Ω:血と精液に塗れたラヴ&ピースをあなたに

 高良清彦は日本国陸上自衛隊に所属する自衛隊員のひとりでした。受験勉強に明け暮れた高校三年の冬、そして大学を卒業してからというものの、特に目的もなく、普通の恋人が居て、普通の人生……そう形容するのがぴったりだと、彼は思っていました。彼が自衛隊に入ったのは、一枚の写真が切っ掛けでした。当時の9・11テロ、それからイラク戦争……戦場カメラマンの捉えた破壊された街の写真を見て、彼なりに、漠然と、世界に対して出来ることはないだろうか。そんなふうに思い(あるいはとても軽い気持ちで)行動していました。

 ゴラン高原の国際連合兵力引き離し監視軍UNDOFとしてこの地に派遣されてからも、部隊の皆や現地の人たちと、なんとなく(結局、社会も軍隊も、彼らの慣れ親しんだ学校という組織の形態に、とても近しいものでしたから)うまくやっていると思っていました。物資輸送用のトラックを運転しながら、同期の道地拓磨三曹が、キャビン・マイルドの煙を吐いて言いました。

「ここも、だんだんキナ臭くなってきたな」

そうですか? と清彦は言いました。フロンティアという名前の煙草を吸いながら、窓の外を見やると、そこはいちめんのなのはな、それに銀世界。雪かきも任務の一つでした。

「さっきも、ダマスクスの方から攻撃があったらしい。黒装束の連中さ。みんな気が立ってる」

「あ」

なんだ、と三曹が訊きました。清彦は、煙草、なくなっちゃいました。と言いました。三曹は黙って煙草を一箱分けてくれました。それは豪華な缶に入った平和ピースという名前の煙草でした。

「こんなの持ってたんですか? キャビン派でしょう」

「新製品だってから試してみたけど、甘ったるくて、吸えたもんじゃねぇ。だから、お前にやるよ」

はぁ、ありがとうございます。と高良は言いました。三曹は顔を歪めて言いました。

「高良、お前、敬語は止せよ。同期だろ?」

「はぁ、すいません。何分、年下なもんで、つい」

フロンティアが終わり、続けて清彦はピースに火を点けました。それはバニラの風味がして――なんだこれ、甘すぎる。と呟きました。だから言ったろうが……高かったんだぜ、それ? と三曹が笑って言いました。

 彼ら隊員はこの地のピースキーパーと呼ばれていました。


 * * * * * *


 放棄された街クネイトラは、破壊の痕跡を残したまま黙っていました。観光客がときどき見えて、無人地帯に阻まれたドゥルーズ派の家族が拡声器を通して話しており、今日は金曜日か、と思いました。無人地帯は鉄条網や埋められた地雷とで通行は不可能でした。

「これが、平和ってことなのかねぇ」

 ぼんやりと三曹が言いました。はぁ、と高良は生返事をしました。

「――あ、やべ」

三曹がトラックを止めて、どうしたんすか、と高良が訊きました。

「しょんべん漏れる。今どっかでしてくる、ちょい待ってろ」

はぁ、と高良は気の抜けた返事をしました。三曹がトラックを降りて、高良は平和という名前の煙草を吹かしていました。

(……マッチ擦るつかの間海に霧深し 身捨つる程の祖国はありや)

寺山の短歌を頭の中で反芻しながら、中学の同級生が福島原発の除染作業をしている事を思い出しました。――あいつ、今でも元気にしてるかな。成人式で会った以来、顔も見ていないけど。

(――三曹、小便、長いな)

 するとトラックの荷台で、ガタン、という音がしたように思いました。清彦は振り返って幌の中を覗き込みましたが、風か、ネズミかと思って気にしませんでした。それでもしばらくすると話し声がするので、清彦はライトを持って荷台をもう一度見やりました。

 そこには浅黒い肌の少女が隠れていました。

 二人は目が合いました。

 光線の眩しさに少女は目を細めました。

「どうかしたのか?」

三曹が突然話しかけてきて、清彦はびっくりするのも忘れて、

「いえ、別に」

と取り繕いました。それから再びこっそりと荷台を見やると、少女は姿を消していました。再びトラックのタイヤは転がり始めましたが、清彦は気が気じゃありませんでした。

「イスラエル側に入るぞ」

あっ、はい、そうですね。と清彦は言いました。だから、敬語は止せっての、と三曹が言いました。国境の通行用ゲートが開きました。

 側から、側へ。その境界線フロンティア

 通行許可証を見せて、イスラエル兵が荷物を検品しました。後部からライトを照らして。清彦は自分のためなのか分かりませんが、とにかく不安な気持ちでいっぱいになりました。それは良い事なのか、悪い事なのか。クビになるかな。それともあの子は見つかったら、どうなるか。殺されてしまうんだろうか。難民なのかな。ああ、それにしても、どうして僕のトラックに。何の取り柄もない僕に。こんな荷を積み上げるんだろ。

