サンモリッツ

リーチェ

1928年 9月7日 スイスはサンモリッツにて

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 スイス連邦グラウビュンデン州サンモリッツ。鉱泉が湧きだすことで知られるスイスでも有数のリゾート地であり、この年の二月には冬季オリンピックが開催されたため、ホテルやコテージが一気に増えたと聞く。観光客の多い土地柄なので、余所者を適度な無関心あるいは歓待で迎えてくれる。


 サンモリッツ駅に常駐する入国審査官はいくつかの簡単な質問を投げかけると、すんなりパスポートへ判子をついてくれた。きちりと真っ直ぐに捺されたそれを見て、謹厳実直で知られるスイス人らしいとフェラーリンと一緒に笑いあう。そのまま駅舎を出ると、待ち構えていたかのように一礼して迎えてくれる人物の姿があった。


「お待ちしておりました、ベアトリーチェさま、フェラーリンさま」

「ラニエロ。フランカも、ご苦労さま」


 到着の日付を知らせたわけでもないのに、澄ました顔で迎えに参上したのはアレーニア家の執事であるラニエロ・バルデッサリーニと、その孫娘でヴァレリアナ専属のメイドを務めるフランカだった。人通りの多い街中で悪目立ちせぬよう、シックな雰囲気でまとめた私服を身にまとっているのが新鮮だった。


「その服、似合ってるね、フランカ」

「お嬢さまも、少し見ないうちに女性らしい雰囲気になられましたね」

「ふふ、それはどうも」

「あとは、その皮肉っぽい物言いを直せば完璧ですわ」


 そう言って完璧な笑みを浮かべたフランカが、リーチェに反論する暇を与えずにフェラーリンへと向き直って深々と頭を下げる。ラニエロもまた、フェラーリンに対して優雅に一礼してみせる。


「フェラーリンさまも、ご機嫌麗しゅう存じます」

「ベアトリーチェさまの命を救っていただいたと聞き及んでおります。アレーニア家当主レオーネ・アレーニアに代わり、このラニエロからお礼の言葉を述べさせていただきます。この度は誠にありがとうございました」

「いや……頭を上げてください、ラニエロさん。フランカさんも」

「わたくしのことはフランカ、と呼び捨てていただいても構いませんわ」

「呼び捨てだなんて、できませんよ」

「では、慣れてくださいませ。わたくしも、若旦那さまと呼ばせていただきます」

「ちょっ、フランカ!」

「どうなさいましたか、お嬢さま?」

「ベアトリーチェさま。このような往来で、はしたのうございます」


 見れば、フェラーリンはただただ困惑している様子。助け舟を出そうとしたリーチェも、フランカとラニエロの二人がかりでたしなめるような視線を向けられては返す言葉もない。今さら気づいたが、どうも二人はフェラーリンとのことを、彼自身の人柄はともかくとして、あまりよくは思っていないらしい。


「……わかった、お小言はあとで聞くよ。荷物をよろしく」


 荷物をフランカに預け、ロータリーに待たせてあった馬車に乗り込む。向かいに座ったラニエロにばれないよう、そっとため息をついた。ラニエロとフランカ、バルデッサリーニの一族はアレーニア家の使用人として代々仕えてくれている。そんな彼らをして眉をひそめさせるほど、今回のことは唐突で強引だった自覚はリーチェにもある。むしろ、これからフェラーリンと一緒に乗り越えていかねばならない数々の難問を前に、叱咤してくれているのだと思い直す。


「ラニエロ、お父さまから言伝はある?」

「ございます。親衛飛行隊隊長への任命の話を引き延ばすため、お嬢さまは所属不明の空賊との偶発的な空戦で重傷を負われたことになっております。フェラーリン殿のことも併せ、事態が落ち着くまでは居場所を嗅ぎつけられぬよう、ゆっくり身体を休めるように、と仰せでした」

「うん……おばあさまと、それからブランカについては?」

「それについては、このフランカがヴァレリアナさまから言付かっております。ブランカの死を公にしないため、ヴァレリアナさまはしばらくの間フィウメに留まられるとのことです。それに伴い、わたくしも明日にはそちらへ向かう予定です」

「え? じゃあ、ラニエロも?」

「お嬢さまをコテージへご案内した後、旦那さまの待つローマへ参ります」

「そう……ああ、おやっさんとジニーについてはなにか聞いてる?」

「お二方も、しばらくフィウメに留まられるそうです」

「ん……そっか」


 つまり、アレーニアの屋敷はしばらくの間、主が不在になる。防犯が心配だったが、その辺りはラニエロが手配してくれているだろう。どうにも気分が晴れないのは単なる感傷であり、そもそもこの現状は自分の選択と行動の結果なのだということを改めて胸に刻みこんだ。


 窓の外に目をやれば、まだ九月初旬だというのに降雪の始まっているサンモリッツの美しい街並みがゆっくりと流れていく。ハイキングを楽しむにはやや遅く、スキーやモーグルを楽しむにはまだ早いこの季節は、観光客もそこまで多くはないのだろう。中心部からはやや離れた山間のコテージは、うっすらと橙に色づく針葉樹林に囲まれる風流な佇まいの建物だった。


「到着いたしました。決して広くはないコテージですが、どうかご容赦ください」

「いや、気に入ったよ。ありがとう、ラニエロ」

「フェラーリンさま。お嬢さまを、よろしくお願いいたします」

「お任せください、ラニエロさん」


 イタリアへ戻るため、そのまま駅へ取って返すというラニエロとは馬車の脇で別れを告げる。荷物を持つと言って聞かないフランカに先導されてコテージに足を踏み入れると、風除室に入った気配で気付いていたのだろう、人の良さそうな髭面の男性が両手を大きく広げて一行を出迎えてくれた。


「やあ、よくいらっしゃいました。私はここら一帯のコテージを管理しております、ラウリンです。よろしく。お茶を淹れておりますので、かけてお待ちください」


 ラウリンに促され、フェラーリンと並んで椅子にかける。すでに面通しを済ませているらしいフランカはそのまま奥へと荷物を運んで行ってしまった。二人で顔を見合わせ、念のためにアレーニアの名は出さないでおこうと目線で言い交わしてから、フェラーリンが自己紹介のために口を開いた。


「アルトゥーロ・フェラーリンです。こちらは妻のベアトリーチェ。しばらくの間、お世話になります」

 妻、という響きがくすぐったい。フランカに見られていなくてよかった、と思う。

「ええ、ええ、ラニエロさんという方からお代はいただいておりますので、お好きなだけ泊まっていらしてください。朝食はご用意いたしますし、昼食と夕食もその日の朝までに伝えていただければ、ご用意いたします。さあ、お茶をどうぞ」


 手渡されたのは乾燥させた花を丸ごと一つカップの底に沈めたハーブティだった。真っ白な陶器の熱で冷たくなっていた手先が温められ、ふわりと匂うカモミールが鼻孔をくすぐる。心安らぐ香りに、自然と口元が緩み、肩の力が抜ける。


「早速ですが、今晩の夕食はどうなさいますか?」

「ここでいただこう。リーチェも、それでいいだろう?」


 フェラーリンの言葉にうなずき、部屋に荷物を置いて戻ってきたフランカも加えた四人で思い思いにお茶を楽しむ。ゆったりとした時間の流れに、しばらくはこうして穏やかに過ごすことになるのだろうとようやく実感できた。飛行機を操縦できなくなるのではという恐れ、こんな風に幸せでいいのだろうかという焦燥感にも、徐々に慣れていかなければならないのだろう。そう思った。

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