エピローグ
飛竜機の記憶
アルヴァーノ・アレーニア
1958年 12月23日 ミラノはマルペンサ空港にて
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その日、クリスマス休暇を前に浮かれた雰囲気の漂う空港に彼はいた。黒のボルサリーノをかぶった下には涼しげな表情がのぞき、シンプルで品のいいコートと靴が育ちの良さを感じさせる。すれ違う女性の視線にウインクを返す仕草さえ、彼がするならば嫌味なく自然な振る舞いと思わせた。年のころは三十前後だろう。年季の入ったトランクを片手に、搭乗手続きを行っていた。
「アルヴァーノ・アレーニアさんですね。アメリカへは観光へ?」
「ええ、向こうに知り合いがいまして。クリスマスを一緒に過ごそうかと」
「ほう、恋人ですかな?」
「はは、そうだったらいいんですけどね」
「ともあれ、よき休暇とならんことを!」
「ありがとう」
搭乗券に記載された出発時間まで、まだ時間があった。ラウンジで煙草を一服しながら時間を潰していると、側面に緑色のラインを引いた白い飛行機が眼下に滑り込んでくる。昨年就航したばかりの新型四発ジェット旅客機、ボーイング707の優美な機体だった。度重なる墜落事故で信頼を失墜させたデ・ハビランド社による世界初のジェット旅客機コメットに代わり、到来しつつあるジェット旅客機時代の牽引役と目されている飛行機であることを、アルヴァーノは知っている。
ジェットエンジンの推力はターボプロップエンジンを上回る。このボーイング707の試作機に当たるボーイング367-80は40メートルに迫る全長を持つが、デモフライトではバレルロールを行って招待客の度肝を抜いたというエピソードがある。まだ乗客を乗せていないからこそ可能な芸当ではあったものの、その高い性能は瞬く間に世界中へ広まった。駆け出しの航空技術者であるアルヴァーノとしては、アメリカへ渡航する際にぜひ乗っておきたかったのだ。
「ジニーおばさん、元気にしてるだろうか」
アルヴァーノが航空技術者を目指したきっかけであり、今はボーイング社で主任設計士として働くヴィルジニア・トニーニことジニーおばさん。彼女に会うのが今回の旅の目的だった。アナウンスに従って搭乗口へ歩を進めながら、彼女が担当した主翼部分を思い描き、内部構造を想像する。
運のいいことに、座席は主翼のやや後方、エンジン配置や動翼がつぶさに観察できる窓際だった。スケッチブックを取り出し、かん高いジェットエンジンの唸りに耳を傾けながら無心に鉛筆を走らせる。離陸からの旋回、水平に戻して安定飛行に入ったところで手を止め、いつの間にか止めていた息をほうっと吐きだしながら背もたれへ体重を預けると、隣の席の少女に手元を覗きこまれていた。
「こんにちわ、お嬢さん。挨拶もせずに失礼したね」
「……ごきげんよう、素敵なおじさま」
スケッチブックに見入っていて、話しかけられるとは思っていなかったのだろう。利発そうな瞳を大きく見開いた少女は、現実世界へ引き戻されたようにアルヴァーノの顔に焦点を合わせ、挨拶を返してくる。
「スケッチブックが気になるかい?」
「ええ、よかったら見せていただけるかしら?」
「麗しいレディに興味を持ってもらえるとは光栄だね。どうぞ」
淡い桜色のワンピース、エナメルレザーのかわいらしい靴。墨を流したような黒髪は毛先まで綺麗にまとまっている。気取った口調をそうと感じさせない自然さ、初対面の大人を相手に物怖じしない態度は本物のお嬢さまに特有のものだ。年齢は十歳くらいだろうか。興味津々の様子でスケッチブックを広げる彼女とは通路を挟んだ向かい側の座席に腰を下ろす、上品な紳士と視線が合う。にこやかに微笑んで会釈するところを見ると、彼女の父親なのだろう。
しばらく外を眺めていたが、海に出てしまうと風景の変化もない。スケッチブックを取り上げられてしまってはアイデアも浮かばず、仕方なしにコートの内ポケットから封筒を取り出す。ジニーの父親であり、アルヴァーノにとってはもう一人の祖父のような存在であるアレッサンドロ・トニーニから託されたもので、中には便箋と一葉の写真が入っている。少女はこれも気になったのか、手元を覗きこんでくる。