「問題ないようだな。行っていいぞ」

 イスラエル兵は注意深く荷物を点検していましたが、彼らにはどこにも少女の姿は見えなかったようでした。トラックは再びブロロロ、と呑気な車輪を転がしました。三曹が言いました。

「……お前、冷や汗すげぇけど、どうした? 具合でも悪いのか?」

「あっいや、別に……煙草が、重かったのかな……」

はは、お前ふだん一ミリだもんな、と三曹が言いました。後ろでゲートが閉まりました。

 陽は天高く昇って空から彼らを見おろしていました。


 * * * * * *


 雪かきもひと段落して、清彦は水筒から冬の空気に冷えた水をひとくち飲みました。きっと夢か幻だったんだ。煙草に幻覚作用はないけれど。でもあの子がテロリストだったり、少なくとも僕には、悪人には見えなかった。そう信じる事にしました。僕は悪くない。

 だけど馬の蹄の音が響いてきて、振り返ると、あっ、と清彦は水筒を落としました。その葦毛の馬を駆るのは、あの浅黒い肌の少女だったからです。向こうもこちらに気付いたようでした。

 少女の後ろには髭面の男が乗っていました。アジア人の顔をして、青い作務衣に、赤茶けたメキシカン・ポンチョを羽織って。清彦はその男になんとなく見覚えがありました。

 やがて馬が近付いてきて、その二人は降りて清彦に会釈しました。清彦もなんとなく会釈し返しました。

「あなたは……日本人……?」

少女は日本語でそう言って、それきり黙りました。清彦は、ええ、まぁ、はい……とだけ答えました。男のほうは、お前、日本語話せたの? と訊きました。彼は首から壊れたカメラを吊り下げてました。それで清彦は「あっ」と叫び声を上げました。

「あ……あんたっ。春野陽一、だろ? 十年くらい前に、中東で行方不明になったカメラマン。ニュースで見たんだ。おれ、あんたの戦場写真を見て、その、自衛隊に入ったんだ」

お、と陽一と呼ばれた男はニヤリと笑って、

「嬉しいね。俺の事を知ってる人に、初めて会ったよ」

と答えました。清彦は慌てて、

「いや、いや。こんなところで何してるんですか。大使館に行くなり、なんなりして。みんな、あんたのこと、死んだと思ってる」

「あー……まぁ、そうなのかもな。でも、おれ今、やんなきゃなんねぇことがあるからさ」

そういってヨーイチは、少女を指しました。それから、こいつ、どうしても海に行きたいって言うんだ。見た事がない、っていうからさ。と言いました。

「……海を……」

そう。で俺は、その写真を撮るわけ。その為に、ずっとここまでやってきたんだ。と言いました。少女も頷きました。

少女は、清彦に一歩踏み出して、彼を見上げて言いました。胸の琥珀の首飾りが太陽のように煌めきました。

「ありがとう。さっきは、見逃してくれて」

「…………」

清彦は黙っていました。少女はゆっくりと右腿のホルスターから、一挺の回転式拳銃を取り出しました。それは銀色に鈍く輝いて、5・5インチの銃身にはおよそ9ミリの小さな銃口が空いており、黒のグリップには大きく羽根を広げた鳥の意匠がされていて――清彦はそれを孔雀だと思いました。少女は銃のお尻の装弾ゲートを開け、義手の左手で半月型のイジェクター・ロッドを動かし、一発いっぱつ、装填された弾薬を排莢していきました。

 それから少女は、片手で器用に空になった拳銃のグリップを彼に向け差し出し、そして言いました。

「これを、あなたに、託します」

それは『平和製造機ピースメイカー』でした。彼女にもう銃は要りませんでした。すっかり非武装アンアームドになった少女は、少しだけ戸惑うように微笑んでいるように見えました。

 清彦は拳銃を受け取ると、代わりに、これを……と言って、平和ピースという名前の煙草を少女に渡しました。それも結局、彼の口には合いませんでしたから。少女がそれを鼻に近付けると、甘いバニラの匂いが漂ってきました。

