9.海を知らぬ少女の前に麦藁帽の我は
ステップ気候は雨季でした。空から落ちる雨粒は急速に冷却されて、結晶となり、柔らかな太陽の光を乱反射させて雪になりました。
色を失くした世界で、少女は煙の昇る拳銃を構えていました。
アノニマと呼ばれた少女は、瞳孔がきゅうう、とピントを合わせるのが分かって、倒れた男を見やりました。それはヨーイチ・ハルノ=ホセアと呼んでいた男の肉体でした。そしてそれはぴくりとも動かず、仰向けになって、間違いなく心臓を貫いた銃弾の風穴の開いた、赤茶けたメキシカン・ポンチョを、吹雪にいたずらに揺らしているのでした。
少女は銃口を外しました。黒色火薬でも無いのに煙が風になびいて消えました。火薬は燃焼し高い温度を持ち、水分は湯気となって、白いけむりと立ち現われてそして霧散するのでした。
それが彼女には信じられませんでした。彼を撃ってしまったという事実、そして彼が再び起き上がることはないのだという事実。だけど右腕は回転式拳銃『
過去とは原理的に言って現在の瞬間の積み重ねであり、それが連続する事でアニメーションして時間は流れているように思える。写真は切り取られた今の瞬間であり、ゆえに、未来は白紙であり、現在を規定する事で過去と未来が生まれる。だからこそ彼女は思いました。取り返しの付かない事をした。いいえ。私は取り返しの付かない事を、し続けてきた。そうして今も全く同じように。
風に煽られて、現像された写真が何枚か、ひらひらと蝶のようにはためきました。それはその男の人生の軌跡でもありました。彼はまっちろな雪の上に大の字になって、両手を広げており、その口元にはそれまでの彼の人生と全く同じように、ニヤニヤした笑みが、寒さに凍りついているのでした。
* * * * * *
外国の若い青年たちが、冬の寒空の下で集っていました。まっちろな砂漠に暗い影を落としつつ、それらは新自由主義のもたらした、自己責任による、自殺行為ともテロリズムとも呼べる、すなわち義勇兵でした。その中でイギリス訛りの男が言いました。
「いいかぁ、情報によれば、奴はこの近辺に潜んでいる。黒髪の、浅黒い肌をした、ヤズディ教徒の餓鬼だ。奴で無くとも構わん! 異教徒どもを、テッテ的に狩り出すぞ!」
曇り空の夜の空を、一本の火矢がゆったりと軌跡を描いて飛んできました。それは鏑矢として、また曳光弾として、集団に対する宣戦布告として、音を割いて弾薬箱に的中しました。
「――敵だ!」
葦の矢は音もなく、火矢の軌道をなぞるようにして、矢継ぎ早に放たれました。その
実戦経験の浅い、リクルートされた新兵たちは、簡単にパニックに陥りました。ほうぼうに銃弾を乱射して、それが当たって味方を殺しました。向こうからも回転数の速い三〇口径シュパーギン短機関銃の散発的な連射があって、部隊長は、取り乱した新兵をスターリング短機関銃で射殺すると、銃を掲げて叫びました。
「慌てるな! 奴は独りだ。我らは複数。何も畏れをなすことはない!
アッラーフ・アクバル! と一斉に唱えだして、その場は統率されました。人々はそうやって
* * * * * *
白髪の山はしん、と静まり返っていました。かつてエデンの園とも呼ばれたその森はほんのり白く雪化粧して、白ウサギは、砲火に驚いたように穴倉に隠れました。
じゃり、と音をしてブーツが凍った土を踏みました。まだ近くに潜んでいるはずだ。と呟くと部隊は散開して、じっとりと辺りを捜索しはじめました。
彼ら、すなわち先進国の若者にとって、過去とは後悔の集積であり、持ち得なかった青春の残滓、未来は過去と同義であり、それは、過去の悔やみを如何に改変してゆくか、解釈し直し脱構築するか、にかかっているのみであるからです。
足跡を見つけました。それは途中から馬の蹄の跡になって、部隊はそれを導にして少女を追走しました。血気盛んに盲目的に、自分の人生を取り戻すために。だから仕掛けられたワイヤートラップとその先の地雷とに気付きませんでした。
(願っている事、信じている事、考えている事、すなわち個人幻想――は、実現しない。何故なら物語の言葉とは常に肉体の軌跡であり過去形で表わされるだけだから)
言葉は狭く薄暗い頭蓋骨の内部で
小さな母親がトヨタに轢かれて動かない肉にされたあと、アノニマは振り返りながら『バラライカ』の七十一発を奏でました。車はフロントガラスを割られ銃弾はタイヤを貫いて、木にぶつかって横転しました。何人かがトラックから降りてウジ短機関銃を撃ちました。弾丸は通り抜けるのか当たらないのか、明後日の方向に飛び去って未来の可能性を殺しました。赤ん坊は泣きませんでした。砂漠地帯の水は貴重であり、泣いたって誰も助けてくれないのは、明らかだったからです。ハルピュイアが空からクスクス笑っていました。
狼の軍団が、死体の匂いを嗅ぎ付けて集まりました。それはしばらくアノニマと対峙しましたが、やがて和解したように――彼女の匂いの為でしょうか――彼女を横切って、背後から迫る黒装束たちを追いました。それらは本当に存在していたのか、それとも彼女を
