第四十二話:動き出す刻

 若干のホイールスピンとともに眞琴の愛車が発進する。

 それを確認した翔一郎もまた、余裕を持って「レガシィB4」に鞭を入れた。

 スタートダッシュで遅れを取るのは、彼の戦略においてあらかじめ織り込み済みのことだった。

 ドライバーがミスをした場合ならともかく、車重千四百キロを越える「レガシィ」では、はるかに軽い「CR-X」の先行を奪うことはなかなかに難しい。

 もちろん、パワーとトラクションとにものを言わせ、続く直線でその脇をパスすることは、翔一郎にとって容易いことであっただろう。

 だが彼は、今回その選択をしなかった。

 それはある種の余裕でもあったのだろうが、このバトルにおいて、翔一郎は眞琴の安全をこそ最重要視していたのである。

 あの元気な妹分がどれほど死力を尽くそうとも、自らが敗北を喫することだけはありえない。

 道具、腕、実績──どれをどのように勘案しても、その結論を揺るがす要素は見出せなかったからだ。

 勝敗など、およそ考えるまでもなかった。

 少なくともこの時の彼はそのように確信していたし、それを覆すだけの材料を提示できる者もこの世界に存在するとは思えなかった。

 このバトルにおける翔一郎の戦略は、序盤で眞琴の先行を許し、終盤の区間でこれを追い抜くという流れをもって構築されていた。

 後続との車間がそれなりにあれば、前を行く眞琴も限界以上の無理はしないだろうし、こちらが前に出てからの区間距離が短ければ、彼女が無茶をする時間的・空間的余裕も少なくなる。

