スイスへ

フェラーリン

1928年 9月7日 レーティッシュ鉄道の列車内にて

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 前日に引き続き、フェラーリンはリーチェを連れて列車に乗っていた。昨日はあの不思議な老紳士と別れた後、終点のエドロ駅から最終便のバスに乗り、国境の街ティラーノに着いたところで夜になってしまったのだ。小さなホテルで一泊した翌朝、長旅で体力を消耗しているのか眠たそうなリーチェに濃いエスプレッソを飲ませ、着替えまで手伝ってようやく出発できたのは朝九時頃だっただろうか。


「ねえ、フェラーリン」

「どうした」


 リーチェがこちらを振り向いた拍子に、うなじのあたりでくくっていた髪が肩で揺れる。白薔薇のコサージュをあしらった、つば広のハットをスカートの膝に乗せて端然と腰掛けるリーチェは名家のお嬢さまといった風情だった。フェラーリンもそれに合わせ、ナポリで仕立てたスーツを着ている。


「なんだか、新婚旅行みたいだね」

「そうだな」

「動じないね、つまんない」

「お前の冗談にはもう慣れて……」


 ひやりとした手のひらが、フェラーリンの両頬を捉える。抗議しようと開きかけた口に、柔らかな唇が押し付けられた。その感触も消えないうちに、リーチェ自身は速やかに離脱。背もたれに体重を預け、くすりと笑う。敵機を撃墜したときも、彼女はこんな風に微笑むのだろうかと考える。


「あれ、思ったより冷静?」

「……いや、驚いたよ」

「うれしくないの?」

「うれしいさ、もちろん。理由が分かれば、もっとな」

「えっと、あのとき、助けてくれたでしょう?」

「いつのことだ?」

「アズダーヤ隊と戦ったとき」

「……あのときか」


 フィウメの空戦で、フェラーリンは窮地に陥ったリーチェを二度助けている。一度目はフィウメまでアズダーヤ隊を誘引する途中でエース機に喰いつかれたとき、二度目は追い詰められたエース機が投降すると見せかけて信号弾を撃ったときだ。もちろん、リーチェなら単独でも逃げ切ったはずだとフェラーリンは信じているが、あの戦いでもっとも危うい瞬間を救ったことには変わりなかった。しかし、胸中に湧いたのは嬉しさよりもむしろ、申し訳なさだった。


「むしろ、俺はお前に謝らなければならない。あの戦い、俺はお前のことしか目に入らず、ブランカのことを気にかけてやれなかった。もし、俺がもっと上手く立ち回っていれば、あいつは死なずに済んだのかも知れない、と……」

「それで、ぼくが君の頬を叩いてやれば、それで満足?」


 リーチェの鋭い切り返しに、フェラーリンは言葉を失う。

 不機嫌そうなリーチェの声が追い打ちをかける。


「つまんないこと、言わないでよ」

「……すまん」


 ふいっと顔を背けて黙ってしまうリーチェ。客もまばらな車内を重苦しい沈黙が支配する。列車は大きくカーブし、有名なブレッジオのループ橋を超えてスイス領に差し掛かるが、そのことを話題にできるような雰囲気でもなかった。仕方がないのでシガレットケースから煙草を取り出そうとすると、横合いから伸びてきた手が素早く一本抜き取っていく。唇にくわえて火を催促するので、マッチを擦ってやった。満足そうに目を細める姿は、いつものラフな格好ならばさぞかし絵になっていただろう。しかし、今のリーチェがそれをやると、育ちのいいお嬢さまに悪事を教え込んでいるような、そんな背徳感を覚えてしまう。


「……なに見てるの?」

「君の可憐さに見惚れていた」

「かわいいでしょう?」


 にっこりと上品に微笑む彼女も、服装に引きずられた部分はあるのだろうが、本来の彼女なのだろう。気位が高いことでは貴族にも引けを取らない飛行機乗りの世界で、騎士に守られるだけのかよわい淑女としてではなく、対等な仲間であるために、彼女はフェラーリンの見ていないところでも多くの苦労を重ねてきたはずだ。