アノニマは夢を見ているのだと思いました。彼女の神経系は毒に犯され、現実の何もかもが曖昧で、幻覚が入り混じり、実際、自分を追ってきている集団の事も、自分がいま手にしている小銃を拾った経緯すらも、よく覚えていませんでした。彼女の記憶は、認識は、幻想は、磨り減ったカセットテープを再生しては上書きし続けるみたいに、修復不可能に壊れていました。
それでも私は海を見に行くんだ。と、アノニマは頭のなかで嘯いてみました。昔、まだ幼かった頃、お姉さんの
「
そうして眼を開きました。お姉さんを探しに、村中あちこち駆け巡りました。でもお姉さんは見つかりませんでした。もうどこにも居ませんでした。彼女は死んでしまったのですから。
(お姉ちゃんは お母さんが嫌いだったんだって
なんだかとっても 怖い思いをしたみたい
良妻賢母になる為の
剃刀で 子供の部分を切り落すんだってさ
そうしないと 女は穢れたままなんだ、って……)
空は透き通って青くて自分の手には存在しない機関銃。その銃声だけが響いて振動となって残りやがて霧散しました。銃は言葉の次元には存在しておらず物理的に破壊するしか能がないのでした。我々はその単純な答えに気付くまでに、あまりにも人を殺し過ぎた。
(お前が信じているお前の悲劇の物語も、ただの妄想に過ぎないとしたら? お前が思い出せる限りの自分の思い出も――知らないうちに改変されたものであったとしたら? でもそれらを可能な限り全て否定してみると、自分は確かに空っぽなのでした)
アノニマは言葉に詰まりました。それは、クルドの言葉が既に自分の中からほとんど失われ、あらゆる外国の言葉が彼女を支配し、――長く外国に居過ぎたからだ。と彼女は思いました。ヤズィードの教えはその意味で合っており、外の人間と長く接触しすぎると、自分たちの領分が失われていく、という点があるものです。アノニマは、自分が外部から
(ねぇ、ゾーイ。君は僕と違って、愛を信じることが出来るかい? 僕は出来なかった。愛された事なんて、なかったから。利用ばかり、されてきたから。――ねぇ、どうして他人は他人を愛する事が出来るのかな? 僕たちにも、それは出来るんだろうか? 出来たんだろうか?)
子宮内膜が剥がれ落ちる痛みを覚えました。失くした左手の薬指も痛みました。受精卵は愛の結晶であり月経は、生まれなかった子供たちの怨みのものであり、わたしは、無為に、空っぽに生きている。
そして。たとえ、そうであろうと、血と痛みだけは本物でした。右腕の内側に包帯で隠された自傷痕と経血、それから幻肢痛。あらゆる欲望を抑え込む為の自らとの
気付けば、追手を振り切っていました。葦毛の蒼褪めた馬も、ヒィヒィ息を荒くしました。アノニマは失くした冷たい左手で馬を撫ぜてやりました。名前の無い馬は、ちっとも嬉しくないようでした。
間抜けなロバの足音が近付いてきました。――アノニマ。彼女をそう呼ぶ、懐かしい声はありませんでした。
「――来るな!」
そう叫びました。数多の雪の結晶は、黙って二人の間を通り抜け、地面に落ちてゆきました。降り積もった雪は地面を覆い隠して、しばらく溶ける気配はありませんでした。
* * * * * *
ニガヨモギという名前の星が落ちて、アノニマは
「なんで、毒を?」
流れ星に祈りを捧げていた小さな母親が、向き直って尋ねました。夜の雪はしん、と青白く黙っていてアノニマは答えました。
「敵が追ってきている。しばらく奴らを引き付けてもおきたいが、一人ではとても敵わない数だ。だから、ここで足止めをする」
「雪だってこんなに降ってるのに」
「雪を融かすにも、薪が要るだろ? そうしたら、同じ事だ」
ふうん、と小さな母親は、死んだように眠っている赤ん坊を背負いながら、それから続けました。
「とっても頭がいいのね。かんしんしちゃうわ」
村は炎で焼かれ生き残りは彼女とその兄だけでした。その兄というのもほとんど顔を焼かれ、虫の息で、二人の足下でゼェゼェ言っていたのですが。アノニマは『不在』という名の酒瓶を小さな母親に差し出して、「飲むか?」と尋ねましたが、小さな母親は「お乳をやらなくちゃいけないから」などと言いたげに、首を横に振りました。アノニマは地面に寝転がる兄を一瞥すると、言いました。
「今夜は月蝕だな」
「そうね」
夕方の頃、欠けた月が空から覗いていました。雪から生えるイトスギは今では村人の墓標となって、暗闇の中に佇んでいました。
「西から来たのよ、あの飛行機。見上げていたから、よく見えたの」
「そうだったか」
「なんで、うちだけ狙って落としていったんだろう」
「向こうにも何か都合があったんだろう」
「そんなものなのかな。私たちにだって、つごうがあるのに」
そんなものだ、戦争なんて。とアノニマは答えました。背負う子供をあやすようにしながら、小さな母親がぽつりと言いました。
「私って、穢れてるのかな」
「どうして、そう思う」
「だって、みんなそう言ってたんだもの」
「
「子供相手に、ずいぶん、むずかしい事いうのね」
「私だって子供さ。みんな、そうなんだ」
そうね、と言って、小さな母親は赤ん坊の父親である兄を見おろしました。アノニマは、回転式拳銃を抜くと、グリップを彼女に向けて言いました。
「こいつを殺せば、お前も自由だ」
「そうかしら。むしろ囚われ続けるだけだと思うけど」