 これが逆の立場であれば、先行する翔一郎を強引に追いかけた眞琴のクルマがコースのどこかで事故を起こす可能性は、疑いようもなく跳ね上がることとなるだろう。

 まだ初心者であるにもかかわらず、おそらくは自身のエンペロープ突破を容易に受け入れてしまう眞琴の性質を、翔一郎は嫌というほど知悉ちしつしていた。

 何よりもこの雨がまずい。

 濡れたうえに冷えた路面は、運転手の意に反してタイヤのグリップをいとも簡単に拒絶する。

 その道のプロフェッショナルであっても、雨天時の限界走行を好むドライバーはほとんどいまい。

 実戦走行の経験に富む彼らであってすらがそうなのだから、それが未熟な運転手にとってどれほど危険なものなのかは推して知るべきだった。

 だからこそであった。

 眞琴の身を怪我ひとつなく自宅へ帰すこと。

 翔一郎は、それがこのバトルにおいておのれに課せられた最大の使命であると認識して、先行する「CR-X」のあとを追った。

 緩い右コーナー。

 「CR-X」のブレーキランプが赤く点灯し、その車体は瞬く間に山肌の向こうへと消えていく。

 思い切りのいいコーナリングだ。

 翔一郎は、顔がにやけるのを止められない。

 彼の眼から見れば、まだまだ荷重移動のなっていないクルマの動きでこそあったが、同時にそれは、明らかに磨けば光る素材の良さを感じさせる走りでもあった。

 あるいは素質だけなら自分より上かもしれないな、と、彼は内心で感嘆の声をあげた。

 あの素質を手元に置いて鍛えることができたなら、将来どれほどの輝きを魅せてくれるものか楽しみですらある。

 しかし、それもしょせんは叶わぬ夢だ。

 眞琴を追ってコーナーに飛び込んだ翔一郎は、そう思いなおして独白した。

 自分にとって、たぶんこのバトルが「走り屋」として最後のバトルになるだろう。

 だからといって、眞琴に華を持たせてやる気などはさらさらない。

 ひとたび戦いに臨んだからにはそれに全力を尽くすことこそが相手に対する最良の敬意であると、翔一郎は頑なに信じていた。

 それゆえ、彼は眞琴との関係もこれまでであると覚悟していた。

 おのれはあの娘が想ってくれているような立派な人間でありはしないのだ、と、必死になって自分自身に言い聞かせる。

 自分とのバトルを終えたあと、眞琴が走り屋を続けていくのかどうかはわからない。

 だがもし続けていくのであれば、せめてその記憶に残るような走りを見せてやりたい。

 そう、翔一郎は強く思った。

 それをもって「走り屋」としての自分が生きた証にしたい、と、心の底から願望した。

 願望してやまなかった。

 その時だった。

『あいかわらず、随分と自分勝手なロマンチストだな』

 不意に、誰もいないはずの左側から他人の声が発せられた。

 仰天した翔一郎が、反射的にそちらへ目をやる。

 顔を向けた彼の視界に飛び込んできたもの。

 それは、助手席で不敵に笑う若い男性の横顔だった。

「莫迦な……」

 見覚えのあるそれを目の当たりにした翔一郎は、思わず我が目を疑った。

「おまえ、崇……なのか? これは夢か?」

 衝撃のあまり、それ以上の言葉を彼が口にすることはできなかった。

 それも当然だった。

 その幻のごとく出現した男性は、紛れもなく、いまは亡き翔一郎の親友、長谷部崇そのひとの姿を有していたからである。

 亡霊だと?

 ありえない。

 ありえるはずがない。

 そんな非現実的なことが、本当に起こり得るはずなどない。

 じゃあ、いま俺の目の前にいるこいつは一体全体何者だ?

 いま俺の身に、いったい何が起きているんだ?

 翔一郎は自問する。

 とてつもない混乱が、押し寄せる津波のごとく彼の理性を飲み込んでいく。

 失せ消えた現実感が、確実にねじ曲がっているこの時間と空間との双方を、翔一郎自身に実感することを許さずにいた。

『おいおい、マブダチの面も忘れちまったのかよ。友達甲斐のない奴だな』

 茫然自失する翔一郎の顔を横目で眺め、崇は彼を嘲笑った。

『おまえが化けて出てこいなんていうもんだから、わざわざあっちから出向いてきてやったんだ。感謝のひとつもあって当然だと思うがね』

 わずかに燐光を放つ崇の亡霊が軽口を叩く。

 それは、普段の翔一郎が眞琴に向けているそれとほとんど同じ語り口であった。

『そんなことより』

 腕組みしたまま足の上下を組み直し、おもむろに彼は話題を切り替えた。

 それは、亡霊がとったものとは思えない、あまりに自然な仕草であった。

『もしこのバトルに勝ったなら、おまえ、あのを抱いてやるのか?』

「お、おまえには関係ないだろう」

 問いかけそのものを拒絶するように翔一郎が怒鳴った。

 自分がありえない人物と会話をしているという認識は、不思議なことだがその心中に湧き出てくることはなかった。

 吐き出すように翔一郎は崇に告げた。

「これは、俺と眞琴との問題だ。口出しするな。黙ってろ!」

『阿呆。関係おおありに決まってるだろうが』

 珍しく感情をあらわにする魔術師を諭すかのごとく、崇の亡霊は淡々と語った。

『理恵とのこともそうなんだが、そもそも事の発端は、この俺が間抜けにもくたばったちまったことに始まるからな。残念ながら、責任なしとほっかむりを決めこむわけにはいかんだろうよ。だからこそ、遠慮なく口出しをさせてもらう。

 いいか、ミブロー。このバトルに勝ったあと、おまえは単純に、あのの出した条件を飲まなきゃいい、なんて思ってるのかもしれないが、そいつは随分と浅はかに過ぎるぜ。

 考えても見ろ。惚れた相手からそんな風に自分自身を拒絶されるなんざ、女の子にとっちゃプライド粉砕級の経験だ。

 あの年頃にそんな衝撃受けてみろ。彼女、オンナとして二度と立ち直れんかもしれないぞ。

 おまえ、そうなった時、あのに責任取ってやれんのか?』

「うるさい、黙れ!」

 翔一郎は激高した。

「死人の分際で、いまを生きてる人間に指図するんじゃねえよ!」

『死人の分際で、か。言ってくれるじゃないのよ』

 抗議の言葉をさらりと流し、死人はなおも生者に向けて語ることをやめない。

 彼は尋ねた。

『じゃあ聞くが、その死人の存在を言いわけにして自分から前進しようとしないクズ野郎のことは、一体全体どう表現すればいいんだい?』

「何が言いたい?」

『おまえのことさ。生きてる人間とやらがそんなに素晴らしいんなら、自分自身の言動に責任取ってみせるのが筋ってもんじゃないのか?

