亡霊との再会
リーチェ
1929年 3月31日 復活祭のサンモリッツにて
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サンモリッツに身を隠し、気付けば半年が経とうとしている。この日、復活祭を迎えた街は春の訪れを喜ぶ雰囲気に包まれ、道行く人々の表情は一様に明るかった。きっと自分たちもそう見えるのだろうとリーチェは思う。木立を抜ける散歩道は雪に覆われたままだが、半年もここで過ごせば歩き方も心得たもの。さくさくと歩を進めていると、隣を歩くフェラーリンが頭ひとつ分高いところからリーチェの顔を覗き込むようにして声をかけてくる。
「そろそろ酔いは冷めたか?」
「うん、付き合ってくれてありがとう」
「気にするな、俺も風に当たりたかったところだ」
コテージの管理人であるラウリン夫妻が用意してくれた復活祭の料理は質も量も申し分なかった。上品な甘さのチョコレートを詰めたイースターエッグに始まり、各国の料理をアレンジして取り入れた前菜、復活祭の主役たるラムチョップのローストを堪能していると、デザートにはわざわざ取り寄せたというハト型の枠に入れて焼き上げたイタリア伝統の菓子であるコロンバと濃厚なエスプレッソを出してくれたのだ。イタリア生まれの二人に対する気遣いに、感謝する他なかった。
「なんだか楽しくて、ちょっと飲み過ぎちゃったね」
「……大丈夫か? ここらは雪解けで滑りやすくなってるから、転ぶなよ」
「そのためにきみを連れてきたんだろ」
コートに身を包んだフェラーリンを引き寄せ、腕を組む。ここへ来た当初こそぎこちなかったものの、今ではエスコートされるのにもずいぶん慣れた。屋内でのトレーニングやスキーで身体を鈍らせないようにはしているが、ラウリン夫妻の料理がおいしいのもあって、体重も少し増えていた。もしブランカが生きていたら、重たいからもっと痩せろと怒られてしまうことだろう。
「あのさ」
「ん?」
「きみはイタリアへ帰りたい?」
「そりゃ帰れるに越したことはない。ご両親にきちんと挨拶もできていないしな」
「うん、きみのご両親にも会っておかないといけないんだけど、えっと、ぼくが言ってるのはその後の話。いつまでもこうして遊んではいられないでしょう?」
「前にも言ったが、俺は飛行機に乗るしか能がない。世界を飛び回ることになるだろう。俺としては、お前にもついてきて欲しいと思っている」
「もちろん、一緒に行くよ。それでね、ただついていくだけっていうのも芸がないでしょう? だから、考えたんだ。ぼくがやるべきこと。聞いてくれる?」
「ああ、お前にやりたいことがあるなら、俺は全力で支えよう」
「ありがとう。頼りにしてるよ」
「それで? やりたいこととはなんだ」
「うん。ぼく個人としての竜の研究、そして絶滅危惧種の保全を図る国際機関の設立。ブランカを死なせてしまったぼくにできるのはそれくらいだから」
「ヴァレリアナさんに、この話は?」
「まだ言ってない。おばあさまは、賛成して下さるかな」
「説得が必要なら、俺も力を貸そう」
「うん、おばあさまは、あれで面食いだから。そのときはよろしくね」
冗談で笑いあっていると、不意に木立の向こう側から人影が現れた。雪に脚を取られ、片足が突っ張ったようなぎこちない歩みを見せる男のために、二人が道を譲ろうとしたそのときだった。払下げ品らしい古びた軍用の外套を着こみ、帽子を目深にかぶった男が懐に手を突っ込み、無造作に銃を引き抜く。
「白の竜騎士ベアトリーチェ・アレーニアと元イタリア空軍のエース、アルトゥーロ・フェラーリンに間違いないな?」
場の空気が一気に張り詰め、フェラーリンがリーチェをかばうように前へ出る。木立に右肩を預け、五歩の間合いでフェラーリンの胴体をポイントする男の銃口には一切のブレが無く、背を向けて逃げれば確実に殺されると直感する。
「……貴様、ゴットフリート・フォン・バンフィールドだな。生きていたのか」
「こちらの問いに答えないなら、肯定と受け取る。貴様たちとこうして言葉を交わすのは初めてだな。初めまして、どうぞよろしく……とでも言っておくか?」
皮肉気に唇を歪めるゴットフリートに、フェラーリンが問いかける。
「俺たちになんの用だ」
「貴様は黙っていろ。用があるのは女の方だ」
「生憎だけど、求婚ならお断りだよ」
「……戯言を。欲しいのは貴様の命だ、女」
「ふうん……」
ゴットフリートがリーチェの命を狙う理由はいくらでも考えられるが、こうして生身で銃を向けてきた理由を、リーチェは知りたいと思った。一般に、飛行機乗りは空での遺恨を地上へ持ち帰らない。彼ほどのエースなら、正々堂々と空での決闘を申しこんでくる確率が高いと踏んでいたのだ。