どうせいつか死ぬわ。それは、ありのままで。全ては神の思し召し。と、少女は言って、裸足で、雪の道を歩いてゆきやがて消えてゆきました。お月さまだけが見ていました。
それからアノニマは、アポロが自分に人を殺させたのと同じ事を、彼女に対して繰り返していると気付きました。彼女は、ただ誰かに、一緒に地獄に堕ちて欲しかっただけだったのです。
アノニマは過去から迫るロバの足音の響きを聞いて、馬に飛び乗り走らせました。息は白く凍って、黒い空をしばらく漂いました。
* * * * * *
「――なんで逃げるんだよ、アノニマ」
「なんで、追いかけてくるんだ、ヨーイチ!」
二人は馬を走らせながら、口論みたいなものを続けていました。ヨーイチは笑って言いました。
「過去が無い奴に、理由なんてあるかよ」
「……お前が、……邪魔だからだッ」
いったん自由を経験すると、人はもう昔のような不自由には満足できなくなる。権利が拡大すればするほど、その範囲を狭めるのは難しくなる。ヒトは、生まれもって最大限に自由であるが、その範囲を文化や文明、そして社会により狭める事によって成長してきた種でもあり、いずれにしたって我々に、進んでみるより他に選択肢はないのです。それは進歩思想の功罪でもありました。
ゆえに現代人は空を克服しました。バルルルル、という哨戒ヘリの音が近付いていました。サーチライトを照らして夜を攻略しており、アノニマは、「伏せろッ」と言って馬から飛び降りました。ヨーイチもそのようにしました。雪は冷たくて心臓が活発になってくるのが分かりました。しばらくすると、成果を得られなかったヘリはどこかに去ってゆきました。すこしだけ呼吸が落ち着きました。
アノニマは静かに立ち上がると、ゆったりと、ヨーイチのほうに近付きました。それは彼がぴくりとも動かないので、心臓発作でも起こしたか、と言って、軽く蹴飛ばしました。
「ま、待てって。まだ死んでねぇって」
「なんで付いてきた」
ヨーイチはようやく立ち上がりながら、それから質問に答えました。
「お前が心配なんだよ」
「余計なお世話だ」
「ひでぇ顔。最近寝れてないんじゃねぇの」
「うるさい」
やれやれ、と言った面持ちで、ヨーイチは鞄から荷物を取り出してアノニマに渡しました。
「なんだ、これは」
「あの赤毛のねーちゃんから、お前にってさ」
アノニマは包みを開けました。中身は生理用ナプキンでした。ふん、日本製か……とアノニマは鼻で笑うようにしました。それを鞄にしまって彼女は言いました。
「ヨーイチ。言い方を変えよう。お前には一度助けられた恩がある。だから無駄死にしてほしくはない」
「
「そうじゃない。お前は記憶を失くして生まれ変わって、二度目の人生を生きているだけだ。拾った命を無駄にするな」
『そうだよ。こいつは君の嫌いな、日本人じゃないか。僕と同類さ。何にも考えないで、日々をただ無為に生きているだけの奴隷。それにこいつが何の役に立つ?』
アポロがそう言いました。ヨーイチは呆けた顔をして、アノニマはそれが幻聴だという事を分かっていましたから、すこし顔をひきつらせただけでほとんど無視して、それから言いました。
「とにかく。これからは奴らが追ってくる。国境付近まで付かず離れず、引き付ける作戦だ。奴らを陽動作戦の駒にする。お前のお守りをする余裕はない」
「なるほどな。――でも、一緒にいくよ。おれはおれで、なんとかするしさ」
「…………勝手に、しやがれ」
アノニマは踵を返して馬に乗り、ヨーイチも慌ててロバに跨って付いてゆきました。
『甘いなぁ、ゾーイは。こいつもアポロかもしれないんだぜ。君だって奴の顔を知らないじゃないか。君は本当に奴を殺したという確信があるか? いつどこで、誰に裏切られるかも分からない。不確定要素を身近に置いてちゃ、そのうち寝首を掻かれるぜ』
「……お前は、お前だった。他の誰でも、私でもない。私はそれを最大限尊重しているつもりだ」
『うんうん、そうだね。君は彼の娘じゃないし、彼も、そしてまた僕も、君の父親なんかじゃない』
「……………………」
アノニマは幻聴に耳を貸さず沈黙して眼を瞑りました。
* * * * * *
サキーネ、君にこの狐のお面をあげよう。とアポロが言いました。
君は自分が醜いのをずっと嫌っていたね。なに、こないだのワドドゥに受けた火傷の事を言っているんじゃない。もっと根深い話さ。ずっと以前から君は醜かった。そうだろう? 生きるのは、醜い事だ。僕らはそう定義してはならない。でも君はそう思っている。自分は穢れている、そして生きる価値のない人間だと。そんなことはない、ヒトはすべからく、生まれながらに、生きていていい。君は気にしているだろう。だったら、隠してしまえばいい。僕と同じだよ。美しくあろうとする、その心が何よりも健気で美しいのだ。化粧や整形が欺瞞だと思うなら、仮面を自分のものとしてしまえばいい。これが君の顔だ。これは僕の、とても大切なもののひとつだ。ほとんど唯一の家族の形見のひとつでね。だから、君にあげるんだよ。九〇年代、ユーゴスラヴィア。フォチャの虐殺……組織的に強姦されいずれ
さあ立とう、
* * * * * *
「……お前の話は、私にとってどうでもいい。不幸な身の上を語るのは、さぞ気持ちのいい事だろうな?」
