第四十一話:必要とされる存在

 ふたたび「CR-X」に乗り込んだ眞琴は、八神街道の頂上付近、すなわち彼女が理恵と言葉を交わしたあの場所に向かって走り出した。

 八神表の下りの場合、そこに隣接する路上こそがスタート地点となるからだ。

 肌に張り付く濡れた衣服が気にならないほどの高揚感に包まれた彼女は、愛車のステアリングを握りながら、助手席上に置いてある古びた一枚のステッカーへとその思いを馳せていた。

 黒色をベースに、黄色で書かれたゴシック体のアルファベットと漫画チックな灰色狼とが配された横長のステッカー。

 さほど大きなサイズではないそれは、あの河合理恵が後生大事に保管してきた、いわば思い出の品であった。

 眞琴が彼女からそのステッカーを受け取ったのは、ふたりが八神街道での話を終えてゆるりと市街地まで降りてきた、ちょうどその時のことであった。

 パーキングエリアでのふたりの会話は、理恵が「ミッドナイトウルブス」という名を口にしたあともしばらくの間続いていた。

 その発言を皮切りとして、眞琴が自分と自分を取り巻く現状についてとうとうと語り出したからである。

 理恵は、ただ黙って教え子たる少女が放つ言葉の流れを聞いていた。

 ときおり真剣味を帯びた相槌は打つものの、自分から進言を送るような真似は、いっさい試みようとしなかった。

 ただ、終わり際になって彼女が、「そっか。猿渡さんは戦友だったんだ」と感慨深げに呟いたことを、眞琴は鮮明におぼえていた。

 両者の間に横たわった鉛のように重々しい空気は、ふたりがクルマに乗り込んだ時点でも消え去ることがなかった。

 理恵の運転する「コペン」が八神街道から市街地に降りてきてもまだ、必要最低限の日本語のみが単発的に双方の間を行き来するだけであった。

 眞琴が理恵の愛車から降りることを望んだのは、大通りに面した住宅地の外れだった。

 理恵はこの時、自宅前までの送迎を申し出たのだが、眞琴自身がやんわりそれを固辞したのである。

 「少し歩きながら考えごとをしたいので」というのが、彼女の告げた理由であった。

 その意向を受け入れた理恵は、クルマの往来の少ないところまで静かに愛車を進めると、歩道に面した路肩の部分に「コペン」を寄せてブレーキを踏んだ。

「ありがとうございます」

 クルマがきちんと停止したおりを見計らい、眞琴は理恵に一礼した。

 杓子定規な言葉であったが、それは紛れもなく彼女の本心からきたものであった。

 いそいそと荷物をまとめた眞琴が、助手席から降りようとして腰を浮かす。

 唐突に理恵がそれを制した。

「待って」

 彼女は言った。

 それは静かだが、どこかに重さを含んだ口振りだった。

「猿渡さん。最後にひとつ、どうしてもあなたに確かめておきたいことがあるのだけれど、いいかしら?」

「なんでしょう?」

 浮きかけた腰をもとに戻し、眞琴は理恵のほうへと顔を向けた。

 彼女が異変に気付いたのは、まさにその瞬間のことだった。

 どこがどうと具体的に言えるわけではない。

 しかし理恵の表情は、明らかにさっきまでの彼女とは異なる色を見せていた。

 少なくとも、そんな風に眞琴は感じた。

 それがいわゆるなのだとわかったのは、彼女がもっともっと経験を積んだ、ずっと未来の話であった。

 理恵は、声のオクターブをひと段階落として眞琴に尋ねた。

「猿渡さんは、本当に翔一郎が好きなの? その気持ちが憧憬あこがれの類じゃないって、わたしの前で断言できる?」

 眞琴は即答をためらった。

 刹那の間、自分の想いが本物であるのかどうかを自分自身に問いかける。

 結果は明白であった。

 「はい」と疑いようのない言葉で眞琴は理恵に答えを返した。

 壬生翔一郎を「好き」か「そうでない」かと問われたなら、彼女にとっての回答は最初からひとつしか存在しない。

 その質問に「いいえ」と答える選択肢を、眞琴は端から持ち合わせてなどいなかったからだ。

 ゆえに、答えを告げる彼女の声には一分の迷いも見られなかった。

「合格」

 眞琴からその返答を受け取った理恵が、にこりと大きく相好を崩した。

 それは、同性である眞琴ですらが思わず惚れ惚れとしてしまいそうな、まさに極めつけとさえ言える素敵な笑顔であった。

 そんな宝物にも近い表情を浮かべたまま、彼女は温いミルクティーを連想させるいつもの調子で眞琴に尋ねた。

「そんな猿渡さんにぜひ受け取ってもらいたいものがあるのだけれど、構わないかな?」

 なんでしょう、と身を乗り出す眞琴に向かって、理恵は、いささか古びた一枚のステッカーを差し出した。

 MidミッドNightナイトWolvesウルブス

 黒一色の表面には、擬人化された狼の姿とともに、黄色くその名が記されてある。