 おまえは、間違いなくあのに約束した。

 負けたら戻る、勝ったら抱く。

 そいつは、おまえたちふたりの間に交わされた対等の契約だ。

 だがいまのおまえは、おまえの一存でそいつを覆そうとしている。

 それも、自分可愛さからくる、他人が理解できないしょうもない理由を持ち出してな。

 翔一郎。おまえいつからそんなに偉くなったんだ?』

「黙れ」

『いいや、言わせてもらう。おまえはまた逃げるつもりなのさ。前回と同じく、この俺を出汁に使ってな』

「黙れ」

『何度でも言ってやる。おまえは目の前に現れた責任から目を反らしているだけの卑怯者だ。理恵の時も、そして今回も』

「黙れ」

『いい加減目を覚ませ。てめえが背負い込んだものから逃げ回ってんじゃねえよ。約束どおり。負けたらきっちりと八神街道に戻ってこい。そして勝ったら、あの娘(こ)のことを抱いてやれ。優しくな』

「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ!」

 冷静さを失った魔術師が絶叫する。

「俺みたいなろくでなしと関係持って、あいつが幸せになれるわけないだろうが。そんなことすらわからないのかよ、この鈍感野郎!」

『ああ、わかんねえな』

 口元を歪ませ崇が応えた。

『そう言い切れるおまえの自分勝手な感性こそが理解不能だよ。ひとがどんな道を行くのを幸せと感じるかは、他人が決める問題じゃねえ。その道を行く本人だけが決められる問題だ。それに──』