アノニマは自動式拳銃『武装した人』を、涙ぐんで組み伏せられているイスラム過激派の男に向けていました。
「俺には子供も居る、家族も居る! でもアメリカが来て何もかも変わっちまった。おれもその頃は餓鬼だった。少年兵だったんだ! 他に生き方を知らねぇ。お前もそうだろうが! イラクじゃ少数派だった。そんな俺にだって、守るものがあったんだ!」
「みんなが
「訳の分からねぇ……」
アノニマは男の指を折りました。男は叫び声を飲み込みました。
「だから、答えろ。指は十本あるんだぞ? 関節ならもっとだ」
「……! 駄目だ、……仲間は、売れねぇ……!」
「殊勝な事だ。お前の神に委ねるとしよう」
アノニマはそのまま筋電義手で首を絞めて気絶させました。彼女が聞き出したかったのは、なぜアノニマの位置を把握しているか、という事でした。もともと、離れた位置から挑発しつつ、国境線まで誘導するつもりで、迂廻路の山の稜線を経由しながら一撃離脱を繰り返していましたが、それでも理由が分からないほど正確に彼女に攻撃してくるのでした。
(これでは、安全に眠る余裕もないな……)
そう思いながらアノニマは、彼らの装備から使えそうなものを漁りました。ソ連製のシュパーギン短機関銃に、ドラム弾倉をいくつか。それから跳躍地雷などをいくつか、それに
振り返りながらアノニマは、腰に差したレバーアクション散弾銃『
――サキーネ。とアノニマは思い出していました。かつてアポロの
「刀は本来、打刀と脇差とで一対となる。つまり姉妹のようなものさ、ゾーイ。私と、お前という存在は」
「――その名前で、私を呼ぶな」
サキーネが先に動きました。アノニマは左手で前床を抑えながら『エンプーサ』を連射しました。赤いプラスチックの薬莢が、カラコロと散乱しました。サキーネは銃口の動きを読んでいるように、散弾を避けながら少しずつ加速して近付いてきました。アノニマが弾倉を撃ち切ると、サキーネが跳び上がって斬りつけてくるので、『エンプーサ』をくるりと翻して前床を握り殴り付けました。
サキーネは血の混じった唾を雪の上に吐きながら言いました。
「お前は私のアポロを殺した。生きる意味を与えてくれた、彼を。許さない。――そして、それが私の役割でもある」
「復讐と制裁とが、か? お前らしい生き方だな、
「暴力のない平和はない。管理されない平和はない。人間は、
「人はそうやって自分の位置を確保する。だがお前の不幸は他人を殴る言い訳にはならない」
それはお前も同じ事だろう? とアノニマは思いましたが無視しました。ここでは議論よりも生存が優先されるからです。
サキーネが機関拳銃を乱射して、アノニマはイトスギに隠れました。雪が銃弾に踊ってぱらぱらと落ちました。手榴弾を投げると、サキーネが信管を刀で切り裂いて無力化しました。アノニマは呼吸を整えて、ざくざくという足音が近付いてくるのを待ちました。静かに忍者刀を抜きました。サキーネが飛びかかると、アノニマは屈んで足払いをして、一瞬体勢が崩れたところを刀で突きました。
あっという間でした。サキーネはごろごろと雪を桜色に染めながら崖を落ちてゆき、死体は確認できませんでした。それは幻覚だったのか、それとも前に殺したと思ったのが幻覚だったのか。
信念は無限に後退して背中が壁に付く事はない。あるいは
アノニマは、弓を、引き絞っていました。桃の木を芯材に狼犬の骨肉を貼り合わせた、複合弓。その葦の矢の先端には火が灯っていて、張力が解放して放たれると、火矢は、ゆるりと軌跡を描いて軍集団の弾薬箱に吸い込まれてゆきました。飛んでいる矢は瞬間から見れば止まっており、それらは連続しているからアニメーションして時間は動いているように思える。矛盾を孕んだ一本の矢は矛盾を持っているから運動のベクトルが存在し、肉体の運動の軌跡とは、ゆえに
その軌跡をなぞるように矢を次々と放って、シュパーギン短機関銃を適当に撃って自分の位置を知らしめると、馬に乗って闇の中に溶けてゆきました。
* * * * * *
浅く雪の降り積もる黒の海の中に、ぽっかり浮かぶ火の島がありました。人間の原始の発明は、冬の寒さを凌ぐために不可欠のものでした。そうでなくとも冬至の近付く北半球では、夜の長さは日々延びてゆき、馬とロバ、それに男と女の二匹と二人は、合わない歯の根をがちがち言わせながら、虚無の宇宙空間へ放熱してゆく孤独の寒さに震えていました。森の中で炎は揺らめいており、そして伸びる影も同様でした。
(花は私を嘲笑う、草は黙って踏まれて怒りを蓄える。空は泣いているから雨が降っていて、風は気楽にあちこちを漂うだけ。ああ、月、星、太陽が眩しくて見えない。夜の世界に生きるしかないんだ)
ぱちん、と湿気った薪が弾ける音がしました。寒さと疲れに身体をぶるぶる震わせながら、ヨーイチがアノニマに言いました。
「なぁ、少しはちゃんと寝ろって。おれが見てるからさ」
「お前に私が守れるか? 銃の撃ち方だって、知らないくせに」
「信用ないのな」
ああ、とアノニマは答えました。その代わりと言ってはなんですが二人と二匹の周りには無数にピアノ線のワイヤートラップが仕掛けられていて、近付いたものを爆殺するように出来ていました。
「火を消せ」
「寒いだろ」
