#036 サライ旅館、ずっと遠い命令を
#星歴682年 10月 17日 午後9時25分
ユーフリア北部地方ファレム特別区アルティナ市(第5時空転移門ファレスティカ門跡)
オアシス湖に架かる古い桟橋の上、風の中でユカと抱き合っていた。
すると、桟橋を踏んで歩む足音が背中でした。
振り返ると、エプロンスカート姿の
「
そう鈴の音の如くに言うとぺこりとお辞儀した。腰を折る仕草も流麗で、私はユカを抱いたまま、ぽうとしてしまった。
この凄く
廃墟になったアルティナ市にこんなお洒落なサライ旅館があるなんて。
吹き抜けの天井から、橙色の暖かなランプがたくさん吊るされていた。お洒落なエントランスホール、その片隅にあるテーブル席に案内された。
いまは、冬の寒さで客足が途絶えているけど、隊商が訪れる夏場には、このテーブル席はチェックイン待ちのお客様でごった返すらしい。
不思議に思って尋ねたら、鈴蘭さんはこのサライ旅館のこと、凄くうれしそうに話してくれた。
「ここは寂れてしまったアルティナ市の中に残された唯一の、ぬくもりの場所です」
柔らかい声が微笑む。
「寒かったでしょう、それに随分とお疲れのご様子……温まってください」
私とユカ、二人分の紅茶が差し出された。たっぷりクリームが乗った紅茶のカップからは、柚子の香りがした。コーヒーじゃなくって、紅茶なのは不思議な感じがした。
「
ありがたいのだけど、私、あんまりのんびりしていられない。
さっき、ガストーリュの
思いを巡らせていたら、ころんと音がして、ティーカップの隣にスコーンが添えられた。たっぷりチョコレートのチップが散りばめられていて、サクサクしていて、甘い匂いがした。
どうしようかと、ちらっと、ユカを見遣ると、栗色の髪が微かにうなずいた。
「一応のご説明をしてご協力を要請しております」
ユカが、コンコンと咳こんだ。夜風の中で私を待っていたから、喉を冷やしたらしい。
「ユカ、風邪ひいたの? 大丈夫?」
「あ、すみません……ちょっと、咳が出ちゃって……」
咳を堪えながらユカがティーカップに口を付けた。おいしそうにクリーム乗せ紅茶を飲んだ。
「あ、凄く、美味しいです。ありがとうございま……」
ティーカップをお皿に戻したユカが、傍らに控えていた鈴蘭さんに微笑んだ直後、糸が切れた操り人形みたいに、ふらっと倒れた。
「ゆ、ユカ……っ!?」
ふいに気を失ったユカを慌てて、抱き留めた。するりと鈴蘭さんのエプロンスカートが歩み寄った。
「ご心配なく、ユカさんは大変にお疲れですからお休み頂きました」
えっ? このやわらかい口調で紡がれた言葉が意味するところに気づいて、振り返った。
鈴蘭さんは、ぬいぐるみの如くぐったりしているユカを、私の腕から抱きあげて、エントランスホールの片隅にあるソファーに運んだ。きっちり閉じていた襟元を緩めて、毛布を掛けた。手慣れているせいか、不安な感じはしない。
だけど……
「ユカに、なにをしたの? それに……」
ユカが口にしたものと同じ飲み物が私にも出されていた。鈴蘭さんの雰囲気はまあるくて柔らかい。頑張って意識して睨まないと、にっこり笑顔に呑まれそうになる。
「ご心配には及びません。緊張を解して入眠を助けるお薬ですから」
「やっぱり薬を? 作戦行動中の
それに、騙されたユカのことを嘲笑った――そう、感じた。
「それは誤解ですわ。だって、ユカさんは嘘を見抜ける聡明な方です。ですが、存在しない嘘や悪意を見つけることは無理ですから」
「どういうこと?」
「わたくし、嘘や悪意は持ち合わせていませんもの」
くすりと鈴蘭さんの笑顔が嬉しそうに笑う。
「存在しない嘘や悪意の幻が見えるほど愚か者では――ユカさんはありません。そうでしょ? だから、お出しした〈薬湯〉を飲んで下さったのです」
「そんな理屈なんて……っ!」
ユカが突然に倒れたショックで声が荒くなった。でも、言葉にした直後、あれ? と疑問符が私の脳裏に浮かび上がった。
魔法の
すごく微弱で風の音に紛れてしまうどころか、ランプの炎が揺れる微かな音にさえも隠れてしまうくらいに小さな音色だった。
「あら、あら……あら……もしかして、聞こえますか?」
鈴蘭さんが驚いたような呆れたような顔をした。私は、その笑顔を無視して、サライ旅館の中、この広くてお洒落なエントランスホールの隅々に意識を飛ばした。
すぐ近くに複雑に絡み合った旋律を奏でる
ぐるりと目と耳と意識で、ガラスの天窓にたくさんのランプを吊るした空間を探し回った。籐編みの衝立の陰に、ガラス張りの食器棚に飾られたグラスたちの後ろに、果物の籠盛りの隙間に…… そして、やっと、気づいたの。
「鈴蘭さん……!」
音色の源に気づいて鈴蘭さんのエプロンドレスを見詰めた。
鈴蘭さんが、ぐっすり眠るユカの髪を撫でてから、小さな嘆息の後に立ちあがった。すっと、魔法の音色の源、自らの胸元へ右手を当てた。
「さすが、
ゆっくりと腰を折った。
鈴蘭さんの胸元には、心臓の代わりに、恐ろしく高性能な
私の魔法に対する感覚は、もう答えを出していた。でも、常識的にその答えが信じられなかった。
――鈴蘭さんも、
甘く柔らかい微笑みが嬉しそうに、うなずいた。
「さすがは
いま改めて気づいたけど、鈴蘭さんはこのサライ旅館をひとりで守り続けているの。聖霊はもちろん、人間だって、広い旅館を……お掃除も、ベッドメイキングも、食事やお風呂の用意……色々なこと全部をたったひとりでするなんて、絶対できない。
でも、圧倒的な魔法力を秘めた
ため息をついた。
目の前に常識では考えられないほど高度な
それに――
「
鈴蘭さんが言うには、サライ旅館を冬季閉店にして冬ごもりの準備をしていた。寒くなり隊商すら訪れなくなり、すっかり客足の途絶えた旅館のエントランスホールで、こんな感じにうたた寝していたら、夢の中に
「ご指示はみっつです。ひとつめは、
鈴蘭さんはもう瞳を潤ませていた。
「もうすぐ会いに行くから、また、抱っこしよう――以上をご下命頂きました」
もう心の中、〈鳥籠〉の中で
半分、私は呆れかえっていた。
こんな恐ろしいほどの
「交代します。あとは、
途端、
この世界の片隅で、ぬくもりの場所を守りなさい。
六百年前に与えられた命令を、
もっと早く気づけた。ヒントはあったの。
〈鳥籠〉の中を飾る籐編みの調度品は、このサライ旅館にあるものと同じだった。つまり〈鳥籠〉にある籐編みの椅子も、洗濯籠も、衝立も……全部、鈴蘭さんが作って
天空海戦物語 魔法機環と少女と 天菜真祭 @maturi
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