 少しだけもったいぶって、彼はステアリングを握る翔一郎へと顔を向ける。

 その表情は明らかに笑っていた。

 崇は続けて口を開く。

『そもそも、このバトルに勝てると確信しているおまえのことが滑稽でならねえ』

「どういうことだ!」

 反射的に放たれた疑問符に、にやりと歯を見せ崇は応じた。

 そして告げた。

『自分自身にブレーキかけまくってるへたれ野郎が、いまこの瞬間もアクセル踏みながら前だけ見てる人間相手に勝てる道理なんて、これっぽっちもないからさ』

 このバトル、どう考えてもおまえの負けだ。おとなしく観念するこったな──そう言って、崇は軽く右手を挙げた。

 その手がガラスのように透きとおり、輪郭線を除いて空に溶け込もうとしているのがわかる。

 そうした変化に気付いた崇が、自分の掌をまじまじと眺めた。

 仕方がないなとばかりに笑みを浮かべる。

『どうやらこれまでみたいだ』

 天を仰いで彼は告げた。

 別れの言葉を。

『あばよミブロー。今度こそ本当にさよならだ。理恵によろしく言っといてくれ。俺が悪かった、ともな』

 翔一郎が見ているさなか、長谷部崇の亡霊は、ゆっくりと闇の中へとかき消えていく。

 そして、本来なら自分以外誰もいないはずの車内にその声がそっと染み込むように響くのを、翔一郎は確かに聞いた。

 崇は最後にこう言っていた。

 幸せになれよ。俺の代わりに、と。

「崇……」

 歯を食い縛り、翔一郎は呻いた。

 その直後のことだった。

 いきなり現実世界へと帰還した魔術師の目前に、右のブラインドカーブが出現した。

 見た目は単なる九十度コーナーだが、奥に進むにつれ、より窮屈な曲がり方をする難しい箇所だ。

 咄嗟に我を取り戻した彼は、その場所があらかじめ定めておいた追い抜き区間であることを迅速に察する。

『この勝負、どう考えてもおまえの負けだ』

 亡霊の放ったひと言が、翔一郎の脳裏で鮮やかに蘇った。

 その言葉が、彼の心中に迷いを生んだことは否定できない。

 しかし、魔術師の肉体は練りあげられた経験に基づき、勝利のための活動を機械のような正確さで続行した。

 この右コーナーを抜けた先には、八神街道において最も長い直線区間が存在する。

 翔一郎が勝負を賭けるポイントとして選択していたのは、まさしくその場所にほかならなかった。

 二車間ほど先行する眞琴の「CR-X」が、アウト側から鋭くコーナーへと進入していく。

 教科書どおりのアウト・イン・アウト。

 ブラインドカーブにおけるそのコーナリングは対向車の存在を考慮するならいささかリスキーとも言える手法なのだが、彼女はあえてその危険性を看過した。

 思い切りがいいと言うべきか、それとも怖いもの知らずと言うべきか。

 だが純粋に速さのみを視点としてその走りを評するなら、眞琴のそれは、間違いなく上級段階に置くべきレベルに達していた。

 あなどれない、と翔一郎は素直に思う。

 しかし、眞琴の「CR-X」が見せた予想以上の奮戦も、バトル全体を俯瞰して捉える魔術師の眼からすると、しょせんは誤差の範疇だった。

 翔一郎はコーナー侵入前の直線部分で大きく速度を減衰させると、軽くサイドブレーキを引き、対戦相手を上回る巧みさをもって鋭角的な旋回を決めた。

 アウト・アウト・イン。

 それは、一般的に語られることの多いサーキット仕様のテクニックではなく、もっぱら公道を舞台とするターマックラリーにおいて用いられる技術であった。

 巨大なトルクを十分路面に伝達できる4WD特有の資質を最大限に活かすため、あえて進入速度を犠牲にした急角度なターンインを行う戦術。

 要するに、旋回時における速度の「維持」よりも、立ち上がりに用いる直線距離を長く取ることでより多くの加速時間を確保する、速度の「伸び」を重視したコーナリングテクニックというわけだ。