「的になる」
「煙草、いいか?」
(マッチ擦るつかの間海に霧深し 身捨つる程の祖国はありや)
「……一本、だけだぞ」
『甘いなぁ、ゾーイは。そういうところが命取りになるんだよ』
幻聴がそう言って、ヨーイチはラッキーストライクを一本取り出して火を付けました。煙草の紫煙は白い息と混じって、やがて分離し霧散しました。アノニマが訝しがって言いました。
「お前、マルボロじゃなかったか」
「冬はラッキーストライクに浮気するって決めてんの」
そうだったか、と不安そうにアノニマが言って、ヨーイチは煙草を吸いながら焚火をぱたぱたと消し始めました。周囲はすっかり月明かりだけになって、煙草の灯だけが暖かいのでした。
「ヨーイチ、こっちに来てくれ」
「なんで?」
「寒いだろう」
「おれは結構あったかいよ。ポンチョ着てるから」
「私が寒いんだ」
「火を消せって言ったくせに……」
「――ああ、そうだ。お前は着込んでいて暖かくて、的になるから火を消せと言ったのは私だ。だから私のところに来てくれ」
ヨーイチはなんだかしぶしぶアノニマの隣に座りました。それから アノニマは、寒さに震えない義手の腕を差し出して言いました。
「一本、くれ」
「煙草なんて毒とか言ってなかったか?」
「麻がもう無いんだ。紛らわしたい」
「子供は吸っちゃいけません」
「いいから」
アノニマは煙草を奪って一巻きを咥えると、ヨーイチは煙草の先端をくっつけてそれに点してやりました。静かに紙巻の燃える音だけがしていました。
(他人を不安発生装置として利用している状態を、依存という。不安は生きる理由になるから。少なくとも、縋るものは見つかる)
自分は神に愛されているか。それが問題でした。他者の考えを読む事ができないために、不安と懐疑は増大してゆき、まやかしの言葉が頭の中で
あ、そうだ。とヨーイチがとぼけたように言って、鞄から新聞包みを取り出してアノニマに渡しました。包みを開けると、それは、人間の赤ん坊の死体でした。思わずぎょっとしましたが、ヨーイチは気にせず続けました。
「キャベツ。来る途中で見つけたんだよ。予防にはビタミンだぜ」
アノニマは、光を失くした虚空の瞳が覗いてくるのを覚えました。ヨーイチはキャベツと言っている、私の頭がおかしいのだと。きっとまた幻覚を見ているんだ。そう思い込んで、それを頭から、ばりばりと生のまま齧りました。食物繊維たっぷりのそれを
「……うまい。気がする」
飢えたオテサーネクは気付けば既に半分くらい食べていました。タブーを犯した感覚と、生きるための欲求とが競り合っていて、自分の居場所がどんどん曖昧になってきました。
「あんま食い過ぎると腹が張るぜ」
ヨーイチはガサガサと死体の残りを新聞紙で包むと、二人は寒さに身体を寄せ合いながら、歯をかちかち言わせ、月の柔らかな光に照らされて、いつだか眠りに落ちてゆくのでした。
* * * * * *
…………もしも世界が平和だったら。きっとレッドが私のお姉ちゃんだったんだろうか。ヨーイチがお父さんで、ペニナがちょっと嫌な感じのお母さん。叔母さんや親戚の兄ちゃんがクローディアやギルバート、気さくなカップルがウェーバーとマニングで……そうしてアポロが、私の
あの小さな寂びれた村で。きちんと
我々は楽園の外に放り出されたアダムの子なのだ。
* * * * * *
ぱちりと眼が開かれました。しん、と空気は冷たく澄んでいて、隣には誰も居ないのでした。アノニマは狼の毛皮で出来たフードを被りました。厚手のタイツも凍ったように冷たくて、関節をゆっくりとほぐすように動かしましたが、義手は震えずまた寒さを感じる事もないのでした。
「……ヨーイチ?」
少女は震えながらそう呟きました。まだ陽は昇っていませんでした。
途端。ひゅるるるる、という音が響いて、森の木々を折り倒しました。爆音は辺りにつんざいて、木の破片がそこらじゅうに飛び散りました。
――迫撃砲だ! そう言ってアノニマは馬を呼ぶと素早く飛び乗って、駆けさせました。森を抜けると照明弾が上がって、辺りを昼の明るさにしました。アポロがニヤニヤ笑って言いました。
『おやおや。怪しいじゃないか。あいつが情報を流してるに違いないぜ、ゾーイ。いつも居なくなるだろ? 君の言う事も従わない。夜の焚火なんて、いい的になるに決まってるじゃないか』
「――小便にでも、行ってたんだろ」
『君は優しいねぇ、ゾーイ。もっと人を疑う事を覚えなきゃ。他人の考えている事が、他人の行いが、どうして分かる? 信用できるのは、自分だけだぜ』
「私は、自分も信頼しない。この世に確かなものなんて、……どうせ、――そうさどうせ、何一つないんだ」
そう呟くと、背後から
白髪の山を登っていました。陣地では迫撃砲はぽん、ぽん、と愉快な音を鳴らして撃たれていました。アノニマは手榴弾を取り出して歯でピンを抜くと走りざまに投げ付けました。数秒たって破片が飛び散り、馬を降りながら素早く矢を射って黒装束たちを殺しました。すると敵が応戦してくるので、アノニマは手近にあった死体のシモノフ騎兵銃を手に取ると、右手で初弾を排莢して何度も引き金を叩きました。伏せて転がりながら障害物に隠れると、奪った弾帯から挿弾子を取り出して装填し、フロントサイトを展開しました。
