アドリアに飛竜は舞う

リーチェ

1929年 4月14日 ヴェネツィア南東50kmの海上

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 ゴットフリート・フォン・バンフィールドとの戦いは、おそらく死力を尽くしたものとなる。万全を期すため、ヴェネツィアで給油してから再び飛び立つ。離翔はスムーズそのもの、ほどよく温まったエンジンは心地よく吹き上がり、操縦桿はリーチェの意図を汲んだかのような反応のよさだった。


 結局、フェラーリンの回復は間に合わなかった。リーチェ専用機としてチューンされたM.33Aは、歴戦の飛行機乗りであるフェラーリンをして操縦に手こずらせる代物となっていたからだ。腕の怪我も響き、空に上げるのが精一杯という有り様では空戦の練習相手など務まらない。かといって、飛竜機の調整にかかりきりのアレッサンドロとジニーに、練習のためだけにM.33Aの再調整を頼めるわけもなく、単独でのイメージトレーニングを重ねるしかなかったのだ。


「ここまで三戦して、一勝一敗一引き分け。腕前は五分と五分」

 知らず、微笑みが口元に浮かぶ。

「だったら、勝てる。五分の戦いをずっと勝ち残ってきたから、ぼくたちはここにいる。そうだろう、ブランカ?」


 風に煽られて、機体が左右に揺れる。

 ブランカがリーチェに応え、よくそうしていたように。


「春の空は雲が薄い。そろそろ見えてもおかしくないけど」


 ズメイの青灰色の竜鱗は、天然の海上迷彩だ。高いところに薄く雲がたなびくだけの空では、雲でカモフラージュできない純白の飛竜機は目立つ。一方、雲に紛れて伏兵を配置できないという意味では予備戦力を持たないこちらに有利な天候だった。


 片足のエース、ゴットフリート・フォン・バンフィールド。飛行機乗りとしての技量には感服するが、人格には全く信頼の置けない人物だ。古きよき時代の空の騎士らしく決闘前に挨拶を交わすようなタイプとも思えず、あわよくば奇襲を狙ってくる相手と見てよい。大馬力のエンジンが立てる轟音で耳が塞がれたこちらに対して、飛竜ズメイを駆る相手は高い静音性で相手に忍び寄ることができる。自分ならどう仕掛けるかを考えつつ、周囲へ視線を巡らせる。


「……いた。真正面から?」


 青灰色の竜は空に溶け込み、遠くからでは目を凝らしていても見失ってしまいそうになる。だが、ズメイの背に伏せて真正面から突っ込んでくるバンフィールドの姿は確認できた。しかし、アズダーヤ隊との戦いを思い返せばとてもではないが安心する気にはなれない。真正面からきたのは囮として注意を引くためで、どこかに伏兵を潜ませている可能性はあった。そもそも、ズメイの背に人影があるからと言って、それがバンフィールド本人である保証はどこにもないのだ。


「楽しく遊んであげたいのは山々だけど、そう簡単には信用してあげられないな」


 ブランカの機首を上げ、高度を取ってかわす。バンフィールドも速度を落とすのを嫌ってか、真っ直ぐに抜けて大きくループ、再びズメイを突っ込ませてくる。その間、周囲に敵影がないことを確かめながら、ズメイを駆る人物を観察する。片足の膝から下が義足で踏ん張りが効かないことを考慮してか、竜の首にまたがるのではなく背に貼りつくような態勢で身体を固定している。なるべく空気抵抗を減らし、ズメイの飛行の妨げにならないようにとの意図もあるのだろう。自由になった両手でズメイの首を触れたり叩いたりすることで指示を出しているようだ。


「操竜規定。今度はきみが縛られる番だ、バンフィールド」


 法に縛られず、操竜規定を順守する必要がない空賊という立場を強みとしていたアズダーヤ隊の姿は、もうそこにはない。規定への違反が発覚した場合に受ける国際的な非難を考えれば、イタリア王立空軍が元敵国の軍人にしてテロリストという出自を持つバンフィールドをかばってまで軍に迎え入れるメリットがないからだ。皮肉にも彼はいま、彼が憎んだファシストによる強いイタリアのアイコンとなるため、不自由な飛行を強いられている。


 それに対して、リーチェが駆るのは世界初の飛竜機だ。


 機体各部を木材に竜角と竜骨を組み合わせたコンポジット材に置き換え、胴体と翼の表面は軽量で強靭な竜皮を貼り直している。外観は原型となったM.39Aから大きく変化していないが、機体の軽量化による最高速度と空力特性の性能向上に加え、粘りとしなりのある主翼になったことで複葉の軽戦闘機のごとき軽快な空戦機動が取れるようになっている。


