決戦の空へ

リーチェ

1929年 4月14日 決戦の朝に

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 湖面へ続くスロープの前へ引き出された飛竜機ブランカ、その純白の機体が暁光に赤く染まっていた。滑らかな質感の機体表面に手を当てれば、金属とは異なる竜鱗の感触の奥に熱を感じられるような気すらした。


「おねえさま、フランカさんがコーヒーを淹れてくれたよ」

「ん、ありがと」


 ジニーの差し出すマグカップを受け取り、湯気を上げるそれへ口をつける。肌寒い春の早朝に、苦さと温かさが心に沁みるようだった。フランカのコーヒーを淹れる腕前が卓抜しているのはもちろん、空へ飛び立つ前の一杯は、それが最後の一杯となるかも知れないと思えば、いつだっておいしいものだ。


「この十日間、おねえさまが試験飛行を手伝ってくれたおかげで機体は万全だよ。試作の可変ピッチプロペラに換装してあるから、離陸した後と空戦に入る前にピッチを切り替えるのを忘れないで。それから……」

「大丈夫だよ、ジニー。心配してくれてありがとう」


 連日の作業で目の下に隈を作ったジニーの頭を撫でてやると、感極まったようにじわりと涙を浮かべたジニーがリーチェに抱きついてきた。分厚い飛行服越しに、受け止めた重みと体温を感じとる。いつの間にか女性らしい体つきになっていた彼女の願いに、奮起しないアドリアの飛行機乗りはいないだろう。


「どうか、無事に帰ってきて、おねえさま……!」

「もちろんだよ。そうだ、帰ってきたらお茶にしよう」

「……約束だよ?」

「うん、約束する。大丈夫、ジニーの飛行機に乗ってれば絶対負けないよ」

「おねえさま、だいすき」

「ぼくもだよ、ジニー」

「フランカさんと一緒に、お茶の準備して待ってるからね」


 ジニーはそう言うと、精一杯の微笑みを浮かべて身体を離し、そのまま踵を返した。入れ替わりに厳しい顔をしたフェラーリンが歩み寄ってくる。怪我を押してリーチェの慣熟飛行と空戦の訓練に付き合ってくれた彼も体調が悪そうで心配になる。


「ラニエロさんから預かった。つい先ほど届いたそうだ」


 差し出された書簡を受け取ると、レオーネ・アレーニアの署名が見えた。切手も消印もないということは、わざわざ人に持たせて送ってきたということだ。急いで封蝋を剥がし、中に入っていた便箋に目を通す。その内容に顔をしかめずにはいられなかったリーチェを気遣うように、フェラーリンが問う。


「……なんと書かれていた?」

「きみの飛行隊を引き継いだジーノ大尉……今は少佐になったんだっけ。ぼくがバンフィールドとの決闘に勝ったら、親衛飛行隊の隊長には彼が任命されるらしい。というか、きみの飛行隊がそのまま看板を掛けかえるみたいだね」

「そうか……レオーネさんが尽力してくれたおかげだな。ジーノのやつには苦労を掛けるが、あいつらなら実力は申し分ないと俺が保証してやれる。きっと、次代のイタリア空軍を立派に率いていってくれるだろうさ」

「その条件として、バンフィールドの確実な撃墜とその証拠を求められた」


 かつての部下が認められた喜びに緩んでいたフェラーリンの表情が、引き締まったものとなる。空戦における勝利と撃墜、その微妙なニュアンスの違いを、飛行機乗りである彼もまた理解したためだ。


「戦争じゃないから、殺しはしない。ささやかな誇りだったんだけどね」


 空戦における勝利とは、なにも相手を撃墜することに限らない。相手が負けを認めて降参したり、被弾して空戦を継続不能になったりすれば、それも勝利だ。しかし、撃墜してその証拠を手に入れるとなれば、話は別だ。アズダーヤ隊との決戦のとき、降伏すると見せかけて信号弾を撃ち放ってきた記憶が甦る。もう後のないゴットフリートは、たとえズメイが海へ墜落しても負けを認めないだろう。そのとき彼が生きていたのなら、殺すしかない。