 そのステッカーこそ、かつて伝説とまで謳われた走り屋集団「ミッドナイトウルブス」が、同志の証としてチームメンバーそれぞれへと配布したものに間違いなかった。

 予想もしていなかった代物の出現に、眞琴の眼が驚きのあまり見開かれる。

 思わず彼女は口走った。

「先生、これって──」

「わたしにはもう必要ないものだから、あなたにあげる……ううん、託すわ」

 顔を上げた眞琴の双眸を理恵は優しく覗き込み、そして告げた。

 その瞳がわずかに潤んで見えたのは、あるいは眞琴の錯覚だったのだろうか。

 大事に取ってあった思い出の品に違いないそれを教え子の手に押し付けながら、彼女はゆっくりと噛み締めるように言葉を紡いだ。

「だから猿渡さん。わたしの代わりにあのひとを支えてあげて。お願い」

 そして、「ボクが? 翔兄ぃを支える?」と当惑の色を隠せない眞琴に対し、大きく頷いてみせることでその背を押す。理恵は言った。

「大丈夫。あなたならきっとできるわ。先生、信じてるから」

 ステッカー越しに重なっていた彼女の手が、眞琴のそれからそっと離れた。

「翔兄ぃを……支える?」

 眞琴は、愛車ごとこの場を去って行った養護教諭の発言を、無意識のうちに何度も何度も反芻していた。

 それは彼女にとって、これまで考えたこともない自分自身の立ち位置だった。

 これまでの眞琴は、「壬生翔一郎に必要とされる存在」となることを生涯の目的として過ごしてきた。

 だがそこには、自分自身の積極的な意志が関わっていたのだろうか。

 いやそうではない。

 言われて初めて彼女は気付いた。

 確かに自分は、想い人翔一郎に求められること、それのみを目指しておのれを磨いてきた。

 だがよくよく考えると、それはあまりにも受け身な姿勢だったのではなかろうか。

 もっと積極的に、自分から彼の生き方に関与していくこと。

 理恵が自らに求めたのは要するにそういうことなのだと、眞琴は咄嗟に思い立つ。

 ただしそれは、彼女の中で具体的な感触として育ってまではいなかった。

 もやもやとした濃霧が、目標へ手を伸ばそうとする眞琴の前に、分厚く立ちはだかっていたからである。

 自宅に向かう道すがら、手中に残されたチームステッカーを眺めていた眞琴は、いつの間にか近所にある児童公園の近くにまで達していた。

 公園の中央にそそり立つ、大きな大きなポプラの木。

 子供の頃、よくこの大樹の下で遊んでいたことをやんわりと思い出す。

 当時とほとんど変わらないその存在に得も言われぬ懐かしさを覚えた彼女は、なんとはなしに公園の中へと踏み込んでいった。

 突然強烈なデジャブに襲われたのは、その時だった。

 それは、最近になってたびたび見るようになった不可思議な夢。

 夢の中では、いつもひとりの男性が大樹の幹を自らの拳で殴打していた。

 その背中越しに連続する鈍い音と、おそらくは彼自身が放っているのであろう泣き声とがあたり一面に響き渡る。

 男性の姿は、紛れもなく壬生翔一郎そのひとのものであった。

 たちまち鮮血で赤く染まる彼の拳骨。

 それを察した眞琴は想い人の愚行を止めようとして飛び出すのだが、何者かによっていつもその行為を制されてしまう。

 その場に立ちすくんだまま、彼女は必死に何かを叫ぶ。

 放たれたその声が、決して彼に届かないことを誰よりも知りながら。

「そうか……」

 眞琴はふと立ち止まり、そして呟いた。

「あの夢の現場はここだったんだ……」

 改めてポプラの大樹へと歩み寄る眞琴。

 その硬い幹に指先が触れた瞬間、彼女は自分の中に妙な使命感が湧き起こったことを自覚した。

 眞琴は悟った。

 理恵が言った「翔一郎を支える」こととは、夢の中で自分を制した何者かの手をおのれの意志で振り切ることなのだと。

 あのひとを助けたい、その力になりたいと欲するなら、彼に助力を求められるよりも早くそのもとへと駆け付けることが必要なのだと。

 それはたぶん、河合理恵がかつて熱望しておきながら結局は果たすことのできなかった行為そのものであったのだろう。

 彼女が告げたひと言、「託す」という言葉の意味を心の底で確信した眞琴は、それ以降もう、ひとつも迷うことがなかった。

 少女は、自分自身に言い聞かせる。

 臆病者の自分とは、いまをもって完全に決別する。

 翔兄ぃがどう思おうとも関係ない。

 ボクは、ボクの意思をもってあのひと翔一郎と並び立つ。

 そのことを誰よりも強く希望する。

 だからこそ、いまボクはここにいる。

 あの「八神の魔術師」と戦うために、ボクはいまここにいる。

 ボクの英雄ヒーローの、ボクの大切なひとの、未来に向かう青銅の門をこじ開けるために!