「目の前にエサをぶら下げられて、喰いついたってわけだ」
ゆえに、リーチェはあえて挑発の言葉を口にした。背後関係などの情報を引き出すと同時に、相手が激高して照準を甘くしてくれれば、フェラーリンによる反撃の機会も生まれるだろうと計算する。思った通り、嫌悪に顔をゆがめたゴットフリートは苦々しげに、そしてどこか愉しそうに吐き捨てるのだった。
「いつまで余裕ぶっているつもりだ、女狐め! いいか、よく聞け! 貴様は故国に売られたのだ! ファシストの豚どもは、貴様を殺せばこの俺を親衛飛行隊の隊長にすることを約束した! この意味が分かるか? あの白トカゲを失った貴様になど価値はない、ということだ!」
「……貴様はそれでいいのか?」
リーチェに代わり、フェラーリンが言う。
「なに?」
「貴様たちアズダーヤ隊はハプスブルクの末裔を名乗っていたはず。その隊長であるお前がハプスブルクを滅ぼした側であるイタリアの軍門に下り、あまつさえその手先となるだと? 貴様は恥というものを知らないのか!」
「知らんな。そもそも、ハプスブルクなど建前に過ぎないのだ。我らアズダーヤ隊の目的は初めから一つ。白の竜騎士、お前を殺すことだったのだからな」
「……ぼくに恨みが?」
「あるとも! 殺された部下の魂が、貴様を殺せとこの俺に命じるのだ!」
「その人が空にいたのなら、ぼくは対等な相手として戦っただけだ」
「彼女は戦友であり、妻であったのだ!」
「……女々しいやつ!」
「あの戦場で竜を駆り、貧弱な機体しか持たず補給も得られなかった我らを蹂躙した貴様がそれを言うか! 対等に飛べる機体が、思いのままに動く飛竜が我が手にあれば、彼女が死ぬことはなかった! 貴様など、とうに墜ちていたはずなのだ!」
ゴットフリートは興奮の度合いを高めつつも、わずかな銃口の動きだけでフェラーリンを制している。横目で周囲を見渡しても、運の悪いことに、あるいは初めからここで仕掛けるつもりだったのか、銃から身を隠せそうな大木はほとんどない。いざとなったら、リーチェが走って攪乱し、フェラーリンが懐に隠している銃を抜くまでの時間を稼ぐしかないだろう。無傷で勝てるかどうかは賭けだ。
「対等な条件であれば勝てる、と貴様は言ったのか?」
合図を出そうとしたところで、鼻で笑うようにフェラーリンが口を開く。
「お笑い草だな。対等どころか、ズメイと二対一でもリーチェを墜とせなかった貴様が言っても泣き言にしか聞こえん。貴様自身、分かっているのだろう? 自分の方が上だと信じているのなら、さっさと撃てばいい。撃てないのは、貴様が心の奥底で負けを認め、言い訳せずにはいられないからだ」
「フェラーリン!」
制止するリーチェの言葉にも耳を貸さず、フェラーリンが続ける。
「彼女は常に最前線に送られ続け、多くの戦友の命を救ってきたイタリア最高の飛行機乗りだ! 俺の命に代えても、貴様などにリーチェはやらせん!」
「……よく言った。ならば、ここで死ね!」
「……ぼくはこっちだ!」
フェラーリンを肩を叩いて、左へ走る。右肩を木に預けているゴットフリートからすれば銃口で追いにくいはずだった。銃を隠し持っているフェラーリンと確実にここで殺さなければならないリーチェ、どちらを先に狙うかで迷ってくれればという期待もあった。だが、リーチェは一つだけ見誤っていた。
「ちょっ……フェラーリン!」
フェラーリンは、リーチェをかばうように並走しながら銃を抜き放とうとしていた。しかし、コートに手を突っ込んで抜き放つよりも、すでに構えた銃の引き金を絞る方がはるかに速い。銃声がひとつ響き、雪に吸われて消える。
「ぐっ……! リーチェ、銃を!」
弾かれたのか、取り落としたのか。慣性に従って宙を舞う銃を、飛行機乗りの反射神経でつかみ取ったリーチェがフェラーリンの身体に隠れて素早く構える。もともと、射撃の腕そのものはリーチェの方が上なのだ。
「動くな!」
義足であるため機敏に動けないゴットフリートは、棒立ちのまま銃を構えている。対するこちらは、大柄なフェラーリンの身体に隠れてリーチェが構える格好だ。このまま撃ち合いになれば、フェラーリンとゴットフリートが死に、リーチェだけが生き残る公算が大きい。それは誰にとっても避けたい展開であり、そのことを察した三者がほぼ同時に動きを止め、膠着状態に陥る。
「フェラーリン、どこを撃たれた!」
「右腕だが、たいしたことはない。それより、怪我はないか?」
「バカ。なんで、ぼくをかばったんだ」
「だから言っただろう、ボディガードだと」
「きみが死んだら、泣いちゃうだろ!」
「今はしっかり目を開けて、奴を狙ってろ」