 二人は頷いて、少女と男は馬に乗って去っていきました。陽も傾きだした西の地平線に向かって。清彦はいつまでも二人の背を見送っていました。

「……おとぎ話の、登場人物みたいだ」

清彦はそんなふうに呟いていました。やがて遠くから三曹が彼を呼ぶ声がして、清彦は再び現実に戻ってゆきました。


 * * * * * *


 二人は同じ葦毛の馬に乗って、地雷原の脇を通っていました。そこには菜の花が咲き誇っていて、やがて波の音も風に乗って響いてきました。東の空からはカマルが覗いていました。

「お前と……はじめて、会ったのは……地雷原だったな……」

アノニマがそう呟きました。ヨーイチは、遠くに水平線を眺めながら、ああ、とだけ答えました。アノニマも静かに馬を駆らせるのみでした。ルイ・アラゴンの詩をひとり呟きながら……


 ひとは何をも所有できない

 その強さも、弱さも、そして心も

 両腕を広げ迎え入れても

 その影は十字架に似て

 幸せを掴もうとしても

 握り潰してしまう

 人生とは奇妙で痛みを伴う

 幸せな愛はない


 その人生、無力な兵隊に似て

 誰が為にか軍服を着せられ

 何の為にか朝日に目覚め

 夕刻には無益に武装解除される

 (これが私の人生ですか?)

 この言葉を呟き 涙をこらえるのだ

 幸せな愛はないと


 美しき愛よ、いとしき愛よ、そして我が痛みよ

 傷付いた小鳥のように君をいだき連れてゆこう

 奴らはそんな事にも気付かず ただ野次馬のように

 私の紡いだこの言葉を 続けて反響こだまさせるも

 君の大きく無垢な瞳に 人々は死に絶える

 幸せな愛はないと


 生きるとは何か学んだときには もう遅すぎて

 夜中 我らの心は泣き声を斉唱ユニゾン

 身の震えフリソンを抑えるのに どれだけ後悔し

 たかがシャンソンを紡ぐのに どれだけの不幸が要り

 ギターの旋律の為に どれだけ啜り泣けばいいのか

 幸せな愛はない


 痛みのない愛はない

 傷付けられない愛はない

 罪に問われない愛はない

 祖国への愛もまた同じなのだ

 涙なくして愛はない


 幸せな愛はない

 それは僕ら二人の愛のことだ


「――うみだ」

ガリラヤ海はもう目前に、そして静かに波打っており、ヨルダン川に流れていました。二人が心に描いた最果ての景色。夕陽は海に沈もうとするところでした。

 二人は貝殻でできた砂浜に降りると、アノニマは葦毛の、名前のない馬の馬具を外してやりました。

「……お前も、もう、好きな所に行け」

彼を撫ぜながら、馬も少しだけ淋しそうにして、だけどいずれ彼も走り去ってゆきました。アノニマは彼を見やりながら言いました。

「さぁ、いけ! ……野垂れ死ぬな……臆病な、蒼褪めた馬……」


 * * * * * *


 腕を失くした非武装の少女はしばらく佇んで、海に向けて歩みました。ガリラヤの水は澄んで冷たくて、少しよろけましたが、彼がそれを支えてくれました。

「準備、できたぜ」

三脚にセットされたデジタルカメラの後ろに立って、ヨーイチは笑って言いました。少女は夕陽に背を向けて、東の空を見上げると、カマルが、彼女を見守るようにぽっかりと浮かんでいるのでした。

「ヨーイチ」

「ん?」

「ありがとう」

 アノニマはさみしく笑いながら、カメラに向かって弱々しいピースサインをしました。ヨーイチは、そのシャッターを切りました。

 海の底は泥で出来ていて、それを踏むと淀みが生まれて、清らかな水が濁り曇っていくのが分かりました。

……西の境界に沈む夕日、東からは夜が迫ってきている……

 離散した、アウラを失った、複製技術時代の――デジタルカメラのシャッターを、ヨーイチはふたたび切りました。


 少女は冷たい海の水の中に、身を委ねていました。

「ヨーイチ」

「ん?」

「――ありがとう」

少女はさみしく笑っていました。それは彼女がもう、そこから動けない、という事を知ったからでした。

 波は静かに冷たく少女の脚にぶつかって、波紋を作り、もとに戻ってゆきました。言葉の絶えた世界で、少女の涙は頬をつたって、海に落ちて小さく波紋を作り、そしてやがて、消えてゆきました。

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武装少女とステップ気候 名無し @Doe774

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