黒装束はイギリス製スターリング短機関銃などを、当てずっぽうにぱらぱら乱射していて、それが弾切れになったのを見計らって、――二二ミリ
撃鉄を起こす音がしました。一人生き残りが居て、慌てて拳銃をガチャガチャとやっているところでしたので、アノニマはゆっくりと近付いて脇から自動拳銃『武装した人』を抜きました。そして撃ちました。
「ひぃっ! ころ、殺さないで」
「――お前らは、誰だ? どうやって私の位置を知った? お前らに指示を出しているのは、どこの誰だ?」
アノニマは一斉に質問して、男から拳銃を取り上げると、あっという間に分解して部品をほうぼうに投げ棄てました。
「――言えるわけないだろ! 俺たちゃただの、雇われだって! 給料だって安いんだ! それで食わせなきゃならねぇ!」
「……お前の話は、私にとってどうでもいい。不幸な身の上を語るのは、さぞ、気持ちのいい事だろうな?」
アノニマは男を組み伏せると、拳銃を男の後頭部に向けました。
* * * * * *
…………新日本赤軍。ああ、そうだ、私の所属していた組織。私の故郷。私の家。もう存在しない。無秩序な武器兵器による愛と平和、エゴイストの連合。我らの目的は、天照大御神の子孫たる『
* * * * * *
銃声が響きました。それでアノニマは眼を覚ましました。睡眠不足の頭はまだぼんやりしていて、一気に呼吸をすることで酸素を脳に送り込みました。日の出前の森は少し白く霧がかっていました。
『追われているようだね』
幻聴のアポロが茶化して言いました。
『どうやって、君の位置がこうも分かるんだろうね? やっぱり、あの男が関係してるのかな? 近頃ずっと、見ないしさ。それとも君を追って今の罠にかかって、死んじゃったかな?』
「…………」
アノニマは黙って準備を進めました。シモノフ騎兵銃の銃剣を展開し、少しボルトを引いて装填されているのを確かめ、スターリング短機関銃の三十四連弾倉を横から叩き込んで、すぐに撃てるよう負い紐で吊り下げました。紐に狼犬の牙と孔雀の羽根が飾られた、琥珀の宝石が胸元で雪の光に照らされていました。
「…………」
ふと指に触れると、それは仄かに暖かいのでした。アノニマはそれを服の下に隠しました。狼犬の毛皮のフードを被りました。それから、第三世代の
『あちゃー。それで、現実と幻覚との区別をつけよう、ってんだ。考えたねぇ、ゾーイ』
でも肝心の脳味噌がいかれてちゃ、結局効果はあるのかな? とアポロが呟きました。それでも暗闇の中で視界を確保できるのは、状況を有利にする為には不可欠でした。
じりじりと敵が近付いてきているようでした。赤外線ゴーグル越しでは、彼らは単なる光の染みとしてしか映らないのでした。アノニマは呼吸を整えて耳を澄ましました。……枝を踏む音、呼吸の音。話し声、足音、……森に響く心臓の動く音……やがて仕掛けられた
『――今だ、やれ! 撃つんだ、アノニマ!』
アノニマは光の染みに照準して引き金を叩きました。向こうも赤外線ゴーグルを装備しており、ケミカルライトの
『いいね、ベトナムゲリラの戦術だ。僕が教えた通りの』
常に動き続ける。相手を撹乱する。状況を優位にし続ける。それが勝つための方法であり、アノニマの選んだ生存戦略でした。そうやって自らを武装し、
銃声が止みました。全ての光の染みは斃れました。アノニマは赤外線ゴーグルを外しました。そのまま立ち去ろうとしましたが、よせばいいのに赤ん坊の泣き声が響いて、アノニマは振り返って駆け出していました。
非武装の民間人が、雪の上に何人も死んでいました。それは少しばかり魚屋の陳列に似ていました。どこまでが本当で、どこからが自分の被害妄想か。それは分かりませんでしたが、死体は動かずに体温を大気中に放出していくのみでした。
『――うん、うん。仕方ない犠牲だよね。そうやって自分を正当化してきたんだもんね。――君は奴らを敵だと思ったんだんだから、しょうがないよね』
アポロが言って、アノニマは眩暈を覚えました。赤ん坊は返り血を浴びていて、瀕死の母親が手を伸ばしかけていました。
アノニマは母親を抱き起こすと、傷口に生理ナプキンをテープで巻いて止血しました。だけどもう駄目みたいでした。
「…………な……………で……」
母親が息絶えると赤ん坊はよちよち歩いてワイヤーにかかって爆死しました。誰にも助けられないと分かったからです。アノニマは赤ん坊を助ける事もできましたが、自分の命が少なからず惜しいと思った為に、怖くて、踏み出せなかったのでした。雪は平等に生きたものにも死せる魂にも降りかかっていました。ハルピュイアの姉妹が、地上に降りてきて死肉を喰らっていました。
「それがお前のし続けてきたことだ、ゾーイ」
どこからか声がして、アノニマはそれに向けてスターリング短機関銃をフルオートで連射しました。狐のお面の女は日本刀でその銃弾を弾いて、続けて言いました。
「お前は、お前の基準で世界を量る。そしてそうする事が当然であるかのように振舞う。そうして人を、罪なき人々をも殺めてしまう。命には命を。目には目を、鼻には鼻を、耳には耳を、歯には歯を。凡ての傷害に同等の報復を」
