八章 アドリアに飛竜は舞う

親愛と忠誠

リーチェ

1929年 4月3日 コモ湖畔の街 ベッラージョ

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 アズダーヤ隊との決戦に向けて飛び立って以来、半年ぶりの帰郷だった。あのときレオーネに言われた言葉を思い出し、リーチェは苦笑してしまう。結婚して子を成せ、という父の言葉は図らずも叶えられることとなった。順序がおかしくなったことについては怒られるかも知れないが、それもまたアレーニアの血なのではないかと、ヴァレリアナの駆け落ちの顛末を聞いた今ではそう思う。


「さて、おばあさまとフランカは戻ってきてるって話だったけど」

「正門は閉まっているな」

「父上がいないときは竜巣の側にある門しか開けないんだ。そっちに回ろう」

「いえ、その必要はございません」


 正門の前で立ち話していた二人の背後に、いつのまにかラニエロの姿があった。旅装をしているところを見ると、ローマから帰ってきたところなのだろう。


「お帰りなさいませ、お嬢さま、フェラーリンさま」

「一人だけ? 父上はまだローマにいらっしゃるのかな」

「アズダーヤ隊の生き残りとの決闘の件、このラニエロも伺っております。旦那さまはお嬢さまのことをたいそう心配しておいででございました」

「勝手な決断をしてしまったこと、父上に謝罪の言葉を伝えてくれるかな」

「かしこまりました。そのことで、旦那さまから伝言もございますので、まずは邸内へどうぞお入りくださいませ。よろしければコーヒーを淹れましょう」

「ありがたいけど、まずはおばあさまに挨拶しないと。ああ、父上の伝言は緊急性の高いものだろうし、よければそれだけでも先に聞かせてくれないかな」


 正門の鍵を開けていたラニエロはリーチェの言葉に残念そうな表情を見せるも、気を取り直した様子でレオーネの言葉が記された便箋を手渡してくれた。忙しい合間に走り書きしたのだろう、ところどころ滲みやかすれの目立つ、しかし迷いのない筆致。レオーネの声が聞こえてくるような手紙だった。


『我が娘、ベアトリーチェよ。お前のことだ、こたびの決闘も深く考えての提案ではなかったに違いない。しかし、その機転で自らの愛する者を見事に守り切ってみせたこと、アレーニアの当主として私はお前を誇りに思う。

 そして、ゴットフリート・フォン・バンフィールドが決闘の話を持ち帰ったことで、こちらの情勢も微妙に動いた。この件に関しては各勢力の思惑が複雑に絡み合っており、かつての敵国人の身分を偽って軍に迎え入れようという動きに嫌悪感を示す者も多い。それらの勢力を上手くまとめ上げれば、お前の存在そのものが政治的な爆弾と化す。上手くやれば、今後ベアトリーチェ・アレーニアの存在に触れること一切を禁忌とすることも不可能ではないだろう。

 つまるところ、要点は一つ。戦って自由を勝ち取れ、ベアトリーチェ』


「つけ加えるならば」

 手紙を読み終えて視線を上げたリーチェに、ラニエロが言う。

「旦那さまは、こうもおっしゃっておいででした。『勝てば自由とは聞こえがいいが、娘を死地に追いやる父親がどこにいようか? 私は、あの子がフェラーリン君と私の与り知らぬ場所へ駆け落ちしてくれることを心のどこかで願っているよ』と」

「ねえラニエロ、父上はこうもおっしゃっていたんじゃないかな?」

 リーチェが言う。

「そう、例えば『ラニエロよ。今の言葉、リーチェには言ってくれるなよ。内心では逃げてくれることを願っていたなどと、今さら虫がよすぎる』ってさ」

「……流石はお嬢さまでございます。このラニエロ、旦那さまの言いつけを破ってそのお言葉をお嬢さまへお伝えいたしました。かくなる上は、いかような処罰も甘んじて受け入れる所存。どうかこの老骨めをどこへなりと放逐してやって下さいませ」


 悄然とした様子で、それでも背筋を伸ばしてぴしりと頭を下げてみせるラニエロを見て、リーチェは思わず吹き出してしまった。この老執事の忠誠の尽くしぶりときたら、中世の騎士物語もかくやと言わんばかりなのだ。