 それを選択した甲斐あって、狙いどおり翔一郎の「レガシィ」は眞琴の「CR-X」よりもひと呼吸早く加速体勢に推移した。

 アクセルペダルに置いた翔一郎の右足が力強く踏み込まれる。

 「レガシィB4」の心臓部、EJ-20水平対向エンジンが轟然と唸りをあげ、発生した膨大な駆動力を四つのタイヤに伝達した。

 強烈な加速Gによって背中をシートに押し付けられ、勝利を確信した翔一郎がフロントガラス越しに前方を見据える。

 先行していた「CR-X」のテールランプが、瞬く間に眼前へと迫った。

 道幅を目一杯使用する立ち上がりを試みた「CR-X」は、いまだ左側車線において本格的な加速を始めたばかりだ。

 圧倒的な優速を利して、「レガシィB4」がその右サイドへと滑り込む。

 この直線の終わりに待つのは、直角に近い曲線を描く左コーナーだった。

 すなわち、このままの併走状態が維持されれば、眞琴の「CR-X」はアウト側から進入すべき理想的なコーナリングラインを完璧に阻止される形となる。

 そしてそれは、外線を走る翔一郎にとって、追い抜きに出るチャンス以外の何物でもなかった。

 内側のラインへと圧迫された眞琴の「CR-X」が、コーナーをクリアするために必要以上の減速を強いられてしまうからだ。

 あらかじめ思い描いていた必勝の態勢。

 いまそれを手中に収めた翔一郎は、しかしこの時、突如として湧き起こった困惑との戦いに忙殺されていた。

『さようなら、翔一郎。わたし、これであなたのことを忘れるけど、でも、それでも、わたしはあなたを、「壬生翔一郎」を絶対に忘れない。忘れないわ』

 彼の脳裏で理恵が言った。

『あばよミブロー。今度こそ本当にさよならだ。理恵によろしく言っといてくれ。俺が悪かった、ともな。幸せになれよ。俺の代わりに』

 ふたたび現れた崇が言った。

 そして、最後に眞琴が叫んだ。

『違う。違うよ。そんなの違う。絶対に違う! そんなの、「ボクの翔兄ぃ」じゃない!』

「眞琴……」

 まぶたの裏に少女の姿を垣間見た翔一郎は、しばし唇を噛み締め、次いで静かな、そう本当に静かな面持ちでこう呟いた。

「終わりだ。眞琴」

 「レガシィ」が「CR-X」を差し置き前に出る。

 コーナーの入り口は目前だ。

 ステアリングを保持したまま翔一郎は叩き付けるようにブレーキを踏んだ。

 いきおい後輪のグリップが抜け、「レガシィ」のテールがわずかに揺れる。

 だが、クルマがテールスライドを始めるまでには、まだ若干の余裕が残されているはずだった。

 その余裕が許す間に減速そのものを終了し、あとは繊細なブレーキ操作によって前輪の荷重を残しつつターンインを開始すれば、このバトルの勝敗は完全に決する。

 翔一郎は、ブレーキペダルに乗った右足の力を徐々に緩めながら慎重にステアリングを切り込んでいった。

 その瞬間だった。

 前方を凝視する彼の視界に、あってはならない存在が否応なしに飛び込んできたのだ。

 それは、眞琴が運転する「CR-X」の赤い車体だった。

 普通なら翔一郎の左側後方でブレーキを踏んでいなくてはならない「CR-X」は、あろうことかイン側のラインをそのままに、稲妻のごとくその位置へと突入してきたのである。

「突っ込み過ぎだ!」

 減速中の「レガシィ」を左から追い抜いていく「CR-X」に、心底仰天した翔一郎が反射的に絶叫する。

 確かにコーナー進入前のこの位置で対戦相手との併走を強いられた場合、翔一郎はそのコーナリングラインを逆に潰され、ターンインそのものが不可能となる。

 これで眞琴が目前のコーナーをクリアできるのであれば、それは疑いようもなく一発逆転の奇策であるに違いない。

 だが、百戦錬磨の翔一郎にはわかっていた。

 EF型の「CR-X」がいかに軽量で旋回性に富み、その運転手がどれほど卓越した技量を駆使したとしても、クルマの挙動が物理法則を越えることなどありえないのだという冷徹な現実を、である。

 鼻面を塞がれコーナー進入に失敗した翔一郎の「レガシィB4」が、後輪のグリップを失いハーフスピンに陥る。

 かろうじてコース内に留まり停車した愛車の中から、魔術師はコーナーめがけて突き進む眞琴の「CR-X」を青ざめた形相で見詰めていた。

 もう必要な減速を行うだけの空間的余裕は存在していない。

 翔一郎は目をつぶり、祈るように歯を食い縛った。

 駄目だ。間に合わない。

 絶望感が頭の中を支配する。

 直後に起こるであろう大事故の様子を想像し、彼は十余年前におのれが直面したあの忘れがたい光景を連想した。

 それは、ガードレールに突き刺さり大破した、無残な「ハチロク」の姿であった。

 あの事故で、翔一郎は唯一無二といえる親友を永遠に失った。

 そしていま、その思い出したくもない惨劇がふたたび目の前に訪れようとしている。

 ずきんと鈍い痛みが、拳の奥に蘇った。

 胸の奥にしまいこんでいた鉛の箱。

 その封印の鎖が音を立てて弾け飛ぶ。

 吹き出した素の感情が、あっという間に理性のくびきを引きちぎった。

 嫌だ!

 全身が震えるほどの凄まじい怖気。

 それが怒濤のごとく彼を襲う。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ!

 俺はもうなくしたくない。

 俺のせいで、俺のせいでもうをなくしたくないんだ!

「眞琴!」

 翔一郎は叫んだ。

 たとえそれが無力であるとわかっていても、彼は全力でそうせざるを得なかった。

「逝くな。おまえだけは逝くな! もう俺をひとりにしないでくれ!」


 ◆◆◆


 サイドミラーに映るヘッドライト。

 それは、翔一郎の「レガシィ」がこちらの右側に滑り込んできた事実を運転手である眞琴自身にしかと伝えた。

 加速力が違い過ぎる!