 バトルの発起点に着いた眞琴がようやくのことで我に返ったのは、愛車「CR-X」に搭載されたZCエンジンが猛々しい咆哮を開始した時だった。

 深々と数回、アクセルを空吹かしする。

 軽快に吹けあがるホンダ製DOHCエンジンらしく、それは眞琴のアクセル操作に追従し、機敏な反応をしてみせた。

 暗く人気のない山道に、鋼鉄の獣が放つ唸り声が朗々と轟いていく。

 本来なら対向車線となる「CR-X」の右サイドには、翔一郎の「レガシィB4」がくつわを並べて停まっていた。

 闘争心を最前線に出し切った眞琴のそれと比較して、彼は落ち着き払った態度をわずかも崩してなどいない。

 その大山のごとき揺るぎなさが、じわりと眞琴ににじり寄った。

 それは、彼女が思わず喉を鳴らす理由となるのに十二分な圧力と言ってよかった。

 バトルのスタートまで一分を切った。

 お互いの携帯電話で時間を合わせ、同時に鳴り響くアラームを合図にして発進する。

 それが今回の決まりごととなっていた。

 徐々に心中を浸食してくる緊張感に抵抗すべく、眞琴は両手で頬を叩いた。

 それが気休めに過ぎないことを十二分に認識しつつも、無数にある不安要素をおのれの中で切り捨てていく。

 そもそも、端から無謀な戦いであることはわかりきっているのだ。

 県下にその名を広く知られる走り屋集団「カイザー」のヘッド、あの芹沢聡をもってすら敵うことのなかった伝説の「魔術師」を相手に、毛も生えていない初心者の自分が勝利を掴める道理などこれっぽっちも存在しない。

 しかし、だからといって戦いを挑まないという選択肢は、眞琴の中には皆無であった。

 それは、いわゆる勝ち負けを論ずる以前の問題だ。

 どんな事柄であっても、サイコロを振らずして結果を得ることなどできるはずがない。

 物事に挑戦しないということは、すなわち求めるものを最初から諦めるという決断以外の何物でもないのだ。

 そのあたりまえの現実を、いまの眞琴はほぼ完全に理解していた。

 それはある意味、彼女にとっての僥倖とさえ評してよかった。

 諦めない、諦めないぞ。

 呪文のように何度も何度もその言葉を繰り返す眞琴がその時脳裏に思い浮かべていたのは、三澤倫子から告げられたたったひとつのアドバイスであった。

『そんな時はね、チューニングしちゃうのよ』

 眞琴は、その短い台詞に込められた意味を完全にわきまえていた。

 それは、相手を「否定」することもまた、相手を「受け入れる」行為のひとつなのだということである。

 納得のいかない部分を「納得がいかない」と素直に受け入れ、それを自分で「納得のいく」方向へと軌道修正する。

 気に食わない部分があることを理由にしてそれ以外のすべてをまるごと全部捨て去ったり、その部分だけを見詰めていつまでもうじうじ悔やんだりすることと比較して、その行動理念はなんと前向きで逞しいものなのであろうか。

 敬愛する倫子から直々にその言葉を賜った眞琴は、自身のなすべき行動をおのれの中ではっきりと定めた。

 翔一郎を否定すること。

 彼の持つ駄目な部分を駄目な部分だときっちりと理解し、そのうえで全身全霊をもってその部分を否定すること。

 それこそが、自分で決めた「彼を支える」行為なのだと彼女は信じた。

 信じ込んだ。

 発進までのタイムリミットが迫る。

 ぐっと身体を強張らせ、眞琴はその瞬間を待ち受けた。

 自らの想い人。

 その眼前に設けられた難攻不落の巨大な扉。

 おのれが進むべき道程を阻むその障害を諦観とともに眺め続ける彼になり代わって、いま自分こそがその扉を押し開けてみせる。

 立ち塞がる扉を前に立ち止まり呆然とその場に座り込むことをよしとする彼の姿勢を、自分こそが完全否定してみせる。

 そして、無理矢理にでも彼の手を引き進むのだ。

 ただひたすら前に。

 そう。

 前に、

 前に、

 前に、

 前に、

 前に!

 けたたましく携帯電話のアラームが鳴る。

 バトルの開始だ。

「行っけぇー!」

 ひと声叫んで、眞琴はアクセルペダルを踏み込んだ。

 思い切りよく、叩き付けるようにしてクラッチを繋ぐ。

 わずかに空転しながらも次の瞬間にはアスファルト表面に食い付いた前輪が、「CR-X」の軽量ボディを放たれた砲弾のごとく飛び出させた。

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