サキーネが日本刀を収めると、死体たちが一斉に起き上がってアノニマに襲いかかりました。それは血の復讐でした。そしてアノニマは、――逃げました。馬を駆らせて。過去の幻影に囚われる前に。失くした腕の幻肢痛が生きろ、生きろと叫ぶように。
* * * * * *
気付けば、追手を振り切っていました。葦毛の蒼褪めた馬も、ヒィヒィ息を荒くしました。アノニマは失くした冷たい左手で馬を撫ぜてやりました。名前の無い馬は、ちっとも嬉しくないようでした。
間抜けなロバの足音が近付いてきました。アノニマは振り返って拳銃を取り出し構えました。それから叫びました。
「来るな!」
「……どうしたんだよ、アノニマ。らしくないぜ」
ぴんと張り詰めた空気は、風もなくてただ雪は垂直に降り注いでいました。
「どうして、生きている。何のために、どうやって」
ヨーイチは一瞬ぽかんとして顔を歪ませましたが、
「別に、普段通りにだぜ。逃げて、隠れて。そんで、俺は写真を撮って生きてんだ」
ヨーイチは、はぁ? とでも言うようにして、笑って、
「水臭いこと言うなよ。俺と、お前は――」
『「親子でもなければ恋人でもない。ただの赤の他人どうしだ」?』
「言うな!」
アノニマは再び銃口を強く向けました。彼が裏切っているかどうかはどうでもよく、ただ、言葉によって何かが規定されてしまうのが、怖かったのです。寒さで震えるせいかサリンの後遺症か、うまく声が出ませんでした。
「よ、よ、ヨーイチわた、しはわからないじぶんが善なのかそれ、とも悪なのか」
「はぁ? アノニマ、お前むかし自分で言ってたじゃねぇか、善と悪を単純に分けすぎるな、って」
アノニマは握った拳銃をぶるぶる震わせて唸りました。
「ううううう。うううううう」
『そうだ、アノニマ。奴を殺してしまうんだ。そうすれば奴は永遠に君のものさ。――そう、僕のようにね』
陽一は鏡でした。鏡映しの自分の鏡像は、彼を軸に自分の眼に映って、それは、虚言を嘯くアポロの姿によく似ていました。誰も信用できない。言葉を信じられない。それらは全部ウソだ。本音を隠し、建前だけで生きている。誰かを
『撃つんだ、武装少女。――さぁ撃て、撃つなら胸だ、
鏡の中のアポロがそう言いました。アノニマは、――その心臓を狙って。それから、ゆっくりと引き金を絞ってみました。
* * * * * *
色を失くした世界で、少女は煙の昇る拳銃を構えていました。
アノニマと呼ばれた少女は、瞳孔がきゅうう、とピントを合わせるのが分かって、倒れた男を見やりました。それはヨーイチ・ハルノ=ホセアと呼んでいた男の肉体でした。そしてそれはぴくりとも動かず、仰向けになって、間違いなく心臓を貫いた銃弾の風穴の開いた、赤茶けたメキシカン・ポンチョを、吹雪にいたずらに揺らしているのでした。
少女は銃口を外しました。黒色火薬でも無いのに煙が風になびいて消えました。火薬は燃焼し高い温度を持ち、水分は湯気となって、白いけむりと立ち現われてそして霧散するのでした。
それが彼女には信じられませんでした。彼を撃ってしまったという事実、そして彼が再び起き上がることはないのだという事実。だけど右腕は自動式拳銃『
「……ヨーイチ……?」
アノニマはぽつりと呟きました。返事はありませんでした。アノニマは駆け寄ろうとしました。でも山の向こうからバルバルバル、とローター音が響いてきて――それは、鯨でした。聞きかじりの『焦土作戦』も功を為さないのは、その
のっそりと姿を現したロシア製民間ヘリコプターKa‐62『カサートカ』は、こちらに機首を向けると、機銃を乱射しながら追いかけてきました。アノニマは反撃する間も無く葦毛の馬は怯え、制御不能となって駆け出しました。
その先は崖でした。
自由落下運動はもっともシンプルかつ万物に平等な運動であり、アノニマは、空中で落馬しながら天を仰いで筋電義手を伸ばしました。そして誰もその手を取ってくれないのでした。首飾りから孔雀の羽根が抜け落ちて、空を舞いました。それを掴もうとした義手はギシリと虚空を握りしめました。曇った空からは雪が降り注いでおり、それと同じ速度で少女は落下してゆき、やがて、深き河にどぼんと音を立て、空気を包み込んだ
水の中は冷たくて、濁っており、アノニマは銃の重さに沈んでゆきました――そうでなくとも、まだ海を知らない彼女は泳ぎ方もまた知る由もないのでした。肺から吐かれた空気は泡となって水面へと浮かんでゆき、空気を絶たれた肉体はどんどん苦しくなってきて、慌てた
捨てなくては。とアノニマは思いました。何もかも。私の過去も、未練も、希望も、――希望も? 凍える水にトルコ弓の狼の腱や膠は溶け出して、次第に崩れて消えてゆきました。『
もう一つ影が飛び込んできました。クラムボンはかぷかぷ笑って、それは水をかいて、深く深く潜った腕を失くした少女のもとに辿り着きました。それは肺の膨らみいっぱいに
二人は水面から飛び出して、一気に空気を吸い込みました。アノニマは水を吐きながら、冬の空気の冷たさにぶるぶる震えて、幽霊を見るような顔で言いました。
「ヨーイチ! ……ヨーイチ……なんで、なんで生きてる」
「げほっ、げほっ……言ったろ? 俺はもう過去を失くした死人だ、って……溺れ死んで