 予想を上回る現実に、狼狽する彼女が歯噛みした。

 いかに車体が軽くても、前輪駆動車はコーナリング中のトラクションにおいてハイパワー四駆の敵にならない。

 路面を蹴るタイヤの数が、単純にふたつも違うからだ。

 ましてや、競技用の機械式デフを装備してない眞琴の「CR-X」であれば、それはなおさらのことである。

 眞琴は、おのれが翔一郎の魔術にはまったことを自覚した。

 翔兄ぃは、最初からこれを狙っていたんだ、と、遅まきながらはっきり悟る。

 自身の理想とするコーナリングラインは完全に潰された。

 この雨のなか、次の左コーナーをきちんと回りきるためには、どうやっても翔一郎より早くブレーキを踏まなくてはならない。

 コースの内側に押し込まれたという現実が、その物理的な必然性を強力に訴えてきていた。

 だが、眞琴はそれをためらった。

 このままの速度を維持し続ければ、それがコースアウトに直結することを理解していたにもかかわらず、である。

 彼女は、そうすることが「勝利」の放棄とイコールなのをしっかりと認識していた。

 翔一郎よりも早く減速をすれば「敗北」

 仮にそれを遅らせたとしても、コーナーをクリアできないのであれば、待っているのは「クラッシュ」という結果のみ。

 戦いに勝つという面では、完全に詰んでいる状況が明らかだった。

 負ける?

 ボクは負けるの?

 眞琴はおのれに問いかけた。

 敗北──その苦い果実が自らにいったい何をもたらすのかは、なぜだかまったく気にならなかった。

 彼女の胸中に浮かんだものは、望んで深淵へと沈んでいく想い人の姿だけだった。

 絶望的な無力感が少女を襲う。

 あの夢の中での自身の姿に、いまの自分が重なって映った。

 理恵の言葉が耳の奥に響いたのは、まさにその時だった。

『猿渡さん。わたしの代わりにあのひとを支えてあげて。お願い』

 それは、揺らぎ始めた眞琴の魂に不退転の決意を与えた。

 唇を噛み締め、彼女は決然と腹を据える。

 そうだ。

 開き直って眞琴は思った。

 普通のブレーキングで間に合わないなら、普通でないブレーキングをすればいい。

 クルマが速度を落とす原因は、なにもタイヤの制動力に限られているわけではないのだから。

 決意が肉体に行動を命じるのには、わずかの時間も要しなかった。

 ほぼ真横に占位する翔一郎を横目に認めながら、眞琴はなおもアクセルを踏み続ける。

 ブレーキに頼らない減速の方法はある!

 間違いなく、それはあるのだ!

 とんでもなく危険であるという、いち項目を看過しさえすれば!

 目前に迫るコーナーが、凄まじい恐怖感を眞琴めがけて押し付けてきた。

 心臓が喉から飛び出しそうになる。

 とても冷静でなどいられなかった。

 しかし眞琴は、必死になってその感情を飲み込んだ。

 奥歯を噛み締め、叫び声を寸断する。

 それは、誰が見ても無謀な企てだった。

 我慢比べを放棄して、翔一郎が先にブレーキペダルを踏み締める。

 ターンインに失敗しテールを振りながら後落していく「レガシィB4」

 それに気付きもしないで、彼女はまっすぐ前だけを見据えていた。

 怖い。

 怖いよ。

 でも、怖くない。

 怖くない。

 絶対に怖くないんだ!

 呪文のような呟きを瞬きもせず繰り返しながら眞琴は告げた。

 自分と、そしていま運命をともにしている自らの愛車に。

 ごめんね「CR-X」

 でもお願いだよ。

 守って。

 ボクと、ボクの翔兄ぃの未来──…

 コーナー入り口。

 眞琴は、蹴飛ばすようにブレーキペダルを踏み込むのと同時に、ほんのわずかだけステアリングを左に切った。


 ◆◆◆


 けたたましい破壊音が山中に鳴り響いた。

 かっと翔一郎の眼が見開かれる。

 クラッシュ?