 フェラーリンがためらいがちに口を開く。


「リーチェ。きみはもう、国家の意志で銃を撃つ軍人じゃない。だがバンフィールドは多くの人間を殺害したテロリストで、殺したとしてもそれは正当な行為として認められる。きみが殺人を咎められる理由はどこにもない。慰めにもならないだろうが、それだけは覚えておいてくれ」


 リーチェの声の震えに気付き、そんな不器用な言葉をかけてくれる彼がどうしようもなく愛おしく思えた。彼のためなら、リーチェは人を撃てる。


「わかってるよ、フェラーリン。そのときは迷わない」

「行ってこい、エースパイロット。お前とブランカは誰よりも速い」


 微笑み交わし、軽く拳をぶつけあう。それだけで力が湧いてくる気がした。

 フェラーリンとの話はそれで終わったと見たのか、少し離れたところで待っていたアレッサンドロとヴァレリアナが機体の側へ歩いてきた。


「そろそろ時間だ。準備はいいか?」

「うん、おやっさんも、ありがとう」

「これで最後、みたいな声を出すんじゃねえ。絶対に帰ってこいよ」

「テストパイロットは帰ってくるのが仕事、だろ?」

「分かってんなら、それでいい。最高の仕事をしてこいよ」

「ん、了解」


 あえていつもと変わらぬ風を装っているのが見て取れるアレッサンドロとは違い、ヴァレリアナは本当にいつも通りに声をかけてくる。


「リーチェ」

「はい、おばあさま」

「ブランカが貴方を護ってくれるはずです。勝って帰るのですよ」

「アレーニアの名に恥じない戦いをします」

「どうせなら、貴方の名前に誓いなさいな」

「では、ベアトリーチェ・アレーニアの名にかけて、勝利を。我が最良の相棒たるブランカの名にかけて、無事の帰還をここに誓います」

「いいわ、行ってらっしゃいな」

「はい、行って参ります!」


 飛行服にはそれがふさわしい気がして、何年振りかの敬礼をする。そのまま踵を返し、フロートを踏んで翼上へ身体を持ち上げて飛竜機に乗り込む。順序よくベルトを締めて、身体を固定していく。腹部の締め具合は少しだけ迷ったが、緩くしてもかえって加速度がつくだけだと思い直して、しっかり締める。


「エンジン始動、いくよ」

「おう、任せろ」


 アレッサンドロがクランクでフライホイールを回すのに合わせて、エンジンを点火。火の入った水冷V型12気筒が轟然と唸りをあげ、木と竜骨のコンポジット材を削り出したプロペラが爆発的な推進力を生み出す。全てのシリンダが正常に爆発しているのを耳で確認して、地上でフロートを押さえているフェラーリンとジニーに合図を送る。二人がゆっくりと手を放すと、滑車に乗せられた機体はスロープを滑ってコモ湖の水面へ滑り出していく。


 湖岸へ頭を巡らせれば、フェラーリンとジニー、アレッサンドロやヴァレリアナに加え、仕事の手を止めてリーチェを見送るフランカとラニエロの姿もあった。手を振り、また大声で応援してくれる彼らに親指を立てて応え、微笑みを投げてからゴーグルを下ろす。動翼の動作確認を手早く済ませてから、空気抵抗の低減のため閉鎖型となったキャノピーを後方からスライドさせる。


「飛ぶよ、ブランカ」


 ベアトリーチェ専用水上戦闘機M.39 Blancaが鏡のような水面を切り裂き、フラップを下ろした純白の翼で空気を捉える。スロットルを開き、速度を増すごとに強まる上向きのベクトルが暴れ出さないよう操縦桿で押さえこみつつ離水のタイミングを図る。水面から離れ、空へと上がりたがる機体に任せてやれば、それでよかった。キャノピーに散る水飛沫とフロートを通して感じる水の抵抗が消え、ぐんと速度が増したことで離水に成功したのがわかった。


 向かうはヴェネツィア南東50kmの海上。そこに、悪竜ズメイとゴットフリート・フォン・バンフィールドが待っているはずだった。

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