「言われなくてもやってるよ、バカ!」
命をやり取りする場で交されているとは思えないやり取りに、ふとゴットフリートが毒気を抜かれたような表情を見せる。見間違いではなかったかと自分の目を疑ってしまう束の間に厳しい表情に呑みこまれてしまったそれを目の当たりにして、彼もまた人なのだと、唐突に実感が湧いた。卓越した操縦技術を持つアズダーヤ隊の隊長、もしかしたら先の大戦でも戦っていたのかも知れないオーストリア・ハンガリー帝国の元エース。ブランカが命を落とすきっかけとなったわだかまりこそあっても、殺したいほど憎い相手では決してない。
「……ぼくから提案がある。聞く気はあるか?」
「言ってみろ。もし時間稼ぎなら男の足を撃ち抜くぞ」
「空で勝負をつけよう」
「待て、リーチェ!」
リーチェの言葉を聞き、フェラーリンが抗議の声を上げた。拳銃の狙いをつけたまま動かせないリーチェは、ただ願うように口にする。
「信じて、フェラーリン」
「……くそっ、俺は……!」
歯噛みするフェラーリンに代わり、ゴットフリートが疑り深い口ぶりで問う。
「……また俺を罠にかける気か?」
「ぼくらとしては、対等に戦える舞台を整えただけなんだけどね。まあいいさ、約束しよう。今度こそ、正真正銘の一対一だ。ぼくは飛行機で戦う。そちらは飛行機で来るなり、ズメイに乗るなり好きにすればいい」
「俺が貴様を騙し討ちにしないと信用するのか?」
「さてね。けど、これはきみにとっても好機なんじゃないか?」
「なんだと?」
軽く首をかしげるリーチェに、ゴットフリートは訝しげに眉をひそめる。話に乗ってきた証拠だと、リーチェは微笑みを浮かべて続ける。
「分からないのか? ズメイを駆ってぼくが乗る飛行機を墜とせば、ぼくが生き残ったのは竜に乗っていたおかげだと証明できると言っているんだ」
「……ふん、貴様の提案に乗るのはしゃくだが、ここで死ぬのもつまらんな。いいだろう、貴様を空から叩き落とし、死んだ戦友への手向けとしてくれる」
「勝負は二週間後、場所はヴェネツィア南東50kmの海上でどうかな」
「イタリア政府は貴様の死を願っている。空軍の助けが得られると思うなよ」
「そっちこそ、あの新型機が墜ちてズメイに乗るしかないのが本音だろう?」
「……もし逃げれば、貴様の家族がどうなるかは分かっているな」
「しつこいな、逃げないってば。ほら、行きなよ。後ろから撃ったりはしない」
「……後悔することになるぞ」
ずるずると右足を引きずって30mほども後退したゴットフリートが、ようやく銃口を下ろして森の奥へと消えていった。リーチェも緊張を解き、コートのポケットに拳銃を突っ込んでから負傷したフェラーリンの腕を取った。チャコールグレイのコートの袖が、ぐっしょりと黒く血に濡れていた。
「感覚はある?」
「ああ、死ぬほど痛いさ」
「よかった。歩ける?」
蒼白な顔でうなずくフェラーリンに肩を貸し、来た道を戻る。上腕をベルトできつく縛って止血したので、ラウリン夫妻に医者を呼んでもらえば大事にはならないだろう。鮮血が点々と雪に散り、鉄錆の臭いが鼻をつく。
「二週間か、ぎりぎりだな……」
「え? もしかして、助けに来るつもり?」
「当たり前だろう! 奴が一人で来ると本気で思っているのか?」
「ううん」
「だったら……!」
「来るのは、そう、一人と一頭だろうね」
にやりと笑って冗談を口にすると、フェラーリンは呆れたように首を振る。
「そういうことを言ってるんじゃない!」
「落ち着きなよ、フェラーリン。らしくないよ」
「……飛行機はどうするつもりだ」
「ジニーとおやっさんに頼みこんでなんとかしてもらうしかないね。ズメイの速さを考えると、きみが乗ってたM.39Aの方がいいかな?」
「……やはり、俺も行く」
「怪我人はゆっくり湯治でもしていなよ」
「決闘についていこうって言うんじゃない。いいかリーチェ、お前は半年も飛行機に乗ってないんだぞ。勘を取り戻すためにも練習相手は必要だろう」
「ん……まあ、確かにね」
「……リーチェ、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「……ん? うん。……あ、なんか、気持ち悪い、かも」
自覚してしまうと、血の臭いがどうしようもなく鼻についてしまう。こみ上げる吐き気を押さえ切れず、そのまま雪の上に吐瀉してしまった。のどの粘膜が胃酸で灼け、息苦しさに声がかすれる。フェラーリンに肩を貸しているので、浮かんだ涙をぬぐうこともできなかった。
「あっれ、なんで……」
「お前、まさか……!」
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