 いや、そうではなかった。

 その時彼が見たものは、予想されたそれとは一線を画す、まったく別の意味で信じられない情景であった。

 確かに眞琴の「CR-X」は、尋常ならざる勢いでガードレールと接触した。

 ただし、前からではない。左からだ。

 サイドミラーが弾け飛び、擦過音が鼓膜を振るわす。

 橙色の火花が、あたり一面に飛び散った。

 しかし、その赤いクルマはなおも健在であり、いまこの瞬間も前進することを諦めてなどいなかった。

 そう。

 あろうことか眞琴は、車速を減衰するために、コーナー内側のガードレールに車体側面を擦り付けたのである。

 それは無謀を通り越し、もはや自殺的だと評すべき選択だった。

 だが同時に、その決断は確かな結果となって報われた。

 常人では考え付かない、そんな無茶苦茶な力業で不可能と思われたコーナリングを果たした眞琴の「CR-X」

 それは、醜くモデファイされたおのれの姿を気に留める様子もなく、軽快なエンジン音を轟かせながら闇夜の向こうへ消えていく。

 勝敗が決した瞬間だった。

 翔一郎は、右側しかランプの点いていない「CR-X」のテールを、それが見えなくなる瞬間まで、ただ呆然と眺めていた。

 何も考えることができない。

 文字どおり頭の中が真っ白だった。

 やがてクルマから降り立った彼は、生々しい傷跡が残るガードレール脇へと歩み寄った。

 足下には、砕け散ったサイドミラーが散乱したガラス片に混じって落ちている。

 おもむろにそれを手に取り、翔一郎はしばらくの間そこに視線を落とし続けた。

「負けた……のか」

 無表情にそう呟いた翔一郎は、改めて「CR-X」の走り去った方向へと目を向けた。

 実感は、いまだに湧かない。

 しかし、目の前で起きた現実を了承することだけはすでに済ませていた。

 彼は、自らの敗北をまったく素直な心で受け入れた。

 そして、その敗因すらも。

 自分敗者眞琴勝者

 今回その明暗を分けたのは、バトルに臨む明確な意識の差であった。

 なんとしてでもこの戦いに勝利を収めたいと欲する、切実な願いの有無だと言い換えてもいい。

 それは、先日自らが芹沢聡に語った内容に準じながら、なおそれを上回る説得力をもって発言者本人を打ちのめした。

 本当に求めるものを手に入れるためなら、用いる手段を選びはしない。

 おのれのすべてをそこに注ぎ込み、いっさいの余裕を持つことさえ許さない。

 もちろん、自らが傷付くことですら喜んで受諾しよう。

 いや、断じてそうしなければならない。

 真剣に。

 そう、心の底から真剣に、だ。

 いま眞琴が見せたその鮮烈な感情は、長年に渡って濁りきっていた彼の眼を、本当の意味で刮目させた。

 奥底に淀み溜まっていた何物かが木っ端微塵に打ち砕かれたのを痛感し、翔一郎は込みあげてくる笑いを抑えようともしなかった。

 負けた。

 負けたよ。

 完敗だ。

 「八神の魔術師」は声をあげ大笑した。

 降りしきる雨の中、全身をしとどに濡らしながら天を仰いで笑い続けた。

 いいだろう、眞琴。

 翔一郎は、いま改めて認識したかけがえのない存在に向け心の中で語りかけた。

 おまえのいうとおりに生きてやろう。

 おまえがそれを望む限り、その願いを叶えてやろう。

 その代わり俺は、おまえが中途半端な生き方をすることも許さないぞ。

 この俺の、壬生翔一郎の道標となること。

 その道をいま、おまえ自身が選んだのだからな。

 眞琴。

 眞琴。

 おまえの勝ちだ。

 誉めてやる。

 ありがとう。

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