何を馬鹿な事を、と言って、アノニマはヨーイチに抱きかかえられながら川岸まで連れてゆかれました。空ではヘリコプターがサーチライトで辺りを捜索していました。でも河ばかり見ていてこちらに気付く様子はなさそうでした。
「腹にガスがでも溜まってたのか分かんねぇけど、ずいぶん軽かったぜ、お前」
「……うるさい……」
アノニマは目をそらしました。ようやく陸上に上がると、ヨーイチは髪から水を垂らしながらニカリと笑って、ポンチョをたくしあげながら言いました。
「こいつが、守ってくれたんだよ」
「あ……」
それは彼が長年愛用してきた、そして少女の放った銃弾を受け止めたカメラでした。
* * * * * *
「――あちゃあ。壊れっちまったみたいだな」
パソコンの画面を見ながら、クローディアが言いました。何の話です? とギルバートが聞きました。淹れたてのコーヒーのカップを彼女の傍に置いてやりながら。
「義手の発信器。それで奴を追跡して、情報を流して追わせてたんだが……さてどうしたものか……」
「発信器? そんなもん入れてたんですか」
「サマンサには内緒でな。あいつは純朴すぎるところがあるからな」
クローディアは珍しく困り顔になって、深層ウェブ経由でメールを送りました。コーヒーを一口飲むうちに、返事はすぐに、そして手短にやってきました。
『大丈夫。もう一つあるから。彼女のハートのすぐ傍に 大鴉より』
それを読むと、クローディアは笑って言いました。
「あはは。ペニナのやつ、抜かりがないな。流石私の惚れた女だ」
そう言ってクローディアは立ち上がり、彼女の装備を引っ掴むと、元気よく笑って言いました。
「すぐに向かわなくちゃな。軍曹、――いや、ギルバート。ここは、君に任せたぞ。曹長とも仲良くしてやってくれ」
ギルバートはぽかんとして訊きました。
「任せた、って……どこに行くんです?」
「イスラエルだよ。あいつは辿り着くだろう。そしたら、我々の役に立ってもらわなきゃあ、な」
クローディアは半ばウキウキして身支度を始めました。……彼女の
* * * * * *
アノニマの胸ではヨーイチから貰った琥珀の首飾りが揺れていました。その中にはハートの形をしたオリーヴの葉が閉じ込められており、雪のなか風が吹いても、その仄かな温かみは、決して失われる事がないのでした。
「……カメラを……壊してしまった」
アノニマが沈鬱な表情で言いました。それが彼女なりの申し訳なさを示す表現だったのかもしれません。ヨーイチは笑って、
「気にすんなって。友だち、だろ?」
フィルムはたぶん、無事さ。それに予備もあるし。また買えばいい。
そうヨーイチが言って、アノニマは目をぱちくりさせて訊きました。
「ヨーイチ、いま、なんて言った」
「は? だから、また買えばいいって」
アノニマは半ば呆れながら「そうじゃない」と言うと、
「ヨーイチ、その眼を閉じろ」
「は? なんでだよ」
「いいから」
「むむむ?」
ヨーイチがそうやって目を閉じると、未来の無い女は過去の無い男に軽く
「……お前には、お前の戦い方がある……私には、私の……私たちには、それぞれの生存戦略がある……」
ヨーイチはぱちくり目をやっていましたが、「あ、そうだ」と思い出したように、鞄から一つの能動義手を取り出しました。それはハーネスとワイヤーとで稼働する、手の部分が金具のようになったものでした。
「レッドから一応貰ってたんだよ。アレが壊れたときに、何もないよりマシだろうって」
「……義理深い女だ」
アノニマはその鉤爪みたいな義手を取り付けました。身体を動かすと、それに合わせて鉤爪は開閉するのでした。幻肢痛は消えていました。
「ハ、まるで、
「……それを言うならフックだろ、ばか……」
アノニマはそう言って、背負っていたシモノフ騎兵銃を杖代わりにして、やっとこさ立ち上がりました。ヨーイチが手助けしようとすると、いい、自分で歩ける。と言って突っぱねました。
(近すぎると、苦しい
遠すぎると、淋しい
距離なんて、今まで気にしたことなんか、なかったのに)
アノニマは思いました。それからひとつ、くしゃみをしました。
「ちゃんと乾かしなさい、アノニマ。風邪を引くわよ」
「――お母さんか、お前は……」
「また焚火しようぜ。火はなんたって、人類の最初の発明品だ」
「……ああ。また奴らが来ても、今なら追い返せるはずだ」
アノニマは努めて視線をそらすようにしました。それは彼女なりの照れ隠しだったのかもしれません。そして思いました。
(……ひどくうらやましい
きらいだ。すきだ
しねばいい。いきろ……)
我々は矛盾を伴うから共に歩いてゆける。相反する感情があるから、
(人生は、白紙の原稿用紙を、自分で埋めていい。他の誰も、その空白を埋めてはくれないのだから)
二人は寄り添って歩いていました。西の暗い空に向かいながら。どちらが先で、どちらが付いていくなど、関係ありませんでした。ふと彼が笑うと、少女もつられて微笑んで、澄んだ空気はしんとして音もなく、辺り一帯は静寂でした。二人は背後から迫る明かりに気付いて、一緒になって振り返り東の空を見上げました。
それは朝焼けでした。
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