「ラニエロがいなくなったら、誰がコーヒーを淹れてくれるんだい?」

「……ですが、お嬢さま」

「ぼくはなんにも聞かなかった。それでも納得できないなら、うん、ぼくはきみに命じよう。父上の言いつけを破ったことは一生隠して、その償いのためにこれまでと同じようにアレーニア家に仕えること。それでいいね?」

「……ありがとうございます、お嬢さま。このご恩、ラニエロめは忘れません」

「うん。全て終わったら、みんなでコーヒーを飲もう」

「かしこまりました。最高の豆と菓子をご用意しておきます」


 リーチェの言葉にいたく感動して頭を上げようとしないラニエロに別れを告げ、竜巣へ足を向ける。その途中、フェラーリンがぽつりと口にする。


「すごいな、お前は」

「こう見えても、お嬢さまだからね」


 冗談を口にするが、笑ったのはリーチェだけだった。会話が途切れたまま歩を進めていると、人気のなくなったところでフェラーリンが再び口を開く。


「なあ、リーチェ。もう一度だけ聞くが、俺と代わる気はないんだな?」

「言っただろ。二人とも生き残るにはそうするのが最善だって」

「……もう、二人じゃないんだぞ!」

「……わかってるさ」


 ゴットフリートとの邂逅の後、ラウリン夫妻が呼んでくれた医者にフェラーリンの手当てをしてもらってから、リーチェも診察を受けていた。覚悟はしていたが、考え得る限り最悪のタイミングでの妊娠発覚だったことは間違いない。


「はっきり言っておくけど、ぼくにとっては生まれてもいない子供より、きみの方が大切なんだ。ぼくと子供を守って死ぬなんて、そんな安っぽい死をきみに許すつもりはこれっぽっちもないんだからね」

「……ああ、くそっ、お前が覚悟を決めているのに、俺は……!」


 リーチェの言葉に、フェラーリンが歯噛みする。


「いいよ、ぼくだって立場が逆ならそう思う。けど、パートナーだろ。信じててよ」

「すまん。俺にできることがあったら遠慮なく言ってくれ」

「待っててくれれば、それでいいんだよ」


 怪我をしていない方の腕を拳で軽く叩くと、それでも響いたのか顔をしかめる。行く手に見える竜巣は入り口が大きく開け放たれ、風通しをしているようだった。ここの主であったブランカは、もういない。居場所が露見するのを防ぐために手紙のやりとりもしていなかったので、ヴァレリアナに会ったらまずブランカがどこに埋葬されたのかを聞かなければならないだろう。命懸けで尽くしてくれた相手の墓がどこにあるかさえ、リーチェは知らないのだ。


「……お嬢さまですか?」

「やあ、ただいま」


 竜巣の側にあるヴァレリアナの隠居住まいの扉を開くと、ちょうど出かけようとしていたフランカと鉢合わせる。彼女は大きく目を見開いて驚いた様子を見せたが、咳払いを一つするとすぐに冷静な表情を取り戻す。その反応にわずかな違和感を覚えたものの、具体的な言葉にはならなかった。


「お帰りなさいませ、お嬢さま」

「おばあさまはどこへ?」

「トニーニさまの工房へお出かけです」

「おやっさんのところへ? どうして?」

「……わたくしも今からあちらへお伺いするところでした。お嬢さまとフェラーリンさまも、よろしければご一緒にいかがですか?」

「ん、いいけど……どうかしたの?」


 普段より固い口調が気になって尋ねると、フランカは言葉を選ぶようにゆっくりと丁寧に口にする。これはヴァレリアナが箝口令を敷いている証拠だ。


「お二人が進めている計画の詳細について、お嬢さまはまだ耳に入れていらっしゃらないと承知しております。どうか、お心を強く持って、ヴァレリアナさまの話をしっかりと聞いていただきますよう、わたくしからもお願い申し上げます」


 あえて核心を避けた言葉の中で、計画という単語が不穏に響いた。フェラーリンも同じ受け取り方をしたようで、そっとリーチェの肩に手を置いてくれた。その温かさが、今は心強い。


「いいよ、じゃあ行こうか」


 そして、リーチェは出会うことになる。

 生まれ変わった白の翼、竜のごとき飛行機と。

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