「ああ、そうか。価値があるのは飛竜の主としてのきみだから、ファシストに自分を売りこむときにアズダーヤ隊の部下たちは切り捨てたってわけだ。当然、そんなきみに肩入れする飛行機乗りが誇り高いイタリア王立空軍にいるはずもない。要するに、ぼくを倒さなきゃ後がないってわけだ」


 執拗だが単調な突撃を何度かかわしているうちに、そんな理解が訪れる。加えて、伏兵がないこともほぼ確信できた。上昇して突撃をかわすと見せかけ、捻り込むように急旋回、ズメイの後方につける。エンジンの出力にはまだ余裕があるが、それでも距離は少しずつ縮まっていく。敵はどう出るか、ズメイを照準に捉えつつも視界は広く、操縦桿を握る手首はどんな機動にも対応できるよう柔軟に保つ。


「ま、それしかないよね」


 バンフィールドが重心をずらすのに合わせてズメイがハーフロール、翼を一打ちして背面のまま急降下に入れる。速度で勝る飛竜機の射線から外れつつ距離を離す、唯一の選択肢だ。飛竜も肺で呼吸を行う生物である以上、空気の濃い低空の方が持続力が増すことを踏まえても、ズメイが低空に逃げることは想定済みだった。エンジンも低空での空戦を念頭にチューンしてある。


 長期戦に備え、空戦機動に支障をきたすギリギリまでフロートに燃料を搭載してあるが、それでも単純な滞空時間で比べれば敵に軍配が上がる。だが燃料切れまで全力で戦闘機動を続けられる飛行機と違って、飛竜は十五分も全力で飛べば息切れする。騎乗する人間の限界はもっと早く訪れるだろう。スロットルを握る左の手首に目をやり、時刻が七時四十五分であることを確認する。


「魔法が解けるまで、さあ、踊ろう」


 進行方向を読んで、敵が回避したときに自分が有利な位置取りを崩さないイメージを描く。スロットルを調整、操縦桿を倒し、ラダーを踏んで、理想の軌跡をなぞる。引き金を絞って知らせてやる必要すらなく、優秀な敵手は淀みなく急激な機動で回避してくれる。ちょっと強く操縦桿を倒せば追随できそうだが、無理に追えば速度が落ちて、手痛い反撃を受けるだろうと直感する。離脱。


「もう一度……!」


 海面ぎりぎり、水平方向への旋回から互いを真正面に捉える。一瞬だけトリガーを引き絞り、結果は確かめずにバレルロールで軸をずらす。射撃の瞬間、その場で羽ばたいてほぼ垂直に上昇して回避したズメイが水飛沫を跳ね上げながら真っ直ぐに飛んでいく。もし回避が遅れていたら、頭上からのしかかるように海面へ叩きつけられていただろう。飛竜にしか成し得ない機動であり、初見ならばまず引っかかる手口だが、リーチェにとってはブランカが飛竜だったころに多用した手に過ぎない。


「操竜士としては未熟もいいところ。それとも、上手く踊れないふりかな」


 バンフィールドが無策で挑んできたとは考え辛い。飛竜機の存在は想定外だったとしても、慣れない竜に騎乗しての空戦に際して、リーチェがこれまで用いてきた戦術の稚拙な模倣だけで勝てると思うほど甘い男ではないはずだった。秘策を隠し持っているものとして警戒しておく必要がある。


 ループで切り返してズメイの頭を押さえにかかると、フェイントからの急旋回で逃げられる。大きく羽ばたいての急加速とループで後ろにつかれるが、息切れを狙うという意味ではズメイへの負担が大きい急激な機動はむしろ歓迎だった。スロットルを上げてさらに上昇、インメルマンターンでバンフィールドの背中を追う。翼と尻尾を組み合わせた微妙な制御から生まれる捻りやスリップも見逃しはしない。ブランカはリーチェの思い描いた軌跡を滑らかになぞっていく。


 低空での戦闘も、互角以上でやれるという確信が湧く。原型機であるM.39自体が世界最速の水上機を決めるシュナイダートロフィー専用機であり、海面すれすれでの高速飛行を前提とした設計になっている上、トニーニ工房での改造により空戦に耐えうる強靭さと柔軟さを手に入れている。加えて、操縦するリーチェ自身も対竜戦闘と低空飛行のエキスパートなのだ。


「ズメイはきみに遠慮し、無理をしている。そのことに気付いているか?」


 思ったよりも早く、ズメイに疲れが見え始めた。その原因は、バンフィールドとズメイが対等ではないことにあるとリーチェは見て取った。ズメイはバンフィールドの命令に逆らえず、それに従って飛んでいるので、自ら判断しての動作と命令された動作が食い違ったときの切り替えがぎこちなく、無理のあるものとなっているのだ。当然、無理は疲労に繋がり、蓄積していく。


