎりぎりと締め付ける。

 十秒前、九秒前──…

 アクセルを空吹かししながら、じっくりとタイミングを計る。

 八秒前、七秒前──…

 「翔兄ぃ、負けるな!」と叫ぶ眞琴に、親指を立てて合図を送る。

 六秒前──…

 完全に開かれた山本さんの指が、今度は逆の順番に折り曲げられていく。

 集まった観衆がいつの間にか声を合わせ、残り時間のカウントを集団で口ずさんだ。

 五

 四

 三

 二

 一

 GO!

 山本さんの右手が素早く振り下ろされると同時に、俺はエンジン回転数六千五百で叩き付けるようにクラッチミートした。

 四十キロを越える巨大なトルクを余すところなく受け止めた四つのタイヤが、凄まじい勢いでアスファルトを蹴る。

 直後、爆発的な加速で飛び出した愛車の様相そのままに、俺は稲妻のごとくギアを二速セコへと叩き込み、一気にアクセルペダルを踏み込んだ。

 パワーバンドを維持された状況でその全力を振り絞ることを強制された俺の「インプレッサ」は、まるで突進するジャガーノートのように夜の八神街道を突き進む。

 ブーストメーターの針が跳ね上がり、速度計はたちまちのうちに八十キロを突破。

 さらに容赦なくその先へと向かう。

 エンジン音でタイミングを見計らい、ギアを三速サードへシフトアップ!

 ぐんと車速が伸びを見せる。

 いくぞ眞琴。

 いくぞ理恵。

 いくぞ崇。

 そして、いくぞ俺。

 にやりと口の端を吊り上げた俺を乗せ、「インプレッサWRX」が三澤さんの「MR-S」を抑え込んだ。

 けたたましいスキール音とともに、ハッチバックボディが猛然と最初のコーナーへと突っ込んでいく。

 もう、俺の中に迷いはなかった。

 いまこの瞬間、新しい「俺たちの伝説ミッドナイトウルブス」が幕を開ける。


挿絵

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ミッドナイトウルブス 石田 昌行 @ishiyanwrx

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