白の飛竜機
リーチェ
1929年 4月3日 トニーニ工房にて
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裏門からコモ湖岸沿いの散歩道へ出て、大きなバスケットを提げたフランカと一緒に歩く。かすかに匂うコーヒーと、かりっと焼けたトーストの香りが鼻をくすぐる。工房を訪ねているヴァレリアナのため、ちょうどランチを届けに向かうところだったのだろう。彼女が作ってくれる、レタスとトマトでハムとモッツァレラをふんだんに挟んだトーストはいつだって絶品なのだ。
「そういえば、フィウメに置き去りにしちゃった荷物ってどうなったかな?」
「お嬢さまのお部屋にお届けしてございます。……ブランカさまのご遺品も」
「そっか、ありがとう。おばあさまは元気かな?」
「ええ、それはもう。健やかにお過ごしですよ」
「工房にはよく行ってるんだ?」
「はい、ときには夜中まで。おかげで、お食事の準備が大変です」
「いつもありがとう、フランカ。おやっさんとジニーにもお礼を言わないとね」
頬をなでる風と揺れる草花が春の訪れを告げる街並みを眺めながら歩いていると、すぐに工房が見えてくる。ガレージの扉が細く開かれているところを見ると、おそらくヴァレリアナたちはそこにいるのだろう。来訪を知らせるため鉄扉を軽く叩いて、薄暗いガレージの中に頭を突っこむ。テーブルを囲んで談笑するヴァレリアナとアレッサンドロ、リーチェの姿を認めて目を輝かせるジニーの顔がそこにあった。
「ただいま」
「……お帰りなさい、おねえさま! いつお帰りになったの?」
「ついさっきだよ。心配かけたね、ジニー、おやっさんも」
「ううん。おねえさまたちが無事でよかった!」
栗毛のポニーテールを揺らして駆け寄ってきたジニーがリーチェに抱きつく。受け止めて、抱き返してやると、嬉しそうに微笑んでこちらを見上げてくる。すぐ隣では、フェラーリンとアレッサンドロががっちり握手を交わしていた。
「久しぶりだな、フェラーリン。お前さんも、うむ、まあまあ元気そうだな」
「ええ、おかげさまでなんとか生きていますよ」
ひとしきり再会の喜びを分かち合ってから、フェラーリンと二人でヴァレリアナに向かい合う。リーチェの妊娠について、今はまだ誰にも気付かれるわけにはいかなかった。ヴァレリアナはともかく、レオーネに知られようものなら最悪の場合飛行機を取り上げられかねない。
「ただいま帰りました、おばあさま」
「ええ、お帰りなさい。まずは生きて再会できたことを喜びましょう」
「……この度は私が至らぬばかりに、リーチェを危険な目に遭わせてしまいました。申し訳ありません、ヴァレリアナさま」
「顛末は聞いています。フェラーリンさん、貴方はよくやってくれたわ。それに引き換え、リーチェ、貴方、子供を身籠ったそうだけど、わたくしにもそれを黙っておくつもりなのかしら?」
不意打ちに目が泳ぎそうになり、なんとかこらえて無表情を保つ。しかし、隣に立つフェラーリンはそうはいかなかったようだ。彼の視線が床をさまよい、それを見咎めたヴァレリアナの表情が呆れたようなそれへ変わる。ヴァレリアナの人の悪さを考えれば、責められるべきはフェラーリンではなく、カマかけを予期できる立場にありながら彼に注意しなかったリーチェ自身だった。
「やっぱりね。それで、何ヶ月なのかしら?」
相手に考える間も与えない端的な質問を重ねるヴァレリアナ。
「え? ……え?」
まだ事態がのみこめていないジニー。
「まあ、そうなるわな……」
ぴしゃりと額を叩いてどこか愉しげですらあるアレッサンドロ。
「わたくしは薄々察しておりましたが、告げ口はしておりませんよ」
澄ました顔で言ってのけるフランカと、反応は綺麗に分かれた。
バレてしまっては仕方がないので、医者に告げられた事実を述べる。
「まだ一ヶ月だそうです。ゴットフリート・フォン・バンフィールドとの決闘は二週間後に設定したので、お腹が大きくなって飛べなくなるようなことは……」
「リーチェ、貴方ね……」ヴァレリアナがため息をつく。「いっそ、男を相手に話していると思った方がいいのかしら……いいこと、リーチェ。お腹が大きくなる前っていうのはね、ちょっとした衝撃で流れてしまいやすい時期でもあるのよ? そのことを理解して、それでも貴方は飛ぶ気なのかしら?」
「はい、おばあさま」
「……この躊躇いのなさは、誰に似たのかしらね」
「おわかりでしょう?」
「生意気を言うようになったものですこと……ええ、よくってよ。そのつもりで、わたくしたちも準備を進めてきたのですからね。ジニーちゃん、フランカ、申し訳ないけれど、その子にかぶせてあるカバーを取ってやってもらえるかしら」
ヴァレリアナが視線を向けたのは、ガレージの奥に鎮座する物体だった。形状と大きさからみて、フロート機。ジニーのガレージにあるならフェラーリンの乗っていたM.39Aのはずだが、また改造を加えたのだろうか。天窓から差しこむ光でそこだけ明るく照らされた機体が、二人の手によって外されたカバーの下から姿を現す。
「わたくしは『飛竜機』と名付けました」
ヴァレリアナの声が、凛と響く。輝かんばかりの純白の機体は塗装によるものではなく、素材の色そのものだと遠目にもわかった。わからないはずがなかった。それは、誰よりもリーチェが見慣れた色。飛竜ブランカのまとう白だったのだから。
「形式番号はM.39Bとした。M.39Aの後継であることを示すと同時に、ブランカを示すBでもある。お前さんの乗ってたM.33Aとどっちを改造するか迷ったんだが、最強の戦闘機をリーチェにというのがあいつの……ブランカの望みだったんだ」
沈黙に耐えかねたか、アレッサンドロが言う。
リーチェは機体に歩み寄りながら、その言葉の意味を頭の中で転がす。
「ブランカが……?」
「そうだ。ブランカは自らの死後、身体を飛行機の素材とすることを承諾していた。お前さんがアズダーヤ隊との決戦に向かう少し前のことだ」
「ごめんなさい、おねえさま! わたしがこんなこと思いつかなければ」
「いいえ、その計画を聞いてブランカに教えたのはわたくしです。ジニーちゃんは優秀な航空技師なら当然持つだろう発想を語ってくれたに過ぎません」
周囲の声が遠のく。肩に置かれたフェラーリンの手、その体温すら他人事のように感じられる。ただ呆然と、眼前の存在に目を奪われていた。強固な鱗に覆われた滑らかな竜皮に置き換えられた胴体部、軽く丈夫な翼膜を竜骨に張り合わせて構成された主翼。そこだけが赤く残された尾翼には、官能的なくびれを描く角を生やした、剽悍な竜の横顔が白く染め抜かれていた。
純白の水上戦闘機は、とても綺麗だとリーチェは思った。
「……おかえり」
どのように形を変えたとしても、そこにいるのはブランカだった。
「おかえり、ブランカ……!」
M.39 Blanca、リーチェの生涯の相棒となる機体との出会いだった。
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