「古い写真ね。おじさまのご友人かしら?」
「いや、両親とその仲間たちの写真さ」
桟橋に降り立つ飛行服の女性と、その手助けをする男性。すぐそばには若かりし日のジニーおばさんの姿もある。桟橋の手前で背中を向けている老婦人はアルヴァーノにとっては曾祖母に当たるヴァレリアナなのだとアレッサンドロは教えてくれた。コモ湖に浮かぶ純白のフロート機が存在感を放つ、印象的な写真だ。
封筒から便箋が滑り落ちる。そこには無骨な字で一言だけ、懐かしい写真が出てきたからアルに持たせた、と記されている。写真の詳細について尋ねても、アレッサンドロはにやりと笑うばかりで教えてくれず、わしはもう忘れたからジニーに聞きにいけ、と繰り返すばかりだった。
その後、この謎の水上機について独自に調べてみたところ、1926年のシュナイダトロフィーレースで優勝したM.39もしくはその改良機であるM.52に酷似していることが判明した。しかし、写真に写る水上機は純粋なレーサーであった両機にはあり得ないはずの機銃を装備している上、細部の機体形状もところどころ異なる。競技機としてではなく、戦闘機として改修されたM.39が存在したという記録は、アルヴァーノが調べた限りではイタリア航空史のどこにも存在しなかった。
知っているとすればアレッサンドロやジニーと深い付き合いがあった両親なのだろうが、今でも仲良く世界中を飛び回っている二人とはもう長いこと連絡が取れない。息子であるアルヴァーノをして顔も思い出せないほどだ。そんなことを考えながら、今日初めて飛行機に乗ったのだという少女の話し相手をしていると、やがて興奮から疲れが出たのか、少女の目蓋が眠たげに落ちてくる。
「おじさま、わたし眠くなってきちゃった」
「旅は長い。ゆっくり休むといいよ」
「ええ……おやすみなさい」
すとんと眠りに落ちる少女のかわいらしい寝顔に、彼女の父親と微笑をかわす。座席に落ち着き、封筒とスケッチブックをしまいこんで顔を上げると、視界の端に白いものが映った。雲とは異なる、流麗でソリッドな存在感、相対速度の差からゆるやかに前後へ動いて見える飛行機。その翼下にはフロートがついている。
純白の水上機が、アルヴァーノの乗るジェット機と翼を並べていた。
一目見た瞬間、視線を吸い寄せられてしまう。それほど美しい機体だった。写真にあった水上機とそっくりだという印象は、ターボプロップエンジンに置き換えられて流線型を描くようになった機首や半開放式に改められたコクピットによって書き換えられる。より速く、より自由に。ジェット機の幕開けとも呼べるこの時代における、世界最速にして最後のプロペラ水上機がそこにあった。顔を飛行眼鏡と酸素マスクに覆われたパイロットが、こちらを見て親指を立てる。
「お嬢さん!」
「ん…………なあに?」
興奮に任せて背後を振り返り、少女が眠りに就いていたことを思い出す。眼をこすって眠たげにしている少女は、それでも律儀に応えてくれた。
「空を見てごらん!」
「おそら?」
アルヴァーノが振り返ると、大きく旋回して腹を見せた水上機が雲海へ沈んでいくところだった。思わず嘆息した彼の身体をよけて少女が窓の側に顔を寄せ、周囲を見渡す。水上機が雲へ沈んでいった地点はすでに後方へと流れ去っており、見えるのは鈍く光る冬の空と海、汚れを知らない雲の群れだけだ。安らかな眠りを妨げられた上に見るべきものも見つけられなかった少女が、怪訝な顔で彼の顔を見上げてくるのが心に痛かった。
「真っ白な飛行機が……いたんだ……」
そう口にしつつも、アルヴァーノは自身の見たものが白昼夢ではなかったかと疑わしい思いにかられていた。そう、それは絶滅した竜が空を舞う姿を目撃したと主張する者が、今でもときどきいるように。
「あ、ほら。あそこに竜がいるわ、おじさま」
「え!? ああ……うん、そうだね。本当に竜みたいだ」
少女の指差す先にあるのは、竜の形をした雲。
それは、ただただ眩しく太陽に照らされ輝いていた。
天翔ける飛竜機 天見ひつじ @izutis
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