 ズメイとの距離が少しずつ詰まり、照準に捉えていられる時間が確実に長くなってきた。しかし、竜鱗に生半可な銃撃は通じない。狙うなら翼か、背中に乗るバンフィールドだ。弾切れになったらこちらの攻撃を心配しなくてもいいズメイから一方的に攻撃を受けることになるので、確実に飛行能力を削ぎ落していかねばならない。


 視界は広く保つ。至近距離だからこそ、照準に集中した一瞬を突かれれば容易に相手を見失う。静音性が高く、羽ばたいての急激な制動を可能とする竜ならなおさらだ。一撃で仕留めるなどと勢いこまず、ただ当たり前のように引き金を絞り、放たれた弾の行き先、銃弾がもたらす結果を目で追わない。相手の反応だけを見極め、次射に有利な位置取りとそこへ至る軌跡を思い描く。


 ズメイの背中に機銃が弾ける。一瞬前までそこにいたバンフィールドの姿は、もうなかった。彼を飛竜に縛りつけていたベルトが弾け、振り落とされたのだ。機銃でベルトが千切れたのか、あるいは自らベルトを外したのか。結果として、もっとも分厚い背中の竜鱗で弾を受け止めることに成功したズメイは、ほぼ無傷で飛んでいる。それを確認した直後、目の前でパラシュートがぶわりと開いた。


「くっ!」


 視界を塞がれる。それ以前に、パラシュートへ突っ込めばプロペラを絡めとられて墜落する恐れがあった。とっさに操縦桿を引き倒し、右斜め上へ抜ける。ロールして態勢を立て直したときには、ズメイの姿を見失っていた。直感に従って左へ急旋回。下方から急上昇してきたズメイをかわす。その場で宙返りするようにして身をひるがえしたズメイの爪から逃れるため、そのまま急降下。海面すれすれでなんとか引き起こし、すぐさまバレルロールで位置をずらす。


 前方に降り注いだ火球に驚いて、とっさに機体を引き起こしそうになった。


「……ッ! 同じ手が通じるとでも!」


 パラシュート降下中のバンフィールドが撃った信号弾だった。派手に炎の尾を引く信号弾は、直撃せずとも牽制と目くらましとして十分に機能する。辛うじて無理な引き起こしで機速を失うことは避けられたが、ズメイを見つけられないことに焦りが募る。自機のエンジン音に耳を塞がれていることが、音もなく背後へ忍び寄る飛竜が、これほどまでに恐ろしいものだとは思いもしなかった。


 落ち着け、と自分に言い聞かせる。機速を失ったまま格闘戦を演じれば飛竜の方が優位なのは明らかである以上、今やるべきは速度を取り戻すことだった。操縦桿を倒して旋回に入れたい衝動を押さえつけ、スロットル全開であえて真っ直ぐ飛ぶ。ズメイを援護するバンフィールドから距離を取り、海面を盾としてズメイの襲い来る方向を限定するためだ。


 背後を振り返ると、急降下を軌道修正しきれなかったズメイが海面すれすれで制動をかけていた。もし旋回に入れていたら、爪に捉えられて海面へ叩きつけられていただろう。追ってくる気配がないのを見ると、呼吸を整えるつもりなのだろうが、そうはさせない。加速をつけて大きく旋回し、真っ直ぐ突っ込む。リーチェの意図に、ズメイがいつ気付くかが鍵だった。


「……ごめんね」


 高度を取ろうとするズメイを、リーチェは追わなかった。機首は海に浮かぶパラシュート、それに巻かれて溺れないようもがくゴットフリート・フォン・バンフィールドへ向け続ける。優雅なループを描く途中でこちらを視認したズメイが、そのことに気付いて急降下をかける。


 バンフィールドが血相を変えて叫ぶのが見えた。彼の命令にどこまでも従順だったズメイは、あるいは初めて彼の命令に逆らって自らの意志を通した。引き金に連動して機銃弾が吐き出され、逃げる術のないバンフィールドをかばうように射線へ割って入ったズメイの身体へ吸い込まれていく。青灰色の竜鱗と乳白色の翼膜に黒々とした穴が無数に穿たれ、どっと紅色が溢れた。


 命を失った竜が海に浮かぶことはない。分厚い飛行服を着こみ、片足が義足の男も、また。自らの腕時計に目をやり、さらに五分待ったリーチェが機体を着水させると、フロートの側に流れてくるものがあった。青灰色の竜鱗が一枚。それだけが、亡国に殉じて恨みを抱いたまま死んだ飛行機乗りと、彼を慕った竜が遺したものだった。綺麗に拭って、ポケットへしまいこむ。


「帰ろう、ブランカ」


 太陽と雲のかける天使の階梯が、アドリア海に沈んだ全てを祝福していた。

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