「リーチェ」

「ん?」

「落ち着いたら、旅に出よう」

「ぼくは今、君と旅をしてるつもりだったんだけど、見解の相違があるようだね」

「今度は飛行機で行こう。操縦を交代しながら、世界を一周するんだ」

「世界か……そうだね、どんな飛行機がいいかな」

「おやっさんに相談すればいい。お前は飛行艇が好きだろう?」

「ジニーも手伝ってくれるかな。あの子の設計した飛行機に乗りたいよ」

「ああ、彼女はいい技師になる」


 どんな飛行機がいいか、どこへ行きたいか。しばらくはそうした他愛のないことを話していると、ふとリーチェがガラス越しに空を見上げる。千々に散らばり流れゆく雲はひとときもその場に留まることなく、どこまでも高く、遠い。澄んだ空気、素っ気なさを増す太陽が空の蒼を深め、氷結しつつある湖の水鏡が蒼穹を映し取っている。紅葉した木々は、長く、そして暗い冬の訪れを予感させた。


「そんな日が、来るといいね」

「すぐに飛べるさ。お前が飛ばずにいられるはずがない。そうだろう?」

「うん、そうかも」


 峡谷を縫うように敷かれたレーティッシュ鉄道は、世界でもっとも美しい山岳鉄道として名高い。フィウメを発った直後に比べれば口数も増えてきたリーチェの様子に安心すると、窓外を流れる風景に目を向ける余裕もできた。深呼吸して肩の力を抜くと、ずっと気を張っていたのもあって、眠気に襲われる。


「……眠いの? 寝てていいよ」

「いや、大丈夫だ」

「着いたら起こしてあげるから」

「ああ……うむ、すまん」


 車輪が刻む単調なリズム、ブレーキの軋み。慣性で身体を揺り動かされ、フェラーリンは覚醒した。眠りに落ちてからどれくらい時間が経ったのか。ふと隣を見ると、そこにリーチェの姿はなかった。一気に血の気が引き、叫び声を上げそうになる。座面へ手をやるが、すでに体温は感じられない。通路を振り返るが、そこにも人影はなかった。乗客の姿はまばらで、車内に響くのは穏やかに会話する声だけだった。


「…………」


 トランクや革鞄はそのままで、リーチェの姿だけが消えていた。焦燥を自制心で押さえつけ、必死に考える。もし誘拐されたのだとすれば、通路側に座っていた自分が気付かないはずはない。しかし、睡眠剤の類をどこかで飲まされていたのだとすればその限りではないと思い直す。あるいはリーチェが自分の意志で抜け出した可能性もある。その場合、フェラーリンの食事に薬を混ぜたりするのはそう難しいことではなかったはずだ。思えば、あの老学者との会話以来、リーチェはどこか様子がおかしかった。自分がもっと警戒していれば。後悔に唇を噛み締め、勢いよく立ち上がった、その瞬間だった。


「起きてたの? おはよう、よく眠れた?」

「リーチェ!」


 細い通路に端然と立つ、リーチェの姿がそこにあった。突然立ち上がったフェラーリンに驚いたのか、帽子のふちから覗く大きな瞳を丸くしている。


「いったい、どこにいたんだ……」

「どこって、デッキへ。ちょっと風に当たりたくて」

「よかった……」


 彼女がそこにいることを確かめたくて、抱き締める。飛行機を操縦し、竜を御するために引き締まった身体。しかし、その肩幅はやはり女性のものだ。抱きすくめられ、驚いたような声をあげるリーチェだったが、フェラーリンを見上げる表情はそれほど間を置かずして猫が獲物をなぶるそれへと転じる。


「置いていかれると思った?」

「ああ、思ったさ……」

「君はかわいいなぁ、もう」

「心配したんだ」

「……大丈夫、自分の身くらい自分で守れる」


 フェラーリンがふところに忍ばせた拳銃に気付いたのだろう。彼女はそんなことを言う。しかし、もしものことを考えれば拳銃一丁では頼りないくらいだった。


「ほら、恥ずかしいから、座ろう」


 座席に戻り、ふと思いついて、リーチェの手を握る。少なくとも、振りほどかれはしなかった。目的地のサンモリッツまで、もうすぐだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る